是非覚悟をもって見てください。
辛かったら読むのをやめるのをおすすめします。
※本編第12話「死んだことにして、生きる」の最後から分岐するIFルートです。
※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※本編よりずっと重い、救いのない展開です。人が亡くなる話になります。ご注意ください。
※今回はトイヴォ視点です。
「……それも、悪くは、ない」
ロノヴァがそう言ったので、僕は、笑った。
蜂蜜を落とした粥を、ふたりで食べた。窓の外で、軒の雫が、ぽたぽたと落ちていた。
「じゃあ、いつ行く?」
僕が聞くと、ロノヴァは、匙を止めた。
「……今すぐ、ではないのか」
「今は、無理だよ。雪が解けはじめたら、森の道は、ひと月くらい泥の川になる。歩けたもんじゃない」
おじいちゃんは、それを泥の季節と呼んでいた。雪の冬より、泥の春のほうが、旅には向かない。
「道が乾いたら、行こう。それまでに、支度をしておく」
「……北の縁が、指一本ぶん」
「うん。ひと月なら、指四本ぶんくらい?」
「そのくらいだ」
「じゃあ、大丈夫だね」
ロノヴァは、少し考えてから、うなずいた。
棚の上で、おばあちゃんのタイムが、爪の先ほどの芽を、ふたつに増やしていた。
◇
それから何日か、僕たちは、旅の支度をした。
鍋は、おじいちゃんの古い鉄鍋と、あの冬、ロノヴァが包みに入れて持っていった小鍋。燕麦の袋。塩の袋。軟膏の壺。
ロノヴァは、背負い袋に物を詰める練習をした。
鉄鍋を一番上に入れようとするので、僕は笑って、止めた。
「重いものは、背中の近く。下のほうに」
「……なぜ」
「肩が、痛くならないように」
ロノヴァは、鍋を取り出して、底のほうへ入れ直した。
背負ってみて、少しだけ、首をかしげた。
「……軽い」
「でしょ」
ロノヴァは、背負い袋を背負ったまま、窓のそばに立っていた。
どこへ行くのか、まだ決めていなかった。決めていないことが、楽しかった。
ロノヴァの横顔も、たぶん、同じだったと思う。
雪は、日ごとに痩せていった。
森のあちこちで、水の音がするようになった。雪の下を、見えない川がいくつも流れていた。家のそばの沢も、冬のあいだの低い唸りをやめて、ざあざあと鳴りはじめた。
罠を、しまいに行くことにした。
旅に出るなら、森に仕掛けたままの罠は、外しておかないといけない。かかった獣が、誰にも見つけられずに死ぬのは、よくないことだ。
「すぐ戻るよ。沢沿いの、五つだけだから」
「……気をつけて」
ロノヴァが、戸口で言った。
春になってから、ロノヴァは、毎回それを言ってくれた。
僕は、手を振った。
沢沿いの道は、ぬかるんでいた。
一つ目と二つ目の罠を外した。三つ目には、何もかかっていなかった。四つ目は、雪の重みで潰れていた。
五つ目の罠は、沢の向こう岸にあった。
冬のあいだは、凍った沢の上を歩いて渡っていた。今も、沢の真ん中には、白い氷が残っていた。ところどころ、黒い水が、氷の縁を舐めていた。
——雪解けの沢は、上から見ても分からない。叩いて、音を聞け。
おじいちゃんの声がした。
僕は、杖の先で、氷を叩いた。
低い、詰まった音がした。
大丈夫だと、思った。
二歩目で、足の下が、抜けた。
冷たい、と思う前に、痛かった。
右の脚が、氷の割れ目に落ちて、岩のあいだに挟まった。体のほうは、前に倒れた。挟まった脚の、膝の下で、何かが、乾いた音を立てた。
声が、出た。
自分の声だと、分からなかった。
水が、腰まで来ていた。雪解けの水は、冬の水より冷たい気がした。
脚を、引き抜こうとした。
抜けなかった。動かすと、目の前が、白くなった。
両手で、岩をつかんで、体ごと、少しずつ、横へずらした。脚が、岩のあいだから、ずるりと外れた。膝の下が、おかしな向きに曲がっていた。
見ないようにした。
氷の縁に這い上がって、岸まで、腕で進んだ。
岸の雪の上に、転がった。
空が、灰色だった。
——濡れたら、まず火だ。
火打ち石は、腰の袋の中で、濡れていた。
三度打った。火花は、出なかった。
指が、もう、うまく動かなかった。
家まで、どのくらいあるだろう。沢沿いに、歩けば、すぐのはずだった。
歩けなかった。
僕は、腕で、雪を掻いた。
這った。
