※第二部「旅路編」の第3話です。
※今回はトイヴォ視点です。
階段を下りると、暖炉の前に、リースルがいた。
毛布にくるまったまま、グラウの頭を膝に載せていた。目は、開いていた。泣いては、いなかった。泣くのは、たぶん、もう少しあとになる。
女将が、娘の隣にしゃがんで、その背中に手を置いていた。
僕に気づいて、女将は、顔を上げた。
「……夜明け前だったみたいだよ。この子、眠るまで、ずっと撫でてたって」
「そうですか」
ほかに、言える言葉がなかった。
僕は、女将の反対側に、しゃがんだ。
「穴を、掘らせてもらえませんか。……そういうのは、慣れてるので」
猟師だから、とは言わなかった。
女将は、少しのあいだ僕を見て、それから、うなずいた。
牧草地の端に、グラウがいつも寝そべっていた場所があるのだという。羊の群れが、いちばんよく見渡せる、ゆるい高み。
鋤を借りて、そこを掘った。
夏の終わりの土は、柔らかかった。冬なら、こうはいかない。凍った地面は、石と同じだ。
リースルは、少し離れたところに座って、僕の手もとを見ていた。
ロノヴァは、もっと離れたところにいた。牧草地の柵のそばに、ひとりで立っていた。朝の風に、白い髪が流れていた。
娘のそばには、来なかった。来られないのだと、僕は知っていた。
女将と二人で、グラウを穴の底に下ろした。
リースルが、木の櫛を、グラウの前足のあいだに置いた。
土をかける前に、リースルが、僕の袖を引いた。
「……グラウ、迷わないで行けるかな」
僕は、柵のほうを見た。
ロノヴァは、こちらを見ていた。何も言わなかった。
今朝、夜明け前に終わった、とだけ言ったときの顔と、同じだった。
「……分からない」
僕は、正直に言った。
「でも、迷わないように、何か言ってあげよう。命をもらうとき、僕は、ありがとうって言うんだ。言わないと、なんだか寂しいから」
「……何を言えばいいの」
リースルが、穴の底を見た。
言葉が、出てこないようだった。十ばかりの子に、見送りの言葉を探させるのは、酷なことだった。
「言葉が見つからないなら、歌にしようか」
後ろから、声がした。
振り返ると、ゆうべ酒場の隅で竪琴を弾いていた、あの吟遊詩人が立っていた。緑の外套に、白い花を挿した帽子。僕より、少し年下に見えた。
「ボクの得意分野だからね。……いいかな?」
リースルが、小さくうなずいた。
吟遊詩人は、グラウの眠る穴のそばに腰を下ろして、竪琴を膝に載せた。
弦が、鳴った。
知らない歌だった。知らない言葉の混じった、ゆっくりとした歌だった。羊の群れを見守った犬のことを歌っているのだと、途中で分かった。丘の上で、風の中で、長いあいだ、誰かを待っていた犬のことを。
歌が、風に乗った。
丘の上を、風が渡っていった。牧草が、一方へ倒れた。綿毛が、いくつも空へ上がって、グラウの眠る穴の上を越えていった。
リースルが、泣きはじめた。
声を上げて、泣いた。
女将が、娘を抱き寄せた。
僕は、ロノヴァを探した。
ロノヴァは、歌のほうを見ていた。風に倒れる牧草の、その先を。
綿毛の飛んでいくほうを、目で追っていた。
歌が終わってから、土をかけた。
女将と、リースルと、僕で。吟遊詩人も、手で少しだけ、土を落とした。
最後に、僕は、盛り上がった土に向かって、小さく言った。
「ありがとう」
羊の番を、長いあいだ、ありがとう。
リースルが、泣きはらした目で、僕を見た。それから、同じように、小さく言った。
「……ありがとう、グラウ」
鋤を返しに行く途中で、吟遊詩人に追いついた。
「さっきは、ありがとう。……あの、名前、聞いてもいいかな」
「ウェンティ。世界最高の吟遊詩人だよ」
「ウェンティ」
僕は、口の中で繰り返した。
「……変わった名前だね」
吟遊詩人は、一度、目をぱちぱちさせた。
それから、声を出して笑った。
「エヘヘ、そう来たかあ。君、面白いね」
何が面白いのか、僕には、分からなかった。
ウェンティは、笑いながら、柵のほうへ目をやった。ロノヴァのいるほうへ。
笑い声のまま、目だけが、笑っていなかった。
◇
昼に、女将に、粥の作り方を習った。
リースルが、朝から何も食べていない、と女将が言ったからだ。
