※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※公式の今後の展開とは関係のない、もしもの話です。
※今回はロノヴァ視点です。
「ご飯、足りてた?」
息を切らしたまま、トイヴォは言った。
わたしの右手を、両手で包んで。止めたばかりの、黒い手を。
こんなときに、この人間は。
わたしは、答えられなかった。
手の中の温度を、わたしは、初めて、分類しようとしなかった。
「ねえ、君」
頭の上から、声が降ってきた。
執行官だった。雷をまとった槍を、肩に担いだまま。
「そこ、どいてくれるかな。用があるのは、その人だけなんだ」
トイヴォは、振り向かなかった。
わたしの手を、離さなかった。
「聞こえてる?」
明るい声だった。明るいのは声だけで、糸は、少しも明るくなかった。
「君に用はないんだ。民間人を斬るのは、好きじゃないしね。……でも、邪魔をするなら、話は別かな」
「……この人を、どこへ連れていくんですか」
トイヴォが、執行官を見上げた。わたしの手は、離さないまま。
「皇都まで。生きててもいいし、死んでてもいい、ってさ」
「その人が何なのか、知ってて庇ってるの?」
「知ってます」
トイヴォの指に、力が入った。
「死の執政。劇場で、大勢を死なせた人。……それから、僕の家で、粥を食べてた人です」
執行官が、瞬きをした。
「……粥、ね」
小さな笑いだった。執行官の糸が、ほんの少しだけ、ほどけた。
わたしの帳面には、その二つを同じ行に書く欄がなかった。この人間は、それを、ひと息で言った。
五つの刃が、わずかずつ、間合いを詰めてきた。
トイヴォの手が、震えていた。
震えていて、ほどけなかった。
わたしは、意識を広げた。
西の空に、低い雲が張り出していた。雲の腹が、重く垂れている。湖の向こう岸の木立が、白く、ぼやけかけていた。
あれが来れば、何も見えなくなる。
この人間は、それを待っている。わたしには、分かった。トイヴォの目が、さっきから、何度か、西を見ていた。雪は昼に止む、とこの人間が言った日、雪は、昼に止んだ。
白が来れば、逃げられるかもしれない。
けれど、白は、まだ来ていなかった。
執行官も、一度だけ、西を見た。白が来る前に、片をつけるつもりなのだ。
執行官の糸が、揺れた。
迷いのない揺れ方だった。
「……ごめんね。最後にもう一回だけ言うよ」
槍の先が、持ち上がった。
わたしではなく、トイヴォの背中のほうへ。
「どいて」
白を待てば、この人間の背中に、雷が落ちる。
わたしの中に、それを止めるだけの力は、もうなかった。脇腹から、漏れ続けていた。六つの糸を終わらせるだけのものは、ない。——あったとしても、わたしは、それを振るわないと、さっき決めた。
残っているのは、言葉だけだった。
「……わたしが行く」
声が、出ていた。
執行官の槍が、止まった。
「この人間に、刃を向けるな」
トイヴォの手が、強く握られた。
「ロノヴァ——」
「黙っていろ」
わたしは、執行官を見上げた。
「わたしを、連れて帰れ。生きたまま。……その代わり、この人間には、指一本、触れるな。お前の兵も」
執行官は、少しのあいだ、わたしを見ていた。
それから、首をかしげた。
「それ、取引?」
「取引だ」
執行官の口の端が、少しだけ上がった。
「いいよ。俺、取引は守るほうなんだ」
槍が、下りた。
「全員、聞いたね。民間人には触らない。……その人だけ、連れて帰る」
トイヴォが、わたしの手を、引いた。
「だめだよ」
かすれた声だった。
「だめだ。行かないで。……君が行ったら、あの人たちは——」
「生死を問わず、だ」
わたしは、言った。
「生きて連れていかれるほうが、まだ、ましだ」
「そんなの——」
「トイヴォ」
名前を呼ぶと、トイヴォは、黙った。
わたしは、つかまれた手を、見下ろした。
温かかった。
この温度を、わたしは、ほどかなければならなかった。自分で。
指を、一本ずつ、開いた。
トイヴォの指は、なかなか、ほどけなかった。
最後の一本が、わたしの指から離れた。
わたしは、足もとの雪に目を落とした。岸で落とした包みが、半分埋もれていた。わたしが結び直した、固く、不器用な結び目。
「……それを、持っていろ」
あの朝、あの家の前で、わたしは、同じことを言った。こつん、と鳴る前に。
トイヴォは、包みを見た。
それから、わたしを見た。
拾わなかった。まだ。
雪が、横から吹きつけてきた。
白が来た。
湖の上を走ってきて、すべてを呑みこんだ。
「全員、動くな! 互いの声の届くところにいろ!」
