死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※今回はトイヴォ視点です。


第5話 雪の中の兵隊

 朝、目を覚まして、いつものように暖炉の向こうをのぞいた。

 寝床が、空だった。

 心臓が、ひとつ跳ねた。

 

 首筋に、冷気が触れた。

 振り向くと、ロノヴァが窓辺に立っていた。

 おばあちゃんの上着の短い袖から、黒い手首がのぞいている。窓の霜の花が、指一本ぶんだけ細く拭われていて、その隙間から、ロノヴァは外を見ていた。町のあるほう、北を。

 寝床を窓から離してくれと言った人が、窓辺に立っていた。

 

「……びっくりした。いないかと思った」

 ロノヴァは、振り向かなかった。

「寒くないの? 毛布、持ってこようか」

「……毛布は——」

「必要ない、でしょ」

 先に言うと、ロノヴァは眉を寄せて、黙った。

 いつもの形だった。

「何か見える?」

「……雪だ」

 それは、見れば分かる。

 晴れた、風のない朝だった。

 

 朝ご飯は、燕麦の粥にした。

 塩は、指でつまんで量って入れる。ひとつまみと、半分。昨日「待て」と言われてから、そうしている。

 ロノヴァは寝床に戻らず、窓のそばの椅子で器を膝に載せた。ひと匙すくって、しばらく口の中に置いていた。

「……今日は、多くない」

 僕は、少しだけ誇らしかった。

 けれどロノヴァは、数口で匙を置いた。また、窓のほうを見た。

「もういいの?」

「……ああ」

「でも——」

 ロノヴァは、眉を寄せなかった。

 窓を見たまま、何も言わなかった。「でも」が効かない朝は、初めてだった。

 ゆうべ、眠れなかったのだろう。僕は、そう思うことにした。この人の顔は、たいていのとき、何を考えているのか分からない。

 

 繕いものは、残りが一か所になっていた。

 左の脇の、いちばん大きな裂け目。縁が、焦げたように黒く縮れている。ちょうど、脇腹の傷のところだった。

「これが直ったら、ちゃんと丈の合う服が着られるね」

「……そうだな」

 

 輪罠の替えの針金を束ねて、背負い袋を肩にかけたときだった。

「トイヴォ。今日は、遠くへ行くな」

「罠を見に行こうと思ってたんだけど」

「明日にしろ」

「……占い?」

「……そういうものだと、思っておけ」

 なんだか、楽しくなった。占い師さんに、今日の運勢を言われたみたいだ。

「じゃあ、今日は家のまわりにいるよ」

 

   ◇

 

 家のそばで、薪を割った。

 斧の乾いた音が、森に跳ね返る。割れた白樺の断面から、青くて甘い匂いが立つ。

 静かすぎた。

 薪の山には、いつも胸の黄色い小鳥が来る。

 今日は、一羽も来なかった。

 

 沢の上手の、木々の切れ目から、北の尾根が見える。

 その上に、細い煙が三筋、糸を垂らしたようにまっすぐ昇っていた。

 炊煙だ。

 あのあたりに、人は住んでいない。猟師ひとりなら、煙は一筋のはずだ。

 市場で聞いた声を、思い出した。——女皇様の兵隊が、まだ街の外を探し回ってる。南門の兵士の、いつもより固い声も。——このあたりにも、上から人が出てる。

 関係ない。たぶん、関係——。

 家の窓を振り返った。

 霜の花の向こうに、白い髪が見えた。ロノヴァも、同じほうを見ていた。

 

 家に入って、言った。

「北の尾根で、煙が上がってた。三筋。猟師かな」

「……猟師ではない」

 僕は、続きを待った。

 ロノヴァは、言わなかった。

 聞かなかった。いつものように。

 

 胸の奥が、ざわついた。タイムが枯れた朝のように。

 だから、手を動かすことにした。

 

 暖炉の部屋の、流しのそば。水甕の横の床に、おばあちゃんが古い布を裂いて編んだ敷物がある。めくると、床板に鉄の輪がついている。貯蔵庫の揚げ板だ。

 輪を引くと、冷たい空気と、土と玉ねぎの匂いが上がってきた。

 ランプを提げて、六段の梯子を下りる。背を伸ばすと、根太に頭が触れそうになる。芋の麻袋。玉ねぎの袋。塩漬け肉の樽。おばあちゃんのやり方で漬けた甕。玉ねぎのいくつかは、もう芽を出しかけていた。

 梯子の裏には、ランプの光が届かない。

 子どものころ、かくれんぼでは、いつもそこに隠れた。おばあちゃんは「トイヴォはどこに行ったのかねえ」と言って、最後まで、見つけられないふりをしてくれた。

 

