死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※第二部「旅路編」の第3話です。
※今回はトイヴォ視点です。


旅路編 第3話 見送りの歌

 階段を下りると、暖炉の前に、リースルがいた。

 毛布にくるまったまま、グラウの頭を膝に載せていた。目は、開いていた。泣いては、いなかった。泣くのは、たぶん、もう少しあとになる。

 女将が、娘の隣にしゃがんで、その背中に手を置いていた。

 僕に気づいて、女将は、顔を上げた。

「……夜明け前だったみたいだよ。この子、眠るまで、ずっと撫でてたって」

「そうですか」

 ほかに、言える言葉がなかった。

 僕は、女将の反対側に、しゃがんだ。

「穴を、掘らせてもらえませんか。……そういうのは、慣れてるので」

 猟師だから、とは言わなかった。

 女将は、少しのあいだ僕を見て、それから、うなずいた。

 

 牧草地の端に、グラウがいつも寝そべっていた場所があるのだという。羊の群れが、いちばんよく見渡せる、ゆるい高み。

 鋤を借りて、そこを掘った。

 夏の終わりの土は、柔らかかった。冬なら、こうはいかない。凍った地面は、石と同じだ。

 リースルは、少し離れたところに座って、僕の手もとを見ていた。

 ロノヴァは、もっと離れたところにいた。牧草地の柵のそばに、ひとりで立っていた。朝の風に、白い髪が流れていた。

 娘のそばには、来なかった。来られないのだと、僕は知っていた。

 

 女将と二人で、グラウを穴の底に下ろした。

 リースルが、木の櫛を、グラウの前足のあいだに置いた。

 土をかける前に、リースルが、僕の袖を引いた。

「……グラウ、迷わないで行けるかな」

 僕は、柵のほうを見た。

 ロノヴァは、こちらを見ていた。何も言わなかった。

 今朝、夜明け前に終わった、とだけ言ったときの顔と、同じだった。

「……分からない」

 僕は、正直に言った。

「でも、迷わないように、何か言ってあげよう。命をもらうとき、僕は、ありがとうって言うんだ。言わないと、なんだか寂しいから」

「……何を言えばいいの」

 リースルが、穴の底を見た。

 言葉が、出てこないようだった。十ばかりの子に、見送りの言葉を探させるのは、酷なことだった。

「言葉が見つからないなら、歌にしようか」

 後ろから、声がした。

 振り返ると、ゆうべ酒場の隅で竪琴を弾いていた、あの吟遊詩人が立っていた。緑の外套に、白い花を挿した帽子。僕より、少し年下に見えた。

「ボクの得意分野だからね。……いいかな?」

 リースルが、小さくうなずいた。

 

 吟遊詩人は、グラウの眠る穴のそばに腰を下ろして、竪琴を膝に載せた。

 弦が、鳴った。

 知らない歌だった。知らない言葉の混じった、ゆっくりとした歌だった。羊の群れを見守った犬のことを歌っているのだと、途中で分かった。丘の上で、風の中で、長いあいだ、誰かを待っていた犬のことを。

 歌が、風に乗った。

 丘の上を、風が渡っていった。牧草が、一方へ倒れた。綿毛が、いくつも空へ上がって、グラウの眠る穴の上を越えていった。

 リースルが、泣きはじめた。

 声を上げて、泣いた。

 女将が、娘を抱き寄せた。

 僕は、ロノヴァを探した。

 ロノヴァは、歌のほうを見ていた。風に倒れる牧草の、その先を。

 綿毛の飛んでいくほうを、目で追っていた。

 

 歌が終わってから、土をかけた。

 女将と、リースルと、僕で。吟遊詩人も、手で少しだけ、土を落とした。

 最後に、僕は、盛り上がった土に向かって、小さく言った。

「ありがとう」

 羊の番を、長いあいだ、ありがとう。

 リースルが、泣きはらした目で、僕を見た。それから、同じように、小さく言った。

「……ありがとう、グラウ」

 

 鋤を返しに行く途中で、吟遊詩人に追いついた。

「さっきは、ありがとう。……あの、名前、聞いてもいいかな」

「ウェンティ。世界最高の吟遊詩人だよ」

「ウェンティ」

 僕は、口の中で繰り返した。

「……変わった名前だね」

 吟遊詩人は、一度、目をぱちぱちさせた。

 それから、声を出して笑った。

「エヘヘ、そう来たかあ。君、面白いね」

 何が面白いのか、僕には、分からなかった。

 ウェンティは、笑いながら、柵のほうへ目をやった。ロノヴァのいるほうへ。

 笑い声のまま、目だけが、笑っていなかった。

 

   ◇

 

