※第二部「旅路編」の第15話、最終話です。
※旅の途中の町や人物、料理には、作中の創作を含みます。
※今回はトイヴォ視点です。
西の港までは、山道へ戻る回り道も入れて、岩場から、二日かかった。
一日目の夜も、二日目の夜も、火を挟んで眠った。火ひとつぶん。朝は、同じ鍋の粥を食べた。
ロノヴァは、毎朝、僕の糸を見て、帳面に書いた。
——戻りきる。
二日とも、同じだった。
一日目の夜、火の向こうに、僕は、聞いた。
「岩の上で、三日、何してたの」
「……数えていた。お前の糸を」
「戻ってた?」
「戻っていた。毎朝」
ロノヴァは、火を見ていた。
「わたしが、いないから」
僕は、少し黙った。
「……ひとりで、どうだった?」
ロノヴァは、しばらく、答えなかった。
「……帳面には、書かなかった」
「なんて?」
「その感じの、名前は、知っている」
ロノヴァは、それ以上、言わなかった。
僕も、聞かなかった。
あの冬、ロノヴァがひとりで湖へ歩いていったときも、その名前を、書かなかったのだろうと思った。
書かなくても、いい。
今は、火の向こうに、いるのだから。
港は、崖の下の、小さな入り江にあった。赤い岩のあいだに、桟橋が三本。船が、二艘つないであった。
「ここから、この国を出る」
ロノヴァが、言った。
あの炎の色の髪の人との、約束だった。数えた晩は、もう、とっくに過ぎていた。これ以上は、一晩も、延ばさない。
港の役所で、船の席のことを聞いた。
明日の朝に、一艘、出るという。
それから、係の人が、棚の奥から、手紙を一通、出してきた。
「北から来た猟師の、トイヴォ。……あんたかい。ひと月ほど前から、ここに留め置いてあるよ」
封筒の字を見て、すぐに分かった。
大きくて、角張っていて、ところどころ、ペンが紙に引っかかっていた。
チモフェイの字だった。
璃月の港で、僕は、チモフェイに手紙を出した。役所の壁の地図を見ながら、係の人に聞いた。国を順に回るなら、最後はナタになる。ナタから外へ出る船は、西の港から出る、と。だから、返事は、ナタの西の港に、留め置きで。——そう書いた。
本当に、届いていた。
桟橋の端に座って、封を切った。
ロノヴァは、少し離れた岩の上に座っていた。
「読むよ」
「……ああ」
僕は、声に出して、読んだ。
——トイヴォへ。
——手紙は読んだ。字が汚い。
——タイムは、増えすぎた。窓辺に置ききれない。株を分けて、詰め所の裏の日当たりに植えた。門番が草の世話なんぞ、と笑われた。笑ったやつには、枯らしたら取りに来ないやつのせいだと言ってある。
——森の家には、秋のはじめと、雪の前に、二度、見回りに行った。家のまわりの枯れたところは、広がっちゃいない。縁のあたりに、もう、草が出てきてる。
——春になったら、取りに来い。連れも一緒でいい。
——気をつけて、行け。
——チモフェイ。
読み終えて、顔を上げた。
ロノヴァは、岩の上で、海のほうを見ていた。
「……縁に、草が」
ロノヴァが、小さく言った。
「うん。出てきてるって」
「……広がって、いない」
「うん」
ロノヴァは、それきり、何も言わなかった。
でも、手袋の指が、膝の上で、かすかに、動いていた。ハヤートさんの手紙の、芽が出た、のところと、同じだった。
「タイム、増えすぎたって」
僕は、手紙を、もう一度見た。
「チモフェイの字、ほんとに汚いね。人のこと言えないのに」
ロノヴァの口の端が、ほんの少しだけ、動いた。
役所で紙を一枚もらって、返事を書いた。
——チモフェイへ。
——手紙、ありがとうございます。ナタの西の港で、受け取りました。
——タイムは、増えすぎたら、詰め所のみんなで分けてください。スープに入れると、おいしいです。
——春になったら、取りに行きます。連れと一緒に。
——トイヴォ。
書き終えて、ロノヴァに見せた。字は、チモフェイのより、ましだと思う。
ロノヴァは、最後の行を、しばらく見ていた。
「……春、か」
「うん。春」
あの冬、あの家の戸口で、僕が、同じことを言った。あのときの春は、ロノヴァがいなくなったあとの春だった。
今度の春は、違う。
あの家を出るとき、僕は、帰る、とは言わなかった。分からないことを約束するのは、やめておこうと思った。
今度は、書けた。
