※第二部「旅路編」の第12話です。今回からナタ編です。
※旅の途中の村や人物、料理には、作中の創作を含みます。
※今回はロノヴァ視点です。
フォンテーヌからの船は、五日かかった。島の老婆の梅の壺は、三日目の朝に、最後のひとつを使いきった。
ナタの港に下りたとたん、熱が、足の裏から上ってきた。
赤い土だった。岩も、赤かった。遠くの山の頂から、細い煙が上がっていた。空気が乾いていて、どこかで、硫黄の匂いがした。
港には、大きなとかげのような獣が、何頭もつながれていた。人を背に乗せ、荷を運ぶ獣だった。トイヴォは、口を開けて、それを見上げていた。
わたしは、糸を数えようとした。
数える前に、止まった。
港を見下ろす崖の上に、糸がひとつ、立っていた。
燃えていた。
人の糸の形をしていた。けれど、太さも、熱も、人のものではなかった。燃えさかる火の芯のような糸だった。
その糸が、崖を下りてきた。
背の高い女だった。
長い髪が、炎の色をしていた。毛先が、燠火のように、ちらちらと光っていた。女が歩くと、足もとの空気が、揺らいだ。
港の人々が、女に気づいて、道をあけた。頭を下げる者もいた。女は、それに片手で応えながら、まっすぐ、わたしのほうへ来た。
わたしから、十歩のところで、止まった。
「……来ると思っていた」
女は、言った。
低い、よく通る声だった。
「この国の空に、あれが立った。……それから、黒く枯れた輪の噂が、国をひとつずつ渡ってきた。いずれ、この国の土も踏むだろうとな」
トイヴォが、わたしと女の顔を、交互に見た。
「……きみの命を、取り立てに来たのではない」
わたしは、言った。
きみ。トイヴォの肩が、少しだけ動いた。
「取り立てられるものなら、あのとき、取っていただろう」
女は、言った。
「あのとき、私の命のかわりに、別の者が払った。……忘れたとは、言わせない」
「忘れていない」
「君たちは、この国を、道具のように扱ってきた。使って、要らなくなれば、捨てる。……私は、それを許していない。今も」
「……そうだ」
わたしは、目をそらさなかった。
女は、しばらく、わたしを見ていた。わたしの足もとの、赤い土も見た。港の石畳の継ぎ目から生えた草が、ひと株、黒く縮れていた。
「三晩だ」
女は、言った。
「三晩のうちに、この国を出ろ。それ以上は、許さない」
「……分かった」
女は、トイヴォに目をやった。
トイヴォは、背中の鍋の紐を、握りしめていた。
女は、何も言わなかった。背を向けて、崖の道を上っていった。燃える糸が、遠ざかっていった。
港の熱が、少しだけ、下がった気がした。
「……今の人、すごく、偉い人みたいだった」
トイヴォが、小さく言った。
「みんな、頭、下げてた」
「……この国の、火の番のような者だ」
「ロノヴァ、あの人に、何か借りがあるの?」
わたしは、少し考えた。
「……貸し借りでは、ない」
トイヴォは、それ以上、聞かなかった。
◇
西の港までは、山道を二日。そこから出る船に乗れば、三晩のうちに、この国を出られる。港の者に、そう聞いた。
一日目の夜は、港の外れの岩場で過ごした。
二日目の昼、山道を上っていく途中で、それを見た。
谷の向こうの斜面が、えぐれていた。
山の肌が、ひと筋、大きく剝がれて、下の村の上に、のしかかっていた。赤い土と、岩と、根こそぎになった木。その下に、家の屋根が、いくつも半分埋まっていた。
人の声がした。叫ぶ声と、泣く声と、名前を呼ぶ声。
「崖崩れだ」
トイヴォが、言った。
もう、走りだしていた。
村に下りると、村の者たちが、素手で土を掻いていた。
わたしは、崩れた斜面の縁に立った。
土の下の、糸を見た。
埋まった家の中に、糸があった。途切れた糸も、あった。途切れかけの糸も、あった。まだ、太いままの糸も。
わたしは、言った。
「……そこだ」
村の者たちが、振り向いた。
「その屋根の下。左の、柱の陰に、ふたり。まだ、生きている。右の、梁の下は……」
右の梁の下の糸は、もう、途切れていた。
「……右は、あとでいい。左を、先に掘れ」
村の男のひとりが、わたしを見た。長い手袋と、長い白い髪と、わたしの目を見た。
何か言いかけた。
トイヴォが、その男の腕をつかんだ。
「お願いです。この人の言うところを、掘ってください」
男は、トイヴォを見て、それから、左の柱の陰を掘りはじめた。
夕方までに、七人を、土の下から出した。
そのうち五人は、生きていた。
わたしの言ったところから、出てきた。
