※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※公式の今後の展開とは関係のない、もしもの話です。
※今回はロノヴァ視点とトイヴォ視点でお送りします。
前の晩、扉が、一度だけ開いた。
赤い仮面の執行官が、戸口にもたれていた。
「明日の朝、お客さんが来るよ」
軽い声だった。
「グルポフの前で、鍋抱えて、朝から半日、立ってたんだってさ。俺が通りかかるまで」
わたしは、しばらく、答えなかった。
「……来るな、と言った」
「言っても来るやつって、いるって言ったでしょ」
執行官は、笑った。
「粥なら、食べるかもね、って俺が言ったんだ。……外れたら、恥ずかしいから、ちゃんと食べてよね」
扉が、閉まった。
わたしは、その夜、一度も、目を閉じなかった。
眠る必要はない。
必要がないことを、今夜ほど、ありがたいと思ったことはなかった。
扉の向こうで、足音がした。
ふたりぶんだった。
ひとつは、軽い足音。もうひとつは、雪原を歩くのに慣れた、重心の低い足音。
壁の石が、わたしの糸を見る目を喰っていた。だから、糸では分からなかった。
足音だけで、分かった。
あの家で、毎朝、暖炉の向こうから聞こえていた足音だった。
鍵の音がした。
扉が、開いた。
赤い仮面の執行官が、戸口にもたれていた。
その後ろに、トイヴォが立っていた。
毛皮で包んだ小鍋を、両腕に抱えて。
頬に、白くなりかけた、細い線の痕。
わたしを見て、トイヴォは、何か言いかけた。
唇が、動いて、止まった。
それから、もう一度、動いた。
「……おはよう、ロノヴァ」
わたしは、答えなかった。
答えられなかった。
答えれば、明日の朝も、ここで、この人間を待つことになる。明日の朝があるのかどうか、わたしには、分からなかった。
来るな、と言った。
来た。
この人間は、言っても来るのだ。あの執行官の妹と、同じように。
「一回だけだからね」
執行官が、言った。
「俺は、ここで見てる。……変なことしたら、面会はおしまい。そうなったら、俺も庇えないからね」
トイヴォは、うなずいた。
部屋の中に、入ってきた。壁の石が、トイヴォの糸に触れて、淡く光った。トイヴォは、それに気づかないふりをした。
わたしの前に、膝をついた。
鍋の毛皮を、ほどいた。
蓋を開けると、湯気が、細く立った。
燕麦の匂いがした。石の部屋に、初めて、湯気の匂いが立った。
あの家の、朝の匂いだった。
「冷めないうちに」
トイヴォが言った。
「……熱かったら、言ってね」
木の匙で、粥をすくった。
息を、吹きかけた。
それから、懐から、小さな瓶を出した。
蜂蜜の瓶だった。
わたしが、いちばん最後に、と決めて、開けなかった瓶。
「……それは」
「開けてなかったね。指一本ぶん、そのまま」
トイヴォは、蓋に指をかけたまま、わたしを見た。
「……いちばん最後に、と決めていた」
「最後って、いつ?」
「決めていなかった」
「じゃあ、僕が決める。今日にする」
蓋が回った。指一本ぶんの金色が、ひとすじ、匙の上の粥に落ちた。
トイヴォは、瓶を、空になった形のまま、膝の上に置いた。
「……なぜ、今日だ」
「今日を最後にしないために、今日にするんだよ」
トイヴォは、少しだけ笑った。うまく、笑えていなかった。
「なくなったら、また買えばいい。……町の乾物屋でも、ここの市場でも。何回でも」
匙が、わたしの唇に、当てられた。
最初の朝と、同じだった。あの朝、わたしは、自分でできる、と言った。言ってから、口を開けた。
あの朝、わたしは、この匙を拒まなかった。拒む理由を、探しても、見つけられなかった。
今も、見つからなかった。
口を、開けた。
粥が、舌の上に載った。
甘かった。
燕麦の、やわらかい甘さと、蜂蜜の、澄んだ甘さ。塩は、待て、と言わなくていい量だった。
「……甘い」
わたしは、言った。
最初の朝に、言ったのと、同じ言葉だった。
トイヴォの目が、少しだけ、濡れた。
もうひと匙。
もうひと匙。
わたしは、黙って、食べた。
匙を運ぶトイヴォの手を、見ていた。
指の関節が、赤く割れていた。手のひらに、見たことのない擦り傷があった。
「……その手は」
「晶鉱の袋。列車で、運んだんだ。荷運びとして乗せてもらって」
トイヴォは、匙を止めずに言った。
「南門の兵士が、口をきいてくれた。……チモフェイっていうんだ、あの人」
わたしは、トイヴォの割れた指を見ていた。
この手が、晶鉱の袋を担いで、雪原を、北へ。
来るな、とわたしは言った。
