死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※第二部「旅路編」の第2話です。
※旅の途中の航路や土地には、作中の創作を含みます。
※今回はロノヴァ視点です。


旅路編 第2話 風の国の一泊目

 船の上では、何も終わらなかった。

 三日のあいだ、わたしは、甲板の板を踏み、手すりを握り、帆柱にもたれた。手袋の指で触れても、板は板のままで、帆柱は帆柱のままだった。

 変わっていくのは、トイヴォの顔色のほうだった。

 海の揺れに、トイヴォの体は慣れなかった。雪原の風も、夜の冷えも読める人間が、波には、ひとつも逆らえなかった。一日目の昼に吐いて、夕方に吐いて、それから、船乗りたちの夕飯を炊いた。

「……休め」

「飯炊きの約束で、乗せてもらってるから」

 青い顔で、トイヴォは鍋をかき回した。船が傾くたびに、片手で鍋の縁を押さえた。

 船乗りたちは、トイヴォの粥をかきこんで、うまい、と言った。陸の飯だ、と言った者もいた。トイヴォは、それを聞いて、また吐きに行った。

 わたしは、その背中をさすった。手袋の手で。

 さする、という手の動かし方を、わたしは、この船の上で覚えた。

 

 三日目の朝、陸が見えた。

「……おはよう、ロノヴァ」

 手すりにしがみついたまま、トイヴォが言った。

「おはよう」

 二百と、七十一。

 わたしは、数えた。

 

 北の港は、風の中にあった。

 帆をたたむ音。荷を下ろす掛け声。知らない言葉の混じった呼び声。いくつもの国の船が、並んで揺れていた。その上を、風が、休まずに渡っていった。

 桟橋を渡りきって、土を踏んだ。

 足もとの草の先が、ひとつ、黒く縮れた。

 線が、また始まった。

 わたしは、足もとを見下ろした。三日ぶりに見る、わたしの黒だった。

「始まっちゃったね」

 トイヴォが、少し笑った。陸に上がったとたんに、顔色が戻っていた。

「……始まった」

 風が、顔に当たった。

 上から見ていたとき、この国は、風の通り道だった。雲の流れが速く、麦の穂が一方へ倒れる国。わたしは、そう記録していた。

 風が顔に当たると冷たい、ということは、記録していなかった。

 当たる顔が、なかったからだ。

 

 港から、南へ、二日歩いた。

 なだらかな丘が、どこまでも続いていた。丘の上に、風車が立っていた。羽根が、風を受けて、ゆっくりと回っていた。道の脇に、白い綿毛をつけた草が群れていた。トイヴォがひとつ摘んで、息を吹きかけた。綿毛は、風に乗って、丘の向こうへ飛んでいった。

「どこまで行くんだろうね」

「……風の、行くところまで」

「それ、答えになってないよ」

 トイヴォは笑った。

 答えになっていないことを、わたしは、言ってみたかったのだと思う。

 

 風車を、トイヴォは、初めて見たらしかった。

「あれ、何?」

「風車だ。風の力で、麦を挽く」

「へえ。……よく知ってるね」

「上から、見ていた」

 近くを通ると、羽根が回るたびに、低く、木のきしむ音がした。

 上からは、その音は聞こえなかった。

 知っていたことと、知らなかったことが、この国では、半分ずつだった。

 

 二日目の夕方、丘の上の村に着いた。

 石を積んだ家が二十ほど、風除けの林に守られるように寄り集まっていた。村のまわりに牧草地が広がって、羊が、白い点になって散らばっていた。

 宿は、一軒だけだった。一階が酒場で、二階に部屋がある。

 戸口の前で、わたしは、足を止めた。

 意識を、広げた。

 村の糸を、数えた。人の糸が、六十と少し。羊の糸が、二百ほど。牧羊犬の糸が、四つ。宿の裏の草地には、細かな糸が、数えきれないほど。

 わたしが留まれば、まず、宿の裏の草が細る。次に、宿の中の、弱い糸が細る。羊の糸は、遠い。

「……三晩」

 わたしは、言った。

「三晩なら、宿の裏の草が、指一本ぶん黒くなるだけですむ」

「分かった。じゃあ、三晩」

 トイヴォは、それだけ言って、戸を開けた。

 理由を、聞かなかった。わたしが数えた数を、そのまま受け取った。

 

 宿の女将は、太い腕の、よく笑う女だった。

 帳場の台に、分厚い宿帳がひらいてあった。女将が、ペンを差し出した。

「名前を、書いておくれ」

 トイヴォは、ペンを取って、書きはじめた。

 ——トイヴォ。北の猟師。

 そこで、ペン先が、一度、止まった。

 それから、書き足した。

 ——連れが一人。

 死の執政は、北東の湖で死んだ。わたしの名は、どこの国の帳面にも、もう、書かれない。

 書かれないまま、わたしは、この宿の二階に泊まる。

 女将は、宿帳をのぞきこんで、何も言わずに閉じた。

 二階の部屋を、ひとつ貸してくれた。寝台が、二つ。窓から、牧草地が見えた。

 夕飯は、一階の酒場で食べた。羊の肉の煮込みと、固い黒パン。わたしは、手袋をはめたまま、匙を持った。

「手、寒いのかい」

 女将が、酒を運びながら聞いた。

「冷えやすくて」

 トイヴォが、先に答えた。嘘では、なかった。わたしは、あの冬から、寒さを知っている。

 女将は、ふうん、と言って、それ以上、聞かなかった。

 

