※今回はトイヴォ視点です。
朝、目を覚まして、いつものように暖炉の向こうをのぞいた。
寝床が、空だった。
心臓が、ひとつ跳ねた。
首筋に、冷気が触れた。
振り向くと、ロノヴァが窓辺に立っていた。
おばあちゃんの上着の短い袖から、黒い手首がのぞいている。窓の霜の花が、指一本ぶんだけ細く拭われていて、その隙間から、ロノヴァは外を見ていた。町のあるほう、北を。
寝床を窓から離してくれと言った人が、窓辺に立っていた。
「……びっくりした。いないかと思った」
ロノヴァは、振り向かなかった。
「寒くないの? 毛布、持ってこようか」
「……毛布は——」
「必要ない、でしょ」
先に言うと、ロノヴァは眉を寄せて、黙った。
いつもの形だった。
「何か見える?」
「……雪だ」
それは、見れば分かる。
晴れた、風のない朝だった。
朝ご飯は、燕麦の粥にした。
塩は、指でつまんで量って入れる。ひとつまみと、半分。昨日「待て」と言われてから、そうしている。
ロノヴァは寝床に戻らず、窓のそばの椅子で器を膝に載せた。ひと匙すくって、しばらく口の中に置いていた。
「……今日は、多くない」
僕は、少しだけ誇らしかった。
けれどロノヴァは、数口で匙を置いた。また、窓のほうを見た。
「もういいの?」
「……ああ」
「でも——」
ロノヴァは、眉を寄せなかった。
窓を見たまま、何も言わなかった。「でも」が効かない朝は、初めてだった。
ゆうべ、眠れなかったのだろう。僕は、そう思うことにした。この人の顔は、たいていのとき、何を考えているのか分からない。
繕いものは、残りが一か所になっていた。
左の脇の、いちばん大きな裂け目。縁が、焦げたように黒く縮れている。ちょうど、脇腹の傷のところだった。
「これが直ったら、ちゃんと丈の合う服が着られるね」
「……そうだな」
輪罠の替えの針金を束ねて、背負い袋を肩にかけたときだった。
「トイヴォ。今日は、遠くへ行くな」
「罠を見に行こうと思ってたんだけど」
「明日にしろ」
「……占い?」
「……そういうものだと、思っておけ」
なんだか、楽しくなった。占い師さんに、今日の運勢を言われたみたいだ。
「じゃあ、今日は家のまわりにいるよ」
◇
家のそばで、薪を割った。
斧の乾いた音が、森に跳ね返る。割れた白樺の断面から、青くて甘い匂いが立つ。
静かすぎた。
薪の山には、いつも胸の黄色い小鳥が来る。
今日は、一羽も来なかった。
沢の上手の、木々の切れ目から、北の尾根が見える。
その上に、細い煙が三筋、糸を垂らしたようにまっすぐ昇っていた。
炊煙だ。
あのあたりに、人は住んでいない。猟師ひとりなら、煙は一筋のはずだ。
市場で聞いた声を、思い出した。——女皇様の兵隊が、まだ街の外を探し回ってる。南門の兵士の、いつもより固い声も。——このあたりにも、上から人が出てる。
関係ない。たぶん、関係——。
家の窓を振り返った。
霜の花の向こうに、白い髪が見えた。ロノヴァも、同じほうを見ていた。
家に入って、言った。
「北の尾根で、煙が上がってた。三筋。猟師かな」
「……猟師ではない」
僕は、続きを待った。
ロノヴァは、言わなかった。
聞かなかった。いつものように。
胸の奥が、ざわついた。タイムが枯れた朝のように。
だから、手を動かすことにした。
暖炉の部屋の、流しのそば。水甕の横の床に、おばあちゃんが古い布を裂いて編んだ敷物がある。めくると、床板に鉄の輪がついている。貯蔵庫の揚げ板だ。
輪を引くと、冷たい空気と、土と玉ねぎの匂いが上がってきた。
ランプを提げて、六段の梯子を下りる。背を伸ばすと、根太に頭が触れそうになる。芋の麻袋。玉ねぎの袋。塩漬け肉の樽。おばあちゃんのやり方で漬けた甕。玉ねぎのいくつかは、もう芽を出しかけていた。
梯子の裏には、ランプの光が届かない。
子どものころ、かくれんぼでは、いつもそこに隠れた。おばあちゃんは「トイヴォはどこに行ったのかねえ」と言って、最後まで、見つけられないふりをしてくれた。
