※第二部「旅路編」の第5話です。
※旅の途中の町や人物には、作中の創作を含みます。
※今回はトイヴォ視点です。
璃月港は、大きすぎた。
崖の上まで、家が積み重なっていた。石段が、どこまでも上へ続いていた。港には、数えきれないほどの船が並んでいて、その帆柱が、林みたいに見えた。人の声と、荷車の音と、呼び込みの声が、全部いっぺんに耳に入ってきた。
僕の知っている町が、十も二十も、ここに入ってしまいそうだった。
「……人が、多いね」
「多い」
ロノヴァは、港を見下ろしていた。
「糸が、太い。……人の糸は、草より強い。石の町だ」
「何晩?」
「四晩」
稲妻へ行く船が、ちょうど四日後に出ると分かったのは、その日の夕方だった。
宿は、港のいちばん端の、倉の二階に取った。窓をあけると、潮の匂いがした。下の倉には、塩と干物が積まれていて、ロノヴァが言うには、糸は、ほとんどないらしかった。
ロノヴァは、窓辺に座って、肩の力を抜いたように見えた。
港の役所で、船の席を取った。
窓口の係は、帳面をひらいて、筆を取った。
「お名前と、国と、生業を」
「トイヴォです。スネージナヤの、猟師です」
「お連れさんは」
「一人です」
係は、さらさらと書いた。
——璃月港発、稲妻行き。トイヴォ、スネージナヤ、猟師。同行者一名。
「稲妻のあとは?」
「スメールへ、行こうかと」
「なら、帰りの船で璃月へ戻って、層岩巨淵の坑道を抜けるのが近いよ。鉱山だ。深い坑道が、向こう側まで通ってる」
係は、筆の尻で、壁の地図の一点を叩いた。
ロノヴァは、係の筆の先を見ていた。
僕は、船の席が取れたことのほうが、ずっと嬉しかった。
次の朝、市場へ行った。
見たことのない魚が、桶の中で跳ねていた。赤い実。黒い茸。干した貝。香辛料の匂いで、鼻の奥が、つんと痛くなった。
燕麦は、どこにもなかった。
「燕麦? そんなもん、馬の餌だろう」
乾物屋の男は、笑った。
背負い袋の底の燕麦の袋は、家を出たときの半分より、少なくなっていた。
僕は、袋の口を、固く結び直した。
◇
その日の昼、港を見下ろす坂の途中で、ロノヴァが、足を止めた。
石を削る音がしていた。
道の脇に、石工の仕事場があった。軒先に、彫りかけの石が、いくつも並んでいた。四角い石。丸い石。表に、字が彫りこまれている石。
墓の石だ、と分かった。
石の面に彫られた字は、どれも、深くて、まっすぐだった。刃の入り方に、迷いがなかった。獣の皮を剥ぐときの、いい小刀の入り方と、少し似ていた。
仕事場の前で、三人の男が、話しこんでいた。
腕の太い、年寄りの石工。僕と同じくらいの歳の、痩せた若い男。それから、背の高い、落ち着いた男。黒っぽい長い上着を着て、長い髪を、後ろで一つに束ねていた。目の色が、琥珀みたいだった。
「名前を、刻めないんです」
若い男が、言っていた。
「父は、借りを残して死にました。帳簿を見ても、どうしても、合わない。親戚が、借りを返しきるまでは、墓に名を刻むなって」
「名を刻まない墓碑なんてものは、うちは彫らないよ」
石工が、腕を組んだ。
「石に、誰の墓か分からんものを背負わせるわけにはいかん」
「でも……」
若い男は、うつむいた。
背の高い男が、静かに口をひらいた。
「璃月では、交わした者が死んでも、終わらない契約がある。借りは、借りとして残るだろう」
低い、よく通る声だった。
「……だが、それと、名を刻むこととは、別の話だ」
「別じゃないです」
若い男が、顔を上げた。
「父の名を刻んだら、借りを踏み倒した男の墓だって、言われます。……父は、そういう人じゃなかったのに」
背の高い男は、少し黙ってから、言った。
「葬儀の日、港の荷運びたちが、大勢来ていたな」
若い男が、目を見ひらいた。
「証文のない貸し借りが、あったのだろう。お前の父の帳簿に、書かれていないものが」
「……そんなの、聞いてません」
「聞かせる人では、なかったのだろう」
若い男は、黙って、うつむいた。
僕の隣で、ロノヴァが、半歩、前に出た。
手袋の手が、ほんの少しだけ、上がって、下りた。
「……帳尻は、終わった者が、合わせるものではない」
