※第二部「旅路編」の第10話です。今回からフォンテーヌ編です。
※旅の途中の町や人物、料理には、作中の創作を含みます。
※今回はロノヴァ視点です。
砂の上には、糸が少なかった。
隊商の宿駅を発って、九日。わたしたちは、荷を背負った獣の列の、いちばん後ろを歩いた。トイヴォは、隊商の飯炊きを引き受けていた。モンドへの船と、同じだった。飯を炊くかわりに、ついて歩くことを許された。
発つ朝、隊商の頭は、持ち歩いている名簿に、わたしたちのことを書きこんだ。
——トイヴォ。スネージナヤ。猟師。同行者一名。
璃月の港の役所の係が書いたのと、同じ行だった。わたしの名は、どこにもなかった。
砂の糸は、細く、長く、ゆっくりだった。
岩陰の、とかげ。砂の下の、虫。風に転がる、乾いた草の株。どれも、ひとつひとつが遠く離れていた。雪原に、似ていた。
わたしが歩いても、砂は、ほとんど黒くならなかった。
トイヴォは、黒くなった。
日に焼けて、鼻の頭の皮がむけた。汗をかいて、水を飲んで、また汗をかいた。雪の国で生まれた者には、この国の昼は、重すぎた。
「……溶けそう」
「溶けない」
「分かってるけど」
夜は、冷えた。
隊商の者たちは、焚き火を囲んで眠った。わたしは、列の外れの、砂の窪みに座った。冷えを、感じた。あの冬の前には、知らなかったものだ。
トイヴォが、毛布を持ってきた。わたしの膝に掛けて、それから、少し離れた砂の上に、腰を下ろした。
空に、星が多かった。
「雪原の夜に、似てるね」
トイヴォが、言った。
「空が、近くて。音が、なくて」
「……糸も、少ない」
「そっか。ロノヴァには、そう見えるんだ」
トイヴォは、膝を抱えた。
「帰りたくなった?」
わたしは、少し考えた。
「……あの家には、輪がある」
「うん」
「輪の中に、タイムはいない」
トイヴォは、しばらく、黙っていた。
「春になったら、南門の詰め所に、見に行こうか。鉢」
わたしは、答えなかった。答えないまま、星を見ていた。
トイヴォは、それで、いいようだった。やがて、焚き火へ戻っていった。
十日目の朝、砂が、終わった。
峡谷の岩のあいだを抜けると、風の匂いが変わった。
湿っていた。
水の音がした。
谷の底を、川が流れていた。その先に、緑の丘がひらけていた。丘のあいだを、水路が、いく筋も走っていた。丘の向こうに、白い石の家が、いくつか見えた。
「フォンテーヌだよ」
隊商の頭が言った。
「水の国さ。ここから先は、どこへ行っても、水がある。……俺たちは、この先の運河の町で、荷を解く」
わたしは、丘を見渡した。
糸は、あった。草の糸。木の糸。人の糸。けれど、そのあいだを、水が縫っていた。水路と、川と、池と、溜め池。糸の多い土地を、糸のない水が、細かく分けていた。
水の上では、何も黒くならない。
「……水が、多い」
わたしが言うと、トイヴォが、振り返った。
「ロノヴァには、いい国?」
「……たぶん」
◇
運河の町に着いたのは、それから三日後だった。隊商とは、そこで別れた。
石畳の通りの脇を、どこまでも水路が走っていた。家々の戸口の前に、小舟がつないであった。人は、橋を渡り、舟で行き来した。
わたしは、石畳の、水路に近いほうを歩いた。石の上には、線が残らない。水の上にも、残らない。この町なら、わたしが歩いたあとは、どこにも残らないかもしれなかった。
宿は、水路に張り出した、古い建物だった。二階の部屋の窓の下を、舟がくぐっていった。
宿の主人は、陽気な男だった。わたしたちの荷を、階段の上まで運んでくれた。
「砂漠を越えてきたって? そりゃあ、ご苦労さまだ。この国は、雨がよく降る。乾いた体には、ちょうどいいさ」
わたしは、窓の外の町の糸を、見渡した。
「……五晩」
トイヴォが、振り返った。
「スメールの、五倍だね」
「水が、多い」
トイヴォは、主人に頼んで、宿の帳面に、五泊、と書いてもらった。
主人は、窓を開けて、水路の風を入れた。
「北の人かい。北の国じゃ、去年の冬、空に光の柱が立ったんだってね」
わたしは、窓の外を見ていた。
「よその国の空から落ちた釘が、みんな、光りだしたって話だ。モンドでも、璃月でも、稲妻でも。……この国の空にだけは、何も立たなかった」
主人は、肩をすくめた。
「神様がいなくなった国だから、じゃないかって、言うやつもいる。まあ、光らなくて、よかったよ。うちの客が、腰を抜かさずにすんだ」
主人が下りていったあと、わたしは、窓辺に立っていた。
去年の冬、わたしは、空の柱に、残っていた力のほとんどを注いだ。餞別だった。