玉ねぎと塩漬け肉を抱えて上がり、鍋に入れた。昨日ロノヴァが剥きすぎた、分厚い芋の皮も、刻んで落とす。
◇
汁が煮えるのを待つあいだ、最後の裂け目に針を入れた。
ロノヴァは奥の寝床に腰を下ろして、僕の手元を見ていた。
針を引く、かすかな音。鍋が、ことこと鳴る音。
縫い終わらないうちに、汁が煮えた。
器を二つ、匙を二本。卓に並べて、汁をよそった。繕いかけの衣は、僕の腰掛けの上に置いた。
「昨日の皮、入ってるよ。君が剥いた、分厚いの」
「……境界が、曖昧だっただけだ」
僕は笑った。
ロノヴァが匙を取って、止まった。
それから、立ち上がった。
僕には、まだ何も聞こえていなかった。
少し遅れて、聞こえた。
雪を踏む音が、揃っていた。同じ間隔で、同じ重さで。その合間に、金具の触れ合う硬い音。
獣の足並みではなかった。
窓の霜の隙間から、外を見た。木立のあいだを、暗い色の外套が列になって来る。肩に担いだ長い棒。南門で見慣れた外套だった。
鹿を数えるときの癖で、数えていた。
「……八、九、十」
「十二だ」
背中から、ロノヴァの声がした。
一拍おいて、木の陰から二人が出てきた。十一。十二。
なぜ知っているのか、聞く暇はなかった。
暇があっても、たぶん、聞かなかった。
振り返ると、ロノヴァは腰掛けの上の衣を取り、袖に腕を通しかけながら、戸口へ歩き出していた。
「ロノヴァ?」
とっさに、手首をつかんだ。
黒い腕は、雪みたいに冷たかった。そして、強かった。僕の手くらい、簡単に振りほどける力が、その腕にはあった。
それでも、ほどかれなかった。
「……離せ、トイヴォ。わたしが出れば、済む」
「……だめだよ」
この人の言うことを、はっきり拒んだのは、初めてだった。
済む、というのが何のことなのか、僕は考えなかった。
敷物をはねのけた。鉄の輪を引いた。冷気と、土の匂い。
「入って。梯子の裏。光が届かないから」
「……なぜ、隠す」
最初の夜に聞いた「なぜ、まだ」と、同じ声だった。
「分からない」
本当に、分からなかった。
「……分からないけど、入って。お願いだから」
金色の目が、僕を見た。瞳の奥の、七枚の花びら。長い一瞬だった。
それからロノヴァは、背の高い体を折って、梯子を下りた。衣は胸に抱えたまま。白い髪が段を流れて、闇に吸い込まれた。
暖炉のこちら側に敷いていた、僕の毛皮を丸めて、穴の中へ差し出した。
「寒いから」
返事はなかった。冷たい手が、黙ってそれを受け取った。
揚げ板を閉めた。敷物を戻して、手のひらで皺を伸ばした。何度も、伸ばした。
卓の上では、二つの器が、まだ湯気を立てていた。
僕は、それを見ていなかった。
鍋も、火にかかったままだった。
戸が、叩かれた。三度、間を置かずに。
戸を開けると、冷気と一緒に、濡れた毛織りと油と、凍てついた鉄の匂いが入ってきた。
先頭に立っていたのは、隊を率いているらしい四十がらみの男だった。灰色の口ひげに霜がつき、腰に剣を下げている。瞬きが、少なかった。
「上の命により、この一帯を改めている」
平らな声だった。
男の後ろに、南門の、あの兵士がいた。
目が合うと、兵士はわずかに目を見開いた。
「……あんたの家だったのか。……関係のない話だって、言ったのにな」
「知り合いか」
「トイヴォという猟師です。毛皮を売りに、年に四度、南門を通ります」
兵士は、僕の名前を知っていた。
「住人は、貴様ひとりか」
「……はい。祖母が亡くなってからは」
四年のあいだ本当だった言葉が、今は、嘘になっていた。
「黒い羽根をまとった女を、見なかったか」
「……黒い羽根、ですか」
指先で崩れた、あの羽根。煤のように、灰のように。
さっきあの人が袖を通しかけた、羽根を細かく織り上げたような衣。
それは今、この床の下にある。
「背の高い女だ。髪は白い」
——雪原で見つけたものは、見なかったことにしちゃいけないよ。
「見ていません」
声は、震えなかった。
嘘は、思ったより簡単に口から出た。簡単に出たことが、怖かった。
