※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※本編よりずっと重い、救いのない展開です。ご注意ください。
※今回はロノヴァ視点です。
——トイヴォの糸。夜のあいだに、髪一本の半分、細る。朝、粥のあとで、戻りきらない。
——トイヴォの糸。戻りきらない。
——戻りきらない。
帳面の同じ欄に、同じ言葉が、並んでいった。
冬のあいだ、この欄には、別の言葉が並んでいた。戻る。戻った。粥のあとで、戻った。
わたしは、同じ筆で、同じ欄に書いていた。
書くことが、変わっただけだった。
夜は、薪の山の陰で過ごした。
春の夜は、まだ凍った。毛布にくるまっていても、指の先が冷えた。寒さを知る前のわたしなら、何も感じなかっただろう。知ったあとのわたしは、夜明けまで、指を握ったり開いたりしていた。
家の壁ごしに、トイヴォの糸を見ていた。
眠っているあいだに、細る。熱が上がると、もっと細る。脚が痛んで寝返りを打つと、糸が震える。
夜明けに、戸を一度だけ叩いて、中に入る。
「……おはよう」
「おはよう、ロノヴァ」
粥を炊く。匙ですくって、息を吹きかけて、唇に当てる。
一匙。
もう一匙。
三匙目で、トイヴォの喉が、閉じる。
あの冬、トイヴォは、わたしに、こうした。わたしが器の半分を食べられた朝、トイヴォは、よかった、と言った。器を空にした朝、トイヴォは、笑った。
わたしは、トイヴォが三匙で止まるたびに、何も言えなかった。
器の中身は、昼に、わたしが食べた。食べる必要はない。けれど、捨てることが、できなかった。
十日目に、熱が下がった。
二日後に、また上がった。
脚の添え木を、巻き直した。腫れは、引いていた。けれど、膝の下が、ほんの少しだけ、外へ曲がっていた。
まっすぐに、ならなかった。
あの夜、わたしの引き方が、足りなかったのだ。
トイヴォは、脚を見て、少し笑った。
「おじいちゃんの猟仲間も、少し曲がってたって。……歩けたらしいよ。杖があれば」
「……すまない」
「謝らないで。君が引っぱってくれなかったら、もっと曲がってた」
わたしは、添え木の布を、結び直した。
結び目は、固く、不器用だった。
その夜、薪の山の陰へ出ていく前に、トイヴォが言った。
「ねえ。……出ていく前に、ちょっとだけ、話して」
「何を」
「君が、上から見てた国のこと。夏に行くところ、決めておきたいから」
わたしは、戸口で立ち止まった。
それから、暖炉の向こうの、トイヴォの寝床からいちばん遠い床に、座った。
「……風の国がある。丘がどこまでも続いて、風車が、ゆっくり回っている」
「風車?」
「風で、麦を挽く。上からは、白い点に見えた。羊の群れも」
「羊かあ。……そこの人、どんな粥、食べてるんだろう」
「知らない。上からは、粥は見えない」
トイヴォは、小さく笑った。
「じゃあ、行って、確かめなきゃ」
「……南には、岩の国がある。石ばかりで、枯らすものが、少ない」
「それ、いいね。君に、やさしい国だ」
トイヴォは、目を閉じた。
「そこにしよう。最初は、岩の国。……それから、風の国」
寝息が、深くなるまで、わたしは、そこに座っていた。
行き先が、決まった。
決まった国の名前を、わたしは、帳面に書かなかった。
◇
二十日目の夜、わたしは、帳面を最初から読み返した。
戻りきらなかったぶんを、足した。
——トイヴォの糸は、春のはじめの太さの、九割ほどになっていた。
この速さが続けば、夏の終わりを待たずに、半分を切る。
それより細くなった糸が、どうなるのか。わたしは、知っていた。何千、何万と記録してきた。
細い糸は、熱に負ける。冷えに負ける。小さな傷に、負ける。
帳面を閉じた。
夜明けに、戸を叩いて、中に入った。
「……おはよう」
「おはよう、ロノヴァ」
トイヴォの顔色を、見た。
あの冬、わたしの顔色は、こう見えていたのだろうか。
粥を炊く前に、わたしは、言った。
「町へ行く」
トイヴォは、寝床の上で、目を丸くした。
「町?」
「助けを、呼んでくる。南門の兵に。……チモフェイに」
「チモフェイ……」
「お前を、町へ運んでもらう。わたしから、遠いところへ。脚も、町の医者に診せられる」