 玉ねぎと塩漬け肉を抱えて上がり、鍋に入れた。昨日ロノヴァが剥きすぎた、分厚い芋の皮も、刻んで落とす。

 

   ◇

 

 汁が煮えるのを待つあいだ、最後の裂け目に針を入れた。

 ロノヴァは奥の寝床に腰を下ろして、僕の手元を見ていた。

 針を引く、かすかな音。鍋が、ことこと鳴る音。

 

 縫い終わらないうちに、汁が煮えた。

 器を二つ、匙を二本。卓に並べて、汁をよそった。繕いかけの衣は、僕の腰掛けの上に置いた。

「昨日の皮、入ってるよ。君が剥いた、分厚いの」

「……境界が、曖昧だっただけだ」

 僕は笑った。

 

 ロノヴァが匙を取って、止まった。

 それから、立ち上がった。

 僕には、まだ何も聞こえていなかった。

 

 少し遅れて、聞こえた。

 雪を踏む音が、揃っていた。同じ間隔で、同じ重さで。その合間に、金具の触れ合う硬い音。

 獣の足並みではなかった。

 窓の霜の隙間から、外を見た。木立のあいだを、暗い色の外套が列になって来る。肩に担いだ長い棒。南門で見慣れた外套だった。

 鹿を数えるときの癖で、数えていた。

「……八、九、十」

「十二だ」

 背中から、ロノヴァの声がした。

 一拍おいて、木の陰から二人が出てきた。十一。十二。

 なぜ知っているのか、聞く暇はなかった。

 暇があっても、たぶん、聞かなかった。

 

 振り返ると、ロノヴァは腰掛けの上の衣を取り、袖に腕を通しかけながら、戸口へ歩き出していた。

「ロノヴァ?」

 とっさに、手首をつかんだ。

 黒い腕は、雪みたいに冷たかった。そして、強かった。僕の手くらい、簡単に振りほどける力が、その腕にはあった。

 それでも、ほどかれなかった。

「……離せ、トイヴォ。わたしが出れば、済む」

「……だめだよ」

 この人の言うことを、はっきり拒んだのは、初めてだった。

 済む、というのが何のことなのか、僕は考えなかった。

 

 敷物をはねのけた。鉄の輪を引いた。冷気と、土の匂い。

「入って。梯子の裏。光が届かないから」

「……なぜ、隠す」

 最初の夜に聞いた「なぜ、まだ」と、同じ声だった。

「分からない」

 本当に、分からなかった。

「……分からないけど、入って。お願いだから」

 金色の目が、僕を見た。瞳の奥の、七枚の花びら。長い一瞬だった。

 それからロノヴァは、背の高い体を折って、梯子を下りた。衣は胸に抱えたまま。白い髪が段を流れて、闇に吸い込まれた。

 

 暖炉のこちら側に敷いていた、僕の毛皮を丸めて、穴の中へ差し出した。

「寒いから」

 返事はなかった。冷たい手が、黙ってそれを受け取った。

 揚げ板を閉めた。敷物を戻して、手のひらで皺を伸ばした。何度も、伸ばした。

 

 卓の上では、二つの器が、まだ湯気を立てていた。

 僕は、それを見ていなかった。

 鍋も、火にかかったままだった。

 

 戸が、叩かれた。三度、間を置かずに。

 

 戸を開けると、冷気と一緒に、濡れた毛織りと油と、凍てついた鉄の匂いが入ってきた。

 先頭に立っていたのは、隊を率いているらしい四十がらみの男だった。灰色の口ひげに霜がつき、腰に剣を下げている。瞬きが、少なかった。

「上の命により、この一帯を改めている」

 平らな声だった。

 男の後ろに、南門の、あの兵士がいた。

 目が合うと、兵士はわずかに目を見開いた。

「……あんたの家だったのか。……関係のない話だって、言ったのにな」

「知り合いか」

「トイヴォという猟師です。毛皮を売りに、年に四度、南門を通ります」

 兵士は、僕の名前を知っていた。

「住人は、貴様ひとりか」

「……はい。祖母が亡くなってからは」

 四年のあいだ本当だった言葉が、今は、嘘になっていた。

 

「黒い羽根をまとった女を、見なかったか」

「……黒い羽根、ですか」

 指先で崩れた、あの羽根。煤のように、灰のように。

 さっきあの人が袖を通しかけた、羽根を細かく織り上げたような衣。

 それは今、この床の下にある。

「背の高い女だ。髪は白い」

 ——雪原で見つけたものは、見なかったことにしちゃいけないよ。

「見ていません」

 声は、震えなかった。

 嘘は、思ったより簡単に口から出た。簡単に出たことが、怖かった。

「見つけても、近づくな。触れるな。生きていても、死んでいても、我々に知らせろ」

 触れるなと言われたその腕に、僕は毎晩、指の一本一本まで軟膏を塗っている。

 