この手は、それを、聞かなかった。
戸口で、執行官が、腕を組んだまま、わたしたちを見ていた。何も言わなかった。
ただ、腰の石から、手を離していた。
小鍋の三分の一ほどが減ったころ、執行官が、ぽつりと言った。
「……本当に、食べてる」
それから、頭をかいた。
「上に、どう報告しよう。死の執政、猟師の粥を完食、とか? 俺、報告書書くの、苦手なんだよね」
トイヴォが、少しだけ笑った。
わたしは、笑わなかった。
ただ、次のひと匙のために、口を開けた。
◇
小鍋の半分が減ったところで、トイヴォが、匙を止めた。
「劇場に、行ったんだ」
わたしは、顔を上げた。
「中には、入らなかった。裏で、雪かきをしてるおじいさんに、話を聞いた」
トイヴォは、匙を見下ろしていた。
「あの日、みんな、一度死んだって。夢の中で、何日も。……それで、目が覚めたら、ほんの数分しか経ってなかったって。みんな、生きてたって」
わたしは、黙っていた。
「知ってた?」
「……知っている」
わたしは、言った。
隠す理由は、もう、どこにもなかった。
「終わらせた命は、戻るように、取り決めてあった。天理の目が離れているあいだに、死なせて、戻す。……そういう取り決めだった」
トイヴォは、黙って聞いていた。
「だが、終わらせたのは、わたしだ」
わたしの声は、平らだった。
帳面を読み上げるように。
けれど、それは、帳面には書いていないことだった。
「戻されたからといって、終わらせたことが、帳面から消えるわけではない。……終わらせた、と書いた頁は、今も、そのままだ」
トイヴォは、長いあいだ、黙っていた。
それから、言った。
「衣装係の娘さんが、今でも、夜中に目を覚ますんだって。一度死んだ夢を見て」
わたしは、目を閉じた。
「……その頁も、書いておく」
「うん」
トイヴォは、うなずいた。
それから、また、匙を持ち上げた。
「でも、今は、食べて」
でも。
この人間の、でも。
わたしは、口を開けた。
最後のひと匙が、終わった。
小鍋の底が、見えた。
トイヴォは、小鍋を、毛皮で包み直した。
それから、わたしの手を、見た。氷の枷が、手首に巻きついたままの、黒い手を。
「……軟膏、持ってきたんだ」
トイヴォは、懐から、小さな缶を出した。
わたしの包みに入れてあった缶だった。蓋を開けると、中の軟膏に、指の跡が残っていた。雪原で、わたしが、塗ろうとして、うまくいかなかった跡。
「これ、見たよ」
トイヴォは、缶の中の、深くえぐれた跡を見ていた。
「……塗ろうとしたんだね」
「うまく、できなかった」
「うん。見れば、分かる」
トイヴォは、わたしの腕を取った。
枷のきわを避けて、肘の上から、指先まで。黒い肌の、赤い模様を、避けもせず、一つずつ。
「……痛く、ならないように」
わたしが、先に言った。
トイヴォの指が、止まった。
それから、また、動いた。
小指の先まで。
◇
「はい、そこまで」
戸口で、執行官が言った。
トイヴォは、缶の蓋を閉めた。
立ち上がって、執行官のほうを向いた。
「……あの人は、これから、どうなるんですか」
「明日、上が決める」
執行官は、軽い声で言った。
軽いのは、声だけだった。
「生かすのか、終わらせるのか、どこかへ移すのか。……俺にも、分かんない。決めるのは、俺よりずっと上の人たちだから」
トイヴォは、黙っていた。
僕は、と言いかけて、やめたのが、分かった。
何もできないことを、この人間は、知っていた。剣も持っていない。戦ったことも、一度もない。
この国のいちばん上の人たちの決めることに、猟師がひとり、何かを言えるはずがなかった。
トイヴォは、わたしのほうを、振り向いた。
「明日の朝も、来るよ」
それしか、言わなかった。
「粥を、持って」
「……来るな」
わたしは、言った。
トイヴォは、少しだけ、笑った。
「来るよ」
それから、戸口で、もう一度、振り返った。
「……でも、の先、まだ、聞いてないから」
戸口で、執行官が、頭をかいた。
「……一回だけ、って言ったんだけどな」
トイヴォは、答えなかった。小鍋を抱え直して、執行官を見ていた。
執行官は、しばらく、その割れた指を見ていた。
「明日のことは、明日の俺に言って。……今の俺は、守れない約束は、しないから」
それから、わたしのほうへ、首をかしげた。
「君も。明日の朝まで、ちゃんと待っててよ。報告書、書き直すの、面倒だからさ」
軽い声だった。糸は、今度は、声と同じくらい、軽かった。
扉が、閉まった。
鍵の音がした。
足音が、ふたつ、遠ざかっていった。