「……橇で、君が引いていけば」
「泥の道では、橇は動かない。沢のそばからここまででも、何度も止まった。二日は、引けない」
トイヴォは、しばらく、黙っていた。
「……二日かかるよ。行って、戻るまで、四日」
「分かっている」
「僕、そのあいだ、ひとりだよ」
「水甕を満たす。薪を、手の届くところに積む。粥を、鍋いっぱいに炊いておく」
トイヴォは、わたしの顔を、じっと見ていた。
それから、少しだけ、笑った。
「……チモフェイに会ったら、よろしくって言っておいて。……あ、君からは、言いにくいか。死んだことになってるもんね」
わたしは、うなずいた。
その日のうちに、支度をした。
沢まで、何度も往復して、水甕を満たした。薪を、寝床のそばに積み上げた。燕麦を、鍋いっぱいに炊いた。
枕元に、水を入れた器を三つ、並べた。手を伸ばせば、届くところに。
棚から、蜂蜜の瓶を取った。町の、東の通りの二軒目で、トイヴォが買ってきた瓶だ。まだ、半分残っていた。
「……それ、持っていくの?」
「代金にする」
「蜂蜜で?」
「わたしには、ほかに、何もない」
トイヴォは、何か言いかけて、やめた。
わたしは、自分の衣の上から、祖母の羊毛の上着を羽織った。上着の袖は、肘と手首のあいだで、ぷつりと終わった。その先に、わたしの衣の袖が手首まで続いて、黒い手が、のぞいた。
襟巻きを、手に巻きつけて、隠した。祖母の頭巾で、白い髪も包んだ。
夜明け前に、家を出た。
「気をつけて」
寝床の上から、トイヴォが言った。
あの冬、出ていくわたしに、トイヴォは、この言葉を言わなかった。
「……すぐ、戻る」
わたしは、言った。
嘘に、したくなかった。
◇
二日、歩いた。
途中で、あの雪原を通った。
町と家のあいだの、ひらけた雪原。あの冬、わたしが落ちて、トイヴォが見つけた場所だ。雪は、もう、ほとんど解けていた。泥の中に、枯れ草が、寝ていた。
羽根は、一枚も残っていなかった。
あの日、この人間は、ここで、わたしを見つけた。見つけなかったことには、しなかった。
わたしは、立ち止まらずに、通り過ぎた。
足もとで、道の端の草が、黒く縮れていった。泥の上に、わたしの線が、一本、引かれていった。
町の南門には、見たことのない兵が立っていた。
「チモフェイという兵は、いるか」
兵は、首をかしげた。
「チモフェイ? ああ、前の門番か。北の砦へ移ったよ。春の入れ替えで。俺は、この春からここだ」
北の砦が、どこにあるのか、わたしは知らなかった。
知っていても、行く時間は、なかった。
町の薬師の店を、聞いて回った。
東の通りの、奥だった。
薬師は、年寄りの男だった。わたしの話を、半分ほど聞いて、首を振った。
「森の奥まで、二日? 往診は、しないよ。連れてくるなら、診る」
「連れてこられない。脚が、折れている」
「なら、荷車でも借りてくるんだね。うちは、店を空けられない」
わたしは、懐から、蜂蜜の瓶を出した。
「これで」
薬師は、瓶を見て、それから、わたしを見た。
それから、声を出して笑った。弟子らしい若い男も、奥で笑った。
「蜂蜜一瓶で、四日の往診かい。……あんた、どこから来たんだ」
答えようとして、襟巻きが、手からずれた。
黒い指が、瓶を持っていた。
薬師の笑い声が、止まった。
店の戸口に、さっきの門の兵が、立っていた。見回りの途中だったのだろう。わたしの手を、見ていた。
「……おい。その手」
わたしは、瓶を、懐にしまった。
戸口の兵の横を、すり抜けた。
「おい、待て!」
声が、背中を追ってきた。
わたしは、振り返らなかった。
死の執政は、北東の湖で死んだ。——報告は、皇都まで届いている。ここで、白い髪と黒い腕の女が見つかれば、あの記録は、崩れる。崩れれば、次の者たちが来る。わたしの線を辿って、あの家へ。
脚の利かない人間の、寝ている家へ。
町を出てから、わたしは、一度だけ、振り返った。
追ってくる糸は、なかった。
助けも、なかった。
手を見られた町へ、あの人間を運んでいくことも、もう、できなかった。
◇
帰り道の二日目、家まであと半日のところで、トイヴォの糸が、見えた。
細かった。
出たときより、ずっと。
わたしは、走った。
