死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本編第12話「死んだことにして、生きる」の最後から分岐するIFルートの2話目です。
※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※本編よりずっと重い、救いのない展開です。ご注意ください。
※今回はロノヴァ視点です。


IF6-2 一匙ずつ

 ——トイヴォの糸。夜のあいだに、髪一本の半分、細る。朝、粥のあとで、戻りきらない。

 ——トイヴォの糸。戻りきらない。

 ——戻りきらない。

 帳面の同じ欄に、同じ言葉が、並んでいった。

 冬のあいだ、この欄には、別の言葉が並んでいた。戻る。戻った。粥のあとで、戻った。

 わたしは、同じ筆で、同じ欄に書いていた。

 書くことが、変わっただけだった。

 

 夜は、薪の山の陰で過ごした。

 春の夜は、まだ凍った。毛布にくるまっていても、指の先が冷えた。寒さを知る前のわたしなら、何も感じなかっただろう。知ったあとのわたしは、夜明けまで、指を握ったり開いたりしていた。

 家の壁ごしに、トイヴォの糸を見ていた。

 眠っているあいだに、細る。熱が上がると、もっと細る。脚が痛んで寝返りを打つと、糸が震える。

 夜明けに、戸を一度だけ叩いて、中に入る。

「……おはよう」

「おはよう、ロノヴァ」

 粥を炊く。匙ですくって、息を吹きかけて、唇に当てる。

 一匙。

 もう一匙。

 三匙目で、トイヴォの喉が、閉じる。

 あの冬、トイヴォは、わたしに、こうした。わたしが器の半分を食べられた朝、トイヴォは、よかった、と言った。器を空にした朝、トイヴォは、笑った。

 わたしは、トイヴォが三匙で止まるたびに、何も言えなかった。

 器の中身は、昼に、わたしが食べた。食べる必要はない。けれど、捨てることが、できなかった。

 

 十日目に、熱が下がった。

 二日後に、また上がった。

 脚の添え木を、巻き直した。腫れは、引いていた。けれど、膝の下が、ほんの少しだけ、外へ曲がっていた。

 まっすぐに、ならなかった。

 あの夜、わたしの引き方が、足りなかったのだ。

 トイヴォは、脚を見て、少し笑った。

「おじいちゃんの猟仲間も、少し曲がってたって。……歩けたらしいよ。杖があれば」

「……すまない」

「謝らないで。君が引っぱってくれなかったら、もっと曲がってた」

 わたしは、添え木の布を、結び直した。

 結び目は、固く、不器用だった。

 

 その夜、薪の山の陰へ出ていく前に、トイヴォが言った。

「ねえ。……出ていく前に、ちょっとだけ、話して」

「何を」

「君が、上から見てた国のこと。夏に行くところ、決めておきたいから」

 わたしは、戸口で立ち止まった。

 それから、暖炉の向こうの、トイヴォの寝床からいちばん遠い床に、座った。

「……風の国がある。丘がどこまでも続いて、風車が、ゆっくり回っている」

「風車?」

「風で、麦を挽く。上からは、白い点に見えた。羊の群れも」

「羊かあ。……そこの人、どんな粥、食べてるんだろう」

「知らない。上からは、粥は見えない」

 トイヴォは、小さく笑った。

「じゃあ、行って、確かめなきゃ」

「……南には、岩の国がある。石ばかりで、枯らすものが、少ない」

「それ、いいね。君に、やさしい国だ」

 トイヴォは、目を閉じた。

「そこにしよう。最初は、岩の国。……それから、風の国」

 寝息が、深くなるまで、わたしは、そこに座っていた。

 行き先が、決まった。

 決まった国の名前を、わたしは、帳面に書かなかった。

 

   ◇

 

 二十日目の夜、わたしは、帳面を最初から読み返した。

 戻りきらなかったぶんを、足した。

 ——トイヴォの糸は、春のはじめの太さの、九割ほどになっていた。

 この速さが続けば、夏の終わりを待たずに、半分を切る。

 それより細くなった糸が、どうなるのか。わたしは、知っていた。何千、何万と記録してきた。

 細い糸は、熱に負ける。冷えに負ける。小さな傷に、負ける。

 帳面を閉じた。

 夜明けに、戸を叩いて、中に入った。

「……おはよう」

「おはよう、ロノヴァ」

 トイヴォの顔色を、見た。

 あの冬、わたしの顔色は、こう見えていたのだろうか。

 粥を炊く前に、わたしは、言った。

「町へ行く」

 

