※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※今回はトイヴォ視点です。
目を覚まして、最初に、火の向こうを見た。
ロノヴァは、そこにいた。
岩陰の雪に背を預けて、目を開けていた。火は、夜のあいだに小さくなったはずなのに、ちゃんと燃えていた。
この人が、薪をくべていたのだ。一晩じゅう。
息をしているか、確かめるまでもなかった。まだそこにいるか、確かめるまでもなかった。
家を出て、最初の朝だった。
「おはよう、ロノヴァ」
いつものように、言った。
ロノヴァは、火を見ていた。
答えないのも、いつものことだった。僕は毛皮から抜け出して、鍋に雪を詰めにかかった。
「……おはよう」
雪をすくう手が、止まった。
振り向くと、ロノヴァは、まだ火を見ていた。
でも、今のは、火に言ったのではなかった。
僕は、鍋を持ったまま、しばらく動けなかった。
家では、一度も返ってこなかった言葉だった。毎朝、言っても。
家を出て、最初の朝に、返ってきた。
「……ゆうべの、代わりだ」
ロノヴァが、火を見たまま言った。
ゆうべ、僕は、おやすみ、と言った。この人は、答えなかった。
答えなかったぶんを、この人は、朝まで持っていたのだ。
◇
昼前に、ゆるい高みに出た。
振り返った。
白い雪原に、黒い線が引かれていた。
僕たちの来た方角から、まっすぐに。雪の上に、枯れた灌木の枝先が、点々と突き出ている。ロノヴァの歩いたところだけ。
平らなところでは点にしか見えなかったものが、高みからは、一本の線だった。
その線の始まりに、僕の家がある。
家を囲む黒い輪から、一本、糸を引いたみたいに。
「……考える、って言ったよね」
僕は、線を見たまま言った。
「うん。考えた」
ロノヴァが、僕を見た。
「枯らすものがないところを、歩けばいい」
「……そんな場所は」
「あるよ」
僕は、東のほうを指さした。
雪原の端に、白く平らな帯が、森のあいだを縫うように延びていた。
「川。冬のあいだは、凍ってる。氷の上には、草も木もない。君が歩いても、何も枯れない」
家の裏の沢は、森を下って、この川に流れこむ。川は、境を越えて、南へ。ナド・クライのほうへ。
おじいちゃんと、一度だけ、氷の上を歩いたことがある。子どものころ。
凍った川は、道になる。夏には渡れないところも、冬なら歩いていける。
——ただし、底から水の湧くところには気をつけろ。そこだけは、冬じゅう、氷が薄い。
おじいちゃんは、そうも言った。
僕は、ロノヴァを見た。
この人には、糸が見える。棚の鉢の根まで、遠くから見えていた。
「……ねえ、ロノヴァ。氷の下の、魚の糸って、見える?」
ロノヴァは、川のほうへ、目を細めた。
「見える。……ところどころ、集まっている」
魚が集まるのは、水が温かくて、息のしやすいところだ。底から、水の湧くところ。
「じゃあ、そこは、避けて通れる」
僕は、ロノヴァを見た。
この人の目と、僕の知っていることを合わせれば、凍った川は、ちゃんと道になる。
「……すごいね」
「何がだ」
「君がいると、川が、ちゃんと読める」
ロノヴァは、答えなかった。
答えないで、少しだけ、目をそらした。
◇
川の岸で、ロノヴァの足もとから続いてきた黒い線が、途切れた。
氷の上に、ロノヴァが一歩、踏み出した。
何も、枯れなかった。
振り返ると、岸の手前で、黒い枝先の線が、ぷつりと終わっていた。その先は、ただの、白い氷だった。
ロノヴァも、振り返っていた。
自分の引いた線が、終わるところを。
「……終わった」
小さく、そう言った。
何のことを言ったのか、僕には、分からなかった。
分からなかったけれど、この人が「終わった」と言うのを、初めて、嫌な言葉だと思わなかった。
川の上を、南へ歩いた。
僕が前を歩いて、氷を叩いて、音を聞いた。厚い氷は、低く、詰まった音がする。薄い氷は、高く、響く。
ロノヴァは、僕の半歩うしろを歩いた。ときどき、止まれ、と言った。そのたびに、僕は足を止めて、大きく回りこんだ。氷の下の、糸の集まっているところを。
川は、森のあいだを、ゆっくりと曲がっていた。両岸の木々が、枝に雪を載せて、白いトンネルみたいに重なっていた。
ロノヴァの歩いたあとには、何も残らなかった。
僕の足跡だけが、氷の上の薄い雪に、残った。
それも、夕方の風が、均していった。
その夜は、川岸の大きな樅の下で過ごした。
