死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本編第10話「死が知った温度」の途中から分岐するIFルートの2話目(IF-4の最終話)です。
※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※悲恋の展開です。
※今回はトイヴォ視点です。


IF4-2 二人分の器

 沢の上の雪が、足の下で、抜けた。

 湖へまっすぐ向かう途中の、小さな沢だった。雪が橋のように沢を覆っていて、その下が空洞になっていることに、僕は気づかなかった。急いでいたからだ。

 氷の割れる音がして、右足が、腿まで水に沈んだ。

 冷たい、と思う前に、痛かった。

 水から足を引き抜くとき、足首が、岩のあいだで妙な向きにねじれた。

 雪の上に、転がり出た。

 ズボンが、見る間に白く凍りはじめた。

 ——濡れたら、まず火だ。何をおいても、火だ。

 おじいちゃんの声だった。冬の雪原で濡れた足は、半日で、使えなくなる。

 僕は、震える手で、火打ち石を打った。

 火口に、なかなか火が移らなかった。三度、四度。指の感覚が、もう、半分なかった。

 五度目で、細い煙が立った。

 煙の向こうに、ずっと遠く、黒い線が見えた気がした。湖のほうへ、少しずつ曲がっていく、あの人の線。

 

 火のそばで、濡れたものを乾かしながら、湖のほうを見ていた。

 ここからは、見えなかった。低い木立と、雪のうねりの向こう。

 あの人が、そこへ向かっている。黒い線は、少しずつ、湖のほうへ曲がっていた。

 足首が、腫れはじめていた。

 立とうとすると、膝から下に、熱い釘を打たれたみたいな痛みが走った。

 昼を過ぎても、動けなかった。

 動けないあいだに、西の空に、低い雲が張り出してきた。

 雲の腹が、灰色に重く垂れていた。

 湖の上じゃ、風は止まらない。雪は、雲より先に走ってくるよ。——おばあちゃんの声が、した。

 僕は、乾ききらないズボンのまま、立ち上がろうとした。

 足首が、体の重さを、支えなかった。

 

 白い壁は、湖の方角から、来た。

 低い唸りのあとで、世界が、白に消えた。

 火のそばにうずくまっていた僕の上に、雪が、横から、下から、叩きつけてきた。

 ——白に呑まれたら、風を頬で持て。

 持てなかった。風は、四方から来た。どちらが湖なのか、分からなくなった。

 それでも、這った。湖だと思うほうへ。十歩か、二十歩か。数えられなくなったところで、止まった。

 僕は、雪を掘った。手で。吹き溜まりに穴を掘って、その中にもぐりこんだ。毛皮を巻いた。

 夜の雪原は歩くな。おじいちゃんは、そう言った。白の中の雪原は、夜よりも、歩いてはいけない。

 分かっていた。

 分かっていて、穴の中で、何度も、外へ出ようとした。

 出られなかった。

 

 穴の中で、一度だけ、黒いものが見えた気がした。

 白の嵐の中に、黒い羽根が、何枚も、何枚も、舞っていた。雪と一緒に。

 見えた気がしただけかもしれない。

 僕は、名前を呼んだ。

 声は、風にちぎられて、どこにも届かなかった。

 

   ◇

 

 白が去ったのは、夜半を過ぎてからだった。

 夜明けを待って、穴から出た。

 足首は、腫れて、紫色になっていた。枝をついて、湖のほうへ歩いた。

 昼前に、湖の岸に着いた。

 凍った湖面が、白く、どこまでも広がっていた。昨日の嵐が嘘のように、静かだった。

 岸の雪の上に、黒い羽根が、点々と散っていた。

 雪の上に、そっと置かれたように。

 雪原で初めてあの人を見つけた日と、同じだった。吹雪のあとなのに、埋もれもせずに。

 僕は、膝をついて、一枚に、指で触れた。

 崩れた。煤のように、灰のように。

 あの日と、同じだった。

 あの日は、羽根の道の先に、あの人が倒れていた。

 今日は、羽根の先に、何もなかった。

 

