※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※悲恋の展開です。
※今回はトイヴォ視点です。
沢の上の雪が、足の下で、抜けた。
湖へまっすぐ向かう途中の、小さな沢だった。雪が橋のように沢を覆っていて、その下が空洞になっていることに、僕は気づかなかった。急いでいたからだ。
氷の割れる音がして、右足が、腿まで水に沈んだ。
冷たい、と思う前に、痛かった。
水から足を引き抜くとき、足首が、岩のあいだで妙な向きにねじれた。
雪の上に、転がり出た。
ズボンが、見る間に白く凍りはじめた。
——濡れたら、まず火だ。何をおいても、火だ。
おじいちゃんの声だった。冬の雪原で濡れた足は、半日で、使えなくなる。
僕は、震える手で、火打ち石を打った。
火口に、なかなか火が移らなかった。三度、四度。指の感覚が、もう、半分なかった。
五度目で、細い煙が立った。
煙の向こうに、ずっと遠く、黒い線が見えた気がした。湖のほうへ、少しずつ曲がっていく、あの人の線。
火のそばで、濡れたものを乾かしながら、湖のほうを見ていた。
ここからは、見えなかった。低い木立と、雪のうねりの向こう。
あの人が、そこへ向かっている。黒い線は、少しずつ、湖のほうへ曲がっていた。
足首が、腫れはじめていた。
立とうとすると、膝から下に、熱い釘を打たれたみたいな痛みが走った。
昼を過ぎても、動けなかった。
動けないあいだに、西の空に、低い雲が張り出してきた。
雲の腹が、灰色に重く垂れていた。
湖の上じゃ、風は止まらない。雪は、雲より先に走ってくるよ。——おばあちゃんの声が、した。
僕は、乾ききらないズボンのまま、立ち上がろうとした。
足首が、体の重さを、支えなかった。
白い壁は、湖の方角から、来た。
低い唸りのあとで、世界が、白に消えた。
火のそばにうずくまっていた僕の上に、雪が、横から、下から、叩きつけてきた。
——白に呑まれたら、風を頬で持て。
持てなかった。風は、四方から来た。どちらが湖なのか、分からなくなった。
それでも、這った。湖だと思うほうへ。十歩か、二十歩か。数えられなくなったところで、止まった。
僕は、雪を掘った。手で。吹き溜まりに穴を掘って、その中にもぐりこんだ。毛皮を巻いた。
夜の雪原は歩くな。おじいちゃんは、そう言った。白の中の雪原は、夜よりも、歩いてはいけない。
分かっていた。
分かっていて、穴の中で、何度も、外へ出ようとした。
出られなかった。
穴の中で、一度だけ、黒いものが見えた気がした。
白の嵐の中に、黒い羽根が、何枚も、何枚も、舞っていた。雪と一緒に。
見えた気がしただけかもしれない。
僕は、名前を呼んだ。
声は、風にちぎられて、どこにも届かなかった。
◇
白が去ったのは、夜半を過ぎてからだった。
夜明けを待って、穴から出た。
足首は、腫れて、紫色になっていた。枝をついて、湖のほうへ歩いた。
昼前に、湖の岸に着いた。
凍った湖面が、白く、どこまでも広がっていた。昨日の嵐が嘘のように、静かだった。
岸の雪の上に、黒い羽根が、点々と散っていた。
雪の上に、そっと置かれたように。
雪原で初めてあの人を見つけた日と、同じだった。吹雪のあとなのに、埋もれもせずに。
僕は、膝をついて、一枚に、指で触れた。
崩れた。煤のように、灰のように。
あの日と、同じだった。
あの日は、羽根の道の先に、あの人が倒れていた。
今日は、羽根の先に、何もなかった。
雪に半分埋もれて、麻の包みが、ひとつ落ちていた。
僕が結んだ結び目ではなかった。一度ほどいて、結び直してあった。固く、不器用に。あの黒い指で。
結び目を、ほどいた。あとで同じ形に結び直せるように、指の動きを覚えながら。
中から、小鍋が出てきた。黒いパンが、ひとつ。干し肉の包み。軟膏の、小さな缶。
缶の蓋を開けると、中の軟膏に、指の跡が残っていた。深く、えぐるように。塗ろうとして、うまくいかなかった指の跡だった。
それから、底に、小さな瓶。
蜂蜜だった。
中の金色は、指一本ぶんのまま、減っていなかった。
開けなかったのだ。
あの人は、これを、最後まで。
湖の岸の雪には、足跡が、いくつも残っていた。
六人ぶん。北へ、戻っていく足跡。そのうちのひとつだけ、歩幅が大きくて、ゆっくりしていた。
女の人の足跡は、なかった。
どこにも、なかった。
黒い線は、岸の手前で、途切れていた。その先は、羽根だった。
「……ロノヴァ」
呼んだ。
凍った湖の上を、声が渡っていった。
