※第二部「旅路編」の第11話です。
※旅の途中の町や人物には、作中の創作を含みます。
※今回はトイヴォ視点です。
その朝、僕は、牛の乳で米を煮た。
宿の主人に、台所を借りた。弱い火で、焦がさないように、ずっと混ぜた。帳面に書いたとおりに。砂糖は、少しだけにした。
ロノヴァは、窓際の卓で、それを食べた。
「……甘い」
「宿のおじさんのより、甘くないはずだけど」
「……宿のより、甘くない」
それなら、いい。
僕も、自分の器をすすった。甘かった。宿で食べたのより、ぼんやりした味だった。
「おはよう」は、ちゃんと言った。ロノヴァも、ちゃんと返した。
ゆうべ、僕は、あまり眠れなかった。
目を覚ました。——劇場にいた人たちは、みんな。
あの冬、あの家で、ロノヴァは、劇場のことを話してくれた。職務として、命を終わらせた、と。何も感じていなかった、と。
終わらせた人たちが、そのあと、どうなったのか。僕は、聞かなかった。聞かなかったから、ロノヴァは、話さなかった。
それだけのことだと、分かっていた。
分かっていても、ゆうべは、天井の木目を、ずっと数えていた。
鍋を洗って、台所へ返しに下りると、宿の戸口の外に、ルキヤンさんが立っていた。
向かいの宿から、出てきたところらしかった。
「おはようございます」
「……おはようございます」
ルキヤンさんは、宿の二階を見上げた。僕たちの部屋の窓を。
「昼すぎに、劇場で。……それだけ、確かめたくて」
「はい。行きます」
ルキヤンさんは、うなずいた。それから、僕の腰の帳面に目をやった。
「帳面を、つけていますね。昨日も、橋の上で、ずっと手に持っていた」
「料理の帳面です。行った国で習ったのを、書いてるんです」
「私も、帳面を読むのが仕事です」
ルキヤンさんは、脇に抱えた帳簿を、軽く持ち上げた。
「借りた人が、どうして返せなくなったのか。数字を読めば、たいてい分かります。数字は、嘘をつきませんから」
それから、少しだけ、声を落とした。
「……分からないのは、数字にならないものだけです」
ルキヤンさんは、小さく頭を下げて、運河沿いの道を歩いていった。
灰色の外套の裾が、水路の風に揺れていた。
◇
昼すぎ、橋のたもとの劇場へ行った。
ちょうど、昼の芝居が終わったところだった。扉から、客が、ぞろぞろと出てきた。笑っている人もいた。目元を拭いている人もいた。
僕たちは、人の流れが途切れるのを、橋の上で待った。ロノヴァは、欄干の石に、手袋の手を置いていた。
最後の客が出ていったあとで、中へ入った。
劇場の中は、薄暗かった。
客席が、舞台に向かって、ゆるく下っていた。赤い布を張った椅子が並んでいた。布は、ところどころ擦り切れて、色が抜けていた。舞台の上には、海の絵を描いた幕が下がっていた。裏方の人たちが、小道具を片づけていた。
古い木と、埃と、誰かの香水の匂いがした。
舞台の幕の海には、波が、白い線で描いてあった。稲妻の島の、灯りを流した夜の海を、思い出した。
はじめて入る劇場だった。
ロノヴァは、入口のところで、しばらく立ち止まっていた。
客席を、見ていた。
何を見ているのか、僕には分からなかった。空っぽの椅子を見ているのかもしれなかった。空っぽになる前の椅子を、見ているのかもしれなかった。
「……ロノヴァ」
「……ああ」
ロノヴァは、歩きだした。
ルキヤンさんは、客席の中ほどに座っていた。
膝の上に、あの革の帳簿を載せていた。ひらいてはいなかった。
僕たちに気づくと、立ち上がって、小さく頭を下げた。
「来てくださって、ありがとうございます」
ロノヴァは、ルキヤンさんのふたつ前の列に座った。通路側の、端の席だった。ルキヤンさんのほうへ、体を、わずかに向けて。
