※第二部「旅路編」の第1話です。本編第12話のその後のお話です。
※旅の途中の航路や土地には、作中の創作を含みます。
※今回はトイヴォ視点です。
旅路編 第1話 輪が鉢に届く
目を覚まして、最初に、暖炉の向こうを見た。
ロノヴァは、窓のそばの椅子にいた。膝の上で、おばあちゃんの帳面をひらいていた。
夏の終わりの朝は、もう、うっすらと冷えていた。
「おはよう、ロノヴァ」
「……おはよう」
ロノヴァは、帳面から顔を上げて、答えた。
「今の、何回目?」
「二百と、五十八」
すぐに返ってきた。
あの冬の、湖の島の朝から、ロノヴァは毎朝、答えてくれる。僕は数えていない。ロノヴァは数えている。答えなかった朝のぶんも、最初の朝から、ぜんぶ。
どうして数えるの、と前に聞いたら、記録するのが仕事だから、と言われた。それから少し黙って、忘れたくないから、と付け足した。
付け足したほうが、ほんとうの理由なのだと思う。
燕麦を量った。手のひらに、ふたり分。
塩は、ひとつまみと、半分。
鍋が煮えるあいだ、窓の外を見た。
輪の外の樅の木に、小鳥の餌台が打ちつけてある。あの冬、湖から帰ってすぐに、窓のそばの椅子からちょうど見える高さに、僕が打ちつけたものだ。その根もとに、おばあちゃんのタイムの鉢を置いてある。
春に芽を出したタイムは、夏のあいだに、見違えるほど茂った。棚の上では日が足りないから、と外に出したのは、夏のはじめのことだ。輪の外なら、ロノヴァのそばより、細らずにすむ。そう言うと、ロノヴァは少し考えて、「……そこなら」と言った。
冬の家の中で、そこだけが夏の匂いをしていた鉢が、夏のあいだは、ほんとうの夏の中にあった。
今朝の餌台には、小鳥が一羽もいなかった。
昨日も、いなかった。
粥をよそって、卓に二つ並べた。ロノヴァの器に、蜂蜜をひと匙。
ロノヴァは、匙を取らなかった。
「トイヴォ」
「うん」
「鉢の糸が、細りはじめた」
平らな声だった。帳面を読み上げるときの声。
僕は、匙を置いた。
「……水は、毎朝やってるよ」
「知っている。水のぶんでは、戻りきらない」
ロノヴァは、窓の外の樅を見た。
「輪が、樅の根に届いた。……鉢に、届いた」
食べ終えてから、外に出た。
家を囲む黒い輪は、春よりずっと大きくなっていた。北の縁は、罠を仕掛けに通う小道の入り口まで。東の縁は、沢へ下りる道の半ばまで。ロノヴァは毎晩、帳面に書いていた。北の縁が、指一本ぶん。東の縁が、指一本ぶん。指一本ぶんずつでも、夏じゅう積もれば、こうなる。
樅の根もとの草が、黒く縮れていた。鉢のすぐそばまで。
しゃがんで、タイムの葉を見た。
葉の先が、ほんの少しだけ、黄色くなっていた。指でこすると、夏の匂いは、まだした。
餌台の上に、パン屑が、昨日のまま残っていた。
小鳥は、ロノヴァが来た冬にも、いなくなった。ロノヴァが出ていった次の朝に、戻ってきた。戻ってきた小鳥を見て、よかった、と思えなかった朝のことを、僕は、ときどき思い出す。
後ろで、戸の開く音がした。
立ち上がって、振り返ると、ロノヴァが、輪の縁に立っていた。縁から先へは、出てこなかった。
「じゃあ、行こうか」
ロノヴァが、瞬きをした。
「春に、言ったでしょ。そしたら、鍋を持って、一緒にどこか行こうって」
「……覚えている」
「うん。僕も」
ロノヴァは、黙って、家を振り返った。
おじいちゃんが建てて、おばあちゃんが守って、僕が四年、ひとりで守った家だ。あの冬から、春と夏を、ふたりで暮らした。
「この家は、お前の家だ」
「うん」
「わたしのために、出ることになる」
「僕が、行きたいんだよ」
嘘ではなかった。