 雪に半分埋もれて、麻の包みが、ひとつ落ちていた。

 僕が結んだ結び目ではなかった。一度ほどいて、結び直してあった。固く、不器用に。あの黒い指で。

 結び目を、ほどいた。あとで同じ形に結び直せるように、指の動きを覚えながら。

 中から、小鍋が出てきた。黒いパンが、ひとつ。干し肉の包み。軟膏の、小さな缶。

 缶の蓋を開けると、中の軟膏に、指の跡が残っていた。深く、えぐるように。塗ろうとして、うまくいかなかった指の跡だった。

 それから、底に、小さな瓶。

 蜂蜜だった。

 中の金色は、指一本ぶんのまま、減っていなかった。

 開けなかったのだ。

 あの人は、これを、最後まで。

 

 湖の岸の雪には、足跡が、いくつも残っていた。

 六人ぶん。北へ、戻っていく足跡。そのうちのひとつだけ、歩幅が大きくて、ゆっくりしていた。

 女の人の足跡は、なかった。

 どこにも、なかった。

 黒い線は、岸の手前で、途切れていた。その先は、羽根だった。

「……ロノヴァ」

 呼んだ。

 凍った湖の上を、声が渡っていった。

 どこからも、返ってこなかった。

 もう一度、呼んだ。

 もう一度。

 声が、出なくなるまで。

 

 日が傾くまで、岸にいた。

 火を、起こした。背負い袋から鉄鍋を出して、雪を詰めた。干した鹿の骨を沈めた。玉ねぎを皮ごと半分に切って、焼いた石の上に伏せた。切り口が黒くなるまで、待った。

 起きあがりのスープ。飲めば、起きあがれるから。おばあちゃんは、そう言った。子どものころの僕は、それを本当の魔法だと思っていた。

 スープが澄むのを待つあいだ、湖の向こうを見ていた。向こう岸の木立が、夕日で、少しだけ赤かった。

 器は、持ってこなかった。あの人の小鍋に、よそった。それを、羽根の散っているところの、雪の上に置いた。

 湯気が、細く立った。

 僕は、鉄鍋に残ったぶんを、匙ですくって、飲んだ。同じ鍋のものを。

 湯気が消えるまで、小鍋は、そこにあった。

 湯気が消えても、誰も、起きあがらなかった。

 小鍋を雪で洗って、包みに戻した。あの人の結び方で、結び直した。固く、不器用に。

 

   ◇

 

 家に帰るまで、三日かかった。

 足首が、言うことを聞かなかった。包みを胸に抱えて、枝をついて、ゆっくり歩いた。

 帰り道の、二日目の昼だった。

 風もないのに、黒いものが、一枚、ひらひらと落ちてきて、僕の袖に止まった。

 羽根だった。

 僕は、立ち止まった。

 指を、近づけた。触れたら、崩れる。分かっていた。

 触れた。

 崩れなかった。

 僕は、長いあいだ、それを見ていた。

 指先に、細い羽根の芯の感触があった。煤にも、灰にも、ならなかった。

 どうしてなのかは、分からなかった。

 分からないまま、僕は、その羽根を、蜂蜜の瓶と一緒に、包みの中にしまった。

 

 帰り道の夜は、岩陰で、火を焚いて過ごした。

「おやすみ、ロノヴァ」

 暗がりに、言った。

 返事は、なかった。

 家の中でも、返事は、なかった。一度も。

 それでも、家の中では、火の向こうに、息をしている人がいた。

 

