※第二部「旅路編」の第13話です。
※旅の途中の村や人物、料理には、作中の創作を含みます。
※今回はトイヴォ視点です。
目を覚ますと、天井が、知らない木だった。
太い梁に、乾いたとうもろこしの束が吊るしてあった。窓から、朝の光が斜めに入っていた。どこかで、鍋の煮える音がした。
長老の家だ、と思い出した。
台所で、目が回ったところまでは、覚えていた。そのあとは、覚えていなかった。
体を起こそうとして、腕に力が入らなかった。頭の奥が、ぼんやりと熱かった。
枕もとに、僕の帳面が置いてあった。
その上に、紙が一枚、載っていた。おばあちゃんの取引帳面から、破った頁だった。
——食べろ。
揃わない字だった。
一文字目が大きくて、最後の字が、小さく傾いていた。稲妻の島で、おばあちゃんの灯籠に書いてもらった字と、同じだった。
僕は、紙を持ったまま、窓の外を見た。
岩の上に、誰もいなかった。
この何日か、あの岩の上には、いつも、白い髪が見えていたのに。
「起きたかい」
薬師のおばあさんが、湯気の立つ器を持って、そばに来た。
「丸一日、寝てたよ。熱は、だいぶ下がった」
「……ロノヴァは」
聞いてから、声が、かすれているのに気づいた。
薬師は、器を、僕の枕もとに置いた。
「夜のうちに、出ていったよ。あんたが寝てるあいだに」
それだけ言って、少し黙った。
「村の外れから、西へ、黒い筋が続いてる。草が、細く枯れてる。……たぶん、あの人の歩いたあとだろうね」
薬師は、戸口のほうを顎で示した。
「あんたが倒れてから、あの人は、一日じゅう、そこに立ってたよ。昼も、夜も。飲まず食わずで。……あたしが見てたあいだは、中には、一歩も入ってこなかった」
戸口の外の土が、そこだけ、少し黒くなっていた。
僕は、起き上がろうとした。
薬師の手が、僕の肩を、寝台に押し戻した。背の曲がった人とは思えない力だった。
「今のあんたが追いかけたって、途中で倒れるだけさ」
「でも」
「その紙に、なんて書いてある」
僕は、紙を見た。
——食べろ。
「……食べろ、です」
「なら、食べな」
薬師は、器を、僕の手に押しつけた。
とうもろこしの粥だった。僕が、村の女の人たちに教わって、ここ何日か、炊き続けていた粥だった。
ひと口、すすった。
舌の先が、焼けるようだった。
涙が出たのは、たぶん、唐辛子のせいだった。
食べ終えて、器を返しに、外の台所まで行こうとした。台所の戸口で、足がもつれた。
戸口につかまったとき、棚の端が見えた。
木の器が、ひとつ、伏せて置いてあった。
旅のあいだ、ロノヴァのぶんをよそってきた、木の器だった。
置いていったのだと、思った。
おばあちゃんの帳面は持っていって、器は置いていった。
薬師に、また寝台へ戻された。
◇
その日のうちに、少し、体が軽くなった。
次の日の朝には、もっと、軽くなった。
入口から二番目に寝ていた女の子が、僕の寝台のそばに来て、座った。崖崩れの日に、熱を出していた子だった。もう、自分で歩いていた。
「料理番のお兄ちゃん、元気になった?」
「うん。昨日より」
「あの、白い髪の人は?」
「……先に、行っちゃった」
「ふうん」
女の子は、足をぶらぶらさせた。
「あの人、岩の上から、ずっとこっち見てたよ。夜も。怖い目だったけど、あたし、あんまり怖くなかった」
「どうして?」
「だって、見てるだけだったもん。なんにも、しなかったもん」
僕は、女の子の頭を、そっと撫でた。
その日の夕方、帳面をひらいた。
——ナタ。山あいの村。とうもろこしの粉を、湯で溶いて煮る。焼いた唐辛子を、ひとかけ。
——力をつける、ごはん。
書いてから、ロノヴァの紙を、その頁に挟んだ。
——食べろ。
料理の帳面に、ちょうどいい言葉だと思った。
その夜、僕は、こっそり寝台を抜け出した。
長老の家の外に出て、あの岩まで歩いた。ロノヴァが、毎晩座っていた岩だった。
昼の熱が、まだ、岩に残っていた。
岩のまわりの草が、黒く枯れていた。ぐるりと、輪を描いて。村の端で見たどの黒より、濃かった。
ロノヴァは、ここに座って、毎晩、数えていたのだ。村の糸と、僕の糸を。細って、戻りきらない糸を。
僕は、岩の上に座った。
ロノヴァの座っていたところに。
村の灯りが、ひとつ、またひとつ、消えていった。
明け方まで、そこにいた。
東の空が白んだとき、僕は、誰もいない岩の隣に向かって、言った。
「……おはよう」