森と町のほかを、僕は、ほとんど知らない。おじいちゃんに連れられて歩いた雪原と、年に何度か通る南門と、市場。それと、あの冬の湖。それだけだ。この人は、どこの国も、ずっと上から見ていたのだという。人の足で旅をしたことは、ないのだという。
「君が見てた場所を、歩いてみたい。それで、行った先で、ご飯を作る」
ロノヴァは、しばらく、僕を見ていた。
「……いつ」
「雪の前。降りだしたら、遠くへは行けないから」
夜の雪原は歩くな、とおじいちゃんは言った。冬の旅も、同じことだ。
「どこへ」
「それを、これから考えよう」
◇
行き先は、夜に、ふたりで決めた。
「水の上がいい」
ロノヴァが言った。
「水の上には、枯らすものがない」
あの冬、凍った湖に出たときのことを、僕は思い出した。ロノヴァの歩いたあとに続く黒い線は、岸で途切れた。氷の上には、枯らすものがないからだ。
あのとき、僕は、それをロノヴァに言わなかった。言う暇が、なかった。
「じゃあ、船だね」
僕は、市場で聞いた話を思い出した。南の、ナド・クライへ渡る港から、よその国へ行く商船も出ている。モンドという、風の国へ行く船もある。向こうの北の港に着くのだと、干し魚を売っている男が言っていた。
「モンド」
ロノヴァが、繰り返した。
「知ってる?」
「……上から、見たことがある。風の強い国だ」
ロノヴァは、それ以上、言わなかった。
「じゃあ、まずそこにしよう」
地図は、持っていなかった。おじいちゃんの地図は、このあたりの森と沢しか描いていない。
それで、いいと思った。
次の日から、支度をはじめた。
冬のあいだに獲った鹿の革が、何枚か残っていた。いちばん柔らかい一枚を選んで、夜ごと、手袋を縫った。
ロノヴァの手の大きさは、測らなくても分かった。毎晩、軟膏を塗ってきた手だ。指の長さも、手首の細さも、僕の指が覚えていた。
五晩かかった。
手首より上まで届く、長い手袋ができた。黒い指を、すっかり隠せる。
差し出すと、ロノヴァは、それを見下ろした。
「……必要ない」
「うん。知ってる」
僕は、手袋を差し出したまま、言った。
「でも、君の手を見て、凍傷だと思ってくれる人ばっかりじゃないから」
あの冬、僕は、この黒い腕を、ひどい凍傷だと思った。そう思ったまま、何日も軟膏を塗った。
ロノヴァは、眉を寄せた。
寄せて、黙った。
それから、手袋をはめた。右、左。
指を、握って、ひらいた。
「……温かい」
「鹿の革だからね」
「……そうか」
ロノヴァは、手袋の指に沿って走る縫い目を、もう片方の指で、なぞっていた。
「縫い目、曲がってる?」
「曲がっている」
なぞる指は、止まらなかった。
「……悪くは、ない」
◇
タイムの鉢は、町に預けることにした。
布でくるんで、背負い袋のいちばん上にのせて、ひとりで町へ出た。出がけに、ロノヴァは戸口で「……気をつけて」と言った。
南門に、チモフェイが立っていた。
僕が鉢を差し出すと、チモフェイは、しばらく、それを見ていた。
「……何だ、これは」
「タイムです。おばあちゃんが株分けしてくれた」
「そうじゃない。なんで、俺に」
「しばらく、家を空けるので」
チモフェイの眉が、少しだけ上がった。
「どこへ」
「分かりません。まずは、モンドへ」
チモフェイは、黙って、鉢を受け取った。それから、詰め所の窓を振り返った。南向きの、日の当たる窓だった。
「水は、何日おきだ」
「土が乾いたら。指で触って、乾いてたら」
「面倒だな」
そう言いながら、チモフェイは、鉢を窓辺に置いた。置いてから、向きを直した。いちばん日の当たる向きに。
「……枯らしたら、あんたのせいにするからな」
「はい」
「俺じゃなくて、あんたのせいだぞ。取りに来ない、あんたの」
僕は、少し笑った。
取りに来い、と言われたのだと分かった。
通行の帳面に何か書きつけながら、チモフェイが、ふと手を止めた。