日が落ちてから、わたしは、村の糸を数えた。
山と、畑と、人と、竜。命の濃い村だった。
「……二晩」
あの女の三晩と、同じ朝に、切れる。
◇
村の長老の家が、怪我人でいっぱいになった。
村の薬師は、ひとりしかいなかった。背の曲がった女だった。薬草を煎じ、骨を継ぎ、傷を縫った。手が、足りていなかった。
わたしは、長老の家には入らなかった。
家から少し離れた、岩の上に座った。岩の上では、何も黒くならない。そこからでも、家の中の糸は、見えた。
わたしの輪は、この家にも届く。届いても、一晩の細りより、手当ての遅れのほうが、速く糸を切る。
十二本の糸が、細っていた。
そのうちの三本が、ほかより速く、細っていた。
わたしは、トイヴォを呼んだ。
「奥の、窓の下の男。それから、入口から二番目の、女の子。……いちばん奥の、年寄り。この三人が、先だ」
トイヴォは、薬師のところへ走っていった。
薬師は、トイヴォの顔を見て、それから、窓の外の、岩の上のわたしを見た。
長いあいだ、見ていた。
それから、窓の下の男の傷を、ひらきはじめた。
トイヴォは、村の台所に立った。
村の女たちに教わって、とうもろこしの粉を、湯で溶いて、煮た。どろりとした、黄色い粥だった。熱い石で焼いた唐辛子を、ひとかけ、落とす。この国の、力をつける飯だという。
トイヴォは、それを、怪我人のひとりひとりに運んだ。匙を持てない者には、口もとまで運んだ。
夜になっても、台所の火は、消えなかった。
三晩目の夕方、薬師が、岩の下に来た。
手に、湯気の立つ器を持っていた。トイヴォの、とうもろこしの粥だった。
「あの子が、あんたに持っていけってさ」
薬師は、器を岩の上に置いた。それから、わたしを見上げた。
「あんた、何が見えてるんだい」
「……糸だ」
「糸」
「命の。……細っていくのが、見える」
薬師は、しばらく黙っていた。
「気味の悪い目だね」
それから、言った。
「でも、あんたが先にと言った三人は、三人とも、まだ息をしてる。……あたしの目じゃ、あの年寄りは、後回しにしてた」
薬師は、曲がった背を、少しだけ伸ばした。
「礼は、言わないよ。あたしの仕事を取られたみたいで、癪だからね」
そう言って、長老の家へ戻っていった。
わたしは、粥をすすった。
舌の先が、焼けるようだった。それから、とうもろこしの甘さが、追いかけてきた。
三晩目の夜。
わたしは、岩の上から、長老の家を見ていた。
窓の下の男の糸は、太さを取り戻していた。いちばん奥の年寄りの糸も、細るのをやめていた。
入口から二番目の、女の子の糸だけが、まだ、揺れていた。
細っては、戻り、また細る。熱が、下がらないのだと、薬師が言っていた。今夜が山だ、とも。
明日の朝には、発たなければならない。わたしが数えた二晩も、あの女の三晩も、明日の朝で切れる。
三晩だ、と、あの女は言った。
わたしは、分かった、と答えた。
女の子の糸が、揺れていた。
トイヴォが、台所から出てきて、岩の下に立った。
「ロノヴァ。……あの子、どう」
わたしは、女の子の糸を見ていた。
それから、言った。
「……もう少し、留まる」
トイヴォが、目を丸くした。
わたしが、それを言うのは、初めてだった。
三晩でも、五晩でも、一晩でも。わたしは、いつも、発つ日を数えてきた。留まる日を、数えたことはなかった。
「あの子の糸が、落ち着くまで。……それから、発つ」
トイヴォは、しばらく、わたしを見ていた。
それから、笑った。
「うん」
それだけ言って、台所へ戻っていった。
◇
四日目の明け方、女の子の熱が、下がった。糸の揺れが、小さくなった。
けれど、まだ、細かった。
その夜、崖の上に、あの燃える糸が、来ていた。
夜のあいだ、ずっと、そこにあった。下りてはこなかった。
わたしは、そちらを見なかった。見なくても、崖の上が熱いのは、分かった。
四晩目が明けた朝、わたしは、トイヴォの糸を見た。
夜のあいだに、細っていた。
髪一本の、半分。——ではなかった。
半分と、少し。
朝の粥のあとで、戻った。半分だけ。
少しが、残った。
わたしは、帳面をひらいた。
——トイヴォの糸。半分と、少し。戻ったのは、半分。
書いてから、村の糸を見渡した。
長老の家のまわりの草が、黒くなっていた。わたしの座っている岩のまわりから、輪を描くように。雨林ほどではない。けれど、雪原より、ずっと速かった。
そして、輪の中の黒が、濃くなっていた。
広がるだけでは、なかった。
命の濃い土地では、留まった晩が重なるほど、輪は、深くなる。
