死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本編第12話「死んだことにして、生きる」の最後から分岐するIFルートの3話目(IF-6の最終話)です。
※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※人が亡くなります。救いのない結末です。ご注意ください。
※今回はトイヴォ視点とロノヴァ視点でお送りします。


IF6-3 細りきる

 戸を叩く音は、しなかった。

 夜が明けて、窓が白くなって、日が差しこんできても、しなかった。

 僕は、寝床の上で、ずっと、戸を見ていた。

 奥の寝床の枕の上に、おばあちゃんの上着が、畳んで置いてあった。袖の端が、揃っていなかった。

 棚の上の、タイムの鉢の隣に、蜂蜜の瓶が置いてあった。町で、代金にならなかった瓶。

 それで、分かった。

 あの冬と、同じだった。

「……おはよう」

 戸に向かって、言った。

 答えは、なかった。

 

 杖をついて、戸口まで歩いた。

 戸を開けると、朝の森が、ざわざわと鳴っていた。

 家の前の泥の上に、黒い枝先が、点々と続いていた。沢のほうへ。それから、森の奥へ。

 追いかけようとして、一歩、出た。

 曲がった脚が、ぬかるみに取られた。僕は、戸口の柱にしがみついて、それ以上、進めなかった。

 あの冬、僕は、この線を辿って、湖まで行った。

 今は、戸口から先へ、行けなかった。

 

   ◇

 

 ロノヴァがいなくなって、体が、軽くなった。

 熱が、出なくなった。粥を、器の底まで食べられるようになった。朝、目を覚ますと、前の日より、少しだけ、手に力が入った。

 糸が、戻っているのだと思った。

 ロノヴァがいないから。

 そう思うたびに、胸の奥が、冷たくなった。

 

 夏が来た。

 タイムが、見違えるほど茂った。棚の上から、窓辺に移した。葉が、日に透けた。指でこすると、夏の匂いがした。

 小鳥が、薪の山のてっぺんに、戻ってきた。三羽。四羽。

 僕は、それを、窓から見ていた。

 あの冬、ロノヴァが出ていった次の朝も、小鳥が戻ってきた。戻ってきた小鳥を見て、よかった、と思えなかった。

 今も、思えなかった。

 窓のそばの椅子に、座ってみた。

 ロノヴァが、いつも座っていた椅子だ。

 そこからは、樅の木の餌台が、ちょうど見えた。あの冬、僕が、そういう高さに打ちつけたのだ。この椅子から、見えるように。

 小鳥が、パン屑をついばんでいた。

 この人は、毎日、ここから、これを見ていたのだ。自分のそばには、来なかった鳥を。

 

 杖をついて、沢まで下りられるようになった。

 沢沿いの、いちばん近い罠だけ、掛け直した。五つのうち、杖で行けるのは、二つだった。かかる日は、少なかった。森の奥へ続く罠の小道には、曲がった脚では、半分も行けなかった。

 沢で、魚を釣った。岸に座って、糸を垂らして、半日。一匹か、二匹。

 夏の森には、木苺がなった。手の届くところだけ、摘んだ。

 燕麦の袋は、少しずつ、軽くなっていった。

 町へ行けば、毛皮を売って、燕麦を買える。

 夏の終わりに、一度だけ、町へ向かった。

 半日で、脚が、動かなくなった。泥の道に座りこんで、日が暮れるまで、動けなかった。這うようにして、家に戻った。

 それきり、町へは、行かなかった。

 

 毎朝、目を覚まして、最初に、暖炉の向こうを見た。

 誰もいなかった。

「おはよう」

 言った。毎朝。

 答えは、来なかった。

 あの冬、この人は、僕のおはように、一度も答えなかった。答えてくれるようになったのは、湖の島の朝からだった。春に、百と九回目だと、この人は言った。

 今、何回目なのか、僕には、分からなかった。

 数えていたのは、ロノヴァだった。

 

 秋が来た。

 ロノヴァが積んでくれた薪が、減っていった。

 斧を持った。片脚で立って、振り下ろした。刃は、木目を外れた。ロノヴァと同じだった。

 丸太を運んでくることが、できなかった。森の倒木まで行って、枝を拾ってくるのが、せいぜいだった。

 燕麦の袋は、手のひらに載るくらいになった。

 ふたり分の、一回ぶん。

 それだけは、使わなかった。棚の上の蜂蜜の瓶にも、手をつけなかった。

 ロノヴァが帰ってきたら、炊こうと思った。

 帰ってこないと、分かっていた。分かっていて、袋の口を、固く結んだ。

 

