※第二部「旅路編」の第14話です。
※旅の途中の人物や料理には、作中の創作を含みます。
※今回はロノヴァ視点です。
岩の上では、何も黒くならない。
わたしは、三日、そこに座っていた。
村から、半日。岩場の奥の、平らな岩の上。昼は、岩が焼けるように熱くなった。夜は、冷えた。どちらも、わたしは、感じた。
村の糸は、ここからでも、見えた。
半日の道の、ぎりぎりの端に。
見ないつもりだった。村を出るとき、わたしは、振り返らなかった。途中で、一度だけ、足を止めた。それでも、振り返らなかった。
けれど、岩の上に座ると、見えてしまった。
トイヴォの糸が、あった。
一日目の朝、それは、細いままだった。
二日目の朝、少しだけ、戻っていた。
三日目の朝、もう少し、戻っていた。
——トイヴォの糸。戻っている。
——わたしが、いないから。
帳面に、そう書いた。三日とも、同じことを書いた。
書くたびに、字が、揃わなくなった。
三日のあいだ、わたしは、何も食べなかった。
食べなくても、この体は、すぐには終わらない。あの冬、雪の中を歩いたときも、そうだった。
ただ、朝になると、匙を持つ手の形を、指が、思い出していた。
食べろ、と書いた紙を、わたしは、トイヴォの帳面の上に置いてきた。
自分には、書かなかった。
夜になると、遠い尾根の上に、燃える糸が来た。
あの女の糸だった。
下りてはこなかった。ただ、こちらを見ていた。三晩、同じところに、あった。
三晩だ、と、あの女は言った。
わたしは、それを、破った。破って、ひとりを倒れさせた。
燃える糸は、何も言わなかった。
三日目の昼、その糸が、尾根から、村へ下りた。
トイヴォの糸のそばに、しばらく、あった。それから、また、尾根の向こうへ戻っていった。
何を話したのかは、ここからは、分からなかった。
◇
三日目の夜更け、村の外れに、糸がふたつ、来た。村には、入らなかった。
ひとつは、細く、まっすぐで、擦り切れた糸だった。
もうひとつは、細く、長く、ゆっくりな糸だった。雨林の中で、その糸だけが、雪原の糸のようだった。
四日目の夜明けに、ふたつの糸は、黒い筋をたどって、こちらへ動きだした。
わたしは、立ち上がらなかった。
昼ごろ、ふたりは、岩場を上ってきた。
灰色の外套の男。布で髪をまとめた女。
ルキヤンと、ハヤートだった。
ハヤートは、岩の下で、足を止めた。
わたしを見上げた。長いあいだ、見ていた。
「……すまない」
ハヤートが、言った。
「私の手紙が、この人を、君のところへ連れてきた」
ルキヤンが、帳簿を抱えたまま、一歩、前に出た。
「フォンテーヌの港の役所に、トイヴォさん宛ての留め置きの手紙が、一通、届いていました。差出人は、スメールの学者。……皇都の書庫にも、同じ学者から、四影についての問い合わせが届いていました。『四影』に触れる問い合わせがあれば、写しを回してもらうよう、頼んでおいたのです」
ルキヤンは、ハヤートを見た。
「帳面の、合わないところは、そこでした。港の役所で、差出人のことを調べていました。……そこへ、本人が来ました」
「北の書庫を読むのは、北の国の人間だ。出してから、気づいた」
ハヤートが、言った。
「君たちに知らせようと、フォンテーヌの港まで来たら、この人がいた」
「ナタに渡ってからは、噂をたどりました」
ルキヤンが、続けた。
「山あいの村で、崖崩れがあった。白い髪の女が、土の下の、生きている者の場所を言い当てた。……その村の外れから、西へ、黒い筋が続いていた。夜更けに着きました。戸を叩く理由は、ありませんでした。夜明けを待って、筋をたどりました」
ルキヤンは、岩場の下を見た。
「筋は、岩の手前で、途切れていました。途切れたところが、入口でした」
「書庫への手紙には、名前は書かなかった」
ハヤートが、言った。
「君のも、トイヴォのも。……でも、それだけじゃ、足りなかった。港の役所で、この人から、あの黒い輪の話を聞いたとき、分かったよ。私の書いたものが、道になったんだって」
ハヤートは、わたしを見上げていた。
「だから、ついてきた。君に、謝るために。……それと、見届けるために」
ハヤートは、少しだけ、声をやわらげた。
「鉢の芽は、みっつになったよ。出てくる前に、水をやってきた」
わたしは、ハヤートの糸を見た。
細く、長く、ゆっくりな糸だった。雨林の小屋の前で見たときと、変わらなかった。
「……書いたものは、消えない」
わたしは、言った。
「お前たちが、わたしを見つけたのなら。それも、書いたものの、続きだ」
ハヤートは、しばらく、わたしを見上げていた。
それから、少しだけ、笑った。
