死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※第二部「旅路編」の第10話です。今回からフォンテーヌ編です。
※旅の途中の町や人物、料理には、作中の創作を含みます。
※今回はロノヴァ視点です。


旅路編 第10話 光の立たなかった国

 砂の上には、糸が少なかった。

 隊商の宿駅を発って、九日。わたしたちは、荷を背負った獣の列の、いちばん後ろを歩いた。トイヴォは、隊商の飯炊きを引き受けていた。モンドへの船と、同じだった。飯を炊くかわりに、ついて歩くことを許された。

 発つ朝、隊商の頭は、持ち歩いている名簿に、わたしたちのことを書きこんだ。

 ——トイヴォ。スネージナヤ。猟師。同行者一名。

 璃月の港の役所の係が書いたのと、同じ行だった。わたしの名は、どこにもなかった。

 砂の糸は、細く、長く、ゆっくりだった。

 岩陰の、とかげ。砂の下の、虫。風に転がる、乾いた草の株。どれも、ひとつひとつが遠く離れていた。雪原に、似ていた。

 わたしが歩いても、砂は、ほとんど黒くならなかった。

 トイヴォは、黒くなった。

 日に焼けて、鼻の頭の皮がむけた。汗をかいて、水を飲んで、また汗をかいた。雪の国で生まれた者には、この国の昼は、重すぎた。

「……溶けそう」

「溶けない」

「分かってるけど」

 夜は、冷えた。

 隊商の者たちは、焚き火を囲んで眠った。わたしは、列の外れの、砂の窪みに座った。冷えを、感じた。あの冬の前には、知らなかったものだ。

 トイヴォが、毛布を持ってきた。わたしの膝に掛けて、それから、少し離れた砂の上に、腰を下ろした。

 空に、星が多かった。

「雪原の夜に、似てるね」

 トイヴォが、言った。

「空が、近くて。音が、なくて」

「……糸も、少ない」

「そっか。ロノヴァには、そう見えるんだ」

 トイヴォは、膝を抱えた。

「帰りたくなった?」

 わたしは、少し考えた。

「……あの家には、輪がある」

「うん」

「輪の中に、タイムはいない」

 トイヴォは、しばらく、黙っていた。

「春になったら、南門の詰め所に、見に行こうか。鉢」

 わたしは、答えなかった。答えないまま、星を見ていた。

 トイヴォは、それで、いいようだった。やがて、焚き火へ戻っていった。

 

 十日目の朝、砂が、終わった。

 峡谷の岩のあいだを抜けると、風の匂いが変わった。

 湿っていた。

 水の音がした。

 谷の底を、川が流れていた。その先に、緑の丘がひらけていた。丘のあいだを、水路が、いく筋も走っていた。丘の向こうに、白い石の家が、いくつか見えた。

「フォンテーヌだよ」

 隊商の頭が言った。

「水の国さ。ここから先は、どこへ行っても、水がある。……俺たちは、この先の運河の町で、荷を解く」

 わたしは、丘を見渡した。

 糸は、あった。草の糸。木の糸。人の糸。けれど、そのあいだを、水が縫っていた。水路と、川と、池と、溜め池。糸の多い土地を、糸のない水が、細かく分けていた。

 水の上では、何も黒くならない。

「……水が、多い」

 わたしが言うと、トイヴォが、振り返った。

「ロノヴァには、いい国?」

「……たぶん」

 

   ◇

 

