死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本編第10話「死が知った温度」の最後〜第11話「生かす者」の冒頭から分岐するIFルートです。
※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※公式の今後の展開とは関係のない、もしもの話です。
※今回はロノヴァ視点です。


IF5-1 生死を問わず

「ご飯、足りてた?」

 息を切らしたまま、トイヴォは言った。

 わたしの右手を、両手で包んで。止めたばかりの、黒い手を。

 こんなときに、この人間は。

 わたしは、答えられなかった。

 手の中の温度を、わたしは、初めて、分類しようとしなかった。

 

「ねえ、君」

 頭の上から、声が降ってきた。

 執行官だった。雷をまとった槍を、肩に担いだまま。

「そこ、どいてくれるかな。用があるのは、その人だけなんだ」

 トイヴォは、振り向かなかった。

 わたしの手を、離さなかった。

「聞こえてる?」

 明るい声だった。明るいのは声だけで、糸は、少しも明るくなかった。

「君に用はないんだ。民間人を斬るのは、好きじゃないしね。……でも、邪魔をするなら、話は別かな」

「……この人を、どこへ連れていくんですか」

 トイヴォが、執行官を見上げた。わたしの手は、離さないまま。

「皇都まで。生きててもいいし、死んでてもいい、ってさ」

「その人が何なのか、知ってて庇ってるの?」

「知ってます」

 トイヴォの指に、力が入った。

「死の執政。劇場で、大勢を死なせた人。……それから、僕の家で、粥を食べてた人です」

 執行官が、瞬きをした。

「……粥、ね」

 小さな笑いだった。執行官の糸が、ほんの少しだけ、ほどけた。

 わたしの帳面には、その二つを同じ行に書く欄がなかった。この人間は、それを、ひと息で言った。

 五つの刃が、わずかずつ、間合いを詰めてきた。

 トイヴォの手が、震えていた。

 震えていて、ほどけなかった。

 

 わたしは、意識を広げた。

 西の空に、低い雲が張り出していた。雲の腹が、重く垂れている。湖の向こう岸の木立が、白く、ぼやけかけていた。

 あれが来れば、何も見えなくなる。

 この人間は、それを待っている。わたしには、分かった。トイヴォの目が、さっきから、何度か、西を見ていた。雪は昼に止む、とこの人間が言った日、雪は、昼に止んだ。

 白が来れば、逃げられるかもしれない。

 けれど、白は、まだ来ていなかった。

 執行官も、一度だけ、西を見た。白が来る前に、片をつけるつもりなのだ。

 執行官の糸が、揺れた。

 迷いのない揺れ方だった。

「……ごめんね。最後にもう一回だけ言うよ」

 槍の先が、持ち上がった。

 わたしではなく、トイヴォの背中のほうへ。

「どいて」

 

 白を待てば、この人間の背中に、雷が落ちる。

 わたしの中に、それを止めるだけの力は、もうなかった。脇腹から、漏れ続けていた。六つの糸を終わらせるだけのものは、ない。——あったとしても、わたしは、それを振るわないと、さっき決めた。

 残っているのは、言葉だけだった。

「……わたしが行く」

 声が、出ていた。

 執行官の槍が、止まった。

「この人間に、刃を向けるな」

 トイヴォの手が、強く握られた。

「ロノヴァ——」

「黙っていろ」

 わたしは、執行官を見上げた。

「わたしを、連れて帰れ。生きたまま。……その代わり、この人間には、指一本、触れるな。お前の兵も」

 執行官は、少しのあいだ、わたしを見ていた。

 それから、首をかしげた。

「それ、取引?」

「取引だ」

 執行官の口の端が、少しだけ上がった。

「いいよ。俺、取引は守るほうなんだ」

 槍が、下りた。

「全員、聞いたね。民間人には触らない。……その人だけ、連れて帰る」

 

 トイヴォが、わたしの手を、引いた。

「だめだよ」

 かすれた声だった。

「だめだ。行かないで。……君が行ったら、あの人たちは——」

「生死を問わず、だ」

 わたしは、言った。

「生きて連れていかれるほうが、まだ、ましだ」

「そんなの——」

「トイヴォ」

 名前を呼ぶと、トイヴォは、黙った。

 わたしは、つかまれた手を、見下ろした。

 温かかった。

 この温度を、わたしは、ほどかなければならなかった。自分で。

 指を、一本ずつ、開いた。

 トイヴォの指は、なかなか、ほどけなかった。

 最後の一本が、わたしの指から離れた。

 わたしは、足もとの雪に目を落とした。岸で落とした包みが、半分埋もれていた。わたしが結び直した、固く、不器用な結び目。

「……それを、持っていろ」

 あの朝、あの家の前で、わたしは、同じことを言った。こつん、と鳴る前に。

 トイヴォは、包みを見た。

 それから、わたしを見た。

 拾わなかった。まだ。

 雪が、横から吹きつけてきた。

 

