死の執政に、粥を一匙   作:いくと

6 / 7
※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※今回はロノヴァ視点です。


第6話 旅支度の包み

 トイヴォは、わたしの息を確かめなかった。

 

 一晩じゅう、わたしは起きていた。

 暖炉の向こうの息も、明け方まで、寝息にならなかった。

 毎朝、身を起こしたトイヴォの目は、まずわたしの胸で止まった。毛布が上下しているかを、確かめるために。

 今朝は、顔で止まった。

 

「……おはよう」

 いつもより、一拍遅かった。

 答えなかった。この家で、その言葉に答えたことは、一度もない。

 昨夜の問いにも、まだ答えていない。何を言いかけたのかは、分かっている。なぜ唇を閉じたのかは、まだ、分類していない。

 

 脇腹に、手を当てた。包帯は、昨夜外れた。

 傷が癒えれば、去る。最初の朝、わたしはそう言った。

 条件は、揃った。確認と呼ぶには、ずいぶん長く、手を当てていた。

 

 トイヴォが、薪を取りに戸を開けた。

 背中ごしに、十二人ぶんの足跡が見えた。吹き溜まりのひとつひとつに、同じ間隔で、黒い穴があいている。

 棒の穴だ。

 床下で、わたしは平らな声を聞いていた。生きていても、死んでいても、我々に知らせろ。

 生きている者を探すなら、名を呼ぶ。棒は、呼んでも答えないものを探すための道具だ。

 彼らが探しているのは、わたしではない。

 わたしの死だ。

 見届けられていない死は、記録の上では終わらない。だから彼らは、見つかるまで雪を突く。

 死を確かめるのは、わたしの職務だった。今は、わたしの死が、誰かの帳面の上で、確認を待っている。

 

 生きているわたしが見つかれば、この家は、女を匿った家になる。見ていません、は、女皇の兵を欺いた言葉になる。

 わたしがいなければ、ここは、ただの猟師の家だ。

 

 外で、斧の音が始まった。その音の主の糸を見ようとして、やめた。

 見れば、長さが分かる。五日前、わたしはこの糸を見て、まだ長い、と言った。その次の朝、窓辺の草が終わった。

 分かってしまうことを、わたしは、避けた。

 

 薪を抱えて戻ったトイヴォが、ひとりごとのように言った。

「あの兵隊さん、町の南の門にいる人なんだ。……僕の名前、知ってた。僕は、あの人の名前、知らないのに」

 わたしは、答えなかった。

 兵の顔を、わたしは見ていない。

 嘘のつけるやつじゃありません、と言った声の主の糸は、家の中で三度止まった。卓の、二つの器の前。棚の、鉢の前。わたしの寝床の脇。そこで、糸が低くなった。身をかがめたのだ。

 去るときも、木立の手前で、もう一度止まった。

 わたしは、それを、ためらう糸、と呼んだ。見つけたものを、見なかったことにしない者の止まり方だった。

 

 北の尾根に、糸が十二。

 その中に、ためらう糸がある。

 

   ◇

 

 トイヴォは、棚の枯れた鉢の土に指先で触れて、水を少しだけ落とした。目は、鉢を見ていなかった。

 鉢の隣に、蜂蜜の小瓶がある。最初の朝、わたしの粥に垂らされた金色のものは、瓶の底に、指一本ぶんしか残っていない。

 

 昼前、トイヴォは貯蔵庫から玉ねぎの袋を上げた。口を開けて、手が止まった。

 芽を出しかけていた四つだけが、黒く萎びていた。芽の先は、焼き切った糸のようだった。

「……芽が出てたのだけ、だめになってる」

 ひとつを剥く。二枚目も、三枚目も、黒い。

「……中まで、黒いや」

 皮と身の境界を、探す必要はなかった。どこまでも、黒かった。

 トイヴォは長いあいだそれを見て、四つとも火にくべた。黒いものが、もっと黒くなって、崩れた。

「下、冷えたんだね」

 棚は見なかった。わたしの顔も、見なかった。

 この家で何かが捨てられるのを、わたしは見たことがなかった。無駄になるものは、この家にはない。そのはずだった。

 

