※第二部「旅路編」の第7話です。
※旅の途中の島や人物、行事には、作中の創作を含みます。
※今回はトイヴォ視点です。
船が離島という港に入ったのは、陸が見えた次の朝だった。夜のあいだは、沖で錨を下ろして待った。
桟橋に、足を下ろした。
港には、見たことのない形の屋根が並んでいた。反りかえった瓦。赤い柱。布ののれん。人の話す言葉は分かるのに、節回しが、少しずつ違っていた。
桟橋を渡りきったところで、厨房のおばあさんが、僕の袖を引いた。
「あんたたち、今夜の宿は決まってるのかい」
「まだです」
「なら、うちの島へおいで。小舟で、ひと漕ぎだ」
おばあさんは、沖のほうを顎で示した。薄く霞んだ海の向こうに、低い島の影がいくつも浮かんでいた。
「今夜、島で、送り火があるんだよ。海で死んだ者に、灯りを流す晩さ」
それから、少しだけ声を落とした。
「……今年は、あたしも、流せる」
僕は、ロノヴァを見た。
ロノヴァは、沖の島の影を見ていた。
「……行く」
ロノヴァが、先に言った。
小舟は、おばあさんの甥だという若い漁師が漕いだ。
ロノヴァは、舳先に座った。漕ぎ手から、いちばん遠いところに。舟べりの向こうは、水だけだった。水の上では、何も黒くならない。舳先のロノヴァは、浜にいるときより、少しだけ肩の力を抜いていた。
遠くの空に、紫がかった雲が、低く垂れこめていた。ときどき、その奥で、光がまたたいた。
「あれ、雷ですか」
「鎖国のころは、あの雷が、海をぐるりと囲ってたもんさ。今は、あのくらいだ」
漕ぎ手が、櫂を動かしながら笑った。
「将軍様が、見てなさるんだよ。この国のことを、ずっと」
ロノヴァが、雲のほうへ顔を上げた。
何も言わなかった。
島は、小さかった。
砂浜と、松の林と、斜面に張りつくような家が三十ほど。浜には、網が干してあった。潮と、魚を焼く匂いがした。
小舟から砂浜へ下りると、ロノヴァは、しばらく立ち止まっていた。
糸を、数えているのだと分かった。
「……四晩」
ロノヴァが言った。
「砂と、海ばかりだ。枯らすものが、少ない」
「石の国の次は、砂の島だね」
僕が言うと、ロノヴァは、少しだけ眉を寄せた。
足もとの浜の草が、ひとつ、黒く縮れた。ロノヴァは、それを見下ろして、歩きだした。
おばあさんの家は、浜にいちばん近いところにあった。
土間に、大きな鍋がかかっていた。
「夕方までに、灯籠を作るよ。あんたも手伝いな」
おばあさんは、僕の手に、薄い紙と、細い竹の骨を押しつけた。
「作り方、知らないです」
「教えるさ。骨を組んで、紙を貼って、名前を書く。中に、小さな蝋燭を立てる。それだけだ」
僕は、土間に座って、竹の骨を組みはじめた。
ロノヴァは、戸口の外の、砂の上に座っていた。家の中の糸から、少し離れて。
おばあさんは、それを見て、何も聞かなかった。船の上でも、何も聞かなかった人だった。
しばらくすると、戸口の外に、小さな女の子が来た。
五つか、六つくらい。日に焼けた頬をして、裸足だった。砂の上に座っているロノヴァを、少し離れたところから、じっと見ていた。長い手袋が、珍しいらしかった。
女の子が、一歩、近づいた。
ロノヴァが、立ち上がった。何も言わずに、砂の上を、同じだけ下がった。
女の子が、また一歩、近づいた。ロノヴァが、また下がった。
僕は、土間から声をかけた。
「ねえ。ちょっと、手伝ってくれないかな。紙を、押さえててほしいんだ」
女の子は、僕とロノヴァを見比べてから、土間へ入ってきた。僕の隣にしゃがんで、小さな手で、紙の端を押さえた。
「あの人、どうして、中に入らないの」
「人の多いところが、苦手なんだ」
嘘ではなかった。
「ふうん。うちのじいちゃんも、そう」
女の子は、紙を押さえたまま、言った。
「あたしも、今夜、流すんだよ。ひいじいちゃんの」
「ひいおじいちゃん、海で?」
「知らない。会ったことないもん。あたしが生まれる前に、死んだんだって」
女の子は、平気な顔で言った。
「でも、毎年、流すの。母ちゃんが、流しなさいって」
戸口の外で、ロノヴァが、こちらを見ていた。何も言わなかった。
紙を貼り終わると、女の子は、「じゃあね」と言って、浜のほうへ駆けだした。戸口を出るとき、ロノヴァに、小さく手を振った。
ロノヴァは、手袋の手を、少しだけ上げかけて、下ろした。
それから、女の子の走っていった砂の跡を、しばらく見ていた。
日が傾くころ、灯籠がいくつかできあがった。
おばあさんは、そのひとつに、筆で名前を書いた。