それは、わたしの手を離れて、大地のあちこちの釘を目覚めさせた。湖に羽根を置いてきてから、その脈は、もう、聞こえない。
この国の空には、それが、届かなかった。
窓の外の空は、低く、灰色で、雨の匂いがした。
わたしのものが、何も立っていない空だった。
肩のあたりが、少しだけ、軽くなった気がした。
それが、なぜなのか、わたしには、分からなかった。
「ロノヴァ」
トイヴォが、寝台の端に座って、わたしを見ていた。
「……何か、いいことあった?」
「……分からない」
「そっか」
トイヴォは、少し笑った。
「じゃあ、分かるまで、ここにいよう。五晩」
◇
宿の主人は、夕飯に、白い粥を出した。
米を、牛の乳で、ゆっくり煮たものだった。砂糖が入っていて、甘かった。上に、削った木の皮のような、香りのいい粉が振ってあった。
「この国じゃ、これは粥っていうより、甘味だね。子どもが風邪をひいたときにも出す」
トイヴォは、ひと匙すくって、目を丸くした。
「甘い」
「燕麦の粥にも、蜂蜜を落とすだろう。同じさ」
「……燕麦、知ってるんですか」
「知ってるとも。馬が、喜んで食べる」
トイヴォが、笑いだした。
わたしは、窓際の、少し離れた卓で、その粥をすすった。
甘かった。
あの冬の、最初の朝の、蜂蜜の粥とは違う甘さだった。
トイヴォは、主人に、作り方を聞いていた。帳面に、書いていた。
——フォンテーヌ。運河の町の宿。
——米を、牛の乳で煮る。弱い火で。焦がさないように、ずっと混ぜる。
——子どもが風邪をひいたとき。
◇
二日目の夕方、トイヴォが、通りの貼り紙の前で、足を止めた。
宿から三つ目の橋のたもとに、小さな建物があった。石の壁に、色の褪せた絵が貼ってあった。
劇場、と書いてあった。
「芝居、観たことないんだ」
トイヴォが、言った。
「町には、なかったから。……ここ、小さいね。この国の人は、みんな芝居が好きなんだって、宿のおじさんが言ってた」
わたしは、貼り紙を見ていた。
劇場。
その二文字の下に、わたしの帳面の、ある頁があった。
ひと続きの、何十もの糸が、同じ刻に途切れた頁。そのあとに、同じ糸が、また続いていた頁。
わたしは、何も言わなかった。
トイヴォが、わたしの顔を見た。
それから、貼り紙から、目を離した。
「……帰ろっか」
トイヴォが、そう言ったときだった。
橋の上に、糸がひとつ、止まった。
ずっと、そこにあった糸だった。この町に入ったときから、見えていた。宿の近くを、行ったり来たりしていた糸だった。人の多い町の、たくさんの糸のひとつだと思っていた。
細く、まっすぐな糸だった。まっすぐすぎて、少し、擦り切れていた。
よく眠っていない者の、糸だった。
「……トイヴォさん、ですね」
橋の上から、声がした。
男が、立っていた。
三十を少し過ぎたくらいの男だった。灰色の外套に、見覚えのある徽章がついていた。北の国の、銀行の徽章だった。脇に、革の表紙の帳簿を抱えていた。
武器は、持っていなかった。
トイヴォが、わたしの前に出た。スメールの小屋の前と、同じだった。
「……誰ですか」
「北国銀行、債権回収部門のルキヤン・ピサレフと申します」
男は、橋を下りてきた。わたしたちから、五歩のところで、止まった。
「ご心配なく。捕らえに来たのではありません。私は、兵ではありませんので」
男は、わたしを見た。
「確かめに来ました。……帳尻が、合わなかったものですから」
男は、帳簿を、ひらかなかった。
ひらかなくても、中身を覚えているようだった。
「北東の湖で、死の執政は死んだ。第十一位、公子殿の報告書には、そうあります。『見届けた』と」
トイヴォの肩が、硬くなった。
「けれど、帳面というのは、一冊だけでは終わらないのです。国境の町の、南門の通行の帳面。ナド・クライへ渡る港の、乗船の帳面。璃月港の、乗船の帳面。層岩巨淵の坑道の、通行の紙。隊商の頭が持ち歩く、名簿。……それから、各地で噂になっている、黒く枯れた輪」
男は、ひとつずつ、指を折った。
「南門の帳面には、湖に近い森の猟師の名が、ありました。港から先の帳面には、どれも、同じ行がありました。トイヴォ。スネージナヤ。猟師。同行者一名。……同行者の名は、どこにも書いてありませんでした」
男は、指を下ろした。
「死んだはずの者が、『同行者一名』として、国を六つ、渡っている。それで、私が来ました」
「……捕らえに来たのでないなら」
わたしは、言った。
「何を、確かめる」
男は、しばらく、黙っていた。
運河を、舟が一艘、くぐっていった。櫂の音が、遠ざかった。
