※今回はトイヴォ視点です。
朝、目を覚まして最初にすることが、ひとつ増えた。
暖炉の向こう側をのぞいて、ロノヴァが息をしているか確かめることだ。
彼女がこの家に来て、五日が過ぎた。もう、息が止まりそうなほど細くなることはない。それでも、起き抜けのまだ暗い部屋で、熾火の向こうに白い髪が見えると、僕はまず、その胸のあたりの毛布がゆっくり上下しているのを確かめてしまう。
確かめてから、ようやく僕の一日が始まる。
その朝、ロノヴァはもう目を開けていた。
寝床の上に身を起こして壁に背を預け、じっと暖炉の熾火を見ている。金色の目が、薄暗がりの中でぼんやりと光っていた。
「おはよう。早いね」
「……」
「もしかして、ずっと起きてた?」
「眠る必要はない」
「でも、昨日の夜は寝てたよ。寝息、聞こえたもの」
ロノヴァは、ほんの少しだけ眉を寄せた。
この五日で分かったことがある。ロノヴァは、自分のことを「〜は必要ない」と言うのが癖だ。食事は必要ない。眠る必要はない。毛布は必要ない。そして、そのたびに僕が「でも」と言うと、こうして少しだけ眉を寄せて、黙る。
黙るけれど、そのあと、ちゃんとご飯は食べるし、ちゃんと眠る。
だから僕は、それを「必要ない」ではなく、「慣れていない」という意味だと思うことにしている。
暖炉に薪を足してから、窓辺の鉢に水をやる。
おばあちゃんのタイムは、今朝も元気だった。細い茎の先に、小さな葉がぎっしりとついている。指でそっと撫でると、青くて少し甘い、胸のすくような香りが立った。
この香りが、僕は好きだ。冬の家の中で、ここだけが夏の匂いをしている。
「毎朝、それに水をやるのだな」
背中から、ロノヴァの声がした。
「うん。おばあちゃんが株分けしてくれたやつなんだ。……前にも言ったっけ」
「聞いた」
「冬は外に置いておけないから、窓の内側に入れてる。でも暖炉に近すぎると乾いちゃうし、窓に近すぎると冷えるし、けっこう難しいんだよ。この場所に決めるまで、三年かかった」
ロノヴァは、何も言わなかった。
振り返ると、ロノヴァは鉢ではなく、僕の手元を見ていた。水差しを持った手を。
何を考えているのかは、分からなかった。この人の顔は、たいていのとき、何を考えているのか分からない。
朝ご飯は、燕麦の粥と、干し林檎を刻んで煮たもの。
ロノヴァは、もう自分で匙を持てるようになった。まだ動きはゆっくりで、器を膝の上に置いたまま、一匙ずつ、確かめるように口へ運ぶ。途中で何度か手が止まる。そのたびに、僕は手を出したくなるのをこらえる。
できるようになったら、自分でやってね。——最初の朝に、僕がそう言ったのだ。
言ったからには、待たなければいけない。
ロノヴァが今着ているのは、おばあちゃんの服だ。
三日前、ロノヴァが自分で体を起こせるようになった日に、長持の底から出してきた。厚手の羊毛の上着と、裾の長い麻の下衣。おばあちゃんが亡くなってから、捨てることも着ることもできずに、ずっとしまいこんでいたものだ。
着替えのあいだ、僕は外で薪を割っていた。
戻ってきて、思わず笑ってしまった。
丈が、まるで足りていなかった。おばあちゃんは小柄な人だったから、ロノヴァが着ると、上着の袖は肘と手首のあいだでぷつりと終わり、下衣の裾はくるぶしのずっと上で揺れていた。そこから、黒い腕と、白い足首がのぞいている。
「……何が可笑しい」
「ごめん。似合ってるよ。ちょっと、短いけど」
「ちょっと、ではない」
ロノヴァは真顔でそう言って、袖を引っぱった。袖は伸びなかった。
その日から、ロノヴァの元の衣を繕うのが、僕の仕事になった。
黒と白の入り組んだ衣は、手に取ると不思議な手触りがした。布というより、何か——鳥の羽を、ものすごく細かく織り上げたような。軽くて、ひやりとしていて、針を通すと、音もなく吸い込まれていく。
裂け目は多かった。焼け焦げたような跡もあった。ひとつひとつ、裏から当て布をして、目立たないように細かく縫っていく。
