死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※第二部「旅路編」の第15話、最終話です。
※旅の途中の町や人物、料理には、作中の創作を含みます。
※今回はトイヴォ視点です。


旅路編 第15話 まだ、半分

 西の港までは、山道へ戻る回り道も入れて、岩場から、二日かかった。

 一日目の夜も、二日目の夜も、火を挟んで眠った。火ひとつぶん。朝は、同じ鍋の粥を食べた。

 ロノヴァは、毎朝、僕の糸を見て、帳面に書いた。

 ——戻りきる。

 二日とも、同じだった。

 一日目の夜、火の向こうに、僕は、聞いた。

「岩の上で、三日、何してたの」

「……数えていた。お前の糸を」

「戻ってた?」

「戻っていた。毎朝」

 ロノヴァは、火を見ていた。

「わたしが、いないから」

 僕は、少し黙った。

「……ひとりで、どうだった?」

 ロノヴァは、しばらく、答えなかった。

「……帳面には、書かなかった」

「なんて?」

「その感じの、名前は、知っている」

 ロノヴァは、それ以上、言わなかった。

 僕も、聞かなかった。

 あの冬、ロノヴァがひとりで湖へ歩いていったときも、その名前を、書かなかったのだろうと思った。

 書かなくても、いい。

 今は、火の向こうに、いるのだから。

 

 港は、崖の下の、小さな入り江にあった。赤い岩のあいだに、桟橋が三本。船が、二艘つないであった。

「ここから、この国を出る」

 ロノヴァが、言った。

 あの炎の色の髪の人との、約束だった。数えた晩は、もう、とっくに過ぎていた。これ以上は、一晩も、延ばさない。

 

 港の役所で、船の席のことを聞いた。

 明日の朝に、一艘、出るという。

 それから、係の人が、棚の奥から、手紙を一通、出してきた。

「北から来た猟師の、トイヴォ。……あんたかい。ひと月ほど前から、ここに留め置いてあるよ」

 封筒の字を見て、すぐに分かった。

 大きくて、角張っていて、ところどころ、ペンが紙に引っかかっていた。

 チモフェイの字だった。

 璃月の港で、僕は、チモフェイに手紙を出した。役所の壁の地図を見ながら、係の人に聞いた。国を順に回るなら、最後はナタになる。ナタから外へ出る船は、西の港から出る、と。だから、返事は、ナタの西の港に、留め置きで。——そう書いた。

 本当に、届いていた。

 

 桟橋の端に座って、封を切った。

 ロノヴァは、少し離れた岩の上に座っていた。

「読むよ」

「……ああ」

 僕は、声に出して、読んだ。

 

 ——トイヴォへ。

 ——手紙は読んだ。字が汚い。

 ——タイムは、増えすぎた。窓辺に置ききれない。株を分けて、詰め所の裏の日当たりに植えた。門番が草の世話なんぞ、と笑われた。笑ったやつには、枯らしたら取りに来ないやつのせいだと言ってある。

 ——森の家には、秋のはじめと、雪の前に、二度、見回りに行った。家のまわりの枯れたところは、広がっちゃいない。縁のあたりに、もう、草が出てきてる。

 ——春になったら、取りに来い。連れも一緒でいい。

 ——気をつけて、行け。

 ——チモフェイ。

 

 読み終えて、顔を上げた。

 ロノヴァは、岩の上で、海のほうを見ていた。

「……縁に、草が」

 ロノヴァが、小さく言った。

「うん。出てきてるって」

「……広がって、いない」

「うん」

 ロノヴァは、それきり、何も言わなかった。

 でも、手袋の指が、膝の上で、かすかに、動いていた。ハヤートさんの手紙の、芽が出た、のところと、同じだった。

「タイム、増えすぎたって」

 僕は、手紙を、もう一度見た。

「チモフェイの字、ほんとに汚いね。人のこと言えないのに」

 ロノヴァの口の端が、ほんの少しだけ、動いた。

 

 役所で紙を一枚もらって、返事を書いた。

 ——チモフェイへ。

 ——手紙、ありがとうございます。ナタの西の港で、受け取りました。

 ——タイムは、増えすぎたら、詰め所のみんなで分けてください。スープに入れると、おいしいです。

 ——春になったら、取りに行きます。連れと一緒に。

 ——トイヴォ。

 書き終えて、ロノヴァに見せた。字は、チモフェイのより、ましだと思う。

 ロノヴァは、最後の行を、しばらく見ていた。

「……春、か」

「うん。春」

 あの冬、あの家の戸口で、僕が、同じことを言った。あのときの春は、ロノヴァがいなくなったあとの春だった。

 今度の春は、違う。

 あの家を出るとき、僕は、帰る、とは言わなかった。分からないことを約束するのは、やめておこうと思った。

 今度は、書けた。

 手紙を、役所の係の人に渡した。北の、国境の町の、南門の詰め所まで。

 

