死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※第二部「旅路編」の第5話です。
※旅の途中の町や人物には、作中の創作を含みます。
※今回はトイヴォ視点です。


旅路編 第5話 死んだとされた者

 璃月港は、大きすぎた。

 崖の上まで、家が積み重なっていた。石段が、どこまでも上へ続いていた。港には、数えきれないほどの船が並んでいて、その帆柱が、林みたいに見えた。人の声と、荷車の音と、呼び込みの声が、全部いっぺんに耳に入ってきた。

 僕の知っている町が、十も二十も、ここに入ってしまいそうだった。

「……人が、多いね」

「多い」

 ロノヴァは、港を見下ろしていた。

「糸が、太い。……人の糸は、草より強い。石の町だ」

「何晩?」

「四晩」

 稲妻へ行く船が、ちょうど四日後に出ると分かったのは、その日の夕方だった。

 宿は、港のいちばん端の、倉の二階に取った。窓をあけると、潮の匂いがした。下の倉には、塩と干物が積まれていて、ロノヴァが言うには、糸は、ほとんどないらしかった。

 ロノヴァは、窓辺に座って、肩の力を抜いたように見えた。

 

 港の役所で、船の席を取った。

 窓口の係は、帳面をひらいて、筆を取った。

「お名前と、国と、生業を」

「トイヴォです。スネージナヤの、猟師です」

「お連れさんは」

「一人です」

 係は、さらさらと書いた。

 ——璃月港発、稲妻行き。トイヴォ、スネージナヤ、猟師。同行者一名。

「稲妻のあとは?」

「スメールへ、行こうかと」

「なら、帰りの船で璃月へ戻って、層岩巨淵の坑道を抜けるのが近いよ。鉱山だ。深い坑道が、向こう側まで通ってる」

 係は、筆の尻で、壁の地図の一点を叩いた。

 ロノヴァは、係の筆の先を見ていた。

 僕は、船の席が取れたことのほうが、ずっと嬉しかった。

 

 次の朝、市場へ行った。

 見たことのない魚が、桶の中で跳ねていた。赤い実。黒い茸。干した貝。香辛料の匂いで、鼻の奥が、つんと痛くなった。

 燕麦は、どこにもなかった。

「燕麦? そんなもん、馬の餌だろう」

 乾物屋の男は、笑った。

 背負い袋の底の燕麦の袋は、家を出たときの半分より、少なくなっていた。

 僕は、袋の口を、固く結び直した。

 

   ◇

 

 その日の昼、港を見下ろす坂の途中で、ロノヴァが、足を止めた。

 石を削る音がしていた。

 道の脇に、石工の仕事場があった。軒先に、彫りかけの石が、いくつも並んでいた。四角い石。丸い石。表に、字が彫りこまれている石。

 墓の石だ、と分かった。

 石の面に彫られた字は、どれも、深くて、まっすぐだった。刃の入り方に、迷いがなかった。獣の皮を剥ぐときの、いい小刀の入り方と、少し似ていた。

 仕事場の前で、三人の男が、話しこんでいた。

 腕の太い、年寄りの石工。僕と同じくらいの歳の、痩せた若い男。それから、背の高い、落ち着いた男。黒っぽい長い上着を着て、長い髪を、後ろで一つに束ねていた。目の色が、琥珀みたいだった。

「名前を、刻めないんです」

 若い男が、言っていた。

「父は、借りを残して死にました。帳簿を見ても、どうしても、合わない。親戚が、借りを返しきるまでは、墓に名を刻むなって」

「名を刻まない墓碑なんてものは、うちは彫らないよ」

 石工が、腕を組んだ。

「石に、誰の墓か分からんものを背負わせるわけにはいかん」

「でも……」

 若い男は、うつむいた。

 背の高い男が、静かに口をひらいた。

「璃月では、交わした者が死んでも、終わらない契約がある。借りは、借りとして残るだろう」

 低い、よく通る声だった。

「……だが、それと、名を刻むこととは、別の話だ」

「別じゃないです」

 若い男が、顔を上げた。

「父の名を刻んだら、借りを踏み倒した男の墓だって、言われます。……父は、そういう人じゃなかったのに」

 背の高い男は、少し黙ってから、言った。

「葬儀の日、港の荷運びたちが、大勢来ていたな」

 若い男が、目を見ひらいた。

「証文のない貸し借りが、あったのだろう。お前の父の帳簿に、書かれていないものが」

「……そんなの、聞いてません」

「聞かせる人では、なかったのだろう」

 若い男は、黙って、うつむいた。

 

