死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※第二部「旅路編」の第4話です。今回から璃月編です。
※旅の途中の町や人物には、作中の創作を含みます。
※今回はロノヴァ視点です。


旅路編 第4話 帳尻の国

 丘の村を発って、九日目に、石門に着いた。

 石門を越えると、足もとが変わった。

 草が、少なくなった。土の代わりに、岩が顔を出していた。道の両側に、切り立った崖がそびえて、その上に、ねじれた松が張りついていた。

 わたしは、振り返った。

 モンドの側の道には、黒い枝先が、点々と続いていた。

 石門をくぐってからの道には、ほとんど、何も残っていなかった。岩には、糸がない。糸のないものは、細らない。

「線、薄くなったね」

 トイヴォが言った。

「岩の国だ」

 わたしは、言った。

「枯らすものが、少ない」

 トイヴォは、道の端の岩を、手のひらで叩いた。

「じゃあ、この国は、君にやさしい国だね」

 やさしい、と岩を形容する者を、わたしは、初めて見た。

 

 山あいの宿場町に着いたのは、三日目の昼だった。

 谷の底を、川が流れていた。川に沿って、瓦屋根の家が、段々に並んでいた。石畳の道の両側に、店がひしめいていた。湯気の立つ蒸籠。吊るされた干し肉。赤い提灯。人の声が、谷に響いていた。

 宿は、川べりにあった。

 帳場の男は、わたしたちを見ると、一枚の紙を差し出した。

「お泊まりでしたら、こちらに。宿泊の契約でございます」

 紙には、細かな字が、びっしりと並んでいた。

 泊まる晩の数。一晩あたりのモラ。朝餉の有無。灯りの油は、どちらが持つか。部屋のものを壊したときの弁償。夜更けに騒いだときの取り決め。

「……泊まるのに、こんなに書くの?」

 トイヴォが、目を丸くした。

「璃月では、何でも契約ですよ」

 帳場の男は、当たり前のように言った。

「書いておけば、あとで揉めずにすむ。お互いのためです」

 わたしは、紙を手に取った。

 一行ずつ、読んだ。

 払うものと、受け取るもの。与えるものと、返すもの。すべての行に、向かい合う行があった。どこにも、はみ出したものがなかった。

「……帳尻が、合っている」

 わたしは、言った。

 トイヴォが、わたしの顔を見た。

「なんか、嬉しそうだね」

「嬉しくは、ない」

「そう?」

 トイヴォは、笑っていた。

 

 契約書の、終わりのほうの一行で、わたしは、目を止めた。

 ——宿の庭木を枯らした場合は、相応の弁償をいただきます。

 顔を上げると、帳場の奥の窓から、中庭が見えた。

 古い木が、一本立っていた。枝いっぱいに、小さな橙色の花をつけていた。風が吹くと、甘い匂いが、帳場まで流れてきた。

「桂花です」

 帳場の男が、わたしの視線に気づいて言った。

「この宿の、先々代が植えた木でしてね。ちょうど、咲きはじめたところで」

 わたしは、意識を広げた。

 木の糸は、太かった。何十年も、この谷の水を吸って、毎年、花をつけてきた糸だった。

 中庭に面した部屋に泊まれば、五晩で、この糸は細る。枯れはしない。けれど、来年の花が、少し減る。

 町の糸を、数えた。人の糸が、多い。川の魚。石垣の苔。どれも、わたしの足もとからは遠い。岩の町だ。

「五晩」

 わたしは、トイヴォに言った。

「ここは、五晩。……ただし、あの木から、いちばん遠い部屋なら」

 トイヴォは、帳場の男のほうを向いた。

「あの、庭の木から、いちばん遠い部屋って、ありますか」

「ございますよ。川側の、端の部屋が。少々、狭いですが」

「じゃあ、そこで。……それ、契約書に書いてもらえますか」

 帳場の男は、少し驚いた顔をしてから、筆を取った。

 契約書の端に、一行が、足された。

 ——川側、端の部屋。庭木より、最も遠き部屋とす。

 わたしは、その一行を、見ていた。

 これで、帳尻が合う。

 トイヴォが、契約書の下に、名前を書いた。わたしの名は、書かなかった。「連れが一人」と、モンドの宿と同じように書いた。

 

