死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※第二部「旅路編」の第11話です。
※旅の途中の町や人物には、作中の創作を含みます。
※今回はトイヴォ視点です。


旅路編 第11話 書いた頁は消えない

 その朝、僕は、牛の乳で米を煮た。

 宿の主人に、台所を借りた。弱い火で、焦がさないように、ずっと混ぜた。帳面に書いたとおりに。砂糖は、少しだけにした。

 ロノヴァは、窓際の卓で、それを食べた。

「……甘い」

「宿のおじさんのより、甘くないはずだけど」

「……宿のより、甘くない」

 それなら、いい。

 僕も、自分の器をすすった。甘かった。宿で食べたのより、ぼんやりした味だった。

「おはよう」は、ちゃんと言った。ロノヴァも、ちゃんと返した。

 ゆうべ、僕は、あまり眠れなかった。

 目を覚ました。——劇場にいた人たちは、みんな。

 あの冬、あの家で、ロノヴァは、劇場のことを話してくれた。職務として、命を終わらせた、と。何も感じていなかった、と。

 終わらせた人たちが、そのあと、どうなったのか。僕は、聞かなかった。聞かなかったから、ロノヴァは、話さなかった。

 それだけのことだと、分かっていた。

 分かっていても、ゆうべは、天井の木目を、ずっと数えていた。

 

 鍋を洗って、台所へ返しに下りると、宿の戸口の外に、ルキヤンさんが立っていた。

 向かいの宿から、出てきたところらしかった。

「おはようございます」

「……おはようございます」

 ルキヤンさんは、宿の二階を見上げた。僕たちの部屋の窓を。

「昼すぎに、劇場で。……それだけ、確かめたくて」

「はい。行きます」

 ルキヤンさんは、うなずいた。それから、僕の腰の帳面に目をやった。

「帳面を、つけていますね。昨日も、橋の上で、ずっと手に持っていた」

「料理の帳面です。行った国で習ったのを、書いてるんです」

「私も、帳面を読むのが仕事です」

 ルキヤンさんは、脇に抱えた帳簿を、軽く持ち上げた。

「借りた人が、どうして返せなくなったのか。数字を読めば、たいてい分かります。数字は、嘘をつきませんから」

 それから、少しだけ、声を落とした。

「……分からないのは、数字にならないものだけです」

 ルキヤンさんは、小さく頭を下げて、運河沿いの道を歩いていった。

 灰色の外套の裾が、水路の風に揺れていた。

 

   ◇

 

 昼すぎ、橋のたもとの劇場へ行った。

 ちょうど、昼の芝居が終わったところだった。扉から、客が、ぞろぞろと出てきた。笑っている人もいた。目元を拭いている人もいた。

 僕たちは、人の流れが途切れるのを、橋の上で待った。ロノヴァは、欄干の石に、手袋の手を置いていた。

 最後の客が出ていったあとで、中へ入った。

 劇場の中は、薄暗かった。

 客席が、舞台に向かって、ゆるく下っていた。赤い布を張った椅子が並んでいた。布は、ところどころ擦り切れて、色が抜けていた。舞台の上には、海の絵を描いた幕が下がっていた。裏方の人たちが、小道具を片づけていた。

 古い木と、埃と、誰かの香水の匂いがした。

 舞台の幕の海には、波が、白い線で描いてあった。稲妻の島の、灯りを流した夜の海を、思い出した。

 はじめて入る劇場だった。

 ロノヴァは、入口のところで、しばらく立ち止まっていた。

 客席を、見ていた。

 何を見ているのか、僕には分からなかった。空っぽの椅子を見ているのかもしれなかった。空っぽになる前の椅子を、見ているのかもしれなかった。

「……ロノヴァ」

「……ああ」

 ロノヴァは、歩きだした。

 