 最初の雪が降った夜、熱が出た。

 寒くて、暑くて、どちらなのか分からなかった。

 暖炉の火が、小さかった。薪を足そうとして、寝床から這い出した。腕が、体を支えなかった。床が、冷たかった。

 這って、暖炉の前まで行った。最後の薪を、くべた。

 火が、少しだけ、明るくなった。

 僕は、暖炉の前に、横になった。

 あの冬、この人を、ここに寝かせた。

「……ロノヴァ」

 呼んだ。

 答えは、なかった。

 もう一度、呼んだ。

 雪が、何でも隠してしまう夜だった。

 

   ◇

 

 わたしは、北東の湖の、ずっと手前の森にいた。

 あの家から、半日の道。目の届く、いちばん遠いところ。

 ここからなら、あの糸が見える。ここからなら、あの糸は、わたしのせいでは細らない。

 夏のあいだ、わたしは、毎晩、帳面をつけた。

 ——トイヴォの糸。戻った。

 ——トイヴォの糸。太った。

 ——戻った。

 生かす者、の欄が、また、長くなっていった。

 わたしが、そばにいないから。

 わたしのまわりには、黒い輪ができた。森の中の、名前のない場所に。夏のあいだに、何度も、場所を変えた。

 どこにいても、わたしのまわりだけが、枯れていった。

 町の兵は、来なかった。わたしの線を辿ってくる糸は、夏のあいだ、ひとつも見えなかった。

 遠くから、あの糸の動きを、見ていた。

 毎日、同じころに、糸が、家から沢のほうへ下りていく。半日、そこに留まって、また家へ戻る。魚を釣っているのだと思った。

 夏の終わりのある朝、糸が、町のほうへ動きはじめた。

 ゆっくりと。杖をつく速さで。

 昼すぎに、止まった。道の途中で。

 日が暮れるまで、動かなかった。

 わたしは、立ち上がって、森の縁まで歩いた。そこで、止まった。

 夜になって、糸は、家のほうへ戻りはじめた。這うような速さで。

 わたしは、森の縁に立ったまま、それを見ていた。

 迎えに行けば、細らせる。

 行かなかった。

 

 秋になって、あの糸が、また細りはじめた。

 夜のあいだではなかった。昼も、夜も、少しずつ。

 わたしのせいでは、なかった。

 食べるものが、減っているのだと分かった。冷えているのだと分かった。糸の震え方が、あの冬の、飢えた獣の糸と、同じだった。

 戻れば、細らせる。

 戻らなければ、細っていく。

 わたしは、帳面の同じ頁を、何度も、開いたり閉じたりした。

 最初の雪が降った夜、あの糸が、大きく震えた。

 熱の震え方だった。

 それから、細っていった。夜のあいだに。わたしの、いないところで。

 わたしは、立ち上がった。

 

 半日の道を、走った。

 雪の上に、黒い線が、まっすぐに引かれていった。

 

 戸を開けた。

 暖炉の火は、消えかけていた。熾火の赤が、ひとつ、ふたつ。

 その前に、トイヴォが、横になっていた。

 あの冬、わたしが寝かされていた場所に。

 トイヴォが、目を開けた。

 わたしを見た。

 長いあいだ、見ていた。

「……おかえり」

 かすれた声だった。

 わたしは、戸口で、動けなかった。

「……ただいま」

 言えた。

 

 暖炉に、火を入れた。

 薪は、なかった。わたしは、窓のそばの、わたしが座っていた椅子を、割って、くべた。

 トイヴォを、寝床に運んだ。

 軽かった。春よりも、ずっと。

 糸を、見た。

 細かった。

 髪の毛の、半分の、さらに半分。夏のあいだ、太っていた糸が、秋と、飢えと、熱に、使い切られていた。

 わたしがここにいれば、この夜のうちに、また細る。

 分かっていた。

 分かっていて、わたしは、寝床のそばに、膝をついた。

 

「……ロノヴァ。棚の、下」

 トイヴォが、言った。

 棚の下に、小さな袋があった。口が、固く結ばれていた。

 燕麦だった。手のひらに載るくらい。

「……ふたり分の、一回ぶん」

 トイヴォが、笑おうとした。

「君が、帰ってきたら、炊こうと思って。……とっておいた」

 わたしは、袋を、握りしめた。

 それから、鍋に、水を張った。

 燕麦を、入れた。ふたり分。

 塩を、ひとつまみと、半分。

 煮えるのを、待った。焦がさないように、ずっと、かき混ぜていた。

 棚の上の、蜂蜜の瓶を、取った。

 粥を、器によそった。蜂蜜を、ひと匙、落とした。

 寝床のそばに戻って、匙ですくった。

 息を、吹きかけた。

 唇に、当てた。

 トイヴォは、口を開けた。

 一匙。

 飲み込んだ。

「……甘い」

 トイヴォが、言った。

 あの冬の朝、わたしが、初めて味を口にした言葉だった。

 二匙目は、入らなかった。

 