 白が来た。

 湖の上を走ってきて、すべてを呑みこんだ。

「全員、動くな! 互いの声の届くところにいろ!」

 執行官の声だった。明るさが、消えていた。

 白の中で、誰かの手が、わたしの腕をつかんだ。冷たい手だった。兵の手だった。

 手首に、冷たいものが巻きついた。

 氷の枷だった。

 わたしは、抗わなかった。

 白の向こうで、わたしの名前を呼ぶ声がした。

 何度も。

 風に、ちぎられながら。

「……迎えに行く」

 声が、白の中から、届いた。

「絶対に、迎えに行く」

 わたしは、答えようとした。

「来るな」

 言えた。

 それから、もうひとつ、言おうとした。

「……でも」

 口が、そこで、止まった。

 でも、の先を、わたしは、持っていなかった。

 あの朝、この人間が持っていなかったように。

 でも、の先が、見つからないまま、白が、すべてを隔てた。

 

   ◇

 

 白が去ったのは、夜半を過ぎてからだった。

 わたしは、兵たちに両脇を支えられて、雪原を北へ歩かされていた。

 意識の端に、少し太い、長い糸があった。

 湖の岸に、残っていた。動かずに。

 わたしが歩くたびに、その糸は、少しずつ、遠くなった。

 歩みを止めると、兵のひとりが、黙って、わたしの枷を引いた。

 わたしは、また、歩いた。

 遠ざかる糸を、数えるのをやめようとして、やめられなかった。

 あの家を出た日と、同じだった。

 違うのは、今度は、自分で選んで離れたのではないことだった。

 ——いや。

 選んだのだ。わたしが。取引だ、と言って。

 選んで、それでも、離れたくなかった。

 

 昼に、休んだ。

 兵のひとりが、固いパンを割って、わたしの前に置いた。

「……必要ない」

「食べないの?」

 執行官が、干し肉をかじりながら言った。

「連れて帰る前に死なれると、困るんだけど」

「死なない」

 わたしは、パンを見なかった。

 あの家で、わたしが必要ない、と言うたびに、でも、と返ってきた。でも、食べてるよね。でも、昨日の夜、スープ飲んだよ。

 今は、返ってこなかった。

 執行官は、ふうん、と言って、パンを自分の懐にしまった。

「じゃあ、お腹すいたら言って」

 空腹というものは、わたしにはない。

 あの家に来るまでは、そう思っていた。

 

「ねえ」

 夜明け前、雪原の岩陰で、執行官が、焚き火の向こうから声をかけてきた。

 兵たちは、交代で眠っていた。執行官は、眠っていなかった。腰の石が、ときどき、紫に光った。そのたびに、執行官の糸が、細った。

「あの猟師くん、君の何?」

 わたしは、答えなかった。

「民間人を助けるために、自分から捕まる死の執政、なんて、報告書にどう書けばいいのか分かんないんだけど」

「……書かなければいい」

「それは無理」

 執行官は、笑った。

 それから、焚き火に、枝を一本くべた。

「俺にもさ、家族がいるんだよね。……弟とか、妹とか」

 火が、はぜた。

「だから、ちょっと分かる気がする。……分かんないけど」

 わたしは、執行官を見た。

 太く、荒く、熱い糸。一度、深い淵の底まで沈んで、そこから這い上がってきた色。その糸に、まがいものの石が、絡みついていた。

「……その石は、お前の糸を喰っている」

 もう一度、言った。

「ハハッ。知ってるって」

 執行官は、笑った。

 笑ったまま、石から、手を離した。

 しばらく、紫の光は、灯らなかった。

 

   ◇

 

 町の駅で、列車に乗せられた。

 晶鉱を運ぶための列車だった。荷台の後ろに、窓のない車両がひとつ、つながれていた。わたしは、そこに入れられた。

 車両が、動き出した。

 鉄の軋む音が、長く続いた。車両の床が、揺れた。枷が、手首で、小さく鳴った。

 壁の向こうで、雪原が、後ろへ流れていくのが、糸で分かった。

 あの糸は、もう、わたしの目の届くところにはなかった。

 届かないところへ、わたしは、運ばれていった。

 

 窓のない車両の中で、わたしは、あの家の棚の上の鉢のことを考えた。

 わたしがいなければ、春まで、もつ。

 わたしは、今、あの家から、どこよりも遠いところへ運ばれている。

 あの根は、春まで、もつだろう。

 あの人間も。

 わたしがいなければ、あの人間の糸は、細らない。髪一本の半分も。

 それは、良いことのはずだった。

 帳尻は、合っているはずだった。

 ——迎えに行く。

 白の中で聞いた声が、鉄の軋む音の下で、何度も戻ってきた。

 来るな。

 わたしは、もう一度、思った。

 そのあとに続くはずの言葉は、やはり、見つからなかった。

 

 どれくらい走ったのか、分からなかった。

 途中で、一度だけ、列車が止まった。

 小さな、廃れかけた駅だった。糸が、ほとんどなかった。人の住まなくなった家々の、空っぽの気配だけがあった。

 ——この駅の近くで、わたしは、女皇の国の者たちと戦った。

 糸のない駅舎の気配を、わたしは、覚えていた。空から落ちる前に、最後に見下ろした景色のひとつだった。

 列車は、また、動き出した。

 

