※第二部「旅路編」の第2話です。
※旅の途中の航路や土地には、作中の創作を含みます。
※今回はロノヴァ視点です。
船の上では、何も終わらなかった。
三日のあいだ、わたしは、甲板の板を踏み、手すりを握り、帆柱にもたれた。手袋の指で触れても、板は板のままで、帆柱は帆柱のままだった。
変わっていくのは、トイヴォの顔色のほうだった。
海の揺れに、トイヴォの体は慣れなかった。雪原の風も、夜の冷えも読める人間が、波には、ひとつも逆らえなかった。一日目の昼に吐いて、夕方に吐いて、それから、船乗りたちの夕飯を炊いた。
「……休め」
「飯炊きの約束で、乗せてもらってるから」
青い顔で、トイヴォは鍋をかき回した。船が傾くたびに、片手で鍋の縁を押さえた。
船乗りたちは、トイヴォの粥をかきこんで、うまい、と言った。陸の飯だ、と言った者もいた。トイヴォは、それを聞いて、また吐きに行った。
わたしは、その背中をさすった。手袋の手で。
さする、という手の動かし方を、わたしは、この船の上で覚えた。
三日目の朝、陸が見えた。
「……おはよう、ロノヴァ」
手すりにしがみついたまま、トイヴォが言った。
「おはよう」
二百と、七十一。
わたしは、数えた。
北の港は、風の中にあった。
帆をたたむ音。荷を下ろす掛け声。知らない言葉の混じった呼び声。いくつもの国の船が、並んで揺れていた。その上を、風が、休まずに渡っていった。
桟橋を渡りきって、土を踏んだ。
足もとの草の先が、ひとつ、黒く縮れた。
線が、また始まった。
わたしは、足もとを見下ろした。三日ぶりに見る、わたしの黒だった。
「始まっちゃったね」
トイヴォが、少し笑った。陸に上がったとたんに、顔色が戻っていた。
「……始まった」
風が、顔に当たった。
上から見ていたとき、この国は、風の通り道だった。雲の流れが速く、麦の穂が一方へ倒れる国。わたしは、そう記録していた。
風が顔に当たると冷たい、ということは、記録していなかった。
当たる顔が、なかったからだ。
港から、南へ、二日歩いた。
なだらかな丘が、どこまでも続いていた。丘の上に、風車が立っていた。羽根が、風を受けて、ゆっくりと回っていた。道の脇に、白い綿毛をつけた草が群れていた。トイヴォがひとつ摘んで、息を吹きかけた。綿毛は、風に乗って、丘の向こうへ飛んでいった。
「どこまで行くんだろうね」
「……風の、行くところまで」
「それ、答えになってないよ」
トイヴォは笑った。
答えになっていないことを、わたしは、言ってみたかったのだと思う。
風車を、トイヴォは、初めて見たらしかった。
「あれ、何?」
「風車だ。風の力で、麦を挽く」
「へえ。……よく知ってるね」
「上から、見ていた」
近くを通ると、羽根が回るたびに、低く、木のきしむ音がした。
上からは、その音は聞こえなかった。
知っていたことと、知らなかったことが、この国では、半分ずつだった。
二日目の夕方、丘の上の村に着いた。
石を積んだ家が二十ほど、風除けの林に守られるように寄り集まっていた。村のまわりに牧草地が広がって、羊が、白い点になって散らばっていた。
宿は、一軒だけだった。一階が酒場で、二階に部屋がある。
戸口の前で、わたしは、足を止めた。
意識を、広げた。
村の糸を、数えた。人の糸が、六十と少し。羊の糸が、二百ほど。牧羊犬の糸が、四つ。宿の裏の草地には、細かな糸が、数えきれないほど。
わたしが留まれば、まず、宿の裏の草が細る。次に、宿の中の、弱い糸が細る。羊の糸は、遠い。
「……三晩」
わたしは、言った。
「三晩なら、宿の裏の草が、指一本ぶん黒くなるだけですむ」
「分かった。じゃあ、三晩」
トイヴォは、それだけ言って、戸を開けた。
理由を、聞かなかった。わたしが数えた数を、そのまま受け取った。
宿の女将は、太い腕の、よく笑う女だった。
帳場の台に、分厚い宿帳がひらいてあった。女将が、ペンを差し出した。
「名前を、書いておくれ」
トイヴォは、ペンを取って、書きはじめた。
——トイヴォ。北の猟師。
そこで、ペン先が、一度、止まった。
それから、書き足した。
——連れが一人。
死の執政は、北東の湖で死んだ。わたしの名は、どこの国の帳面にも、もう、書かれない。
書かれないまま、わたしは、この宿の二階に泊まる。
女将は、宿帳をのぞきこんで、何も言わずに閉じた。
二階の部屋を、ひとつ貸してくれた。寝台が、二つ。窓から、牧草地が見えた。
