※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※公式の今後の展開とは関係のない、もしもの話です。
※今回はトイヴォ視点です。
白が去ったとき、岸には、僕しかいなかった。
足跡は、なかった。白が、何もかも均していた。
黒い線も、なかった。湖のまわりには、あの人が枯らすものが、何もない。
僕は、足もとの雪を掘った。
麻の包みが、出てきた。固く、不器用に結び直された結び目。
それを、持っていろ。——白が来る前に、あの人は、そう言った。
僕は、包みを拾った。
胸に抱えた。
中で、小さく硬いものが、触れ合った。
こつん、と。
包みを抱えて、岸から北へ歩いた。半日ほど行ったところで、雪の上に、黒い枝先がひとつ、突き出ているのを見つけた。それから、もうひとつ。細く、点々と。北へ。
生死を問わず、連れて帰れ。
あの人たちは、そう命じられていた。
どこへ連れて帰るのかは、分かっていた。女皇様の国の、いちばん上の人たちがいるところ。市場の噂でしか聞いたことのない、北の都。
あの人は、生きたまま、連れていかれた。
生きたまま、と自分で言って。取引だ、と言って。僕の背中に、槍が向いたから。
来るな、とあの人は言った。
それから、でも、と言った。
でも、の先は、来なかった。
あの朝の僕と、同じだった。
だから、僕には、分かった。でも、の先に、何があったのか。あの人にも、まだ名前のつけられない何か。
それを、聞きに行かなければならなかった。
◇
町に着いたのは、三日目の昼だった。
南門に、チモフェイが立っていた。
僕を見て、チモフェイは、しばらく何も言わなかった。
それから、槍を壁に立てかけて、門の外まで出てきた。
「……見た」
低い声だった。
「ゆうべ遅く、執行官さまの隊が、この門を通った。白い外套の兵と、真ん中に、枷をかけられた白い髪の女。……晶鉱の列車で、北へ行った」
「皇都、ですか」
「スネージナヤ・グラードだ」
チモフェイは、僕の顔を見た。
長いあいだ。
「行くのか」
「はい」
「止めても」
「はい」
チモフェイは、ため息をついた。白い息が、ゆっくりと空にほどけた。
「……あんたは、本当に、言い出したら聞かないな」
それから、門の詰め所のほうを、顎で示した。
「今夜、晶鉱の列車がもう一本、北へ出る。荷運びの手が足りないって話だ。俺が、口をきいてやる。……皇都に着いたら、ゾルヌィ区へ行け。安い宿がある。隙間風はひどいし、四つ足の客も出るがな。狩人の交易所もある。毛皮なら、そこで売れる」
僕は、頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「礼はいい」
チモフェイは、槍を取った。
「お気をつけて、は、俺が言う番だな。……気をつけて行けよ、トイヴォ」
◇
晶鉱の列車は、夜の雪原を、北へ走った。
僕は、荷台の端の、袋と袋のあいだに座っていた。晶鉱を詰めた麻袋は、ほのかに温かかった。この国の人たちが、冬を越すための温かさだった。
揺れのたびに、背中の包みの中で、小さく硬いものが触れ合った。
夜明け前、列車が、小さな駅で止まった。
廃れかけた駅だった。ホームの向こうの家々は、屋根が落ちて、窓が暗かった。人の気配が、なかった。
「ここで、あの戦いがあったんだとよ」
荷台の反対側で、一緒に乗っていた荷運びの男が言った。
「ファデュイのお偉方が、何か、とんでもないのと戦ったって。……空が、古い血みたいな色になったとか、黒い羽根が降ったとか。俺は見ちゃいねえけどな」
僕は、何も言わなかった。
ホームの端の雪の上に、黒いものが、ひとつ、落ちている気がした。
羽根のような。
列車が動き出したとき、それは、もう見えなかった。
昼すぎ、列車が、止まった。
荷台から降りて、僕は、動けなくなった。
駅だった。
けれど、僕の知っている駅ではなかった。
鉄と石でできた、天井の高い建物。ホームが、いくつも、いくつも並んでいた。蒸気が、白く吹き上がって、天井の近くで、雲のように溜まっていた。制服の人たちが行き交い、新聞を売る子どもが、甲高い声で何か叫んでいた。
僕の家が、百軒入っても、まだ余る。
改札の手前で、制服の人に、荷を改められた。背負い袋。毛皮の束。麻の包み。
制服の人は、結び目の上から、包みを軽く押した。こつん、と鳴った。
「鍋と、瓶か」
「……はい」
「通れ」
昇降機に乗った。
鉄の箱が、ゆっくりと、上へ昇った。