「見つけても、近づくな。触れるな。生きていても、死んでいても、我々に知らせろ」
触れるなと言われたその腕に、僕は毎晩、指の一本一本まで軟膏を塗っている。
「こいつは、吹雪の前の日に南門を出ています」
南門の兵士が言った。
「なら、帰り道で吹雪に遭ったろう」
「はい。岩陰でやり過ごしました」
「窪地に近い岩陰に、枝が一本立ててあった。人の手で立てた目印だ」
「僕のです」
言ってから、しまったと思った。
「荷が重かったので、小麦粉と油の樽を置いていって、次の日に取りに戻りました」
全部、本当だった。ひとつだけ、抜けているだけで。
南門の兵士の目が、一拍長く、僕の上で止まった。
「窪地には、気づかなかったか」
「……気づきませんでした。日が暮れかけていたので、急いで帰りたくて」
「あの日、早く帰れと言ったのは俺です」
あの日の親切が、僕の言い訳になった。
「窪地のまわりで、灌木が輪になって黒く枯れていた」
口ひげの男が言った。
「手がかりは、そこで切れている。あとは雪が埋めた。——あの窪地からいちばん近い家が、ここだ」
思い出した。
黒く縮れて、触れれば崩れそうに乾いた葉。三日前の朝、どこかで見たことがあると思った枯れ方。あれは、あの窪地だった。
それが何を意味するのかは、考えなかった。三日前も、そうだった。
棚の上に、同じ枯れ方をした鉢がある。
なぜか、そちらへ目をやることができなかった。
「中を改めさせてもらう」
頼んでいる声ではなかった。
窓の外で、兵隊たちが長い棒を雪の吹き溜まりに突き刺していく。薪の山が崩される音がした。
生きている人を探す手つきではなかった。雪の下に埋まったものを探す手つきだった。
入ってきたのは、三人。口ひげの男と、南門の兵士と、頬に古い傷のある兵士。鋲を打った長靴から雪が溶けて、床に泥水が広がっていく。
鍋の底が焦げはじめる匂いがした。火から下ろすことを、僕は思いつかなかった。
頬に傷のある兵士が寝台の部屋の戸を開け、口ひげの男と中をのぞいた。そこには、藁布団を下ろしたきりの寝台の枠しかない。
南門の兵士が、卓の前で止まっていた。湯気は、もう細い。
「……二つ、だな」
「……おばあちゃんの分です。死んでからも、つい、よそってしまうんです。もう四年になるのに、なかなか直らなくて」
兵士は、しばらく器を見ていた。
「……そうか」
おばあちゃんを、嘘に使った。胸の底に、石がひとつ沈んだ。
兵士はそれから、棚の前で足を止めた。
黒く縮れたタイムに、指先で触れる。葉は、粉になってこぼれた。
兵士は、長いあいだ、それを見ていた。窪地の話は、この兵士も聞いていた。
それから、僕のほうを見た。
「……霜か」
「はい」
三日前、自分にそう言い聞かせた言葉を、今日は信じきれないまま口にした。そして、言わなくていい本当のことを足した。
「……根は、生きてます」
兵士は何も言わずに、指先の粉を払った。
頬に傷のある兵士が戻ってきて、奥の寝床の前で足を止めた。
「冬は、こっちで寝るのか」
「はい。薪が、もったいないので」
兵士は毛皮をめくり、藁布団に手のひらを当てた。
「……冷てえ。誰も寝てねえな、こりゃ」
「朝が、早いので」
それは、本当だった。
そのとき、気づいた。
寝床は、ひとつしかない。僕の毛皮を暖炉のこちら側に敷いたままなら、二つあったはずだ。
ついさっきまで、あの人はそこに腰かけていた。いつも雪みたいに冷たい体だ。その冷たさが、今は、あの人を守っていた。
口ひげの男の長靴が、流しのそばで止まった。
敷物の上だった。そこだけ、板の音が違った。うつろな、低い音。
「下は何だ」
「貯蔵庫です。芋と、塩漬けの肉と、玉ねぎと、おばあちゃんの甕と、それから——」
「……あんた、今日はよく喋るな」
南門の兵士は、笑っていなかった。
「開けろ」
口ひげの男が言った。
僕は膝をついて、鉄の輪に指をかけた。
手は、震えなかった。罠にかかった兎の首に手をかけるときと、同じだった。
揚げ板を開けると、冷気が上がってきた。