 列車が止まったとき、壁の向こうに、糸が、あふれていた。

 数えきれないほどの、人の糸。細いもの、太いもの、急いでいるもの、立ち止まっているもの。何百、何千と重なって、ひとつの大きな織物のようになっていた。

 スネージナヤ・グラード。

 女皇の国の、都。

 車両の戸が開いた。

 目の前に、巨大な駅があった。

 天井の高い、鉄と石の建物だった。その中を、糸が、川のように流れていた。急ぐ糸、立ち止まる糸、何かを売り歩く、細く甲高い糸。

 わたしは、枷をかけられたまま、その中を歩かされた。

 改札の手前で、制服の者たちが、行き交う人々の荷を改めていた。執行官が、何かを見せた。制服の者たちは、背筋を伸ばして、道を空けた。

 人々は、わたしを見なかった。

 見ないように、していた。白い外套の兵と、赤い仮面の執行官に囲まれた者を、見てはいけないと知っている歩き方だった。

 

 昇降機に乗せられた。

 鉄の箱が、ゆっくりと、上へ昇った。

 箱の外に、街が見えた。灯りの数よりも、糸の数のほうが多かった。街の底の大きな熱のまわりに、糸が寄り集まっていた。冬から逃げてきた糸だった。

 炉だ、と思った。この街の人々を、冬から守っているもの。

 遠くに、氷でできたような宮殿が、そびえていた。

 女皇の住まう場所。

 わたしは、それを、しばらく見ていた。

 この街を、わたしは、知っていた。劇場のある街。わたしが、いくつもの命を終わらせた街。

 あのとき、わたしは、この街を、遠くから見ていた。見て、記録していた。

 今は、枷をかけられて、鉄の箱の中から、見ていた。

 昇降機が止まり、また歩かされた。

 街の傍らの、砦のような場所へ。門の前で、衛兵が、行き交う者の通行証を一枚ずつ改めていた。執行官の顔を見ると、衛兵は、何も改めずに門を開けた。

 門をくぐり、建物の中へ。さらに、地下へ。

 階段を、何度も下りた。

 壁に、石が、いくつも埋めこまれていた。執行官の腰の石と、同じ濁り方をした石だった。紫に、青に、脈を打つように光っていた。どの石も、何かを喰って、光っていた。

 

 最後の扉の前で、執行官が、足を止めた。

「ここで、しばらく待ってて」

 軽い声だった。

「上が、君をどうするか決めるまで。……たぶん、何日か、かかる」

 それから、執行官は、少しだけ首をかしげた。

「あの猟師くんさ。たぶん、来るよね」

「……来るな、と言った」

「言っても来るやつって、いるんだよね」

 執行官は、笑った。

「俺の妹とかさ。劇場で俺を待ってればいいのに、来ないからって街じゅう探し回って、グルポフの前で俺を捕まえたんだから」

 執行官は、そこで、少しだけ黙った。

「……おかげで、あいつは、あの日、劇場にいなかったんだけどね」

 軽い声だった。糸は、少しも軽くなかった。

 扉が開いた。

 石の部屋だった。窓はない。壁の石が、淡く光っていた。

 わたしは、中へ入った。

 扉が、閉まった。

 鍵の音が、した。

 わたしは、部屋の真ん中に、座った。

 眠る必要はない。

 食べる必要も、ない。

 ——必要ない、とわたしが言うたびに、あの人間は、でも、と言った。

 でも、を言う者は、ここには、いなかった。

 わたしは、目を閉じて、意識を広げた。

 届かなかった。

 壁の石が、わたしの糸を見る目を、少しずつ、喰っていた。

 

 何度か、扉が開いた。

 白い上着の者たちが入ってきて、わたしを見た。手に帳面を持っていた。わたしに何かを問い、わたしが答えないのを、帳面に書きつけていた。

 答えない、と書かれるのを、わたしは、黙って見ていた。

 わたしが長いあいだしてきたことを、今は、わたしがされていた。見て、記録する。記録されたものが、どこへ行くのかは、記録される側には、分からない。

 白い上着の者たちは、わたしの前に、水と、硬いパンを置いていった。

 わたしは、手をつけなかった。

 粥ではなかったからではない。

 ——そう、思おうとした。

 

 夜なのか、昼なのか、分からなくなった。

 わたしは、目を閉じて、帳面をひらいた。

 糸を見る目は、壁の石に喰われて、この部屋の外へ届かない。けれど、帳面は、わたしの中にあった。

 あの家の頁を、ひとつずつ、めくった。

 粥の頁。塩の多かった朝の頁。三角の団子の頁。軟膏の匂いの頁。

 お前の糸は、まだ長い。——そう書いた頁。

 あの頁の糸が、今、どこにあるのか、わたしには、見えなかった。

 見えないまま、わたしは、その頁を、ひらいておいた。




お読みいただきありがとうございました。
次回、IF5-2「皇都の粥」はトイヴォ視点でお送りします。
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