死の執政に、粥を一匙   作:いくと

26 / 29
※本編第10話「死が知った温度」の最後から分岐するIFルートの3話目(IF-5の最終話)です。
※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※公式の今後の展開とは関係のない、もしもの話です。
※今回はロノヴァ視点とトイヴォ視点でお送りします。


IF5-3 一匙

 前の晩、扉が、一度だけ開いた。

 赤い仮面の執行官が、戸口にもたれていた。

「明日の朝、お客さんが来るよ」

 軽い声だった。

「グルポフの前で、鍋抱えて、朝から半日、立ってたんだってさ。俺が通りかかるまで」

 わたしは、しばらく、答えなかった。

「……来るな、と言った」

「言っても来るやつって、いるって言ったでしょ」

 執行官は、笑った。

「粥なら、食べるかもね、って俺が言ったんだ。……外れたら、恥ずかしいから、ちゃんと食べてよね」

 扉が、閉まった。

 わたしは、その夜、一度も、目を閉じなかった。

 眠る必要はない。

 必要がないことを、今夜ほど、ありがたいと思ったことはなかった。

 

 扉の向こうで、足音がした。

 ふたりぶんだった。

 ひとつは、軽い足音。もうひとつは、雪原を歩くのに慣れた、重心の低い足音。

 壁の石が、わたしの糸を見る目を喰っていた。だから、糸では分からなかった。

 足音だけで、分かった。

 あの家で、毎朝、暖炉の向こうから聞こえていた足音だった。

 鍵の音がした。

 扉が、開いた。

 

 赤い仮面の執行官が、戸口にもたれていた。

 その後ろに、トイヴォが立っていた。

 毛皮で包んだ小鍋を、両腕に抱えて。

 頬に、白くなりかけた、細い線の痕。

 わたしを見て、トイヴォは、何か言いかけた。

 唇が、動いて、止まった。

 それから、もう一度、動いた。

「……おはよう、ロノヴァ」

 

 わたしは、答えなかった。

 答えられなかった。

 答えれば、明日の朝も、ここで、この人間を待つことになる。明日の朝があるのかどうか、わたしには、分からなかった。

 来るな、と言った。

 来た。

 この人間は、言っても来るのだ。あの執行官の妹と、同じように。

「一回だけだからね」

 執行官が、言った。

「俺は、ここで見てる。……変なことしたら、面会はおしまい。そうなったら、俺も庇えないからね」

 トイヴォは、うなずいた。

 部屋の中に、入ってきた。壁の石が、トイヴォの糸に触れて、淡く光った。トイヴォは、それに気づかないふりをした。

 わたしの前に、膝をついた。

 鍋の毛皮を、ほどいた。

 蓋を開けると、湯気が、細く立った。

 燕麦の匂いがした。石の部屋に、初めて、湯気の匂いが立った。

 あの家の、朝の匂いだった。

 

「冷めないうちに」

 トイヴォが言った。

「……熱かったら、言ってね」

 木の匙で、粥をすくった。

 息を、吹きかけた。

 それから、懐から、小さな瓶を出した。

 蜂蜜の瓶だった。

 わたしが、いちばん最後に、と決めて、開けなかった瓶。

「……それは」

「開けてなかったね。指一本ぶん、そのまま」

 トイヴォは、蓋に指をかけたまま、わたしを見た。

「……いちばん最後に、と決めていた」

「最後って、いつ?」

「決めていなかった」

「じゃあ、僕が決める。今日にする」

 蓋が回った。指一本ぶんの金色が、ひとすじ、匙の上の粥に落ちた。

 トイヴォは、瓶を、空になった形のまま、膝の上に置いた。

「……なぜ、今日だ」

「今日を最後にしないために、今日にするんだよ」

 トイヴォは、少しだけ笑った。うまく、笑えていなかった。

「なくなったら、また買えばいい。……町の乾物屋でも、ここの市場でも。何回でも」

 

 匙が、わたしの唇に、当てられた。

 最初の朝と、同じだった。あの朝、わたしは、自分でできる、と言った。言ってから、口を開けた。

 あの朝、わたしは、この匙を拒まなかった。拒む理由を、探しても、見つけられなかった。

 今も、見つからなかった。

 口を、開けた。

 粥が、舌の上に載った。

 甘かった。

 燕麦の、やわらかい甘さと、蜂蜜の、澄んだ甘さ。塩は、待て、と言わなくていい量だった。

「……甘い」

 わたしは、言った。

 最初の朝に、言ったのと、同じ言葉だった。

 トイヴォの目が、少しだけ、濡れた。

 もうひと匙。

 もうひと匙。

 わたしは、黙って、食べた。

 匙を運ぶトイヴォの手を、見ていた。

 指の関節が、赤く割れていた。手のひらに、見たことのない擦り傷があった。

「……その手は」

「晶鉱の袋。列車で、運んだんだ。荷運びとして乗せてもらって」

 トイヴォは、匙を止めずに言った。

「南門の兵士が、口をきいてくれた。……チモフェイっていうんだ、あの人」

 わたしは、トイヴォの割れた指を見ていた。

 この手が、晶鉱の袋を担いで、雪原を、北へ。

 来るな、とわたしは言った。

 この手は、それを、聞かなかった。

 戸口で、執行官が、腕を組んだまま、わたしたちを見ていた。何も言わなかった。

 ただ、腰の石から、手を離していた。

 小鍋の三分の一ほどが減ったころ、執行官が、ぽつりと言った。

「……本当に、食べてる」

 それから、頭をかいた。

「上に、どう報告しよう。死の執政、猟師の粥を完食、とか? 俺、報告書書くの、苦手なんだよね」

 トイヴォが、少しだけ笑った。

 わたしは、笑わなかった。

 ただ、次のひと匙のために、口を開けた。

 