貯蔵庫の冷たさではなかった。雪原であの羽根に触れたときの、もっと奥まで染みてくる冷たさ。気づいたのは、僕だけだと思った。
「明かりを」
ランプに火を入れた。町から運んできた油が燃えはじめる。
男がそれを取って、穴の上に掲げた。光は、梯子の下の半分と、芋の袋と、樽と、甕の口までしか届かなかった。
梯子の裏は、黒かった。渡した毛皮も、光の外にあった。
息の音は、ひとつもしない。
最初の夜、僕はあの人の息の細さが怖かった。今は、その細さが続くことを、祈っていた。
男が、梯子に片足をかけた。
ランプの炎が、揺れた。
風はない。男の手が、震えたのだ。その顔に一瞬、自分でも分からないものに怯えたような色が走った。
寒さのせいだろう、と僕は思った。
「……指揮官」
南門の兵士が、ぽつりと言った。
「こいつは、嘘のつけるやつじゃありません」
男は、答えなかった。しばらく、梯子の下の闇を見ていた。
それから、足を引いた。
「次へ行く」
揚げ板を閉めたのは、僕だった。
嘘のつけるやつじゃない。今日聞いた言葉の中で、それがいちばん痛かった。
外で、口ひげの男は地図を広げ、鉛筆で点をひとつ打った。この家が、知らない人の地図の上の、小さな印になった。
「我々はしばらく北の尾根にいる。何か思い出したら、来い」
最後まで家の中に残っていたのは、南門の兵士だった。
奥の寝床の脇で足を止め、毛皮の上から何かをつまみ上げて、窓の光にかざす。僕のところからは、それが何なのか見えなかった。
兵士はそれを、手袋の中に握り込んだ。
戸口で、兵士は振り返った。
「兵隊に『お気をつけて』って言うやつは、あんたくらいだって、前に言ったよな」
「……はい」
「今日は、言わないんだな」
言っていなかった。早く、帰ってほしかったから。
「……お気をつけて」
兵士は、僕の顔を長いあいだ見ていた。
「ああ。……あんたもな」
その目が一度だけ、卓の上の二つの器に落ちた。それから、列に戻っていった。
僕は、あの兵士の名前を知らない。何度も顔を合わせてきたのに、一度も聞かなかった。
向こうは、僕の名前を知っていたのに。
戸が、閉まった。
◇
窓から、去っていく列を数えた。十二。一人も欠けていない。
最後の一人が、木立に消える前に足を止めて、この家を振り返った。南門の兵士だった。
獣は、一度去ったふりをして戻ってくることがある。百数えてから動け、とおじいちゃんは言った。
百、数えた。
もう百、数えた。
薪の山に、小鳥は戻ってこなかった。
手が震えだしたのは、そのときだった。
奥の寝床の毛皮に、長い白い髪が一本、落ちていた。
南門の兵士がつまんでいたのも、これと同じものだったのかもしれない。
震える指で拾って、暖炉に落とした。髪は火に触れたとたんに縮れて、あとには何も残らなかった。
隠すために、燃やした。おばあちゃんの暖炉で。
揚げ板を上げた。
「ロノヴァ」
返事がなかった。朝、空の寝床を見たときと同じものが、背中を走った。
暗がりに、金色の光が二つ、浮かんでいた。
兵が明かりをかざしたときには、なかった光だった。あのあいだ、この人は目を閉じていたのだ。
ランプを提げて下りた。
ロノヴァは梯子の裏で、低い根太の下に背を丸めて立っていた。芽を出しかけた玉ねぎの袋の横。左腕に、衣を抱えて。
黒い右手が、胸の高さまで上がっていた。
見ているうちに、その手は、ゆっくりと下りていった。
梯子をつかもうとしていたのかもしれない。そうではなかったのかもしれない。
渡した毛皮は、足もとに置かれたまま、使われていなかった。
手を差し出すと、冷たい手が握り返してきた。
最初の夜の、あの冷たさだった。この九日で少しずつ戻ってきたと思っていた温かさが、どこにもなかった。貯蔵庫が冷えるせいだ、と僕は思った。
「……もう、行ったよ」
「……ああ」
ロノヴァは、僕の手を見ていた。いつものように。
いつもとは違う、震えている手を。
卓の器は冷えて、汁の表に白い脂が固まっていた。鍋の底は、焦げついていた。
