死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※第二部「旅路編」の第1話です。本編第12話のその後のお話です。
※旅の途中の航路や土地には、作中の創作を含みます。
※今回はトイヴォ視点です。


旅路
旅路編 第1話 輪が鉢に届く


 目を覚まして、最初に、暖炉の向こうを見た。

 ロノヴァは、窓のそばの椅子にいた。膝の上で、おばあちゃんの帳面をひらいていた。

 夏の終わりの朝は、もう、うっすらと冷えていた。

「おはよう、ロノヴァ」

「……おはよう」

 ロノヴァは、帳面から顔を上げて、答えた。

「今の、何回目?」

「二百と、五十八」

 すぐに返ってきた。

 あの冬の、湖の島の朝から、ロノヴァは毎朝、答えてくれる。僕は数えていない。ロノヴァは数えている。答えなかった朝のぶんも、最初の朝から、ぜんぶ。

 どうして数えるの、と前に聞いたら、記録するのが仕事だから、と言われた。それから少し黙って、忘れたくないから、と付け足した。

 付け足したほうが、ほんとうの理由なのだと思う。

 

 燕麦を量った。手のひらに、ふたり分。

 塩は、ひとつまみと、半分。

 鍋が煮えるあいだ、窓の外を見た。

 輪の外の樅の木に、小鳥の餌台が打ちつけてある。あの冬、湖から帰ってすぐに、窓のそばの椅子からちょうど見える高さに、僕が打ちつけたものだ。その根もとに、おばあちゃんのタイムの鉢を置いてある。

 春に芽を出したタイムは、夏のあいだに、見違えるほど茂った。棚の上では日が足りないから、と外に出したのは、夏のはじめのことだ。輪の外なら、ロノヴァのそばより、細らずにすむ。そう言うと、ロノヴァは少し考えて、「……そこなら」と言った。

 冬の家の中で、そこだけが夏の匂いをしていた鉢が、夏のあいだは、ほんとうの夏の中にあった。

 今朝の餌台には、小鳥が一羽もいなかった。

 昨日も、いなかった。

 

 粥をよそって、卓に二つ並べた。ロノヴァの器に、蜂蜜をひと匙。

 ロノヴァは、匙を取らなかった。

「トイヴォ」

「うん」

「鉢の糸が、細りはじめた」

 平らな声だった。帳面を読み上げるときの声。

 僕は、匙を置いた。

「……水は、毎朝やってるよ」

「知っている。水のぶんでは、戻りきらない」

 ロノヴァは、窓の外の樅を見た。

「輪が、樅の根に届いた。……鉢に、届いた」

 

 食べ終えてから、外に出た。

 家を囲む黒い輪は、春よりずっと大きくなっていた。北の縁は、罠を仕掛けに通う小道の入り口まで。東の縁は、沢へ下りる道の半ばまで。ロノヴァは毎晩、帳面に書いていた。北の縁が、指一本ぶん。東の縁が、指一本ぶん。指一本ぶんずつでも、夏じゅう積もれば、こうなる。

 樅の根もとの草が、黒く縮れていた。鉢のすぐそばまで。

 しゃがんで、タイムの葉を見た。

 葉の先が、ほんの少しだけ、黄色くなっていた。指でこすると、夏の匂いは、まだした。

 餌台の上に、パン屑が、昨日のまま残っていた。

 小鳥は、ロノヴァが来た冬にも、いなくなった。ロノヴァが出ていった次の朝に、戻ってきた。戻ってきた小鳥を見て、よかった、と思えなかった朝のことを、僕は、ときどき思い出す。

 後ろで、戸の開く音がした。

 立ち上がって、振り返ると、ロノヴァが、輪の縁に立っていた。縁から先へは、出てこなかった。

「じゃあ、行こうか」

 ロノヴァが、瞬きをした。

「春に、言ったでしょ。そしたら、鍋を持って、一緒にどこか行こうって」

「……覚えている」

「うん。僕も」

 

 ロノヴァは、黙って、家を振り返った。

 おじいちゃんが建てて、おばあちゃんが守って、僕が四年、ひとりで守った家だ。あの冬から、春と夏を、ふたりで暮らした。

「この家は、お前の家だ」

「うん」

「わたしのために、出ることになる」

「僕が、行きたいんだよ」

 嘘ではなかった。

 森と町のほかを、僕は、ほとんど知らない。おじいちゃんに連れられて歩いた雪原と、年に何度か通る南門と、市場。それと、あの冬の湖。それだけだ。この人は、どこの国も、ずっと上から見ていたのだという。人の足で旅をしたことは、ないのだという。