枝が低く垂れて、雪の屋根になっている場所だった。火を焚いて、粥を炊いて、ふたりで食べた。
「……どこへ、行くの」
食べ終えてから、僕は聞いた。
聞いてから、気づいた。家を出るとき、僕は、分からないほうへ行こう、と言ったのだ。行き先を聞くのは、今日が初めてだった。
ロノヴァは、火を見ていた。
「南の森に、谷がある」
しばらくして、そう言った。
「昔、冬の終わりに、獣を焼く煙が昇っていた谷だ。霜月の子たちが、わたしに捧げ物をしていた場所」
おばあちゃんの昔話の、あの煙だ、と思った。
「ある年から、煙は、昇らなくなった。……それから、あそこへ行く者は、いない」
「そこに、行くの?」
「……わたしが知っている場所で、人の糸が、いちばん少ない」
ロノヴァは、そこで、少しだけ言葉を切った。
「わたしが、いちばん長く、見下ろしていた場所でもある」
僕は、何も言わなかった。
この人が、昔、ひとりで見下ろしていた谷に、今度は、歩いて行く。
僕と、ふたりで。
それが、いいことなのか、悪いことなのか、僕には分からなかった。分からなかったけれど、この人が自分で選んだ行き先だった。
「じゃあ、そこにしよう」
僕は、言った。
鍋の底の焦げを、雪でこすりながら。
夜は、冷えた。
毛皮を広げて、横になろうとしたとき、火の向こうのロノヴァが目に入った。
樅の幹に背を預けて、座っていた。毛皮は、敷いていなかった。僕が二枚とも持っていて、この人は、必要ない、と言ったからだ。
僕は、一枚を持って、火の向こうへ回った。
「……必要ない」
「うん。知ってる」
ロノヴァの肩に、毛皮を掛けた。
「でも、見てるほうが寒いから」
ロノヴァは、眉を寄せた。
寄せて、黙った。
毛皮を、払いのけなかった。
毛皮を掛けるとき、ロノヴァの左の脇に、手が当たった。今日、この人は一度も、そこを押さえなかった。僕は、数えていた。
「……痛くない?」
「閉じている。力を、振るわずにいれば」
「じゃあ、振るわないで」
言ってから、追われているのはこの人なのだと、気づいた。
「……努める」
ロノヴァの返事にしては、いちばん、約束に近かった。
◇
川に出て二日目の昼、ロノヴァが、足を止めた。
止まれ、の止まり方ではなかった。
後ろを、振り返っていた。来た方角。ずっと遠く。
「……糸が、来た」
平らな声だった。
「川の岸に。わたしの線の、終わるところに」
僕も、振り返った。
何も見えなかった。曲がりくねった川と、白いトンネルみたいな森だけだった。
「何人?」
「五つ。……それと、もうひとつ」
「太い。……熱い糸だ。一度、深い淵の底まで沈んだ色をしている」
ロノヴァは、目を細めた。見えないものを、見ている目だった。
「……女皇の、執行官だろう」
しっこうかん。
市場の噂で、名前だけは聞いたことがある。女皇様の、いちばん上の家来たち。
僕は、背負い袋の肩紐を、握りしめた。
「……こっちに、来る?」
ロノヴァは、しばらく、答えなかった。
遠くを、見ていた。
「……止まっている」
ようやく、そう言った。
「線の終わるところで。……長く、止まっている」
それから、長い沈黙があった。
川の上を、風が渡っていった。
「戻っていく」
ロノヴァが、言った。
「岸から、北へ。……線を、戻っていく」
僕は、息を吐いた。
肩紐を握っていた指が、痛かった。
「……川だって、気づかなかったのかな」
「気づいたかもしれない」
ロノヴァは、まだ、遠くを見ていた。
「気づいて、今日は、追わないと決めたのかもしれない。……あの糸は、そういう迷い方をしていた」
僕には、糸の迷い方は、分からない。
分からないけれど、今日は、追われなかった。
今日は、それでよかった。
歩きながら、家のことを考えた。
今ごろ、南門のあの人は、剣を取りに来ただろうか。戸の外に立てかけた板を、読んだだろうか。
剣は、雪の中にあります。僕は、出かけます。お気をつけて。
あの人は、何と思っただろう。
兵隊に『お気をつけて』って言うやつは、あんたくらいだ。——たぶん、また、そう言って、少しだけ笑ったのだと思う。
そう思うことにした。
◇
夕方、川が大きく曲がるところで、氷に穴をあけた。
小刀と、鍋の縁で、少しずつ。ロノヴァが、糸の集まっているところを教えてくれた。薄いところではなく、その手前の、厚い氷の下に、魚が寄ってくる場所を。