「こいつは、吹雪の前の日に南門を出ています」

 南門の兵士が言った。

「なら、帰り道で吹雪に遭ったろう」

「はい。岩陰でやり過ごしました」

「窪地に近い岩陰に、枝が一本立ててあった。人の手で立てた目印だ」

「僕のです」

 言ってから、しまったと思った。

「荷が重かったので、小麦粉と油の樽を置いていって、次の日に取りに戻りました」

 全部、本当だった。ひとつだけ、抜けているだけで。

 南門の兵士の目が、一拍長く、僕の上で止まった。

「窪地には、気づかなかったか」

「……気づきませんでした。日が暮れかけていたので、急いで帰りたくて」

「あの日、早く帰れと言ったのは俺です」

 あの日の親切が、僕の言い訳になった。

 

「窪地のまわりで、灌木が輪になって黒く枯れていた」

 口ひげの男が言った。

「手がかりは、そこで切れている。あとは雪が埋めた。——あの窪地からいちばん近い家が、ここだ」

 思い出した。

 黒く縮れて、触れれば崩れそうに乾いた葉。三日前の朝、どこかで見たことがあると思った枯れ方。あれは、あの窪地だった。

 それが何を意味するのかは、考えなかった。三日前も、そうだった。

 棚の上に、同じ枯れ方をした鉢がある。

 なぜか、そちらへ目をやることができなかった。

「中を改めさせてもらう」

 頼んでいる声ではなかった。

 

 窓の外で、兵隊たちが長い棒を雪の吹き溜まりに突き刺していく。薪の山が崩される音がした。

 生きている人を探す手つきではなかった。雪の下に埋まったものを探す手つきだった。

 入ってきたのは、三人。口ひげの男と、南門の兵士と、頬に古い傷のある兵士。鋲を打った長靴から雪が溶けて、床に泥水が広がっていく。

 鍋の底が焦げはじめる匂いがした。火から下ろすことを、僕は思いつかなかった。

 

 頬に傷のある兵士が寝台の部屋の戸を開け、口ひげの男と中をのぞいた。そこには、藁布団を下ろしたきりの寝台の枠しかない。

 

 南門の兵士が、卓の前で止まっていた。湯気は、もう細い。

「……二つ、だな」

「……おばあちゃんの分です。死んでからも、つい、よそってしまうんです。もう四年になるのに、なかなか直らなくて」

 兵士は、しばらく器を見ていた。

「……そうか」

 おばあちゃんを、嘘に使った。胸の底に、石がひとつ沈んだ。

 

 兵士はそれから、棚の前で足を止めた。

 黒く縮れたタイムに、指先で触れる。葉は、粉になってこぼれた。

 兵士は、長いあいだ、それを見ていた。窪地の話は、この兵士も聞いていた。

 それから、僕のほうを見た。

「……霜か」

「はい」

 三日前、自分にそう言い聞かせた言葉を、今日は信じきれないまま口にした。そして、言わなくていい本当のことを足した。

「……根は、生きてます」

 兵士は何も言わずに、指先の粉を払った。

 

 頬に傷のある兵士が戻ってきて、奥の寝床の前で足を止めた。

「冬は、こっちで寝るのか」

「はい。薪が、もったいないので」

 兵士は毛皮をめくり、藁布団に手のひらを当てた。

「……冷てえ。誰も寝てねえな、こりゃ」

「朝が、早いので」

 それは、本当だった。

 そのとき、気づいた。

 寝床は、ひとつしかない。僕の毛皮を暖炉のこちら側に敷いたままなら、二つあったはずだ。

 ついさっきまで、あの人はそこに腰かけていた。いつも雪みたいに冷たい体だ。その冷たさが、今は、あの人を守っていた。

 

 口ひげの男の長靴が、流しのそばで止まった。

 敷物の上だった。そこだけ、板の音が違った。うつろな、低い音。

「下は何だ」

「貯蔵庫です。芋と、塩漬けの肉と、玉ねぎと、おばあちゃんの甕と、それから——」

「……あんた、今日はよく喋るな」

 南門の兵士は、笑っていなかった。

「開けろ」

 口ひげの男が言った。

 

