※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※人が亡くなります。救いのない結末です。ご注意ください。
※今回はトイヴォ視点とロノヴァ視点でお送りします。
戸を叩く音は、しなかった。
夜が明けて、窓が白くなって、日が差しこんできても、しなかった。
僕は、寝床の上で、ずっと、戸を見ていた。
奥の寝床の枕の上に、おばあちゃんの上着が、畳んで置いてあった。袖の端が、揃っていなかった。
棚の上の、タイムの鉢の隣に、蜂蜜の瓶が置いてあった。町で、代金にならなかった瓶。
それで、分かった。
あの冬と、同じだった。
「……おはよう」
戸に向かって、言った。
答えは、なかった。
杖をついて、戸口まで歩いた。
戸を開けると、朝の森が、ざわざわと鳴っていた。
家の前の泥の上に、黒い枝先が、点々と続いていた。沢のほうへ。それから、森の奥へ。
追いかけようとして、一歩、出た。
曲がった脚が、ぬかるみに取られた。僕は、戸口の柱にしがみついて、それ以上、進めなかった。
あの冬、僕は、この線を辿って、湖まで行った。
今は、戸口から先へ、行けなかった。
◇
ロノヴァがいなくなって、体が、軽くなった。
熱が、出なくなった。粥を、器の底まで食べられるようになった。朝、目を覚ますと、前の日より、少しだけ、手に力が入った。
糸が、戻っているのだと思った。
ロノヴァがいないから。
そう思うたびに、胸の奥が、冷たくなった。
夏が来た。
タイムが、見違えるほど茂った。棚の上から、窓辺に移した。葉が、日に透けた。指でこすると、夏の匂いがした。
小鳥が、薪の山のてっぺんに、戻ってきた。三羽。四羽。
僕は、それを、窓から見ていた。
あの冬、ロノヴァが出ていった次の朝も、小鳥が戻ってきた。戻ってきた小鳥を見て、よかった、と思えなかった。
今も、思えなかった。
窓のそばの椅子に、座ってみた。
ロノヴァが、いつも座っていた椅子だ。
そこからは、樅の木の餌台が、ちょうど見えた。あの冬、僕が、そういう高さに打ちつけたのだ。この椅子から、見えるように。
小鳥が、パン屑をついばんでいた。
この人は、毎日、ここから、これを見ていたのだ。自分のそばには、来なかった鳥を。
杖をついて、沢まで下りられるようになった。
沢沿いの、いちばん近い罠だけ、掛け直した。五つのうち、杖で行けるのは、二つだった。かかる日は、少なかった。森の奥へ続く罠の小道には、曲がった脚では、半分も行けなかった。
沢で、魚を釣った。岸に座って、糸を垂らして、半日。一匹か、二匹。
夏の森には、木苺がなった。手の届くところだけ、摘んだ。
燕麦の袋は、少しずつ、軽くなっていった。
町へ行けば、毛皮を売って、燕麦を買える。
夏の終わりに、一度だけ、町へ向かった。
半日で、脚が、動かなくなった。泥の道に座りこんで、日が暮れるまで、動けなかった。這うようにして、家に戻った。
それきり、町へは、行かなかった。
毎朝、目を覚まして、最初に、暖炉の向こうを見た。
誰もいなかった。
「おはよう」
言った。毎朝。
答えは、来なかった。
あの冬、この人は、僕のおはように、一度も答えなかった。答えてくれるようになったのは、湖の島の朝からだった。春に、百と九回目だと、この人は言った。
今、何回目なのか、僕には、分からなかった。
数えていたのは、ロノヴァだった。
秋が来た。
ロノヴァが積んでくれた薪が、減っていった。
斧を持った。片脚で立って、振り下ろした。刃は、木目を外れた。ロノヴァと同じだった。
丸太を運んでくることが、できなかった。森の倒木まで行って、枝を拾ってくるのが、せいぜいだった。
燕麦の袋は、手のひらに載るくらいになった。
ふたり分の、一回ぶん。
それだけは、使わなかった。棚の上の蜂蜜の瓶にも、手をつけなかった。
ロノヴァが帰ってきたら、炊こうと思った。
帰ってこないと、分かっていた。分かっていて、袋の口を、固く結んだ。
最初の雪が降った夜、熱が出た。
寒くて、暑くて、どちらなのか分からなかった。
暖炉の火が、小さかった。薪を足そうとして、寝床から這い出した。腕が、体を支えなかった。床が、冷たかった。
這って、暖炉の前まで行った。最後の薪を、くべた。
