※第二部「旅路編」の第8話です。今回からスメール編です。
※旅の途中の道や人物、料理には、作中の創作を含みます。
※今回はロノヴァ視点です。
稲妻から璃月へ戻る船の上で、トイヴォは、一度も、おはようを言いそびれなかった。
一日目の昼に、青い顔をした。二日目の朝に、船べりへ走りかけた。走りかけて、止まって、戻ってきた。
「……おはよう」
それから、走っていった。
厨房を借りて、自分で梅の粥を炊いた。島を発つとき、あの老婆が、塩漬けの梅を小さな壺に詰めて持たせてくれた。トイヴォは、それを、一日にひとつずつ、数えて使った。
七日目の朝、璃月の港に着いた。
——トイヴォの糸。細って、戻る。水の上でも。
——おはよう。三百と十一。言いそびれは、なし。
帳面に、そう書いた。
璃月の港には、留まらなかった。
四晩、と数えたこともある港だったが、今度は、一晩も要らなかった。港の役所の係が、前に教えてくれた道がある。層岩巨淵の坑道を抜けて、西の国へ出る道だ。
着いたその足で、港の役所に寄って、坑道を通るための紙を書いてもらった。
二日、山の道を歩いた。
三日目の朝、大地に、大きな穴があいていた。
底が見えなかった。岩の壁に、木の足場と、梯子と、昇降機の綱が、何重にも張りついていた。あちこちに、灯りがともっていた。
わたしは、崖の縁に立って、下を見た。
糸が、少なかった。
岩と、土と、鉱石。ところどころに、人の糸が、灯りのそばで、小さく光っていた。それだけだった。
「……ここは、楽だ」
わたしが言うと、トイヴォは、穴の底を覗きこんで、少し後ずさった。
「僕は、ちょっと、怖いけど」
崖の上の、ずっと高いところに、糸がひとつあった。
人の糸ではなかった。古く、細く、硬い。研いだ刃のように、まっすぐな糸だった。
それが、こちらを見ていた。
わたしは、そちらを見なかった。見ないまま、坑道の入り口へ歩いた。
葬儀に詳しい、あの男が言っていた。層岩巨淵の見張りに、お前たちが通ることは、伝えておく、と。
伝わっていたのだろう。
硬い糸は、わたしが坑道に入るまで、こちらを見ていた。何も、してこなかった。
坑道の入り口には、槍を持った兵が立っていた。港の役所で書いてもらった紙を見せると、灯りをひとつ、貸してくれた。
坑道は、長かった。
その灯りを提げて、一日かけて、岩の中を歩いた。水の滴る音と、自分たちの足音だけがした。岩の中には、糸がほとんどない。わたしは、あの家を出てから、いちばん静かな一日を過ごした。
トイヴォは、ときどき、天井を見上げた。
「山の中を、歩いてるんだね」
「そうだ」
「上に、山がまるごと載ってるんだよね」
「そうだ」
トイヴォは、少しだけ、足を速めた。
坑道の出口は、谷の中腹にひらいていた。
外へ出たとたんに、湿った空気が、顔にかかった。
その晩は、出口の岩の上で眠った。岩の上では、何も黒くならない。
◇
谷を下るにつれて、木が増えた。
増えて、太くなって、背が高くなった。葉が、空を覆った。一日で、空が見えなくなった。
足もとには、苔と、茸と、落ち葉と、落ち葉の下の、もっと小さなもの。幹には蔓が巻きつき、蔓には花が咲き、花には虫がとまっていた。虫の上を、もっと小さな虫が這っていた。
わたしは、足を止めた。
糸が、多すぎた。
どこを見ても、糸だった。葉の一枚一枚、苔の一粒一粒、茸の傘の裏の、見えないほど小さな胞子まで。糸が、糸の上に重なって、糸のあいだを埋めていた。空気そのものが、糸で編まれているようだった。
そして、どれも、短かった。
生まれて、すぐに終わる。終わったものの上に、すぐに次が生まれる。雪原の糸は、細く、長く、ゆっくりだった。この森の糸は、太く、短く、速かった。
数えようとした。
数えられなかった。
「ロノヴァ?」
トイヴォが、振り返った。
「……一晩」
わたしは、言った。
「一晩?」
「この森では、輪が、一晩で見えるほどになる」
トイヴォは、あたりを見回した。
「三晩じゃ、ないんだ」
「命が濃い。濃いものは、細るのも、早い」
わたしが立ち止まっていたあいだに、足もとの苔が、ひと筋、黒く縮れていた。
雪原の、歩いたあとの線より、ずっと速かった。
その日の夕方、雨が降りだした。
葉の上に落ちて、葉から葉へ伝って、大きな粒になって、落ちてきた。トイヴォは、鍋を背負ったまま、すぐにずぶ濡れになった。
わたしの手袋も、濡れた。濡れた革が、指に貼りついた。
「どこかで、雨宿りしないと」
トイヴォが言った。
わたしは、あたりの糸を見た。
