※第二部「旅路編」の第4話です。今回から璃月編です。
※旅の途中の町や人物には、作中の創作を含みます。
※今回はロノヴァ視点です。
丘の村を発って、九日目に、石門に着いた。
石門を越えると、足もとが変わった。
草が、少なくなった。土の代わりに、岩が顔を出していた。道の両側に、切り立った崖がそびえて、その上に、ねじれた松が張りついていた。
わたしは、振り返った。
モンドの側の道には、黒い枝先が、点々と続いていた。
石門をくぐってからの道には、ほとんど、何も残っていなかった。岩には、糸がない。糸のないものは、細らない。
「線、薄くなったね」
トイヴォが言った。
「岩の国だ」
わたしは、言った。
「枯らすものが、少ない」
トイヴォは、道の端の岩を、手のひらで叩いた。
「じゃあ、この国は、君にやさしい国だね」
やさしい、と岩を形容する者を、わたしは、初めて見た。
山あいの宿場町に着いたのは、三日目の昼だった。
谷の底を、川が流れていた。川に沿って、瓦屋根の家が、段々に並んでいた。石畳の道の両側に、店がひしめいていた。湯気の立つ蒸籠。吊るされた干し肉。赤い提灯。人の声が、谷に響いていた。
宿は、川べりにあった。
帳場の男は、わたしたちを見ると、一枚の紙を差し出した。
「お泊まりでしたら、こちらに。宿泊の契約でございます」
紙には、細かな字が、びっしりと並んでいた。
泊まる晩の数。一晩あたりのモラ。朝餉の有無。灯りの油は、どちらが持つか。部屋のものを壊したときの弁償。夜更けに騒いだときの取り決め。
「……泊まるのに、こんなに書くの?」
トイヴォが、目を丸くした。
「璃月では、何でも契約ですよ」
帳場の男は、当たり前のように言った。
「書いておけば、あとで揉めずにすむ。お互いのためです」
わたしは、紙を手に取った。
一行ずつ、読んだ。
払うものと、受け取るもの。与えるものと、返すもの。すべての行に、向かい合う行があった。どこにも、はみ出したものがなかった。
「……帳尻が、合っている」
わたしは、言った。
トイヴォが、わたしの顔を見た。
「なんか、嬉しそうだね」
「嬉しくは、ない」
「そう?」
トイヴォは、笑っていた。
契約書の、終わりのほうの一行で、わたしは、目を止めた。
——宿の庭木を枯らした場合は、相応の弁償をいただきます。
顔を上げると、帳場の奥の窓から、中庭が見えた。
古い木が、一本立っていた。枝いっぱいに、小さな橙色の花をつけていた。風が吹くと、甘い匂いが、帳場まで流れてきた。
「桂花です」
帳場の男が、わたしの視線に気づいて言った。
「この宿の、先々代が植えた木でしてね。ちょうど、咲きはじめたところで」
わたしは、意識を広げた。
木の糸は、太かった。何十年も、この谷の水を吸って、毎年、花をつけてきた糸だった。
中庭に面した部屋に泊まれば、五晩で、この糸は細る。枯れはしない。けれど、来年の花が、少し減る。
町の糸を、数えた。人の糸が、多い。川の魚。石垣の苔。どれも、わたしの足もとからは遠い。岩の町だ。
「五晩」
わたしは、トイヴォに言った。
「ここは、五晩。……ただし、あの木から、いちばん遠い部屋なら」
トイヴォは、帳場の男のほうを向いた。
「あの、庭の木から、いちばん遠い部屋って、ありますか」
「ございますよ。川側の、端の部屋が。少々、狭いですが」
「じゃあ、そこで。……それ、契約書に書いてもらえますか」
帳場の男は、少し驚いた顔をしてから、筆を取った。
契約書の端に、一行が、足された。
——川側、端の部屋。庭木より、最も遠き部屋とす。
わたしは、その一行を、見ていた。
これで、帳尻が合う。
トイヴォが、契約書の下に、名前を書いた。わたしの名は、書かなかった。「連れが一人」と、モンドの宿と同じように書いた。
その夜、トイヴォは、ひとりで中庭へ出ていった。
戻ってきたとき、両手を、椀の形に合わせていた。
「見て」
手のひらの中に、小さな橙色の花が、いくつも載っていた。
「……摘んだのか」
「ううん。落ちてたの。木の下に、いくつか」
