死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本編第8話「冥府へ帰る女」の途中から分岐するIFルートの2話目です。
※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※今回はトイヴォ視点です。


IF3-2 凍った川の道

 目を覚まして、最初に、火の向こうを見た。

 ロノヴァは、そこにいた。

 岩陰の雪に背を預けて、目を開けていた。火は、夜のあいだに小さくなったはずなのに、ちゃんと燃えていた。

 この人が、薪をくべていたのだ。一晩じゅう。

 息をしているか、確かめるまでもなかった。まだそこにいるか、確かめるまでもなかった。

 家を出て、最初の朝だった。

「おはよう、ロノヴァ」

 いつものように、言った。

 ロノヴァは、火を見ていた。

 答えないのも、いつものことだった。僕は毛皮から抜け出して、鍋に雪を詰めにかかった。

「……おはよう」

 雪をすくう手が、止まった。

 振り向くと、ロノヴァは、まだ火を見ていた。

 でも、今のは、火に言ったのではなかった。

 僕は、鍋を持ったまま、しばらく動けなかった。

 家では、一度も返ってこなかった言葉だった。毎朝、言っても。

 家を出て、最初の朝に、返ってきた。

「……ゆうべの、代わりだ」

 ロノヴァが、火を見たまま言った。

 ゆうべ、僕は、おやすみ、と言った。この人は、答えなかった。

 答えなかったぶんを、この人は、朝まで持っていたのだ。

 

   ◇

 

 昼前に、ゆるい高みに出た。

 振り返った。

 白い雪原に、黒い線が引かれていた。

 僕たちの来た方角から、まっすぐに。雪の上に、枯れた灌木の枝先が、点々と突き出ている。ロノヴァの歩いたところだけ。

 平らなところでは点にしか見えなかったものが、高みからは、一本の線だった。

 その線の始まりに、僕の家がある。

 家を囲む黒い輪から、一本、糸を引いたみたいに。

「……考える、って言ったよね」

 僕は、線を見たまま言った。

「うん。考えた」

 ロノヴァが、僕を見た。

「枯らすものがないところを、歩けばいい」

「……そんな場所は」

「あるよ」

 僕は、東のほうを指さした。

 雪原の端に、白く平らな帯が、森のあいだを縫うように延びていた。

「川。冬のあいだは、凍ってる。氷の上には、草も木もない。君が歩いても、何も枯れない」

 家の裏の沢は、森を下って、この川に流れこむ。川は、境を越えて、南へ。ナド・クライのほうへ。

 おじいちゃんと、一度だけ、氷の上を歩いたことがある。子どものころ。

 凍った川は、道になる。夏には渡れないところも、冬なら歩いていける。

 ——ただし、底から水の湧くところには気をつけろ。そこだけは、冬じゅう、氷が薄い。

 おじいちゃんは、そうも言った。

 

 僕は、ロノヴァを見た。

 この人には、糸が見える。棚の鉢の根まで、遠くから見えていた。

「……ねえ、ロノヴァ。氷の下の、魚の糸って、見える?」

 ロノヴァは、川のほうへ、目を細めた。

「見える。……ところどころ、集まっている」

 魚が集まるのは、水が温かくて、息のしやすいところだ。底から、水の湧くところ。

「じゃあ、そこは、避けて通れる」

 僕は、ロノヴァを見た。

 この人の目と、僕の知っていることを合わせれば、凍った川は、ちゃんと道になる。

「……すごいね」

「何がだ」

「君がいると、川が、ちゃんと読める」

 ロノヴァは、答えなかった。

 答えないで、少しだけ、目をそらした。

 

   ◇

 

 川の岸で、ロノヴァの足もとから続いてきた黒い線が、途切れた。

 氷の上に、ロノヴァが一歩、踏み出した。

 何も、枯れなかった。

 振り返ると、岸の手前で、黒い枝先の線が、ぷつりと終わっていた。その先は、ただの、白い氷だった。

 ロノヴァも、振り返っていた。

 自分の引いた線が、終わるところを。

「……終わった」

 小さく、そう言った。

 何のことを言ったのか、僕には、分からなかった。

 分からなかったけれど、この人が「終わった」と言うのを、初めて、嫌な言葉だと思わなかった。

 

 川の上を、南へ歩いた。

 僕が前を歩いて、氷を叩いて、音を聞いた。厚い氷は、低く、詰まった音がする。薄い氷は、高く、響く。

 ロノヴァは、僕の半歩うしろを歩いた。ときどき、止まれ、と言った。そのたびに、僕は足を止めて、大きく回りこんだ。氷の下の、糸の集まっているところを。

 川は、森のあいだを、ゆっくりと曲がっていた。両岸の木々が、枝に雪を載せて、白いトンネルみたいに重なっていた。

 ロノヴァの歩いたあとには、何も残らなかった。

 僕の足跡だけが、氷の上の薄い雪に、残った。

 それも、夕方の風が、均していった。

 