軽い足音と、雪原を歩くのに慣れた足音。
わたしは、部屋の真ん中に、座っていた。
生かすのか、終わらせるのか。
わたしは、長いあいだ、それを決める側にいた。帳面をひらいて、定めのとおりに。
決められる側の夜が、こういう形をしているのだと、わたしは、初めて知った。
壁の石の光と、閉まった扉と、遠ざかる足音の形を。
舌の上に、まだ、甘さが残っていた。
腕に、軟膏の匂いが残っていた。
わたしは、目を閉じて、帳面をひらいた。
あの家の頁を、ひとつずつ、めくった。粥の頁。塩の頁。団子の頁。軟膏の頁。
最後の頁は、白いままだった。
来るな。——でも。
でも、の先を、わたしは、その頁に書こうとした。
書けなかった。
書けないのではなかった。
書いてしまえば、明日、それが、口から出てしまう。
出てしまえば、もう、取り消せない。
わたしは、白い頁を、ひらいたままにしておいた。
◇
宿に戻って、僕は、暖炉の前に座っていた。
晶鉱の入っていない暖炉に、昼に買った薪を、一本ずつくべた。
明日、上が決める。
あの人の糸の長さを、僕の知らない誰かが、決める。
僕にできることを、数えてみた。
粥を炊ける。薪を割れる。罠を仕掛けられる。毛皮を剥げる。軟膏を塗れる。天気を読める。
この街の、いちばん上の人たちの前で、役に立つものは、ひとつもなかった。
それでも、数えるのを、やめなかった。
数え終えて、残ったのは、ひとつだけだった。
明日の朝も、粥を持っていく。
それしか、なかった。
それだけは、誰にも、止められなかった。
宿の主人に、あと何日か泊まりたい、と言った。主人は、黙って、うなずいた。
壁の中で、小さな爪の音がしていた。
夜明け前に、目が覚めた。
宿の窓の隙間から、細い風が入っていた。
僕は、毛皮から抜け出して、裏庭へ出た。
竈に、火を入れた。煉瓦の、崩れかけた竈。
鍋に、水を張った。
燕麦を、量った。
手のひらに、ふたり分が載っていた。
鍋に入れた。
塩を、指でつまんだ。ひとつまみと、半分。
あの瓶の蜂蜜は、もう、なかった。
昨日の夕方、ゾルヌィ区の市場で、小さな瓶をひとつ、買った。町の乾物屋のものより、少し高かった。
その瓶を、懐に入れた。
なくなったら、また買えばいい。昨日、あの人に、そう言った。言ったとおりに、した。
粥が、煮えた。
鍋を毛皮で包んで、抱えて、宿を出た。宿の主人が、戸口で、黙って片手を上げた。
街は、まだ暗かった。
吹雪は、止んでいた。雪を踏み固めた道の上に、街灯の明かりが、ぽつぽつと落ちていた。街の底のほうで、クルースニクの炉が、低く唸っていた。
工場へ向かう人たちが、背を丸めて、同じ方向へ歩いていた。誰も、鍋を抱えた猟師を見なかった。
宮殿は、砦のすぐ向こうに、暗い空を背にして、白く浮かんでいた。
あそこで、今日、何かが決まるのかもしれない。
僕は、宮殿を見ないようにして、砦のほうへ歩いた。
橋を渡った。
砦の門の前に、衛兵が立っていた。
昨日の衛兵ではなかった。
僕が近づくと、衛兵は、僕の抱えた鍋を見た。
それから、門の内側を、振り返った。
門の向こうから、誰かが、歩いてくるのが見えた。
まだ暗くて、顔は、見えなかった。
足音が、した。
僕は、鍋を抱えたまま、立っていた。
湯気が、毛皮の隙間から、細く、まっすぐに立っていた。
門が、ゆっくりと、開いた。
◇
石の部屋で、わたしは、扉のほうを向いて、座っていた。
夜明けなのかどうか、わたしには、分からなかった。
壁の石が、淡く光っていた。
廊下の向こうで、足音がした。
ひとつなのか、ふたつなのか。
軽いのか、重いのか。
上の決めたことを告げに来る者の足音なのか。粥を抱えた、雪原を歩くのに慣れた足音なのか。
わたしは、聞き分けようとして、やめた。
足音が、近づいてきた。
わたしは、白いままの頁を、胸の中で、ひらいた。
いちばん最初の頁を、思い出した。
おはよう。気がついたんだね。
あの人間が、わたしに初めてかけた言葉だった。わたしの目を見て、わたしの髪を見て、わたしの腕を見て、それでも、そう言った。
わたしは、あのとき、答えなかった。
足音が、扉の前で、止まった。
わたしは、扉に向かって、言った。
「……おはよう」
鍵の、音がした。
お読みいただきありがとうございました。
これで、IF-5「捕まるルート」は完結です。結末は、読んでくださった方に委ねます。
IFルートは、これで全5本がそろいました。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。