   ◇

 

 小鍋の半分が減ったところで、トイヴォが、匙を止めた。

「劇場に、行ったんだ」

 わたしは、顔を上げた。

「中には、入らなかった。裏で、雪かきをしてるおじいさんに、話を聞いた」

 トイヴォは、匙を見下ろしていた。

「あの日、みんな、一度死んだって。夢の中で、何日も。……それで、目が覚めたら、ほんの数分しか経ってなかったって。みんな、生きてたって」

 わたしは、黙っていた。

「知ってた?」

「……知っている」

 わたしは、言った。

 隠す理由は、もう、どこにもなかった。

「終わらせた命は、戻るように、取り決めてあった。天理の目が離れているあいだに、死なせて、戻す。……そういう取り決めだった」

 トイヴォは、黙って聞いていた。

「だが、終わらせたのは、わたしだ」

 わたしの声は、平らだった。

 帳面を読み上げるように。

 けれど、それは、帳面には書いていないことだった。

「戻されたからといって、終わらせたことが、帳面から消えるわけではない。……終わらせた、と書いた頁は、今も、そのままだ」

 トイヴォは、長いあいだ、黙っていた。

 それから、言った。

「衣装係の娘さんが、今でも、夜中に目を覚ますんだって。一度死んだ夢を見て」

 わたしは、目を閉じた。

「……その頁も、書いておく」

「うん」

 トイヴォは、うなずいた。

 それから、また、匙を持ち上げた。

「でも、今は、食べて」

 でも。

 この人間の、でも。

 わたしは、口を開けた。

 

 最後のひと匙が、終わった。

 小鍋の底が、見えた。

 トイヴォは、小鍋を、毛皮で包み直した。

 それから、わたしの手を、見た。氷の枷が、手首に巻きついたままの、黒い手を。

「……軟膏、持ってきたんだ」

 トイヴォは、懐から、小さな缶を出した。

 わたしの包みに入れてあった缶だった。蓋を開けると、中の軟膏に、指の跡が残っていた。雪原で、わたしが、塗ろうとして、うまくいかなかった跡。

「これ、見たよ」

 トイヴォは、缶の中の、深くえぐれた跡を見ていた。

「……塗ろうとしたんだね」

「うまく、できなかった」

「うん。見れば、分かる」

 トイヴォは、わたしの腕を取った。

 枷のきわを避けて、肘の上から、指先まで。黒い肌の、赤い模様を、避けもせず、一つずつ。

「……痛く、ならないように」

 わたしが、先に言った。

 トイヴォの指が、止まった。

 それから、また、動いた。

 小指の先まで。

 

   ◇

 

「はい、そこまで」

 戸口で、執行官が言った。

 トイヴォは、缶の蓋を閉めた。

 立ち上がって、執行官のほうを向いた。

「……あの人は、これから、どうなるんですか」

「明日、上が決める」

 執行官は、軽い声で言った。

 軽いのは、声だけだった。

「生かすのか、終わらせるのか、どこかへ移すのか。……俺にも、分かんない。決めるのは、俺よりずっと上の人たちだから」

 トイヴォは、黙っていた。

 僕は、と言いかけて、やめたのが、分かった。

 何もできないことを、この人間は、知っていた。剣も持っていない。戦ったことも、一度もない。

 この国のいちばん上の人たちの決めることに、猟師がひとり、何かを言えるはずがなかった。

 トイヴォは、わたしのほうを、振り向いた。

「明日の朝も、来るよ」

 それしか、言わなかった。

「粥を、持って」

「……来るな」

 わたしは、言った。

 トイヴォは、少しだけ、笑った。

「来るよ」

 それから、戸口で、もう一度、振り返った。

「……でも、の先、まだ、聞いてないから」

 戸口で、執行官が、頭をかいた。

「……一回だけ、って言ったんだけどな」

 トイヴォは、答えなかった。小鍋を抱え直して、執行官を見ていた。

 執行官は、しばらく、その割れた指を見ていた。

「明日のことは、明日の俺に言って。……今の俺は、守れない約束は、しないから」

 それから、わたしのほうへ、首をかしげた。

「君も。明日の朝まで、ちゃんと待っててよ。報告書、書き直すの、面倒だからさ」

 軽い声だった。糸は、今度は、声と同じくらい、軽かった。

 