 ルキヤンさんは、客席の中ほどに座っていた。

 膝の上に、あの革の帳簿を載せていた。ひらいてはいなかった。

 僕たちに気づくと、立ち上がって、小さく頭を下げた。

「来てくださって、ありがとうございます」

 ロノヴァは、ルキヤンさんのふたつ前の列に座った。通路側の、端の席だった。ルキヤンさんのほうへ、体を、わずかに向けて。

 僕は、ロノヴァの隣に座った。

 客席の、ずっと後ろのほうにも、ひとり、人が残っていた。帽子を膝に載せて、舞台の幕を、ぼんやり眺めていた。芝居の余韻に、浸っているのだと思った。

 裏方の人たちが、最後の小道具を運び出していった。舞台の袖の扉が、閉まった。

 しんとした。

 

「……話す」

 ロノヴァが、言った。

 ルキヤンさんは、帳簿を、膝の上で押さえた。

 

「あの日、わたしは、皇都の劇場で、死の呪いを放った」

 ロノヴァの声は、平らだった。

 帳面を、読み上げるときの声だった。

「客席にいた者も、舞台の上にいた者も、裏にいた者も。みな、そこで、終わった」

 ルキヤンさんは、動かなかった。

「終わった者たちは、吹雪に閉ざされた劇場の中にいた。そう、見えていたはずだ。……本当は、終わりのあとの場所だった」

 ロノヴァは、舞台の幕を見ていた。

「わたしは、そこへ入った。閉じこめられた者のひとりの姿を借りて。……毎日、ふたりずつ、終わらせた」

 毎日、ふたりずつ。

 ルキヤンさんの妹が言っていたという言葉と、同じだった。

「最後の日に、見破られた。姿を、壊された。……それで、みな、目を覚ました。こちらでは、ほんの少しのあいだのことだった」

 

 ルキヤンさんが、口をひらいた。

「……なぜ、終わらせて、戻したのです」

「取り決めが、あった」

 ロノヴァは、言った。

「空の上の目が離れているあいだに、終わらせて、戻す。そうすれば、罪にはならない。……そういう、取り決めだった」

「では、妹は」

 ルキヤンさんの声が、少しだけ、揺れた。

「罪にならないように、死なされたのですね」

「……そうだ」

 ロノヴァは、目をそらさなかった。

 ルキヤンさんは、帳簿の表紙を、指でなぞっていた。何度も、同じところを。

「……妹の名は、ナジェージダといいます」

「記録した」

 ロノヴァは、言った。

「……覚えては、いない」

 その言葉を、僕は、前にも聞いた。

 あの冬、あの家で。おばあちゃんの、ことで。

 稲妻の島でも、聞いた。

 ルキヤンさんは、しばらく、目を閉じていた。

 

「戻ったからといって」

 ロノヴァが、言った。

「終わらせたことは、消えない」

 ルキヤンさんが、目を開けた。

「わたしの帳面には、あの日の頁が、ある。何十もの糸が、同じ刻に途切れた頁だ。そのあとに、同じ糸が、また続いている頁も、ある。……続いたからといって、途切れた頁が、なくなるわけではない」

 ロノヴァは、手袋の手を、膝の上で重ねた。

「書いた頁は、消えない。……わたしは、消さない」

 

 僕は、ロノヴァの横顔を見ていた。

 戻ってきたのだから、よかった。——そう言ってしまえたら、簡単だった。ゆうべ、天井を見ながら、何度か、そう思いかけた。

 でも、ルキヤンさんの妹は、今も、夜中に目を覚ます。吹雪の音がする、と言って。

 戻ってきた人も、覚えている。

 戻ってこない獣のことを、僕は、覚えている。罠にかかった兎の、あたたかさ。首を折るときの、手ごたえ。ありがとう、と言っても、兎は戻らない。言ったから消えるわけでも、ない。

 それでも、言う。おばあちゃんが、そう教えた。

 ロノヴァの言っていることは、たぶん、それと、少し似ていた。

 消えないことを、消えないまま、持っていく。

 僕は、何も言わなかった。

 言わないで、ロノヴァの重ねた手袋の上に、自分の手を、そっと置いた。

 ロノヴァは、手を引かなかった。

 

