死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※第二部「旅路編」の第9話です。
※旅の途中の人物や料理には、作中の創作を含みます。
※今回はトイヴォ視点です。


旅路編 第9話 記録する者と、記録される者

「……死の執政」

 ハヤートさんが、そう言った。

 森が、しんとしていた。葉の先から、しずくが落ちる音だけがしていた。

 その名前の意味を、僕は、もう知っている。去年の冬、自分の口で、言ったこともある。

 僕は、ロノヴァとハヤートさんのあいだに、立っていた。

 いつ立ったのか、自分でも、分からなかった。

「連れです。僕の」

 璃月の石工の仕事場でも、同じことを言った。あのときより、声が硬かった。

 ハヤートさんは、僕を見た。

 それから、手に持っていた二つの器を見下ろした。湯気が、まだ立っていた。

「……そうか。連れ、か」

 ハヤートさんは、器を、戸口の段の上に置いた。

「安心していい。誰にも、言わない」

 静かな声だった。

「言う相手も、いないしね。教令院は、追い出した学者の手紙なんか、読みやしない」

 ハヤートさんは、少し笑った。

 笑ってから、ロノヴァを見た。僕の肩の向こうの、ロノヴァを。

「その代わり、と言ったら、ずるいかな。……ひとつ、頼みがある」

「……何だ」

 ロノヴァが、言った。

「君の見ているものを、記録させてほしい」

 ハヤートさんは、言った。

「本には、名前と姿しか書いてなかった。その目に、何が見えているのか。この輪が、どうしてできるのか。……私は、それが知りたくて、ここまで来た人間なんだ」

 

 ロノヴァは、しばらく、黙っていた。

 それから、言った。

「……今日、発つ。ここは、一晩の森だ」

 ロノヴァは、立ち上がった。

 小屋の脇を、少し下ったほうへ、歩いていった。輪の外の苔に、黒い足跡が、ひとつ、ふたつ、ついた。薄い足跡だった。

 小屋の横手の、少し下ったところに、沢が流れていた。流れの中に、大きな平たい岩が、ひとつ顔を出していた。ロノヴァは、その岩に渡って、腰を下ろした。

 水の上と、岩の上では、何も黒くならない。それは、この旅で、僕も覚えたことだった。

 ハヤートさんは、ロノヴァの背中を見ていた。

 それから、小屋の中へ入って、帳面と、墨壺と、筆を持って出てきた。

「断られたわけじゃ、なさそうだ」

 そう言って、沢のほうへ歩いていった。

 

 僕は、戸口の段に座って、冷めかけた粥を食べた。ロノヴァのぶんは、岩まで持っていった。それから、器を洗った。

 洗いながら、沢のほうを見ていた。

 ハヤートさんは、沢のほとりの石に座って、帳面をひらいていた。ロノヴァのほうを見て、書いて、また見て、書いた。ときどき、何か聞いていた。ロノヴァは、ほとんど答えていないようだった。

 それでも、ハヤートさんは、書いていた。

 小屋のまわりの黒い輪を、歩幅で測っていた。苔を一枚はがして、裏を見ていた。窓辺の、首を垂れた鉢を、じっと見て、それも書いていた。

 ロノヴァは、岩の上から、それを見ていた。

 筆の動くのを、見ていた。

 あの家で、毎晩、帳面をつけていたロノヴァ。宿でも、船の上でも、つけていたロノヴァ。北の縁が指一本ぶん。僕の糸が髪一本の半分。おはようが、いくつ。

 書く側の人だった。ずっと。

 今は、書かれていた。

 ロノヴァの顔は、よく見えなかった。でも、筆のほうへ向いたロノヴァの肩は、僕が、自分の帳面を誰かに覗かれるときの肩と、少し似ている気がした。

「……何を、書いている」

 ロノヴァが、言った。

 声が、沢の音に混じって、ここまで届いた。

「輪の大きさ」

 ハヤートさんが、答えた。

「一晩で、小屋のまわりを、十二歩。苔の色が変わった順番。緑から灰色、灰色から黒。……鉢の草が、首を垂れた時刻は、分からなかった。寝てしまったから」

「……明け方の、少し前だ」

 ハヤートさんの筆が、止まった。

 それから、急いで、それを書いた。

「わたしも、書いた」

 ロノヴァが、言った。

「……見せてくれるかい」

「断る」

 ハヤートさんは、声を立てて笑った。

 ロノヴァは、笑わなかった。けれど、岩の上から、立ち去りもしなかった。

 

   ◇

 