「……学者に向かって、それを言うかい」
ルキヤンは、帳簿を、岩の上に置いた。
「私は、報告書を書かなければなりません」
ルキヤンは、言った。
「死の執政は、北東の湖で死んだのか。死んでいないのか。……私の帳簿は、まだ、その行が、空いたままです」
「……待て」
わたしは、帳面をひらいた。
祖母の取引帳面だった。あの家で、トイヴォが、わたしに渡したものだった。旅のあいだに、ずいぶん、頁が埋まった。
白い頁を、ひらいた。
そこに、欄を、ふたつ書いた。
——わたしが、終わらせた者。
——生かす者。
ルキヤンが、わたしの手もとを見ていた。
わたしは、ひとつ目の欄に、名を書いた。
——ナジェージダ。
それから、ふたつ目の欄にも、同じ名を書いた。
——ナジェージダ。
揃わない字だった。二つとも。
わたしは、帳面を、ルキヤンのほうへ向けた。
「……劇場の頁は、消さない。お前の妹の名は、そこにある。わたしが、終わらせた者の欄に」
ルキヤンは、帳面を見ていた。
「それから、こちらにも、ある」
わたしは、ふたつ目の欄を、指で押さえた。手袋の指で。
「生かす者の欄は、わたしが、終わらせずにおく者の欄だ。……あの冬、ひとりのために作った。この旅で、長くなった。村の子どもの名も、雨林の鉢の草も、ここにある」
「……妹は、あなたの目の届かないところにいます」
「分かっている。わたしには、見えない」
わたしは、言った。
「見えなくても、書く。……見えないところで、続いているものを、わたしは、この旅で、覚えた」
ルキヤンは、長いあいだ、黙っていた。
それから、自分の帳簿を、ひらいた。
ペンを出して、何か書いた。
書き終えて、わたしのほうへ、向けた。
——死の執政は、死んでいる。
——旅をしているのは、猟師と、その連れだ。
「……私の帳簿には、そう書きます」
ルキヤンは、言った。
「帳尻は、合っていません。けれど、これが、いちばん嘘の少ない行だと思います」
◇
そのとき、わたしは、その糸を見た。
岩場の下のほうから、上ってくる糸だった。
朝から、見えていた。村の端を出て、黒い筋をたどって、岩場へ向かってくる糸だった。見えていて、見ないようにしていた。
三日で、戻りかけた糸だった。
わたしのそばに来れば、また、細る糸だった。
わたしは、立ち上がりかけた。
岩場の奥へ、もっと奥へ。糸が見えないところまで。
足が、動かなかった。
逃げれば、トイヴォは、また、追ってくる。戻りかけの糸で。この照り返しの中を。
「……ロノヴァ!」
岩の陰から、トイヴォが、飛び出してきた。
背中に、鍋を背負っていた。息を切らしていた。額に、汗が光っていた。
トイヴォは、ルキヤンとハヤートのあいだを抜けて、わたしの岩の下まで来た。
ハヤートが、ルキヤンの袖を引いて、少し下がった。ふたりの糸が、わたしたちから、離れていった。
トイヴォが、わたしを見上げた。
「……食べた?」
トイヴォが、言った。
わたしは、答えられなかった。
「食べろって書くなら、一緒に食べてよ」
トイヴォは、背中の鍋を下ろした。布を解いた。蓋を取った。
燕麦の粥だった。冷めかけていた。蜂蜜の匂いがした。
トイヴォは、背負い袋から、木の器を出した。
わたしの器だった。村の台所の棚に、置いてきた器だった。
トイヴォは、そこに、粥をよそった。
両手で、わたしのほうへ、差し出した。
「……ふたり分、量っちゃったんだ。一人分の量り方、忘れちゃって」
わたしは、器を見ていた。
「……わたしのそばでは、お前の糸が、細る」
「知ってる」
「村では、戻りきらなかった。わたしが、留まりすぎたからだ。わたしが、留まると言ったからだ」
「知ってる。僕も、止めなかった」
「……だから、離れた」
「うん。だから、戻った。三日で」
トイヴォは、器を、差し出したままだった。
「離れてたら、僕の糸は、戻る。そばにいたら、細る。……じゃあ、そのあいだは?」
わたしは、トイヴォを見た。
「ぴったりくっついてるのでも、ずっと離れてるのでもない、そのあいだ。……ロノヴァなら、数えられるでしょ」
わたしは、トイヴォの糸を見た。
三日で、戻りかけた糸。まだ、少しだけ、細い糸。
数えた。
距離と、夜と、粥と。細るぶんと、戻るぶんと。
あの家では、同じ屋根の下で眠った。宿では、同じ部屋の、寝台ふたつ。船では、船首と、船室の戸口。雨林では、軒下と、戸の内側。
戻りきらなかったのは、留まりすぎた村だけだ。
細るぶんが、朝の粥で、戻りきる距離。少しだけ、余りのある距離。
「……火、ひとつぶん」
わたしは、言った。
