※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※悲恋の展開です。ご注意ください。
※今回はロノヴァ視点です。
脇腹がひらいてから、一日と、一晩が過ぎていた。
三度目の夜を、わたしは、雪の吹き溜まりの中で越した。包みは、ほどかなかった。ほどけば、中の瓶が、また、あの音を立てる気がした。
四日目の朝、糸が、わたしの意識の端に触れた。黒い線の上を、辿ってくる六つ。ひとつは太く、荒く、熱い。女皇の執行官だろう。まがいものの石が、その糸を喰っていた。昼すぎには、追いつかれる。
そのさらに後ろ、目の届くぎりぎりの端に、少し太い、長い糸。線の横を、踏まないように辿ってきて、それから、線を離れた。まっすぐに、湖のほうへ。
——来るな。声には、しなかった。
恐れるなら、それが正しい、と言ったはずだ。……怖いよ。でも。
でも、の先は、来なかった。あのとき来なかったものが、今、こちらへ向かってきていた。
わたしは、立ち止まって、その糸を見ていた。
脇腹の黒いひびから、何かが、漏れていった。
見ていることしか、できなかった。
昼前、その糸が、止まった。
湖へ向かう途中の、雪原の窪みで。
途切れたのではなかった。糸は、まだ続いていた。少し太い、長い糸。
ただ、動かなくなった。
わたしは、意識を、その一点に向けた。遠すぎた。糸の形しか、分からなかった。何が起きたのかは、分からなかった。
足を痛めたのか。沢の氷を、踏み抜いたのか。岩陰で、休んでいるだけなのか。
分からなかった。
分からないまま、わたしは、その糸を見ていた。
揺れていた。細く、震えるように。
糸の震えは、息の震えだった。あの家で、毎晩、暖炉の向こうから聞こえていた寝息を、わたしは、糸の形で覚えていた。
寒さに耐えている糸の、揺れ方だった。
戻れば、いい。
そう、思った。
あの糸のところへ。戻って、何ができるのかは、分からない。わたしは、火を起こせる。湯を沸かせる。団子を茹でることも、できた。軟膏を、塗ることは——うまくは、できなかったが。
戻れば、あの糸のそばに、行ける。
わたしは、振り向きかけた。
振り向いた先に、六つの糸があった。
黒い線の上を、辿ってくる。わたしの足跡を追って。
あの糸と、わたしのあいだに。
わたしが戻れば、六つの糸も、ついてくる。わたしの黒い線を辿って、わたしのところへ。わたしが、あの糸のそばにいれば、あの糸のところへ。
執行官の糸が、民の糸を見て、何をするのか。わたしには、分からなかった。分からないものを、あの糸のそばに連れていくことは、できなかった。
わたしは、前を向いた。
湖のほうへ。
あの糸から、離れるほうへ。
六つの糸を、連れて。
歩きながら、わたしは、一度も振り返らなかった。振り返らずに、意識の端で、あの糸を見ていた。
動かないまま、続いていた。
続いていることだけを、確かめ続けた。
わたしが近づけば、あの糸は細る。わたしが遠ざかれば、あの糸は、細らない。
死の執政が、誰かを守る方法は、それしかなかった。
終わらせないために、離れる。
職務の、どの頁にも、書かれていない守り方だった。
毎朝、暖炉の向こうから、あの人間がのぞく気配がした。わたしが、息をしているか、確かめる気配。
今、わたしは、それを、歩きながらしていた。
◇
湖の岸に着いたのは、昼を過ぎたころだった。
凍った湖面が、白く、どこまでも広がっていた。低い灰色の雲が、西から張り出していた。
夜には、吹雪になる。——と、わたしは思った。けれど、それは、わたしの読みだった。昼には止む、とあの人間が言った雪は、昼に止んだ。あの人間なら、別のことを言うのかもしれなかった。
岸の手前で、膝が、雪についた。
包みが、手から雪に落ちた。中で、小さく硬いものが触れ合った。音は、雪に吸われて、どこへも届かなかった。
立とうとして、立てなかった。
あの家で初めて目を覚ました日、床に崩れ落ちたときと、同じだった。
あのときは、戸が開いて、ただいま、という声がした。
六つの糸が、木立を抜けた。
白い外套の者が五人、雪原に散った。手の中に、凍てつく刃が形づくられた。
六人目は、急がなかった。
赤茶の髪に、赤い仮面を、頭の横へずらして引っかけた、若い男だった。