わたしは、花を見た。
糸は、なかった。枝を離れたときに、もう、終わっていた。
「落ちたのなら、君のそばでも、細らないでしょ」
トイヴォは、手のひらを、わたしの顔の前に差し出した。
甘い匂いがした。
帳場で嗅いだのより、ずっと近くで。ずっと、濃く。
終わったものは、わたしのそばでも、もう、細らない。
わたしは、長いあいだ、その匂いを嗅いでいた。
「来年も、咲くかな」
「……咲く」
わたしは、言った。
「いちばん遠い部屋だ」
トイヴォは、花を、窓辺の皿に移した。朝になっても、匂いは、まだ部屋に残っていた。
◇
次の朝、トイヴォは、夜明け前に起きた。
「おはよう、ロノヴァ」
「おはよう」
二百と、八十七。
「宿の前の通りに、朝だけ出てる屋台があるんだって。ちょっと、見てくる」
わたしも、ついていった。
屋台は、川の上に架かった石橋のたもとにあった。大きな鍋から、白い湯気が立っていた。鍋の横で、腰の曲がった老人が、細長い生地を、油の中に落としていた。生地は、油の中で、ふくらんで、金色になった。
人が、並んでいた。器を受け取った者は、橋の欄干にもたれて、金色の棒を、白い粥に浸して食べていた。
トイヴォも、並んだ。
わたしは、橋の反対側の欄干にもたれた。人の糸から、少し離れて。
トイヴォが、ふたつの器を持って、戻ってきた。
白い粥だった。米を、形がなくなるまで煮たもの。上に、刻んだ青い葉と、塩漬けの卵が少し。揚げた棒は、器の縁に立てかけてあった。
「……燕麦ではない」
「米だって。この国は、米なんだね」
ひと口、すすった。
燕麦の粥より、さらさらとしていた。塩の味が、薄かった。そこに、揚げた棒を浸すと、油の香りと、塩気が、粥に移った。
「……悪くは、ない」
トイヴォは、嬉しそうに、自分の器をすすった。
すすりながら、ずっと、屋台のほうを見ていた。老人の手もとを。鍋をかき回す回数を。生地を伸ばす指の動きを。
見て、覚えようとしているのだと、わたしには分かった。
食べ終えると、トイヴォは、屋台の前に戻っていった。
人の列が途切れるのを待って、老人に、何か話しかけていた。
老人は、しばらく、トイヴォの顔を見ていた。それから、屋台の下から、一枚の紙を出した。
わたしは、橋の反対側から、それを見ていた。
老人が、紙に何か書いた。トイヴォに渡した。トイヴォは、それを読んで、少し考えて、うなずいた。紙の下に、名前を書いた。
トイヴォが、戻ってきた。
「三日、朝の仕込みを手伝うことになった。そしたら、作り方を教えてくれるって」
「契約か」
「うん。契約だって」
トイヴォは、紙を見せた。
——粥と揚げ棒の作り方を教える。代わりに、三日、夜明け前の仕込みを手伝う。貸し借りなし。
字は、老人の手で、曲がっていた。
わたしは、その紙を、長いあいだ見ていた。
教えるものと、手伝うもの。向かい合う二行。はみ出したものが、なかった。
「……帳尻が、合っている」
「また言った」
トイヴォは、笑った。
◇
三日のあいだ、トイヴォは、夜明け前に起きて、屋台へ行った。
わたしは、橋の欄干にもたれて、それを見ていた。
米を研ぐ。大きな鍋で、水からゆっくりと煮る。煮えたら、火を弱めて、さらに煮る。米の粒がほどけて、形がなくなるまで。老人は、それを「米の花が咲く」と言った。
生地を練る。一晩寝かせる。細長く切って、二本を重ね、箸で真ん中を押す。油に落とす。
トイヴォは、一度で覚えなかった。
一日目の揚げた棒は、ふくらまなかった。二日目のは、焦げた。老人は、何も言わずに、焦げたのを自分でかじった。
三日目のは、金色に、ふくらんだ。
老人は、それを手に取って、しばらく眺めてから、言った。
「……まあ、いいでしょう」
トイヴォが、笑った。
その朝、老人は、揚げたての棒と粥の器を持って、橋を渡ってきた。
わたしの前で、立ち止まった。
「毎朝、そこで見てるだけじゃ、腹がふくれないでしょう」
器を、差し出された。
わたしは、受け取らなかった。
「……代金を、払っていない」