 運河の町に着いたのは、それから三日後だった。隊商とは、そこで別れた。

 石畳の通りの脇を、どこまでも水路が走っていた。家々の戸口の前に、小舟がつないであった。人は、橋を渡り、舟で行き来した。

 わたしは、石畳の、水路に近いほうを歩いた。石の上には、線が残らない。水の上にも、残らない。この町なら、わたしが歩いたあとは、どこにも残らないかもしれなかった。

 宿は、水路に張り出した、古い建物だった。二階の部屋の窓の下を、舟がくぐっていった。

 宿の主人は、陽気な男だった。わたしたちの荷を、階段の上まで運んでくれた。

「砂漠を越えてきたって? そりゃあ、ご苦労さまだ。この国は、雨がよく降る。乾いた体には、ちょうどいいさ」

 わたしは、窓の外の町の糸を、見渡した。

「……五晩」

 トイヴォが、振り返った。

「スメールの、五倍だね」

「水が、多い」

 トイヴォは、主人に頼んで、宿の帳面に、五泊、と書いてもらった。

 主人は、窓を開けて、水路の風を入れた。

「北の人かい。北の国じゃ、去年の冬、空に光の柱が立ったんだってね」

 わたしは、窓の外を見ていた。

「よその国の空から落ちた釘が、みんな、光りだしたって話だ。モンドでも、璃月でも、稲妻でも。……この国の空にだけは、何も立たなかった」

 主人は、肩をすくめた。

「神様がいなくなった国だから、じゃないかって、言うやつもいる。まあ、光らなくて、よかったよ。うちの客が、腰を抜かさずにすんだ」

 主人が下りていったあと、わたしは、窓辺に立っていた。

 去年の冬、わたしは、空の柱に、残っていた力のほとんどを注いだ。餞別だった。

 それは、わたしの手を離れて、大地のあちこちの釘を目覚めさせた。湖に羽根を置いてきてから、その脈は、もう、聞こえない。

 この国の空には、それが、届かなかった。

 窓の外の空は、低く、灰色で、雨の匂いがした。

 わたしのものが、何も立っていない空だった。

 肩のあたりが、少しだけ、軽くなった気がした。

 それが、なぜなのか、わたしには、分からなかった。

「ロノヴァ」

 トイヴォが、寝台の端に座って、わたしを見ていた。

「……何か、いいことあった?」

「……分からない」

「そっか」

 トイヴォは、少し笑った。

「じゃあ、分かるまで、ここにいよう。五晩」

 

   ◇

 

 宿の主人は、夕飯に、白い粥を出した。

 米を、牛の乳で、ゆっくり煮たものだった。砂糖が入っていて、甘かった。上に、削った木の皮のような、香りのいい粉が振ってあった。

「この国じゃ、これは粥っていうより、甘味だね。子どもが風邪をひいたときにも出す」

 トイヴォは、ひと匙すくって、目を丸くした。

「甘い」

「燕麦の粥にも、蜂蜜を落とすだろう。同じさ」

「……燕麦、知ってるんですか」

「知ってるとも。馬が、喜んで食べる」

 トイヴォが、笑いだした。

 わたしは、窓際の、少し離れた卓で、その粥をすすった。

 甘かった。

 あの冬の、最初の朝の、蜂蜜の粥とは違う甘さだった。

 トイヴォは、主人に、作り方を聞いていた。帳面に、書いていた。

 ——フォンテーヌ。運河の町の宿。

 ——米を、牛の乳で煮る。弱い火で。焦がさないように、ずっと混ぜる。

 ——子どもが風邪をひいたとき。

 

   ◇

 

 二日目の夕方、トイヴォが、通りの貼り紙の前で、足を止めた。

 宿から三つ目の橋のたもとに、小さな建物があった。石の壁に、色の褪せた絵が貼ってあった。

 劇場、と書いてあった。

「芝居、観たことないんだ」

 トイヴォが、言った。

「町には、なかったから。……ここ、小さいね。この国の人は、みんな芝居が好きなんだって、宿のおじさんが言ってた」

 わたしは、貼り紙を見ていた。

 劇場。

 その二文字の下に、わたしの帳面の、ある頁があった。

 ひと続きの、何十もの糸が、同じ刻に途切れた頁。そのあとに、同じ糸が、また続いていた頁。

 わたしは、何も言わなかった。

 トイヴォが、わたしの顔を見た。

 それから、貼り紙から、目を離した。

「……帰ろっか」

 トイヴォが、そう言ったときだった。

 

 橋の上に、糸がひとつ、止まった。

 ずっと、そこにあった糸だった。この町に入ったときから、見えていた。宿の近くを、行ったり来たりしていた糸だった。人の多い町の、たくさんの糸のひとつだと思っていた。

 細く、まっすぐな糸だった。まっすぐすぎて、少し、擦り切れていた。

 よく眠っていない者の、糸だった。

「……トイヴォさん、ですね」

 橋の上から、声がした。

 男が、立っていた。

 三十を少し過ぎたくらいの男だった。灰色の外套に、見覚えのある徽章がついていた。北の国の、銀行の徽章だった。脇に、革の表紙の帳簿を抱えていた。

 武器は、持っていなかった。

 トイヴォが、わたしの前に出た。スメールの小屋の前と、同じだった。

「……誰ですか」

「北国銀行、債権回収部門のルキヤン・ピサレフと申します」

 男は、橋を下りてきた。わたしたちから、五歩のところで、止まった。

「ご心配なく。捕らえに来たのではありません。私は、兵ではありませんので」

 男は、わたしを見た。

「確かめに来ました。……帳尻が、合わなかったものですから」

 

 男は、帳簿を、ひらかなかった。

 ひらかなくても、中身を覚えているようだった。

「北東の湖で、死の執政は死んだ。第十一位、公子殿の報告書には、そうあります。『見届けた』と」

 トイヴォの肩が、硬くなった。

「けれど、帳面というのは、一冊だけでは終わらないのです。国境の町の、南門の通行の帳面。ナド・クライへ渡る港の、乗船の帳面。璃月港の、乗船の帳面。層岩巨淵の坑道の、通行の紙。隊商の頭が持ち歩く、名簿。……それから、各地で噂になっている、黒く枯れた輪」

 男は、ひとつずつ、指を折った。

「南門の帳面には、湖に近い森の猟師の名が、ありました。港から先の帳面には、どれも、同じ行がありました。トイヴォ。スネージナヤ。猟師。同行者一名。……同行者の名は、どこにも書いてありませんでした」

 男は、指を下ろした。

「死んだはずの者が、『同行者一名』として、国を六つ、渡っている。それで、私が来ました」

 