「うちのは、簡単なもんさ。麦を羊の乳で煮て、摘みたての香草を散らすだけ。あの子が熱を出すと、いつもこれ」
宿の横の畑で、女将は、細い葉の香草を摘んだ。指でこすると、すっとする匂いがした。
麦を、羊の乳で、ことことと煮た。塩を、ひとつまみ。火から下ろす前に、刻んだ香草を散らす。
湯気と一緒に、香草の匂いが立った。
器によそって、リースルのところへ持っていった。
暖炉の前の、グラウのいた場所に、リースルは座っていた。
「……いらない」
「うん」
僕は、器を、リースルの前に置いた。
「ひと口だけ。お母さんの味だよ。僕が作ったから、ちょっと違うかもしれないけど」
リースルは、しばらく、器を見ていた。
それから、匙を取った。
ひと口、食べた。
「……おいしい」
小さな声だった。
あの冬の、最初の朝のことを、思い出した。唇に当てた匙の、湯気の向こうで、ロノヴァが言った。……甘い。
リースルは、ふた口目を、食べた。
鍋に残ったぶんは、ウェンティに出した。
「歌のお代です。……こんなので、よければ」
「え、いいの? お酒一杯って言おうと思ってたんだけどなあ」
ウェンティは、器を受け取って、ひと口すすった。
「うわ、優しい味。ボク、これ好きだなあ」
それから、ふた口目をすすって、ちらりと、窓際の卓のロノヴァを見た。
ロノヴァは、手袋の手で、器を持っていた。女将が、ロノヴァのぶんもよそってくれたのだ。
ロノヴァは、ウェンティのほうを見なかった。
夕方、部屋で、帳面をひらいた。
表紙の裏には、あの家の粥。
一頁目に、書いた。
——モンド。丘の上の村の宿。麦と香草の粥。
——麦を、羊の乳で煮る。塩、ひとつまみ。火から下ろす前に、摘みたての香草を散らす。
——熱を出した子に。リースルの家の味。
書き終えて、少し考えてから、端に、小さく書き足した。
——グラウ。羊の番を、ありがとう。
料理の帳面に書くことではないのかもしれない。でも、この粥を思い出すたびに、あの犬のことも思い出すのだと思った。
◇
その夜は、なかなか眠れなかった。
水を飲みに下りると、宿の裏口が、少しだけ開いていた。
夜風が、入ってきていた。
戸の隙間から、外が見えた。牧草地の柵のそばに、ふたつの影があった。
ロノヴァと、ウェンティだった。
声をかけようとして、やめた。
ロノヴァの声が、聞こえたからだ。
「……きみは、それを訊きに来たのか」
僕は、戸口で、動けなくなった。
ロノヴァの声だった。けれど、ロノヴァの話し方ではなかった。
「うーん、半分はね」
ウェンティは、柵に腰かけて、足をぶらぶらさせていた。
「去年の冬、この国の釘も、光ったよ。空に向かって、まっすぐ。……あれ、君でしょ?」
去年の冬。
空から落ちた釘が、よその国で光りだした。——市場で、そんな噂を聞いた。あの冬、ロノヴァは、それを自分の餞別だと言った。
「わたしは、もう、それを語る者ではない」
ロノヴァは、平らな声で言った。
「ふうん」
ウェンティは、しばらく、黙っていた。
「じゃあ、もう半分。……あの子の犬のこと」
「……きみの歌は、届いたのか」
ロノヴァが、聞いた。
「わたしには、もう、分からない。終わった糸が、どこへ行ったのか」
ウェンティは、足を揺らすのをやめた。
「届いたかどうかは、ボクにも分からないよ」
あっさりと、言った。
「でも、歌わないよりは、ずっといい。……ね、そう思わない?」
ロノヴァは、答えなかった。
答えないまま、柵の向こうの、グラウの眠る高みを見ていた。
「で、今の君は、何なの?」
ウェンティが、聞いた。
ロノヴァは、少しのあいだ、黙っていた。
それから、宿のほうを振り返った。
戸の隙間の、僕のいるほうを。
「……猟師の、連れだ」
ウェンティが、吹き出した。
「エヘヘ、いい肩書きだね」
柵から、ひょいと飛び降りた。
「長くはいないんでしょ? 宿の裏の草、もう、少し黒いもんね」
「そうだ」
「うん。それがいいよ」
ウェンティは、竪琴を、一度だけ鳴らした。
「風は、どこへでも吹くからね。君たちが、どこへ行っても」
それから、戸の隙間に向かって、手を振った。
「おやすみ、猟師くん」
気づかれていた。
ウェンティは、丘の下のほうへ、歩いていった。夜風が、その背中を追いかけるように、牧草を揺らしていった。