 暖炉の前に、犬がいた。

 灰色の毛の、大きな牧羊犬だった。火のそばに腹ばいになって、目を閉じていた。その背中を、十ばかりの娘が、木の櫛で梳いていた。

「リースル。グラウを、そろそろ納屋に連れてっておやり」

 女将が、娘に言った。

「もうちょっと」

 娘は、櫛を止めなかった。

 しばらくして、娘が、櫛を持ったまま、わたしたちの卓へ来た。

「お客さん、どこから来たの」

「北の、ずっと北から」

 トイヴォが答えた。

「雪、いっぱいある?」

「あるよ。冬は、家の窓の半分まで埋まる」

 娘は、目を丸くした。それから、わたしの髪を見た。

「お姉さんの髪、雪みたい」

 小さな手が、伸びてきた。

 わたしは、身を引いた。

 娘の手が、宙で止まった。

「……ごめんなさい」

「違うよ」

 トイヴォが、すぐに言った。

「この人、人に触られるのに、ちょっと慣れてないだけ。……ね」

 わたしは、うなずいた。

 娘は、少し考えてから、暖炉の前の犬を指さした。

「じゃあ、グラウなら、触っていいよ。グラウは、わたしが生まれる前から、この宿にいるの。お母さんが、まだ娘だったころから」

 わたしは、首を振った。

 娘は、首をかしげて、暖炉の前に戻っていった。犬の背中に、また櫛を入れはじめた。

「リースル。もう遅いよ。グラウを、納屋へ」

 女将が、もう一度言った。

「もうちょっとだけ」

 わたしは、犬の糸を見た。

 細かった。

 長い年月をかけて、少しずつ使い切られてきた糸だった。わたしが来る、ずっと前から、そうだった。

 糸の先が、見えていた。

 今夜だった。

 夜明けまでは、もたない。

 

 わたしは、匙を置いた。

 死の執政だったころ、わたしは、終わる糸を見て、記録した。終わる時刻を、誰かに告げたことはない。告げる役目は、はじめから、わたしにはなかった。

 あの冬も、終わる前には、言わなかった。タイムの糸が細っていくのを、トイヴォに言わなかった。薪の山の小鳥のことも。言えば、あの人間の顔がどうなるのか。それを見るのを、わたしは、避けていた。

 トイヴォが、罠の兎を下げて帰ってきた日のことを、思い出した。

 外で、兎に、ありがとう、と言ってきたのだと、あの人間は言った。暖炉の前では、こうも言った。命をもらうときに、誰かに何か言わないと、なんだか寂しい気がする、と。

 終わる糸に、言葉を置いていく人間だった。

 

「……リースル」

 声が、出ていた。

 娘が、振り向いた。見知らぬ客に名を呼ばれて、きょとんとしていた。

 何を言えばいいのか、わたしには、分からなかった。

 今夜、終わる。それは、本当だった。けれど、それを告げる言葉を、わたしは、持っていなかった。

 娘は、待っていた。

 トイヴォも、黙って、わたしを見ていた。

「……今夜は、そばにいてやれ」

 それだけ、言った。

 娘は、わたしを見て、それから、犬を見た。

「……どうして?」

 答えられなかった。

 嘘は、つかない。本当のことは、言えない。そのあいだに置く言葉を、わたしは、まだ持っていなかった。

 娘は、しばらく、犬の背中に手を置いていた。

 犬が、目を開けた。娘の手の下で、尾を、一度だけ振った。

 娘の顔が、少しずつ、変わっていった。

「……お母さん。今夜、グラウと、ここで寝ていい?」

 女将は、娘を見て、それから、わたしを見た。

 長いあいだ、見ていた。

 何かを言いかけて、やめた。

「……毛布を、持ってくるよ」

 

 酒場の隅で、竪琴の音がしていた。

 ずっと、していたのだと思う。わたしの耳が、それを音として拾ったのは、そのときだった。

 壁際の卓に、少年の姿をした吟遊詩人が座っていた。緑の外套。黒い髪を二つに編んで、編み先だけが、空の色をしていた。帽子に、白い花を挿していた。

 わたしは、その糸を見ようとした。

 見きれなかった。

 糸は、長すぎた。端が、どちらにも見えなかった。人の糸ではなかった。

 それから、匂いがした。

 風に、混じっていた。わたしの知っている匂いだった。古い、とても古い、時の執政——イスタロトの、祝福の匂い。

 この国の、神だ。

 竪琴が、止まった。

 吟遊詩人が、わたしを見ていた。

 笑っていなかった。酒場の客に向ける目では、なかった。わたしを、まっすぐに見ていた。去年の冬、この国の空に何が立ったのか。それを誰が立てたのか。——この者は、たぶん、知っている。

