死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本編第8話「冥府へ帰る女」の途中から分岐するIFルートの3話目(IF-3の最終話)です。
※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※今回はロノヴァ視点とトイヴォ視点でお送りします。


IF3-3 地図にない場所

 谷は、覚えていたよりも、狭かった。

 天の高みから見下ろしていたころ、そこは、森の中の小さな皺でしかなかった。冬の終わりごとに、その皺の底から、細い煙が一本、昇った。わたしは、それを記録した。

 歩いて入ると、皺は、谷になった。

 両側から、樅の森が迫っていた。底を、細い沢が流れている。今は凍って、雪の下で、低く鳴っていた。

 沢のほとりに、平たい岩があった。

 人の背丈ほどの幅の、黒い岩。表面だけが、ほかの岩と違う色をしていた。長いあいだ、何度も、火に焼かれた色だった。

 わたしは、その前で、足を止めた。

 ここだった。

 獣を焼く煙が、昇っていたのは。

 

 岩屋を出て、川の上を、さらに二日歩いた。西から細い沢が注ぐところで、川を離れた。凍った沢を、一日、遡った。沢の氷の上にも、枯らすものはなかった。

 わたしの黒い線は、家から川の岸までの一本きりで、どこにも続いていない。

 家を出て、七日目の夕方だった。

 トイヴォは、黒い岩の前で立ち止まったわたしの横に、並んだ。

「……ここ?」

「ここだ」

 トイヴォは、岩を見た。それから、谷を見回した。

 樅の森。凍った沢。雪の積もった斜面。糸の少ない、静かな谷。

 人の糸は、ひとつもなかった。

 わたしと、トイヴォのほかには。

「じゃあ」

 トイヴォは、背負い袋を、雪の上に下ろした。

「ここに、家を建てよう」

 わたしは、トイヴォを見た。

「……家を」

「うん。小さいのでいいよ。ふたりで寝られて、火が焚けて、鍋がひとつ置ければ」

 トイヴォは、もう、斜面の樅の太さを目で測っていた。

「おじいちゃんの手斧、持ってきてよかった」

 

 その夜、トイヴォは、焚き火のそばの雪に、枝で小さな丸を描いた。

「おじいちゃんの地図にも、町の地図にも、たぶん、載ってない」

 丸の真ん中を、枝の先で、とんと突いた。

「ここ」

「……天の地図には、あった」

 わたしは、言った。

「煙の昇る、小さな皺として。……煙が昇らなくなってからは、何も書いていない」

「じゃあ、今は?」

 わたしは、雪の上の丸を見た。

「……今は、わたしの帳面にしか、ない」

 トイヴォは、少しだけ考えて、それから、丸の横に、もうひとつ、小さな丸を描いた。

「僕の頭の中にも、ある」

 ふたつの丸が、焚き火の明かりに、並んでいた。

 

   ◇

 

 家は、ひと月かかった。

 トイヴォが樅を倒し、枝を払い、丸太に刻みを入れた。わたしは、それを運んだ。

 倒された木には、もう、糸はない。わたしが触れても、何も終わらない。

 それが、わたしにできる、数少ない手伝いだった。

 一度、手斧を借りた。

 トイヴォが刻みを入れるのを、何日も見ていた。できると思った。丸太の端に、刃を当てた。

 振り下ろした。

 刃は、刻みの線から指三本ぶん外れたところに食いこんで、丸太を斜めに割った。

 トイヴォが、割れた丸太を見て、黙った。

「……木目の境が、曖昧だった」

「そっか。そうだよね。境、曖昧だよね」

 トイヴォの肩が、小刻みに震えていた。

 わたしは、手斧を返した。

 割れた丸太の片方は、トイヴォが拾って、薪にした。もう片方は、なぜか、戸口の脇に立てかけてあった。無駄になるものは、この谷の家にも、ないらしい。

 

