※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※今回はロノヴァ視点とトイヴォ視点でお送りします。
谷は、覚えていたよりも、狭かった。
天の高みから見下ろしていたころ、そこは、森の中の小さな皺でしかなかった。冬の終わりごとに、その皺の底から、細い煙が一本、昇った。わたしは、それを記録した。
歩いて入ると、皺は、谷になった。
両側から、樅の森が迫っていた。底を、細い沢が流れている。今は凍って、雪の下で、低く鳴っていた。
沢のほとりに、平たい岩があった。
人の背丈ほどの幅の、黒い岩。表面だけが、ほかの岩と違う色をしていた。長いあいだ、何度も、火に焼かれた色だった。
わたしは、その前で、足を止めた。
ここだった。
獣を焼く煙が、昇っていたのは。
岩屋を出て、川の上を、さらに二日歩いた。西から細い沢が注ぐところで、川を離れた。凍った沢を、一日、遡った。沢の氷の上にも、枯らすものはなかった。
わたしの黒い線は、家から川の岸までの一本きりで、どこにも続いていない。
家を出て、七日目の夕方だった。
トイヴォは、黒い岩の前で立ち止まったわたしの横に、並んだ。
「……ここ?」
「ここだ」
トイヴォは、岩を見た。それから、谷を見回した。
樅の森。凍った沢。雪の積もった斜面。糸の少ない、静かな谷。
人の糸は、ひとつもなかった。
わたしと、トイヴォのほかには。
「じゃあ」
トイヴォは、背負い袋を、雪の上に下ろした。
「ここに、家を建てよう」
わたしは、トイヴォを見た。
「……家を」
「うん。小さいのでいいよ。ふたりで寝られて、火が焚けて、鍋がひとつ置ければ」
トイヴォは、もう、斜面の樅の太さを目で測っていた。
「おじいちゃんの手斧、持ってきてよかった」
その夜、トイヴォは、焚き火のそばの雪に、枝で小さな丸を描いた。
「おじいちゃんの地図にも、町の地図にも、たぶん、載ってない」
丸の真ん中を、枝の先で、とんと突いた。
「ここ」
「……天の地図には、あった」
わたしは、言った。
「煙の昇る、小さな皺として。……煙が昇らなくなってからは、何も書いていない」
「じゃあ、今は?」
わたしは、雪の上の丸を見た。
「……今は、わたしの帳面にしか、ない」
トイヴォは、少しだけ考えて、それから、丸の横に、もうひとつ、小さな丸を描いた。
「僕の頭の中にも、ある」
ふたつの丸が、焚き火の明かりに、並んでいた。
◇
家は、ひと月かかった。
トイヴォが樅を倒し、枝を払い、丸太に刻みを入れた。わたしは、それを運んだ。
倒された木には、もう、糸はない。わたしが触れても、何も終わらない。
それが、わたしにできる、数少ない手伝いだった。
一度、手斧を借りた。
トイヴォが刻みを入れるのを、何日も見ていた。できると思った。丸太の端に、刃を当てた。
振り下ろした。
刃は、刻みの線から指三本ぶん外れたところに食いこんで、丸太を斜めに割った。
トイヴォが、割れた丸太を見て、黙った。
「……木目の境が、曖昧だった」
「そっか。そうだよね。境、曖昧だよね」
トイヴォの肩が、小刻みに震えていた。
わたしは、手斧を返した。
割れた丸太の片方は、トイヴォが拾って、薪にした。もう片方は、なぜか、戸口の脇に立てかけてあった。無駄になるものは、この谷の家にも、ないらしい。
夜ごと、トイヴォの手のひらには、新しい豆ができた。
わたしは、そこに軟膏を塗った。毎晩、この人間がわたしの腕にするのと、同じ順番で。
痛く、ならないように。
言うと、トイヴォは、目を閉じたまま笑った。