手紙を、役所の係の人に渡した。北の、国境の町の、南門の詰め所まで。
◇
その夜は、港の外れの、岩の上で過ごした。
火を熾して、粥を炊いた。
燕麦は、もう、残りが少なかった。村で、ふたり分量ってしまったからだ。袋の底を、手のひらでさらって、ふたり分。それで、ちょうど、なくなった。
蜂蜜の二つ目の瓶も、もう、底が見えていた。
最後のひと匙を、鍋に落とした。
「……とっておかないのか」
ロノヴァが、言った。
「うん。今日は、特別な日だから」
「何の日だ」
「国を、全部、回った日」
ロノヴァは、少し考えた。
「……全部では、ない。雪の国の、皇都には、行っていない」
「あそこは、いいよ。行かなくて」
僕が言うと、ロノヴァは、それ以上、何も言わなかった。
粥を食べ終えてから、僕は、帳面をひらいた。
モンドの頁。麦を、羊の乳で煮る。熱を出した子に。
璃月の頁。米の花が咲くまで。揚げた棒のパン。
稲妻へ行く船の上の頁。梅を落とした、白い粥。
稲妻の島の頁。送り火。おばあちゃんの灯籠。
スメールの頁。豆と米。香りは、先に油に移す。燃やさなくていい記録。
フォンテーヌの頁。牛の乳で、米を煮る。書いた頁は、消えない。
ナタの頁。とうもろこしの粉。焼いた唐辛子。食べろ。
それから、岩場の頁。全部入りの粥。まとまっていない。でも、全部、入ってる。
どの国も、一頁のつもりで書きはじめた。稲妻のあたりから、一頁では、足りなくなった。料理じゃないことばかり、書いていたからだ。
めくっていくと、白い頁になった。
そこから先は、何も書いていなかった。
僕は、書いてある頁と、白い頁の厚みを、指で比べた。
「……ちょうど、半分だ」
町の東の通りで、この帳面を買ったとき、店のおばあさんが言った。一冊ぶん埋めるには、うんと遠くまで行かないとね、と。
国を、ほとんど全部回って、半分だった。
「ロノヴァの帳面は?」
僕が聞くと、ロノヴァは、火の向こうで、少し黙った。
それから、帳面を、ひらいた。
おばあちゃんの、取引帳面だった。あの冬、僕が渡した帳面だった。
ロノヴァは、一枚、頁をめくって、それを、火のこちら側へ差し出した。
はじめてだった。ロノヴァが、自分の帳面を、僕に見せるのは。
火の明かりで、字を読んだ。
——生かす者。
その欄が、頁の上から下まで、続いていた。次の頁にも、続いていた。その次の頁にも。
揃わない字だった。一文字目が大きくて、最後の字が、小さく傾いていた。
いちばん上に、僕の名前があった。
——トイヴォ。
その下に、書いてあった。
——タイム。
——リースル。
——橋のたもとの屋台の、老人。
——墓碑の名の下に、一行ぶんの余白を残した男。
——厨房の老婆。
——島の女の子。会ったことのない者に、灯りを流す子。
——ハヤート。それから、ハヤートの鉢の草。
——崖崩れの村。
その下に、名前が、三つ。僕が、ロノヴァに教えた名前だった。それから、薬師。
最後の頁だけ、欄が、ふたつ並んでいた。終わらせた者の欄と、生かす者の欄。その両方に、同じ名前があった。
——ナジェージダ。
いちばん新しい行に、まだ、墨の乾ききらない字があった。
——チモフェイ。タイムを、増やしすぎた者。
名前で書いてある人もいれば、そうでない人もいた。名前の分からない人は、その人のしたことで、書いてあった。
僕は、長いあいだ、それを見ていた。
「……いちばん、長い欄だね」
「……そうだ」
ロノヴァが、言った。
「……あの冬から、いちばん長い。この旅で、三頁になった」
死の執政の帳面には、終わった者の欄が、どこまでも続いていたはずだった。何千年も、ずっと。
この帳面では、生かす者の欄が、いちばん長い。
僕は、帳面を、火の向こうへ返した。
ロノヴァは、それを受け取って、閉じて、膝の上に置いた。両手で、そっと押さえていた。
「明日の船、どこへ行くんだろうね」
僕は、言った。
「明日の朝、一艘だけ出るって。……行き先、まだ、聞いてないんだ」
「……聞いていないのか」
「うん。どこでも、いいかなと思って」
ロノヴァは、火を見ていた。
「……お前が、まだ習っていない粥のあるところなら」
「それ、どこでもだよ」
僕が笑うと、ロノヴァは、首をかしげた。
「……そうか」
「うん。まだ、半分あるから」
ロノヴァは、答えなかった。
でも、たぶん、分かっていた。