僕は、ロノヴァの隣に座った。
客席の、ずっと後ろのほうにも、ひとり、人が残っていた。帽子を膝に載せて、舞台の幕を、ぼんやり眺めていた。芝居の余韻に、浸っているのだと思った。
裏方の人たちが、最後の小道具を運び出していった。舞台の袖の扉が、閉まった。
しんとした。
「……話す」
ロノヴァが、言った。
ルキヤンさんは、帳簿を、膝の上で押さえた。
「あの日、わたしは、皇都の劇場で、死の呪いを放った」
ロノヴァの声は、平らだった。
帳面を、読み上げるときの声だった。
「客席にいた者も、舞台の上にいた者も、裏にいた者も。みな、そこで、終わった」
ルキヤンさんは、動かなかった。
「終わった者たちは、吹雪に閉ざされた劇場の中にいた。そう、見えていたはずだ。……本当は、終わりのあとの場所だった」
ロノヴァは、舞台の幕を見ていた。
「わたしは、そこへ入った。閉じこめられた者のひとりの姿を借りて。……毎日、ふたりずつ、終わらせた」
毎日、ふたりずつ。
ルキヤンさんの妹が言っていたという言葉と、同じだった。
「最後の日に、見破られた。姿を、壊された。……それで、みな、目を覚ました。こちらでは、ほんの少しのあいだのことだった」
ルキヤンさんが、口をひらいた。
「……なぜ、終わらせて、戻したのです」
「取り決めが、あった」
ロノヴァは、言った。
「空の上の目が離れているあいだに、終わらせて、戻す。そうすれば、罪にはならない。……そういう、取り決めだった」
「では、妹は」
ルキヤンさんの声が、少しだけ、揺れた。
「罪にならないように、死なされたのですね」
「……そうだ」
ロノヴァは、目をそらさなかった。
ルキヤンさんは、帳簿の表紙を、指でなぞっていた。何度も、同じところを。
「……妹の名は、ナジェージダといいます」
「記録した」
ロノヴァは、言った。
「……覚えては、いない」
その言葉を、僕は、前にも聞いた。
あの冬、あの家で。おばあちゃんの、ことで。
稲妻の島でも、聞いた。
ルキヤンさんは、しばらく、目を閉じていた。
「戻ったからといって」
ロノヴァが、言った。
「終わらせたことは、消えない」
ルキヤンさんが、目を開けた。
「わたしの帳面には、あの日の頁が、ある。何十もの糸が、同じ刻に途切れた頁だ。そのあとに、同じ糸が、また続いている頁も、ある。……続いたからといって、途切れた頁が、なくなるわけではない」
ロノヴァは、手袋の手を、膝の上で重ねた。
「書いた頁は、消えない。……わたしは、消さない」
僕は、ロノヴァの横顔を見ていた。
戻ってきたのだから、よかった。——そう言ってしまえたら、簡単だった。ゆうべ、天井を見ながら、何度か、そう思いかけた。
でも、ルキヤンさんの妹は、今も、夜中に目を覚ます。吹雪の音がする、と言って。
戻ってきた人も、覚えている。
戻ってこない獣のことを、僕は、覚えている。罠にかかった兎の、あたたかさ。首を折るときの、手ごたえ。ありがとう、と言っても、兎は戻らない。言ったから消えるわけでも、ない。
それでも、言う。おばあちゃんが、そう教えた。
ロノヴァの言っていることは、たぶん、それと、少し似ていた。
消えないことを、消えないまま、持っていく。
僕は、何も言わなかった。
言わないで、ロノヴァの重ねた手袋の上に、自分の手を、そっと置いた。
ロノヴァは、手を引かなかった。
ルキヤンさんは、長いあいだ、黙っていた。
それから、帳簿を、ひらいた。
何も書かなかった。ひらいた頁を、じっと見ていた。
「……私は、あなたに、何を言ってほしかったのでしょうね」