今朝も、朝ご飯のあとにその続きをした。暖炉のそばに腰を下ろして、膝の上に衣を広げる。
「器用なものだな」
ロノヴァが、粥の器を膝に載せたまま言った。
「一人だと、何でも自分でやるしかないから。服も、靴も、屋根も、全部」
「全部、か」
「全部。できないことは、やらないで済むようにする。……それでも、この布は難しいな。針が、どこに通ってるのか分からなくなる」
僕が眉をひそめて針を動かしているのを、ロノヴァは長いあいだ黙って見ていた。
それから、ぽつりと言った。
「お前の糸は、まだ長いな」
僕は、手元の糸を見た。
確かに、まだ長い。さっき通したばかりだ。
「うん。まだまだ縫えるよ」
「そちらの糸ではない」
「……え?」
顔を上げると、ロノヴァはもう、何も言うつもりがないような顔で、粥をすくっていた。
僕は、少し考えた。
そちらの糸ではない糸。まだ長い、糸。
昔、市場町の祭りで、手相を見るおばあさんに言われたことを思い出した。お前さんの生命線は長いねえ、と。
「……もしかして、ロノヴァって、占い師さん?」
匙が、止まった。
ロノヴァは、長いあいだ僕の顔を見ていた。怒っているのか、呆れているのか、それとも別の何かなのか、やっぱり分からない顔で。
「……そういうものだと、思っておけ」
「そっか。長いってことは、長生きしそうってことだよね。よかった」
ロノヴァは、答えなかった。
答えずに、器の中に目を落とした。その横顔が、なぜか、少しだけ困っているように見えた。
◇
昼前に、罠を見に出た。
家から沢沿いに下って、森の縁をぐるりと回る。雪の上に仕掛けた輪罠が七つ。おじいちゃんの代から、同じ場所に同じ数だけ仕掛けている。獣の通り道は、何十年たってもそう変わらない。
五つ目の罠に、雪兎がかかっていた。
冬毛で真っ白な、まるまると太った兎だった。僕が近づくと、罠に脚をとられたまま、黒い目でじっとこちらを見た。
僕はいつものように膝をついて、兎の首に手をかけた。
一瞬で、終わらせる。長く苦しませないのが、せめてもの礼儀だと、おじいちゃんに教わった。
温かい体から、力が抜けていく。
「ありがとう」
小さく、そう言った。
これは、おばあちゃんの教えだ。命をもらったら、ありがとうと言いなさい。お前が今日生きるぶんの命を、この子が差し出してくれたのだから、と。
子どものころは、兎に言葉が通じるのか不思議だった。今は、通じるかどうかは関係ないのだと思っている。言わないと、僕のほうが何か大事なものを落としてしまう気がする。
兎を下げて家に戻ると、ロノヴァが、じっとこちらを見た。
いや——こちらではなく、僕の手に下がっている兎を。
その目つきが、いつもと少し違っていた。何かを確かめるような。遠くを見るような。ちょうど、最初の夜に、僕を透かして後ろの何かを見ていたときのような目だった。
「……罠に、かかっていたのか」
「うん。今夜は兎の煮込みにしよう。ロノヴァ、兎は食べられる?」
「食べられないものはない」
「よかった」
僕は戸口で、兎の皮を剥ぎにかかった。ロノヴァの視線が、まだ僕の手元にあるのを感じた。
「さっき、何か言っていたな」
「え?」
「外で。……兎に向かって」
聞こえていたのだろうか。家から罠までは、ずいぶん離れているのに。
「ありがとうって言ったんだ。おばあちゃんに教わったんだよ。命をもらうときは、お礼を言いなさいって」
「礼を」
「うん」
「なぜ、礼を言う。獣は、言葉を解さない」
「そうだね。だから、たぶん、兎のためじゃないんだと思う」
僕は、手を止めずに言った。
「僕のため、かな。命をもらってるってこと、忘れないように」
ロノヴァは、しばらく何も言わなかった。
皮を剥ぎ終えて振り返ると、ロノヴァは暖炉の火を見ていた。その横顔は、いつもと同じように静かだった。けれど、膝の上で組まれた黒い指が、少しだけ、強く握りしめられているように見えた。