 夜ごと、トイヴォの手のひらには、新しい豆ができた。

 わたしは、そこに軟膏を塗った。毎晩、この人間がわたしの腕にするのと、同じ順番で。

 痛く、ならないように。

 言うと、トイヴォは、目を閉じたまま笑った。

 丸太を組んで、隙間に苔と泥を詰めた。屋根に樹皮を重ねて、その上に雪を載せた。沢のほとりの石を運んで、炉を組んだ。

 壁が半分しか組み上がらないうちに、吹雪が来た。

 組みかけの壁の内側に、毛皮を二枚重ねて、ふたりでもぐりこんだ。風が、丸太の隙間を鳴らした。

 トイヴォは、わたしの背中に、背中をつけて眠った。

 わたしの背中は、冷たいはずだった。この人間は、それでも、背中を離さなかった。

 夜半に、トイヴォの寝息が、少しだけ乱れた。夢を見ているのだと思った。

「……おばあちゃん」

 寝言だった。

 わたしは、背中の温度を、動かさずにいた。

 朝まで。

 

 炉に、初めて火が入った夜、トイヴォは、粥を炊いた。

 ひとつまみと、半分。

 ふたりで、食べた。

「……家だね」

 トイヴォが、炉の火を見ながら言った。

「小さいけど」

「……悪くは、ない」

 トイヴォは、笑った。

 わたしは、トイヴォの背負い袋にくくりつけてあった、わたしの包みをほどいた。固く、不器用な結び目。

 底から、蜂蜜の瓶を出した。指一本ぶんの、あの金色。

「……それ」

「いちばん最後に、と決めていた」

 わたしは、瓶の蓋を回した。

「最後に、ではなく。……最初に、する」

 匙で、トイヴォの粥に、ひとすじ落とした。それから、わたしのにも。

 トイヴォは、しばらく、黙って器を見ていた。

「……甘い」

 先に言ったのは、トイヴォだった。

 

 ひと月のあいだに、家のまわりに、輪ができた。

 わたしがそこにいるだけで、雪の下の草が、黒く縮れていく。樅の若木が、一本、枯れた。沢の氷の下の、小さな糸が、いくつか途切れた。

 トイヴォは、それを見て、何も言わなかった。

 ただ、ある朝、板を一枚削って、わたしの前に立った。

「どこなら、いい?」

 小鳥の、餌台だった。

 わたしは、輪の縁から、糸を数えた。

「あの樅の、三本目の枝」

 トイヴォは、そこに、板を打ちつけた。

 干し肉の端と、燕麦の粒を、そこに撒いた。

 三日目の朝、胸の黄色い小鳥が、一羽、来た。

 輪の外で。わたしから、ちょうど、糸の細らない距離で。

 トイヴォは、戸口から、それを見て、嬉しそうに笑った。

「ほら。来た」

 わたしは、小鳥を見ていた。

 小鳥の糸は、細らなかった。

 細い、けれど、ちゃんと脈を打つ糸だった。冬の朝の空気の中で、小さく、忙しく。

 この人間は、わたしの死のまわりに、生きるものの置き場所を作る。

 

 谷に来てから、わたしは、力を振るっていない。脇腹の冷たい線は閉じたままで、閉じたぶん、戻ってくるものがあった。戻ったぶんだけ、輪は広がった。

 毎朝、トイヴォの糸を見る。夜のあいだに細り、朝の粥で戻る。ただ、戻りきらない朝が、輪の広がるのと同じ速さで、増えていた。

 隠さずに話すと、トイヴォは薪を割る手を止めずに言った。

「じゃあ、戻りきらなくなったら、引っ越しだね」

 死の執政の帳面に、その言葉の欄はなかった。わたしは、新しい頁のいちばん上に、それを書いた。

 

   ◇

 