「そういえば、この夏、銀行の人間が来た」
「銀行?」
「北国銀行だ。去年の冬からの、この門の通行の帳面を、写していった。……銀行が門の帳面なんぞ見て、何になるんだかな」
チモフェイは、帳面を閉じた。僕のほうは、見なかった。
「冬のあいだ、あんたの名前は、一度も載ってない。春に、一度だけ載ってる。……それだけの帳面だ」
それから、話を変えた。
「モンドへは、どうやって行く」
「ナド・クライへ渡る港から、船で」
「そうか」
チモフェイは、少し黙った。
「……出るなら、今は、いい時期かもな」
僕には、その意味が、よく分からなかった。
毛皮と干し肉を、いつもより多く売った。旅のお金になる。
東の通りの二軒目で、蜂蜜を、小さい瓶で二つ買った。
それから、向かいの店で、帳面を一冊買った。紙を綴じて、革の表紙をつけただけの、白い帳面だった。
「何を書くんだい」
包みながら、店のおばあさんが聞いた。
「料理です。行った先で、習った料理を」
「へえ。じゃあ、うんと遠くまで行かないとね。一冊ぶん埋めるには」
おばあさんは、そう言って、紐をきゅっと結んだ。
帰りに南門を通ると、チモフェイは、こちらを見ないまま、言った。
「気をつけて、帰——」
そこで、口を閉じた。
「……気をつけて、行け」
いつもは、帰れ、と言う人だった。
「はい。チモフェイも、お気をつけて」
チモフェイは、片手だけ上げた。
詰め所の窓で、タイムの葉が、日に透けていた。
家に戻ったのは、何日かあとの夕方だった。
戸を開けると、ロノヴァが、鍋の前に立っていた。
「ただいま」
「……おかえり」
粥は、焦げていなかった。
春には、何度も焦がしていたのに。そう言うと、ロノヴァは、「夏のはじめから、焦がしていない」と言った。帳面につけているらしかった。
◇
発つ前の晩、僕は、買ってきた帳面をひらいた。
白い頁が、どこまでも続いていた。
一頁目は、空けておくことにした。行った先で、最初に習った料理を書くために。
代わりに、表紙の裏に、少しだけ書いた。
——燕麦、手のひらに、ふたり分。塩、ひとつまみと、半分。蜂蜜、ひと匙。
この家の粥だ。どこへ行っても、ここから始める。
書き終えて顔を上げると、ロノヴァが、自分の帳面をつけていた。おばあちゃんの取引帳面の、後ろのほう。今夜は、いつもより長く書いていた。
のぞきこむつもりはなかった。けれど、見えてしまった。
——明日、この家を出る。
その下にもう一行、書き足そうとして、ロノヴァの指が、しばらく止まっていた。
書かずに、帳面を閉じた。
ロノヴァは、立ち上がって、奥の寝床のほうへ行った。
枕の上に、おばあちゃんの服が畳んで置いてある。去年の冬、ロノヴァが出ていくために畳んだ服だ。袖の端が、揃っていない。僕は、揃えなかった。ロノヴァも、揃えなかった。
ロノヴァは、その服を、一度ひろげた。
それから、畳み直した。
ゆっくりと。袖の端を、揃えて。
揃っていた。団子は、まだ三角になるのに。
僕の視線に気づいて、ロノヴァが言った。
「……出ていくための畳み方では、ない」
黒い指が、揃った袖の端を、そっと押さえた。
僕は、何も言わなかった。言わなくても、よかった。
◇
朝、粥を食べた。
器を洗って、棚に戻した。二つ並べて。
鍋は、背負い袋に入れた。おじいちゃんの古い鉄鍋と、あの冬、ロノヴァが包みに入れて持っていった小鍋。触れ合って、こつん、と鳴った。
ロノヴァは、自分の衣を着ていた。黒と白の入り組んだ、あの衣。袖は、手首まで届いている。その先を、僕の縫った手袋が隠していた。
戸口で、僕は、家の中を振り返った。
暖炉の灰。梁から下がった干し草の束。棚の上の、二つの器。枕の上の、袖の揃った服。窓のそばの、ロノヴァの椅子。