少しずつ。雪と泥の上を。脚が、何かにこすれるたびに、息が止まった。
日が、傾いていった。
どのくらい這ったのか、分からなかった。
腕が、動かなくなった。
雪の上に、頬をつけた。冷たくなかった。冷たいのが、分からなくなっていた。
——夜の雪原は歩くな。
歩いてないよ、おじいちゃん。這ってるんだ。
そう思ったら、少し、おかしかった。
木立の向こうで、何かが、光った気がした。
ランプの灯りだった。
ゆらゆらと、こちらへ近づいてくる。
それから、雪を踏む音。重いものを引きずる音。
「トイヴォ」
ロノヴァの声だった。
あの冬、雪原で、僕が倒れているロノヴァを見つけた。
今は、逆だった。
ロノヴァは、橇を引いていた。
僕が町へ行くとき、荷を積んで引く、あの橇だった。ロノヴァは、それを、物置みたいにしている軒下から引っぱり出して、ここまで引いてきたのだ。泥と雪の道を、ひとりで。
「……どうして、分かったの」
「糸が、乱れた」
ロノヴァは、僕の横に膝をついた。
「昼すぎから。……遠くで、ひどく揺れていた。それから、細くなっていった」
「……見えるんだね。こんなに、遠くても」
「見える」
ロノヴァは、橇の縄を握り直した。
「……泥で、何度も止まった。遅くなった」
ロノヴァは、僕の脚を見た。
顔が、変わらなかった。変わらないように、していたのだと思う。
「……乗れるか」
「たぶん。……引っぱって」
ロノヴァが、僕の脇の下に腕を入れた。
黒い腕だった。あの冬、僕が毎晩、軟膏を塗った腕。
橇の上に、引きずり上げられた。脚が、橇の縁にぶつかった。僕は、叫んだ。
ロノヴァの手が、止まった。
「……止まらないで。いいから」
ロノヴァは、止まらなかった。
◇
家に着いたのは、日が落ちてからだった。
ロノヴァは、僕を暖炉の前に寝かせて、濡れた服を、脱がせてくれた。手が、震えていた。脱がせ方を、知らないのだ。あの冬、脱がせたのは、僕のほうだった。
毛布を、何枚も、かけてくれた。
暖炉に、薪を、くべすぎるくらいくべた。
体の震えが止まるまで、長いことかかった。
それから、脚を見た。
膝の下が、腫れていた。曲がり方が、おかしかった。
——折れた脚は、まっすぐに引いてから、添え木を当てろ。曲がったままつながると、一生、そのままだ。
おじいちゃんは、猟の仲間の脚を、そうやって治したことがあると言っていた。
「ロノヴァ。……頼みがあるんだけど」
「何だ」
「僕の足首を、持って。まっすぐ、ゆっくり、引っぱって。……骨が、元の場所に戻るまで」
ロノヴァの目が、僕の脚から、顔へ動いた。
「……痛むのだろう」
「すごく痛い。叫ぶと思う。でも、止めないで」
ロノヴァは、長いあいだ、黙っていた。
それから、黒い手で、僕の足首を、包むように持った。
「……止めない」
僕は、毛布の端を、噛んだ。
叫んだと思う。
覚えていない。
気がつくと、脚に、薪を割った板が、二枚、当てられていた。裂いた布で、ぐるぐると巻かれていた。巻き方は、下手だった。あちこち、きつかったり、ゆるかったりした。
ロノヴァが、暖炉の前に座って、僕を見ていた。
「……まっすぐに、なったか分からない」
平らな声だった。平らすぎた。
「うん。……ありがとう」
ロノヴァは、何も言わなかった。
手を、膝の上で、握っていた。
夜半に、熱が出た。
寒くて、暑くて、どちらなのか分からなかった。暖炉の火が、ぐらぐらと揺れて見えた。
額に、冷たいものが当たった。
濡れた布だった。ロノヴァが、沢の水で絞ってきたのだ。
黒い指が、布ごしに、僕の額を押さえていた。
——あの冬、僕も、こうした。
熱でぼんやりした頭で、そう思った。
あの冬、雪原から連れて帰ったこの人に、僕は、毎晩、こうした。
逆だった。
何もかも、逆だった。
◇
朝、ロノヴァが、粥を炊いた。
少しだけ、焦げた匂いがした。
ロノヴァは、器を持って、僕の枕元に膝をついた。
木の匙で、粥をすくった。
息を吹きかけるのを、忘れていた。気づいて、吹いた。
それから、匙を、僕の唇に当てた。
あの冬の、最初の朝。僕は、この人の唇に、こうして匙を当てた。この人は、自分でできる、と言った。
僕は、自分でできる、とは言えなかった。
口を、開けた。
燕麦の、やわらかい味がした。それから、ほんの少し、甘かった。