 扉が、閉まった。

 鍵の音がした。

 足音が、ふたつ、遠ざかっていった。

 軽い足音と、雪原を歩くのに慣れた足音。

 わたしは、部屋の真ん中に、座っていた。

 生かすのか、終わらせるのか。

 わたしは、長いあいだ、それを決める側にいた。帳面をひらいて、定めのとおりに。

 決められる側の夜が、こういう形をしているのだと、わたしは、初めて知った。

 壁の石の光と、閉まった扉と、遠ざかる足音の形を。

 舌の上に、まだ、甘さが残っていた。

 腕に、軟膏の匂いが残っていた。

 わたしは、目を閉じて、帳面をひらいた。

 あの家の頁を、ひとつずつ、めくった。粥の頁。塩の頁。団子の頁。軟膏の頁。

 最後の頁は、白いままだった。

 来るな。——でも。

 でも、の先を、わたしは、その頁に書こうとした。

 書けなかった。

 書けないのではなかった。

 書いてしまえば、明日、それが、口から出てしまう。

 出てしまえば、もう、取り消せない。

 わたしは、白い頁を、ひらいたままにしておいた。

 

   ◇

 

 宿に戻って、僕は、暖炉の前に座っていた。

 晶鉱の入っていない暖炉に、昼に買った薪を、一本ずつくべた。

 明日、上が決める。

 あの人の糸の長さを、僕の知らない誰かが、決める。

 僕にできることを、数えてみた。

 粥を炊ける。薪を割れる。罠を仕掛けられる。毛皮を剥げる。軟膏を塗れる。天気を読める。

 この街の、いちばん上の人たちの前で、役に立つものは、ひとつもなかった。

 それでも、数えるのを、やめなかった。

 数え終えて、残ったのは、ひとつだけだった。

 明日の朝も、粥を持っていく。

 それしか、なかった。

 それだけは、誰にも、止められなかった。

 宿の主人に、あと何日か泊まりたい、と言った。主人は、黙って、うなずいた。

 壁の中で、小さな爪の音がしていた。

 

 夜明け前に、目が覚めた。

 宿の窓の隙間から、細い風が入っていた。

 僕は、毛皮から抜け出して、裏庭へ出た。

 竈に、火を入れた。煉瓦の、崩れかけた竈。

 鍋に、水を張った。

 燕麦を、量った。

 手のひらに、ふたり分が載っていた。

 鍋に入れた。

 塩を、指でつまんだ。ひとつまみと、半分。

 あの瓶の蜂蜜は、もう、なかった。

 昨日の夕方、ゾルヌィ区の市場で、小さな瓶をひとつ、買った。町の乾物屋のものより、少し高かった。

 その瓶を、懐に入れた。

 なくなったら、また買えばいい。昨日、あの人に、そう言った。言ったとおりに、した。

 粥が、煮えた。

 鍋を毛皮で包んで、抱えて、宿を出た。宿の主人が、戸口で、黙って片手を上げた。

 

 街は、まだ暗かった。

 吹雪は、止んでいた。雪を踏み固めた道の上に、街灯の明かりが、ぽつぽつと落ちていた。街の底のほうで、クルースニクの炉が、低く唸っていた。

 工場へ向かう人たちが、背を丸めて、同じ方向へ歩いていた。誰も、鍋を抱えた猟師を見なかった。

 宮殿は、砦のすぐ向こうに、暗い空を背にして、白く浮かんでいた。

 あそこで、今日、何かが決まるのかもしれない。

 僕は、宮殿を見ないようにして、砦のほうへ歩いた。

 橋を渡った。

 砦の門の前に、衛兵が立っていた。

 昨日の衛兵ではなかった。

 僕が近づくと、衛兵は、僕の抱えた鍋を見た。

 それから、門の内側を、振り返った。

 門の向こうから、誰かが、歩いてくるのが見えた。

 まだ暗くて、顔は、見えなかった。

 足音が、した。

 僕は、鍋を抱えたまま、立っていた。

 湯気が、毛皮の隙間から、細く、まっすぐに立っていた。

 門が、ゆっくりと、開いた。

 

   ◇

 

 石の部屋で、わたしは、扉のほうを向いて、座っていた。

 夜明けなのかどうか、わたしには、分からなかった。

 壁の石が、淡く光っていた。

 廊下の向こうで、足音がした。

 ひとつなのか、ふたつなのか。

 軽いのか、重いのか。

 上の決めたことを告げに来る者の足音なのか。粥を抱えた、雪原を歩くのに慣れた足音なのか。

 わたしは、聞き分けようとして、やめた。

 足音が、近づいてきた。

 わたしは、白いままの頁を、胸の中で、ひらいた。

 いちばん最初の頁を、思い出した。

 おはよう。気がついたんだね。

 あの人間が、わたしに初めてかけた言葉だった。わたしの目を見て、わたしの髪を見て、わたしの腕を見て、それでも、そう言った。

 わたしは、あのとき、答えなかった。

 足音が、扉の前で、止まった。

 わたしは、扉に向かって、言った。

「……おはよう」

 鍵の、音がした。




お読みいただきありがとうございました。
これで、IF-5「捕まるルート」は完結です。結末は、読んでくださった方に委ねます。
IFルートは、これで全5本がそろいました。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。