箱の外に、街が見えた。
吹雪の向こうに、灯りが、無数に並んでいた。
建物が、建物の上に、建物のように重なっていた。空の半分を、屋根と煙突が埋めていた。街の底のほうから、低い唸りのようなものが、ずっと聞こえていた。何か大きなものが、熱を持って、脈打っている音だった。
「クルースニクの炉だよ」
隣に立っていた、年寄りの女の人が、僕の顔を見て言った。
「あんた、田舎から出てきたのかい。……あれがなきゃ、この街は、一晩で凍っちまう」
遠くに、氷でできたような宮殿が、そびえていた。
「あそこには、女皇陛下がお住まいさ」
女の人は、そう言って、少しだけ頭を下げた。
僕も、つられて、頭を下げた。
あの人は、あの宮殿の中にいるのだろうか。
それとも、もっと別の、暗いところに。
◇
ゾルヌィ区は、灰色の街だった。
工場の煙突と、背の低い住まいが、ぎっしりと並んでいた。道の雪は、足跡で黒く踏み固められていた。
チモフェイの言ったとおりの宿が、あった。
部屋は狭くて、窓の隙間から、細い風が入ってきた。暖炉に、晶鉱は入っていなかった。夜になると、壁の中で、小さな爪の音がした。
壁の中の爪の音。
あの家でも、聞いたことがあった。あの人が来てから、ある夜、それが止まった。
ここの爪の音は、止まらなかった。
あの人は、ここには、いない。
狩人の交易所で、毛皮を売った。
帳場の男は、僕の毛皮を裏返し、毛並みを撫でて、少しだけ眉を上げた。
「南の辺境のもんか。いい処理をしてる」
思っていたよりも、いい値がついた。
おじいちゃんに教わった、処理の仕方だった。
そのお金で、宿の暖炉に入れる薪を買った。それから、燕麦をひと袋と、塩を、少し。
宿の主人は、無口な男だった。僕が竈を貸してほしいと言うと、黙って裏口を指さした。
裏庭に、古い竈があった。煤で黒くなった煉瓦が、半分崩れかけていた。誰かが、ずっと前に、ここで煮炊きをしていたのだろう。
鍋を、火にかけた。
燕麦を、量った。
手のひらに、ふたり分が載っていた。
僕は、それを、じっと見た。
今度は、間違いではなかった。
その夜、宿の狭い部屋で、包みの結び目を、ほどいた。
固く、不器用な結び目だった。ほどくのに、時間がかかった。
中から、小鍋が出てきた。黒パンが、ひとつ。干し肉の包み。軟膏の、小さな缶。
缶の蓋を開けると、中の軟膏に、指の跡が残っていた。深く、えぐるように。
塗ろうとして、うまくいかなかった指の跡だった。
腕には、自分で塗ってね。——僕は、そう言って、この缶を包みに入れた。
あの人は、塗ろうとしたのだ。雪原で、ひとりで。
それから、底に、小さな瓶。
蜂蜜だった。中の金色は、指一本ぶんのまま、減っていなかった。
あの人は、これを、開けなかった。
僕は、瓶を、しばらく手のひらに載せていた。
壁の中で、小さな爪の音がしていた。
窓の隙間から、細い風が入ってきた。
瓶を、包みに戻した。結び目は、あの人の結び方をまねて、結んだ。うまく、まねられなかった。
◇
次の日、劇場を探した。
あの人が、いくつもの命を終わらせた場所。
コロレフスキー劇場は、大通りを抜けた先にあった。大きな建物だった。入り口には、制服の人たちが立っていて、入る人の荷を、一人ずつ、厳しく改めていた。
僕は、中には入らなかった。
入るお金もなかったし、入って何をすればいいのかも、分からなかった。
裏手に回ると、年寄りの男の人が、ひとりで、雪かきをしていた。
「……劇場の、人ですか」
男の人は、手を止めて、僕を見た。
「裏方さ。三十年、ここで雪をかいてる」
「あの……」
聞いていいのか、分からなかった。
聞かない人間だった。痛いところは、とくに。
でも、ここまで来たのは、聞くためだった。
「前に、ここで、たくさんの人が、死んだって」
男の人の目が、少しだけ細くなった。
それから、雪かきの柄に、両手を載せた。
「……倒れた、って言う奴もいる。死んだ、って言う奴もいる」
低い声だった。
「わしは、その日、ここにいなかった。だが、衣装係の娘が、あとで話してくれた。——あの日、客も、役者も、みんな、一度死んだんだと。夢の中で、何日も、劇場から出られなかったんだと」
僕は、息を止めた。
「それで、目が覚めたら、ほんの数分しか経ってなかった。みんな、ちゃんと、息をしてた。……娘は、遠い夢みたいに、覚えてるって言ってた。自分が、どうなったのかも」
男の人は、雪かきを、また動かしはじめた。
「生き返ったんだから、めでたい話さ。……そう言う奴もいる」