 昼に、女将に、粥の作り方を習った。

 リースルが、朝から何も食べていない、と女将が言ったからだ。

「うちのは、簡単なもんさ。麦を羊の乳で煮て、摘みたての香草を散らすだけ。あの子が熱を出すと、いつもこれ」

 宿の横の畑で、女将は、細い葉の香草を摘んだ。指でこすると、すっとする匂いがした。

 麦を、羊の乳で、ことことと煮た。塩を、ひとつまみ。火から下ろす前に、刻んだ香草を散らす。

 湯気と一緒に、香草の匂いが立った。

 器によそって、リースルのところへ持っていった。

 暖炉の前の、グラウのいた場所に、リースルは座っていた。

「……いらない」

「うん」

 僕は、器を、リースルの前に置いた。

「ひと口だけ。お母さんの味だよ。僕が作ったから、ちょっと違うかもしれないけど」

 リースルは、しばらく、器を見ていた。

 それから、匙を取った。

 ひと口、食べた。

「……おいしい」

 小さな声だった。

 あの冬の、最初の朝のことを、思い出した。唇に当てた匙の、湯気の向こうで、ロノヴァが言った。……甘い。

 リースルは、ふた口目を、食べた。

 

 鍋に残ったぶんは、ウェンティに出した。

「歌のお代です。……こんなので、よければ」

「え、いいの? お酒一杯って言おうと思ってたんだけどなあ」

 ウェンティは、器を受け取って、ひと口すすった。

「うわ、優しい味。ボク、これ好きだなあ」

 それから、ふた口目をすすって、ちらりと、窓際の卓のロノヴァを見た。

 ロノヴァは、手袋の手で、器を持っていた。女将が、ロノヴァのぶんもよそってくれたのだ。

 ロノヴァは、ウェンティのほうを見なかった。

 

 夕方、部屋で、帳面をひらいた。

 表紙の裏には、あの家の粥。

 一頁目に、書いた。

 ——モンド。丘の上の村の宿。麦と香草の粥。

 ——麦を、羊の乳で煮る。塩、ひとつまみ。火から下ろす前に、摘みたての香草を散らす。

 ——熱を出した子に。リースルの家の味。

 書き終えて、少し考えてから、端に、小さく書き足した。

 ——グラウ。羊の番を、ありがとう。

 料理の帳面に書くことではないのかもしれない。でも、この粥を思い出すたびに、あの犬のことも思い出すのだと思った。

 

   ◇

 

 その夜は、なかなか眠れなかった。

 水を飲みに下りると、宿の裏口が、少しだけ開いていた。

 夜風が、入ってきていた。

 戸の隙間から、外が見えた。牧草地の柵のそばに、ふたつの影があった。

 ロノヴァと、ウェンティだった。

 声をかけようとして、やめた。

 ロノヴァの声が、聞こえたからだ。

「……きみは、それを訊きに来たのか」

 僕は、戸口で、動けなくなった。

 ロノヴァの声だった。けれど、ロノヴァの話し方ではなかった。

「うーん、半分はね」

 ウェンティは、柵に腰かけて、足をぶらぶらさせていた。

「去年の冬、この国の釘も、光ったよ。空に向かって、まっすぐ。……あれ、君でしょ?」

 去年の冬。

 空から落ちた釘が、よその国で光りだした。——市場で、そんな噂を聞いた。あの冬、ロノヴァは、それを自分の餞別だと言った。

「わたしは、もう、それを語る者ではない」

 ロノヴァは、平らな声で言った。

「ふうん」

 ウェンティは、しばらく、黙っていた。

「じゃあ、もう半分。……あの子の犬のこと」

「……きみの歌は、届いたのか」

 ロノヴァが、聞いた。

「わたしには、もう、分からない。終わった糸が、どこへ行ったのか」

 ウェンティは、足を揺らすのをやめた。

「届いたかどうかは、ボクにも分からないよ」

 あっさりと、言った。

「でも、歌わないよりは、ずっといい。……ね、そう思わない?」

 ロノヴァは、答えなかった。

 答えないまま、柵の向こうの、グラウの眠る高みを見ていた。

「で、今の君は、何なの?」

 ウェンティが、聞いた。

 ロノヴァは、少しのあいだ、黙っていた。

 それから、宿のほうを振り返った。

 戸の隙間の、僕のいるほうを。

「……猟師の、連れだ」

 ウェンティが、吹き出した。

「エヘヘ、いい肩書きだね」

 柵から、ひょいと飛び降りた。

「長くはいないんでしょ? 宿の裏の草、もう、少し黒いもんね」

「そうだ」

「うん。それがいいよ」

 ウェンティは、竪琴を、一度だけ鳴らした。

「風は、どこへでも吹くからね。君たちが、どこへ行っても」

 それから、戸の隙間に向かって、手を振った。

「おやすみ、猟師くん」

 気づかれていた。

 ウェンティは、丘の下のほうへ、歩いていった。夜風が、その背中を追いかけるように、牧草を揺らしていった。

 