丸太を組んで、隙間に苔と泥を詰めた。屋根に樹皮を重ねて、その上に雪を載せた。沢のほとりの石を運んで、炉を組んだ。
壁が半分しか組み上がらないうちに、吹雪が来た。
組みかけの壁の内側に、毛皮を二枚重ねて、ふたりでもぐりこんだ。風が、丸太の隙間を鳴らした。
トイヴォは、わたしの背中に、背中をつけて眠った。
わたしの背中は、冷たいはずだった。この人間は、それでも、背中を離さなかった。
夜半に、トイヴォの寝息が、少しだけ乱れた。夢を見ているのだと思った。
「……おばあちゃん」
寝言だった。
わたしは、背中の温度を、動かさずにいた。
朝まで。
炉に、初めて火が入った夜、トイヴォは、粥を炊いた。
ひとつまみと、半分。
ふたりで、食べた。
「……家だね」
トイヴォが、炉の火を見ながら言った。
「小さいけど」
「……悪くは、ない」
トイヴォは、笑った。
わたしは、トイヴォの背負い袋にくくりつけてあった、わたしの包みをほどいた。固く、不器用な結び目。
底から、蜂蜜の瓶を出した。指一本ぶんの、あの金色。
「……それ」
「いちばん最後に、と決めていた」
わたしは、瓶の蓋を回した。
「最後に、ではなく。……最初に、する」
匙で、トイヴォの粥に、ひとすじ落とした。それから、わたしのにも。
トイヴォは、しばらく、黙って器を見ていた。
「……甘い」
先に言ったのは、トイヴォだった。
ひと月のあいだに、家のまわりに、輪ができた。
わたしがそこにいるだけで、雪の下の草が、黒く縮れていく。樅の若木が、一本、枯れた。沢の氷の下の、小さな糸が、いくつか途切れた。
トイヴォは、それを見て、何も言わなかった。
ただ、ある朝、板を一枚削って、わたしの前に立った。
「どこなら、いい?」
小鳥の、餌台だった。
わたしは、輪の縁から、糸を数えた。
「あの樅の、三本目の枝」
トイヴォは、そこに、板を打ちつけた。
干し肉の端と、燕麦の粒を、そこに撒いた。
三日目の朝、胸の黄色い小鳥が、一羽、来た。
輪の外で。わたしから、ちょうど、糸の細らない距離で。
トイヴォは、戸口から、それを見て、嬉しそうに笑った。
「ほら。来た」
わたしは、小鳥を見ていた。
小鳥の糸は、細らなかった。
細い、けれど、ちゃんと脈を打つ糸だった。冬の朝の空気の中で、小さく、忙しく。
この人間は、わたしの死のまわりに、生きるものの置き場所を作る。
谷に来てから、わたしは、力を振るっていない。脇腹の冷たい線は閉じたままで、閉じたぶん、戻ってくるものがあった。戻ったぶんだけ、輪は広がった。
毎朝、トイヴォの糸を見る。夜のあいだに細り、朝の粥で戻る。ただ、戻りきらない朝が、輪の広がるのと同じ速さで、増えていた。
隠さずに話すと、トイヴォは薪を割る手を止めずに言った。
「じゃあ、戻りきらなくなったら、引っ越しだね」
死の執政の帳面に、その言葉の欄はなかった。わたしは、新しい頁のいちばん上に、それを書いた。
◇
ある夜、炉の火を挟んで、トイヴォが言った。
「ねえ、ロノヴァ」
「何だ」
「前に、おばあちゃんの話、したでしょう。女神様は寂しくなかったのかねえ、って」
わたしは、火を見ていた。
「君は、寂しくなど、なかっただろう、って言った」
「……言った」
「あれ、本当?」
トイヴォは、聞いた。
聞かない人間だった。痛いところは、とくに。
家を出てから、この人間は、ときどき、聞くようになった。
わたしは、長いあいだ、答えなかった。
答えは、この谷に入った日に、黒い岩の前で見つけていた。
煙が昇らなくなってからも、わたしは、この皺を見下ろすのを、やめなかった。記録するものは、もう、何もないのに。何年も。何十年も。