「——見つけた」
男は、そう言って、笑った。
「へえ。本当に生きてたんだ、死の執政」
「……女皇の、執行官か」
「第十一位、『公子』タルタリヤ。……まあ、覚えなくていいよ」
男は、わたしの前で足を止めて、首をかしげた。
「命令はね、生死を問わず、連れて帰れ、だってさ。……でも、これじゃあね。もう、戦える体じゃないんだね。残念だな」
男の腰で、石が、紫に光った。その光のぶんだけ、男の糸が、細った。
「……その石は、お前の糸を喰っている」
「ハハッ。知ってるよ」
笑ったまま、男の手の中に、雷をまとった槍が形づくられた。
右手が、上がりかけた。
昔から知っている形に。
わたしは、それを、止めた。
自分で。
「……やらないの?」
わたしは、答えなかった。
男は、わたしの顔を、少しのあいだ見ていた。
それから、わたしの目が、ときどき、南のほうへ動くのに気づいたようだった。
「……誰か、待ってるの?」
「待っていない」
わたしは、言った。
「……来ない」
来ない、と言ったとき、喉の奥が、また痛んだ。
男は、ふうん、と言った。湖の向こうを、一度だけ見た。
向こう岸の木立が、白く、ぼやけて、空との境をなくしかけていた。
それ以上、聞かなかった。
五つの刃と、一本の槍が、わたしに向いた。
終わるのだろう、と思った。
死の執政が、死ぬ。見届けられるまで終わらない死を、この者たちが見届ける。記録の上では、それで帳尻が合う。
合うはずだった。
わたしは、意識の端を、確かめた。
あの糸は、まだ、続いていた。
動かないまま。細く、震えながら。
雪の向こうから、何の音も、しなかった。
こつん、とも。
名前を呼ぶ声も。
——それで、いい。
そう思った。来なくて、いい。来てはいけない。あの糸は、あそこで、続いていればいい。
続いていれば、いい。
わたしは、そう思って、それから、喉の奥が、ひどく痛むのを感じた。
分類できない痛みだった。
分類しなくても、名前は、知っていた。
◇
最初に、音が来た。湖の向こうから、低い唸りが。
それから、白が来て、目が役に立たなくなった。
糸だけが、見えた。六つの糸が、白の中で、いっせいに揺れて、互いのほうへ寄り集まっていく。
「全員、動くな! 互いの声の届くところにいろ!」
男の声だった。明るさが、消えていた。
熱い糸だけが、しばらく、わたしのほうを向いたまま、動かなかった。
白の中で、わたしは、自分の中に残っているものを、数えた。
力は、ほとんどなかった。脇腹から、漏れ続けていた。六つの糸を終わらせるだけのものは、もう、ない。——あったとしても、わたしは、それを振るわない。
残っているのは、わたしを形づくっているものだけだった。
あの日、空から落ちたときと、同じ。
わたしの輪郭は、ほどけて、羽根になる。
ほどけ切ってしまえば、どこであろうと同じことだ。——あの日は、そう思った。
今は、そう思わなかった。
どこであろうと同じでは、なかった。
あの糸から、遠いところで、ほどけたかった。
あの糸のそばに、黒い輪を残さないところで。
このまま連れていかれれば、どうなるのかも、分かっていた。
わたしは、線を引く。雪の上にも、氷の上にも、皇都の石の上にも。
あの糸は、その横を、踏まないように、どこまでも辿ってくるだろう。止まらない。休まない。——あの人間は、そういう糸だ。
だから、線は、ここで終わらせる。
押さえていた手を、離した。
脇腹から、黒いものが、ほどけていった。
羽根だった。
一枚、また一枚。やがて、数えきれないほど。
腕をつかむ手は、なかった。名前を呼ぶ声も。
止めるものが何もないまま、ほどけていくのは、あの日と同じだった。違うのは、止めてほしいと、どこかで思っていることに、わたしが気づいていることだけだった。
羽根は、白の中に舞い上がって、雪に混じった。黒と白が、ひとつの嵐になった。
翼に、なった。あの朝、あの家の前で広げたのと、同じ形に。
槍の紫が、白の中で、一度こちらへ動いて——止まった。
今度は、誰かを終わらせるためではなかった。わたし自身を、白の中に隠すために。
白の向こうで、誰かが叫んだ。わたしを呼ぶ声ではなかった。
それで、よかった。
羽根がこぼれるたびに、何かが、わたしから離れていった。