   ◇

 

 その夜は、港の外れの、岩の上で過ごした。

 火を熾して、粥を炊いた。

 燕麦は、もう、残りが少なかった。村で、ふたり分量ってしまったからだ。袋の底を、手のひらでさらって、ふたり分。それで、ちょうど、なくなった。

 蜂蜜の二つ目の瓶も、もう、底が見えていた。

 最後のひと匙を、鍋に落とした。

「……とっておかないのか」

 ロノヴァが、言った。

「うん。今日は、特別な日だから」

「何の日だ」

「国を、全部、回った日」

 ロノヴァは、少し考えた。

「……全部では、ない。雪の国の、皇都には、行っていない」

「あそこは、いいよ。行かなくて」

 僕が言うと、ロノヴァは、それ以上、何も言わなかった。

 

 粥を食べ終えてから、僕は、帳面をひらいた。

 モンドの頁。麦を、羊の乳で煮る。熱を出した子に。

 璃月の頁。米の花が咲くまで。揚げた棒のパン。

 稲妻へ行く船の上の頁。梅を落とした、白い粥。

 稲妻の島の頁。送り火。おばあちゃんの灯籠。

 スメールの頁。豆と米。香りは、先に油に移す。燃やさなくていい記録。

 フォンテーヌの頁。牛の乳で、米を煮る。書いた頁は、消えない。

 ナタの頁。とうもろこしの粉。焼いた唐辛子。食べろ。

 それから、岩場の頁。全部入りの粥。まとまっていない。でも、全部、入ってる。

 どの国も、一頁のつもりで書きはじめた。稲妻のあたりから、一頁では、足りなくなった。料理じゃないことばかり、書いていたからだ。

 めくっていくと、白い頁になった。

 そこから先は、何も書いていなかった。

 僕は、書いてある頁と、白い頁の厚みを、指で比べた。

「……ちょうど、半分だ」

 町の東の通りで、この帳面を買ったとき、店のおばあさんが言った。一冊ぶん埋めるには、うんと遠くまで行かないとね、と。

 国を、ほとんど全部回って、半分だった。

 

「ロノヴァの帳面は?」

 僕が聞くと、ロノヴァは、火の向こうで、少し黙った。

 それから、帳面を、ひらいた。

 おばあちゃんの、取引帳面だった。あの冬、僕が渡した帳面だった。

 ロノヴァは、一枚、頁をめくって、それを、火のこちら側へ差し出した。

 はじめてだった。ロノヴァが、自分の帳面を、僕に見せるのは。

 火の明かりで、字を読んだ。

 ——生かす者。

 その欄が、頁の上から下まで、続いていた。次の頁にも、続いていた。その次の頁にも。

 揃わない字だった。一文字目が大きくて、最後の字が、小さく傾いていた。

 いちばん上に、僕の名前があった。

 ——トイヴォ。

 その下に、書いてあった。

 ——タイム。

 ——リースル。

 ——橋のたもとの屋台の、老人。

 ——墓碑の名の下に、一行ぶんの余白を残した男。

 ——厨房の老婆。

 ——島の女の子。会ったことのない者に、灯りを流す子。

 ——ハヤート。それから、ハヤートの鉢の草。

 ——崖崩れの村。

 その下に、名前が、三つ。僕が、ロノヴァに教えた名前だった。それから、薬師。

 最後の頁だけ、欄が、ふたつ並んでいた。終わらせた者の欄と、生かす者の欄。その両方に、同じ名前があった。

 ——ナジェージダ。

 いちばん新しい行に、まだ、墨の乾ききらない字があった。

 ——チモフェイ。タイムを、増やしすぎた者。

 名前で書いてある人もいれば、そうでない人もいた。名前の分からない人は、その人のしたことで、書いてあった。

 僕は、長いあいだ、それを見ていた。

「……いちばん、長い欄だね」

「……そうだ」

 ロノヴァが、言った。

「……あの冬から、いちばん長い。この旅で、三頁になった」

 死の執政の帳面には、終わった者の欄が、どこまでも続いていたはずだった。何千年も、ずっと。

 この帳面では、生かす者の欄が、いちばん長い。

 僕は、帳面を、火の向こうへ返した。

 ロノヴァは、それを受け取って、閉じて、膝の上に置いた。両手で、そっと押さえていた。

 

「明日の船、どこへ行くんだろうね」

 僕は、言った。

「明日の朝、一艘だけ出るって。……行き先、まだ、聞いてないんだ」

「……聞いていないのか」

「うん。どこでも、いいかなと思って」

 ロノヴァは、火を見ていた。

「……お前が、まだ習っていない粥のあるところなら」

「それ、どこでもだよ」

 僕が笑うと、ロノヴァは、首をかしげた。

「……そうか」

「うん。まだ、半分あるから」

 ロノヴァは、答えなかった。

 でも、たぶん、分かっていた。

 火が、ぱちりとはぜた。

「おやすみ、ロノヴァ」

「……おやすみ」

 火を挟んで、横になった。

 火ひとつぶん。

 空に、星が多かった。雪原の夜に、どこか、似ていた。

 