火が、ぱちりとはぜた。
「おやすみ、ロノヴァ」
「……おやすみ」
火を挟んで、横になった。
火ひとつぶん。
空に、星が多かった。雪原の夜に、どこか、似ていた。
◇
目を開けると、空が、白みはじめていた。
火は、熾火になっていた。赤い灰の向こうに、ロノヴァが座っていた。帳面を、膝に載せて。
僕は、体を起こそうとした。
口を開けて、いつもの言葉を言おうとした。
その前に、声がした。
「……おはよう」
ロノヴァの声だった。
僕は、口を開けたまま、止まった。
あの冬の朝から、ずっと、僕が先に言ってきた。最初のころは、返事がなかった。返事が来るようになってからも、言うのは、いつも、僕が先だった。
ロノヴァは、火の向こうで、僕を見ていた。
少しだけ、困ったような顔をしていた。
言ってしまってから、どうすればいいのか、分からない、という顔だった。
「……おはよう、ロノヴァ」
僕は、言った。
声が、少しだけ、震えた。
「今の、いくつめ?」
ロノヴァは、帳面に、目を落とした。
それから、顔を上げた。
「……わたしから言ったのは、ひとつめだ」
熾火に、鍋をかけた。
燕麦は、もう、なかった。
米と、とうもろこしの粉と、ハヤートさんが置いていった豆を少し。塩をひとつまみ。蜂蜜は、瓶の内側に残ったぶんを、湯で溶かして、落とした。
どこの国の粥でもなかった。
でも、どこの国の粥でもあった。
ロノヴァは、それを、木の器で食べた。
あの器で、食べた。
「……悪くは、ない」
ロノヴァが、言った。
僕は、笑った。
——戻りきる。ロノヴァが、帳面に、そう書いた。僕は、それを、火の向こうから見ていた。
いつもより、字が、揃っていた。
港に下りると、船が、帆を上げる支度をしていた。
係の人が、乗船の帳面をひらいた。
「名前と、国と、仕事。それから、連れがいるなら」
僕は、少し考えた。
「トイヴォ。スネージナヤ。猟師です」
係の人が、書きこんだ。
「連れは?」
どこの港でも、同行者一名、だった。
僕は、隣を見た。
ロノヴァが、係の人を見ていた。
「……ロノヴァ」
ロノヴァが、言った。
自分の口で。
どきりとした。でも、あの冬の僕みたいに、その名前を知らない人のほうが、ずっと多い。それに、ルキヤンさんの帳簿には、もう、あの行が書いてある。死の執政は、死んでいる。旅をしているのは、猟師と、その連れだ。
係の人は、首をかしげて、それから、帳面に書きこんだ。
「変わった名前だね」
あの冬、僕が言ったのと、同じ言葉だった。
ロノヴァは、ほんの少し、目を細めた。
「……二人目だ」
船が、桟橋を離れた。
赤い崖が、少しずつ、遠ざかっていった。
行き先は、係の人が教えてくれた。でも、僕は、帳面には書かなかった。着いてから、書けばいい。そこで習った粥と、一緒に。
ロノヴァは、手すりのそばに立っていた。手袋の手で、手すりを握っていた。手すりの木は、何も変わらなかった。
水の上では、何も黒くならない。糸だけは、水の上でも、細る。夜は、また、離れて眠る。
僕は、その隣に立った。
火ひとつぶんより、少しだけ、近くに。
昼のあいだなら、これくらいは、いい。ロノヴァが、そう言った。
去年の冬、雪原で、黒い羽根を見つけた。
雪原で見つけたものは、見なかったことにしちゃいけないよ。おばあちゃんは、そう言っていた。雪は何でも隠してしまうから、見つけたときに見ておかないと、春まで、誰にも見つけてもらえない。
見なかったことに、しなくて、よかった。
おばあちゃんの取引帳面は、今、ロノヴァの懐にある。いちばん長い欄の、いちばん上に、僕の名前を載せて。
「ロノヴァ」
「……何だ」
「帳面、まだ、半分あるね」
ロノヴァは、海を見ていた。
それから、言った。
「……まだ、半分だ」
船は、風を受けて、沖へ出ていった。
帳面には、白い頁が、半分、残っていた。
これで第二部「旅路編」は完結です。最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
二人の旅は、まだ半分です。帳面の残りの頁に何が書かれるのかは、読んでくださった皆さんの想像にお任せします。
もし書いて欲しい物語があれば感想欄にお書きください。可能な限りお書きしたいと思いますので是非お願いします。