 僕は膝をついて、鉄の輪に指をかけた。

 手は、震えなかった。罠にかかった兎の首に手をかけるときと、同じだった。

 揚げ板を開けると、冷気が上がってきた。

 貯蔵庫の冷たさではなかった。雪原であの羽根に触れたときの、もっと奥まで染みてくる冷たさ。気づいたのは、僕だけだと思った。

「明かりを」

 ランプに火を入れた。町から運んできた油が燃えはじめる。

 男がそれを取って、穴の上に掲げた。光は、梯子の下の半分と、芋の袋と、樽と、甕の口までしか届かなかった。

 梯子の裏は、黒かった。渡した毛皮も、光の外にあった。

 息の音は、ひとつもしない。

 最初の夜、僕はあの人の息の細さが怖かった。今は、その細さが続くことを、祈っていた。

 

 男が、梯子に片足をかけた。

 ランプの炎が、揺れた。

 風はない。男の手が、震えたのだ。その顔に一瞬、自分でも分からないものに怯えたような色が走った。

 寒さのせいだろう、と僕は思った。

「……指揮官」

 南門の兵士が、ぽつりと言った。

「こいつは、嘘のつけるやつじゃありません」

 男は、答えなかった。しばらく、梯子の下の闇を見ていた。

 それから、足を引いた。

「次へ行く」

 

 揚げ板を閉めたのは、僕だった。

 嘘のつけるやつじゃない。今日聞いた言葉の中で、それがいちばん痛かった。

 

 外で、口ひげの男は地図を広げ、鉛筆で点をひとつ打った。この家が、知らない人の地図の上の、小さな印になった。

「我々はしばらく北の尾根にいる。何か思い出したら、来い」

 

 最後まで家の中に残っていたのは、南門の兵士だった。

 奥の寝床の脇で足を止め、毛皮の上から何かをつまみ上げて、窓の光にかざす。僕のところからは、それが何なのか見えなかった。

 兵士はそれを、手袋の中に握り込んだ。

 戸口で、兵士は振り返った。

「兵隊に『お気をつけて』って言うやつは、あんたくらいだって、前に言ったよな」

「……はい」

「今日は、言わないんだな」

 言っていなかった。早く、帰ってほしかったから。

「……お気をつけて」

 兵士は、僕の顔を長いあいだ見ていた。

「ああ。……あんたもな」

 その目が一度だけ、卓の上の二つの器に落ちた。それから、列に戻っていった。

 

 僕は、あの兵士の名前を知らない。何度も顔を合わせてきたのに、一度も聞かなかった。

 向こうは、僕の名前を知っていたのに。

 戸が、閉まった。

 

   ◇

 

 窓から、去っていく列を数えた。十二。一人も欠けていない。

 最後の一人が、木立に消える前に足を止めて、この家を振り返った。南門の兵士だった。

 獣は、一度去ったふりをして戻ってくることがある。百数えてから動け、とおじいちゃんは言った。

 百、数えた。

 もう百、数えた。

 薪の山に、小鳥は戻ってこなかった。

 手が震えだしたのは、そのときだった。

 

 奥の寝床の毛皮に、長い白い髪が一本、落ちていた。

 南門の兵士がつまんでいたのも、これと同じものだったのかもしれない。

 震える指で拾って、暖炉に落とした。髪は火に触れたとたんに縮れて、あとには何も残らなかった。

 隠すために、燃やした。おばあちゃんの暖炉で。

 

 揚げ板を上げた。

「ロノヴァ」

 返事がなかった。朝、空の寝床を見たときと同じものが、背中を走った。

 暗がりに、金色の光が二つ、浮かんでいた。

 兵が明かりをかざしたときには、なかった光だった。あのあいだ、この人は目を閉じていたのだ。

 

 ランプを提げて下りた。

 ロノヴァは梯子の裏で、低い根太の下に背を丸めて立っていた。芽を出しかけた玉ねぎの袋の横。左腕に、衣を抱えて。

 黒い右手が、胸の高さまで上がっていた。

 見ているうちに、その手は、ゆっくりと下りていった。

 梯子をつかもうとしていたのかもしれない。そうではなかったのかもしれない。

 渡した毛皮は、足もとに置かれたまま、使われていなかった。

 

 手を差し出すと、冷たい手が握り返してきた。

 最初の夜の、あの冷たさだった。この九日で少しずつ戻ってきたと思っていた温かさが、どこにもなかった。貯蔵庫が冷えるせいだ、と僕は思った。

「……もう、行ったよ」

「……ああ」

 ロノヴァは、僕の手を見ていた。いつものように。

 いつもとは違う、震えている手を。

 