「君が見てた場所を、歩いてみたい。それで、行った先で、ご飯を作る」

 ロノヴァは、しばらく、僕を見ていた。

「……いつ」

「雪の前。降りだしたら、遠くへは行けないから」

 夜の雪原は歩くな、とおじいちゃんは言った。冬の旅も、同じことだ。

「どこへ」

「それを、これから考えよう」

 

   ◇

 

 行き先は、夜に、ふたりで決めた。

「水の上がいい」

 ロノヴァが言った。

「水の上には、枯らすものがない」

 あの冬、凍った湖に出たときのことを、僕は思い出した。ロノヴァの歩いたあとに続く黒い線は、岸で途切れた。氷の上には、枯らすものがないからだ。

 あのとき、僕は、それをロノヴァに言わなかった。言う暇が、なかった。

「じゃあ、船だね」

 僕は、市場で聞いた話を思い出した。南の、ナド・クライへ渡る港から、よその国へ行く商船も出ている。モンドという、風の国へ行く船もある。向こうの北の港に着くのだと、干し魚を売っている男が言っていた。

「モンド」

 ロノヴァが、繰り返した。

「知ってる?」

「……上から、見たことがある。風の強い国だ」

 ロノヴァは、それ以上、言わなかった。

「じゃあ、まずそこにしよう」

 地図は、持っていなかった。おじいちゃんの地図は、このあたりの森と沢しか描いていない。

 それで、いいと思った。

 

 次の日から、支度をはじめた。

 冬のあいだに獲った鹿の革が、何枚か残っていた。いちばん柔らかい一枚を選んで、夜ごと、手袋を縫った。

 ロノヴァの手の大きさは、測らなくても分かった。毎晩、軟膏を塗ってきた手だ。指の長さも、手首の細さも、僕の指が覚えていた。

 五晩かかった。

 手首より上まで届く、長い手袋ができた。黒い指を、すっかり隠せる。

 差し出すと、ロノヴァは、それを見下ろした。

「……必要ない」

「うん。知ってる」

 僕は、手袋を差し出したまま、言った。

「でも、君の手を見て、凍傷だと思ってくれる人ばっかりじゃないから」

 あの冬、僕は、この黒い腕を、ひどい凍傷だと思った。そう思ったまま、何日も軟膏を塗った。

 ロノヴァは、眉を寄せた。

 寄せて、黙った。

 それから、手袋をはめた。右、左。

 指を、握って、ひらいた。

「……温かい」

「鹿の革だからね」

「……そうか」

 ロノヴァは、手袋の指に沿って走る縫い目を、もう片方の指で、なぞっていた。

「縫い目、曲がってる?」

「曲がっている」

 なぞる指は、止まらなかった。

「……悪くは、ない」

 

   ◇

 

 タイムの鉢は、町に預けることにした。

 布でくるんで、背負い袋のいちばん上にのせて、ひとりで町へ出た。出がけに、ロノヴァは戸口で「……気をつけて」と言った。

 南門に、チモフェイが立っていた。

 僕が鉢を差し出すと、チモフェイは、しばらく、それを見ていた。

「……何だ、これは」

「タイムです。おばあちゃんが株分けしてくれた」

「そうじゃない。なんで、俺に」

「しばらく、家を空けるので」

 チモフェイの眉が、少しだけ上がった。

「どこへ」

「分かりません。まずは、モンドへ」

 チモフェイは、黙って、鉢を受け取った。それから、詰め所の窓を振り返った。南向きの、日の当たる窓だった。

「水は、何日おきだ」

「土が乾いたら。指で触って、乾いてたら」

「面倒だな」

 そう言いながら、チモフェイは、鉢を窓辺に置いた。置いてから、向きを直した。いちばん日の当たる向きに。

「……枯らしたら、あんたのせいにするからな」

「はい」

「俺じゃなくて、あんたのせいだぞ。取りに来ない、あんたの」

 僕は、少し笑った。

 取りに来い、と言われたのだと分かった。

 