 わたしは、目をそらさなかった。

 吟遊詩人も、そらさなかった。

 長い間があって、それから、吟遊詩人は、竪琴に指を戻した。

 さっきまでとは、違う曲だった。ゆっくりとした、低い曲。

 酒場の誰も、曲が変わったことには、気づいていないようだった。

 リースルだけが、櫛を止めて、その音を聞いていた。

 

   ◇

 

 夜、トイヴォは、先に眠った。

 眠る前に、寝台の上から、小さく言った。

「……さっきの。言ってくれて、よかったと思う」

「……なぜ」

「分かんない。でも、あの子、明日の朝、後悔しないと思うから」

 トイヴォの糸は、今夜も、髪一本の半分、細るだろう。朝の粥で、戻るだろう。

 寝息が、深くなった。

 わたしは、部屋を出て、階段を下りた。

 

 酒場の灯りは、落ちていた。暖炉に、熾火だけが残っていた。

 その前で、リースルが、毛布にくるまって眠っていた。膝の上に、犬の頭が載っていた。娘の手は、犬の耳のあたりに置かれたままだった。

 わたしは、いちばん遠い卓に座った。

 近づけば、細る。この距離なら、娘の糸には届かない。犬の糸を、これ以上、細らせることもない。

 階段の上から、足音がした。

 吟遊詩人だった。竪琴は、持っていなかった。

 階段のいちばん下の段に、腰を下ろした。わたしと、眠っている娘の、ちょうどあいだだった。わたしのほうを見て、それから、唇に指を一本、当てた。

 声は、出さなかった。

 わたしも、出さなかった。

 この国の神と、死の執政だった者が、暗い酒場で、一匹の犬を見送っていた。

 

 夜半を過ぎた。

 犬の糸が、細っていった。

 ゆっくりと。苦しまずに。長い一日を終えて、眠りにつく者の息のように。

 娘の手の下で、犬の腹が、上下していた。その動きが、少しずつ、浅くなっていった。

 閉めてあるはずの窓の隙間から、風が、一度だけ入ってきた。熾火が、ふっと明るくなった。

 夜明け前だった。

 糸が、終わった。

 

 わたしは、待った。

 終わった糸が、わたしのもとを通るのを。

 長いあいだ、そうだった。この大地で終わった命は、すべて、わたしのもとを通った。わたしは、それを記録し、あるべきところへ行くのを見届けた。

 通らなかった。

 糸は、終わって、それきりだった。

 どこへ行ったのか、わたしには、分からなかった。

 職務は、あの湖でほどけた。分かっていたはずのことだった。輪の縁の草は、あれから毎晩、どこかで終わっている。けれど、ひとつの糸が終わるのを、そばで、終わりまで見届けたのは、湖のあと、これが初めてだった。

 分かっていたことを、わたしは、今、知った。

 行き先を知らないまま、見送る。

 人間は、ずっと、こうしてきたのか。

 トイヴォも。兎に、ありがとう、と言うたびに。祖母の冬に。

 死んだ者の魂が、迷わずに冥府へ行けるように。——霜月の子らは、そう願って、冬の終わりに、わたしに獣を捧げた。

 願われる側にいたわたしが、今は、願う側にいた。

 

 階段のほうを見た。

 吟遊詩人は、もう、いなかった。いつ立ったのか、わたしは、気づかなかった。

 娘は、まだ眠っていた。犬の頭を、膝に載せたまま。

 起こさなかった。

 目を覚ませば、この娘は知る。知るまでの、あと少しの時間を、わたしは、減らしたくなかった。

 

 部屋に戻って、帳面をひらいた。

 ——犬。グラウ。夜明け前。リースルの膝の上で。

 ——わたしのもとを、通らなかった。

 その下に、もう一行、書いた。

 ——迷わずに、行けたか。

 問いの形で、帳面に書いたのは、初めてだった。

 答えは、もう、わたしのところへは来ない。来ないと分かっていて、書いた。

 帳面を閉じた。

 

 窓の外が、白みはじめていた。

 牧草地の上を、風が渡っていった。綿毛が、いくつか、空に上がっていた。

 寝台の上で、トイヴォが、身じろぎした。

 目を開けて、最初に、こちらを見た。

「……おはよう、ロノヴァ」

「おはよう」

 二百と、七十三。

 数えてから、わたしは、言った。

「……夜明け前に、終わった」

 トイヴォは、しばらく、黙っていた。

 それから、寝台を下りて、わたしの隣に座った。

 何も、聞かなかった。

 窓の外で、風車が、ゆっくりと回っていた。




お読みいただきありがとうございました。
次回、第3話「見送りの歌」はトイヴォ視点でお送りします。
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