帳簿に目を落としたまま、そう言った。
「すまなかった、と言われたら、帳尻が合うと思っていたのかもしれません。……けれど、あなたは、それを言いませんでした。代わりに、消さない、と言いました」
帳簿が、閉じられた。
「どちらが重いのか、私には、まだ、分かりません」
閉じた帳簿を、膝の上で、両手で押さえていた。何かが飛んでいってしまわないように、押さえているみたいだった。
◇
「……失礼」
後ろから、声がした。
振り返ると、客席のずっと後ろにいたあの人が、通路に立っていた。
女の人だった。白い髪に、淡い青の筋が混じっていた。目は青くて、右と左で、少しずつ色が違っていた。膝に載せていた帽子を、手に提げていた。
「盗み聞きするつもりはなかったんだ。本当だよ。……でも、劇場っていうのは、声がよく響くようにできてるからね」
その人は、少し肩をすくめた。
僕と同じくらいか、少し下に見えた。
「僕も、長いこと、舞台に立ってたんだ。……ひとつの役を、ずっとね」
「役者さん、ですか」
僕が聞くと、その人は、ちょっと目を丸くして、それから笑った。
「まあ、そんなところさ」
その人は、ロノヴァを見た。
ロノヴァも、その人を見ていた。
ウェンティのときとも、紫の髪の人のときとも、違った。空気は、張りつめていなかった。ロノヴァは、ただ、じっと見ていた。何かを、確かめるように。
「キミも、何かの役を、降りたんだろう?」
その人は、言った。
「さっきの話を聞いてたら、なんとなく、そう思った。……違ったら、ごめんよ」
ロノヴァは、答えなかった。
その人は、答えを待たなかった。
「ひとつだけ、先輩として言っておくよ」
その人は、帽子を、頭に載せた。
「役を降りたあとのほうが、ずっと長く感じるんだ。……幕が下りてからのほうがね。拍手も、台本も、ない。自分で、台詞を考えなきゃいけない」
それから、ふっと笑った。
「でも、悪くないよ。ケーキを、誰の目も気にしないで食べられる」
ロノヴァが、口をひらいた。
「……お前の台詞は、書いておく」
その人は、目を丸くして、それから、声を立てて笑った。
「光栄だね」
その人は、通路を、出口のほうへ歩いていった。
途中で、ルキヤンさんの席の横を通るとき、帽子のつばに、そっと指をかけて、小さく会釈した。ルキヤンさんも、黙って、頭を下げた。
扉の前で、一度だけ振り返って、ひらひらと手を振った。
扉が、閉まった。
「……今の人、知り合い?」
僕は、小さく聞いた。
「……いや」
ロノヴァは、閉まった扉を見ていた。
「人だ」
それだけ、言った。
どういう意味なのか、分からなかった。人なのは、見れば分かる。
でも、ロノヴァは、あの人を、お前、と呼んだ。長いこと、ひとつの役をしてきた人なのに。
昔から、長く何かを続けてきた人に使う話し方。稲妻で、僕は、そう思った。それも、違ったのかもしれない。
それが、どういうことなのかも、僕には、分からなかった。
◇
劇場を出ると、夕方だった。
橋の上で、ルキヤンさんが、足を止めた。
「報告書は、まだ、書きません」
ルキヤンさんは、言った。
「確かめることが、もうひとつ、残っています。……帳面の、合わないところが、ひとつ」
「……何を、確かめる」
「それは、確かめてから、お話しします」
ルキヤンさんは、運河の向こうを見た。
「あなたがたは、港から、ナタへ渡るのでしょう。残っている国は、もう、そこだけですから」
僕は、ロノヴァを見た。ロノヴァは、何も言わなかった。
「ナタで、もう一度、お会いします」
ルキヤンさんは、小さく頭を下げた。
それから、ためらうように、言った。
「……トイヴォさん。今朝、宿の台所から、甘い匂いがしていました」