見る理由は、どの帳面にも、書いていなかった。
「……嘘だ」
わたしは、言った。
「煙が昇らなくなってからも、わたしは、ここを見ていた。……見るものが、何もなくなってからも」
火が、はぜた。
「それ」
トイヴォが、小さく言った。
「寂しいって、言うんだよ」
「……知っている。今は」
言葉にすると、それは、ひどく小さかった。
長いあいだ見下ろしてきた谷の、底に落ちていた、小さな石のようだった。
トイヴォは、何も言わなかった。
しばらくして、火の向こうから、こちら側へ回ってきた。
わたしの隣に、座った。
膝と膝のあいだに、指一本ぶんの隙間があった。トイヴォは、それを詰めなかった。わたしも、詰めなかった。
「今は?」
トイヴォが、聞いた。
「今も、寂しい?」
わたしは、答えを探した。
帳面をめくるように。
どの頁にも、この人間のことが書いてあった。粥の塩の量。芋の皮を剥きすぎた日。三角の団子。おはよう、と言われて答えなかった朝の数。軟膏の順番。行かないで、と言った声。凍った川で、君がいると川が読める、と言った顔。
わたしの帳面は、いつのまにか、この人間のことばかりになっていた。
「……今は」
わたしは、言った。
「帳面が、足りない」
トイヴォが、瞬きをした。
「お前のことを書く欄が、足りない。……寂しいと書く頁が、残っていない」
トイヴォは、しばらく、黙っていた。
それから、少しだけ、笑った。
「それ、好きってこと?」
わたしは、分類しようとした。
しようとして、やめた。
「……そういうことに、しておけ」
トイヴォは、声を出して笑った。
それから、わたしの黒い手を、取った。
「僕も、好きだよ」
粥の塩の話をするのと、同じ声だった。わたしは、答えられなかった。
「たぶん、最初の朝、君が、甘い、って言ったときから。……分かったのは、行かないで、って言ったとき」
わたしは、つながれた手を見ていた。
冷たい手と、温かい手。
わたしは、握り返した。
◇
春は、谷の底から来た。
沢の氷が、ある朝、低く鳴って、割れた。水が、光りながら流れはじめた。斜面の雪が、日ごとに痩せていった。
輪の外の餌台には、小鳥が、つがいで来るようになった。
僕は、朝、目を覚まして、最初に、炉の向こうを見る。
ロノヴァは、そこにいる。
「おはよう、ロノヴァ」
「……おはよう」
家を出た次の朝から、ずっと、そうだ。
雪の消えかけた朝、ロノヴァが、輪の縁に立っていた。
「トイヴォ」
呼ばれて、僕は、手斧を置いた。
ロノヴァは、輪の縁から、黒い岩の陰を指さしていた。
「あそこに、糸がある。……小さい。わたしが近づけば、細る」
僕は、岩の陰まで歩いた。
岩の割れ目から、小さな緑が、顔を出していた。細い茎。小さな、硬い葉。
指でこすると、覚えのある匂いが立った。
タイムだった。
おばあちゃんが株分けしてくれた、あの鉢のと、同じ。
「……この谷にも、あったんだ」
「昔から、あった」
ロノヴァは、言った。
「煙の昇っていたころから。……わたしは、糸の数しか、数えていなかった」
僕は、小刀で、根のまわりの土ごと、ひと株を掘り上げた。
戸口の脇に立てかけてあった、ロノヴァが割った、あの丸太の端をくり抜いて、沢の土を詰めて、植えた。
それを、餌台の下に置こうとした。
「そこでは、近い」
輪の縁から、ロノヴァが言った。
「……あと七歩、外だ」
僕は、七歩、数えて歩いた。そこに、置いた。
その日から、水は、僕がやった。ロノヴァは、毎朝、輪の縁に立って、それを見ていた。糸を数えているのだと、分かった。
雪の消えた朝、ロノヴァが、ひとりで、沢のほとりへ歩いていった。