 昼が近くなって、ハヤートさんが、沢から上がってきた。墨を磨る水を、上の泉まで汲んでくる、と言った。

 水桶を取りに来て、戸口の段の、僕の隣で足を止めた。

「君は、知っていて、一緒にいるのかい」

 小さな声だった。沢のほうには、届かない声だった。

 去年の冬にも、同じことを聞かれた。

「知ってます」

「怖くは、ないのかい」

 僕は、少し考えた。

「毎朝、おはようって、返してくれるので」

 ハヤートさんは、しばらく、僕の顔を見ていた。

 それから、「そうか」とだけ言った。抱えた帳面は、ひらかなかった。

 ハヤートさんは、戸口の脇の水桶を提げて、森の上のほうへ歩いていった。

 僕は、鍋に残った豆の粥を、火にかけ直していた。発つ前に、みんなで食べようと思ったのだ。

 ふと、顔を上げた。

 黒い輪の縁に、女の子がしゃがんでいた。

 小さな子だった。白い髪を、頭の横でひとつに結んでいて、毛先だけが、若葉の色をしていた。白い服の裾が、濡れた苔についていた。

 女の子は、黒くなった苔に、指先で触れていた。

 怖がっているようには、見えなかった。何かを、確かめているようだった。

 近くの村の子だろうか、と思った。こんな森の奥に、ひとりで。

「……だいじょうぶ? 迷ったの?」

 僕が声をかけると、女の子は、顔を上げた。

 緑色の目だった。不思議な形の瞳をしていた。

「いいえ。迷ってないわ」

 女の子は、にっこりした。

「森が、教えてくれたの。夜のうちに、このあたりが、急に静かになったって。だから、見に来たのよ」

 森が、教えてくれた。

 この国の子どもは、そういう言い方をするのだろうか、と思った。

「おなか、すいてない? 粥があるんだ。ゆうべ、ここの人に習ったやつ」

 女の子は、少し目を丸くした。

 それから、また、にっこりした。

「ありがとう。いただくわ」

 

 器によそって渡すと、女の子は、両手で受け取った。

 匙で、ひと口すすって、目を細めた。

「……ふふっ。辛いわね」

「うん。僕も、ゆうべ、びっくりした」

「でも、ちゃんと、この国の味よ。豆がやわらかくて、香りが先に立ってる。……あなた、よその国の人でしょう? 一晩で、ここまで作れるなんて」

「習ったことは、すぐ書くようにしてるんだ」

 僕は、帳面をひらいて見せた。

 女の子は、頁を覗きこんだ。モンドの頁。璃月の頁。船の上の、梅の粥の頁。

 ひとつひとつ、ゆっくり、目で追っていた。

「……素敵な記録ね」

 女の子が、言った。

「誰が、何を食べて、元気になったのか。どこで、誰に習ったのか。……こういう記録は、燃やさなくていいものだわ」

「燃やす?」

 僕は、聞き返した。

 女の子は、答えなかった。帳面から顔を上げて、沢のほうを見ていた。

 

 ロノヴァが、岩の上に立っていた。

 こちらを、見ていた。

 女の子は、器を僕に返した。「ごちそうさま」と言って、沢のほうへ歩いていった。黒い苔の上を、裸足みたいに軽い足取りで。

 沢のほとりで、女の子は止まった。

 岩の上のロノヴァと、沢の手前の女の子。背の高さが、まるで違った。女の子は、ロノヴァを見上げていた。

「やっぱり、あなただったのね」

 女の子が、言った。

「……きみの森を、黒くした」

 ロノヴァが、言った。

 きみ。

 四人目だった。

 僕は、鍋の前で、匙を持ったまま、動けなかった。

「ええ。見てきたわ」

 女の子は、静かに言った。

「でも、この森は、すぐに戻るわ。雨林では、終わったものの上に、すぐに次が芽吹くの。季節がひとつ巡るころには、あの黒も、緑の下よ」

「……今日、発つ」

「そうね。それがいいわ」

 女の子は、少しだけ、首をかしげた。

「あのとき、あなたは、私に訊いたわね。すべてを記録してきたもので、私が守ってきたものなのに、燃やしていいのか、って。……そして、許してくれた」

「……許したのは、三人だ」

「ええ。でも、訊いてくれたのは、あなただった」

 何の話なのか、僕には、分からなかった。森を燃やす話でないことだけは、分かった。

 ロノヴァは、答えなかった。

 女の子も、それ以上、何も言わなかった。

 しばらく、二人は、沢の音の中で、向かい合っていた。

 それから、女の子は、くるりと振り返って、僕のほうへ手を振った。

「さようなら、料理番さん。……その記録、大事にしてね」

 女の子は、森の中へ入っていった。

 木の陰に隠れて、それきり、見えなくなった。

 足跡は、どこにも残っていなかった。

 

   ◇

 

 ハヤートさんが、水桶を提げて戻ってきた。

「今、誰か来てたかい。器が、ひとつ多い」

「近くの村の子だと思います。粥を、食べていきました」

「村?」

 ハヤートさんは、首をかしげた。

「このあたりに、村なんてないよ。いちばん近くても、半日はかかる」

 僕は、女の子の消えた木の陰を見た。

 何も、言えなかった。

 

 ロノヴァが、岩から下りてきた。

 ウェンティ。あの葬儀屋さん。紫の髪の女の人。それから、今の女の子。

 ロノヴァは、みんなに、あの話し方をした。

 稲妻では、あの話し方は、昔から長く何かを続けてきた人に使うものなのかもしれない、と思った。

 でも、あの子は、僕より、ずっと小さかった。

 分からなかった。

 分からないことが、ひとつ、増えた。

 帳面の端に、書いておこうかと思った。料理の帳面だから、と思って、やめた。

 