 ルキヤンさんは、長いあいだ、黙っていた。

 それから、帳簿を、ひらいた。

 何も書かなかった。ひらいた頁を、じっと見ていた。

「……私は、あなたに、何を言ってほしかったのでしょうね」

 帳簿に目を落としたまま、そう言った。

「すまなかった、と言われたら、帳尻が合うと思っていたのかもしれません。……けれど、あなたは、それを言いませんでした。代わりに、消さない、と言いました」

 帳簿が、閉じられた。

「どちらが重いのか、私には、まだ、分かりません」

 閉じた帳簿を、膝の上で、両手で押さえていた。何かが飛んでいってしまわないように、押さえているみたいだった。

 

   ◇

 

「……失礼」

 後ろから、声がした。

 振り返ると、客席のずっと後ろにいたあの人が、通路に立っていた。

 女の人だった。白い髪に、淡い青の筋が混じっていた。目は青くて、右と左で、少しずつ色が違っていた。膝に載せていた帽子を、手に提げていた。

「盗み聞きするつもりはなかったんだ。本当だよ。……でも、劇場っていうのは、声がよく響くようにできてるからね」

 その人は、少し肩をすくめた。

 僕と同じくらいか、少し下に見えた。

「僕も、長いこと、舞台に立ってたんだ。……ひとつの役を、ずっとね」

「役者さん、ですか」

 僕が聞くと、その人は、ちょっと目を丸くして、それから笑った。

「まあ、そんなところさ」

 その人は、ロノヴァを見た。

 ロノヴァも、その人を見ていた。

 ウェンティのときとも、紫の髪の人のときとも、違った。空気は、張りつめていなかった。ロノヴァは、ただ、じっと見ていた。何かを、確かめるように。

「キミも、何かの役を、降りたんだろう?」

 その人は、言った。

「さっきの話を聞いてたら、なんとなく、そう思った。……違ったら、ごめんよ」

 ロノヴァは、答えなかった。

 その人は、答えを待たなかった。

「ひとつだけ、先輩として言っておくよ」

 その人は、帽子を、頭に載せた。

「役を降りたあとのほうが、ずっと長く感じるんだ。……幕が下りてからのほうがね。拍手も、台本も、ない。自分で、台詞を考えなきゃいけない」

 それから、ふっと笑った。

「でも、悪くないよ。ケーキを、誰の目も気にしないで食べられる」

 ロノヴァが、口をひらいた。

「……お前の台詞は、書いておく」

 その人は、目を丸くして、それから、声を立てて笑った。

「光栄だね」

 その人は、通路を、出口のほうへ歩いていった。

 途中で、ルキヤンさんの席の横を通るとき、帽子のつばに、そっと指をかけて、小さく会釈した。ルキヤンさんも、黙って、頭を下げた。

 扉の前で、一度だけ振り返って、ひらひらと手を振った。

 扉が、閉まった。

 

「……今の人、知り合い?」

 僕は、小さく聞いた。

「……いや」

 ロノヴァは、閉まった扉を見ていた。

「人だ」

 それだけ、言った。

 どういう意味なのか、分からなかった。人なのは、見れば分かる。

 でも、ロノヴァは、あの人を、お前、と呼んだ。長いこと、ひとつの役をしてきた人なのに。

 昔から、長く何かを続けてきた人に使う話し方。稲妻で、僕は、そう思った。それも、違ったのかもしれない。

 それが、どういうことなのかも、僕には、分からなかった。

 

   ◇

 

 劇場を出ると、夕方だった。

 橋の上で、ルキヤンさんが、足を止めた。

「報告書は、まだ、書きません」

 ルキヤンさんは、言った。

「確かめることが、もうひとつ、残っています。……帳面の、合わないところが、ひとつ」

「……何を、確かめる」

「それは、確かめてから、お話しします」

 ルキヤンさんは、運河の向こうを見た。

「あなたがたは、港から、ナタへ渡るのでしょう。残っている国は、もう、そこだけですから」

 僕は、ロノヴァを見た。ロノヴァは、何も言わなかった。

「ナタで、もう一度、お会いします」

 ルキヤンさんは、小さく頭を下げた。

 それから、ためらうように、言った。

「……トイヴォさん。今朝、宿の台所から、甘い匂いがしていました」

「あ、はい。牛の乳で、米を煮たんです」

「妹が、子どものころ、熱を出すと、母がそれを作りました」

 それ以上は、何も言わなかった。

 背を向けて、橋を渡っていった。

 