僕は、戸口から、それを見ていた。
足もとの草を、黒く縮らせながら。
ロノヴァは、黒い岩の前で、立ち止まった。
昔、獣を焼く煙が昇っていた岩。死んだ人が迷わずに行けるように、と、霜月の子たちが、ロノヴァに捧げ物をしていた岩。
ロノヴァは、しばらく、そこに立っていた。
それから、頭を下げた。
深く。
「……ありがとう」
小さな声だった。
僕のところまで、かすかに届いた。
誰に言ったのか、僕には、分からなかった。煙を上げていた、昔の人たちになのかもしれない。この谷になのかもしれない。
ロノヴァが、戻ってきた。
「……ずっと昔、ここで、わたしに礼を言った者たちがいた」
僕の前で、ロノヴァは言った。
「わたしは、それを、記録しただけだった。……今度は、わたしが、言う番だと思った」
それから、僕を見た。
金色の目。七枚の花びら。
「お前にも」
「え?」
「……ありがとう」
「……なんで?」
聞いてから、あの朝この人が僕に聞いたのと、同じ問いだと気づいた。
「分からない」
ロノヴァは、それだけ言って、家に入っていった。
僕は、戸口に立ったまま、しばらく動けなかった。
命をもらったら、ありがとうと言いなさい。——おばあちゃんの声が、した気がした。
僕は、この人に、命をあげたのだろうか。
分からなかった。
分からないまま、胸の奥が、ひどく温かかった。
その日の夕方も、僕がタイムに水をやるのを、ロノヴァは、輪の縁から見ていた。
翌朝も。
その次の朝も。
死の執政が、毎朝、小さな草の糸を数えている。
この谷の地図を持っている人がいたら、そこに書き足してほしいと思った。
◇
春の終わりの夜、ロノヴァが、窓のない壁の向こうを見ていた。
「……糸が、通る」
小さな声だった。
「ずっと遠く。川のほうを。……あの、熱い糸だ」
僕は、炉の火を見た。
「こっちに、来る?」
「来ない。……川筋を、北へ上っていく」
ロノヴァは、しばらく、遠くを見ていた。
「探しているのかもしれない。探していないのかもしれない。……わたしには、分からない」
「そっか」
僕は、うなずいた。
「いつか、見つかるかもしれないね」
「……見つかるかもしれない」
ロノヴァは、家のまわりの、黒い輪のほうを見た。窓のない壁の、向こうを。
「輪は、広がる。……そのときは」
僕が何か言う前に、ロノヴァが、続けた。
「また、歩く。道は、わたしが読む。……鍋は、お前が持て」
春より先のことを、この人の口から聞くのは、初めてだった。
「……それ」
僕は、鍋を火から下ろしながら言った。
「悪くは、ないね」
ロノヴァが、眉を寄せた。
「わたしの言葉だ」
夜、粥を炊いた。
ひとつまみと、半分。
ふたつの器に、よそった。
食べながら、ロノヴァが、ふと言った。
「……棚の根は、もっている」
僕は、匙を止めた。
あの家の、棚の上の、タイムの鉢。
「分かるの? こんなに遠くて」
「分からない」
ロノヴァは、粥をすくった。
「わたしがいなければ、春まで、もつ。……わたしは、いない。だから、もっている」
それは、占い師の言葉ではなかった。
死の執政の、記録の言葉でもなかった。
この人が、自分で選んだ言葉だった。
僕は、笑った。
「うん。……もってる」
炉の火が、ぱちりとはぜた。
地図にない谷で、僕たちは、ふたり分の粥を食べた。
いつか、また歩く日が来る。
その日まで、ここが、僕たちの家だった。
お読みいただきありがとうございました。
これで、IF-3「引き止めるルート」は完結です。次回からは、IF-4「間に合わないルート」(本編第10話から分岐)をお送りします。