死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※今回はロノヴァ視点です。


第4話 誰かのための献立

 わたしが、終わらせた。

 あの草の糸が途切れたのは、夜明けの少し前だった。

 眠ってはいなかった。窓から最も遠い壁際に寝床を移し、目を閉じて、ただ待っていた。この距離なら届かないだろう、と。届かないでほしい、と——そう思っていたことに、あとになって気づいた。

 届いた。

 わたしの力は、わたしが思うよりも早く戻りつつあった。戻った分だけ、わたしの周りの小さな命は細っていく。それは当然のことだ。死の執政がそこにいるということは、そういうことだ。

 当然のことを、わたしは、ひどく長いあいだ見つめていた。

 

 トイヴォは、霜のせいだと言った。

 そして、笑おうとした。うまく笑えていなかった。

 根はまだ生きている、とトイヴォは言った。春になれば、また芽が出るかもしれない、と。

 わたしは、棚の上に移された鉢に、そっと意識を向けた。触れないように。糸の端を、遠くからのぞき込むだけにとどめて。

 確かに、あった。

 土の奥に、髪の毛よりも細い糸が、まだ続いていた。途切れてはいない。途切れてはいないが、ひどく弱い。わたしがもう一度近づけば、今度こそ終わるだろう。

 わたしは、意識を引いた。

 それから、その朝の粥を食べた。

 塩が、多かった。

 

 借りがある、とわたしは考えた。

 命を拾われた。傷の手当てをされた。食べ物を与えられ、寝床を与えられた。そのうえ、わたしはこの家の草を一本、終わらせた。

 天理の下では、あらゆるものに均衡がある。与えられたものには、見合うものを返さなければならない。わたしは長いあいだ、その均衡を見張る側にいた。見張る側が、帳尻の合わないまま立ち去るわけにはいかない。

 ——そういうことに、しておいた。

 

   ◇

 

 二日後、わたしは壁に手をつかずに、部屋の端から端まで歩けるようになった。

 脇腹の傷は、ほとんど塞がっていた。トイヴォは包帯を替えるたびに、よかった、よかった、と繰り返した。自分の傷が治ったかのような顔で。

 その日の午後、トイヴォが夕食の支度を始めたとき、わたしは言った。

「手伝う」

 トイヴォは、手に持っていた芋を取り落としかけた。

「……え?」

「手伝う、と言った」

「ロノヴァが?」

「不服か」

「ううん、全然。……びっくりしただけ」

 トイヴォは芋を拾い上げて、それから、ゆっくりと笑った。

 雪解けのような笑い方だった。わたしは雪解けというものを、冬が終わる側からしか見たことがないが。

 

「じゃあ、今日は包み団子にしよう」

「包み団子」

「小麦の皮で、刻んだ肉を包んで茹でるんだ。このあたりの冬のご馳走。一人だと包むのが面倒で、あんまり作らないんだけど」

 トイヴォは棚から粉の袋を下ろし、それから、少し照れたように付け加えた。

「実は、ずっと考えてたんだ。ロノヴァが来てから、何を作ったら喜ぶかなって。でも、何を出しても『悪くはない』だから、よく分からなくて」

「……悪くはない、と言っている」

「うん。だから、全部悪くはないんだなって。……じゃあ、一緒に作ったら、ちょっとは違う味がするかなって」

 一緒に作れば、違う味がする。

 そのような理屈は、どの摂理にも記されていない。

 記されていないが、わたしは反論しなかった。

 

 最初に渡されたのは、芋と小刀だった。

「皮を剥いてくれる? 芽のところは、深めにえぐって」

 わたしは芋を手に取った。

 芋の糸は、ほとんど見えなかった。土から引き抜かれた根菜は、もう終わりかけている。わたしが触れても、何も変わらない。そのことに、少しだけ安堵している自分がいた。

 小刀を当てる。

 皮と身の境界が、どこにあるのか分からなかった。

 外側は不要だ。ならば、不要なものは確実に除くべきだ。わたしは慎重に、確実に、刃を入れていった。

 しばらくして、トイヴォがわたしの手元をのぞき込み、黙った。

 わたしの手の中には、胡桃ほどの大きさの白い塊が残っていた。

 足もとには、皮と呼ぶにはあまりに分厚いものが、山になっていた。

「……ロノヴァ」

「皮は剥いた」

「うん。剥いたね。……すごく、剥いたね」

 トイヴォの肩が、小刻みに震えた。笑いをこらえているのだと気づくのに、少しかかった。

「皮と身の境界が、曖昧だった」

「そっか。そうだよね。境界、曖昧だよね」

 こらえきれなくなったトイヴォが声を上げて笑い、わたしは、なぜか、それを咎める気になれなかった。

 剥きすぎた皮は、トイヴォが拾い集めて、明日の汁物に入れることになった。無駄になるものは、この家にはないらしい。

 