 通行の帳面に何か書きつけながら、チモフェイが、ふと手を止めた。

「そういえば、この夏、銀行の人間が来た」

「銀行?」

「北国銀行だ。去年の冬からの、この門の通行の帳面を、写していった。……銀行が門の帳面なんぞ見て、何になるんだかな」

 チモフェイは、帳面を閉じた。僕のほうは、見なかった。

「冬のあいだ、あんたの名前は、一度も載ってない。春に、一度だけ載ってる。……それだけの帳面だ」

 それから、話を変えた。

「モンドへは、どうやって行く」

「ナド・クライへ渡る港から、船で」

「そうか」

 チモフェイは、少し黙った。

「……出るなら、今は、いい時期かもな」

 僕には、その意味が、よく分からなかった。

 

 毛皮と干し肉を、いつもより多く売った。旅のお金になる。

 東の通りの二軒目で、蜂蜜を、小さい瓶で二つ買った。

 それから、向かいの店で、帳面を一冊買った。紙を綴じて、革の表紙をつけただけの、白い帳面だった。

「何を書くんだい」

 包みながら、店のおばあさんが聞いた。

「料理です。行った先で、習った料理を」

「へえ。じゃあ、うんと遠くまで行かないとね。一冊ぶん埋めるには」

 おばあさんは、そう言って、紐をきゅっと結んだ。

 

 帰りに南門を通ると、チモフェイは、こちらを見ないまま、言った。

「気をつけて、帰——」

 そこで、口を閉じた。

「……気をつけて、行け」

 いつもは、帰れ、と言う人だった。

「はい。チモフェイも、お気をつけて」

 チモフェイは、片手だけ上げた。

 詰め所の窓で、タイムの葉が、日に透けていた。

 

 家に戻ったのは、何日かあとの夕方だった。

 戸を開けると、ロノヴァが、鍋の前に立っていた。

「ただいま」

「……おかえり」

 粥は、焦げていなかった。

 春には、何度も焦がしていたのに。そう言うと、ロノヴァは、「夏のはじめから、焦がしていない」と言った。帳面につけているらしかった。

 

   ◇

 

 発つ前の晩、僕は、買ってきた帳面をひらいた。

 白い頁が、どこまでも続いていた。

 一頁目は、空けておくことにした。行った先で、最初に習った料理を書くために。

 代わりに、表紙の裏に、少しだけ書いた。

 ——燕麦、手のひらに、ふたり分。塩、ひとつまみと、半分。蜂蜜、ひと匙。

 この家の粥だ。どこへ行っても、ここから始める。

 書き終えて顔を上げると、ロノヴァが、自分の帳面をつけていた。おばあちゃんの取引帳面の、後ろのほう。今夜は、いつもより長く書いていた。

 のぞきこむつもりはなかった。けれど、見えてしまった。

 ——明日、この家を出る。

 その下にもう一行、書き足そうとして、ロノヴァの指が、しばらく止まっていた。

 書かずに、帳面を閉じた。

 

 ロノヴァは、立ち上がって、奥の寝床のほうへ行った。

 枕の上に、おばあちゃんの服が畳んで置いてある。去年の冬、ロノヴァが出ていくために畳んだ服だ。袖の端が、揃っていない。僕は、揃えなかった。ロノヴァも、揃えなかった。

 ロノヴァは、その服を、一度ひろげた。

 それから、畳み直した。

 ゆっくりと。袖の端を、揃えて。

 揃っていた。団子は、まだ三角になるのに。

 僕の視線に気づいて、ロノヴァが言った。

「……出ていくための畳み方では、ない」

 黒い指が、揃った袖の端を、そっと押さえた。

 僕は、何も言わなかった。言わなくても、よかった。

 

   ◇

 