「……行かないで」

 トイヴォが、言った。

 春と、同じ言葉だった。

「わたしがいれば、お前は、細る」

「うん。……知ってる」

 トイヴォの指が、毛布の上で、わたしの手を探した。

「知ってて、言ってる」

 わたしは、手を、差し出した。

 黒い指が、トイヴォの指に、触れた。

 冷たいのは、トイヴォの指のほうだった。

「……行かない」

 わたしは、言った。

 トイヴォは、目を閉じた。

 指は、離さなかった。

 わたしは、寝床のそばに、座ったまま、朝を待った。

 離れれば、細らない。

 わたしは、離れなかった。

 死の執政が、終わらせずにいられる、ただひとつの方法を、わたしは、選ばなかった。

 

   ◇

 

 夜明けに、トイヴォが、目を開けた。

 窓が、白くなりはじめていた。

 最初に、わたしを見た。

「……おはよう、ロノヴァ」

「おはよう」

 百と、六十五。

 わたしは、数えた。

 トイヴォは、少しだけ、笑った。

「……よかった。……今日は、答えてくれた」

 それから、窓のほうを見た。

 窓辺で、タイムが、雪明かりの中で、葉を揺らしていた。

「……春に、なったら」

 トイヴォが、言った。

 その先は、来なかった。

 

 糸が、終わった。

 細く、細く、長いあいだ続いていた糸が、わたしの目の前で、ほどけるように、終わった。

 わたしは、待った。

 終わった糸が、わたしのもとを通るのを。

 通らなかった。

 糸は、終わって、それきりだった。

 どこへ行ったのか、わたしには、分からなかった。

 迷わずに、行けたのか。

 寒くは、ないのか。

 何ひとつ、わたしには、分からなかった。

 五年前の冬、この人間の祖母の糸は、わたしのもとを通った。わたしは、それを記録した。覚えてはいなかった。

 この人間の糸は、わたしのもとを通らなかった。

 わたしは、全部、覚えていた。

 

   ◇

 

 凍った地面に、火を焚いた。

 溶けたところを、掘った。また、火を焚いた。

 窓から見える、樅の木の根もと。あの冬、トイヴォが小鳥の餌台を打ちつけた木。

 三日かかった。

 トイヴォを、毛皮にくるんで、下ろした。

 土を、かけた。

 盛り上がった土の上に、雪が、うっすらと積もった。

 わたしは、その横に、座っていた。

 日が暮れた。

 夜が明けた。

 土の上の、枯れ草が、黒く縮れていた。

 わたしのまわりから、少しずつ。墓の上の、草の糸が、細っていった。

 わたしがここにいれば、この土の上には、春になっても、何も生えない。

 わたしは、立ち上がった。

 

 家に入った。

 窓辺の、タイムを見た。

 わたしがいないあいだに、茂っていた。夏の匂いのする、あの鉢。

 糸が、細りはじめていた。わたしが戻ってきた夜から。

 わたしがいれば、この鉢は、春までは、もたない。

 わたしがいなければ、水をやる者がいない。火の消えた家は、冬のあいだに、凍りつく。

 どちらの欄にも、同じことが書かれていた。

 あの冬、わたしは、わたしがいなければ春までもつ、と記録した。春に、わたしがいてももった、と改めた。

 もう一度、改めることになる。

 水差しを取って、最後に一度だけ、水をやった。土が、黒く湿った。

 鉢は、窓辺に、置いたままにした。

 奥の寝床の枕の上に、祖母の上着が、畳んであった。袖の端が、揃っていなかった。

 揃えなかった。

 帳面を、ひらいた。

 ——トイヴォ。

 そこで、筆が、止まった。

 何を書けばいいのか、わたしには、分からなかった。

 生かす者、の欄を、見た。

 冬のあいだに、帳面でいちばん長くなった欄。夏のあいだに、また長くなった欄。

 もう、書くことは、なかった。

 帳面を、閉じた。

 

 戸を閉めた。

 音を立てて。

 雪の上に、黒い線が、一本、引かれていった。家から、遠ざかるほうへ。

 どこへ行くのかは、決めていなかった。

 どこへ行っても、わたしのまわりだけが、枯れる。

 

 次の朝、わたしは、雪の中で、目を開けた。

 眠っていたのではない。目を閉じていただけだ。

 最初に、隣を見た。

 誰もいなかった。

「……おはよう」

 言った。

 百と、六十六。

 答えは、なかった。

 次の朝も、言った。

 百と、六十七。

 答えは、なかった。

 わたしは、数えることを、やめなかった。

 やめ方を、あの人間は、教えてくれなかった。




お読みいただきありがとうございました。
これで、IF-6「細りきるルート」は完結です。救いのない終わり方になりました。本編の二人は、このあと鍋を持って旅に出ています。
次は旅路編を公開予定ですの
お待ちいただけると幸いです。
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