三人が、こちらを振り向いた。
ロノヴァは、若い男を見ていた。
「終わった者の帳面は、そこで閉じる。閉じた帳面に、もう、書き足すことはできない」
平らな声だった。
「合わせるかどうかは、残った者が決める。……合わせるなら、名は、刻んでおけ。誰の帳尻を合わせたのか、分かるように」
若い男の顔が、変わっていくのを、僕は見ていた。
うつむいていた目が、石のほうへ動いた。まだ何も彫られていない、滑らかな石の面へ。
「……僕が、合わせればいいのか」
若い男が、つぶやいた。
ロノヴァは、答えなかった。答えは、もう、言ったのだと思う。
背の高い男が、ロノヴァを見ていた。長いあいだ。
「……筋の通った話だ」
若い男は、しばらく、石の前に立っていた。
それから、石工に向き直った。
「父の名を、刻んでください。……父の借りは、僕が返します。返し終わったら、ここに、一行、足しに来ます」
石工は、腕組みをほどいた。
「なら、名の下に、一行ぶんの余白を残しておこう。返し終わった日に、あんたが自分で刻みに来ればいい」
「……はい」
「良い契約だ」
背の高い男が、言った。
それから、懐に手を入れた。
「石の代の足しに、俺も少し出そう。葬送の相談に乗った者の、ささやかな——」
懐を探る手が、止まった。
もう片方の懐も、探った。
「……すまない。モラを、持ち合わせていなかった」
石工が、深いため息をついた。
「客卿さん、またですか」
「後日、往生堂に請求してくれ」
「前のぶんも、まだ払ってもらってませんがね」
石工は、そう言いながら、笑っていた。
往生堂。客卿。
僕には、どちらも分からなかった。でも、葬儀のことに詳しくて、墓の相談に乗っているのだから、たぶん、葬儀屋さんなのだと思った。
すごく物知りな、葬儀屋さん。
それから、モラを持ち歩かない、葬儀屋さん。
◇
若い男は、ロノヴァの前まで来て、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。……あの、お名前を」
ロノヴァは、答えなかった。
代わりに、僕が言った。
「連れです。僕の」
若い男は、きょとんとして、それから、少し笑った。
「じゃあ、お連れさんに。……ありがとうございました」
ロノヴァは、手袋の手を、体の前で、そっと組んだ。
礼は、契約に書いてない。屋台のおじいさんの声を、思い出した。
受け取っておく、と言う代わりに、ロノヴァは、小さく、うなずいた。
若い男は、何度も振り返って頭を下げながら、坂を下りていった。
背の高い男は、僕のほうを向いた。
「旅の者か」
「はい。北から。……スネージナヤとナド・クライの境の森から来ました」
「遠いな。どこへ行く」
「稲妻へ。それから、璃月に戻って、層岩巨淵って所の坑道を抜けて、スメールへ行こうかと」
男の目が、わずかに動いた。
「……層岩巨淵か」
それだけ言って、男は、黙った。
男は、僕の手を見た。
「猟師の手だな」
「分かるんですか」
「罠の針金の跡がある。……獣に、礼を言うほうか」
僕は、少し驚いた。
「はい。ありがとう、って」
「そうか」
男は、それだけ言って、目を細めた。
褒められたのかどうか、分からなかった。でも、嫌な感じは、しなかった。
男が、ロノヴァのほうを向いた。
ロノヴァは、石工の仕事場の軒先で、彫りかけの墓石のあいだに立っていた。人から、少し離れて。
ふたりのあいだに、何か、張りつめたものがあった。
ウェンティのときと、似ていた。けれど、あのときより、ずっと静かだった。
「……きみは、何も訊かないのか」
ロノヴァが言った。
きみ。
また、あの話し方だった。
「契約にないことは、問わない」
男は、穏やかに言った。
「ここは、契約の国だ。……ただ、ひとつだけ」
男の声が、硬くなった。
「この国の民に、何かあれば。俺は、黙ってはいない」
「……何も、執り行わない」
ロノヴァは、手袋の手を、体の横に下ろしたまま言った。
「その手は、もう、ない」
男は、しばらく、ロノヴァの手袋に目を落としていた。
それから、目を上げた。
「……そうか」