夕飯は、一階の酒場で食べた。羊の肉の煮込みと、固い黒パン。わたしは、手袋をはめたまま、匙を持った。
「手、寒いのかい」
女将が、酒を運びながら聞いた。
「冷えやすくて」
トイヴォが、先に答えた。嘘では、なかった。わたしは、あの冬から、寒さを知っている。
女将は、ふうん、と言って、それ以上、聞かなかった。
暖炉の前に、犬がいた。
灰色の毛の、大きな牧羊犬だった。火のそばに腹ばいになって、目を閉じていた。その背中を、十ばかりの娘が、木の櫛で梳いていた。
「リースル。グラウを、そろそろ納屋に連れてっておやり」
女将が、娘に言った。
「もうちょっと」
娘は、櫛を止めなかった。
しばらくして、娘が、櫛を持ったまま、わたしたちの卓へ来た。
「お客さん、どこから来たの」
「北の、ずっと北から」
トイヴォが答えた。
「雪、いっぱいある?」
「あるよ。冬は、家の窓の半分まで埋まる」
娘は、目を丸くした。それから、わたしの髪を見た。
「お姉さんの髪、雪みたい」
小さな手が、伸びてきた。
わたしは、身を引いた。
娘の手が、宙で止まった。
「……ごめんなさい」
「違うよ」
トイヴォが、すぐに言った。
「この人、人に触られるのに、ちょっと慣れてないだけ。……ね」
わたしは、うなずいた。
娘は、少し考えてから、暖炉の前の犬を指さした。
「じゃあ、グラウなら、触っていいよ。グラウは、わたしが生まれる前から、この宿にいるの。お母さんが、まだ娘だったころから」
わたしは、首を振った。
娘は、首をかしげて、暖炉の前に戻っていった。犬の背中に、また櫛を入れはじめた。
「リースル。もう遅いよ。グラウを、納屋へ」
女将が、もう一度言った。
「もうちょっとだけ」
わたしは、犬の糸を見た。
細かった。
長い年月をかけて、少しずつ使い切られてきた糸だった。わたしが来る、ずっと前から、そうだった。
糸の先が、見えていた。
今夜だった。
夜明けまでは、もたない。
わたしは、匙を置いた。
死の執政だったころ、わたしは、終わる糸を見て、記録した。終わる時刻を、誰かに告げたことはない。告げる役目は、はじめから、わたしにはなかった。
あの冬も、終わる前には、言わなかった。タイムの糸が細っていくのを、トイヴォに言わなかった。薪の山の小鳥のことも。言えば、あの人間の顔がどうなるのか。それを見るのを、わたしは、避けていた。
トイヴォが、罠の兎を下げて帰ってきた日のことを、思い出した。
外で、兎に、ありがとう、と言ってきたのだと、あの人間は言った。暖炉の前では、こうも言った。命をもらうときに、誰かに何か言わないと、なんだか寂しい気がする、と。
終わる糸に、言葉を置いていく人間だった。
「……リースル」
声が、出ていた。
娘が、振り向いた。見知らぬ客に名を呼ばれて、きょとんとしていた。
何を言えばいいのか、わたしには、分からなかった。
今夜、終わる。それは、本当だった。けれど、それを告げる言葉を、わたしは、持っていなかった。
娘は、待っていた。
トイヴォも、黙って、わたしを見ていた。
「……今夜は、そばにいてやれ」
それだけ、言った。
娘は、わたしを見て、それから、犬を見た。
「……どうして?」
答えられなかった。
嘘は、つかない。本当のことは、言えない。そのあいだに置く言葉を、わたしは、まだ持っていなかった。
娘は、しばらく、犬の背中に手を置いていた。
犬が、目を開けた。娘の手の下で、尾を、一度だけ振った。
娘の顔が、少しずつ、変わっていった。
「……お母さん。今夜、グラウと、ここで寝ていい?」
女将は、娘を見て、それから、わたしを見た。
長いあいだ、見ていた。
何かを言いかけて、やめた。
「……毛布を、持ってくるよ」
酒場の隅で、竪琴の音がしていた。
ずっと、していたのだと思う。わたしの耳が、それを音として拾ったのは、そのときだった。
壁際の卓に、少年の姿をした吟遊詩人が座っていた。緑の外套。黒い髪を二つに編んで、編み先だけが、空の色をしていた。帽子に、白い花を挿していた。
わたしは、その糸を見ようとした。
見きれなかった。
糸は、長すぎた。端が、どちらにも見えなかった。人の糸ではなかった。
それから、匂いがした。
風に、混じっていた。わたしの知っている匂いだった。古い、とても古い、時の執政——イスタロトの、祝福の匂い。
この国の、神だ。
竪琴が、止まった。
吟遊詩人が、わたしを見ていた。
