死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※第二部「旅路編」の第6話です。今回から稲妻編です。
※旅の途中の航路や人物、料理には、作中の創作を含みます。
※今回はロノヴァ視点です。


旅路編 第6話 水の上でも、細る

 海の上では、数えるものがなかった。

 璃月の港を出て、二日。わたしは、一度も、糸を数えなかった。

 甲板の板には、糸がない。帆にも、綱にも、ない。船べりの向こうは、どこまでも水だった。水の底には、魚の糸が、ゆっくりと行き来していた。遠くて、深くて、わたしの足もとからは、届かない。

 三晩、とも、五晩、とも、言わなくてよかった。

 ここに、どれだけいても、何も黒くならない。

 モンドへの船も、そうだった。けれど、あれは三日だった。今度の船は、七日かかるという。

 七日ものあいだ、何も終わらせずにいられる。あの冬、あの家に落ちてから、初めてのことだった。

 

 トイヴォは、船酔いしていた。

 モンドへの船と、同じだった。一日目の昼に吐いて、夕方に吐いた。二日目も、吐いた。

 あの船では、飯炊きをしていた。吐いても、鍋の前に戻って、自分の炊いたものを口に入れていた。

 この船では、飯炊きの約束はしていない。港の役所で、船の席を買ったからだ。それでもトイヴォは、青い顔で、船の厨房をのぞきに行った。飯炊きの老婆に、鍋の中身を聞いていた。聞きながら、途中で、船べりへ走っていった。

 器によそった粥を、トイヴォは、ひと口だけ食べて、置いた。

「……ごめん。今は、入らない」

 器の中身は、ほとんど減っていなかった。

 二日目の朝も、三日目の朝も、トイヴォは、目を覚ますなり、おはようより先に、船べりへ走った。戻ってきたときには、もう、言いそびれていた。

 

 その夜、わたしは、船室の隅で、トイヴォの糸を見ていた。

 狭い船室だった。寝台は、上下に二つ。トイヴォは下の段で、背を丸めて眠っていた。わたしは、床に座って、壁にもたれていた。

 トイヴォの糸は、いつものように、細っていった。

 髪一本の、半分。

 あの家でも、宿でも、同じだった。夜のあいだに、細る。朝の粥のあとで、戻る。わたしは、それを、毎晩、帳面に書いてきた。

 水の上でも、それは、変わらなかった。

 

 三日目の朝、トイヴォは、粥を半分だけ食べて、また吐いた。

 わたしは、トイヴォの糸を見た。

 戻りが、足りなかった。

 夜のあいだに細ったぶんの、半分ほどしか。

 残りの半分は、細ったまま、そこにあった。

 ——トイヴォの糸。戻りが、足りない。食べたぶんしか、戻らない。

 帳面に、そう書いた。

 

 四日目の朝も、トイヴォは、おはようより先に、船べりへ走った。

 吐いて、食べて、また吐いた。食べたぶんだけ、糸は戻った。食べられなかったぶんは、戻らなかった。

 細ったぶんと、戻ったぶんの差が、二日ぶん、重なった。

 髪一本の、四分の一が、二つ。

 人の目には、見えない細さだ。顔色が悪いのも、足もとがふらつくのも、波のせいだ、とトイヴォは言った。

 わたしには、見えていた。

 わたしは、帳面を閉じた。

 

   ◇

 

 四日目の夜、わたしは、船室を出た。

 甲板を、船のいちばん前まで歩いた。船首の、帆柱の陰。トイヴォの眠る船室から、この船の上で、いちばん遠い場所だった。

 風が、強かった。しぶきが、顔にかかった。冷たかった。

 距離で、細り方は変わる。遠ければ、少なくてすむ。この船の長さでは、たいした違いにはならない。それでも、何もしないよりは、いい。

 船べりにもたれて、暗い海を見ていた。

 水の上がいい、と、あの家を出る前の晩に、わたしは言った。

 水の上なら、七日でも、十日でも、いられる。

 その水の上で、トイヴォは、ものが食べられない。

 水の上は、あの人間の暮らせる場所ではなかった。

 

「……ロノヴァ?」

 声がした。

 振り返ると、トイヴォが、帆柱に片手をついて立っていた。毛布を、肩に引っかけていた。

「起きたら、いなかったから」

「……戻れ」

「なんで、こんなところにいるの。濡れてるよ」

 トイヴォは、ふらつきながら、こちらへ歩いてきた。

 わたしは、船べりから離れなかった。

 トイヴォの足が、わたしの手前で、止まった。

「……どうしたの」

 トイヴォの声が、低くなった。

 わたしは、嘘をつかない。

「お前の糸の、戻りが、足りない」

 トイヴォは、黙った。

「夜のあいだに細ったぶんを、朝の粥で、取り返せていない。三日目から。……食べられないからだ」

「……船酔いだから?」

「そうだ」

「じゃあ、陸に着いたら、戻る?」

「戻る。……だが、この船は、まだ何日も続く」

 しぶきが、また、顔にかかった。

「水の上なら、何も枯らさずにすむと思っていた。……わたしのそばで細るものは、お前しかいなかった」

 