「夜は、火を挟んで、眠る。火ひとつぶん、離れて。……それなら、朝の粥で、戻りきる」
トイヴォが、目を見ひらいた。
「それから、数えた晩は、越えない。一晩も。命の濃い土地では、なおさら」
「うん」
「越えそうになったら、わたしが、言う。……お前は、止めろ」
「うん。止める」
トイヴォは、笑った。
「朝は?」
「……朝は」
わたしは、手袋の手を、伸ばした。
器を、受け取った。
「同じ鍋の粥を、食べる」
匙で、ひと口、すすった。
冷めかけていた。甘かった。
あの冬の、最初の朝と、同じ味がした。
◇
その日の夕方、トイヴォは、岩場で火を熾した。
鍋に、いろいろなものを入れた。
燕麦。米。ハヤートが持ってきた、平たい豆と、香辛料。モンドの宿で分けてもらった、乾かした香草。運河の町の宿でもらった、木の皮の粉。村の薬師がくれた、とうもろこしの粉と、焼いた唐辛子。空になった梅の壺の底に残っていた、塩ひとつまみ。
最後に、蜂蜜を、ひと匙。
「……まとまっていない」
わたしが言うと、トイヴォは、鍋をかき混ぜながら、笑った。
「うん。でも、全部、入ってる」
鍋の中で、国が、混ざっていた。雪の国も、風の国も、岩の国も、雷の国も、森の国も、水の国も、火の国も。
わたしの帳面の頁と、同じだった。どの頁も、揃ってはいない。けれど、一冊に、綴じてある。
器は、四つ、並んだ。
ハヤートは、ひと口すすって、目を丸くした。それから、帳面をひらいて、何か書いた。
ルキヤンは、しばらく、器を見ていた。それから、黙って、全部食べた。
食べ終えてから、ルキヤンが、トイヴォに言った。
「……帳面を、一頁、写させてもらえませんか」
「どの頁ですか」
「牛の乳で、米を煮る頁です。……妹に、持って帰りたい」
トイヴォは、その頁をひらいたまま、帳面ごと、ルキヤンに渡した。
ルキヤンは、自分の帳簿の後ろの白い頁に、それを、ていねいに写した。
弱い火で。焦がさないように、ずっと混ぜる。子どもが、風邪をひいたとき。
「ルカーシャ、って呼ばれてるんです」
写しながら、ルキヤンが、ぽつりと言った。
「妹に。……帰ったら、これを、作ってやります。夜中に、目を覚ましたときに」
日が沈むころ、尾根の上に、あの燃える糸が、下りてきた。
岩場の、少し離れたところに、あの女が立っていた。
こちらへは、来なかった。
トイヴォが、器に、残りの粥をよそった。立ち上がって、女のほうへ歩いていった。
わたしは、それを、見ていた。
トイヴォが、器を差し出した。
女は、器を見た。
受け取らなかった。
「……それは、君たちの鍋のものだ」
女は、言った。
「私の分は、ない」
トイヴォは、器を下ろした。
女は、わたしのほうを見た。遠くから。
「数えた晩を、忘れるな」
それだけ言って、女は、背を向けた。
燃える糸が、尾根の向こうへ、遠ざかっていった。
許されたのではなかった。
ただ、見届けられたのだと、思った。
日が落ちきる前に、ルキヤンとハヤートは、岩場を下りていった。下の平らなところで野営して、明日の朝、早く発つのだという。
「報告書は、書きます」
ルキヤンは、言った。
「あの行の、ままで」
ハヤートは、トイヴォの手を握った。
「手紙を書くよ。今度は、私の名前も書く。行く先が決まったら、知らせておくれ。そこの港に出す」
それから、わたしを見上げた。
「……君の答えは、どこにも出さない。私の帳面に、一行あるだけだ」
ふたりの糸が、岩場の下へ、下りていった。
擦り切れた、まっすぐな糸と。細く、長く、ゆっくりな糸と。
ふたつの糸は、岩場の下の平らなところで、並んで止まった。今夜は、そこにある。
◇
夜、トイヴォは、火を挟んで、向こう側に横になった。
火ひとつぶん。
わたしは、こちら側に座って、帳面をひらいた。
——ナタ。村の西の岩場。
——ルキヤン。ハヤート。追ってきた者と、道を書いた者。
——トイヴォ。追ってきた。鍋を背負って。燕麦を、ふたり分。
——火ひとつぶん。
書き終えて、火の向こうを見た。
トイヴォは、もう、眠っていた。寝息が、深かった。
糸を、見た。
夜のあいだに、細っていった。
髪一本の、半分。
それ以上は、細らなかった。
朝になって、トイヴォが、目を開けた。
「……おはよう、ロノヴァ」
「……おはよう」
トイヴォは、火の残りに、鍋をかけた。
同じ鍋の粥を、ふたりで食べた。
糸は、戻った。
戻りきった。
——火ひとつぶん。戻りきる。
わたしは、帳面に、そう書いた。
その字は、少しだけ、揃っていた。
お読みいただきありがとうございました。
次回、第15話「まだ、半分」はトイヴォ視点でお送りします。旅路編の最終話です。