「……捕らえに来たのでないなら」

 わたしは、言った。

「何を、確かめる」

 男は、しばらく、黙っていた。

 運河を、舟が一艘、くぐっていった。櫂の音が、遠ざかった。

「妹がいます」

 男は、言った。

「ナージャといいます。……去年の冬、皇都の劇場で、芝居を観ていました」

 わたしは、男の糸を見た。

 まっすぐな、擦り切れた糸。

 妹の糸は、ここからは見えない。半日の道より遠いものは、わたしには、見えない。

「妹は、あの日、劇場で死にました」

 男は、言った。

 平らな声だった。帳簿を読み上げるような、声だった。

「それから、目を覚ましました。劇場にいた者は、みな、そうだったそうです。何日も、吹雪に閉じこめられた劇場の中にいた。……現実には、ほんの数分のことだったと、あとで聞きました」

 隣で、トイヴォが、息を止めた。

 わたしは、トイヴォを見なかった。

「妹は、今も、夜中に目を覚まします。吹雪の音がする、と言って。遠い夢のように、少しずつ、思い出すのだそうです。……誰かが、毎日、ふたりずつ、連れていったことを」

 男は、わたしを見ていた。

「私は、帳簿を読む人間です。合わないものは、合わないままにしておけない。……あの劇場で、何があったのか。妹が、何を見たのか。記録には、書いてありません」

 男は、帳簿を、胸の前で持ち直した。

「劇場のことを、あなたの口から聞きたい。……それだけです」

 

 わたしは、答えなかった。

 トイヴォを見た。

 トイヴォは、橋のたもとの石畳を、見ていた。

 目を覚ました。——劇場にいた者は、みな。

 トイヴォが、それを聞いたのは、今が、初めてだった。

 わたしは、あの冬、あの家で、劇場のことを話した。職務として、命を終わらせた、と。何も感じていなかった、と。

 終わらせた者が、そのあと、どうなったのかは、話さなかった。

 話さなかったのは、それで帳面が変わるとは、思っていなかったからだ。

 トイヴォが、顔を上げた。

 わたしを見た。

 何か言いかけて、やめた。

 それから、男のほうを向いた。

「……明日でも、いいですか」

 トイヴォの声は、少しかすれていた。

「今日は、……僕が、まだ、ちゃんと聞けないと思うから」

 男は、トイヴォを見た。

 長いあいだ、見ていた。

「かまいません」

 男は、言った。

「私は、あなたがたの宿の向かいに部屋を取っています。五日前から。坑道の通行の紙を見て、璃月の港から、船で来ました。砂漠を越える隊商は、みな、この町で荷を解きます。待っていれば、来ると思いました」

 男は、宿の窓を見上げた。

「あちらの宿の帳面に、五泊、とありました。今夜を入れて、あと四晩は、この町にいるのでしょう」

 わたしは、男を見た。

 五晩。それを口にしたのは、あの宿の部屋の中だけだ。

「黒い輪の噂には、どれも、日数がついていました。三晩。四晩。土地によって、違いました。……あなたは、着いた土地ごとに、数えている。宿の帳面も、噂も、合っていました。帳面は、嘘をつきません」

 男は、小さく頭を下げた。

「では、明日。……場所は、ここで、いかがでしょう。この劇場は、昼の芝居のあと、客席を、少しのあいだ開けておくそうです」

 男は、背を向けた。

 橋を渡って、水路の向こうへ、歩いていった。

 擦り切れた、まっすぐな糸が、人の糸のあいだに、紛れていった。

 

   ◇

 

 宿の部屋に戻っても、トイヴォは、しばらく、何も言わなかった。

 寝台の端に座って、帳面を膝に載せていた。ひらかなかった。

 わたしは、窓辺に立っていた。窓の下を、舟が、灯りを提げて通っていった。

「……ロノヴァ」

 トイヴォが、言った。

「劇場の人たち。……目、覚ましたんだね」

「……そうだ」

「知ってたの」

「知っていた」

 トイヴォは、帳面の表紙を、指でなぞった。

「そっか」

 それだけ、言った。

 怒っているのでは、なかった。喜んでいるのでも、なかった。

 トイヴォの糸は、細ってもいなかった。太ってもいなかった。いつもと、同じだった。

 ただ、何かを、ひとつずつ、並べ直しているようだった。わたしが、帳面の欄を、並べ直すときのように。

「明日、ちゃんと聞くよ」

 トイヴォが、言った。

「あの人と、一緒に。……君の、口から」

「……ああ」

 わたしは、窓の外の空を見た。

 光の立たなかった空だった。

 わたしのものが、何も立っていない空の下で、わたしは、明日、わたしのしたことを、話す。

 ——フォンテーヌ。運河の町。五晩のうち、二晩目。

 ——追う者が、来た。兵ではない。帳簿を読む者。

 ——劇場の頁を、明日、ひらく。

 帳面に、そう書いた。

 書いた字は、いつもより、揃っていなかった。




お読みいただきありがとうございました。
フォンテーヌ編に入りました。次回、第11話「書いた頁は消えない」はトイヴォ視点でお送りします。
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