※第二部「旅路編」の第9話です。
※旅の途中の人物や料理には、作中の創作を含みます。
※今回はトイヴォ視点です。
「……死の執政」
ハヤートさんが、そう言った。
森が、しんとしていた。葉の先から、しずくが落ちる音だけがしていた。
その名前の意味を、僕は、もう知っている。去年の冬、自分の口で、言ったこともある。
僕は、ロノヴァとハヤートさんのあいだに、立っていた。
いつ立ったのか、自分でも、分からなかった。
「連れです。僕の」
璃月の石工の仕事場でも、同じことを言った。あのときより、声が硬かった。
ハヤートさんは、僕を見た。
それから、手に持っていた二つの器を見下ろした。湯気が、まだ立っていた。
「……そうか。連れ、か」
ハヤートさんは、器を、戸口の段の上に置いた。
「安心していい。誰にも、言わない」
静かな声だった。
「言う相手も、いないしね。教令院は、追い出した学者の手紙なんか、読みやしない」
ハヤートさんは、少し笑った。
笑ってから、ロノヴァを見た。僕の肩の向こうの、ロノヴァを。
「その代わり、と言ったら、ずるいかな。……ひとつ、頼みがある」
「……何だ」
ロノヴァが、言った。
「君の見ているものを、記録させてほしい」
ハヤートさんは、言った。
「本には、名前と姿しか書いてなかった。その目に、何が見えているのか。この輪が、どうしてできるのか。……私は、それが知りたくて、ここまで来た人間なんだ」
ロノヴァは、しばらく、黙っていた。
それから、言った。
「……今日、発つ。ここは、一晩の森だ」
ロノヴァは、立ち上がった。
小屋の脇を、少し下ったほうへ、歩いていった。輪の外の苔に、黒い足跡が、ひとつ、ふたつ、ついた。薄い足跡だった。
小屋の横手の、少し下ったところに、沢が流れていた。流れの中に、大きな平たい岩が、ひとつ顔を出していた。ロノヴァは、その岩に渡って、腰を下ろした。
水の上と、岩の上では、何も黒くならない。それは、この旅で、僕も覚えたことだった。
ハヤートさんは、ロノヴァの背中を見ていた。
それから、小屋の中へ入って、帳面と、墨壺と、筆を持って出てきた。
「断られたわけじゃ、なさそうだ」
そう言って、沢のほうへ歩いていった。
僕は、戸口の段に座って、冷めかけた粥を食べた。ロノヴァのぶんは、岩まで持っていった。それから、器を洗った。
洗いながら、沢のほうを見ていた。
ハヤートさんは、沢のほとりの石に座って、帳面をひらいていた。ロノヴァのほうを見て、書いて、また見て、書いた。ときどき、何か聞いていた。ロノヴァは、ほとんど答えていないようだった。
それでも、ハヤートさんは、書いていた。
小屋のまわりの黒い輪を、歩幅で測っていた。苔を一枚はがして、裏を見ていた。窓辺の、首を垂れた鉢を、じっと見て、それも書いていた。
ロノヴァは、岩の上から、それを見ていた。
筆の動くのを、見ていた。
あの家で、毎晩、帳面をつけていたロノヴァ。宿でも、船の上でも、つけていたロノヴァ。北の縁が指一本ぶん。僕の糸が髪一本の半分。おはようが、いくつ。
書く側の人だった。ずっと。
今は、書かれていた。
ロノヴァの顔は、よく見えなかった。でも、筆のほうへ向いたロノヴァの肩は、僕が、自分の帳面を誰かに覗かれるときの肩と、少し似ている気がした。
「……何を、書いている」
ロノヴァが、言った。
声が、沢の音に混じって、ここまで届いた。
「輪の大きさ」
ハヤートさんが、答えた。
「一晩で、小屋のまわりを、十二歩。苔の色が変わった順番。緑から灰色、灰色から黒。……鉢の草が、首を垂れた時刻は、分からなかった。寝てしまったから」
「……明け方の、少し前だ」
ハヤートさんの筆が、止まった。
それから、急いで、それを書いた。
「わたしも、書いた」
ロノヴァが、言った。
「……見せてくれるかい」
「断る」
ハヤートさんは、声を立てて笑った。
ロノヴァは、笑わなかった。けれど、岩の上から、立ち去りもしなかった。
◇
昼が近くなって、ハヤートさんが、沢から上がってきた。墨を磨る水を、上の泉まで汲んでくる、と言った。
水桶を取りに来て、戸口の段の、僕の隣で足を止めた。
「君は、知っていて、一緒にいるのかい」
小さな声だった。沢のほうには、届かない声だった。
去年の冬にも、同じことを聞かれた。
「知ってます」
「怖くは、ないのかい」
僕は、少し考えた。
「毎朝、おはようって、返してくれるので」
ハヤートさんは、しばらく、僕の顔を見ていた。