返事は、なかった。
あの冬にも、こうだった。誰もいない部屋に、おはようを言った。
今朝で、いくつめになるのか、僕は知らない。数えていたのは、ロノヴァだけだった。
日ごとに、体が戻っていった。
熱が下がった。腕に、力が戻った。目が回らなくなった。
戻っていく理由が、僕には分かっていた。
ロノヴァが、いないからだ。
あの冬、ロノヴァは言った。わたしのそばでは、命が細る、と。この旅で、ロノヴァは毎晩、僕の糸を帳面につけていた。細って、戻る。細って、戻る。戻りが、足りない。
僕には、自分の糸は見えない。
でも、分かった。朝、目が覚めるたびに、体が軽くなっていることで。
それが、少しも、嬉しくなかった。
◇
目を覚ましてから三日目の昼、村が、ざわついた。
窓の外を、村の人たちが、走っていった。誰かが、頭を下げていた。
戸口に、背の高い女の人が立っていた。
港で会った、あの女の人だった。炎の色の髪の、みんなが頭を下げていた人。
港で、ロノヴァは、この人に、きみ、と言った。五人目だった。
その人が入ってくると、長老の家の中の空気が、少しだけ、熱くなった。
女の人は、寝台のそばまで来て、僕を見下ろした。
「……君が、あれの連れか」
「はい」
僕は、体を起こした。今度は、ちゃんと起こせた。
「三晩と言ったはずだ」
女の人は、言った。
「あれは、三晩を過ぎても、この村に留まった。……私は、それを見ていた」
「僕が、引き止めたんです」
言ってから、それが半分しか本当じゃないことに、気づいた。
女の人は、眉を少しだけ上げた。
「あれが自分から留まると言ったと、君が嬉しそうに話していたと、薬師から聞いた」
「……はい」
僕は、膝の上の、ロノヴァの紙を握った。
「でも、僕は、止めませんでした。嬉しかったから」
女の人は、しばらく、黙っていた。
「君は、あれが何なのか、知っているのか」
スメールでも、同じことを聞かれた。去年の冬にも。
「知ってます」
僕は、言った。
「僕の家で、粥を食べてた人です」
女の人の目が、少しだけ、細くなった。
「崖崩れの日」
僕は、言った。
「あの人は、土の下の、どこに人がいるか、見えたんです。村の人に、そこを掘れって言いました。七人、掘り出して、五人、生きてました。……あの人が言ったところから、出てきました」
女の人は、何も言わなかった。
「長老の家に、怪我をした人が十二人いました。あの人は、中には入らないで、岩の上から見てました。それで、先に手当てしなきゃいけない三人を、薬師さんに教えました。三人とも、生きてます」
僕は、入口のほうを見た。女の子が、戸口の陰から、こっちをのぞいていた。
「あの子も、そのひとりです」
女の人は、女の子を見た。
女の子は、ぴょこんと頭を下げて、逃げていった。
「それから、夜は、ずっと岩の上にいました。僕の粥を、食べてました。……それだけです」
しばらく、誰も、何も言わなかった。
外の台所で、鍋が、ことこと鳴っていた。
「私は、あれを許していない」
女の人は、言った。
「この国を、道具にしてきた者のひとりとして。……それは、変わらない」
「はい」
「だが」
女の人は、窓の外の、あの岩を見た。誰もいない岩を。
「この村の五人が、土の下から出てきたのも、事実だ」
許す、とも、許さない、とも、言い直さなかった。
ただ、聞いていた。僕が話したことを、全部。
「……あの人と、昔、何があったんですか」
僕は、聞いた。
港で、命を取り立てに来たのではない、とロノヴァは言った。この人は、別の者が払った、と言った。
女の人は、少しのあいだ、黙っていた。
「昔、私は、あれと取引をした。……代価を払ったのは、私ではなかった」
「……」
「君が、知る必要はない。あれとのことは、私と、あれのあいだのことだ」
女の人は、それ以上、話さなかった。
僕も、それ以上、聞かなかった。
「体が戻ったら、どうする」
「追いかけます」
女の人は、僕の顔を見た。
長いあいだ、見ていた。
「……そうか」
それだけ言って、女の人は、戸口へ歩いていった。
戸口で、一度だけ、足を止めた。
「西の岩場は、日中、ひどく暑い。水を、多めに持っていけ」
振り返らずに、そう言った。
それから、出ていった。
家の中の空気が、少しだけ、冷えた。
あの女の人は、ロノヴァを許していない。でも、最後まで、聞いてくれた。
それは、許すのとは違う。けれど、聞かないのとも、違う気がした。