 芋は結局、トイヴォが剥いた。わたしには、包む係が回ってきた。

 丸く延ばした皮の真ん中に、刻んだ兎の肉と玉ねぎを混ぜたものを匙で載せる。二つに折って、縁を指でつまんで閉じる。トイヴォの手の中では、同じ形の小さな団子が、手品のように次々と並んでいく。

 わたしの手の中では、そうはいかなかった。

 黒い指は、長くて、硬い。薄い皮をつまむには向いていない。力を入れれば皮が破れ、入れなければ縁が開く。十個包んで、十個とも違う形になった。ひとつは肉がはみ出し、ひとつは皮ばかりが余り、ひとつは、どういうわけか三角になった。

「……形が揃わない」

「いいんだよ、形はどうでも。中身は一緒だから」

「非効率だ」

「そうかもね」

 トイヴォは、わたしの作った三角の団子をつまみ上げて、嬉しそうに眺めた。

「これ、僕が食べていい?」

「なぜ、わざわざ出来の悪いものを選ぶ」

「ロノヴァが初めて作ったやつだから」

 わたしは、答えなかった。

 答えるべき言葉が、見当たらなかった。

 

 茹でる前に、トイヴォが汁の味を見た。塩の壺に伸びた彼の手を見て、わたしは口を開いた。

「待て」

「ん?」

「あの朝の粥は、塩が多かった」

 トイヴォの手が止まった。

 あの朝から、トイヴォの作るものは、どれも少しずつ塩が強い。本人は気づいていないようだった。

「……え、そうだった?」

「そうだった」

「ごめん。……気づかなかった」

 トイヴォは塩の壺を置いて、汁を小皿に取り、もう一度味を見た。それから、少しだけ水を足した。

 わたしは、それ以上何も言わなかった。

 なぜトイヴォの料理が塩辛くなったのか、わたしは知っている。

 わたしだけが、知っている。

 

   ◇

 

 茹で上がった団子は、湯気を立てて器に盛られた。

 揃った形のものと、揃わない形のもの。トイヴォは揃ったものをわたしの器に、揃わないものを自分の器に入れようとした。わたしは黙って、三角のものだけを自分の器に取り返した。

 トイヴォが、目を丸くした。

「……わたしが作った。わたしが食べる」

 トイヴォは少しだけ残念そうな顔をして、それから、笑った。

 

 食べながら、トイヴォはぽつぽつと話した。

 父と母は、トイヴォが七つの冬に、流行り病で死んだこと。それからは祖母と二人で暮らしたこと。祖母は四年前の冬、眠るように息を引き取ったこと。それからは一人で、この家を守ってきたこと。

 話す声は、穏やかだった。悲しい話をしているという響きは、ほとんどなかった。長い時間をかけて角の取れた、川底の石のような話し方だった。

「一人でも、生きていけるよ」

 トイヴォは、団子をひとつ口に放り込んで言った。

「薪も割れるし、罠も仕掛けられるし、屋根も直せる。困ったことは、あんまりない。……でも」

 少しだけ、言葉が途切れた。

「誰かにご飯を作るのは、久しぶりなんだ。四年ぶり」

 わたしは、手の中の匙を見た。

 四年前の冬。この森で、ひとつの糸が終わった。

 それは、わたしのもとへ来た数えきれない命のうちの、ひとつだったはずだ。わたしは、それを覚えていない。覚えている必要もなかった。一つひとつの死を覚えていては、職務は成り立たない。

 覚えていないことが、今は、なぜか——喉の奥に、小さな骨が刺さったように感じられた。

 分類できない感覚だった。

 わたしは、三角の団子を口に入れた。

 不格好なそれは、トイヴォの作ったものと、同じ味がした。

 ——いや。

 ほんのわずかに、違う味がした気がした。

 

   ◇

 

 片づけが終わり、暖炉の火が落ち着いたころ、トイヴォが言った。

「そうだ。ロノヴァって、占い師さんなんだよね」

「……そういうものだと、言った」

「じゃあさ、昔話とか、好き?」

 好きかどうかは、考えたことがなかった。

 わたしが答えないのを、トイヴォは肯定と受け取ったらしい。暖炉のそばで膝を抱え、火を見ながら話しはじめた。

「おばあちゃんが、よく話してくれたんだ。霜月の子たちから聞いたっていう話。……昔、このあたりの人たちは、トゥオネタルっていう冥府の女神様に、獣を捧げてたんだって」

 わたしは、動かなかった。

 動かないように、した。

「冬の終わりに、その年いちばんいい獣を捧げるんだ。死んだ人の魂が、迷わずに冥府へ行けるように。女神様が、ちゃんと連れていってくれますようにって」

 火が、ぱちりとはぜた。

「でも、いつの間にか、捧げるのをやめちゃったんだって。なんでかは、おばあちゃんも知らなかった。昔のことだからね」

 知っている。

 わたしは、それを知っている。

 遠い昔、南の森から、細い煙が昇っていた。獣を焼く煙だ。冬の終わりごとに、決まって。わたしは天の高みから、それを見ていた。——見ていた、というのは正確ではないかもしれない。記録していた。あの地の民が、定められた形で、定められた相手に、敬意を示している、と。

