※今回はトイヴォ視点です。
眠っていなかった。
目を閉じて、息の数を揃えていた。吸って、吐いて、吸って。獣に気づかれないための息の仕方だと、おじいちゃんに教わった。人に使うことになるとは、思わなかった。
暖炉の向こうで、衣擦れの音がした。
布を畳む音。一度畳んで、端を揃えようとして、やめた音。——僕には、そう聞こえた。
明後日の朝、とロノヴァは言った。
朝のうちで、いちばん早いところを選ぶだろうと、僕はなんとなく分かっていた。だから、起きていた。
起きていて、目を開けなかった。
目を開けたら、おはよう、と言ってしまう。言ったら、あの人は困る。困ったまま出ていくか、出ていけなくなるか、どちらかだ。どちらも、僕の見たいものではなかった。
目を閉じたまま、この二日のことを、順番に思い出していた。
去る、とロノヴァが言ったとき、僕は、治ったもんね、と言った。治るまで、いればいいよ。最初の朝にそう言ったのは、僕だった。言ったことは、守らなければいけない。
何日くらい歩くのか、とだけ聞いた。どこへ、とも、なぜ、とも聞かなかった。二晩前に一度だけ、何者なのかを聞いて、あの人の唇が開いて、閉じるのを見た。あれを、もう一度見たくはなかった。
だから、手を動かした。
パンを焼いた。団子を包んだ。ひとつだけ、縁の開いたのができた。あの人の黒い指のことを考えていたら、僕の指まで下手になった。
衣の脇の裂け目には、包みと同じ麻布から当て布を切った。同じ一枚から切っておけば、離れても、どこかでつながっている気がした。そんなことを考える自分が、少し可笑しかった。
気をつけて、とは言わなかった。
兵隊にさえ言うのに、あの人には、言えなかった。気をつけて、は、行ってしまう人にかける言葉だ。口にしたら、あの人が本当に、行ってしまう人になる気がした。
小鳥を埋めたときも、ありがとう、とは言えなかった。誰に言えばいいのか、分からなかったから。
薪の山の裏の、黒い枝先のことは、考えなかった。考えないように、していた。
閂が上がる、かすかな音。
冷たい空気が、床を這ってきた。
戸が、閉まった。音を立てないように、ゆっくりと。
僕は、目を閉じたまま、数を数えた。獣は、一度去ったふりをして戻ってくることがある。百数えてから動け、とおじいちゃんは言った。
戻ってきてほしいと思いながら数えるのは、変な気持ちだった。
三十まで数えたところで、外で声がした。
男の声だった。
「……トイヴォは、中か」
聞き覚えのある声だった。
◇
窓の霜を、指で拭った。
雪が降っていた。夜明け前の、青い暗がりの中を、音もなく。
戸の前に、ロノヴァが立っていた。
自分の衣を着ていた。黒と白の入り組んだ、あの衣。袖が、ちゃんと手首まで届いている。右手に、僕の包みを提げていた。
その十歩ほど先に、男がひとり立っていた。外套の肩にも帽子にも雪が積もって、その肩が荒く上下している。
南門の、あの兵士だった。
毛皮を肩に引っかけて、戸を開けた。外へ出て、後ろ手に閉めた。
「トイヴォ」
兵士が、僕の名前を呼んだ。あんた、ではなく。
「……出てきちまったか」
ロノヴァは、振り向かなかった。僕が出てきたことには、気づいているはずだった。
「……どうして、ここに」
「報告した」
兵士は、肩で息をしながら言った。
「ゆうべ、白い髪を、指揮官に渡した。器が二つあったことも。枯れた鉢のことも。……黙ってられなかった」
手袋をはめた手が、握りしめられていた。
「嘘のつけるやつじゃない、って言ったのは、本当だ。あんたは、嘘がつけない。顔に全部出る。……だから、あの日あんたが嘘をついたってことは、よっぽどのことなんだと思った」
兵士は、一度、目を伏せた。
「よっぽどのことを、黙ってるわけにはいかなかった。俺は、兵隊だから」
息を整えて、兵士は続けた。
「指揮官は、夜明け前にここを囲むと決めた。俺は、その前に抜けてきた。俺がいないと分かれば、隊はすぐ、俺の足跡を追ってくる。その前に、あんたを連れ出そうと思った。……それで、ここまで来たら」
兵士の目が、ロノヴァに戻った。
「こいつが、戸の前に立ってた」
雪の中で、兵士の声だけが、はっきりと聞こえた。
「その女から離れろ、トイヴォ。そいつは——劇場で、大勢を殺した」
劇場で、大勢倒れたんだって。
倒れたんじゃない、死んだんだよ。いっぺんに。
市場の声が、耳の奥で鳴った。あの朝、僕は小麦粉を詰めてもらいながら、聞くともなく聞いていた。僕には関係ない、と思いながら。
「報告したら、指揮官が教えてくれた。俺たちが雪の下を突いて探してたのが、何だったのか。……劇場で、大勢を死なせたやつだって」