◇
四日目の朝、僕は、寝台から下りた。
足が、ちゃんと床を踏んだ。目も、回らなかった。
台所を借りた。
背負い袋から、燕麦の袋を出した。雪の国を出るときに、詰めてきた燕麦だった。どこの国でも、馬の餌だと言われた燕麦だった。とっておいて、特別な日にだけ、少しずつ使ってきた。
今日は、特別な日だった。
袋の口をひらいて、手のひらで、量った。
いつものように。
ふたり分。
量り終えてから、気がついた。
手のひらの上の燕麦を、しばらく、見ていた。
あの冬にも、同じことをした。ロノヴァが出ていった次の朝、僕は、燕麦をふたり分量って、量り直せなかった。量り直さないまま、鍋に入れた。窓辺に、ロノヴァの器を置いて、冷めるまで、そのままにしておいた。
あのとき、僕は、待っていた。
僕は、燕麦を、量り直さなかった。
ふたり分のまま、鍋に入れた。
水を入れて、火にかけた。塩を、ひとつまみと、半分。煮えたら、背負い袋の底から、蜂蜜の、ふたつ目の瓶を出した。ひとつ目は、フォンテーヌで空になっていた。
蓋を開けて、ひと匙、落とした。
燕麦の粥の匂いが、ナタの台所に、立ちのぼった。
あの家の、朝の匂いだった。
様子を見に来た薬師が、鍋を覗きこんで、鼻を鳴らした。
「なんだい、それ。竜の餌かい」
「僕の国の、粥です。どこの国でも、馬の餌だって言われました」
「ナタじゃ、竜の餌だね」
僕は、少しだけ、笑った。笑ったのは、ロノヴァがいなくなってから、初めてだった。
鍋に、蓋をした。
冷めないように、布で包んだ。
棚の端の、ロノヴァの器も、布で包んで、背負い袋に入れた。
今度は、待たない。
鍋を背負って、長老の家を出ると、薬師が、戸口に立っていた。
「行くのかい」
「はい。お世話になりました」
薬師は、小さな袋を、僕の手に押しつけた。
「とうもろこしの粉と、焼いた唐辛子さ。向こうで、あの人にも、食わせてやりな」
女の子が、薬師の後ろから、顔を出した。
「白い髪の人に、ありがとうって、言っといて」
「……うん。言うよ」
村の人たちが、何人か、手を振ってくれた。崖崩れの日に、土の下から出てきた人も、いた。
僕は、村の外れまで歩いた。
黒く枯れた輪の縁を、越えた。
そこから、細い黒い筋が、西へ続いていた。
赤い土の上に、草が、一本の線のように、枯れていた。
あの冬と、同じだった。雪の上に続いていた、黒い線と。
あのときより、ずっと、薄かった。途切れ途切れで、目を凝らさないと、見失いそうだった。
でも、僕は、猟師だ。
足跡を読むのは、得意だ。
黒い筋の上に、ときどき、足跡が残っていた。歩幅が、揃っていた。迷っていない歩き方だった。
その上に、新しい足跡が、ふたり分、重なっていた。大きいのと、少し小さいの。今朝の足跡だった。村の人のものでは、なかった。
誰だろう、と思った。
道の半ばあたりで、一か所だけ、足跡が、乱れていた。
両足が、並んでいた。そこで、立ち止まったのだ。
振り返ったのかどうかは、足跡からは、分からなかった。
僕は、その足跡の横に、しばらく立っていた。
それから、また、歩きだした。
食べろって書くなら、一緒に食べてよ。
そう言ってやろうと、思った。
昼すぎ、黒い筋が、途切れた。
赤い土が終わって、岩場が始まっていた。
岩の上では、何も黒くならない。ロノヴァは、それを知っていて、ここへ来たのだと思った。線を、残さないために。
でも、線が途切れたところから先に、ロノヴァはいる。
僕は、岩場に足を踏み入れた。
照り返しが、きつかった。あの女の人の言ったとおりだった。水筒の水を、ひと口、飲んだ。背中の鍋は、まだ、温かかった。
岩のあいだを、上っていった。
ひとつ、大きな岩を回りこんだところで、足が止まった。
岩場の奥の、平らなところに、人影が見えた。
白い髪の、背の高い人。
それから、その前に、ふたり。
ルキヤンさんと、ハヤートさんだった。
どうして、ハヤートさんが、ナタに。
あの、ふたり分の足跡だった。
僕は、鍋の紐を、握りしめた。
あの冬、湖の岸で、僕はロノヴァの手をつかんで、ご飯、足りてた? と聞いた。
ロノヴァは、何も、言わなかった。
今度は、答えを持ってきた。背中の鍋に、ふたり分。
僕は、走りだした。
お読みいただきありがとうございました。
次回、第14話「火ひとつぶんの距離」はロノヴァ視点でお送りします。旅路編の山場です。