「……今朝の占い、当たったね。遠くへ行くなって」
軽い声を作ったつもりだった。
ロノヴァは、「そういうものだ」とは言わなかった。黙って、匙を取った。
この人は、もうあの言葉を使わないつもりなのかもしれない。
なぜ分かったの、とは聞かなかった。聞けなかった。
ロノヴァは、全部食べた。分厚い芋の皮も、焦げの匂いが移ったところも。朝は数口で匙を置いた人が、器の底が見えるまで。
僕のほうは、半分も喉を通らなかった。いつもと、逆だった。
「……悪くは、ない」
「焦げてるよ」
「……悪くは、ない」
塩が多いときには「待て」と言った人が、焦げには何も言わなかった。
その「悪くは、ない」が、「おいしい」という意味ではないのかもしれないと、ふと思った。
◇
日が暮れるまでに、崩された薪を積み直し、床の泥を拭いて、貯蔵庫から僕の毛皮を引き上げた。
夜、いつものように軟膏の壺を出した。
脇腹の包帯を解くと、傷は塞がっていた。縁の黒いひびも、もう見えない。
「……もう、包帯はいらないね」
傷が癒えれば、去る。最初の朝にこの人が言った言葉を、僕は思い出していた。たぶん、この人も。
どちらも、口にしなかった。
腕に、軟膏を塗る。
肘の上から、指先へ。黒い肌に、赤い模様。
触れるな、という平らな声が耳に残っていて、手首のところで指が止まった。
今日、僕は嘘をついた。見ていません、と。
おばあちゃんは、見なかったことにしちゃいけないと言ったのに。
兵隊に渡したら、僕はもう、この人に粥を作れない。なぜ隠したのか、分かったのはそれだけだった。
誰のために嘘をついたのかも、僕は知らなかった。
知っていることを、数えてみる。名前は、ロノヴァ。占い師。三角の団子は、自分で食べる。
それしか知らないのに、それで足りていた。粥を炊くのにも、包帯を替えるのにも、名前より先のことはいらなかった。
ロノヴァは、いつも「なぜ」と聞く。
なぜ、わたしを拾った。なぜ、礼を言う。なぜ、そのような手間をかける。なぜ、隠す。
僕は一度も、「なぜ」と聞かなかった。
聞かないのは、優しさだと思っていた。たぶん、半分は。
残りの半分は——聞いたら、ロノヴァが、どこかへ帰る人になってしまう気がしたからだ。
「ロノヴァ」
ロノヴァが、こちらを見た。
「君は……何者なの?」
暖炉の火が、一度、はぜた。
二度目は、なかなか来なかった。
ロノヴァは、目をそらさなかった。占い師かと聞いたあの朝は、器に目を落としたのに。
唇が、一度だけ開いた。
そして、閉じた。
金色の目の奥の、七枚の花びらは、揺れなかった。
腕も、引かなかった。冷たい腕は、僕の手の中に置かれたままだった。
昼、揚げ板を閉めたのは、僕だった。
今は、ロノヴァが、自分で戸を閉めている。
僕は、その前に立っている。
いつもの「そっか」は、出てこなかった。言いたくないならいいよ、とも、言わなかった。
止まっていた指を、また動かした。小指の先まで。
痛くならないように。
それだけは、昨日と変わらなかった。
灯りを落とした。
「おやすみ、ロノヴァ」
暗がりの向こうから、声がした。
「……トイヴォ」
名前を呼んで、それきりだった。
「うん」
僕は、待った。
続きは、来なかった。
暖炉の向こうから、寝息は聞こえなかった。僕も、眠れなかった。
◇
朝、目を覚まして、まず暖炉の向こうをのぞいた。
ロノヴァは、いた。奥の寝床で、壁に背を預けて、目を開けていた。
確かめたのは、息をしているかどうかではなかった。
そこにまだ、ロノヴァがいるかどうかだった。
薪を取りに、戸を開けた。
夜のうちに、雪は降らなかった。家の前の雪には、十二人ぶんの足跡と、棒を突き立てた穴が、昨日のまま残っていた。
雪は何でも隠してしまう、とおばあちゃんは言った。
この朝の雪は、何も隠してくれなかった。
朝、目を覚まして最初にすることが、またひとつ増えた。
お読みいただきありがとうございました。
次回、第6話「旅支度の包み」はロノヴァ視点でお送りします。