火が、少しだけ、明るくなった。
僕は、暖炉の前に、横になった。
あの冬、この人を、ここに寝かせた。
「……ロノヴァ」
呼んだ。
答えは、なかった。
もう一度、呼んだ。
雪が、何でも隠してしまう夜だった。
◇
わたしは、北東の湖の、ずっと手前の森にいた。
あの家から、半日の道。目の届く、いちばん遠いところ。
ここからなら、あの糸が見える。ここからなら、あの糸は、わたしのせいでは細らない。
夏のあいだ、わたしは、毎晩、帳面をつけた。
——トイヴォの糸。戻った。
——トイヴォの糸。太った。
——戻った。
生かす者、の欄が、また、長くなっていった。
わたしが、そばにいないから。
わたしのまわりには、黒い輪ができた。森の中の、名前のない場所に。夏のあいだに、何度も、場所を変えた。
どこにいても、わたしのまわりだけが、枯れていった。
町の兵は、来なかった。わたしの線を辿ってくる糸は、夏のあいだ、ひとつも見えなかった。
遠くから、あの糸の動きを、見ていた。
毎日、同じころに、糸が、家から沢のほうへ下りていく。半日、そこに留まって、また家へ戻る。魚を釣っているのだと思った。
夏の終わりのある朝、糸が、町のほうへ動きはじめた。
ゆっくりと。杖をつく速さで。
昼すぎに、止まった。道の途中で。
日が暮れるまで、動かなかった。
わたしは、立ち上がって、森の縁まで歩いた。そこで、止まった。
夜になって、糸は、家のほうへ戻りはじめた。這うような速さで。
わたしは、森の縁に立ったまま、それを見ていた。
迎えに行けば、細らせる。
行かなかった。
秋になって、あの糸が、また細りはじめた。
夜のあいだではなかった。昼も、夜も、少しずつ。
わたしのせいでは、なかった。
食べるものが、減っているのだと分かった。冷えているのだと分かった。糸の震え方が、あの冬の、飢えた獣の糸と、同じだった。
戻れば、細らせる。
戻らなければ、細っていく。
わたしは、帳面の同じ頁を、何度も、開いたり閉じたりした。
最初の雪が降った夜、あの糸が、大きく震えた。
熱の震え方だった。
それから、細っていった。夜のあいだに。わたしの、いないところで。
わたしは、立ち上がった。
半日の道を、走った。
雪の上に、黒い線が、まっすぐに引かれていった。
戸を開けた。
暖炉の火は、消えかけていた。熾火の赤が、ひとつ、ふたつ。
その前に、トイヴォが、横になっていた。
あの冬、わたしが寝かされていた場所に。
トイヴォが、目を開けた。
わたしを見た。
長いあいだ、見ていた。
「……おかえり」
かすれた声だった。
わたしは、戸口で、動けなかった。
「……ただいま」
言えた。
暖炉に、火を入れた。
薪は、なかった。わたしは、窓のそばの、わたしが座っていた椅子を、割って、くべた。
トイヴォを、寝床に運んだ。
軽かった。春よりも、ずっと。
糸を、見た。
細かった。
髪の毛の、半分の、さらに半分。夏のあいだ、太っていた糸が、秋と、飢えと、熱に、使い切られていた。
わたしがここにいれば、この夜のうちに、また細る。
分かっていた。
分かっていて、わたしは、寝床のそばに、膝をついた。
「……ロノヴァ。棚の、下」
トイヴォが、言った。
棚の下に、小さな袋があった。口が、固く結ばれていた。
燕麦だった。手のひらに載るくらい。
「……ふたり分の、一回ぶん」
トイヴォが、笑おうとした。
「君が、帰ってきたら、炊こうと思って。……とっておいた」
わたしは、袋を、握りしめた。
それから、鍋に、水を張った。
燕麦を、入れた。ふたり分。
塩を、ひとつまみと、半分。
煮えるのを、待った。焦がさないように、ずっと、かき混ぜていた。
棚の上の、蜂蜜の瓶を、取った。
粥を、器によそった。蜂蜜を、ひと匙、落とした。
寝床のそばに戻って、匙ですくった。
息を、吹きかけた。
唇に、当てた。
トイヴォは、口を開けた。
一匙。
飲み込んだ。
「……甘い」
トイヴォが、言った。
あの冬の朝、わたしが、初めて味を口にした言葉だった。
二匙目は、入らなかった。
「……行かないで」
トイヴォが、言った。
春と、同じ言葉だった。
「わたしがいれば、お前は、細る」
「うん。……知ってる」