半日歩く先まで見渡して、人の糸を探した。森の糸があまりに多くて、人の糸は、埋もれていた。
ひとつ、見つけた。
森の外れの、少し開けたところに。細く、長い糸だった。この森の中で、その糸だけが、雪原の糸のように、ゆっくりだった。
「……あちらに、人がいる。ひとりだ」
◇
小屋は、大きな木の根のあいだに、埋もれるように建っていた。
壁は、板と、編んだ葉と、ところによって、石。軒先に、干した草の束が、いくつもぶら下がっていた。窓から、灯りが漏れていた。
トイヴォが、戸を叩いた。
しばらくして、戸がひらいた。
女がひとり、立っていた。
日に焼けた肌に、白いものの混じった黒い髪を、布でひとつにまとめていた。袖をまくった腕に、墨の染みがあった。歳は、トイヴォの倍より、少し多いくらいに見えた。
女は、ずぶ濡れのトイヴォを見て、それから、少し離れたところに立っているわたしを見た。
「……旅の人かな。こんな奥まで」
「雨がやむまで、軒先を貸してもらえませんか。北から来ました。猟師です」
女は、トイヴォの背中の鍋を見た。
「猟師が、鍋を背負って」
「料理番も、してます」
女は、少しだけ笑った。
「軒先じゃ、濡れるよ。入りなさい。……そちらの人も」
「わたしは、外でいい」
わたしが言うと、女は、眉を上げた。
「この雨の中で? 君、手袋から水が垂れてるじゃないか」
「……外でいい」
「連れは、家の中が、苦手なんです」
トイヴォが言った。
女は、しばらく、わたしを見ていた。それから、戸口の脇の、軒の深いところを指さした。
「なら、せめて、そこに。屋根はある。……火は、戸を開けておけば、少しは届く」
女は、ハヤートと名乗った。
スメールの学者だ、と言った。それから、少し笑って、言い直した。
「学者だった、かな。教令院を、追い出された身だから」
「何を、したんですか」
トイヴォが聞くと、ハヤートは、棚のほうを顎で示した。
棚には、瓶が並んでいた。干した茸。種。押し花。虫の抜け殻。小さな骨。どの瓶にも、細かい字の札が貼ってあった。
「生きものが、どうやって終わるのかを、調べすぎた」
ハヤートは、言った。
「それから、終わったものが、どうやって次に渡るのかも。……調べてはいけないことの、境目を、少しだけ越えたらしい」
わたしは、戸口の外から、棚の瓶を見た。
瓶の中の糸は、どれも、とうに終わっていた。
終わった糸を、ひとつずつ、札をつけて、並べている。
わたしの帳面と、同じだった。
◇
ハヤートは、トイヴォに、夕飯を作らせてくれた。
「材料は、そこの甕と、吊るしてあるものを、好きに使っていい。この森で、ひとりで食べる飯には、もう飽きた」
トイヴォは、甕を覗いて、困った顔をした。
「……知らないものばかりです」
「なら、教えよう」
ハヤートは、トイヴォの隣に立った。
平たい、小さな豆を、鍋にあけた。米を、ひとつかみ。黄色い粉と、茶色い種と、赤い実を干して砕いたもの。油で、種を先に炒めた。ぱちぱちと、種が跳ねた。小屋じゅうに、嗅いだことのない匂いが満ちた。
「豆と米を、一緒に、やわらかくなるまで煮る。香りは、先に油に移しておく。この国の、病人の飯だよ。腹をこわしたときも、熱が出たときも、これを食べる」
「病人の、ごはん」
トイヴォは、鍋を覗きこんだ。
「じゃあ、粥ですね。僕の国の、燕麦の粥と同じだ」
「燕麦で? 馬の餌だろう」
「璃月でも、そう言われました」
ハヤートが、声を立てて笑った。
トイヴォは、帳面をひらいて、書いた。豆の名前。粉の名前。種を先に炒めること。ハヤートは、ひとつひとつ、字を教えた。
わたしは、戸口の外で、それを見ていた。
雨の音と、鍋の音と、二人の声がした。
器が、戸口の外まで運ばれてきた。
黄色い、とろりとした粥だった。わたしは、濡れた手袋のまま、匙を取った。革が、柄に貼りついた。
ひと口、すすった。
辛かった。舌の奥が、少しだけ熱くなった。
それから、豆の甘さが、その熱を包んだ。
「……辛い」
「うん。僕も、びっくりした」
トイヴォは、戸口の内側に座って、自分の器をすすっていた。額に、汗が浮いていた。
「でも、あったまるね」
わたしは、もうひと口、すすった。
辛かった。温かかった。
◇
夜が更けても、雨はやまなかった。
トイヴォは、ハヤートが貸した毛布にくるまって、小屋の床で眠った。窓の灯りは、遅くまで消えなかった。
戸が閉まってから、わたしは、濡れた手袋を外して、膝に置いた。
軒の下で、膝を抱えていた。