 宿に戻って、夕飯のあとで、ロノヴァが言った。

「……明日、発つ」

「五晩じゃ、なかったの」

「……頁は、ひらいた」

 ロノヴァは、それだけ言った。

 僕は、うなずいた。五晩と決めた町を、三晩で発つ。それでいいと、思った。

 

   ◇

 

 次の朝、宿の主人が、小舟を出してくれた。

「港まで、水路で行けば、半日だ。歩くより、ずっと早い」

 ロノヴァは、舳先に座った。

 舟は、水路を、ゆっくり滑っていった。石の橋を、いくつもくぐった。水の上には、何も残らなかった。舟の通ったあとの波も、すぐに、静かになった。

 ロノヴァは、舳先から、ずっと、後ろの水を見ていた。何も残らない水を。

 その横顔が、どこか、ほどけているように見えた。

 町の外れの、最後の橋に近づいたとき、雨が降りだした。

 細かい雨だった。水路の面に、小さな輪が、いくつも、いくつも、ひらいた。

 橋の上に、男の人が、ひとり、立っていた。

 背の高い人だった。長い白い髪が、背中まで垂れていた。両脇に、ひと筋ずつ、青い色が混じっていた。傘は、差していなかった。髪も、肩も、雨に濡れていた。それを、気にしているようには見えなかった。

 その人は、水路を見下ろしていた。

 舟を。

 舳先の、ロノヴァを。

 ロノヴァが、顔を上げた。

 二人とも、何も言わなかった。

 ウェンティのときとも、紫の髪の人のときとも、違った。空気は、張りつめてもいなかったし、ゆるんでもいなかった。雨の音だけが、していた。

 舟は、橋の下をくぐった。

 石の暗がりを抜けて、振り返ったとき、橋の上には、もう、誰もいなかった。

 雨が、やんでいた。

 水路の面の輪が、ひとつずつ、消えていった。

 ロノヴァは、しばらく、橋のほうを見ていた。それから、また、後ろの水を見た。

 僕は、何も聞かなかった。聞いても、ロノヴァは、たぶん、何も言わない気がした。

 雨に濡れるのが好きな人も、いるのだろうと思った。

 

 港の役所に、手紙が一通、留め置かれていた。

 北から来た猟師の、トイヴォ宛て。

 ハヤートさんの字だった。細かくて、少し右に傾いた字だった。

 ——鉢の根元から、芽が出た。小さいのが、ふたつ。

 ——君の言ったとおりだった。学者のくせに、少し驚いた。

 ——北の書庫には、手紙を出した。返事が来たら、また書く。

 僕は、それを、声に出して読んだ。

 ロノヴァは、黙って聞いていた。

 芽が出た、のところで、ロノヴァの手袋の指が、少しだけ、動いた。

 

 ナタ行きの船の席を、役所で買った。係の人が、乗船の帳面に書きこんだ。

 ——トイヴォ。スネージナヤ。猟師。同行者一名。

 ルキヤンさんが、指を折って読み上げた行だった。どこの港でも、同じ行だった。

 船は、日の傾くころに出た。

 甲板で、僕は、帳面をひらいた。

 ——フォンテーヌ。運河の町。牛の乳の粥。熱を出した子どもの、ごはん。

 ——劇場。書いた頁は、消えない。

 ——ハヤートさんの鉢に、芽がふたつ。

 書いてから、少し考えて、もう一行、足した。

 ——消えない頁のあとにも、頁は、書ける。

 ロノヴァが、隣で、帳面をのぞいていた。

「……それは、料理ではない」

「うん。でも、書いておきたかったんだ」

 ロノヴァは、何も言わなかった。

 船の行く先には、まだ、海しか見えなかった。その向こうに、火の国がある。




お読みいただきありがとうございました。
これでフォンテーヌ編はおしまいです。次回、第12話「留まりすぎた村」はロノヴァ視点でお送りします。いよいよナタに入ります。
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