 僕の隣で、ロノヴァが、半歩、前に出た。

 手袋の手が、ほんの少しだけ、上がって、下りた。

「……帳尻は、終わった者が、合わせるものではない」

 三人が、こちらを振り向いた。

 ロノヴァは、若い男を見ていた。

「終わった者の帳面は、そこで閉じる。閉じた帳面に、もう、書き足すことはできない」

 平らな声だった。

「合わせるかどうかは、残った者が決める。……合わせるなら、名は、刻んでおけ。誰の帳尻を合わせたのか、分かるように」

 若い男の顔が、変わっていくのを、僕は見ていた。

 うつむいていた目が、石のほうへ動いた。まだ何も彫られていない、滑らかな石の面へ。

「……僕が、合わせればいいのか」

 若い男が、つぶやいた。

 ロノヴァは、答えなかった。答えは、もう、言ったのだと思う。

 背の高い男が、ロノヴァを見ていた。長いあいだ。

「……筋の通った話だ」

 

 若い男は、しばらく、石の前に立っていた。

 それから、石工に向き直った。

「父の名を、刻んでください。……父の借りは、僕が返します。返し終わったら、ここに、一行、足しに来ます」

 石工は、腕組みをほどいた。

「なら、名の下に、一行ぶんの余白を残しておこう。返し終わった日に、あんたが自分で刻みに来ればいい」

「……はい」

「良い契約だ」

 背の高い男が、言った。

 それから、懐に手を入れた。

「石の代の足しに、俺も少し出そう。葬送の相談に乗った者の、ささやかな——」

 懐を探る手が、止まった。

 もう片方の懐も、探った。

「……すまない。モラを、持ち合わせていなかった」

 石工が、深いため息をついた。

「客卿さん、またですか」

「後日、往生堂に請求してくれ」

「前のぶんも、まだ払ってもらってませんがね」

 石工は、そう言いながら、笑っていた。

 往生堂。客卿。

 僕には、どちらも分からなかった。でも、葬儀のことに詳しくて、墓の相談に乗っているのだから、たぶん、葬儀屋さんなのだと思った。

 すごく物知りな、葬儀屋さん。

 それから、モラを持ち歩かない、葬儀屋さん。

 

   ◇

 

 若い男は、ロノヴァの前まで来て、深く頭を下げた。

「ありがとうございました。……あの、お名前を」

 ロノヴァは、答えなかった。

 代わりに、僕が言った。

「連れです。僕の」

 若い男は、きょとんとして、それから、少し笑った。

「じゃあ、お連れさんに。……ありがとうございました」

 ロノヴァは、手袋の手を、体の前で、そっと組んだ。

 礼は、契約に書いてない。屋台のおじいさんの声を、思い出した。

 受け取っておく、と言う代わりに、ロノヴァは、小さく、うなずいた。

 若い男は、何度も振り返って頭を下げながら、坂を下りていった。

 背の高い男は、僕のほうを向いた。

「旅の者か」

「はい。北から。……スネージナヤとナド・クライの境の森から来ました」

「遠いな。どこへ行く」

「稲妻へ。それから、璃月に戻って、層岩巨淵って所の坑道を抜けて、スメールへ行こうかと」

 男の目が、わずかに動いた。

「……層岩巨淵か」

 それだけ言って、男は、黙った。

 男は、僕の手を見た。

「猟師の手だな」

「分かるんですか」

「罠の針金の跡がある。……獣に、礼を言うほうか」

 僕は、少し驚いた。

「はい。ありがとう、って」

「そうか」

 男は、それだけ言って、目を細めた。

 褒められたのかどうか、分からなかった。でも、嫌な感じは、しなかった。

 

 男が、ロノヴァのほうを向いた。

 ロノヴァは、石工の仕事場の軒先で、彫りかけの墓石のあいだに立っていた。人から、少し離れて。

 ふたりのあいだに、何か、張りつめたものがあった。

 ウェンティのときと、似ていた。けれど、あのときより、ずっと静かだった。

「……きみは、何も訊かないのか」

 ロノヴァが言った。

 きみ。

 また、あの話し方だった。

「契約にないことは、問わない」

 男は、穏やかに言った。

「ここは、契約の国だ。……ただ、ひとつだけ」

 男の声が、硬くなった。

「この国の民に、何かあれば。俺は、黙ってはいない」

「……何も、執り行わない」

 ロノヴァは、手袋の手を、体の横に下ろしたまま言った。

「その手は、もう、ない」

 男は、しばらく、ロノヴァの手袋に目を落としていた。

 それから、目を上げた。

「……そうか」

 短く、言った。

「層岩巨淵には、今、見張りがいる。お前たちが通ることは、伝えておく」

 親切で言っているのではないのだと、僕にも分かった。

 男は、坂を上りかけて、一度だけ、振り返った。

「……死んだことにする、というのも、ひとつの契約だ」

 ロノヴァを見て、それだけ言った。

 背の高い姿は、石段の人波の中に、すぐに見えなくなった。

 