 昨日、あの袋は、梯子の裏の、わたしのすぐ横にあった。

 揚げ板が閉じると、闇になった。左腕に衣を抱え、毛皮は足もとに置いた。使えば、両腕がふさがる。右手は、空いたままだった。

 揚げ板が開いて光が下りてきたとき、わたしは目を閉じた。閉じると、糸がよく見えた。

 梯子が、一段、軋んだ。平らな声の男の糸が、一段、近づいた。

 右手が、上がった。

 上げると決めたのではない。下ろすとも、決めていなかった。わたしは、まだ決めていなかった。決める前に、手のほうが、昔から知っている形になっていた。

 男の糸が、すくんだ。短くなったのではない。鷹の影の下で、兎が身を縮めるように。

 本人は、寒さのせいだと思っただろう。

 上から、声がした。こいつは、嘘のつけるやつじゃありません。

 男は、足を引いた。

 止めたのは、わたしではない。わたしが何かを決める前に、あの男が退いた。わたしの手は、何も決めないまま、胸の高さで行き先をなくした。

 トイヴォの灯りが下りてきたとき、手は下りた。下ろしたのか、下りたのか。それも、分からない。

 次に誰かが梯子を下りてきたら、この手がどうするのか。わたしは、知らない。知るとしたら、トイヴォの前でだ。

 

 終わったのは、あの男ではなかった。梯子の裏の、わたしのすぐ横で、芽を出しかけていたものから、終わった。春のほうへ、糸をいちばん伸ばそうとしていたものから。

 わたしは、何もしていない。何もしなくても、わたしの横では、終わる。

 

 玉ねぎの芽。貯蔵庫、梯子の裏。四つ。

 

 棚の鉢に、触れないように、遠くから意識を向けた。根の糸は、枯れた朝より、細い。

 春を待っているものから、終わる。

 ——あの根も、春を待っている。

 

   ◇

 

「今日は、遠くへ行ってもいい?」

 昼の汁のあと、戸口でトイヴォが振り返った。昨日の占いを、守っているのだった。

 尾根の十二本は、動かない。

「……ああ」

 

 ひとりになって、脇腹に触れた。

 塞がっている。ただ、皮の下に、冷たい線が一本残っていた。あの道化の男の目が、通った跡だ。

 枕元の衣を広げた。左の脇の裂け目に、針が刺さったまま、糸が垂れていた。

 縫い目は、あの昼、汁が煮えたところで止まっている。

 続きを縫おうとした。黒い指は、針をつまめなかった。

 窓の外で、小さくて速い糸がいくつか、薪の山に戻ってきた。昨日は一羽も来なかった、胸の黄色い小鳥だ。

 わたしは、衣を膝に置いたまま、壁のほうへ身を引いた。

 引いても届くことを、知っていた。

 

 帳面をつけるように、並べた。

 一、傷は、癒えた。

 二、兵。トイヴォが、巻き込まれる。

 三、わたしの周りでは、糸が細る。玉ねぎが終わった。棚の根は、春までもたない。

 ——よって、去る。

 帳尻は、合っていた。

 合っているのに、帳面を閉じる手が、動かなかった。

 

 夕食の卓で、わたしは匙を置いた。

「傷は、癒えた」

「……うん」

「去る」

 トイヴォの匙が、止まった。

 家の外の沢の音が、急に近くなった。

「……治ったもんね」

 トイヴォは、また匙を動かした。

 治るまで、いればいいよ。最初の朝、トイヴォはそう言った。その「まで」を、わたしは一度も気に留めていなかった。期限つきの許しだった。期限は、昨夜、包帯と一緒に外れた。

 トイヴォは、自分の言ったことを守る人間だ。できるようになったら、自分でやってね、と言って、待った。

「いつ?」

「……明後日の、朝」

 明日、と言うつもりだった。

 尾根の兵の動きを見きわめるためだ、と自分に言った。一日を自分に許したのだとは、言わなかった。自分にも。

「何日くらい、歩く?」

「……分からない」

「じゃあ、多めにするね」

 どこへとも、なぜとも、聞かれなかった。聞かれたのは、日数だけだった。粥を炊く者の問いだった。

 分からない、と答えてから、気づいた。わたしは、行き先を持っていない。糸の少ないほう。わたしが通っても、何も終わらないところ。

 

「占い師さんって、ひとところには、いないものなんだっけ」

 そういうものだ、と言えば、それで済んだ。あれは、トイヴォの問いにかぶせる蓋だった。

 わたしは、言わなかった。

 昨夜、一度だけ、何者か、と聞いた男は、二度は聞かなかった。

 