僕には、読めない字だった。この国の字なのだと思った。
「亭主の名前さ」
おばあさんは、墨が乾くのを、じっと見ていた。
「二十年、この晩は、たいてい、どこかの船の上だった。船べりから米を撒いて、それで済ませてきた。国が閉じてたあいだは、向こうの港で足止めさ。撒くことも、流すこともできなかった。……今年は、この島から、ちゃんと流してやれる」
僕は、自分の組んだ灯籠を見た。
骨が、少し歪んでいた。
雪の国には、灯りを流す晩はなかった。おばあちゃんが死んだ冬、僕は、誰かのために何かを流したり、撒いたりすることを知らなかった。しばらくのあいだ、夕飯を、つい二人分よそってしまっただけだ。
「……僕も、ひとつ、流していいですか」
「誰のだい」
「おばあちゃんの。……冬に、死んだんです。もうすぐ、五年になります。海じゃないけど」
おばあさんは、少し目を丸くした。
それから、筆を差し出した。
「海でも、山でも、雪の中でも、同じさ。送る側の気持ちは」
筆を持って、少し考えた。
それから、戸口の外のロノヴァを振り返った。
「ロノヴァ。……書いてくれないかな」
ロノヴァが、こちらを見た。
「わたしが」
「うん。君の字で」
「……わたしの字は、揃わない」
「知ってる。団子と同じでしょ」
ロノヴァは、しばらく黙っていた。
それから、立ち上がって、土間の戸口まで来た。中には、入らなかった。僕は、灯籠と筆を持って、戸口の外へ出た。
砂の上で、ロノヴァに、おばあちゃんの名前を言った。
ロノヴァは、手袋を外した。黒い指で、筆を持った。
ゆっくりと、書いた。
字は、やっぱり、揃わなかった。一文字目が大きくて、最後の字が、小さく傾いていた。
「……この名は、わたしのもとを、通ったはずの名だ」
ロノヴァが、小さく言った。
「記録はした。……覚えては、いなかった」
あの家で、前にも聞いたことだった。
筆を、置いた。
「今は、書いた」
僕は、灯籠を受け取った。
墨が、まだ濡れていた。
◇
日が沈むと、島じゅうの人が、浜に集まってきた。
みんな、灯籠を抱えていた。小さい子も、腰の曲がった年寄りも。
浜に、焚き火がいくつか焚かれた。僕は、おばあさんの家の鍋で炊いた梅の粥を、焚き火のそばに運んだ。船の上で習った、あの粥だ。浜で夜を待つ人たちに、少しずつ、よそって回った。
ロノヴァは、浜の端の、岩のそばに立っていた。人の輪から、離れて。
粥の器を二つ持って、ロノヴァのほうへ歩いていったときだった。
腕の毛が、ぴりっと逆立った。
嵐の前の、あの感じだった。空は、晴れていたのに。
岩の向こうに、誰かが立っていた。
背の高い、女の人だった。紫色の長い髪を、一本の太い編み髪にして、背中に垂らしていた。着物の裾が、夜の浜風に揺れていた。
その人は、ロノヴァを見ていた。
ロノヴァも、その人を見ていた。
二人のあいだの空気が、張りつめていた。ウェンティのときとも、あの葬儀屋さんのときとも、違った。今にも、雷が落ちそうだった。
「……終わりが、私の国に来たのですね」
女の人が、言った。
静かな声だった。静かなのに、よく通った。
「港に着いたときから、気づいていました」
「……きみの民には、何もしない」
ロノヴァが、言った。
きみ。
また、あの話し方だった。三人目だった。
「四晩で、発つ」
「終わりを司る者が、何も終わらせずに、私の国を通り過ぎる」
女の人は、少しだけ首をかしげた。
「……私の知っている理とは、違いますね」
「もう、司っていない」
終わりを司る者。——この人も、ロノヴァが何なのか、知っている。
背中が、冷たくなった。
女の人の目が、ロノヴァの足もとへ動いた。
砂の上の、浜の草が、黒く縮れていた。ロノヴァのまわりだけ。
女の人の手が、ほんの少しだけ、胸のあたりへ上がりかけた。
「あの」
僕は、声をかけていた。
考えるより先に、口が動いていた。
二人が、こちらを向いた。
僕は、手に持っていた器を、ひとつ、女の人のほうへ差し出した。
「よかったら、どうぞ。……梅の粥です。このうちのおばあさんに、船の上で習ったんです」
女の人は、器を見た。
それから、僕を見た。
長いあいだ、見ていた。
腕の毛の逆立ちが、少しずつ、おさまっていった。
「……この国の、粥ですね」
女の人は、器を受け取った。
匙で、ひと口、すすった。
眉が、少しだけ寄った。
「……酸っぱい」
「梅なので」
「けれど、温かい」
女の人は、もうひと口、すすった。
それから、器を持ったまま、浜のほうを見た。
浜で、灯籠に火が入りはじめていた。