トイヴォの指が、毛布の上で、わたしの手を探した。
「知ってて、言ってる」
わたしは、手を、差し出した。
黒い指が、トイヴォの指に、触れた。
冷たいのは、トイヴォの指のほうだった。
「……行かない」
わたしは、言った。
トイヴォは、目を閉じた。
指は、離さなかった。
わたしは、寝床のそばに、座ったまま、朝を待った。
離れれば、細らない。
わたしは、離れなかった。
死の執政が、終わらせずにいられる、ただひとつの方法を、わたしは、選ばなかった。
◇
夜明けに、トイヴォが、目を開けた。
窓が、白くなりはじめていた。
最初に、わたしを見た。
「……おはよう、ロノヴァ」
「おはよう」
百と、六十五。
わたしは、数えた。
トイヴォは、少しだけ、笑った。
「……よかった。……今日は、答えてくれた」
それから、窓のほうを見た。
窓辺で、タイムが、雪明かりの中で、葉を揺らしていた。
「……春に、なったら」
トイヴォが、言った。
その先は、来なかった。
糸が、終わった。
細く、細く、長いあいだ続いていた糸が、わたしの目の前で、ほどけるように、終わった。
わたしは、待った。
終わった糸が、わたしのもとを通るのを。
通らなかった。
糸は、終わって、それきりだった。
どこへ行ったのか、わたしには、分からなかった。
迷わずに、行けたのか。
寒くは、ないのか。
何ひとつ、わたしには、分からなかった。
五年前の冬、この人間の祖母の糸は、わたしのもとを通った。わたしは、それを記録した。覚えてはいなかった。
この人間の糸は、わたしのもとを通らなかった。
わたしは、全部、覚えていた。
◇
凍った地面に、火を焚いた。
溶けたところを、掘った。また、火を焚いた。
窓から見える、樅の木の根もと。あの冬、トイヴォが小鳥の餌台を打ちつけた木。
三日かかった。
トイヴォを、毛皮にくるんで、下ろした。
土を、かけた。
盛り上がった土の上に、雪が、うっすらと積もった。
わたしは、その横に、座っていた。
日が暮れた。
夜が明けた。
土の上の、枯れ草が、黒く縮れていた。
わたしのまわりから、少しずつ。墓の上の、草の糸が、細っていった。
わたしがここにいれば、この土の上には、春になっても、何も生えない。
わたしは、立ち上がった。
家に入った。
窓辺の、タイムを見た。
わたしがいないあいだに、茂っていた。夏の匂いのする、あの鉢。
糸が、細りはじめていた。わたしが戻ってきた夜から。
わたしがいれば、この鉢は、春までは、もたない。
わたしがいなければ、水をやる者がいない。火の消えた家は、冬のあいだに、凍りつく。
どちらの欄にも、同じことが書かれていた。
あの冬、わたしは、わたしがいなければ春までもつ、と記録した。春に、わたしがいてももった、と改めた。
もう一度、改めることになる。
水差しを取って、最後に一度だけ、水をやった。土が、黒く湿った。
鉢は、窓辺に、置いたままにした。
奥の寝床の枕の上に、祖母の上着が、畳んであった。袖の端が、揃っていなかった。
揃えなかった。
帳面を、ひらいた。
——トイヴォ。
そこで、筆が、止まった。
何を書けばいいのか、わたしには、分からなかった。
生かす者、の欄を、見た。
冬のあいだに、帳面でいちばん長くなった欄。夏のあいだに、また長くなった欄。
もう、書くことは、なかった。
帳面を、閉じた。
戸を閉めた。
音を立てて。
雪の上に、黒い線が、一本、引かれていった。家から、遠ざかるほうへ。
どこへ行くのかは、決めていなかった。
どこへ行っても、わたしのまわりだけが、枯れる。
次の朝、わたしは、雪の中で、目を開けた。
眠っていたのではない。目を閉じていただけだ。
最初に、隣を見た。
誰もいなかった。
「……おはよう」
言った。
百と、六十六。
答えは、なかった。
次の朝も、言った。
百と、六十七。
答えは、なかった。
わたしは、数えることを、やめなかった。
やめ方を、あの人間は、教えてくれなかった。
お読みいただきありがとうございました。
これで、IF-6「細りきるルート」は完結です。救いのない終わり方になりました。本編の二人は、このあと鍋を持って旅に出ています。
次は旅路編を公開予定ですの
お待ちいただけると幸いです。