どこからも、返ってこなかった。
もう一度、呼んだ。
もう一度。
声が、出なくなるまで。
日が傾くまで、岸にいた。
火を、起こした。背負い袋から鉄鍋を出して、雪を詰めた。干した鹿の骨を沈めた。玉ねぎを皮ごと半分に切って、焼いた石の上に伏せた。切り口が黒くなるまで、待った。
起きあがりのスープ。飲めば、起きあがれるから。おばあちゃんは、そう言った。子どものころの僕は、それを本当の魔法だと思っていた。
スープが澄むのを待つあいだ、湖の向こうを見ていた。向こう岸の木立が、夕日で、少しだけ赤かった。
器は、持ってこなかった。あの人の小鍋に、よそった。それを、羽根の散っているところの、雪の上に置いた。
湯気が、細く立った。
僕は、鉄鍋に残ったぶんを、匙ですくって、飲んだ。同じ鍋のものを。
湯気が消えるまで、小鍋は、そこにあった。
湯気が消えても、誰も、起きあがらなかった。
小鍋を雪で洗って、包みに戻した。あの人の結び方で、結び直した。固く、不器用に。
◇
家に帰るまで、三日かかった。
足首が、言うことを聞かなかった。包みを胸に抱えて、枝をついて、ゆっくり歩いた。
帰り道の、二日目の昼だった。
風もないのに、黒いものが、一枚、ひらひらと落ちてきて、僕の袖に止まった。
羽根だった。
僕は、立ち止まった。
指を、近づけた。触れたら、崩れる。分かっていた。
触れた。
崩れなかった。
僕は、長いあいだ、それを見ていた。
指先に、細い羽根の芯の感触があった。煤にも、灰にも、ならなかった。
どうしてなのかは、分からなかった。
分からないまま、僕は、その羽根を、蜂蜜の瓶と一緒に、包みの中にしまった。
帰り道の夜は、岩陰で、火を焚いて過ごした。
「おやすみ、ロノヴァ」
暗がりに、言った。
返事は、なかった。
家の中でも、返事は、なかった。一度も。
それでも、家の中では、火の向こうに、息をしている人がいた。
戸の前まで来ると、薪の山のてっぺんで、胸の黄色い小鳥が、三羽、ふくらんでいた。
僕の足音に首をかしげて、逃げなかった。
あの人がいなくなったから、戻ってきたのだ。
前にも、そう思った。あの人が出ていった次の朝に。
今度は、それを、ひどく静かな気持ちで思った。
家は、出たときのままだった。冷えきった暖炉。棚の上に、二つ並んだ器。黒い茎の鉢。
戸口で、振り返った。おかえり、と言う相手は、後ろにいなかった。
奥の寝床の、枕の上に、おばあちゃんの服が、袖の端の揃わないまま、畳んであった。
あの人が、出ていくために畳んだ形だった。
揃え直そうとは、思わなかった。
棚から、あの人の器を下ろして、洗った。旅のあいだ使っていなかった器は、埃をかぶっていた。
洗って、卓に置いた。窓のそばの椅子の前に。
◇
冬のあいだ、僕は、毎朝、目を覚まして、最初に暖炉の向こうをのぞいた。
奥の寝床は、空だった。
藁布団の上の毛布は、あの人が抜け出したときの形のまま、少しだけ持ち上がっていた。直さなかった。
「おはよう」
声に出した。
前は、おやすみを言ってから、誰に言ったのか分からなくなった。
今は、分かっていて、言った。
わざと。
答えてもらえなくても、言えばよかった。——あの人が出ていった次の朝、僕はそう思った。
だから、言う。毎朝。
燕麦を、量った。
手のひらに、ふたり分を載せた。
量り直さなかった。
前は、手が勝手に覚えていた。今は、僕が、そう量った。
器を、二つ、卓に並べた。
窓のそばの椅子の前に、ひとつ。僕の前に、ひとつ。
塩は、ひとつまみと、半分。待て、と言う人は、もう、いない。いないけれど、そう量った。
湯気が、誰もいない椅子の前で、細く立った。
僕は、自分の器を食べた。
窓辺の器は、冷めるまで、そこに置いた。
冷めたら、鍋に戻して、昼に、僕が食べた。
夜、軟膏の壺を出した。
塗る腕は、なかった。
壺の蓋を開けて、匂いだけ、かいだ。薬草の匂い。毎晩、あの人の腕から、立ちのぼっていた匂い。
「痛く、ならないように」
誰もいない卓で、言った。
湖の岸で開けた、小さな缶の中の、あの指の跡を、思い出しながら。
棚の上に、包みを置いた。
蜂蜜の瓶と、崩れなかった羽根の入った包み。
結び目は、ほどかなかった。
あの人は、あの瓶を、開けなかった。いちばん最後に、と決めていたのかもしれない。開ければなくなるから、だったのかもしれない。
だから、僕も、開けない。
いつが最後なのかは、僕も、決めない。
冬の終わりに、一度だけ、湖へ行った。
足首は、もう、治っていた。