帰ってくる、とは言わなかった。いつになるのか、分からなかったから。この人の前で、分からないことを約束するのは、やめておこうと思った。
「行ってきます」
家に向かって、言った。
戸を閉めようとして、手が止まった。
隣で、ロノヴァが、家を見ていた。
唇が、一度、動いて、止まった。
それから、もう一度、動いた。
「……行って、きます」
初めて聞く言葉だった。
おはよう。おやすみ。ただいま。おかえり。気をつけて。ありがとう。この人が一つずつ言えるようになった言葉の、いちばん新しいひとつだった。
「今の、帳面に書いとく?」
「……書く」
ロノヴァは、手袋の指で、戸の板にそっと触れた。
「今夜、書く」
ゆうべ、帳面の上で止まっていた指のことを、思い出した。
戸を閉めた。
音を立てて。
◇
南へ、三日歩いた。
振り返ると、ロノヴァの歩いたあとに、黒いものが点々と続いていた。枯れた草の先。あの冬よりずっと細くて、ずっと少ない。気をつけて見なければ、見落としてしまうくらいの。
それでも、線だった。家から、ずっと続いている。
三日目の昼、森が途切れて、海が見えた。
海を、こんなに近くで見るのは、初めてだった。
灰色で、大きくて、どこまでも動いていた。湖とは、まるで違った。湖は、凍って、黙っていた。海は、ずっと、何か言っていた。
「……大きいね」
「大きい」
ロノヴァも、海を見ていた。
「上から見ていたときは、もっと小さかった」
ナド・クライへ渡る港には、船が何艘もつながれていた。島へ渡る小舟も、よその国へ行く大きな船も、ここから出るのだという。
モンドの北の港へ行く商船は、二日後に出るという。船主は、僕の差し出した毛皮の束を見て、それから、背負い袋からはみ出した鍋の柄を見た。
「料理はできるか」
「はい。たいていのものは」
「船の上の飯炊きが、ひとり足りない。それと毛皮三枚で、ふたり乗せてやる」
それで、決まった。
二日後の朝、桟橋を歩いた。
板を踏むたびに、足の下で、波が鳴った。
船に渡る板の手前で、僕は、振り返った。
桟橋の付け根の、岸の土に、黒い枝先がひとつだけ残っていた。
桟橋の板の上には、何も残っていなかった。
線は、そこで、途切れていた。
ロノヴァも、振り返っていた。自分の引いてきた線の、いちばん端を。
「……途切れた」
「水の上だからね」
ロノヴァが、僕を見た。
「……知っていたのか」
「湖のときに、気づいてた。言ってなかったね」
ロノヴァは、しばらく、桟橋の端の黒い枝先を見ていた。
「……帳面に、書いておく」
船が、岸を離れた。
ロノヴァは、甲板の手すりのそばに立って、遠ざかる岸を見ていた。手袋の手で、手すりを握っていた。手すりの木は、何も変わらなかった。
僕は、背負い袋から、白い帳面を出した。
表紙の裏に、この家の粥。一頁目は、まだ白い。
風の国で、僕は、何を習うのだろう。
帳面を閉じて、顔を上げると、ロノヴァが、こちらを見ていた。
「……何を書く」
「まだ、何も。着いたら、書くよ」
ロノヴァは、うなずいた。
それから、岸のほうへ向き直った。
岸は、もう、遠かった。森も、町も、家も、見えなかった。南門の詰め所の窓で、タイムが日に透けていることも、ここからは見えない。
見えなくても、そこにある。
ロノヴァなら、たぶん、そう帳面に書く。
「ロノヴァ」
「何だ」
「おはようの数、船の上でも数える?」
「数える」
「じゃあ、明日の朝も、言うね」
「……知っている」
船は、揺れていた。僕の知らない揺れ方で。
手すりを握った手袋の手が、少しだけ、僕のほうへずれた。
お読みいただきありがとうございました。
第二部「旅路編」、始まりました。二人は、これから各国を巡ります。
次回、第2話「風の国の一泊目」はロノヴァ視点でお送りします。