   ◇

 

 目を開けると、空が、白みはじめていた。

 火は、熾火になっていた。赤い灰の向こうに、ロノヴァが座っていた。帳面を、膝に載せて。

 僕は、体を起こそうとした。

 口を開けて、いつもの言葉を言おうとした。

 その前に、声がした。

「……おはよう」

 ロノヴァの声だった。

 僕は、口を開けたまま、止まった。

 あの冬の朝から、ずっと、僕が先に言ってきた。最初のころは、返事がなかった。返事が来るようになってからも、言うのは、いつも、僕が先だった。

 ロノヴァは、火の向こうで、僕を見ていた。

 少しだけ、困ったような顔をしていた。

 言ってしまってから、どうすればいいのか、分からない、という顔だった。

「……おはよう、ロノヴァ」

 僕は、言った。

 声が、少しだけ、震えた。

「今の、いくつめ?」

 ロノヴァは、帳面に、目を落とした。

 それから、顔を上げた。

「……わたしから言ったのは、ひとつめだ」

 

 熾火に、鍋をかけた。

 燕麦は、もう、なかった。

 米と、とうもろこしの粉と、ハヤートさんが置いていった豆を少し。塩をひとつまみ。蜂蜜は、瓶の内側に残ったぶんを、湯で溶かして、落とした。

 どこの国の粥でもなかった。

 でも、どこの国の粥でもあった。

 ロノヴァは、それを、木の器で食べた。

 あの器で、食べた。

「……悪くは、ない」

 ロノヴァが、言った。

 僕は、笑った。

 ——戻りきる。ロノヴァが、帳面に、そう書いた。僕は、それを、火の向こうから見ていた。

 いつもより、字が、揃っていた。

 

 港に下りると、船が、帆を上げる支度をしていた。

 係の人が、乗船の帳面をひらいた。

「名前と、国と、仕事。それから、連れがいるなら」

 僕は、少し考えた。

「トイヴォ。スネージナヤ。猟師です」

 係の人が、書きこんだ。

「連れは?」

 どこの港でも、同行者一名、だった。

 僕は、隣を見た。

 ロノヴァが、係の人を見ていた。

「……ロノヴァ」

 ロノヴァが、言った。

 自分の口で。

 どきりとした。でも、あの冬の僕みたいに、その名前を知らない人のほうが、ずっと多い。それに、ルキヤンさんの帳簿には、もう、あの行が書いてある。死の執政は、死んでいる。旅をしているのは、猟師と、その連れだ。

 係の人は、首をかしげて、それから、帳面に書きこんだ。

「変わった名前だね」

 あの冬、僕が言ったのと、同じ言葉だった。

 ロノヴァは、ほんの少し、目を細めた。

「……二人目だ」

 

 船が、桟橋を離れた。

 赤い崖が、少しずつ、遠ざかっていった。

 行き先は、係の人が教えてくれた。でも、僕は、帳面には書かなかった。着いてから、書けばいい。そこで習った粥と、一緒に。

 ロノヴァは、手すりのそばに立っていた。手袋の手で、手すりを握っていた。手すりの木は、何も変わらなかった。

 水の上では、何も黒くならない。糸だけは、水の上でも、細る。夜は、また、離れて眠る。

 僕は、その隣に立った。

 火ひとつぶんより、少しだけ、近くに。

 昼のあいだなら、これくらいは、いい。ロノヴァが、そう言った。

 去年の冬、雪原で、黒い羽根を見つけた。

 雪原で見つけたものは、見なかったことにしちゃいけないよ。おばあちゃんは、そう言っていた。雪は何でも隠してしまうから、見つけたときに見ておかないと、春まで、誰にも見つけてもらえない。

 見なかったことに、しなくて、よかった。

 おばあちゃんの取引帳面は、今、ロノヴァの懐にある。いちばん長い欄の、いちばん上に、僕の名前を載せて。

「ロノヴァ」

「……何だ」

「帳面、まだ、半分あるね」

 ロノヴァは、海を見ていた。

 それから、言った。

「……まだ、半分だ」

 船は、風を受けて、沖へ出ていった。

 帳面には、白い頁が、半分、残っていた。




これで第二部「旅路編」は完結です。最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
二人の旅は、まだ半分です。帳面の残りの頁に何が書かれるのかは、読んでくださった皆さんの想像にお任せします。
もし書いて欲しい物語があれば感想欄にお書きください。可能な限りお書きしたいと思いますので是非お願いします。
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