 夜、トイヴォは種壺の酸っぱい種を粉と水で練り、布をかぶせて火のそばに置いた。

 多めに、の意味が分かった。パンだ。半日をかける、あれだ。

 灯りが落ちると、夜の音が残った。熾火。沢。壁の中で、鼠が爪を立てる、かり、かり、という音。毎晩聞いてきた音だ。

 薪の山では、小さな糸が二つ、夜の底で細っていった。

 

   ◇

 

 夜明け前、その二つが終わった。

 記録した。いつものように。

 ——いつものようには、いかなかった。

 

 胸の黄色い小鳥。薪の山。二羽。

 

 朝、薪の山の前で、トイヴォが身をかがめた。

 わたしは、窓の霜の隙間から見ていた。

 トイヴォは一羽を手のひらに載せて、しばらく見ていた。それから、雪に小さな穴を二つ掘って、埋めた。

 何も言わなかった。兎には、ありがとう、と言う男が。

 この二羽の命をもらったのは、トイヴォではない。礼を言うべき者がいるとすれば、わたしだった。

 

 薪の山の裏で、トイヴォの足が止まった。

 空き地の縁の、低い灌木が、黒く縮れていた。

 トイヴォはその前で、長いあいだ立っていた。しゃがまなかった。窓を振り返らなかった。

 薪を抱えて、戻ってきた。

「小鳥が、二羽。……凍えてた。今年は、寒いね」

 今朝は、この冬でいちばん穏やかな朝だった。

 トイヴォの手のひらに小さな死が載るのは、三度目だった。霜。底冷え。寒さ。三度とも、冬の名で呼んだ。

 灌木には、冬の名前も、つけなかった。

 

 意識を広げた。

 家を中心にして、糸の細っている円があった。その外は、いつもどおりだった。

 輪だった。窪地の灌木と、同じ形の。

 手がかりは、そこで切れている。——床板ごしに、平らな声はそう言った。

 この輪では、切れない。輪の真ん中に、この家がある。

 わたしは、この家に、印をつけている。

 輪は、昨日より広かった。棚の根は、そのいちばん内側にあった。

 

 灌木。一周。

 

 トイヴォが戸口で空を見て、風を嗅いだ。こちらを見ずに言った。

「明日は、夜明け前から雪になるよ。昼には止むと思う」

 旅、という言葉を使わずに、旅に要ることを、トイヴォは渡している。

 トイヴォはこの二日、一度も棚を見ていない。

 

 午後、わたしは窓のそばの椅子に座った。

 部屋には、背を向けた。トイヴォの手元を見ないために。見れば、決めたことが、ほどける。

 

 背中で、音を聞いた。

 生地を捏ねる音。干し肉を削ぐ小刀の音。

 麺棒が、板を転がる音。包み団子の皮だ。包む係は、今日は回ってこなかった。

 玉ねぎを焼く匂い。焦がしている。わざと。

 やがて、針を引く、かすかな音。どこを縫っているのか、分かった。振り向かなかった。

 糸を引く音がやんで、少し間があって、ぷつり、と鳴った。

 

 窓の向こうで、灌木の糸がまたひとつ細った。輪は、朝よりひとまわり広い。

 今すぐ、発つべきだった。

 立ち上がりかけたところで、パンの焼ける匂いが、家に満ちはじめた。

 パンが、焼けるまで。夜の森を、兵は動かない。

 ——理由は、いくらでも作れた。

 窓に向かったまま、口から出たのは、パンの日の言葉だった。

「……非効率だ」

「そうかもね」

 振り向けば、トイヴォは笑っているのだろう、と思った。

 笑い声は、聞こえなかった。

 わたしは、振り向かなかった。

 

「ロノヴァ。これ、外に出しておいてくれる? 軒下の、日の当たらないところ」

 振り向くしか、なくなった。

 板の上に、揃った団子が並んでいた。ひとつだけ、縁の開きかけたものがあった。

 わたしの作ったものでは、なかった。

 軒下へ、板を出した。戻ると、包みはほとんど結ばれていて、団子を入れる口だけが残っていた。

 何を入れたのか、すべては見ていない。背を向けていたからだ。

 

   ◇

 

 夕食は、澄んだスープだった。

 ひと匙で、分かった。覚えていないが、知っている味だった。焦げた何かの、かすかに苦くて、それでいて甘いもの——最初の朝の粥の底に沈んでいて、名前を持たないまま舌の上でほどけたものが、今夜は、器の真ん中にあった。

