死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※第二部「旅路編」の第13話です。
※旅の途中の村や人物、料理には、作中の創作を含みます。
※今回はトイヴォ視点です。


旅路編 第13話 一人分の燕麦

 目を覚ますと、天井が、知らない木だった。

 太い梁に、乾いたとうもろこしの束が吊るしてあった。窓から、朝の光が斜めに入っていた。どこかで、鍋の煮える音がした。

 長老の家だ、と思い出した。

 台所で、目が回ったところまでは、覚えていた。そのあとは、覚えていなかった。

 体を起こそうとして、腕に力が入らなかった。頭の奥が、ぼんやりと熱かった。

 枕もとに、僕の帳面が置いてあった。

 その上に、紙が一枚、載っていた。おばあちゃんの取引帳面から、破った頁だった。

 ——食べろ。

 揃わない字だった。

 一文字目が大きくて、最後の字が、小さく傾いていた。稲妻の島で、おばあちゃんの灯籠に書いてもらった字と、同じだった。

 僕は、紙を持ったまま、窓の外を見た。

 岩の上に、誰もいなかった。

 この何日か、あの岩の上には、いつも、白い髪が見えていたのに。

 

「起きたかい」

 薬師のおばあさんが、湯気の立つ器を持って、そばに来た。

「丸一日、寝てたよ。熱は、だいぶ下がった」

「……ロノヴァは」

 聞いてから、声が、かすれているのに気づいた。

 薬師は、器を、僕の枕もとに置いた。

「夜のうちに、出ていったよ。あんたが寝てるあいだに」

 それだけ言って、少し黙った。

「村の外れから、西へ、黒い筋が続いてる。草が、細く枯れてる。……たぶん、あの人の歩いたあとだろうね」

 薬師は、戸口のほうを顎で示した。

「あんたが倒れてから、あの人は、一日じゅう、そこに立ってたよ。昼も、夜も。飲まず食わずで。……あたしが見てたあいだは、中には、一歩も入ってこなかった」

 戸口の外の土が、そこだけ、少し黒くなっていた。

 僕は、起き上がろうとした。

 薬師の手が、僕の肩を、寝台に押し戻した。背の曲がった人とは思えない力だった。

「今のあんたが追いかけたって、途中で倒れるだけさ」

「でも」

「その紙に、なんて書いてある」

 僕は、紙を見た。

 ——食べろ。

「……食べろ、です」

「なら、食べな」

 薬師は、器を、僕の手に押しつけた。

 とうもろこしの粥だった。僕が、村の女の人たちに教わって、ここ何日か、炊き続けていた粥だった。

 ひと口、すすった。

 舌の先が、焼けるようだった。

 涙が出たのは、たぶん、唐辛子のせいだった。

 食べ終えて、器を返しに、外の台所まで行こうとした。台所の戸口で、足がもつれた。

 戸口につかまったとき、棚の端が見えた。

 木の器が、ひとつ、伏せて置いてあった。

 旅のあいだ、ロノヴァのぶんをよそってきた、木の器だった。

 置いていったのだと、思った。

 おばあちゃんの帳面は持っていって、器は置いていった。

 薬師に、また寝台へ戻された。

 

   ◇

 

 その日のうちに、少し、体が軽くなった。

 次の日の朝には、もっと、軽くなった。

 入口から二番目に寝ていた女の子が、僕の寝台のそばに来て、座った。崖崩れの日に、熱を出していた子だった。もう、自分で歩いていた。

「料理番のお兄ちゃん、元気になった?」

「うん。昨日より」

「あの、白い髪の人は?」

「……先に、行っちゃった」

「ふうん」

 女の子は、足をぶらぶらさせた。

「あの人、岩の上から、ずっとこっち見てたよ。夜も。怖い目だったけど、あたし、あんまり怖くなかった」

「どうして?」

「だって、見てるだけだったもん。なんにも、しなかったもん」

 僕は、女の子の頭を、そっと撫でた。

 その日の夕方、帳面をひらいた。

 ——ナタ。山あいの村。とうもろこしの粉を、湯で溶いて煮る。焼いた唐辛子を、ひとかけ。

 ——力をつける、ごはん。

 書いてから、ロノヴァの紙を、その頁に挟んだ。

 ——食べろ。

 料理の帳面に、ちょうどいい言葉だと思った。

 

 その夜、僕は、こっそり寝台を抜け出した。

 長老の家の外に出て、あの岩まで歩いた。ロノヴァが、毎晩座っていた岩だった。

 昼の熱が、まだ、岩に残っていた。

 岩のまわりの草が、黒く枯れていた。ぐるりと、輪を描いて。村の端で見たどの黒より、濃かった。

 ロノヴァは、ここに座って、毎晩、数えていたのだ。村の糸と、僕の糸を。細って、戻りきらない糸を。

 僕は、岩の上に座った。

 ロノヴァの座っていたところに。

 村の灯りが、ひとつ、またひとつ、消えていった。

 明け方まで、そこにいた。

 東の空が白んだとき、僕は、誰もいない岩の隣に向かって、言った。

「……おはよう」

 返事は、なかった。

 あの冬にも、こうだった。誰もいない部屋に、おはようを言った。

 今朝で、いくつめになるのか、僕は知らない。数えていたのは、ロノヴァだけだった。

 