 朝、粥を食べた。

 器を洗って、棚に戻した。二つ並べて。

 鍋は、背負い袋に入れた。おじいちゃんの古い鉄鍋と、あの冬、ロノヴァが包みに入れて持っていった小鍋。触れ合って、こつん、と鳴った。

 ロノヴァは、自分の衣を着ていた。黒と白の入り組んだ、あの衣。袖は、手首まで届いている。その先を、僕の縫った手袋が隠していた。

 戸口で、僕は、家の中を振り返った。

 暖炉の灰。梁から下がった干し草の束。棚の上の、二つの器。枕の上の、袖の揃った服。窓のそばの、ロノヴァの椅子。

 帰ってくる、とは言わなかった。いつになるのか、分からなかったから。この人の前で、分からないことを約束するのは、やめておこうと思った。

「行ってきます」

 家に向かって、言った。

 戸を閉めようとして、手が止まった。

 隣で、ロノヴァが、家を見ていた。

 唇が、一度、動いて、止まった。

 それから、もう一度、動いた。

「……行って、きます」

 初めて聞く言葉だった。

 おはよう。おやすみ。ただいま。おかえり。気をつけて。ありがとう。この人が一つずつ言えるようになった言葉の、いちばん新しいひとつだった。

「今の、帳面に書いとく?」

「……書く」

 ロノヴァは、手袋の指で、戸の板にそっと触れた。

「今夜、書く」

 ゆうべ、帳面の上で止まっていた指のことを、思い出した。

 戸を閉めた。

 音を立てて。

 

   ◇

 

 南へ、三日歩いた。

 振り返ると、ロノヴァの歩いたあとに、黒いものが点々と続いていた。枯れた草の先。あの冬よりずっと細くて、ずっと少ない。気をつけて見なければ、見落としてしまうくらいの。

 それでも、線だった。家から、ずっと続いている。

 三日目の昼、森が途切れて、海が見えた。

 海を、こんなに近くで見るのは、初めてだった。

 灰色で、大きくて、どこまでも動いていた。湖とは、まるで違った。湖は、凍って、黙っていた。海は、ずっと、何か言っていた。

「……大きいね」

「大きい」

 ロノヴァも、海を見ていた。

「上から見ていたときは、もっと小さかった」

 

 ナド・クライへ渡る港には、船が何艘もつながれていた。島へ渡る小舟も、よその国へ行く大きな船も、ここから出るのだという。

 モンドの北の港へ行く商船は、二日後に出るという。船主は、僕の差し出した毛皮の束を見て、それから、背負い袋からはみ出した鍋の柄を見た。

「料理はできるか」

「はい。たいていのものは」

「船の上の飯炊きが、ひとり足りない。それと毛皮三枚で、ふたり乗せてやる」

 それで、決まった。

 

 二日後の朝、桟橋を歩いた。

 板を踏むたびに、足の下で、波が鳴った。

 船に渡る板の手前で、僕は、振り返った。

 桟橋の付け根の、岸の土に、黒い枝先がひとつだけ残っていた。

 桟橋の板の上には、何も残っていなかった。

 線は、そこで、途切れていた。

 ロノヴァも、振り返っていた。自分の引いてきた線の、いちばん端を。

「……途切れた」

「水の上だからね」

 ロノヴァが、僕を見た。

「……知っていたのか」

「湖のときに、気づいてた。言ってなかったね」

 ロノヴァは、しばらく、桟橋の端の黒い枝先を見ていた。

「……帳面に、書いておく」

 

 船が、岸を離れた。

 ロノヴァは、甲板の手すりのそばに立って、遠ざかる岸を見ていた。手袋の手で、手すりを握っていた。手すりの木は、何も変わらなかった。

 僕は、背負い袋から、白い帳面を出した。

 表紙の裏に、この家の粥。一頁目は、まだ白い。

 風の国で、僕は、何を習うのだろう。

 帳面を閉じて、顔を上げると、ロノヴァが、こちらを見ていた。

「……何を書く」

「まだ、何も。着いたら、書くよ」

 ロノヴァは、うなずいた。

 それから、岸のほうへ向き直った。

 岸は、もう、遠かった。森も、町も、家も、見えなかった。南門の詰め所の窓で、タイムが日に透けていることも、ここからは見えない。

 見えなくても、そこにある。

 ロノヴァなら、たぶん、そう帳面に書く。

「ロノヴァ」

「何だ」

「おはようの数、船の上でも数える?」

「数える」

「じゃあ、明日の朝も、言うね」

「……知っている」

 船は、揺れていた。僕の知らない揺れ方で。

 手すりを握った手袋の手が、少しだけ、僕のほうへずれた。




お読みいただきありがとうございました。
第二部「旅路編」、始まりました。二人は、これから各国を巡ります。
次回、第2話「風の国の一泊目」はロノヴァ視点でお送りします。
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