短く、言った。
「層岩巨淵には、今、見張りがいる。お前たちが通ることは、伝えておく」
親切で言っているのではないのだと、僕にも分かった。
男は、坂を上りかけて、一度だけ、振り返った。
「……死んだことにする、というのも、ひとつの契約だ」
ロノヴァを見て、それだけ言った。
背の高い姿は、石段の人波の中に、すぐに見えなくなった。
僕は、その場から、動けなかった。
民に何かあれば、黙ってはいない。——知らない人が、ロノヴァに、そう言った。背中が、冷たくなった。この人が何者なのか、あの人は、知っているのかもしれない。
それに、あの言葉を、僕は、知っていた。
あの冬の、湖の島の小屋で、ロノヴァが言った。死の執政は、死ぬ。——死なない。死んだことに、する。
それ、嘘? と僕は聞いた。
嘘では、ない、とロノヴァは答えた。
「……ロノヴァ。今の人、知り合い?」
「……いや。初めて会う」
「なのに、なんで、あんなこと……」
ロノヴァは、男の消えた石段を見ていた。
「……葬儀のことに、詳しい者だ」
「葬儀屋さんだもんね」
僕が言うと、ロノヴァは、間を置いた。
「……そうだな」
ロノヴァの横顔は、怒ってはいなかった。
◇
その夜、宿の部屋で、僕は帳面をひらいた。
料理のことは、書かなかった。今日は、何も習わなかったから。
代わりに、二頁目に挟んだ屋台のおじいさんの契約の紙を、もう一度、読んだ。
——教えた。手伝った。貸し借りなし。
「ロノヴァ」
「何だ」
「さっきの、帳尻の話。……あの人、お父さんの借り、ほんとに返せるかな」
ロノヴァは、窓のそばで、自分の帳面をつけていた。
「返せるかどうかは、分からない」
「……そっか」
「だが、名は、刻まれる」
ロノヴァは、筆を止めずに言った。
「返せなかったとしても、あの石には、誰の帳尻を合わせようとしたのかが、残る」
僕は、ロノヴァの横顔を見た。
「君の帳面も、そういう帳面なの?」
ロノヴァの筆が、止まった。
しばらく、答えなかった。
「……そうなりかけている」
それだけ言って、ロノヴァは、また書きはじめた。
寝る前に、背負い袋から、燕麦の袋を出した。
手のひらで、量ってみた。ふたり分を、あと、十と少し。
「稲妻にも、燕麦、ないかな」
「……分からない」
「なくなったら、どうしよう。表紙の裏の粥、作れなくなる」
ロノヴァが、帳面から顔を上げた。
「米で、炊けばいい」
「え?」
「屋台の老人の粥は、悪くなかった。……塩を、ひとつまみと、半分にすれば」
僕は、笑ってしまった。
「それ、もう、うちの粥じゃないよ」
「燕麦でなくても」
ロノヴァは、また、筆を動かしはじめた。
「お前が炊けば、同じだ」
僕は、燕麦の袋を、そっと背負い袋に戻した。口は、結ばなかった。
船の出る日の朝、港へ向かう前に、もう一度、あの坂を上った。
石工の仕事場の軒先に、あの石が、立てかけてあった。
表に、名前が、ひとつ彫られていた。深く、はっきりと。朝の光が、字の溝に、細い影をつくっていた。
その下に、何も彫られていない、滑らかな一行ぶんの余白があった。
ロノヴァが、足を止めた。
「……余白だ」
「帳面みたいだね」
僕は、言った。
「僕の帳面も、白いところのほうが、まだずっと多い」
「わたしの帳面もだ」
ロノヴァは、石の余白を、しばらく見ていた。
「……埋まるのか」
「分かんない。でも、埋めに行くんでしょ。僕たち」
ロノヴァは、答えなかった。
答えないまま、石に向かって、ほんの少しだけ、頭を下げた。
それから、坂を下りはじめた。
港のほうで、出航の鐘が、一度鳴った。
船に渡る板の手前で、僕は、少しだけ、足がすくんだ。モンドへの船で、三日、吐きつづけたことを思い出したからだ。
「……今度の船は、長い」
ロノヴァが、言った。
「知ってる。……がんばる」
ロノヴァは、何も言わずに、僕の背中に、手袋の手を一度だけ置いた。
それから、先に、板を渡った。
お読みいただきありがとうございました。
これで璃月編はひと区切りです。次回、第6話「水の上でも、細る」はロノヴァ視点でお送りします。稲妻へ向かう船の上のお話です。