「見物料と、相殺ってことで」
「見物料を、払った覚えはない」
「わしが、払ったことにしたんですよ。毎朝、いい見物人がいると、手もとに張りが出るんでね」
老人は、器を、欄干の上に置いた。わたしの手の届くところに。
「……帳尻が、合わない」
「合わせるのは、わしの勝手です」
老人は、腰をさすりながら、屋台に戻っていった。
わたしは、欄干の上の器を見た。湯気が、細く立っていた。
手袋の手で、器を取った。
屋台に並ぶ客たちは、よく喋った。
わたしは、欄干で、それを聞いていた。聞くつもりがなくても、谷に、声が響いた。
「帝君が亡くなって、どれくらいになるかねえ」
粥をすすりながら、年寄りの男が言った。
「港で送仙儀式があったのが、ついこないだみたいだよ」
「それでも、この国の契約は、帝君の定めたとおりさ。死んだって、約束は、生きてる」
「違いない」
笑い声が、上がった。
この国の神は、死んだとされていた。
死んだとされて、それでも、語られていた。粥をすすりながら、朝の橋のたもとで、当たり前のように。定めた約束が、今も生きていると。
わたしは、何も言わなかった。
死の執政は、北東の湖で死んだ。
女皇の国の記録には、そう書かれている。
わたしを語る者は、いない。語られなくていい、と思っていた。劇場の頁を持つ者が、語られていいはずがない。
屋台の前で、トイヴォが、老人に何か言われて、頭をかいていた。
トイヴォは、わたしのことを、誰にも語らない。宿の契約書にも、「連れが一人」とだけ書く。
けれど、毎朝、おはよう、と言う。
わたしの名を、呼ぶ。
それが、語られるということなのかどうか、わたしには、分からなかった。
欄干の石が、手袋ごしに、冷たかった。
◇
空になった器を返しに、わたしは、屋台のそばまで行った。
仕込みの終わった老人が、ちょうど、屋台の下から、あの紙を出したところだった。
紙の端に、筆で、一行、書き足した。
——教えた。手伝った。貸し借りなし。
トイヴォに渡した。
トイヴォは、それを受け取って、頭を下げた。
「ありがとうございました」
老人は、目を細めた。
「礼は、契約に書いてないよ」
「あ、そうか……」
トイヴォが、困った顔をした。
老人は、それを見て、声を出して笑った。
「書いてないがね。……まあ、受け取っておくよ。もらいすぎのぶんは、こっちの借りってことで」
それから、器を持って立っているわたしを、ちらりと見た。
「お連れさんも。……見物、ありがとさん」
宿に戻って、トイヴォは、帳面をひらいた。
一頁目の、モンドの粥の次の頁に、書いた。
——璃月。山あいの宿場町、橋のたもとの屋台。白粥と、揚げた棒のパン。
——米を、水から、形がなくなるまで煮る。「米の花が咲く」まで。
——生地は一晩寝かせる。二本重ねて、真ん中を押す。
——三日目で、ふくらんだ。
書き終えて、トイヴォは、老人の書いた契約の紙を、その頁に挟んだ。
「それも、帳面に入れるのか」
「うん。大事なことが書いてあるから」
「……貸し借りなし、か」
「そっちじゃなくて」
トイヴォは、紙の端を、指でなぞった。
「礼は、契約に書いてない。でも、受け取っておく。……って、おじいさん、言ったでしょ」
わたしは、黙っていた。
「帳尻が合わないぶんが、あってもいいんだなって、思った」
その夜、わたしは、帳面をつけた。
——璃月。石の多い国。五晩。
——庭の桂花。いちばん遠い部屋。花は、減らない。
——この国では、死んだとされた神が、今も語られている。
書いてから、少し考えて、もう一行、足した。
——トイヴォ。三日目で、ふくらんだ。礼は、受け取られた。
どの欄に書くのかは、もう、探さなかった。
窓の外で、川が鳴っていた。中庭のほうから、甘い匂いが、ここまで流れてきた。
遠い部屋でも、匂いは、届いた。
わたしがいても、あの木の糸は、細らなかった。
お読みいただきありがとうございました。
次回、第5話「死んだとされた者」はトイヴォ視点でお送りします。璃月港に入ります。