 その夜、トイヴォは、ひとりで中庭へ出ていった。

 戻ってきたとき、両手を、椀の形に合わせていた。

「見て」

 手のひらの中に、小さな橙色の花が、いくつも載っていた。

「……摘んだのか」

「ううん。落ちてたの。木の下に、いくつか」

 わたしは、花を見た。

 糸は、なかった。枝を離れたときに、もう、終わっていた。

「落ちたのなら、君のそばでも、細らないでしょ」

 トイヴォは、手のひらを、わたしの顔の前に差し出した。

 甘い匂いがした。

 帳場で嗅いだのより、ずっと近くで。ずっと、濃く。

 終わったものは、わたしのそばでも、もう、細らない。

 わたしは、長いあいだ、その匂いを嗅いでいた。

「来年も、咲くかな」

「……咲く」

 わたしは、言った。

「いちばん遠い部屋だ」

 トイヴォは、花を、窓辺の皿に移した。朝になっても、匂いは、まだ部屋に残っていた。

 

   ◇

 

 次の朝、トイヴォは、夜明け前に起きた。

「おはよう、ロノヴァ」

「おはよう」

 二百と、八十七。

「宿の前の通りに、朝だけ出てる屋台があるんだって。ちょっと、見てくる」

 わたしも、ついていった。

 屋台は、川の上に架かった石橋のたもとにあった。大きな鍋から、白い湯気が立っていた。鍋の横で、腰の曲がった老人が、細長い生地を、油の中に落としていた。生地は、油の中で、ふくらんで、金色になった。

 人が、並んでいた。器を受け取った者は、橋の欄干にもたれて、金色の棒を、白い粥に浸して食べていた。

 トイヴォも、並んだ。

 わたしは、橋の反対側の欄干にもたれた。人の糸から、少し離れて。

 トイヴォが、ふたつの器を持って、戻ってきた。

 白い粥だった。米を、形がなくなるまで煮たもの。上に、刻んだ青い葉と、塩漬けの卵が少し。揚げた棒は、器の縁に立てかけてあった。

「……燕麦ではない」

「米だって。この国は、米なんだね」

 ひと口、すすった。

 燕麦の粥より、さらさらとしていた。塩の味が、薄かった。そこに、揚げた棒を浸すと、油の香りと、塩気が、粥に移った。

「……悪くは、ない」

 トイヴォは、嬉しそうに、自分の器をすすった。

 すすりながら、ずっと、屋台のほうを見ていた。老人の手もとを。鍋をかき回す回数を。生地を伸ばす指の動きを。

 見て、覚えようとしているのだと、わたしには分かった。

 

 食べ終えると、トイヴォは、屋台の前に戻っていった。

 人の列が途切れるのを待って、老人に、何か話しかけていた。

 老人は、しばらく、トイヴォの顔を見ていた。それから、屋台の下から、一枚の紙を出した。

 わたしは、橋の反対側から、それを見ていた。

 老人が、紙に何か書いた。トイヴォに渡した。トイヴォは、それを読んで、少し考えて、うなずいた。紙の下に、名前を書いた。

 トイヴォが、戻ってきた。

「三日、朝の仕込みを手伝うことになった。そしたら、作り方を教えてくれるって」

「契約か」

「うん。契約だって」

 トイヴォは、紙を見せた。

 ——粥と揚げ棒の作り方を教える。代わりに、三日、夜明け前の仕込みを手伝う。貸し借りなし。

 字は、老人の手で、曲がっていた。

 わたしは、その紙を、長いあいだ見ていた。

 教えるものと、手伝うもの。向かい合う二行。はみ出したものが、なかった。

「……帳尻が、合っている」

「また言った」

 トイヴォは、笑った。

 

   ◇

 

 三日のあいだ、トイヴォは、夜明け前に起きて、屋台へ行った。

 わたしは、橋の欄干にもたれて、それを見ていた。

 米を研ぐ。大きな鍋で、水からゆっくりと煮る。煮えたら、火を弱めて、さらに煮る。米の粒がほどけて、形がなくなるまで。老人は、それを「米の花が咲く」と言った。

 生地を練る。一晩寝かせる。細長く切って、二本を重ね、箸で真ん中を押す。油に落とす。

 トイヴォは、一度で覚えなかった。

 一日目の揚げた棒は、ふくらまなかった。二日目のは、焦げた。老人は、何も言わずに、焦げたのを自分でかじった。

 三日目のは、金色に、ふくらんだ。

 老人は、それを手に取って、しばらく眺めてから、言った。

「……まあ、いいでしょう」

 トイヴォが、笑った。

 