死を執り行うための力。天に立つものの脈を聞く耳。終わるべきものを、終わらせる手。
それから、帳面。
頁が、一枚ずつ、ほどけていった。
劇場の頁が、ほどけた。何も感じていなかった、と書いた頁。
煙の昇らなくなった谷の頁が、ほどけた。それ以上のことは、何も思わなかった、と書いた頁。
四年前の冬の頁が、ほどけた。書いたことさえ、覚えていなかった頁。
最後に、あの家の頁が、残った。
粥の頁だった。
最初の朝、木の匙で運ばれた、燕麦の粥。唇に当てられた匙の、温かさ。……甘い、とわたしは言った。蜂蜜の味だった。
塩の多かった朝の頁。待て、と言った夕方の頁。三角の団子。剥きすぎた芋の皮。
窓のそばの椅子。わたしが座るようになってから、背もたれが、少しだけ冷たくなった椅子。
どこへ行くの、と聞かれた朝。帰る、と答えた嘘。
……春、か、と言った声に、答えを置いてこなかったこと。
軟膏の匂い。痛くならないように、という声。
おはよう。
答えなかった、朝の数。
わたしは、その頁を、ほどけるままにしておけなかった。
最後まで、持っていた。
意識の端で、あの糸を、もう一度、確かめた。
遠い。もう、ほとんど見えない。
けれど、続いていた。
そして、動いていた。
ほんの少しずつ。這うように。湖のほうへ。
——来るな。
もう一度、思った。
声には、しなかった。届く声も、もう、わたしには残っていなかった。
来るな。白の中を、這ってくるな。雪原のことは、お前のほうが、よく知っているはずだ。
糸は、止まらなかった。
止まらないことが、あの人間らしかった。
少し太い、長い糸。
お前の糸は、まだ長い。——あの家で、わたしは、そう言った。占い師の言葉だと、あの人間は思った。
あれは、記録の言葉だった。
今、わたしは、それを、もう一度、言いたかった。
記録の言葉ではなく。
「……まだ、長い」
白い息と一緒に、それは、どこにも届かずにほどけた。
それでよかった。
届かなくても、本当のことだった。
羽根が、残り少なくなった。
わたしの手は、もう、ほとんど形をしていなかった。
黒い指が、ほどける前に、雪の上の包みに、触れた。
結び目は、わたしが結び直したものだった。固く、不器用に。
中には、蜂蜜の瓶がある。いちばん最後に、と決めて、開けなかった瓶。
なんとなく買った、とあの人間は言っていた。町で、なんとなく、と。そのなんとなくが、最初の朝、わたしの舌の上にあった。
いつが最後なのかは、決めていなかった。
今が、そうなのかもしれなかった。
開けなかった。
開ければ、なくなる。
なくならないまま、ここに残しておけば、あの人間の手に、届くかもしれない。指一本ぶんの、あの金色が。
わたしは、包みから、手を離した。
最後に、味を、思い出した。
天理の味でも、劇場の味でもなかった。
あの家の、粥の味だった。
塩が、少しだけ多い。蜂蜜が、ひとすじ。木の匙の、端の欠けたところ。
「……悪くは、なかった」
言ってから、気づいた。
過去の形で、言ったことに。
白の中で、わたしの最後の羽根が、ほどけた。
◇
白が去ったのは、夜半を過ぎてからだった。
わたしは、それを、知っていた。どこで知っていたのかは、分からない。目も、手も、もう、なかった。
夜が明けて、六つの糸が、岸へ戻ってきた。
熱い糸が、わたしの羽根のそばで、止まった。
一枚が、指に触れられて、崩れた。それは、分かった。わたしだったものだから。
「……逃げられたのか、死んだのか」
声が、した。
「どっちとも、書けないね。これ」
熱い糸は、しばらく、包みのそばから動かなかった。
「それは、置いてっていいや」
部下に言う声がした。
「来ない、って言ってたでしょ。南のほうばっかり、見ながらさ。……来ないって言われるやつはね、たいてい来るんだ」
少し、間があった。
「たぶん、取りに来るやつがいる」
五つの糸と、ひとつの熱い糸が、湖の岸から、北へ遠ざかっていった。
わたしは、それを、記録しなかった。
記録する帳面は、もう、ほどけていた。
残っていたのは、粥の頁だけだった。
羽根が、一枚、風に乗って、南へ流れていった。
少し太い、長い糸の、ほうへ。
お読みいただきありがとうございました。
次回、IF4-2「二人分の器」でIF-4「間に合わないルート」は完結です。トイヴォ視点でお送りします。