執行官の声だった。明るさが、消えていた。
白の中で、誰かの手が、わたしの腕をつかんだ。冷たい手だった。兵の手だった。
手首に、冷たいものが巻きついた。
氷の枷だった。
わたしは、抗わなかった。
白の向こうで、わたしの名前を呼ぶ声がした。
何度も。
風に、ちぎられながら。
「……迎えに行く」
声が、白の中から、届いた。
「絶対に、迎えに行く」
わたしは、答えようとした。
「来るな」
言えた。
それから、もうひとつ、言おうとした。
「……でも」
口が、そこで、止まった。
でも、の先を、わたしは、持っていなかった。
あの朝、この人間が持っていなかったように。
でも、の先が、見つからないまま、白が、すべてを隔てた。
◇
白が去ったのは、夜半を過ぎてからだった。
わたしは、兵たちに両脇を支えられて、雪原を北へ歩かされていた。
意識の端に、少し太い、長い糸があった。
湖の岸に、残っていた。動かずに。
わたしが歩くたびに、その糸は、少しずつ、遠くなった。
歩みを止めると、兵のひとりが、黙って、わたしの枷を引いた。
わたしは、また、歩いた。
遠ざかる糸を、数えるのをやめようとして、やめられなかった。
あの家を出た日と、同じだった。
違うのは、今度は、自分で選んで離れたのではないことだった。
——いや。
選んだのだ。わたしが。取引だ、と言って。
選んで、それでも、離れたくなかった。
昼に、休んだ。
兵のひとりが、固いパンを割って、わたしの前に置いた。
「……必要ない」
「食べないの?」
執行官が、干し肉をかじりながら言った。
「連れて帰る前に死なれると、困るんだけど」
「死なない」
わたしは、パンを見なかった。
あの家で、わたしが必要ない、と言うたびに、でも、と返ってきた。でも、食べてるよね。でも、昨日の夜、スープ飲んだよ。
今は、返ってこなかった。
執行官は、ふうん、と言って、パンを自分の懐にしまった。
「じゃあ、お腹すいたら言って」
空腹というものは、わたしにはない。
あの家に来るまでは、そう思っていた。
「ねえ」
夜明け前、雪原の岩陰で、執行官が、焚き火の向こうから声をかけてきた。
兵たちは、交代で眠っていた。執行官は、眠っていなかった。腰の石が、ときどき、紫に光った。そのたびに、執行官の糸が、細った。
「あの猟師くん、君の何?」
わたしは、答えなかった。
「民間人を助けるために、自分から捕まる死の執政、なんて、報告書にどう書けばいいのか分かんないんだけど」
「……書かなければいい」
「それは無理」
執行官は、笑った。
それから、焚き火に、枝を一本くべた。
「俺にもさ、家族がいるんだよね。……弟とか、妹とか」
火が、はぜた。
「だから、ちょっと分かる気がする。……分かんないけど」
わたしは、執行官を見た。
太く、荒く、熱い糸。一度、深い淵の底まで沈んで、そこから這い上がってきた色。その糸に、まがいものの石が、絡みついていた。
「……その石は、お前の糸を喰っている」
もう一度、言った。
「ハハッ。知ってるって」
執行官は、笑った。
笑ったまま、石から、手を離した。
しばらく、紫の光は、灯らなかった。
◇
町の駅で、列車に乗せられた。
晶鉱を運ぶための列車だった。荷台の後ろに、窓のない車両がひとつ、つながれていた。わたしは、そこに入れられた。
車両が、動き出した。
鉄の軋む音が、長く続いた。車両の床が、揺れた。枷が、手首で、小さく鳴った。
壁の向こうで、雪原が、後ろへ流れていくのが、糸で分かった。
あの糸は、もう、わたしの目の届くところにはなかった。
届かないところへ、わたしは、運ばれていった。
窓のない車両の中で、わたしは、あの家の棚の上の鉢のことを考えた。
わたしがいなければ、春まで、もつ。
わたしは、今、あの家から、どこよりも遠いところへ運ばれている。
あの根は、春まで、もつだろう。
あの人間も。
わたしがいなければ、あの人間の糸は、細らない。髪一本の半分も。
それは、良いことのはずだった。
帳尻は、合っているはずだった。
——迎えに行く。
白の中で聞いた声が、鉄の軋む音の下で、何度も戻ってきた。
来るな。
わたしは、もう一度、思った。
そのあとに続くはずの言葉は、やはり、見つからなかった。
どれくらい走ったのか、分からなかった。
途中で、一度だけ、列車が止まった。
小さな、廃れかけた駅だった。糸が、ほとんどなかった。人の住まなくなった家々の、空っぽの気配だけがあった。
——この駅の近くで、わたしは、女皇の国の者たちと戦った。