 ある夜、炉の火を挟んで、トイヴォが言った。

「ねえ、ロノヴァ」

「何だ」

「前に、おばあちゃんの話、したでしょう。女神様は寂しくなかったのかねえ、って」

 わたしは、火を見ていた。

「君は、寂しくなど、なかっただろう、って言った」

「……言った」

「あれ、本当?」

 トイヴォは、聞いた。

 聞かない人間だった。痛いところは、とくに。

 家を出てから、この人間は、ときどき、聞くようになった。

 わたしは、長いあいだ、答えなかった。

 答えは、この谷に入った日に、黒い岩の前で見つけていた。

 煙が昇らなくなってからも、わたしは、この皺を見下ろすのを、やめなかった。記録するものは、もう、何もないのに。何年も。何十年も。

 見る理由は、どの帳面にも、書いていなかった。

「……嘘だ」

 わたしは、言った。

「煙が昇らなくなってからも、わたしは、ここを見ていた。……見るものが、何もなくなってからも」

 火が、はぜた。

「それ」

 トイヴォが、小さく言った。

「寂しいって、言うんだよ」

「……知っている。今は」

 言葉にすると、それは、ひどく小さかった。

 長いあいだ見下ろしてきた谷の、底に落ちていた、小さな石のようだった。

 

 トイヴォは、何も言わなかった。

 しばらくして、火の向こうから、こちら側へ回ってきた。

 わたしの隣に、座った。

 膝と膝のあいだに、指一本ぶんの隙間があった。トイヴォは、それを詰めなかった。わたしも、詰めなかった。

「今は?」

 トイヴォが、聞いた。

「今も、寂しい?」

 わたしは、答えを探した。

 帳面をめくるように。

 どの頁にも、この人間のことが書いてあった。粥の塩の量。芋の皮を剥きすぎた日。三角の団子。おはよう、と言われて答えなかった朝の数。軟膏の順番。行かないで、と言った声。凍った川で、君がいると川が読める、と言った顔。

 わたしの帳面は、いつのまにか、この人間のことばかりになっていた。

「……今は」

 わたしは、言った。

「帳面が、足りない」

 トイヴォが、瞬きをした。

「お前のことを書く欄が、足りない。……寂しいと書く頁が、残っていない」

 トイヴォは、しばらく、黙っていた。

 それから、少しだけ、笑った。

「それ、好きってこと?」

 わたしは、分類しようとした。

 しようとして、やめた。

「……そういうことに、しておけ」

 トイヴォは、声を出して笑った。

 それから、わたしの黒い手を、取った。

「僕も、好きだよ」

 粥の塩の話をするのと、同じ声だった。わたしは、答えられなかった。

「たぶん、最初の朝、君が、甘い、って言ったときから。……分かったのは、行かないで、って言ったとき」

 わたしは、つながれた手を見ていた。

 冷たい手と、温かい手。

 わたしは、握り返した。

 

   ◇

 

 春は、谷の底から来た。

 沢の氷が、ある朝、低く鳴って、割れた。水が、光りながら流れはじめた。斜面の雪が、日ごとに痩せていった。

 輪の外の餌台には、小鳥が、つがいで来るようになった。

 僕は、朝、目を覚まして、最初に、炉の向こうを見る。

 ロノヴァは、そこにいる。

「おはよう、ロノヴァ」

「……おはよう」

 家を出た次の朝から、ずっと、そうだ。

 

 雪の消えかけた朝、ロノヴァが、輪の縁に立っていた。

「トイヴォ」

 呼ばれて、僕は、手斧を置いた。

 ロノヴァは、輪の縁から、黒い岩の陰を指さしていた。

「あそこに、糸がある。……小さい。わたしが近づけば、細る」

 僕は、岩の陰まで歩いた。

 岩の割れ目から、小さな緑が、顔を出していた。細い茎。小さな、硬い葉。

 指でこすると、覚えのある匂いが立った。

 タイムだった。

 おばあちゃんが株分けしてくれた、あの鉢のと、同じ。

「……この谷にも、あったんだ」

「昔から、あった」

 ロノヴァは、言った。

「煙の昇っていたころから。……わたしは、糸の数しか、数えていなかった」

 僕は、小刀で、根のまわりの土ごと、ひと株を掘り上げた。

 戸口の脇に立てかけてあった、ロノヴァが割った、あの丸太の端をくり抜いて、沢の土を詰めて、植えた。

 それを、餌台の下に置こうとした。

「そこでは、近い」

 輪の縁から、ロノヴァが言った。

「……あと七歩、外だ」

 僕は、七歩、数えて歩いた。そこに、置いた。

 その日から、水は、僕がやった。ロノヴァは、毎朝、輪の縁に立って、それを見ていた。糸を数えているのだと、分かった。

 