それから、「そうか」とだけ言った。抱えた帳面は、ひらかなかった。
ハヤートさんは、戸口の脇の水桶を提げて、森の上のほうへ歩いていった。
僕は、鍋に残った豆の粥を、火にかけ直していた。発つ前に、みんなで食べようと思ったのだ。
ふと、顔を上げた。
黒い輪の縁に、女の子がしゃがんでいた。
小さな子だった。白い髪を、頭の横でひとつに結んでいて、毛先だけが、若葉の色をしていた。白い服の裾が、濡れた苔についていた。
女の子は、黒くなった苔に、指先で触れていた。
怖がっているようには、見えなかった。何かを、確かめているようだった。
近くの村の子だろうか、と思った。こんな森の奥に、ひとりで。
「……だいじょうぶ? 迷ったの?」
僕が声をかけると、女の子は、顔を上げた。
緑色の目だった。不思議な形の瞳をしていた。
「いいえ。迷ってないわ」
女の子は、にっこりした。
「森が、教えてくれたの。夜のうちに、このあたりが、急に静かになったって。だから、見に来たのよ」
森が、教えてくれた。
この国の子どもは、そういう言い方をするのだろうか、と思った。
「おなか、すいてない? 粥があるんだ。ゆうべ、ここの人に習ったやつ」
女の子は、少し目を丸くした。
それから、また、にっこりした。
「ありがとう。いただくわ」
器によそって渡すと、女の子は、両手で受け取った。
匙で、ひと口すすって、目を細めた。
「……ふふっ。辛いわね」
「うん。僕も、ゆうべ、びっくりした」
「でも、ちゃんと、この国の味よ。豆がやわらかくて、香りが先に立ってる。……あなた、よその国の人でしょう? 一晩で、ここまで作れるなんて」
「習ったことは、すぐ書くようにしてるんだ」
僕は、帳面をひらいて見せた。
女の子は、頁を覗きこんだ。モンドの頁。璃月の頁。船の上の、梅の粥の頁。
ひとつひとつ、ゆっくり、目で追っていた。
「……素敵な記録ね」
女の子が、言った。
「誰が、何を食べて、元気になったのか。どこで、誰に習ったのか。……こういう記録は、燃やさなくていいものだわ」
「燃やす?」
僕は、聞き返した。
女の子は、答えなかった。帳面から顔を上げて、沢のほうを見ていた。
ロノヴァが、岩の上に立っていた。
こちらを、見ていた。
女の子は、器を僕に返した。「ごちそうさま」と言って、沢のほうへ歩いていった。黒い苔の上を、裸足みたいに軽い足取りで。
沢のほとりで、女の子は止まった。
岩の上のロノヴァと、沢の手前の女の子。背の高さが、まるで違った。女の子は、ロノヴァを見上げていた。
「やっぱり、あなただったのね」
女の子が、言った。
「……きみの森を、黒くした」
ロノヴァが、言った。
きみ。
四人目だった。
僕は、鍋の前で、匙を持ったまま、動けなかった。
「ええ。見てきたわ」
女の子は、静かに言った。
「でも、この森は、すぐに戻るわ。雨林では、終わったものの上に、すぐに次が芽吹くの。季節がひとつ巡るころには、あの黒も、緑の下よ」
「……今日、発つ」
「そうね。それがいいわ」
女の子は、少しだけ、首をかしげた。
「あのとき、あなたは、私に訊いたわね。すべてを記録してきたもので、私が守ってきたものなのに、燃やしていいのか、って。……そして、許してくれた」
「……許したのは、三人だ」
「ええ。でも、訊いてくれたのは、あなただった」
何の話なのか、僕には、分からなかった。森を燃やす話でないことだけは、分かった。
ロノヴァは、答えなかった。
女の子も、それ以上、何も言わなかった。
しばらく、二人は、沢の音の中で、向かい合っていた。
それから、女の子は、くるりと振り返って、僕のほうへ手を振った。
「さようなら、料理番さん。……その記録、大事にしてね」
女の子は、森の中へ入っていった。
木の陰に隠れて、それきり、見えなくなった。
足跡は、どこにも残っていなかった。
◇
ハヤートさんが、水桶を提げて戻ってきた。
「今、誰か来てたかい。器が、ひとつ多い」
「近くの村の子だと思います。粥を、食べていきました」
「村?」
ハヤートさんは、首をかしげた。
「このあたりに、村なんてないよ。いちばん近くても、半日はかかる」
僕は、女の子の消えた木の陰を見た。
何も、言えなかった。
ロノヴァが、岩から下りてきた。
ウェンティ。あの葬儀屋さん。紫の髪の女の人。それから、今の女の子。
ロノヴァは、みんなに、あの話し方をした。
稲妻では、あの話し方は、昔から長く何かを続けてきた人に使うものなのかもしれない、と思った。