 戸の前まで来ると、薪の山のてっぺんで、胸の黄色い小鳥が、三羽、ふくらんでいた。

 僕の足音に首をかしげて、逃げなかった。

 あの人がいなくなったから、戻ってきたのだ。

 前にも、そう思った。あの人が出ていった次の朝に。

 今度は、それを、ひどく静かな気持ちで思った。

 家は、出たときのままだった。冷えきった暖炉。棚の上に、二つ並んだ器。黒い茎の鉢。

 戸口で、振り返った。おかえり、と言う相手は、後ろにいなかった。

 

 奥の寝床の、枕の上に、おばあちゃんの服が、袖の端の揃わないまま、畳んであった。

 あの人が、出ていくために畳んだ形だった。

 揃え直そうとは、思わなかった。

 棚から、あの人の器を下ろして、洗った。旅のあいだ使っていなかった器は、埃をかぶっていた。

 洗って、卓に置いた。窓のそばの椅子の前に。

 

   ◇

 

 冬のあいだ、僕は、毎朝、目を覚まして、最初に暖炉の向こうをのぞいた。

 奥の寝床は、空だった。

 藁布団の上の毛布は、あの人が抜け出したときの形のまま、少しだけ持ち上がっていた。直さなかった。

「おはよう」

 声に出した。

 前は、おやすみを言ってから、誰に言ったのか分からなくなった。

 今は、分かっていて、言った。

 わざと。

 答えてもらえなくても、言えばよかった。——あの人が出ていった次の朝、僕はそう思った。

 だから、言う。毎朝。

 

 燕麦を、量った。

 手のひらに、ふたり分を載せた。

 量り直さなかった。

 前は、手が勝手に覚えていた。今は、僕が、そう量った。

 器を、二つ、卓に並べた。

 窓のそばの椅子の前に、ひとつ。僕の前に、ひとつ。

 塩は、ひとつまみと、半分。待て、と言う人は、もう、いない。いないけれど、そう量った。

 湯気が、誰もいない椅子の前で、細く立った。

 僕は、自分の器を食べた。

 窓辺の器は、冷めるまで、そこに置いた。

 冷めたら、鍋に戻して、昼に、僕が食べた。

 

 夜、軟膏の壺を出した。

 塗る腕は、なかった。

 壺の蓋を開けて、匂いだけ、かいだ。薬草の匂い。毎晩、あの人の腕から、立ちのぼっていた匂い。

「痛く、ならないように」

 誰もいない卓で、言った。

 湖の岸で開けた、小さな缶の中の、あの指の跡を、思い出しながら。

 

 棚の上に、包みを置いた。

 蜂蜜の瓶と、崩れなかった羽根の入った包み。

 結び目は、ほどかなかった。

 あの人は、あの瓶を、開けなかった。いちばん最後に、と決めていたのかもしれない。開ければなくなるから、だったのかもしれない。

 だから、僕も、開けない。

 いつが最後なのかは、僕も、決めない。

 

 冬の終わりに、一度だけ、湖へ行った。

 足首は、もう、治っていた。

 岸の雪の上に、羽根は、一枚も残っていなかった。崩れたのか、雪に埋もれたのか、風に運ばれたのか。

 あの日、器を置いたあたりに、しゃがみこんだ。

 雪の下に、何かあるのかと思って、手袋で掘った。

 何も、なかった。

 凍った湖は、あの日と同じように、白く、どこまでも広がっていた。

 僕は、しばらく、そこに座っていた。

 それから、帰った。

 

   ◇

 

 春は、軒の雫から来た。

 雪が、ゆるんで、戸口の前に、泥の色が見えるようになった。

 ある朝、棚の鉢に水をやろうとして、手が止まった。

 黒い茎の根もとに、緑色の点がひとつ、のぞいていた。

 わたしがいなければ、春まで、もつ。

 あの人は、そう言った。

 あの人は、いなかった。

 だから、もった。

 僕は、鉢の前で、しばらく、動けなかった。

 よかった、と思った。

 よかった、と思ったことが、ひどく、苦しかった。

 笑いながら、泣いた。どちらをしているのか、自分でも分からなかった。

 窓のそばの、空いた椅子を見た。

「……春だよ」

 声に出した。

 あの日、出ていく前に、あの人は、棚の根は生きている、と言った。僕は、……春、か、と返した。あの人は、答えなかった。

 答えのかわりに、芽が出た。

 僕は、それを、あの人の答えだと思うことにした。

 