 日ごとに、体が戻っていった。

 熱が下がった。腕に、力が戻った。目が回らなくなった。

 戻っていく理由が、僕には分かっていた。

 ロノヴァが、いないからだ。

 あの冬、ロノヴァは言った。わたしのそばでは、命が細る、と。この旅で、ロノヴァは毎晩、僕の糸を帳面につけていた。細って、戻る。細って、戻る。戻りが、足りない。

 僕には、自分の糸は見えない。

 でも、分かった。朝、目が覚めるたびに、体が軽くなっていることで。

 それが、少しも、嬉しくなかった。

 

   ◇

 

 目を覚ましてから三日目の昼、村が、ざわついた。

 窓の外を、村の人たちが、走っていった。誰かが、頭を下げていた。

 戸口に、背の高い女の人が立っていた。

 港で会った、あの女の人だった。炎の色の髪の、みんなが頭を下げていた人。

 港で、ロノヴァは、この人に、きみ、と言った。五人目だった。

 その人が入ってくると、長老の家の中の空気が、少しだけ、熱くなった。

 女の人は、寝台のそばまで来て、僕を見下ろした。

「……君が、あれの連れか」

「はい」

 僕は、体を起こした。今度は、ちゃんと起こせた。

「三晩と言ったはずだ」

 女の人は、言った。

「あれは、三晩を過ぎても、この村に留まった。……私は、それを見ていた」

「僕が、引き止めたんです」

 言ってから、それが半分しか本当じゃないことに、気づいた。

 女の人は、眉を少しだけ上げた。

「あれが自分から留まると言ったと、君が嬉しそうに話していたと、薬師から聞いた」

「……はい」

 僕は、膝の上の、ロノヴァの紙を握った。

「でも、僕は、止めませんでした。嬉しかったから」

 女の人は、しばらく、黙っていた。

「君は、あれが何なのか、知っているのか」

 スメールでも、同じことを聞かれた。去年の冬にも。

「知ってます」

 僕は、言った。

「僕の家で、粥を食べてた人です」

 女の人の目が、少しだけ、細くなった。

 

「崖崩れの日」

 僕は、言った。

「あの人は、土の下の、どこに人がいるか、見えたんです。村の人に、そこを掘れって言いました。七人、掘り出して、五人、生きてました。……あの人が言ったところから、出てきました」

 女の人は、何も言わなかった。

「長老の家に、怪我をした人が十二人いました。あの人は、中には入らないで、岩の上から見てました。それで、先に手当てしなきゃいけない三人を、薬師さんに教えました。三人とも、生きてます」

 僕は、入口のほうを見た。女の子が、戸口の陰から、こっちをのぞいていた。

「あの子も、そのひとりです」

 女の人は、女の子を見た。

 女の子は、ぴょこんと頭を下げて、逃げていった。

「それから、夜は、ずっと岩の上にいました。僕の粥を、食べてました。……それだけです」

 しばらく、誰も、何も言わなかった。

 外の台所で、鍋が、ことこと鳴っていた。

 

「私は、あれを許していない」

 女の人は、言った。

「この国を、道具にしてきた者のひとりとして。……それは、変わらない」

「はい」

「だが」

 女の人は、窓の外の、あの岩を見た。誰もいない岩を。

「この村の五人が、土の下から出てきたのも、事実だ」

 許す、とも、許さない、とも、言い直さなかった。

 ただ、聞いていた。僕が話したことを、全部。

「……あの人と、昔、何があったんですか」

 僕は、聞いた。

 港で、命を取り立てに来たのではない、とロノヴァは言った。この人は、別の者が払った、と言った。

 女の人は、少しのあいだ、黙っていた。

「昔、私は、あれと取引をした。……代価を払ったのは、私ではなかった」

「……」

「君が、知る必要はない。あれとのことは、私と、あれのあいだのことだ」

 女の人は、それ以上、話さなかった。

 僕も、それ以上、聞かなかった。

「体が戻ったら、どうする」

「追いかけます」

 女の人は、僕の顔を見た。

 長いあいだ、見ていた。

「……そうか」

 それだけ言って、女の人は、戸口へ歩いていった。

 戸口で、一度だけ、足を止めた。

「西の岩場は、日中、ひどく暑い。水を、多めに持っていけ」

 振り返らずに、そう言った。

 それから、出ていった。

 家の中の空気が、少しだけ、冷えた。

 あの女の人は、ロノヴァを許していない。でも、最後まで、聞いてくれた。

 それは、許すのとは違う。けれど、聞かないのとも、違う気がした。

 

   ◇

 