でも、あの子は、僕より、ずっと小さかった。
分からなかった。
分からないことが、ひとつ、増えた。
帳面の端に、書いておこうかと思った。料理の帳面だから、と思って、やめた。
ロノヴァは、戸口の前で、ハヤートさんと向かい合った。
「……わたしの見ているものは、書かせない」
ロノヴァが、言った。
ハヤートさんは、うなずいた。分かっていた、という顔だった。
「……ひとつだけ、答える」
ハヤートさんの顔が、変わった。
筆を持つ手に、力が入ったのが分かった。
ハヤートさんは、長いあいだ、黙っていた。何を訊くか、選んでいるのだと思った。何年も、何十年も、訊きたかったことの中から、ひとつだけ。
「……終わったものは、どこへ行く」
ハヤートさんが、言った。
ゆうべ、軒下で、ハヤートさんが、ロノヴァに話していたことだと、あとで聞いた。終わってから、次に渡るまでの、あいだのこと。
ロノヴァは、少しのあいだ、沢のほうを見ていた。
「……前は、わたしのもとを、通っていった」
ロノヴァは、言った。
「今は、通らない。どこへ行くのかは、もう、わたしにも、見えない」
ハヤートさんの筆は、動かなかった。
「……それでも、終わっているのかい。ちゃんと」
「終わっている」
ロノヴァは、言った。
「誰にも、記録されなくても」
ハヤートさんは、目を閉じた。
長く、息を吐いた。
それから、帳面をひらいて、書いた。一行だけ。何と書いたのかは、見えなかった。
「……ありがとう」
ハヤートさんが、言った。
ロノヴァは、その礼を、黙って受け取った。
◇
昼の粥を、三人で食べた。
ロノヴァは戸口の外の、黒い苔の上で。僕とハヤートさんは、戸口の段で。
ハヤートさんは、砂漠へ出る道を教えてくれた。川沿いに西へ、何日か歩いて、隊商の宿駅を目指すのだと。宿駅は、雨林の西の端の、高台にある。そこから砂漠を越えれば、フォンテーヌへ出る。
「手紙を書くよ」
ハヤートさんが、言った。
「フォンテーヌの港の役所に、留め置きで出しておく。北から来た猟師の……そういえば、名前を聞いてなかったね」
「トイヴォです」
「トイヴォ宛て、でいいかな」
「はい」
「それと」
ハヤートさんは、墨壺の蓋を閉めながら、言った。
「北の書庫に、問い合わせてみるよ。あの古い本の、続きがないか。……スネージナヤの書庫には、この国に残っていない本が、まだあるかもしれない」
ハヤートさんは、ロノヴァのほうを見た。
「君の名前は、書かない。本のことを、訊くだけだ」
ロノヴァは、何も言わなかった。
僕も、何も言わなかった。
学者の人が、本のことを訊く手紙を書く。それだけのことだと、思った。
発つ前に、火のそばで乾かしておいた手袋を、ロノヴァに渡した。ロノヴァは、右、左と、はめた。
小屋を発つとき、ハヤートさんは、窓辺の鉢を見ていた。
首を垂れた、あの草の鉢だった。
「根は、生きてるかもしれない」
僕が言うと、ハヤートさんは、振り返った。
「草って、強いんです。上が枯れても、根が残ってれば、また芽が出ることがある。……おばあちゃんが、そう言ってました」
ハヤートさんは、少し笑った。
「知ってるよ。私は、学者だからね」
それから、鉢を、窓辺から下ろした。
「……でも、ありがとう。水を、やっておく」
◇
川沿いの道を、二人で歩いた。宿駅までは、何日かかかる。
森の糸の中を、ロノヴァは、なるべく早く歩いた。僕も、早く歩いた。
日が傾いたころ、僕は、歩きながら、帳面をひらいた。
——スメール。雨林の外れ。ハヤートさんの小屋。
——豆と米の粥。香りは、先に油に移す。この国の、病人のごはん。
——森で会った女の子が、辛いけど、この国の味だと言った。
書いてから、少し迷って、もう一行、書いた。
——燃やさなくていい記録。
「トイヴォ」
前を歩くロノヴァが、振り返らずに言った。
「……記録されるのは、落ち着かない」
僕は、帳面を閉じた。
「僕の帳面にも、君のこと、いっぱい書いてあるよ」
ロノヴァの足が、少しだけ、ゆるんだ。
「……お前の帳面は、粥の帳面だ」
「うん。君が食べた粥の、帳面」
ロノヴァは、しばらく、何も言わなかった。
それから、言った。
「……それは、いい」
川の音が、していた。
葉のあいだの空が、少しずつ、夕方の色になっていった。
お読みいただきありがとうございました。
これでスメール編はおしまいです。次回、第10話「光の立たなかった国」はロノヴァ視点でお送りします。フォンテーヌに入ります。