◇
僕は、裏口から出て、柵のそばまで歩いた。
「……聞いていたのか」
「ごめん。水を飲みに来たら、聞こえた」
ロノヴァは、首を振った。責める顔ではなかった。
「あの人、君のこと、知ってるの?」
「……知っているのだろう」
「大丈夫なの」
「害は、ない」
ロノヴァは、ウェンティの去ったほうを見ていた。
「……風の、ようなものだ」
よく分からなかった。
よく分からないまま、僕は、うなずいた。この人がそう言うなら、そうなのだと思った。
「それより」
僕は、言った。
「今の、なんだか、君らしくない話し方だったね。きみ、って」
ロノヴァが、僕を見た。
「僕には、お前、って言うのに」
「……昔の、話し方だ」
ロノヴァは、少し考えてから、言った。
昔の知り合いに会うと、昔の話し方に戻るのかもしれない。おばあちゃんも、町の古い友だちと話すときは、言葉が少し変わった。
「じゃあ、お前、のほうは?」
ロノヴァは、しばらく、答えなかった。
「……今のわたしの言葉は、こちらだ」
それが、どういう意味なのか、僕には、よく分からなかった。
分からなかったけれど、耳の奥が、少しだけ熱くなった。
柵に、並んでもたれた。
夜の牧草地は、暗かった。遠くで、羊が一頭だけ、鳴いた。
「……トイヴォ」
「うん」
「グラウの糸は、わたしのもとを、通らなかった」
僕は、ロノヴァを見た。
「終わるのは、見えた。どこへ行ったのかは、もう、見えない」
いつもの平らな声より、少しだけ、低かった。
「……湖で、手放したから?」
「そうだ」
僕は、しばらく、何も言えなかった。
この人は、ずっと、行き先を知っていたのだ。兎も、小鳥も、おばあちゃんも。行き先を知っていて、見送っていた。見送る、とさえ、思っていなかったのかもしれない。
それが、今は、知らない。
「……じゃあ」
僕は、言った。
「君も、僕たちと、同じだね」
ロノヴァが、瞬きをした。
「行き先を知らないで、見送る側。……ありがとう、とか。迷わないで、とか。言うしかないんだ」
ロノヴァは、グラウの眠る高みを見ていた。
「……届いたかどうか、分からなくても」
「うん。分からなくても」
ロノヴァは、長いあいだ、黙っていた。
それから、グラウの眠る高みのほうへ、少しだけ、顔を向けた。
「……迷わずに、行け」
小さな声だった。
夜風が、牧草地を渡っていった。声は、どこかへ運ばれていった。
届いたかどうかは、僕にも、ロノヴァにも、分からなかった。
ロノヴァは、それきり、何も言わなかった。僕も、何も言わなかった。
◇
三日目は、女将の手伝いをして過ごした。薪を割って、羊小屋の戸の蝶番を直した。ロノヴァは、窓際の卓で、帳面をつけていた。リースルが、ときどき、その向かいに座っていた。触れない距離に。
三晩目が明けた朝、宿の裏の草が、指一本ぶん、黒く縮れていた。
ロノヴァが数えたとおりだった。
女将は、黒パンとチーズを包んで、持たせてくれた。
「また、この道を通ったら、寄っておくれ」
それから、ロノヴァのほうを見た。
あの晩、酒場でロノヴァを見ていた目に、少し似ていた。けれど、もっと柔らかかった。
「……あの子に、言ってくれて、ありがとね」
ロノヴァは、少し驚いたように、女将を見た。
何を、とは、女将は言わなかった。
「……粥を」
ロノヴァが、言った。
「粥を、ありがとう」
女将は、目を丸くして、それから、笑った。
リースルは、丘の下の道まで、見送りに来てくれた。
道の脇の、白い綿毛の草を、一本摘んだ。
「グラウのところまで、飛んでけ」
息を吹きかけた。
綿毛は、ばらばらにほどけて、風の中へ散っていった。
「……どこまで、行くかな」
リースルが、つぶやいた。
ロノヴァは、綿毛を目で追っていた。
「……風の、行くところまで」
リースルが、ロノヴァを見上げた。
「お姉さん、それ、答えになってないよ」
ロノヴァは、瞬きをした。
僕は、笑ってしまった。ここへ来る途中の丘で、僕も、同じことを言ったのだ。
丘のどこかで、竪琴が、一度だけ鳴った気がした。
お読みいただきありがとうございました。
これでモンド編はおしまいです。次回、第4話「帳尻の国」はロノヴァ視点でお送りします。璃月に入ります。