「あ、はい。牛の乳で、米を煮たんです」
「妹が、子どものころ、熱を出すと、母がそれを作りました」
それ以上は、何も言わなかった。
背を向けて、橋を渡っていった。
宿に戻って、夕飯のあとで、ロノヴァが言った。
「……明日、発つ」
「五晩じゃ、なかったの」
「……頁は、ひらいた」
ロノヴァは、それだけ言った。
僕は、うなずいた。五晩と決めた町を、三晩で発つ。それでいいと、思った。
◇
次の朝、宿の主人が、小舟を出してくれた。
「港まで、水路で行けば、半日だ。歩くより、ずっと早い」
ロノヴァは、舳先に座った。
舟は、水路を、ゆっくり滑っていった。石の橋を、いくつもくぐった。水の上には、何も残らなかった。舟の通ったあとの波も、すぐに、静かになった。
ロノヴァは、舳先から、ずっと、後ろの水を見ていた。何も残らない水を。
その横顔が、どこか、ほどけているように見えた。
町の外れの、最後の橋に近づいたとき、雨が降りだした。
細かい雨だった。水路の面に、小さな輪が、いくつも、いくつも、ひらいた。
橋の上に、男の人が、ひとり、立っていた。
背の高い人だった。長い白い髪が、背中まで垂れていた。両脇に、ひと筋ずつ、青い色が混じっていた。傘は、差していなかった。髪も、肩も、雨に濡れていた。それを、気にしているようには見えなかった。
その人は、水路を見下ろしていた。
舟を。
舳先の、ロノヴァを。
ロノヴァが、顔を上げた。
二人とも、何も言わなかった。
ウェンティのときとも、紫の髪の人のときとも、違った。空気は、張りつめてもいなかったし、ゆるんでもいなかった。雨の音だけが、していた。
舟は、橋の下をくぐった。
石の暗がりを抜けて、振り返ったとき、橋の上には、もう、誰もいなかった。
雨が、やんでいた。
水路の面の輪が、ひとつずつ、消えていった。
ロノヴァは、しばらく、橋のほうを見ていた。それから、また、後ろの水を見た。
僕は、何も聞かなかった。聞いても、ロノヴァは、たぶん、何も言わない気がした。
雨に濡れるのが好きな人も、いるのだろうと思った。
港の役所に、手紙が一通、留め置かれていた。
北から来た猟師の、トイヴォ宛て。
ハヤートさんの字だった。細かくて、少し右に傾いた字だった。
——鉢の根元から、芽が出た。小さいのが、ふたつ。
——君の言ったとおりだった。学者のくせに、少し驚いた。
——北の書庫には、手紙を出した。返事が来たら、また書く。
僕は、それを、声に出して読んだ。
ロノヴァは、黙って聞いていた。
芽が出た、のところで、ロノヴァの手袋の指が、少しだけ、動いた。
ナタ行きの船の席を、役所で買った。係の人が、乗船の帳面に書きこんだ。
——トイヴォ。スネージナヤ。猟師。同行者一名。
ルキヤンさんが、指を折って読み上げた行だった。どこの港でも、同じ行だった。
船は、日の傾くころに出た。
甲板で、僕は、帳面をひらいた。
——フォンテーヌ。運河の町。牛の乳の粥。熱を出した子どもの、ごはん。
——劇場。書いた頁は、消えない。
——ハヤートさんの鉢に、芽がふたつ。
書いてから、少し考えて、もう一行、足した。
——消えない頁のあとにも、頁は、書ける。
ロノヴァが、隣で、帳面をのぞいていた。
「……それは、料理ではない」
「うん。でも、書いておきたかったんだ」
ロノヴァは、何も言わなかった。
船の行く先には、まだ、海しか見えなかった。その向こうに、火の国がある。
お読みいただきありがとうございました。
これでフォンテーヌ編はおしまいです。次回、第12話「留まりすぎた村」はロノヴァ視点でお送りします。いよいよナタに入ります。