 その夜は、川岸の大きな樅の下で過ごした。

 枝が低く垂れて、雪の屋根になっている場所だった。火を焚いて、粥を炊いて、ふたりで食べた。

「……どこへ、行くの」

 食べ終えてから、僕は聞いた。

 聞いてから、気づいた。家を出るとき、僕は、分からないほうへ行こう、と言ったのだ。行き先を聞くのは、今日が初めてだった。

 ロノヴァは、火を見ていた。

「南の森に、谷がある」

 しばらくして、そう言った。

「昔、冬の終わりに、獣を焼く煙が昇っていた谷だ。霜月の子たちが、わたしに捧げ物をしていた場所」

 おばあちゃんの昔話の、あの煙だ、と思った。

「ある年から、煙は、昇らなくなった。……それから、あそこへ行く者は、いない」

「そこに、行くの?」

「……わたしが知っている場所で、人の糸が、いちばん少ない」

 ロノヴァは、そこで、少しだけ言葉を切った。

「わたしが、いちばん長く、見下ろしていた場所でもある」

 僕は、何も言わなかった。

 この人が、昔、ひとりで見下ろしていた谷に、今度は、歩いて行く。

 僕と、ふたりで。

 それが、いいことなのか、悪いことなのか、僕には分からなかった。分からなかったけれど、この人が自分で選んだ行き先だった。

「じゃあ、そこにしよう」

 僕は、言った。

 鍋の底の焦げを、雪でこすりながら。

 

 夜は、冷えた。

 毛皮を広げて、横になろうとしたとき、火の向こうのロノヴァが目に入った。

 樅の幹に背を預けて、座っていた。毛皮は、敷いていなかった。僕が二枚とも持っていて、この人は、必要ない、と言ったからだ。

 僕は、一枚を持って、火の向こうへ回った。

「……必要ない」

「うん。知ってる」

 ロノヴァの肩に、毛皮を掛けた。

「でも、見てるほうが寒いから」

 ロノヴァは、眉を寄せた。

 寄せて、黙った。

 毛皮を、払いのけなかった。

 毛皮を掛けるとき、ロノヴァの左の脇に、手が当たった。今日、この人は一度も、そこを押さえなかった。僕は、数えていた。

「……痛くない?」

「閉じている。力を、振るわずにいれば」

「じゃあ、振るわないで」

 言ってから、追われているのはこの人なのだと、気づいた。

「……努める」

 ロノヴァの返事にしては、いちばん、約束に近かった。

 

   ◇

 

 川に出て二日目の昼、ロノヴァが、足を止めた。

 止まれ、の止まり方ではなかった。

 後ろを、振り返っていた。来た方角。ずっと遠く。

「……糸が、来た」

 平らな声だった。

「川の岸に。わたしの線の、終わるところに」

 僕も、振り返った。

 何も見えなかった。曲がりくねった川と、白いトンネルみたいな森だけだった。

「何人?」

「五つ。……それと、もうひとつ」

「太い。……熱い糸だ。一度、深い淵の底まで沈んだ色をしている」

 ロノヴァは、目を細めた。見えないものを、見ている目だった。

「……女皇の、執行官だろう」

 しっこうかん。

 市場の噂で、名前だけは聞いたことがある。女皇様の、いちばん上の家来たち。

 僕は、背負い袋の肩紐を、握りしめた。

「……こっちに、来る?」

 ロノヴァは、しばらく、答えなかった。

 遠くを、見ていた。

「……止まっている」

 ようやく、そう言った。

「線の終わるところで。……長く、止まっている」

 それから、長い沈黙があった。

 川の上を、風が渡っていった。

「戻っていく」

 ロノヴァが、言った。

「岸から、北へ。……線を、戻っていく」

 僕は、息を吐いた。

 肩紐を握っていた指が、痛かった。

「……川だって、気づかなかったのかな」

「気づいたかもしれない」

 ロノヴァは、まだ、遠くを見ていた。

「気づいて、今日は、追わないと決めたのかもしれない。……あの糸は、そういう迷い方をしていた」

 僕には、糸の迷い方は、分からない。

 分からないけれど、今日は、追われなかった。

 今日は、それでよかった。

 

 歩きながら、家のことを考えた。

 今ごろ、南門のあの人は、剣を取りに来ただろうか。戸の外に立てかけた板を、読んだだろうか。

 剣は、雪の中にあります。僕は、出かけます。お気をつけて。

 あの人は、何と思っただろう。

 兵隊に『お気をつけて』って言うやつは、あんたくらいだ。——たぶん、また、そう言って、少しだけ笑ったのだと思う。

 そう思うことにした。

 

   ◇

 