 トイヴォは、寝床の上で、目を丸くした。

「町?」

「助けを、呼んでくる。南門の兵に。……チモフェイに」

「チモフェイ……」

「お前を、町へ運んでもらう。わたしから、遠いところへ。脚も、町の医者に診せられる」

「……橇で、君が引いていけば」

「泥の道では、橇は動かない。沢のそばからここまででも、何度も止まった。二日は、引けない」

 トイヴォは、しばらく、黙っていた。

「……二日かかるよ。行って、戻るまで、四日」

「分かっている」

「僕、そのあいだ、ひとりだよ」

「水甕を満たす。薪を、手の届くところに積む。粥を、鍋いっぱいに炊いておく」

 トイヴォは、わたしの顔を、じっと見ていた。

 それから、少しだけ、笑った。

「……チモフェイに会ったら、よろしくって言っておいて。……あ、君からは、言いにくいか。死んだことになってるもんね」

 わたしは、うなずいた。

 

 その日のうちに、支度をした。

 沢まで、何度も往復して、水甕を満たした。薪を、寝床のそばに積み上げた。燕麦を、鍋いっぱいに炊いた。

 枕元に、水を入れた器を三つ、並べた。手を伸ばせば、届くところに。

 棚から、蜂蜜の瓶を取った。町の、東の通りの二軒目で、トイヴォが買ってきた瓶だ。まだ、半分残っていた。

「……それ、持っていくの?」

「代金にする」

「蜂蜜で?」

「わたしには、ほかに、何もない」

 トイヴォは、何か言いかけて、やめた。

 わたしは、自分の衣の上から、祖母の羊毛の上着を羽織った。上着の袖は、肘と手首のあいだで、ぷつりと終わった。その先に、わたしの衣の袖が手首まで続いて、黒い手が、のぞいた。

 襟巻きを、手に巻きつけて、隠した。祖母の頭巾で、白い髪も包んだ。

 

 夜明け前に、家を出た。

「気をつけて」

 寝床の上から、トイヴォが言った。

 あの冬、出ていくわたしに、トイヴォは、この言葉を言わなかった。

「……すぐ、戻る」

 わたしは、言った。

 嘘に、したくなかった。

 

   ◇

 

 二日、歩いた。

 途中で、あの雪原を通った。

 町と家のあいだの、ひらけた雪原。あの冬、わたしが落ちて、トイヴォが見つけた場所だ。雪は、もう、ほとんど解けていた。泥の中に、枯れ草が、寝ていた。

 羽根は、一枚も残っていなかった。

 あの日、この人間は、ここで、わたしを見つけた。見つけなかったことには、しなかった。

 わたしは、立ち止まらずに、通り過ぎた。

 足もとで、道の端の草が、黒く縮れていった。泥の上に、わたしの線が、一本、引かれていった。

 町の南門には、見たことのない兵が立っていた。

「チモフェイという兵は、いるか」

 兵は、首をかしげた。

「チモフェイ? ああ、前の門番か。北の砦へ移ったよ。春の入れ替えで。俺は、この春からここだ」

 北の砦が、どこにあるのか、わたしは知らなかった。

 知っていても、行く時間は、なかった。

 

 町の薬師の店を、聞いて回った。

 東の通りの、奥だった。

 薬師は、年寄りの男だった。わたしの話を、半分ほど聞いて、首を振った。

「森の奥まで、二日? 往診は、しないよ。連れてくるなら、診る」

「連れてこられない。脚が、折れている」

「なら、荷車でも借りてくるんだね。うちは、店を空けられない」

 わたしは、懐から、蜂蜜の瓶を出した。

「これで」

 薬師は、瓶を見て、それから、わたしを見た。

 それから、声を出して笑った。弟子らしい若い男も、奥で笑った。

「蜂蜜一瓶で、四日の往診かい。……あんた、どこから来たんだ」

 答えようとして、襟巻きが、手からずれた。

 黒い指が、瓶を持っていた。

 薬師の笑い声が、止まった。

 店の戸口に、さっきの門の兵が、立っていた。見回りの途中だったのだろう。わたしの手を、見ていた。

「……おい。その手」

 わたしは、瓶を、懐にしまった。

 戸口の兵の横を、すり抜けた。

「おい、待て!」

 声が、背中を追ってきた。

 わたしは、振り返らなかった。

 死の執政は、北東の湖で死んだ。——報告は、皇都まで届いている。ここで、白い髪と黒い腕の女が見つかれば、あの記録は、崩れる。崩れれば、次の者たちが来る。わたしの線を辿って、あの家へ。

 脚の利かない人間の、寝ている家へ。

 町を出てから、わたしは、一度だけ、振り返った。

 追ってくる糸は、なかった。

 助けも、なかった。

 手を見られた町へ、あの人間を運んでいくことも、もう、できなかった。

 

   ◇

 

 帰り道の二日目、家まであと半日のところで、トイヴォの糸が、見えた。

 細かった。

 出たときより、ずっと。

 わたしは、走った。

 走り方を、わたしは、よく知らなかった。泥に足を取られて、二度、転んだ。祖母の上着が、泥だらけになった。

 