「妹がいます」
男は、言った。
「ナージャといいます。……去年の冬、皇都の劇場で、芝居を観ていました」
わたしは、男の糸を見た。
まっすぐな、擦り切れた糸。
妹の糸は、ここからは見えない。半日の道より遠いものは、わたしには、見えない。
「妹は、あの日、劇場で死にました」
男は、言った。
平らな声だった。帳簿を読み上げるような、声だった。
「それから、目を覚ましました。劇場にいた者は、みな、そうだったそうです。何日も、吹雪に閉じこめられた劇場の中にいた。……現実には、ほんの数分のことだったと、あとで聞きました」
隣で、トイヴォが、息を止めた。
わたしは、トイヴォを見なかった。
「妹は、今も、夜中に目を覚まします。吹雪の音がする、と言って。遠い夢のように、少しずつ、思い出すのだそうです。……誰かが、毎日、ふたりずつ、連れていったことを」
男は、わたしを見ていた。
「私は、帳簿を読む人間です。合わないものは、合わないままにしておけない。……あの劇場で、何があったのか。妹が、何を見たのか。記録には、書いてありません」
男は、帳簿を、胸の前で持ち直した。
「劇場のことを、あなたの口から聞きたい。……それだけです」
わたしは、答えなかった。
トイヴォを見た。
トイヴォは、橋のたもとの石畳を、見ていた。
目を覚ました。——劇場にいた者は、みな。
トイヴォが、それを聞いたのは、今が、初めてだった。
わたしは、あの冬、あの家で、劇場のことを話した。職務として、命を終わらせた、と。何も感じていなかった、と。
終わらせた者が、そのあと、どうなったのかは、話さなかった。
話さなかったのは、それで帳面が変わるとは、思っていなかったからだ。
トイヴォが、顔を上げた。
わたしを見た。
何か言いかけて、やめた。
それから、男のほうを向いた。
「……明日でも、いいですか」
トイヴォの声は、少しかすれていた。
「今日は、……僕が、まだ、ちゃんと聞けないと思うから」
男は、トイヴォを見た。
長いあいだ、見ていた。
「かまいません」
男は、言った。
「私は、あなたがたの宿の向かいに部屋を取っています。五日前から。坑道の通行の紙を見て、璃月の港から、船で来ました。砂漠を越える隊商は、みな、この町で荷を解きます。待っていれば、来ると思いました」
男は、宿の窓を見上げた。
「あちらの宿の帳面に、五泊、とありました。今夜を入れて、あと四晩は、この町にいるのでしょう」
わたしは、男を見た。
五晩。それを口にしたのは、あの宿の部屋の中だけだ。
「黒い輪の噂には、どれも、日数がついていました。三晩。四晩。土地によって、違いました。……あなたは、着いた土地ごとに、数えている。宿の帳面も、噂も、合っていました。帳面は、嘘をつきません」
男は、小さく頭を下げた。
「では、明日。……場所は、ここで、いかがでしょう。この劇場は、昼の芝居のあと、客席を、少しのあいだ開けておくそうです」
男は、背を向けた。
橋を渡って、水路の向こうへ、歩いていった。
擦り切れた、まっすぐな糸が、人の糸のあいだに、紛れていった。
◇
宿の部屋に戻っても、トイヴォは、しばらく、何も言わなかった。
寝台の端に座って、帳面を膝に載せていた。ひらかなかった。
わたしは、窓辺に立っていた。窓の下を、舟が、灯りを提げて通っていった。
「……ロノヴァ」
トイヴォが、言った。
「劇場の人たち。……目、覚ましたんだね」
「……そうだ」
「知ってたの」
「知っていた」
トイヴォは、帳面の表紙を、指でなぞった。
「そっか」
それだけ、言った。
怒っているのでは、なかった。喜んでいるのでも、なかった。
トイヴォの糸は、細ってもいなかった。太ってもいなかった。いつもと、同じだった。
ただ、何かを、ひとつずつ、並べ直しているようだった。わたしが、帳面の欄を、並べ直すときのように。
「明日、ちゃんと聞くよ」
トイヴォが、言った。
「あの人と、一緒に。……君の、口から」
「……ああ」
わたしは、窓の外の空を見た。
光の立たなかった空だった。
わたしのものが、何も立っていない空の下で、わたしは、明日、わたしのしたことを、話す。
——フォンテーヌ。運河の町。五晩のうち、二晩目。
——追う者が、来た。兵ではない。帳簿を読む者。
——劇場の頁を、明日、ひらく。
帳面に、そう書いた。
書いた字は、いつもより、揃っていなかった。
お読みいただきありがとうございました。
フォンテーヌ編に入りました。次回、第11話「書いた頁は消えない」はトイヴォ視点でお送りします。