 ロノヴァは、戸口の前で、ハヤートさんと向かい合った。

「……わたしの見ているものは、書かせない」

 ロノヴァが、言った。

 ハヤートさんは、うなずいた。分かっていた、という顔だった。

「……ひとつだけ、答える」

 ハヤートさんの顔が、変わった。

 筆を持つ手に、力が入ったのが分かった。

 ハヤートさんは、長いあいだ、黙っていた。何を訊くか、選んでいるのだと思った。何年も、何十年も、訊きたかったことの中から、ひとつだけ。

「……終わったものは、どこへ行く」

 ハヤートさんが、言った。

 ゆうべ、軒下で、ハヤートさんが、ロノヴァに話していたことだと、あとで聞いた。終わってから、次に渡るまでの、あいだのこと。

 ロノヴァは、少しのあいだ、沢のほうを見ていた。

「……前は、わたしのもとを、通っていった」

 ロノヴァは、言った。

「今は、通らない。どこへ行くのかは、もう、わたしにも、見えない」

 ハヤートさんの筆は、動かなかった。

「……それでも、終わっているのかい。ちゃんと」

「終わっている」

 ロノヴァは、言った。

「誰にも、記録されなくても」

 ハヤートさんは、目を閉じた。

 長く、息を吐いた。

 それから、帳面をひらいて、書いた。一行だけ。何と書いたのかは、見えなかった。

「……ありがとう」

 ハヤートさんが、言った。

 ロノヴァは、その礼を、黙って受け取った。

 

   ◇

 

 昼の粥を、三人で食べた。

 ロノヴァは戸口の外の、黒い苔の上で。僕とハヤートさんは、戸口の段で。

 ハヤートさんは、砂漠へ出る道を教えてくれた。川沿いに西へ、何日か歩いて、隊商の宿駅を目指すのだと。宿駅は、雨林の西の端の、高台にある。そこから砂漠を越えれば、フォンテーヌへ出る。

「手紙を書くよ」

 ハヤートさんが、言った。

「フォンテーヌの港の役所に、留め置きで出しておく。北から来た猟師の……そういえば、名前を聞いてなかったね」

「トイヴォです」

「トイヴォ宛て、でいいかな」

「はい」

「それと」

 ハヤートさんは、墨壺の蓋を閉めながら、言った。

「北の書庫に、問い合わせてみるよ。あの古い本の、続きがないか。……スネージナヤの書庫には、この国に残っていない本が、まだあるかもしれない」

 ハヤートさんは、ロノヴァのほうを見た。

「君の名前は、書かない。本のことを、訊くだけだ」

 ロノヴァは、何も言わなかった。

 僕も、何も言わなかった。

 学者の人が、本のことを訊く手紙を書く。それだけのことだと、思った。

 

 発つ前に、火のそばで乾かしておいた手袋を、ロノヴァに渡した。ロノヴァは、右、左と、はめた。

 小屋を発つとき、ハヤートさんは、窓辺の鉢を見ていた。

 首を垂れた、あの草の鉢だった。

「根は、生きてるかもしれない」

 僕が言うと、ハヤートさんは、振り返った。

「草って、強いんです。上が枯れても、根が残ってれば、また芽が出ることがある。……おばあちゃんが、そう言ってました」

 ハヤートさんは、少し笑った。

「知ってるよ。私は、学者だからね」

 それから、鉢を、窓辺から下ろした。

「……でも、ありがとう。水を、やっておく」

 

   ◇

 

 川沿いの道を、二人で歩いた。宿駅までは、何日かかかる。

 森の糸の中を、ロノヴァは、なるべく早く歩いた。僕も、早く歩いた。

 日が傾いたころ、僕は、歩きながら、帳面をひらいた。

 ——スメール。雨林の外れ。ハヤートさんの小屋。

 ——豆と米の粥。香りは、先に油に移す。この国の、病人のごはん。

 ——森で会った女の子が、辛いけど、この国の味だと言った。

 書いてから、少し迷って、もう一行、書いた。

 ——燃やさなくていい記録。

「トイヴォ」

 前を歩くロノヴァが、振り返らずに言った。

「……記録されるのは、落ち着かない」

 僕は、帳面を閉じた。

「僕の帳面にも、君のこと、いっぱい書いてあるよ」

 ロノヴァの足が、少しだけ、ゆるんだ。

「……お前の帳面は、粥の帳面だ」

「うん。君が食べた粥の、帳面」

 ロノヴァは、しばらく、何も言わなかった。

 それから、言った。

「……それは、いい」

 川の音が、していた。

 葉のあいだの空が、少しずつ、夕方の色になっていった。




お読みいただきありがとうございました。
これでスメール編はおしまいです。次回、第10話「光の立たなかった国」はロノヴァ視点でお送りします。フォンテーヌに入ります。
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