 雪の消えた朝、ロノヴァが、ひとりで、沢のほとりへ歩いていった。

 僕は、戸口から、それを見ていた。

 足もとの草を、黒く縮らせながら。

 ロノヴァは、黒い岩の前で、立ち止まった。

 昔、獣を焼く煙が昇っていた岩。死んだ人が迷わずに行けるように、と、霜月の子たちが、ロノヴァに捧げ物をしていた岩。

 ロノヴァは、しばらく、そこに立っていた。

 それから、頭を下げた。

 深く。

「……ありがとう」

 小さな声だった。

 僕のところまで、かすかに届いた。

 誰に言ったのか、僕には、分からなかった。煙を上げていた、昔の人たちになのかもしれない。この谷になのかもしれない。

 ロノヴァが、戻ってきた。

「……ずっと昔、ここで、わたしに礼を言った者たちがいた」

 僕の前で、ロノヴァは言った。

「わたしは、それを、記録しただけだった。……今度は、わたしが、言う番だと思った」

 それから、僕を見た。

 金色の目。七枚の花びら。

「お前にも」

「え?」

「……ありがとう」

「……なんで?」

 聞いてから、あの朝この人が僕に聞いたのと、同じ問いだと気づいた。

「分からない」

 ロノヴァは、それだけ言って、家に入っていった。

 僕は、戸口に立ったまま、しばらく動けなかった。

 命をもらったら、ありがとうと言いなさい。——おばあちゃんの声が、した気がした。

 僕は、この人に、命をあげたのだろうか。

 分からなかった。

 分からないまま、胸の奥が、ひどく温かかった。

 その日の夕方も、僕がタイムに水をやるのを、ロノヴァは、輪の縁から見ていた。

 翌朝も。

 その次の朝も。

 死の執政が、毎朝、小さな草の糸を数えている。

 この谷の地図を持っている人がいたら、そこに書き足してほしいと思った。

 

   ◇

 

 春の終わりの夜、ロノヴァが、窓のない壁の向こうを見ていた。

「……糸が、通る」

 小さな声だった。

「ずっと遠く。川のほうを。……あの、熱い糸だ」

 僕は、炉の火を見た。

「こっちに、来る?」

「来ない。……川筋を、北へ上っていく」

 ロノヴァは、しばらく、遠くを見ていた。

「探しているのかもしれない。探していないのかもしれない。……わたしには、分からない」

「そっか」

 僕は、うなずいた。

「いつか、見つかるかもしれないね」

「……見つかるかもしれない」

 ロノヴァは、家のまわりの、黒い輪のほうを見た。窓のない壁の、向こうを。

「輪は、広がる。……そのときは」

 僕が何か言う前に、ロノヴァが、続けた。

「また、歩く。道は、わたしが読む。……鍋は、お前が持て」

 春より先のことを、この人の口から聞くのは、初めてだった。

「……それ」

 僕は、鍋を火から下ろしながら言った。

「悪くは、ないね」

 ロノヴァが、眉を寄せた。

「わたしの言葉だ」

 

 夜、粥を炊いた。

 ひとつまみと、半分。

 ふたつの器に、よそった。

 食べながら、ロノヴァが、ふと言った。

「……棚の根は、もっている」

 僕は、匙を止めた。

 あの家の、棚の上の、タイムの鉢。

「分かるの? こんなに遠くて」

「分からない」

 ロノヴァは、粥をすくった。

「わたしがいなければ、春まで、もつ。……わたしは、いない。だから、もっている」

 それは、占い師の言葉ではなかった。

 死の執政の、記録の言葉でもなかった。

 この人が、自分で選んだ言葉だった。

 僕は、笑った。

「うん。……もってる」

 炉の火が、ぱちりとはぜた。

 地図にない谷で、僕たちは、ふたり分の粥を食べた。

 いつか、また歩く日が来る。

 その日まで、ここが、僕たちの家だった。




お読みいただきありがとうございました。
これで、IF-3「引き止めるルート」は完結です。次回からは、IF-4「間に合わないルート」(本編第10話から分岐)をお送りします。
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