「これ、最初の夜に君が飲んだスープ。……覚えてないよね」

「……覚えていない」

「おばあちゃんは、起きあがりのスープって呼んでた。飲めば、起きあがれるからって。……玉ねぎをね、切り口が黒くなるまで焼くんだ。焦がすと、甘くなる」

 袋の下のほうの、無事だった玉ねぎだ。

 トイヴォが黒くしたものは、甘くなる。わたしが黒くしたものは、火にくべられる。

 このスープは、起きあがって、歩く者のためのものだ。

 

 塩が、少し強かった。

 待て、とは言わなかった。水を足したところで、理由は薄まらない。

「……悪くは、ない」

 違う言葉だと、分かっていた。ほかの言葉は、持っていない。

 一つひとつの死を、わたしは覚えない。記録はしても、覚えはしない。覚えていては、職務は成り立たない。

 ——これは、覚えておくことにした。覚える必要のないものを、初めて。

 

 片づけのあと、トイヴォは縫い終えた衣を畳んで、寝床の足もとに置いた。衣のことは、何も言わなかった。

 それから、凍った団子を入れて口を結んだ包みを、両手で差し出した。

「これ」

 受け取った。

 重かった。

 軽いね、と最初の日に、トイヴォは言った。わたしは、軽かった。この包みは、重い。

 布ごしに、焼いたパンの丸みが分かった。

 結び目が、大きかった。黒い指でもほどけるように。形の揃った団子をひとつも包めなかった、あの指のために。

 

「……食料は、必要——」

「でも、食べられるでしょ」

 わたしは眉を寄せて、黙った。いつもの形だった。

 トイヴォは、「必要ない」には「でも」と言う。「去る」には、一度も言わなかった。

「団子は、雪を溶かして、茹でればいいから。小さい鍋も、入れといた。軟膏は、小さい缶に分けといた。……腕には、自分で塗ってね」

 少しだけ、間があった。

「痛くならないように」

「……なぜ、包む」

「……僕に、できることだから」

 できないことは、やらないで済むようにする。トイヴォは、そう言っていた。できないこと、の中に何が入っているのか。わたしは、聞かなかった。

 聞かないのは、トイヴォのやり方だったはずなのに。

 

 わたしの知っている言葉で呼ぶなら、これは餞別だった。わたしも、空の柱に、ひとつ残してきた。

 あれと、これが、同じ言葉で呼ばれる。そのことを、わたしは整理できなかった。

 トイヴォは、気をつけて、とは言わなかった。兵隊にさえそう言う男だと、床下で聞いて知っていた。

 言わなかった理由を、分類できなかった。

 

 その夜の軟膏は、腕だけだった。肘の上から、指先へ。

 今夜は、手首のところで、指は止まらなかった。

 

 二晩前、同じ手の中で、トイヴォは聞いた。君は……何者なの、と。

 唇まで来ていたのは、わたしは、だった。その先も、いつもの場所にあった。天理の影。死の執政。命の終わりを執り行う者。昔からある答えだ。

 最初の朝にも、同じところで止まった。わたしは——、の先で。話がややこしくなるだけだ、と考えて。

 あの夜は、止まった理由が、違った。

 トイヴォの指は、わたしの手首の上で止まっていた。触れるな、と平らな声が言った、その腕の上で。

 名を告げた最初の朝、わたしは恐れられるのを待った。そのほうが話が早い、と。あの夜のわたしは、話が早くなることを、望まなかった。

 答えれば、この指は離れる。明日の朝、おはよう、と言われなくなる。

 この理由を書く欄は、どの帳面にもなかった。

 

 知らない者は、問われても、本当に知らないと言える。知らせないことが、この人間を守る。正しい理由だった。

 ただ、見つけたのは、唇を閉じたあとだった。

 占い師だ、と言い直すこともできた。そういうものだと思っておけ、とは言った。思ったのは、トイヴォだ。わたしの口で言えば、二つ目の嘘になる。一つ目は、まだ喉に残っている。寂しくなど、なかっただろう。

 本当のことで、しかも、明日の朝のおはようを失わずに済む言葉を、わたしは、ひとつしか持っていなかった。

 だから、灯りが落ちて、おやすみ、と言われたあとで、名前だけを呼んだ。

 

 指が、小指の先まで来た。

「……冷たいね」

 この数日、腕に戻っていた温かさは、わたしが弱っていたあいだだけの、借り物だった。

 

   ◇

 