輪罠の針金を曲げて、釣り針にした。背負い袋の口紐を一本抜いて、針金に結んだ。干し肉の端を、餌にした。
穴に糸を垂らすと、しばらくして、手に重みが来た。
引き上げると、銀色の魚が、氷の上で跳ねた。
僕は、膝をついて、魚の頭に手をかけた。
一瞬で、終わらせる。長く苦しませないのが、せめてもの礼儀だと、おじいちゃんに教わった。
「ありがとう」
小さく、言った。
ロノヴァが、横で、それを見ていた。
「……今、糸が、ひとつ終わった」
ロノヴァが言った。
「わたしのもとを、通った」
「迷わずに、行けた?」
ロノヴァは、少しだけ、黙った。
「……行った。お前の声のあとで」
僕は、魚を見下ろした。
それから、ロノヴァを見た。
この人は、いつも、こうして、終わっていく糸を見ているのだ。兎も、魚も、おばあちゃんも。僕が、ありがとう、と言うときも、言わないときも。
ずっと、ひとりで。
川岸の、雪の少ない岩の上で、火を焚いた。
魚を、枝に刺して焼いた。皮が、ぱちぱちと鳴って、脂の匂いが立った。
ロノヴァに、一本、渡した。
ロノヴァは、それを、しばらく見ていた。
「……熱いから、気をつけて」
ロノヴァは、ひと口、かじった。
噛んで、飲み込んで、それから、もうひと口。
「……悪くは、ない」
「よかった」
僕も、かじった。熱くて、塩気がなくて、川の水の味がした。
家の中で食べるのとは、全然違った。
全然違うのに、ロノヴァが隣で同じものを食べていると、家の中と同じだった。
ロノヴァは、身を、骨からきれいに外して食べた。黒い指で、小さな骨をひとつずつつまんで、火のそばの雪の上に、並べた。
並べた骨を、しばらく、見ていた。
◇
三度目の朝も、おはよう、と言うと、おはよう、と返ってきた。今度は、火ではなく、僕のほうを見て。
川の氷の下で、水が、低く鳴っていた。春になれば、この道も、溶けてなくなる。それまでに、どこかへ着かなければならなかった。
その日の夕方、ロノヴァが、川の西岸の崖を指さした。
「あそこに、岩屋がある」
「え?」
「昔、霜月の子たちが、冬に使っていた。……獣を追って、この川を下るときに」
崖の下に、雪に半分埋もれた、黒い口が開いていた。
近づくと、確かに、人の手で広げた跡があった。入り口の岩に、古い印が刻まれている。風と雪で、ほとんど消えかけていた。
ロノヴァは、その印の前で、立ち止まった。
黒い指で、触れた。
「……死者を送る者たちの、印だ」
静かな声だった。
「わたしに、宛てたものだ。……昔は」
ロノヴァは、続けた。
「ここで冬を越した者たちは、仲間が死ぬと、この印の前で、その名を呼んだ。迷わずに行けるように」
ロノヴァは、印を、指でなぞった。
「わたしは、その声を、記録した。……それ以上のことは、何も思わなかった」
僕は、ロノヴァの横顔を見ていた。
おばあちゃんの昔話の女神様が、昔の人が自分に宛てた印に、指で触れていた。
ずっと昔の、ありがとう、みたいなものに。
岩屋の中は、乾いていた。
奥に、石を組んだ炉の跡があった。天井の岩が、煤で黒い。何十、何百の冬の火が、同じところを焦がした色だった。
僕は、崖の下で枯れ枝を集めて、火を起こした。
使わなかったぶんは、炉の脇に積んでおいた。次にここへ来る、顔も知らない誰かのために。
ロノヴァは、それを、黙って見ていた。
粥を、炊いた。
ひとつまみと、半分。
ふたりで、食べた。
食べ終えて、僕は、ロノヴァの腕に軟膏を塗った。ロノヴァは、僕の頬に塗った。
それが、家を出てから、毎晩のことになっていた。
毛皮を敷いて、横になった。
「おやすみ、ロノヴァ」
炉の火の向こうで、ロノヴァが、少しだけ身じろぎした。
「……おやすみ」
僕は、目を開けた。
ロノヴァは、火を見ていた。
「……今夜は、朝の代わりではない」
小さな声だった。
「朝にも、ここにいる。……だから、答えた」
僕は、何も言えなかった。
何か言ったら、声が震えそうだった。
だから、目を閉じた。
閉じた目の奥が、熱かった。
家を出てよかった、と思った。
思ってから、少しだけ、家の棚の上の鉢のことを考えた。春まで、もつんだよね。
もつ。この人は、そう言った。
この人のいない家で、あの根は、春を待っている。
この人のいる岩屋で、僕は、朝を待っている。
お読みいただきありがとうございました。
次回、IF3-3「地図にない場所」でIF-3「引き止めるルート」は完結です。ロノヴァとトイヴォ、二人の視点でお送りします。