 僕は、その場から、動けなかった。

 民に何かあれば、黙ってはいない。——知らない人が、ロノヴァに、そう言った。背中が、冷たくなった。この人が何者なのか、あの人は、知っているのかもしれない。

 それに、あの言葉を、僕は、知っていた。

 あの冬の、湖の島の小屋で、ロノヴァが言った。死の執政は、死ぬ。——死なない。死んだことに、する。

 それ、嘘? と僕は聞いた。

 嘘では、ない、とロノヴァは答えた。

「……ロノヴァ。今の人、知り合い?」

「……いや。初めて会う」

「なのに、なんで、あんなこと……」

 ロノヴァは、男の消えた石段を見ていた。

「……葬儀のことに、詳しい者だ」

「葬儀屋さんだもんね」

 僕が言うと、ロノヴァは、間を置いた。

「……そうだな」

 ロノヴァの横顔は、怒ってはいなかった。

 

   ◇

 

 その夜、宿の部屋で、僕は帳面をひらいた。

 料理のことは、書かなかった。今日は、何も習わなかったから。

 代わりに、二頁目に挟んだ屋台のおじいさんの契約の紙を、もう一度、読んだ。

 ——教えた。手伝った。貸し借りなし。

「ロノヴァ」

「何だ」

「さっきの、帳尻の話。……あの人、お父さんの借り、ほんとに返せるかな」

 ロノヴァは、窓のそばで、自分の帳面をつけていた。

「返せるかどうかは、分からない」

「……そっか」

「だが、名は、刻まれる」

 ロノヴァは、筆を止めずに言った。

「返せなかったとしても、あの石には、誰の帳尻を合わせようとしたのかが、残る」

 僕は、ロノヴァの横顔を見た。

「君の帳面も、そういう帳面なの?」

 ロノヴァの筆が、止まった。

 しばらく、答えなかった。

「……そうなりかけている」

 それだけ言って、ロノヴァは、また書きはじめた。

 

 寝る前に、背負い袋から、燕麦の袋を出した。

 手のひらで、量ってみた。ふたり分を、あと、十と少し。

「稲妻にも、燕麦、ないかな」

「……分からない」

「なくなったら、どうしよう。表紙の裏の粥、作れなくなる」

 ロノヴァが、帳面から顔を上げた。

「米で、炊けばいい」

「え?」

「屋台の老人の粥は、悪くなかった。……塩を、ひとつまみと、半分にすれば」

 僕は、笑ってしまった。

「それ、もう、うちの粥じゃないよ」

「燕麦でなくても」

 ロノヴァは、また、筆を動かしはじめた。

「お前が炊けば、同じだ」

 僕は、燕麦の袋を、そっと背負い袋に戻した。口は、結ばなかった。

 

 船の出る日の朝、港へ向かう前に、もう一度、あの坂を上った。

 石工の仕事場の軒先に、あの石が、立てかけてあった。

 表に、名前が、ひとつ彫られていた。深く、はっきりと。朝の光が、字の溝に、細い影をつくっていた。

 その下に、何も彫られていない、滑らかな一行ぶんの余白があった。

 ロノヴァが、足を止めた。

「……余白だ」

「帳面みたいだね」

 僕は、言った。

「僕の帳面も、白いところのほうが、まだずっと多い」

「わたしの帳面もだ」

 ロノヴァは、石の余白を、しばらく見ていた。

「……埋まるのか」

「分かんない。でも、埋めに行くんでしょ。僕たち」

 ロノヴァは、答えなかった。

 答えないまま、石に向かって、ほんの少しだけ、頭を下げた。

 それから、坂を下りはじめた。

 港のほうで、出航の鐘が、一度鳴った。

 船に渡る板の手前で、僕は、少しだけ、足がすくんだ。モンドへの船で、三日、吐きつづけたことを思い出したからだ。

「……今度の船は、長い」

 ロノヴァが、言った。

「知ってる。……がんばる」

 ロノヴァは、何も言わずに、僕の背中に、手袋の手を一度だけ置いた。

 それから、先に、板を渡った。




お読みいただきありがとうございました。
これで璃月編はひと区切りです。次回、第6話「水の上でも、細る」はロノヴァ視点でお送りします。稲妻へ向かう船の上のお話です。
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