◇
午後は、パンを焼いた。
森に置いてきた小麦粉を取り戻してから、ずっと焼きたいと思っていた。ライ麦と小麦を半分ずつ。前の晩から仕込んでおいた酸っぱい種を混ぜて、よく捏ねて、暖炉のそばで膨らませる。
捏ねているあいだ、ロノヴァはまた、僕の手元を見ていた。
この人は、本当によく僕の手元を見る。最初は落ち着かなかったけれど、五日もたつと慣れてしまった。
「なぜ、わざわざそのような手間をかける」
「パンのこと?」
「粉は、湯で煮れば粥になる。粥で足りるだろう」
「足りるけど」
僕は、生地を折りたたみながら言った。
「粥ばっかりだと、飽きるから」
「飽きる」
「うん。毎日同じものだと、だんだん、食べるのが作業みたいになってくるんだ。パンがあると、ちょっと嬉しい。スープに浸したり、蜂蜜を塗ったり」
「嬉しい、ために、半日をかけるのか」
「そうだよ」
「……非効率だ」
「そうかもね」
僕が笑うと、ロノヴァは、また少しだけ眉を寄せた。
でも、そのあと、生地が膨らんでいくのを、ずっと見ていた。
窯がわりの鉄鍋に生地を入れて、熾火に埋める。蓋の上にも炭を載せる。しばらくすると、家の中に、あの匂いが満ちはじめた。
市場町の朝の匂い。塩と、焼きたての黒パンの匂い。
焼きあがったパンを割ると、湯気が立った。まだ熱いうちに、端を小さくちぎって、ロノヴァに渡した。
ロノヴァは、それをしばらく手のひらに載せて眺めていた。それから、口に入れた。
長いあいだ、噛んでいた。
「……どう?」
「……」
「酸っぱい?」
「……悪くは、ない」
それが、この人にとっての「おいしい」なのだと、僕はなんとなく分かってきている。
ロノヴァは、手のひらに残った小さなパン屑を、じっと見つめていた。まるで、それが何でできているのかを、一つずつ確かめようとしているみたいに。
◇
夜。兎の煮込みを食べ終えて器を片づけてから、いつものように軟膏の壺を出した。
脇腹の傷の包帯を替える。傷は、少しずつ小さくなっていた。縁の黒いひび割れも、最初の夜に比べれば、ずいぶん細くなった。相変わらず、血は一滴も出ない。
それから、腕に軟膏を塗る。
肘の上から、指先まで。黒い肌に、赤い模様。指の一本一本に、薄く、丁寧に。
五日間、毎晩塗っている。けれど、黒い色は少しも薄くならなかった。
「凍傷、なかなか良くならないね」
僕が言うと、ロノヴァは、自分の腕を見下ろした。
「……これは、治らない」
「え」
「そういうものだ。治るものではない」
淡々とした声だった。痛がっている様子も、悲しんでいる様子もない。ただ、事実を述べているだけの声。
僕は、軟膏を塗る手を止めて、その黒い指を見た。
治らない。
そういうものだ、とロノヴァは言う。それなら、きっと、そうなのだろう。僕なんかが何日か軟膏を塗ったくらいで、どうにかなるものではないのだろう。
「そっか」
僕は、また指を動かしはじめた。
「じゃあ、せめて、痛くならないように塗っとくね」
ロノヴァが、顔を上げた気配がした。
僕は顔を上げずに、小指の先まで軟膏をのばした。黒い指は、相変わらず雪みたいに冷たかった。でも、五日前ほどではない気がした。
気のせいかもしれないけれど。
片づけを終えて横になろうとしたとき、ロノヴァが言った。
「トイヴォ」
名前を呼ばれたのは、たぶん、初めてだった。
僕は少し驚いて、振り返った。
「寝床を、窓から離してくれ」
「窓から?」
「……あちら側へ」
ロノヴァが指さしたのは、暖炉を挟んで窓とは反対の、部屋のいちばん奥の壁際だった。
「いいけど……寒い? 窓際、隙間風あるもんね」
ロノヴァは、答えなかった。
僕は、なんだか嬉しくなった。この人が、何かを「必要ない」と言うのではなく、自分から「こうしてくれ」と言ったのは、たぶん初めてだ。やっと、寒いということが分かってきたのかもしれない。