ひとつ、またひとつ。紙の中で、小さな炎が揺れた。
子どもが、波打ち際まで灯籠を運んでいった。そっと、水に浮かべた。灯籠は、引き波に乗って、沖へ滑っていった。
ひとつ。ふたつ。十。二十。
昼間の女の子が、波打ち際で、会ったことのないひいじいちゃんの灯籠を、両手でそっと押し出していた。
暗い海の上に、灯りが、点々と並んでいった。
「……送られる糸は、とうに、終わっている」
ロノヴァが、言った。
平らな声だった。
「あの灯りが、どこへ届くのか。わたしには、もう、見えない」
「それでも、民は、流すのです」
女の人が、言った。
海の上の灯りを、見たままで。
「体は消えても、送られた者は、送る者の中に残ります。……それもまた、「永遠」です」
ロノヴァは、答えなかった。
答えないまま、海の上の灯りを、見ていた。
おばあさんが、波打ち際で、亭主の灯籠を水に浮かべていた。
しゃがみこんで、長いあいだ、灯りが離れていくのを見ていた。
立ち上がったおばあさんが、こちらを見て、目を細めた。
「……今年は、撒くんじゃなくて、流せたよ」
僕に言ったのか、海に言ったのか、分からなかった。
僕は、焚き火のそばに置いてきた灯籠を取って、ロノヴァのところへ戻った。
「行こう」
ロノヴァは、女の人のほうを見た。
女の人は、何も言わなかった。器を持ったまま、少しだけ、うなずいたように見えた。
ロノヴァと二人で、人の少ない、浜の端の波打ち際まで歩いた。
僕は、灯籠の蝋燭に、火を移した。
ロノヴァの揃わない字が、紙の内側から、明るく浮かびあがった。
「……一緒に」
僕が言うと、ロノヴァは、手袋をはめた手を、灯籠の縁に添えた。
ふたりで、水に浮かべた。
灯籠は、しばらく、足もとの波に揺れていた。
それから、引き波に乗って、ゆっくりと、沖へ離れていった。
ほかの灯りのあいだに、まぎれていった。
「……ありがとう、おばあちゃん」
小さく、言った。
隣で、ロノヴァが、何か言った気がした。
聞き取れなかった。聞き返さなかった。
振り返ると、岩のそばに、女の人の姿は、もうなかった。
砂の上に、空になった器が、きちんと伏せて置いてあった。
遠くで、雷が、一度だけ鳴った。雨は、降らなかった。
◇
焚き火のそばに戻って、器を洗った。
ロノヴァは、焚き火から少し離れたところに、座っていた。
「さっきの人も、初めて?」
「……初めて、会った」
「でも、『きみ』って言ってたね。三人目」
ロノヴァは、少し黙った。
「……数えていたのか」
「ロノヴァほどじゃないよ」
ロノヴァは、焚き火を見た。
「……長く、ひとつのものを、守ってきた者だ」
よく分からなかった。
あの人は、僕より少し年上くらいにしか、見えなかった。それでも、ロノヴァがそう言うなら、そうなのだと思った。
ウェンティも、あの葬儀屋さんも、あの女の人も。ロノヴァは、みんなに、あの話し方をした。昔の知り合いに会うと、昔の話し方に戻る。モンドでは、そう思った。でも、璃月の葬儀屋さんも、今夜の人も、初めて会う人だった。
あの話し方は、昔の知り合いに使うものじゃなくて、昔から、長く何かを続けてきた人に使うものなのかもしれない。
そういう人たちは、どうしてみんな、ロノヴァの前に、ふっと現れるのだろう。
聞いてみようかと思って、やめた。
ロノヴァは、焚き火の向こうで、沖の灯りを、まだ見ていた。
夜更けになって、帳面をひらいた。
——稲妻。島の漁村。送り火の晩。
——梅の粥を、紫の髪の人にふるまった。酸っぱいけど、温かい、と言っていた。
——おばあちゃんの灯籠。ロノヴァが、名前を書いた。揃わない字。
——会ったことのない人にも、灯りを流す。この島では。
料理の帳面なのに、料理じゃないことばかり、書いていた。
でも、この頁を読み返すたびに、今夜の海を思い出すのだと思った。
「トイヴォ」
焚き火の向こうから、ロノヴァが言った。
「あの灯りは、どこまで行く」
僕は、沖を見た。
灯りは、もう、ずいぶん遠くなっていた。どれがおばあちゃんのなのか、もう分からなかった。
少し考えてから、答えた。
「……風の、行くところまで」
ロノヴァが、こちらを見た。
「それは、答えになっていない」
僕は、笑ってしまった。
ロノヴァも、ほんの少しだけ、口の端を動かしたように見えた。
焚き火の明かりのせいかもしれなかった。
お読みいただきありがとうございました。
これで稲妻編はおしまいです。次回、第8話「命の濃い森」はロノヴァ視点でお送りします。スメールに入ります。