 灯りが落ちた。

「おやすみ、ロノヴァ」

 わたしは、答えなかった。今夜は、理由が分かっていた。

 おやすみ、は、朝にまた顔を合わせる者どうしの言葉だ。朝には、わたしはここにいない。答えれば、嘘になる。

 嘘は、ひとつで足りていた。

 トイヴォが待っている気配がした。二晩前より、長く。

 やがて、息が変わった。規則正しかった。

 

 トイヴォの糸に、遠くから意識を向けた。昨日の朝に避けたものを、最後の夜に、見た。

 まだ、長い。

 それ以上は、見なかった。長さを測れば、残りが数になる。この人間の糸を、数にしたくなかった。

 代わりに、ほかのものを数えた。あと一日なら、棚の根はもつ。あと一日なら、輪は木立を越えない。

 わたしは、延ばすための数を数えていた。去るための数ではなく。

 

 問いの答えひとつ、わたしは渡せなかった。トイヴォは、包みをひとつ渡した。

 帳尻の合わないまま、わたしは、去る。

 

 その夜、尾根へは、意識を伸ばさなかった。この家の中の糸だけを、数えていた。

 壁の中で、爪の音がやんだ。

 糸が、ひとつ途切れた。トイヴォの寝ている床から、三歩。

 記録しなかった。

 起き上がった。

 

   ◇

 

 祖母の服を脱いで、畳んだ。

 袖の端が、揃わなかった。芋の皮と、三角の団子と、同じ手だった。畳み直しかけて、やめた。

 枕の上に、置いた。

 

 自分の衣を着た。袖が、手首まで届いた。

 これが直ったら、ちゃんと丈の合う服が着られるね。あの朝、トイヴォは言った。

 丈の合う服は、この家のものではなかった。

 左の脇に、指を当てた。裏に、当て布があった。粗い麻の手触り。包みの布と、同じだった。

 同じ一枚から、切ったのだ。

 当て布は、塞がった傷の、ちょうど上に来ていた。縫い目の終わりに、小さな玉があった。

 結んでから、切ってあった。

 糸を切るのは、わたしの職務だった。わたしは、結んだことがない。

 

 棚は見ずに、根の糸だけを確かめた。昨日より、細い。けれど、続いている。

 わたしが去れば、春まで、もつ。

 ——もつ、と判定した。

 暖炉の向こうも、見なかった。見れば、発てない。

 息は、規則正しかった。眠っているのかどうかを、糸で確かめるのは、やめた。

 あと少しで、トイヴォは目を覚まし、まずこちらを見る。まだここにいるか、と。その問いの答えは、空欄になる。

 明後日の朝、とわたしは言った。朝のうちで、いちばん早いところを選んだ。おはよう、と言われる前に。

 

 包みを右手に提げた。底で、小さく硬いものが傾いた。棚の、鉢の隣にあったものの重さだった。

 大きな結び目を、握った。左手で閂を上げ、外へ出て、戸を、音を立てないように閉めた。

 雪が降っていた。トイヴォの言ったとおりだった。

 雪は、十二人の足跡も、棒の穴も、小鳥を埋めた小さな盛り上がりも、隠しはじめていた。

 輪は、隠さなかった。新しい雪の上に、黒い枝先が、ぐるりと突き出ていた。

 

 家の中の糸ばかり数えていたから、気づくのが遅れた。

 尾根の束から、一本が欠けていた。

 その糸は、もう尾根を下りきっていた。

 隊列の動きではない。まっすぐ、雪の深いところを来る。速い。ときどき大きくぶれて、止まり、また急ぐ。転んでは起きる者の糸だ。ひとりだった。

 二つの器の前で、棚の前で、寝床の脇で、木立の手前で止まった糸。

 ためらう糸が、今は、ためらわずに来る。

 

 森に入ってしまえば、あの糸はわたしに届かない。

 ——あの糸が向かっているのは、わたしではなかった。この戸だった。

 わたしは、戸の前から動かなかった。

 

 糸が、木立を抜けた。

 若い男がひとり、雪明かりの中に出てきた。外套の肩と帽子に、雪が積もっていた。白い息が、荒い。明かりも、棒も、持っていなかった。

 空き地の縁の、黒い輪の上で、男は一度だけ立ち止まった。それから、内側へ入ってきた。

 暗がりに光る目を見たのだろう。男は、十歩ほど手前で足を止めた。

 わたしを見た。

 それから、わたしの後ろの戸を見た。

 

 右手には、トイヴォの包みがあった。




お読みいただきありがとうございました。
次回、第7話「死の執政」はトイヴォ視点でお送りします。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。