足もとを、見ていた。
トイヴォの糸は、いつもと同じだった。髪一本の、半分。
小屋のまわりの、苔の上。
糸が、細っていった。
目に見える速さだった。苔の緑が、少しずつ、少しずつ、色を失っていった。わたしの座っているところから、輪を描くように。夜半には、軒下の苔が、灰色になった。
夜半すぎ、戸がひらいた。
ハヤートが、灯りを提げて出てきた。わたしは、両手を、膝のあいだに挟んだ。
「眠らないのかい」
「……眠らない」
「そうか。私も、眠れない性質でね」
ハヤートは、戸口の柱にもたれた。灯りを、足もとに置いた。灰色になった苔が、灯りの輪の中に浮かんだ。ハヤートは、それに目を落とさなかった。森のほうを見ていた。
「この森は、終わるのが早いんだ」
ハヤートは、言った。
「倒れた木の上に、ひと月で、次の芽が出る。茸が、倒れたものを、すぐに土に返す。終わりと、始まりのあいだが、ほとんどない。……北の森は、違うだろう」
「……違う」
「雪の下で、何か月も、終わったまま、待っている」
ハヤートは、少し笑った。
「私は、そのあいだのことが、知りたかったんだ。終わってから、次に渡るまでの、あいだのことが」
わたしは、答えなかった。
終わった糸が、わたしのもとを通るところまでは、長いあいだ、見て、記録してきた。……今は、それも、通らない。
「冷えるね。……毛布を、置いていくよ」
ハヤートは、灯りを拾って、戸の中へ戻った。戸口の脇に、畳んだ毛布が、ひとつ残っていた。
わたしは、それを、膝に掛けた。
明け方前には、灰色の縁が、黒くなった。
輪の縁は、小屋の壁を越えて、奥へ、広がっていった。
棚の瓶の中の糸は、とうに終わっている。細るものは、ない。
軒先に吊るされた、干した草の束も。
けれど、窓辺の鉢は、違った。
ハヤートは、窓辺に、いくつかの鉢を並べていた。まだ生きている草の鉢だった。そのうちのひとつが、夜のあいだに、首を垂れた。
わたしは、それを、見ていた。
あの冬の、タイムの鉢と、同じだった。
——スメール。雨林の外れ。一晩。
——輪は、一晩で、小屋を囲んだ。
——学者の鉢が、ひとつ、首を垂れた。
帳面に、そう書いた。
書いてから、少しだけ、その頁を見ていた。
一晩、と数えたのは、この森には、長すぎた。
離れて座っても、この森では、座ったところに、また輪ができる。輪を、ふたつにするだけだ。
雨の中を、発つこともできた。けれど、濡れたまま、トイヴォに夜の森を歩かせたくはなかった。
わたしは、帳面を閉じて、明けるのを待った。
◇
朝になって、雨がやんだ。
葉の先から、しずくが落ちていた。森じゅうが、濡れて、光っていた。
戸がひらいて、トイヴォが出てきた。
「おはよう、ロノヴァ」
「……おはよう」
三百と、十五。
トイヴォは、わたしの隣にしゃがんで、足もとを見た。
黒い輪を、見た。
小屋を囲んで、ぐるりと。軒下から、木の根の向こうまで。一晩で。
トイヴォは、何も言わなかった。黙って、わたしの濡れた手袋を拾って、戸口の中の、火の残るほうへ持っていった。乾かすためだった。
わたしの手は、膝の上に、むき出しのまま残った。
毛布の下へ引こうとして、やめた。足もとの輪は、もう、隠せない。
ハヤートが、戸口に出てきた。
湯気の立つ器を、二つ持っていた。
「おはよう。……ゆうべの粥を、温め直したよ。朝は、これが」
ハヤートの声が、途中で止まった。
足もとの、黒い輪を見ていた。
小屋を囲む、苔の黒を。窓辺の、首を垂れた鉢を。
それから、わたしを見た。
膝の上の、むき出しの手を。袖口から先の、黒を。黒い肌に浮いた、赤い目のような模様を。
それから、わたしの目を。
長いあいだ、見ていた。
「……花びらの、目」
ハヤートが、小さく言った。
学者の声だった。驚いてはいなかった。何かを、読み上げるような声だった。
「七つの弁の、金の瞳。黒き腕に、赤き目を宿す。……その者の歩いたあとには、何も、残らない」
トイヴォが、振り返った。
ハヤートは、器を持ったまま、わたしを見ていた。
「古い本に、そう書いてあった。この国には、もう、ほとんど残っていない本だ」
ハヤートは、ゆっくりと、息を吐いた。
「……死の執政」
その名で、誰かに呼ばれるのは、湖に羽根を置いてきてから、初めてだった。
森が、しんとしていた。
しずくの落ちる音だけが、していた。
お読みいただきありがとうございました。
スメール編に入りました。次回、第9話「記録する者と、記録される者」はトイヴォ視点でお送りします。