 トイヴォは、しばらく、何も言わなかった。

 それから、毛布を肩から下ろして、わたしの肩に、かけた。

「……必要ない」

「うん。知ってる」

 トイヴォは、船べりに、わたしと並んでもたれた。

 指一本ぶんの、隙間を空けて。

「でも、ここ、寒いよ。君、寒いの、分かるようになったんでしょ」

 わたしは、答えなかった。

 答えなかったけれど、毛布は、払わなかった。

「食べるよ」

 トイヴォが、言った。

「吐いても、食べる。吐いたら、また食べる。……それで、戻るんでしょ?」

「……戻るかどうかは、食べたぶん次第だ」

「じゃあ、食べる」

 トイヴォは、暗い海を見ていた。

「だから、戻ってきて。船室に。……ここで、濡れてる君を思いながら寝るほうが、ずっと、食べられなくなる」

 わたしは、トイヴォを見た。

 顔色が、悪かった。

 それでも、この人間は、笑おうとしていた。

 

 船室に戻って、わたしは、戸口のそばの床に座った。狭い船室の中で、下の段の寝台から、いちばん遠いところに。

 トイヴォは、毛布にもぐりこんでから、顔だけこちらへ向けた。

「……そこなら、いいの?」

「ここなら、いい」

「うん。……おやすみ、ロノヴァ」

「おやすみ」

 トイヴォの寝息が、深くなるまで、わたしは、糸を見ていた。

 船首より、糸が近かった。そのぶん、細る。それでも、わたしがここにいるほうが、トイヴォの寝息は、深かった。

 

   ◇

 

 五日目の朝、厨房の老婆が、トイヴォの前に、小さな器を置いた。

「ほら。船酔いには、これさ」

 白い粥だった。璃月の屋台の粥よりも、さらに水の多い、薄い粥。真ん中に、赤黒い、しわだらけの実が、ひとつ沈んでいた。

「稲妻の塩漬けの梅だよ。潰して、粥に溶かして、すするんだ。稲妻の船乗りは、みんな、これで海を越える」

 トイヴォは、匙で、梅の実を崩した。

 白い粥に、薄い紅色が、ゆっくりと広がった。

 ひと口、すすった。

 顔が、くしゃりと縮んだ。

「……すっぱい」

「すっぱいのがいいのさ。腹が、しゃんとする」

 トイヴォは、もうひと口、すすった。

 三口目も。

 器が、空になった。

 トイヴォは、しばらく、空の器を見ていた。それから、腹に手を当てた。

「……吐かない」

 老婆は、からからと笑った。

「そうだろう。婆ちゃんの粥は、効くんだよ」

 わたしは、船室の戸口から、それを見ていた。

 トイヴォの糸を、見ていた。

 粥のぶんだけ、糸が、戻った。

 夜のあいだに細ったぶんが。それから、ほんの少しだけ、前の晩のぶんも。

 

 その日から、トイヴォは、朝と昼と晩に、梅の粥を食べた。

 吐かなかった。

 食べながら、老婆に、作り方を聞いていた。米と水の量。煮る時間。梅は、潰してから入れるか、入れてから潰すか。

 老婆は、面白がって、何でも教えた。

「あんた、猟師だろう。なんで、飯の作り方ばかり聞くんだい」

「行った先で、習った料理を、帳面に書いてるんです」

「へえ。じゃあ、この粥は、海の上で習ったって書いときな」

 夜、トイヴォは、帳面をひらいた。

 璃月の屋台の粥の次の頁に、書いていた。

 ——稲妻へ行く船の上。梅を落とした白い粥。

 ——米を、水多めで、薄く煮る。塩漬けの梅を、ひとつ。潰して、溶かして、すする。

 ——船酔いに。吐かない。

 ——厨房のおばあさんに習った。海の上で。

 書き終えて、トイヴォは、わたしのほうを見た。

「ね。戻った?」

 わたしは、トイヴォの糸を見た。

「……戻りはじめている」

「よかった」

 トイヴォは、帳面を閉じて、笑った。今度は、うまく笑えていた。

 