岸の雪の上に、羽根は、一枚も残っていなかった。崩れたのか、雪に埋もれたのか、風に運ばれたのか。
あの日、器を置いたあたりに、しゃがみこんだ。
雪の下に、何かあるのかと思って、手袋で掘った。
何も、なかった。
凍った湖は、あの日と同じように、白く、どこまでも広がっていた。
僕は、しばらく、そこに座っていた。
それから、帰った。
◇
春は、軒の雫から来た。
雪が、ゆるんで、戸口の前に、泥の色が見えるようになった。
ある朝、棚の鉢に水をやろうとして、手が止まった。
黒い茎の根もとに、緑色の点がひとつ、のぞいていた。
わたしがいなければ、春まで、もつ。
あの人は、そう言った。
あの人は、いなかった。
だから、もった。
僕は、鉢の前で、しばらく、動けなかった。
よかった、と思った。
よかった、と思ったことが、ひどく、苦しかった。
笑いながら、泣いた。どちらをしているのか、自分でも分からなかった。
窓のそばの、空いた椅子を見た。
「……春だよ」
声に出した。
あの日、出ていく前に、あの人は、棚の根は生きている、と言った。僕は、……春、か、と返した。あの人は、答えなかった。
答えのかわりに、芽が出た。
僕は、それを、あの人の答えだと思うことにした。
雪が消えたころ、チモフェイが来た。
冬のあいだ、僕が一度も南門を通らなかったからだ、と言った。
剣を取りに来たときと同じように、輪の縁で、足を止めた。
「……よう」
「こんにちは。……お茶くらいなら」
「少しだけな」
チモフェイは、窓のそばの椅子を見た。その前に置いた、朝の器を。
何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと一度、目を閉じた。
「報告のことを、聞いた」
杯を両手で包んで、チモフェイは言った。
「北東の湖で、執行官さまの隊が、死の執政を見つけた。吹雪の中で、見失った。……岸には、黒い羽根が散っていた。触れれば崩れる羽根が」
僕は、杯を持つ手に、力が入るのを感じた。
「最後の行には、こう書いてあったそうだ」
チモフェイは、僕を見た。
「生死不明」
——。
「死んだとは、書いてなかった」
チモフェイは、それだけ言って、杯の中を見下ろした。
僕は、何も言えなかった。
棚の上の包みを、見た。
崩れなかった羽根が、中にある。
「それから」
チモフェイが、少しだけ声を低くした。
「隊の連中から聞いた話だ。……岸に、麻の包みがひとつ落ちてたそうだ。公子さまが、それは置いていけ、って言ったらしい。取りに来るやつがいるから、って」
僕は、息を止めた。
「……取りに、行きました」
「そうか」
チモフェイは、それだけ言って、杯を置いた。
◇
春が過ぎて、夏が来た。
タイムは、窓辺に戻した。棚の上ではなく、日の当たる窓辺に。葉が、少しずつ増えていった。
葉を一枚ちぎって、粥に落とした。おばあちゃんが、そうしていたように。
湯気と一緒に、覚えのある匂いが立った。
窓のそばの器にも、一枚、落とした。
夏が過ぎて、秋が来た。
罠を見て、薪を割って、干し肉を作った。年に四度、南門を通った。チモフェイは、そのたびに、気をつけて帰れ、と言った。
毎朝、おはよう、と言った。
毎晩、おやすみ、と言った。
毎食、器を、二つ並べた。
ひとりで暮らしていたころの僕は、器をひとつしか出さなかった。四年のあいだ、ずっと。
今の僕は、ふたつ出す。
それが、あの人がこの家に残していったものだった。蜂蜜の瓶と、崩れなかった羽根と、ふたつ目の器。
最初の雪が降った晩だった。
粥を炊いて、器を二つ並べて、窓辺の器から、湯気が細く立っていた。
外は、静かだった。風の音もしなかった。
薪が、暖炉の中で、小さく崩れる音だけがした。
雪が、何でも隠してしまう夜だった。
僕は、自分の器を持ち上げかけて、手を止めた。
音が、した。
戸を、叩く音だった。
三度、間を置かずに、ではなかった。
ひとつ。
長い、間があった。
それから、もうひとつ。
小さく、硬いものが、木に触れるような音で。
こつん、と。
僕は、立ち上がった。
椅子が、床をこする音がした。
窓辺の器から、湯気が、細く、まっすぐに立っていた。
僕は、戸のほうへ、歩いた。
お読みいただきありがとうございました。
これで、IF-4「間に合わないルート」は完結です。戸の向こうに誰がいたのかは、読んでくださった方に委ねたいと思います。
次回からは、IF-5「捕まるルート」(本編第10話から分岐)をお送りします。皇都が舞台になります。