 四日目の朝、僕は、寝台から下りた。

 足が、ちゃんと床を踏んだ。目も、回らなかった。

 台所を借りた。

 背負い袋から、燕麦の袋を出した。雪の国を出るときに、詰めてきた燕麦だった。どこの国でも、馬の餌だと言われた燕麦だった。とっておいて、特別な日にだけ、少しずつ使ってきた。

 今日は、特別な日だった。

 袋の口をひらいて、手のひらで、量った。

 いつものように。

 ふたり分。

 量り終えてから、気がついた。

 手のひらの上の燕麦を、しばらく、見ていた。

 あの冬にも、同じことをした。ロノヴァが出ていった次の朝、僕は、燕麦をふたり分量って、量り直せなかった。量り直さないまま、鍋に入れた。窓辺に、ロノヴァの器を置いて、冷めるまで、そのままにしておいた。

 あのとき、僕は、待っていた。

 僕は、燕麦を、量り直さなかった。

 ふたり分のまま、鍋に入れた。

 水を入れて、火にかけた。塩を、ひとつまみと、半分。煮えたら、背負い袋の底から、蜂蜜の、ふたつ目の瓶を出した。ひとつ目は、フォンテーヌで空になっていた。

 蓋を開けて、ひと匙、落とした。

 燕麦の粥の匂いが、ナタの台所に、立ちのぼった。

 あの家の、朝の匂いだった。

 様子を見に来た薬師が、鍋を覗きこんで、鼻を鳴らした。

「なんだい、それ。竜の餌かい」

「僕の国の、粥です。どこの国でも、馬の餌だって言われました」

「ナタじゃ、竜の餌だね」

 僕は、少しだけ、笑った。笑ったのは、ロノヴァがいなくなってから、初めてだった。

 鍋に、蓋をした。

 冷めないように、布で包んだ。

 棚の端の、ロノヴァの器も、布で包んで、背負い袋に入れた。

 今度は、待たない。

 

 鍋を背負って、長老の家を出ると、薬師が、戸口に立っていた。

「行くのかい」

「はい。お世話になりました」

 薬師は、小さな袋を、僕の手に押しつけた。

「とうもろこしの粉と、焼いた唐辛子さ。向こうで、あの人にも、食わせてやりな」

 女の子が、薬師の後ろから、顔を出した。

「白い髪の人に、ありがとうって、言っといて」

「……うん。言うよ」

 村の人たちが、何人か、手を振ってくれた。崖崩れの日に、土の下から出てきた人も、いた。

 僕は、村の外れまで歩いた。

 黒く枯れた輪の縁を、越えた。

 そこから、細い黒い筋が、西へ続いていた。

 赤い土の上に、草が、一本の線のように、枯れていた。

 あの冬と、同じだった。雪の上に続いていた、黒い線と。

 あのときより、ずっと、薄かった。途切れ途切れで、目を凝らさないと、見失いそうだった。

 でも、僕は、猟師だ。

 足跡を読むのは、得意だ。

 黒い筋の上に、ときどき、足跡が残っていた。歩幅が、揃っていた。迷っていない歩き方だった。

 その上に、新しい足跡が、ふたり分、重なっていた。大きいのと、少し小さいの。今朝の足跡だった。村の人のものでは、なかった。

 誰だろう、と思った。

 道の半ばあたりで、一か所だけ、足跡が、乱れていた。

 両足が、並んでいた。そこで、立ち止まったのだ。

 振り返ったのかどうかは、足跡からは、分からなかった。

 僕は、その足跡の横に、しばらく立っていた。

 それから、また、歩きだした。

 食べろって書くなら、一緒に食べてよ。

 そう言ってやろうと、思った。

 

 昼すぎ、黒い筋が、途切れた。

 赤い土が終わって、岩場が始まっていた。

 岩の上では、何も黒くならない。ロノヴァは、それを知っていて、ここへ来たのだと思った。線を、残さないために。

 でも、線が途切れたところから先に、ロノヴァはいる。

 僕は、岩場に足を踏み入れた。

 照り返しが、きつかった。あの女の人の言ったとおりだった。水筒の水を、ひと口、飲んだ。背中の鍋は、まだ、温かかった。

 岩のあいだを、上っていった。

 ひとつ、大きな岩を回りこんだところで、足が止まった。

 岩場の奥の、平らなところに、人影が見えた。

 白い髪の、背の高い人。

 それから、その前に、ふたり。

 ルキヤンさんと、ハヤートさんだった。

 どうして、ハヤートさんが、ナタに。

 あの、ふたり分の足跡だった。

 僕は、鍋の紐を、握りしめた。

 あの冬、湖の岸で、僕はロノヴァの手をつかんで、ご飯、足りてた? と聞いた。

 ロノヴァは、何も、言わなかった。

 今度は、答えを持ってきた。背中の鍋に、ふたり分。

 僕は、走りだした。




お読みいただきありがとうございました。
次回、第14話「火ひとつぶんの距離」はロノヴァ視点でお送りします。旅路編の山場です。
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