 戸を開けた。

 トイヴォは、寝床にいなかった。

 床に、倒れていた。流しのそばの、水甕の手前で。

 水甕は、倒れていた。床が、濡れていた。濡れたまま、乾きかけていた。

「……トイヴォ」

 膝をついた。

 トイヴォが、目を開けた。唇が、ひび割れていた。

「……おかえり」

 かすれた声だった。

「……枕元の水、きのうの朝で、なくなっちゃって。……水甕まで、行けると思ったんだ」

「……喋るな」

「行けなかった」

 トイヴォは、少しだけ笑おうとして、やめた。

「ごめん。……せっかく、満たしてくれたのに」

 わたしは、トイヴォを抱えて、寝床へ運んだ。

 軽かった。

 あの冬、雪原で、トイヴォがわたしを運んだとき、わたしは、こんなふうに軽かったのだろうか。

 

 沢から水を汲んで、少しずつ、飲ませた。

 粥を、炊いた。

 一匙。

 トイヴォは、飲み込んだ。

 もう一匙。

 飲み込んだ。

 三匙目で、喉が、閉じた。

 わたしは、トイヴォの糸を、見ていた。

 わたしのいなかった三晩、この糸は、わたしのせいでは、細らなかったはずだ。

 それでも、細っていた。水を飲めなかったからだ。粥のある鍋に、手が届かなかったからだ。

 わたしがいれば、細る。

 わたしがいなければ、水が飲めない。

 どちらの欄にも、同じことが書かれていた。

 昼だけ通っても、わたしがそばにいるあいだは、細る。細ったぶんを粥で取り返せない糸なら、通うたびに、少しずつ減っていく。

 この糸が、わたしのせいでは細らないところまで、離れるしかなかった。

 ただ、その前に、この人間が、ひとりで水を飲めるようにしなければならなかった。

 

   ◇

 

 それから、ひと月、わたしは、家にいた。

 いるあいだに、できることを、全部した。

 薪を、割った。

 斧を持つのは、初めてだった。トイヴォが、寝床の上から、持ち方を教えた。足の開き方。刃の入れ方。わたしの斧は、何度も木目を外れた。手のひらに、黒い傷ができた。痛みは、あった。血は、出なかった。

 割った薪を、寝床のそばから、暖炉のそばまで、高く積んだ。夏のあいだ、火を絶やさずにすむくらい。

 木の枝を削って、杖を作った。トイヴォの脇の下の高さに合わせて、何度も削り直した。

 水甕を、寝床のそばまで、動かした。

 トイヴォは、少しずつ、起きあがれるようになった。杖をついて、暖炉まで。水甕まで。三歩。五歩。

 わたしは、それを、戸口から見ていた。

 トイヴォが、ひとりで、鍋を火にかけられるようになった日、わたしは、帳面をつけた。

 ——トイヴォ。杖で、暖炉まで。水甕まで。鍋を、火にかけた。

 ——トイヴォの糸。戻りきらない。

 ——わたしが、ここにいるから。

 

 その夜、わたしは、薪の山の陰に行かなかった。

 暖炉の前に、座っていた。

 トイヴォは、寝床で、もう眠っていた。寝息は、深かった。

 棚の上で、タイムが、芽を三つに増やしていた。わたしがいても、もった。——春のはじめに、わたしは、そう書いた。

 それも、いつまでなのか、わたしには、分からなかった。

 懐から、蜂蜜の瓶を出した。町で、代金にならなかった瓶。

 棚の上の、タイムの鉢の隣に、置いた。

 祖母の上着を、脱いで、畳んだ。

 奥の寝床の、枕の上に、置いた。あの冬、置いてあったところに。

 袖の端は、揃えなかった。揃えようとして、指が、止まった。

 あの冬、出ていくために畳んだのと、同じ形になった。

 

 夜明け前に、戸口に立った。

 戸は、叩かなかった。

 叩けば、トイヴォは目を覚ます。目を覚ませば、あの言葉を言う。行かないで、と。

 今度は、それを、聞くわけにはいかなかった。

 戸の板に、額をつけた。

 それから、中の糸に向かって、声にならない声で、言った。

「……おはよう」

 百と、六十四。

 答えは、なかった。

 わたしは、戸に背を向けて、歩き出した。

 足もとで、草が、黒く縮れた。

 一歩ごとに、あの糸から、遠くなった。

 遠くなるほど、あの糸は、細らなくなる。

 それだけを、帳面の、いちばん最後の頁に書いた。




お読みいただきありがとうございました。
次回、IF6-3「細りきる」でIF-6「細りきるルート」は完結です。トイヴォとロノヴァ、二人の視点でお送りします。
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