藁布団と毛布を抱えて、奥の壁際へ運ぶ。ロノヴァに肩を貸して、そこまで歩かせる。ロノヴァの足はまだおぼつかなかったけれど、最初の日に比べれば、ずっとしっかりしていた。
新しい寝床に落ち着くと、ロノヴァは、部屋の向こうの窓辺を見た。
暖炉の火の向こうに、タイムの鉢の小さな影がある。
ロノヴァはそれを、長いあいだ見ていた。
それから、目を閉じた。
「おやすみ、ロノヴァ」
「……」
返事は、やっぱりなかった。
でも今夜は、口元がほんの少しだけ動いた気がした。何か言いかけて、やめたみたいに。
◇
翌朝。
いつものように、まず暖炉の向こうをのぞいた。ロノヴァは奥の壁際で、まだ目を閉じていた。毛布が、ゆっくりと上下している。
よし、と思って、水差しを持って窓辺へ行った。
そして、足が止まった。
タイムが、枯れていた。
一晩で。
昨日の朝まであんなに青々としていた葉が、一枚残らず、黒く縮れていた。茎は乾ききって、指で触れると、かさりと音を立てて折れた。土は湿っているのに。水は、ちゃんとやっていたのに。
僕は、しばらく動けなかった。
窓を見た。霜の花が、ガラスの内側にまで張りついていた。昨夜は、ずいぶん冷え込んだのだろう。窓の枠の隙間から、冷気が入り込んだのかもしれない。
霜にやられたんだ。
そう思った。そう思うしかなかった。
でも——こんな枯れ方を、どこかで見たことがある気がした。黒く縮れて、触れれば崩れそうに乾いた葉。
どこだっただろう。
思い出せなかった。思い出そうとすると、なぜか、胸の奥が少しだけざわついた。だから、それ以上考えるのをやめた。
背後で、衣擦れの音がした。
振り返ると、ロノヴァが身を起こしていた。
その目が僕を見て、それから、僕の手の中の枯れた茎を見た。
ロノヴァの顔から、何かがすうっと抜け落ちたように見えた。
いつもの、何を考えているのか分からない顔ではなかった。何を考えているのか分からないのは同じだけれど、それとは違う。凍った湖の表面に、細いひびが一本、走ったような。
「……枯れちゃった」
僕は、笑おうとした。うまく笑えたかどうかは分からない。
「霜にやられたみたい。窓際、やっぱり冷えるんだね。場所、また考え直さないと」
ロノヴァは、何も言わなかった。
黙って、枯れた鉢を見ていた。
「……それは」
しばらくして、ロノヴァが口を開いた。掠れた声だった。
「大事な、ものだったのか」
僕は、手の中の茎を見下ろした。
大事なものだったのか。
大事だった。おばあちゃんが株分けしてくれた。一人になってから、毎朝水をやってきた。冬の家の中で、そこだけが夏の匂いをしていた。
でも、それを言ったら、この人が困る気がした。なぜそう思ったのかは、分からないけれど。
「うん。……でもね」
僕は鉢を持ち上げて、根元の土を指でそっと掘った。
土の中の根は、まだ白かった。
「根っこは、生きてるかもしれない。タイムって、強いんだよ。地面の上が枯れても、根が残ってれば、春になったらまた芽が出ることがあるんだ。おばあちゃんが、そう言ってた」
だから、捨てない。
僕は鉢を、窓辺ではなく、暖炉からも窓からもほどよく離れた、棚の上に移した。
「春まで、ここに置いとく」
振り返ると、ロノヴァは、まだ鉢を見ていた。
それから、ゆっくりと僕のほうへ視線を移した。
金色の目の奥で、七枚の花びらが、かすかに揺れた気がした。
「……春、か」
「うん。春」
ロノヴァは、それきり黙った。
黙って、自分の黒い両手を見下ろしていた。握るでもなく、開くでもなく。何かを持っていたのに、それをどこに置いたのか忘れてしまった人のように。
僕は水差しを置いて、暖炉に薪をくべた。
火が、ぱちりとはぜた。
窓の霜の花が、朝の光を受けて、白く光っていた。
その朝の粥は、少しだけ、塩を入れすぎた。
お読みいただきありがとうございました。
次回、第4話「誰かのための献立」はロノヴァ視点でお送りします。