あの家では、春と夏をかけても、輪は広がるだけで、深くはならなかった。細るものが、少なかったからだ。
ここは、違う。
トイヴォは、その輪の、真ん中にいた。台所と、長老の家を、行き来していた。ほとんど、眠っていなかった。
輪の中には、十二本の糸も、あった。
五晩目が明けた朝。
女の子が、はじめて、粥を自分で食べた。
トイヴォが、それを、わたしに言いに来た。岩の下で、嬉しそうに、両手を振りまわして話した。目の下が、黒かった。
「ロノヴァのおかげだよ」
「……お前の、粥だ」
「ロノヴァが、先に見つけたからだよ」
わたしは、答えなかった。
トイヴォの糸を、見ていた。
夜のあいだに、細っていた。
髪一本の、三分の二。
朝の粥で、戻ったのは、半分。
——トイヴォの糸。三分の二。戻ったのは、半分。
——戻りきらない。
稲妻へ渡る船の上で、わたしは、戻りが足りない、と書いた。食べたぶんしか、戻らない、と。
あのときは、食べられなかったからだ。
今は、食べている。食べているのに、戻りきらない。
足りないのは、粥ではなかった。
わたしが、ここに、いることだった。
明日の朝、発つ。
わたしは、そう決めた。
女の子の糸は、もう、揺れていなかった。発っても、大丈夫だった。
夜、わたしは、岩の上で、帳面をひらいた。
——ナタ。山あいの村。崖崩れ。
——掘り出したのは、七人。生きていたのは、五人。
——長老の家。十二人。三人を、先に。三人とも、生きている。
——生かす者の欄。
そこに、女の子の名を、書いた。トイヴォに聞いた名だった。窓の下の男の名も。いちばん奥の年寄りの名も。
書き終えて、頁を閉じた。
明日の朝、トイヴォに、発つと言う。
トイヴォは、きっと、うなずく。
◇
七日目の朝。
トイヴォは、台所の鍋の前に立っていた。
とうもろこしの粥を、かき混ぜていた。
わたしは、岩の上から、それを見ていた。
「……おはよう、ロノヴァ」
トイヴォが、台所の戸口から、こちらへ言った。
いつもより、声が小さかった。
「……おはよう」
わたしが返すと、トイヴォは、少し笑った。
それから、鍋の前に戻ろうとして、
膝から、崩れた。
木の匙が、土間に転がった。
わたしは、岩を下りていた。
いつ下りたのか、覚えていない。
台所の戸口で、トイヴォを抱き起こした。手袋の手で。
体が、熱かった。汗をかいていた。目は、半分ひらいていた。
「……ごめん。ちょっと、目が、回って」
トイヴォの糸を、見た。
細かった。
この旅で見た中で、いちばん、細かった。
薬師が、走ってきた。トイヴォの額に手を当てて、脈を取って、眉を寄せた。
「疲れだね。何日も、寝てないだろう。熱もある。……寝かせておけば、戻るよ」
薬師は、そう言った。
わたしは、答えなかった。
疲れだけでは、なかった。
それを知っているのは、わたしだけだった。
トイヴォは、長老の家の隅に、寝かされた。
わたしは、家には入らなかった。戸口の外に、立っていた。
昼になっても、トイヴォは、目を覚まさなかった。
目を覚ましたら、発つと言うつもりだった。言ってから、発つつもりだった。
夜になっても、覚まさなかった。
糸は、戻らなかった。食べていないのだから、戻らない。夜が来れば、また細る。わたしが、ここにいるかぎり。
待てば待つほど、細る。
わたしは、それを、知っていた。
あの冬にも、知っていた。わたしのそばでは、命が細る。
あの冬、わたしは、それで、あの家を出た。
そして、湖で、トイヴォに、見つけられた。
終わらせないために、離れる。
同じことを、また、する。
あの冬と違うのは、わたしが、それを、嘘にしないことだけだった。
夜更け。
わたしは、長老の家の戸口に、そっと入った。
トイヴォは、眠っていた。額に、濡れた布が載っていた。寝息は、浅かった。
枕もとに、トイヴォの帳面が置いてあった。
わたしは、それをひらかなかった。
自分の帳面の、白い頁を、一枚、破った。
揃わない字で、書いた。
——食べろ。
それだけ書いて、帳面の上に、載せた。
トイヴォの顔を、しばらく、見ていた。
「……おやすみ」
声に出して、言った。
トイヴォは、目を覚まさなかった。
わたしは、戸口を出た。
村の外れの、黒い輪の縁を越えた。振り返らずに、歩いた。振り返れば、糸が見えてしまうからだ。
半日歩く先まで、見えてしまうからだ。
お読みいただきありがとうございました。
ナタ編に入りました。次回、第13話「一人分の燕麦」はトイヴォ視点でお送りします。