 そして、ある年から、煙は昇らなくなった。

 わたしは、それも記録した。あの地の民は、天への敬意を捨てた、と。それだけだった。それ以上のことは、何も思わなかった。

「おばあちゃんはね」

 トイヴォが、火を見たまま言った。

「女神様は寂しくなかったのかねえ、って言ってた」

 ——。

「毎年来てたお供えが、ある年から来なくなったんだもの。女神様だって、寂しかったんじゃないかねえ、って」

 トイヴォは、少し照れたように笑った。

「子どものころは、よく分からなかったけど。……僕が兎にありがとうって言うのは、ちょっと、それに似てるのかなって思うんだ。命をもらうときに、誰かに何か言わないと、なんだか寂しい気がして」

 わたしは、何も言えなかった。

 寂しい。

 その言葉を、わたしは知っている。人間が、ひとりでいるときに抱く感情の名だ。知識の棚のどこにあるかも、分かっている。

 けれど、それがわたしに向けられる言葉だとは——一度も、考えたことがなかった。

「……その女神は」

 気づいたときには、口を開いていた。

「寂しくなど、なかっただろう」

「そうかな」

「そういうものだ。女神とは、そういうものだ」

「そっか。ロノヴァが言うなら、そうなのかも」

 トイヴォは、あっさりとうなずいた。占い師の言うことだから、と思ったのかもしれない。

 わたしは、自分の言ったことが正しいのかどうか、分からなかった。

 分からないことを、断言した。

 それはもしかすると、わたしが初めてついた嘘だったのかもしれない。

 

   ◇

 

 その夜、わたしは長いあいだ眠れなかった。

 眠る必要はない。——いつものように、そう思おうとした。

 思おうとして、気づいた。

 傷が癒えれば去る。最初の朝、わたしはそう言った。傷は、ほとんど塞がった。歩くこともできる。去ろうと思えば、明日にでも去れる。

 それなのに、この数日、わたしは一度も、去る日のことを考えていなかった。

 暖炉の熾火が、赤く息をしている。その向こうで、トイヴォが毛皮一枚にくるまって眠っている。規則正しい寝息。少し太い、長い糸。

 死を執り行うのが、わたしの職務だった。

 この家で、わたしは毎日、生かされている。粥を与えられ、傷を手当てされ、名を呼ばれ、団子の形を笑われて。

 それが——悪くは、ない。

 悪くはない、と思っている自分がいた。

 

 わたしは寝床を抜け出して、窓辺に立った。

 足は、もうふらつかなかった。

 霜の花の隙間から、外を見る。月のない夜だった。森は黒く沈み、雪原だけが、星明かりをかすかに返している。

 北の空の果てに、光があった。

 目で見える光ではない。わたしにだけ見える光だ。遠い、遠いところで、天に向かって立つものが、かすかに脈打っている。そしてその脈に応えるように、この大地のあちこちで、古い釘が目を覚ましている。

 わたしの餞別だ。

 最後に、残った力のほとんどを注ぎ込んだもの。それはわたしの手を離れて、まだ世界のどこかで息づいていた。

 何のためのものか、わたしは知っている。

 知っていて——今夜は、考えたくなかった。

 

 意識を広げると、糸が見えた。

 数日前には草一本と人間ひとりしか映らなかった目に、今は森が映っていた。雪の下で眠る鼠の、細い糸。梢で羽を膨らませている鳥の糸。沢の氷の下の、魚の糸。

 力が、戻っている。

 戻れば戻るほど、わたしの周りの糸は細っていく。今はまだいい。だが、いずれ——。

 その考えを追う前に、別のものが、わたしの意識の端に触れた。

 北から。

 糸が、近づいてくる。

 ひとつではない。十、いや、十二。整然と間隔を保ち、一定の速さで雪を踏んでくる。獣の群れの動き方ではない。訓練された人間の、隊列の動き方だ。

 その糸の束に、覚えのある気配がまとわりついていた。

 凍てついた鉄の匂い。——あの国の、女皇の兵の匂い。

 わたしは、窓から離れた。

 暖炉の向こうで、トイヴォが寝返りを打った。何か、寝言をつぶやいたようだった。聞き取れなかった。

 隊列は、まだ遠い。夜明けまでには着かないだろう。

 明日の昼か。遅くとも、明後日。

 わたしは寝床に戻り、目を閉じた。

 眠る必要はない。

 今夜は、本当に眠れなかった。




お読みいただきありがとうございました。
次回、第5話「雪の中の兵隊」はトイヴォ視点でお送りします。ここから物語が動きます。
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