 卓の器は冷えて、汁の表に白い脂が固まっていた。鍋の底は、焦げついていた。

「……今朝の占い、当たったね。遠くへ行くなって」

 軽い声を作ったつもりだった。

 ロノヴァは、「そういうものだ」とは言わなかった。黙って、匙を取った。

 この人は、もうあの言葉を使わないつもりなのかもしれない。

 なぜ分かったの、とは聞かなかった。聞けなかった。

 

 ロノヴァは、全部食べた。分厚い芋の皮も、焦げの匂いが移ったところも。朝は数口で匙を置いた人が、器の底が見えるまで。

 僕のほうは、半分も喉を通らなかった。いつもと、逆だった。

「……悪くは、ない」

「焦げてるよ」

「……悪くは、ない」

 塩が多いときには「待て」と言った人が、焦げには何も言わなかった。

 その「悪くは、ない」が、「おいしい」という意味ではないのかもしれないと、ふと思った。

 

   ◇

 

 日が暮れるまでに、崩された薪を積み直し、床の泥を拭いて、貯蔵庫から僕の毛皮を引き上げた。

 

 夜、いつものように軟膏の壺を出した。

 脇腹の包帯を解くと、傷は塞がっていた。縁の黒いひびも、もう見えない。

「……もう、包帯はいらないね」

 傷が癒えれば、去る。最初の朝にこの人が言った言葉を、僕は思い出していた。たぶん、この人も。

 どちらも、口にしなかった。

 腕に、軟膏を塗る。

 肘の上から、指先へ。黒い肌に、赤い模様。

 触れるな、という平らな声が耳に残っていて、手首のところで指が止まった。

 

 今日、僕は嘘をついた。見ていません、と。

 おばあちゃんは、見なかったことにしちゃいけないと言ったのに。

 兵隊に渡したら、僕はもう、この人に粥を作れない。なぜ隠したのか、分かったのはそれだけだった。

 誰のために嘘をついたのかも、僕は知らなかった。

 

 知っていることを、数えてみる。名前は、ロノヴァ。占い師。三角の団子は、自分で食べる。

 それしか知らないのに、それで足りていた。粥を炊くのにも、包帯を替えるのにも、名前より先のことはいらなかった。

 

 ロノヴァは、いつも「なぜ」と聞く。

 なぜ、わたしを拾った。なぜ、礼を言う。なぜ、そのような手間をかける。なぜ、隠す。

 僕は一度も、「なぜ」と聞かなかった。

 聞かないのは、優しさだと思っていた。たぶん、半分は。

 残りの半分は——聞いたら、ロノヴァが、どこかへ帰る人になってしまう気がしたからだ。

 

「ロノヴァ」

 ロノヴァが、こちらを見た。

「君は……何者なの?」

 

 暖炉の火が、一度、はぜた。

 二度目は、なかなか来なかった。

 ロノヴァは、目をそらさなかった。占い師かと聞いたあの朝は、器に目を落としたのに。

 唇が、一度だけ開いた。

 そして、閉じた。

 金色の目の奥の、七枚の花びらは、揺れなかった。

 腕も、引かなかった。冷たい腕は、僕の手の中に置かれたままだった。

 

 昼、揚げ板を閉めたのは、僕だった。

 今は、ロノヴァが、自分で戸を閉めている。

 僕は、その前に立っている。

 

 いつもの「そっか」は、出てこなかった。言いたくないならいいよ、とも、言わなかった。

 止まっていた指を、また動かした。小指の先まで。

 痛くならないように。

 それだけは、昨日と変わらなかった。

 

 灯りを落とした。

「おやすみ、ロノヴァ」

 暗がりの向こうから、声がした。

「……トイヴォ」

 名前を呼んで、それきりだった。

「うん」

 僕は、待った。

 続きは、来なかった。

 暖炉の向こうから、寝息は聞こえなかった。僕も、眠れなかった。

 

   ◇

 

 朝、目を覚まして、まず暖炉の向こうをのぞいた。

 ロノヴァは、いた。奥の寝床で、壁に背を預けて、目を開けていた。

 確かめたのは、息をしているかどうかではなかった。

 そこにまだ、ロノヴァがいるかどうかだった。

 

 薪を取りに、戸を開けた。

 夜のうちに、雪は降らなかった。家の前の雪には、十二人ぶんの足跡と、棒を突き立てた穴が、昨日のまま残っていた。

 雪は何でも隠してしまう、とおばあちゃんは言った。

 この朝の雪は、何も隠してくれなかった。

 

 朝、目を覚まして最初にすることが、またひとつ増えた。




お読みいただきありがとうございました。
次回、第6話「旅支度の包み」はロノヴァ視点でお送りします。
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