   ◇

 

 僕は、裏口から出て、柵のそばまで歩いた。

「……聞いていたのか」

「ごめん。水を飲みに来たら、聞こえた」

 ロノヴァは、首を振った。責める顔ではなかった。

「あの人、君のこと、知ってるの?」

「……知っているのだろう」

「大丈夫なの」

「害は、ない」

 ロノヴァは、ウェンティの去ったほうを見ていた。

「……風の、ようなものだ」

 よく分からなかった。

 よく分からないまま、僕は、うなずいた。この人がそう言うなら、そうなのだと思った。

「それより」

 僕は、言った。

「今の、なんだか、君らしくない話し方だったね。きみ、って」

 ロノヴァが、僕を見た。

「僕には、お前、って言うのに」

「……昔の、話し方だ」

 ロノヴァは、少し考えてから、言った。

 昔の知り合いに会うと、昔の話し方に戻るのかもしれない。おばあちゃんも、町の古い友だちと話すときは、言葉が少し変わった。

「じゃあ、お前、のほうは?」

 ロノヴァは、しばらく、答えなかった。

「……今のわたしの言葉は、こちらだ」

 それが、どういう意味なのか、僕には、よく分からなかった。

 分からなかったけれど、耳の奥が、少しだけ熱くなった。

 

 柵に、並んでもたれた。

 夜の牧草地は、暗かった。遠くで、羊が一頭だけ、鳴いた。

「……トイヴォ」

「うん」

「グラウの糸は、わたしのもとを、通らなかった」

 僕は、ロノヴァを見た。

「終わるのは、見えた。どこへ行ったのかは、もう、見えない」

 いつもの平らな声より、少しだけ、低かった。

「……湖で、手放したから?」

「そうだ」

 僕は、しばらく、何も言えなかった。

 この人は、ずっと、行き先を知っていたのだ。兎も、小鳥も、おばあちゃんも。行き先を知っていて、見送っていた。見送る、とさえ、思っていなかったのかもしれない。

 それが、今は、知らない。

「……じゃあ」

 僕は、言った。

「君も、僕たちと、同じだね」

 ロノヴァが、瞬きをした。

「行き先を知らないで、見送る側。……ありがとう、とか。迷わないで、とか。言うしかないんだ」

 ロノヴァは、グラウの眠る高みを見ていた。

「……届いたかどうか、分からなくても」

「うん。分からなくても」

 ロノヴァは、長いあいだ、黙っていた。

 それから、グラウの眠る高みのほうへ、少しだけ、顔を向けた。

「……迷わずに、行け」

 小さな声だった。

 夜風が、牧草地を渡っていった。声は、どこかへ運ばれていった。

 届いたかどうかは、僕にも、ロノヴァにも、分からなかった。

 ロノヴァは、それきり、何も言わなかった。僕も、何も言わなかった。

 

   ◇

 

 三日目は、女将の手伝いをして過ごした。薪を割って、羊小屋の戸の蝶番を直した。ロノヴァは、窓際の卓で、帳面をつけていた。リースルが、ときどき、その向かいに座っていた。触れない距離に。

 三晩目が明けた朝、宿の裏の草が、指一本ぶん、黒く縮れていた。

 ロノヴァが数えたとおりだった。

 女将は、黒パンとチーズを包んで、持たせてくれた。

「また、この道を通ったら、寄っておくれ」

 それから、ロノヴァのほうを見た。

 あの晩、酒場でロノヴァを見ていた目に、少し似ていた。けれど、もっと柔らかかった。

「……あの子に、言ってくれて、ありがとね」

 ロノヴァは、少し驚いたように、女将を見た。

 何を、とは、女将は言わなかった。

「……粥を」

 ロノヴァが、言った。

「粥を、ありがとう」

 女将は、目を丸くして、それから、笑った。

 

 リースルは、丘の下の道まで、見送りに来てくれた。

 道の脇の、白い綿毛の草を、一本摘んだ。

「グラウのところまで、飛んでけ」

 息を吹きかけた。

 綿毛は、ばらばらにほどけて、風の中へ散っていった。

「……どこまで、行くかな」

 リースルが、つぶやいた。

 ロノヴァは、綿毛を目で追っていた。

「……風の、行くところまで」

 リースルが、ロノヴァを見上げた。

「お姉さん、それ、答えになってないよ」

 ロノヴァは、瞬きをした。

 僕は、笑ってしまった。ここへ来る途中の丘で、僕も、同じことを言ったのだ。

 丘のどこかで、竪琴が、一度だけ鳴った気がした。




お読みいただきありがとうございました。
これでモンド編はおしまいです。次回、第4話「帳尻の国」はロノヴァ視点でお送りします。璃月に入ります。
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