走り方を、わたしは、よく知らなかった。泥に足を取られて、二度、転んだ。祖母の上着が、泥だらけになった。
戸を開けた。
トイヴォは、寝床にいなかった。
床に、倒れていた。流しのそばの、水甕の手前で。
水甕は、倒れていた。床が、濡れていた。濡れたまま、乾きかけていた。
「……トイヴォ」
膝をついた。
トイヴォが、目を開けた。唇が、ひび割れていた。
「……おかえり」
かすれた声だった。
「……枕元の水、きのうの朝で、なくなっちゃって。……水甕まで、行けると思ったんだ」
「……喋るな」
「行けなかった」
トイヴォは、少しだけ笑おうとして、やめた。
「ごめん。……せっかく、満たしてくれたのに」
わたしは、トイヴォを抱えて、寝床へ運んだ。
軽かった。
あの冬、雪原で、トイヴォがわたしを運んだとき、わたしは、こんなふうに軽かったのだろうか。
沢から水を汲んで、少しずつ、飲ませた。
粥を、炊いた。
一匙。
トイヴォは、飲み込んだ。
もう一匙。
飲み込んだ。
三匙目で、喉が、閉じた。
わたしは、トイヴォの糸を、見ていた。
わたしのいなかった三晩、この糸は、わたしのせいでは、細らなかったはずだ。
それでも、細っていた。水を飲めなかったからだ。粥のある鍋に、手が届かなかったからだ。
わたしがいれば、細る。
わたしがいなければ、水が飲めない。
どちらの欄にも、同じことが書かれていた。
昼だけ通っても、わたしがそばにいるあいだは、細る。細ったぶんを粥で取り返せない糸なら、通うたびに、少しずつ減っていく。
この糸が、わたしのせいでは細らないところまで、離れるしかなかった。
ただ、その前に、この人間が、ひとりで水を飲めるようにしなければならなかった。
◇
それから、ひと月、わたしは、家にいた。
いるあいだに、できることを、全部した。
薪を、割った。
斧を持つのは、初めてだった。トイヴォが、寝床の上から、持ち方を教えた。足の開き方。刃の入れ方。わたしの斧は、何度も木目を外れた。手のひらに、黒い傷ができた。痛みは、あった。血は、出なかった。
割った薪を、寝床のそばから、暖炉のそばまで、高く積んだ。夏のあいだ、火を絶やさずにすむくらい。
木の枝を削って、杖を作った。トイヴォの脇の下の高さに合わせて、何度も削り直した。
水甕を、寝床のそばまで、動かした。
トイヴォは、少しずつ、起きあがれるようになった。杖をついて、暖炉まで。水甕まで。三歩。五歩。
わたしは、それを、戸口から見ていた。
トイヴォが、ひとりで、鍋を火にかけられるようになった日、わたしは、帳面をつけた。
——トイヴォ。杖で、暖炉まで。水甕まで。鍋を、火にかけた。
——トイヴォの糸。戻りきらない。
——わたしが、ここにいるから。
その夜、わたしは、薪の山の陰に行かなかった。
暖炉の前に、座っていた。
トイヴォは、寝床で、もう眠っていた。寝息は、深かった。
棚の上で、タイムが、芽を三つに増やしていた。わたしがいても、もった。——春のはじめに、わたしは、そう書いた。
それも、いつまでなのか、わたしには、分からなかった。
懐から、蜂蜜の瓶を出した。町で、代金にならなかった瓶。
棚の上の、タイムの鉢の隣に、置いた。
祖母の上着を、脱いで、畳んだ。
奥の寝床の、枕の上に、置いた。あの冬、置いてあったところに。
袖の端は、揃えなかった。揃えようとして、指が、止まった。
あの冬、出ていくために畳んだのと、同じ形になった。
夜明け前に、戸口に立った。
戸は、叩かなかった。
叩けば、トイヴォは目を覚ます。目を覚ませば、あの言葉を言う。行かないで、と。
今度は、それを、聞くわけにはいかなかった。
戸の板に、額をつけた。
それから、中の糸に向かって、声にならない声で、言った。
「……おはよう」
百と、六十四。
答えは、なかった。
わたしは、戸に背を向けて、歩き出した。
足もとで、草が、黒く縮れた。
一歩ごとに、あの糸から、遠くなった。
遠くなるほど、あの糸は、細らなくなる。
それだけを、帳面の、いちばん最後の頁に書いた。
お読みいただきありがとうございました。
次回、IF6-3「細りきる」でIF-6「細りきるルート」は完結です。トイヴォとロノヴァ、二人の視点でお送りします。