雪を、脇へ放った。
「だが、あの娘は、ときどき、夜中に目を覚ます。一度死んだ夢を見て」
帰り道、僕は、ずっと、そのことを考えていた。
一度死んで、戻ってきた。
あの人は、劇場で、いくつもの命を終わらせた、と言った。職務として。何も感じていなかった、と。
終わらせた命は、戻ってきた。
それでも、衣装係の娘は、夜中に目を覚ます。
戻ってきたからといって、終わらせたことが、なかったことにはならない。
僕は、それを、あの人に言うつもりはなかった。
あの人は、たぶん、知っている。僕より、ずっと。
この大地で終わった命は、すべて、わたしのもとを通る。——あの人は、そう言った。
戻ってきた命も、きっと、あの人のもとを通って、それから、戻っていったのだ。
あの人は、行きも、帰りも、見ていたのかもしれない。
何も感じていなかった、と言いながら。
◇
砦は、街の傍らにあった。
グルポフ、と宿の主人は、ひとことだけ言った。ファデュイの、いちばん大きな建物が集まっているところだと、あとで市場で聞いた。橋の向こうに、高い塀と、門が見えた。
門の前には、衛兵が立っていた。
「通行証は」
「……ありません」
「予約は」
「ありません」
「なら、帰れ」
衛兵は、それ以上、僕を見なかった。
僕は、門の前の、橋のたもとに立っていた。
日が暮れるまで。
次の朝、僕は、また来た。
宿の裏庭の竈で炊いた粥を、包みの小鍋に移して、毛皮で包んで。
塩は、ひとつまみと、半分。
蜂蜜は、入れなかった。包みの底の瓶は、指一本ぶんのまま、蓋が閉まっていた。あの人が、開けずに取っておいたものだ。僕が、先に開けていいものではなかった。
「通行証は」
「ありません。……でも、粥を、届けに来ました」
衛兵は、呆れた顔をした。
「帰れ」
僕は、帰らなかった。
門の脇の、雪の上に立っていた。鍋を抱えて。
粥が、冷めていくのが、毛皮ごしに分かった。
橋の上を、人が行き交っていた。書類を抱えた人。荷車を引く人。制服の人。誰も、門の脇に立つ猟師を見なかった。
僕は、門の向こうの、高い塀を見ていた。
あの塀の向こうの、どこかに、あの人がいる。
来るな、とあの人は言った。
それから、でも、と言った。
でも、の先を、聞きに来た。
だから、帰らなかった。
昼を過ぎたころ、橋の向こうから、足音がした。
軽い足音だった。
「……あれ?」
明るい声がした。
顔を上げると、赤い仮面を頭の横にかけた男が、立っていた。赤茶の髪。書類の束を、脇に抱えていた。
湖の岸で、あの人に槍を向けた人だった。
取引だ、とあの人が言ったとき、いいよ、と言った人だった。
「君、あの時の猟師くんだよね」
男は、首をかしげた。
「何してるの、こんなところで」
僕は、鍋を、少しだけ持ち上げた。
「粥を、届けに来ました」
男は、瞬きをした。
それから、声を出して笑った。
「ハハッ。……粥、ね」
湖の岸で、僕が、僕の家で粥を食べてた人です、と言ったときと、同じ笑い方だった。馬鹿にした笑い方ではなかった。
男は、笑うのをやめて、門のほうを見た。
「あの人さ。何も食べないんだよね。水も、飲まない。何を聞いても、答えない」
男は、僕の抱えた鍋を見た。
「……粥なら、食べるかもね」
男は、衛兵のほうへ歩いていって、何か言った。衛兵が、背筋を伸ばした。
戻ってきて、男は言った。
「明日の朝、ここに来て。一回だけ、会わせてあげる」
「……いいんですか」
「俺、取引は守るほうなんだ。あの人とは、君には指一本触れないって約束したけど、会わせないとは約束してないしね」
男は、書類の束を抱え直した。
「それに、ちょっと見てみたいんだよね。死の執政が、粥を食べるところ」
男は、ひらひらと手を振って、門の中へ消えていった。
僕は、冷めた鍋を抱えたまま、しばらく、そこに立っていた。
冷めた粥を、橋のたもとで、ひと匙すくった。膜が張っていた。塩は、ひとつまみと、半分。
窓のそばの、誰も座っていない椅子の前で冷めていった器を、思い出した。
今日のは、違った。届ける先が、あった。まだ、届いていないだけだった。
半分だけ食べて、蓋をした。
明日の朝は、温かいのを持ってくる。
明日の朝。
あの家で、毎朝、言っていた言葉を思い出した。
明日の朝、言おう。あの人の顔を見て。
答えてくれなくても、いいから。
お読みいただきありがとうございました。
次回、IF5-3「一匙」でIF-5「捕まるルート」は完結です。ロノヴァとトイヴォ、二人の視点でお送りします。