 雪が消えたころ、チモフェイが来た。

 冬のあいだ、僕が一度も南門を通らなかったからだ、と言った。

 剣を取りに来たときと同じように、輪の縁で、足を止めた。

「……よう」

「こんにちは。……お茶くらいなら」

「少しだけな」

 チモフェイは、窓のそばの椅子を見た。その前に置いた、朝の器を。

 何も言わなかった。

 ただ、ゆっくりと一度、目を閉じた。

「報告のことを、聞いた」

 杯を両手で包んで、チモフェイは言った。

「北東の湖で、執行官さまの隊が、死の執政を見つけた。吹雪の中で、見失った。……岸には、黒い羽根が散っていた。触れれば崩れる羽根が」

 僕は、杯を持つ手に、力が入るのを感じた。

「最後の行には、こう書いてあったそうだ」

 チモフェイは、僕を見た。

「生死不明」

 ——。

「死んだとは、書いてなかった」

 チモフェイは、それだけ言って、杯の中を見下ろした。

 僕は、何も言えなかった。

 棚の上の包みを、見た。

 崩れなかった羽根が、中にある。

「それから」

 チモフェイが、少しだけ声を低くした。

「隊の連中から聞いた話だ。……岸に、麻の包みがひとつ落ちてたそうだ。公子さまが、それは置いていけ、って言ったらしい。取りに来るやつがいるから、って」

 僕は、息を止めた。

「……取りに、行きました」

「そうか」

 チモフェイは、それだけ言って、杯を置いた。

 

   ◇

 

 春が過ぎて、夏が来た。

 タイムは、窓辺に戻した。棚の上ではなく、日の当たる窓辺に。葉が、少しずつ増えていった。

 葉を一枚ちぎって、粥に落とした。おばあちゃんが、そうしていたように。

 湯気と一緒に、覚えのある匂いが立った。

 窓のそばの器にも、一枚、落とした。

 夏が過ぎて、秋が来た。

 罠を見て、薪を割って、干し肉を作った。年に四度、南門を通った。チモフェイは、そのたびに、気をつけて帰れ、と言った。

 毎朝、おはよう、と言った。

 毎晩、おやすみ、と言った。

 毎食、器を、二つ並べた。

 ひとりで暮らしていたころの僕は、器をひとつしか出さなかった。四年のあいだ、ずっと。

 今の僕は、ふたつ出す。

 それが、あの人がこの家に残していったものだった。蜂蜜の瓶と、崩れなかった羽根と、ふたつ目の器。

 

 最初の雪が降った晩だった。

 粥を炊いて、器を二つ並べて、窓辺の器から、湯気が細く立っていた。

 外は、静かだった。風の音もしなかった。

 薪が、暖炉の中で、小さく崩れる音だけがした。

 雪が、何でも隠してしまう夜だった。

 僕は、自分の器を持ち上げかけて、手を止めた。

 音が、した。

 戸を、叩く音だった。

 三度、間を置かずに、ではなかった。

 ひとつ。

 長い、間があった。

 それから、もうひとつ。

 小さく、硬いものが、木に触れるような音で。

 こつん、と。

 

 僕は、立ち上がった。

 椅子が、床をこする音がした。

 窓辺の器から、湯気が、細く、まっすぐに立っていた。

 僕は、戸のほうへ、歩いた。




お読みいただきありがとうございました。
これで、IF-4「間に合わないルート」は完結です。戸の向こうに誰がいたのかは、読んでくださった方に委ねたいと思います。
次回からは、IF-5「捕まるルート」(本編第10話から分岐)をお送りします。皇都が舞台になります。
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