笑っていなかった。酒場の客に向ける目では、なかった。わたしを、まっすぐに見ていた。去年の冬、この国の空に何が立ったのか。それを誰が立てたのか。——この者は、たぶん、知っている。
わたしは、目をそらさなかった。
吟遊詩人も、そらさなかった。
長い間があって、それから、吟遊詩人は、竪琴に指を戻した。
さっきまでとは、違う曲だった。ゆっくりとした、低い曲。
酒場の誰も、曲が変わったことには、気づいていないようだった。
リースルだけが、櫛を止めて、その音を聞いていた。
◇
夜、トイヴォは、先に眠った。
眠る前に、寝台の上から、小さく言った。
「……さっきの。言ってくれて、よかったと思う」
「……なぜ」
「分かんない。でも、あの子、明日の朝、後悔しないと思うから」
トイヴォの糸は、今夜も、髪一本の半分、細るだろう。朝の粥で、戻るだろう。
寝息が、深くなった。
わたしは、部屋を出て、階段を下りた。
酒場の灯りは、落ちていた。暖炉に、熾火だけが残っていた。
その前で、リースルが、毛布にくるまって眠っていた。膝の上に、犬の頭が載っていた。娘の手は、犬の耳のあたりに置かれたままだった。
わたしは、いちばん遠い卓に座った。
近づけば、細る。この距離なら、娘の糸には届かない。犬の糸を、これ以上、細らせることもない。
階段の上から、足音がした。
吟遊詩人だった。竪琴は、持っていなかった。
階段のいちばん下の段に、腰を下ろした。わたしと、眠っている娘の、ちょうどあいだだった。わたしのほうを見て、それから、唇に指を一本、当てた。
声は、出さなかった。
わたしも、出さなかった。
この国の神と、死の執政だった者が、暗い酒場で、一匹の犬を見送っていた。
夜半を過ぎた。
犬の糸が、細っていった。
ゆっくりと。苦しまずに。長い一日を終えて、眠りにつく者の息のように。
娘の手の下で、犬の腹が、上下していた。その動きが、少しずつ、浅くなっていった。
閉めてあるはずの窓の隙間から、風が、一度だけ入ってきた。熾火が、ふっと明るくなった。
夜明け前だった。
糸が、終わった。
わたしは、待った。
終わった糸が、わたしのもとを通るのを。
長いあいだ、そうだった。この大地で終わった命は、すべて、わたしのもとを通った。わたしは、それを記録し、あるべきところへ行くのを見届けた。
通らなかった。
糸は、終わって、それきりだった。
どこへ行ったのか、わたしには、分からなかった。
職務は、あの湖でほどけた。分かっていたはずのことだった。輪の縁の草は、あれから毎晩、どこかで終わっている。けれど、ひとつの糸が終わるのを、そばで、終わりまで見届けたのは、湖のあと、これが初めてだった。
分かっていたことを、わたしは、今、知った。
行き先を知らないまま、見送る。
人間は、ずっと、こうしてきたのか。
トイヴォも。兎に、ありがとう、と言うたびに。祖母の冬に。
死んだ者の魂が、迷わずに冥府へ行けるように。——霜月の子らは、そう願って、冬の終わりに、わたしに獣を捧げた。
願われる側にいたわたしが、今は、願う側にいた。
階段のほうを見た。
吟遊詩人は、もう、いなかった。いつ立ったのか、わたしは、気づかなかった。
娘は、まだ眠っていた。犬の頭を、膝に載せたまま。
起こさなかった。
目を覚ませば、この娘は知る。知るまでの、あと少しの時間を、わたしは、減らしたくなかった。
部屋に戻って、帳面をひらいた。
——犬。グラウ。夜明け前。リースルの膝の上で。
——わたしのもとを、通らなかった。
その下に、もう一行、書いた。
——迷わずに、行けたか。
問いの形で、帳面に書いたのは、初めてだった。
答えは、もう、わたしのところへは来ない。来ないと分かっていて、書いた。
帳面を閉じた。
窓の外が、白みはじめていた。
牧草地の上を、風が渡っていった。綿毛が、いくつか、空に上がっていた。
寝台の上で、トイヴォが、身じろぎした。
目を開けて、最初に、こちらを見た。
「……おはよう、ロノヴァ」
「おはよう」
二百と、七十三。
数えてから、わたしは、言った。
「……夜明け前に、終わった」
トイヴォは、しばらく、黙っていた。
それから、寝台を下りて、わたしの隣に座った。
何も、聞かなかった。
窓の外で、風車が、ゆっくりと回っていた。
お読みいただきありがとうございました。
次回、第3話「見送りの歌」はトイヴォ視点でお送りします。