 夕方、川が大きく曲がるところで、氷に穴をあけた。

 小刀と、鍋の縁で、少しずつ。ロノヴァが、糸の集まっているところを教えてくれた。薄いところではなく、その手前の、厚い氷の下に、魚が寄ってくる場所を。

 輪罠の針金を曲げて、釣り針にした。背負い袋の口紐を一本抜いて、針金に結んだ。干し肉の端を、餌にした。

 穴に糸を垂らすと、しばらくして、手に重みが来た。

 引き上げると、銀色の魚が、氷の上で跳ねた。

 僕は、膝をついて、魚の頭に手をかけた。

 一瞬で、終わらせる。長く苦しませないのが、せめてもの礼儀だと、おじいちゃんに教わった。

「ありがとう」

 小さく、言った。

 ロノヴァが、横で、それを見ていた。

「……今、糸が、ひとつ終わった」

 ロノヴァが言った。

「わたしのもとを、通った」

「迷わずに、行けた?」

 ロノヴァは、少しだけ、黙った。

「……行った。お前の声のあとで」

 僕は、魚を見下ろした。

 それから、ロノヴァを見た。

 この人は、いつも、こうして、終わっていく糸を見ているのだ。兎も、魚も、おばあちゃんも。僕が、ありがとう、と言うときも、言わないときも。

 ずっと、ひとりで。

 

 川岸の、雪の少ない岩の上で、火を焚いた。

 魚を、枝に刺して焼いた。皮が、ぱちぱちと鳴って、脂の匂いが立った。

 ロノヴァに、一本、渡した。

 ロノヴァは、それを、しばらく見ていた。

「……熱いから、気をつけて」

 ロノヴァは、ひと口、かじった。

 噛んで、飲み込んで、それから、もうひと口。

「……悪くは、ない」

「よかった」

 僕も、かじった。熱くて、塩気がなくて、川の水の味がした。

 家の中で食べるのとは、全然違った。

 全然違うのに、ロノヴァが隣で同じものを食べていると、家の中と同じだった。

 ロノヴァは、身を、骨からきれいに外して食べた。黒い指で、小さな骨をひとつずつつまんで、火のそばの雪の上に、並べた。

 並べた骨を、しばらく、見ていた。

 

   ◇

 

 三度目の朝も、おはよう、と言うと、おはよう、と返ってきた。今度は、火ではなく、僕のほうを見て。

 川の氷の下で、水が、低く鳴っていた。春になれば、この道も、溶けてなくなる。それまでに、どこかへ着かなければならなかった。

 

 その日の夕方、ロノヴァが、川の西岸の崖を指さした。

「あそこに、岩屋がある」

「え?」

「昔、霜月の子たちが、冬に使っていた。……獣を追って、この川を下るときに」

 崖の下に、雪に半分埋もれた、黒い口が開いていた。

 近づくと、確かに、人の手で広げた跡があった。入り口の岩に、古い印が刻まれている。風と雪で、ほとんど消えかけていた。

 ロノヴァは、その印の前で、立ち止まった。

 黒い指で、触れた。

「……死者を送る者たちの、印だ」

 静かな声だった。

「わたしに、宛てたものだ。……昔は」

 ロノヴァは、続けた。

「ここで冬を越した者たちは、仲間が死ぬと、この印の前で、その名を呼んだ。迷わずに行けるように」

 ロノヴァは、印を、指でなぞった。

「わたしは、その声を、記録した。……それ以上のことは、何も思わなかった」

 僕は、ロノヴァの横顔を見ていた。

 おばあちゃんの昔話の女神様が、昔の人が自分に宛てた印に、指で触れていた。

 ずっと昔の、ありがとう、みたいなものに。

 

 岩屋の中は、乾いていた。

 奥に、石を組んだ炉の跡があった。天井の岩が、煤で黒い。何十、何百の冬の火が、同じところを焦がした色だった。

 僕は、崖の下で枯れ枝を集めて、火を起こした。

 使わなかったぶんは、炉の脇に積んでおいた。次にここへ来る、顔も知らない誰かのために。

 ロノヴァは、それを、黙って見ていた。

 

 粥を、炊いた。

 ひとつまみと、半分。

 ふたりで、食べた。

 食べ終えて、僕は、ロノヴァの腕に軟膏を塗った。ロノヴァは、僕の頬に塗った。

 それが、家を出てから、毎晩のことになっていた。

 毛皮を敷いて、横になった。

「おやすみ、ロノヴァ」

 炉の火の向こうで、ロノヴァが、少しだけ身じろぎした。

「……おやすみ」

 僕は、目を開けた。

 ロノヴァは、火を見ていた。

「……今夜は、朝の代わりではない」

 小さな声だった。

「朝にも、ここにいる。……だから、答えた」

 僕は、何も言えなかった。

 何か言ったら、声が震えそうだった。

 だから、目を閉じた。

 閉じた目の奥が、熱かった。

 家を出てよかった、と思った。

 思ってから、少しだけ、家の棚の上の鉢のことを考えた。春まで、もつんだよね。

 もつ。この人は、そう言った。

 この人のいない家で、あの根は、春を待っている。

 この人のいる岩屋で、僕は、朝を待っている。




お読みいただきありがとうございました。
次回、IF3-3「地図にない場所」でIF-3「引き止めるルート」は完結です。ロノヴァとトイヴォ、二人の視点でお送りします。
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