「……甘い」
ロノヴァの手が、止まった。
あの朝、この人が、初めて味を口にした言葉だった。
「……蜂蜜を、ひと匙」
ロノヴァが、小さく言った。
「……うん。おいしい」
ふた口目は、入らなかった。
熱で、喉が、閉じていた。
昼すぎに、ロノヴァが、僕の枕元に座った。
いつもの平らな顔だった。けれど、帳面を、胸に抱えていた。
「トイヴォ」
「うん」
「お前の糸が、戻っていない」
僕は、ロノヴァを見た。
「夜のあいだに、細った。……熱と、脚のぶんも。朝の粥で、戻るはずだった。お前は、ひと口しか食べられなかった」
「……どのくらい?」
「髪一本の、半分。……それが、そのまま残っている」
ロノヴァは、帳面を開かなかった。開かなくても、書いてあることは、分かっているのだと思った。
「わたしが、ここにいる限り、毎晩、細る。熱が下がらなければ、朝に戻りきらない。戻りきらなかったぶんは、積もる」
「……うん」
「だから」
ロノヴァは、そこで、言葉を切った。
「わたしが、ここを出る」
あの冬も、この人は、去る、と言った。僕の目の前で。それから、夜明け前に、黙って出ていった。行き先を聞いた僕に、帰る、と答えて。
今度は、理由を、隠さなかった。
それが、この人の変わったところなのだと、僕には、分かっていた。
分かっていて、僕は、言った。あの冬、言えなかった言葉を。
「行かないで」
ロノヴァの目が、少しだけ、揺れた。
「……今、君がいなくなったら、水も汲めない」
本当のことだった。
脚は、動かなかった。寝返りを打つだけで、目の前が白くなった。沢まで水を汲みに行くことも、薪を割ることも、火を絶やさないことも、ひとりでは、できなかった。
それに、本当のことは、もうひとつあった。
「……怖いんだ。ひとりで、ここに寝てるのが」
ロノヴァは、長いあいだ、黙っていた。
帳面を抱えた腕に、力が入っているのが分かった。
「……わたしがいれば、お前は細る」
「うん」
「わたしがいなければ、お前は、水を飲めない」
「……うん」
ロノヴァは、目を閉じた。
それから、開けた。
「……出ない」
小さな声だった。
「脚が、つながるまで。……それまでは、ここにいる」
その夜、ロノヴァは、暖炉の前にいなかった。
灯りを落とす前に、毛布を一枚持って、戸口へ行った。
「……どこ行くの」
「外だ。薪の山の陰にいる」
「外? まだ、夜は凍るよ」
「距離で、細り方は変わる。……家の中より、外のほうが、遠い」
「輪の外まで行けば、もっと遠いんじゃないの」
「……そこでは、お前が夜中に呼んでも、聞こえない」
「君、寒いの、分かるようになったんでしょ」
「分かる」
ロノヴァは、戸を開けた。夜の冷たい空気が、入ってきた。
「だから、毛布を持っていく」
戸が、閉まった。
眠れなかった。
脚が、ずきずきと痛んだ。熱が、上がったり下がったりした。
暗い部屋の中で、耳をすませた。
外で、何も聞こえなかった。ロノヴァは、音を立てない。
薪の山の陰で、毛布にくるまって、この人は、夜じゅう、僕の糸を見ているのだろう。細っていくのを、見ているのだろう。
夜が、白みはじめたころ、雪を踏む音がした。
戸が、とん、と一度だけ叩かれた。
開いた。
ロノヴァが、戸口に立っていた。白い髪に、霜がついていた。
「……おはよう」
先に言ったのは、ロノヴァだった。
「おはよう、ロノヴァ」
僕は、言った。
声が、かすれていた。
ロノヴァは、粥を炊いた。
今度は、焦げなかった。
匙を、僕の唇に当てた。息を吹きかけるのも、忘れなかった。
僕は、ふた口、食べた。
三口目で、また、喉が閉じた。
「……ごめん」
「謝るな」
ロノヴァは、器を置いた。
糸を、見ていた。僕には見えない糸を。
何も、言わなかった。
道が乾くまで、あとひと月。
脚がつながるまで、たぶん、ふた月。
旅に出るのは、夏になってからになる。
「夏に、行こうね」
僕は、言った。
「鍋を持って。……夏の森なら、道も歩きやすいし、木苺も採れるよ」
ロノヴァは、窓の外を見ていた。
軒の雫が、まだ、ぽたぽたと落ちていた。
「……ああ」
それだけ、言った。
悪くは、ない、とは、言わなかった。
お読みいただきありがとうございました。
次回、IF6-2「一匙ずつ」はロノヴァ視点でお送りします。