 その朝、老人は、揚げたての棒と粥の器を持って、橋を渡ってきた。

 わたしの前で、立ち止まった。

「毎朝、そこで見てるだけじゃ、腹がふくれないでしょう」

 器を、差し出された。

 わたしは、受け取らなかった。

「……代金を、払っていない」

「見物料と、相殺ってことで」

「見物料を、払った覚えはない」

「わしが、払ったことにしたんですよ。毎朝、いい見物人がいると、手もとに張りが出るんでね」

 老人は、器を、欄干の上に置いた。わたしの手の届くところに。

「……帳尻が、合わない」

「合わせるのは、わしの勝手です」

 老人は、腰をさすりながら、屋台に戻っていった。

 わたしは、欄干の上の器を見た。湯気が、細く立っていた。

 手袋の手で、器を取った。

 

 屋台に並ぶ客たちは、よく喋った。

 わたしは、欄干で、それを聞いていた。聞くつもりがなくても、谷に、声が響いた。

「帝君が亡くなって、どれくらいになるかねえ」

 粥をすすりながら、年寄りの男が言った。

「港で送仙儀式があったのが、ついこないだみたいだよ」

「それでも、この国の契約は、帝君の定めたとおりさ。死んだって、約束は、生きてる」

「違いない」

 笑い声が、上がった。

 この国の神は、死んだとされていた。

 死んだとされて、それでも、語られていた。粥をすすりながら、朝の橋のたもとで、当たり前のように。定めた約束が、今も生きていると。

 わたしは、何も言わなかった。

 

 死の執政は、北東の湖で死んだ。

 女皇の国の記録には、そう書かれている。

 わたしを語る者は、いない。語られなくていい、と思っていた。劇場の頁を持つ者が、語られていいはずがない。

 屋台の前で、トイヴォが、老人に何か言われて、頭をかいていた。

 トイヴォは、わたしのことを、誰にも語らない。宿の契約書にも、「連れが一人」とだけ書く。

 けれど、毎朝、おはよう、と言う。

 わたしの名を、呼ぶ。

 それが、語られるということなのかどうか、わたしには、分からなかった。

 欄干の石が、手袋ごしに、冷たかった。

 

   ◇

 

 空になった器を返しに、わたしは、屋台のそばまで行った。

 仕込みの終わった老人が、ちょうど、屋台の下から、あの紙を出したところだった。

 紙の端に、筆で、一行、書き足した。

 ——教えた。手伝った。貸し借りなし。

 トイヴォに渡した。

 トイヴォは、それを受け取って、頭を下げた。

「ありがとうございました」

 老人は、目を細めた。

「礼は、契約に書いてないよ」

「あ、そうか……」

 トイヴォが、困った顔をした。

 老人は、それを見て、声を出して笑った。

「書いてないがね。……まあ、受け取っておくよ。もらいすぎのぶんは、こっちの借りってことで」

 それから、器を持って立っているわたしを、ちらりと見た。

「お連れさんも。……見物、ありがとさん」

 

 宿に戻って、トイヴォは、帳面をひらいた。

 一頁目の、モンドの粥の次の頁に、書いた。

 ——璃月。山あいの宿場町、橋のたもとの屋台。白粥と、揚げた棒のパン。

 ——米を、水から、形がなくなるまで煮る。「米の花が咲く」まで。

 ——生地は一晩寝かせる。二本重ねて、真ん中を押す。

 ——三日目で、ふくらんだ。

 書き終えて、トイヴォは、老人の書いた契約の紙を、その頁に挟んだ。

「それも、帳面に入れるのか」

「うん。大事なことが書いてあるから」

「……貸し借りなし、か」

「そっちじゃなくて」

 トイヴォは、紙の端を、指でなぞった。

「礼は、契約に書いてない。でも、受け取っておく。……って、おじいさん、言ったでしょ」

 わたしは、黙っていた。

「帳尻が合わないぶんが、あってもいいんだなって、思った」

 

 その夜、わたしは、帳面をつけた。

 ——璃月。石の多い国。五晩。

 ——庭の桂花。いちばん遠い部屋。花は、減らない。

 ——この国では、死んだとされた神が、今も語られている。

 書いてから、少し考えて、もう一行、足した。

 ——トイヴォ。三日目で、ふくらんだ。礼は、受け取られた。

 どの欄に書くのかは、もう、探さなかった。

 窓の外で、川が鳴っていた。中庭のほうから、甘い匂いが、ここまで流れてきた。

 遠い部屋でも、匂いは、届いた。

 わたしがいても、あの木の糸は、細らなかった。




お読みいただきありがとうございました。
次回、第5話「死んだとされた者」はトイヴォ視点でお送りします。璃月港に入ります。
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