 燕麦の袋は、背負い袋の底で、口を結ばないまま、眠っていた。

 ふたり分を、あと、十と少し。

 この船の上で、トイヴォは、燕麦に手をつけなかった。米と、梅と、老婆の鍋で、足りていた。

「燕麦、使わないのか」

「うん。とっておく」

「何のために」

「分かんない。……でも、いつか、うちの粥が要る日が来る気がするから」

 わたしは、それ以上、聞かなかった。

 

 六日目の夕方、老婆が、甲板に出てきた。

 手のひらに、炊く前の米を、ひとつまみ載せていた。船べりから、それを、海に撒いた。白い粒が、波の上に散って、すぐに見えなくなった。

 わたしは、帆柱の陰から、それを見ていた。

「亭主の分さ」

 わたしの視線に気づいて、老婆が言った。

「船乗りだったんだよ。二十年前に、この海で沈んだ。……海で死んだ者には、墓がないからね。この航路を通るたびに、こうして、飯を少し分けてやるのさ。国が閉じてたあいだは、船が出なくて、何年も撒けなかったけどね」

 老婆は、空になった手のひらを、前掛けで拭いた。

「届いてるかどうかなんて、知らないよ。でも、撒かないと、こっちの腹の具合が悪くてね」

 わたしは、海を見た。

 米の粒の糸は、とうに終わっている。沈んだ船乗りの糸も、二十年前に、わたしのもとを通ったのだろう。わたしは、それを記録したはずだ。名前も、時刻も。

 覚えては、いなかった。

 通ったあとのことも、知らなかった。

「……届いたかどうか、分からなくても」

 わたしが言うと、老婆は、少し目を丸くした。

 それから、しわだらけの顔で、笑った。

「そうさ。分からなくても、撒くんだよ」

 老婆が厨房へ戻っていったあと、わたしは、しばらく、米の散ったあたりの海を見ていた。

 波が、何もかも、均していた。

 

   ◇

 

 七日目の朝、わたしは、トイヴォより先に目を覚ました。

 眠っていたのではない。目を閉じていただけだ。けれど、目を開けたとき、船室の小さな窓から、朝の光が差していた。

 トイヴォの糸を、見た。

 戻っていた。

 夜のあいだに細ったぶんも、あの二日のあいだに積もったぶんも。全部。

 帳面をひらいて、書いた。

 ——トイヴォの糸。戻った。

 ——水の上でも、細る。

 書いてから、少し考えて、もう一行、足した。

 ——水の上でも、戻せる。

 下の段で、トイヴォが、身じろぎした。

 目を開けて、最初に、こちらを見た。

「……おはよう、ロノヴァ」

「おはよう」

 三百。

 わたしは、数えた。

「……今の、何回目?」

 トイヴォが、寝ぼけた声で聞いた。

「三百」

 トイヴォの目が、ぱちりと開いた。

「三百?」

「三百だ」

「……すごいね。三百回も、おはようって言ったんだ、僕」

「答えなかったぶんも、入っている」

「それでも、すごいよ」

 トイヴォは、寝台から起きあがった。

 背負い袋の中から、小さな瓶を出した。あの町の、東の通りの二軒目で買った蜂蜜の、ひとつ目。

「じゃあ、今日は、特別な日だ」

 その朝、梅の粥の横に、もうひとつ、小さな器が並んだ。

 ひと匙の蜂蜜を落とした、ほんの少しの、燕麦の粥。

「燕麦は、とっておくのではなかったのか」

「うん。だから、ほんの少しだけ」

 トイヴォは、器を、わたしの前に置いた。

「うちの粥が要る日って、今日みたいな日のことかもしれないって、思って」

 わたしは、匙を取った。

 甘かった。

 あの冬の、最初の朝と、同じ味がした。

 

 昼すぎ、見張りの船乗りが、帆柱の上で声を上げた。

 水平線の上に、低い雲が見えた。紫がかった、重たい雲だった。その下に、陸の影が、かすかに浮かんでいた。

 雲の中で、音もなく、光が走った。

「稲妻だ」

 船乗りの誰かが言った。国の名前なのか、空の光のことなのか、わたしには分からなかった。たぶん、どちらもなのだろう。

 わたしは、陸の影に、意識を向けた。

 糸が、あった。数えきれないほど。人の糸。木の糸。草の糸。

 水の上の日々が、終わろうとしていた。

 また、数えはじめる。

 三晩か、五晩か。それとも、もっと少ないか。

 隣で、トイヴォが、手すりにもたれて、陸を見ていた。顔色は、もう、悪くなかった。

「……数える?」

 トイヴォが、聞いた。

「数える」

「うん。じゃあ、僕は、食べる」

 船が、ゆっくりと、陸のほうへ向きを変えた。




お読みいただきありがとうございました。
次回、第7話「送り火」はトイヴォ視点でお送りします。稲妻の島の漁村のお話です。
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