糸のない駅舎の気配を、わたしは、覚えていた。空から落ちる前に、最後に見下ろした景色のひとつだった。
列車は、また、動き出した。
列車が止まったとき、壁の向こうに、糸が、あふれていた。
数えきれないほどの、人の糸。細いもの、太いもの、急いでいるもの、立ち止まっているもの。何百、何千と重なって、ひとつの大きな織物のようになっていた。
スネージナヤ・グラード。
女皇の国の、都。
車両の戸が開いた。
目の前に、巨大な駅があった。
天井の高い、鉄と石の建物だった。その中を、糸が、川のように流れていた。急ぐ糸、立ち止まる糸、何かを売り歩く、細く甲高い糸。
わたしは、枷をかけられたまま、その中を歩かされた。
改札の手前で、制服の者たちが、行き交う人々の荷を改めていた。執行官が、何かを見せた。制服の者たちは、背筋を伸ばして、道を空けた。
人々は、わたしを見なかった。
見ないように、していた。白い外套の兵と、赤い仮面の執行官に囲まれた者を、見てはいけないと知っている歩き方だった。
昇降機に乗せられた。
鉄の箱が、ゆっくりと、上へ昇った。
箱の外に、街が見えた。灯りの数よりも、糸の数のほうが多かった。街の底の大きな熱のまわりに、糸が寄り集まっていた。冬から逃げてきた糸だった。
炉だ、と思った。この街の人々を、冬から守っているもの。
遠くに、氷でできたような宮殿が、そびえていた。
女皇の住まう場所。
わたしは、それを、しばらく見ていた。
この街を、わたしは、知っていた。劇場のある街。わたしが、いくつもの命を終わらせた街。
あのとき、わたしは、この街を、遠くから見ていた。見て、記録していた。
今は、枷をかけられて、鉄の箱の中から、見ていた。
昇降機が止まり、また歩かされた。
街の傍らの、砦のような場所へ。門の前で、衛兵が、行き交う者の通行証を一枚ずつ改めていた。執行官の顔を見ると、衛兵は、何も改めずに門を開けた。
門をくぐり、建物の中へ。さらに、地下へ。
階段を、何度も下りた。
壁に、石が、いくつも埋めこまれていた。執行官の腰の石と、同じ濁り方をした石だった。紫に、青に、脈を打つように光っていた。どの石も、何かを喰って、光っていた。
最後の扉の前で、執行官が、足を止めた。
「ここで、しばらく待ってて」
軽い声だった。
「上が、君をどうするか決めるまで。……たぶん、何日か、かかる」
それから、執行官は、少しだけ首をかしげた。
「あの猟師くんさ。たぶん、来るよね」
「……来るな、と言った」
「言っても来るやつって、いるんだよね」
執行官は、笑った。
「俺の妹とかさ。劇場で俺を待ってればいいのに、来ないからって街じゅう探し回って、グルポフの前で俺を捕まえたんだから」
執行官は、そこで、少しだけ黙った。
「……おかげで、あいつは、あの日、劇場にいなかったんだけどね」
軽い声だった。糸は、少しも軽くなかった。
扉が開いた。
石の部屋だった。窓はない。壁の石が、淡く光っていた。
わたしは、中へ入った。
扉が、閉まった。
鍵の音が、した。
わたしは、部屋の真ん中に、座った。
眠る必要はない。
食べる必要も、ない。
——必要ない、とわたしが言うたびに、あの人間は、でも、と言った。
でも、を言う者は、ここには、いなかった。
わたしは、目を閉じて、意識を広げた。
届かなかった。
壁の石が、わたしの糸を見る目を、少しずつ、喰っていた。
何度か、扉が開いた。
白い上着の者たちが入ってきて、わたしを見た。手に帳面を持っていた。わたしに何かを問い、わたしが答えないのを、帳面に書きつけていた。
答えない、と書かれるのを、わたしは、黙って見ていた。
わたしが長いあいだしてきたことを、今は、わたしがされていた。見て、記録する。記録されたものが、どこへ行くのかは、記録される側には、分からない。
白い上着の者たちは、わたしの前に、水と、硬いパンを置いていった。
わたしは、手をつけなかった。
粥ではなかったからではない。
——そう、思おうとした。
夜なのか、昼なのか、分からなくなった。
わたしは、目を閉じて、帳面をひらいた。
糸を見る目は、壁の石に喰われて、この部屋の外へ届かない。けれど、帳面は、わたしの中にあった。
あの家の頁を、ひとつずつ、めくった。
粥の頁。塩の多かった朝の頁。三角の団子の頁。軟膏の匂いの頁。
お前の糸は、まだ長い。——そう書いた頁。
あの頁の糸が、今、どこにあるのか、わたしには、見えなかった。
見えないまま、わたしは、その頁を、ひらいておいた。
お読みいただきありがとうございました。
次回、IF5-2「皇都の粥」はトイヴォ視点でお送りします。