僕は、ロノヴァを見た。
ロノヴァは、兵士を見ていた。
違う、とは言わなかった。
そういうものだ、とも言わなかった。
窪地の、黒く枯れた灌木の輪。
一晩で枯れたタイム。芯まで黒くなった玉ねぎ。薪の山の、胸の黄色い小鳥。
そして今、この家を囲んで、雪の上に黒く突き出している枝先。
全部、見ていた。
見ていて、名前をつけていた。霜。底冷え。寒さ。冬の名前を。
雪原で見つけたものは、見なかったことにしちゃいけないよ。
——僕は、ずっと、見なかったことにしてきたのだ。
「……家に入っていろ、トイヴォ」
ロノヴァが、こちらを見ずに言った。
「来い、トイヴォ。今なら、まだ——」
兵士の言葉が、途中で切れた。
木立の向こうで、雪を踏む音が揃った。
◇
同じ間隔で、同じ重さで。その合間に、金具の触れ合う硬い音。
三日前と、同じ音だった。
暗い色の外套が、木立から次々に現れた。数えなくても、分かった。十一。
先頭に、あの口ひげの男がいた。
兵隊たちは、家を囲む黒い輪の外側で、足を止めた。誰かが、枯れた枝先を見下ろして息をのんだ。
「……窪地と、同じだ」
ひとりが、輪の内側へ踏み出しかけて、足を止めた。黒い枝先を、踏めずにいる。誰も、その線を越えようとしなかった。
「輪に入るな」
口ひげの男が、低く言った。自分も、その外側に立ったまま。
男は、輪の内側に立つ南門の兵士を見た。
「持ち場を離れたな」
それから、僕を見た。
「見ていません、と言ったな。猟師」
平らな声だった。
僕は、答えられなかった。
「下がれ」
男が、南門の兵士に言った。兵士は動かなかった。
「指揮官、トイヴォは——」
「分かっている」
男は、剣を抜いた。
「猟師。女から離れろ」
「この人は——」
声が出た。自分でも驚くほど、かすれていた。
「この人は、僕の家で、粥を食べて……団子を包んで、芋の皮を、剥きすぎて……」
何を言おうとしているのか、分からなかった。この人が劇場で何をしたのかを、今、聞いたばかりなのに。
「その女が何をしたのか、聞いたな」
男の声は、平らなままだった。
「劇場で、何人死んだと思う」
何も、言えなかった。
足が、動かなかった。
動かなかったのか、動かさなかったのか。どちらなのか、分からなかった。
ロノヴァの背中が、すぐ前にあった。おばあちゃんの服の短い袖ではない、手首まで届く袖。左の脇腹のところに、僕の縫った当て布がある。
男が、片手を上げた。
兵隊たちの手の中で、青白い光が凍りついて、細い刃の形になった。
「放て」
ロノヴァが、振り向いた。
右手の包みを、僕の胸に押しつけた。
「持っていろ」
反射で、受け取った。結び目の大きな、僕の包み。
ロノヴァは、僕の前に出た。
青白いものが、いくつも飛んできた。ロノヴァの黒い腕が、それを払った。氷の砕ける音が、雪の中に散らばった。
ひとつが、払われた先で弾けて、僕の頬をかすめた。
熱い、と思った。冷たいものに触れたはずなのに。
指で触れると、赤かった。
赤いしずくが一滴、足もとの雪に落ちた。
ロノヴァが、それを見た。
◇
音が、消えた。
雪が、落ちるのをやめた。——そう見えた。降っていた雪のひとひらひとひらが、空中で、止まった。
ロノヴァの背中から、黒いものが広がった。
羽根だった。
雪原で見つけた、あの羽根。僕の前腕ほどもある黒い羽根が、何百枚も重なって、夜明け前の空を覆うほどに広がっていく。翼だ、と思った。けれど、鳥の翼とは違った。羽ばたくためのものではなかった。何かを、覆い隠すためのものだった。
黒い腕の、赤い模様が、開いた。
ひとつ残らず。
目だった。
最初の日、僕が「目の形に似ている」と思って追い払った、あの模様。凍傷の跡だと、自分に言い聞かせたもの。それが今、瞼を開けるように裂けて、赤い瞳で、兵隊たちを見ていた。
空の色が、変わった。
夜明け前の青が、底のほうから、古い血のような色に染まっていく。その色の中に、何かが開いていくのが見えた。大きな、たくさんの——
「化け物——」
輪の外の誰かが、そう言ったきり、声が続かなかった。
兵隊たちが、膝をついた。
ひとり、またひとり。胸を押さえて。手の中の青白い光が、ろうそくを吹き消すように消えていく。唇に、白い霜が降りた。息が、細くなっていくのが分かった。
輪の内側にいた南門の兵士も、雪に片手をついた。僕のほうへ、もう片方の手を伸ばしかけたまま。
僕の息は、白いまま、ちゃんと出入りしていた。
目の前で、十二人の息が細っていくのに、僕のだけが、何ひとつ奪われていなかった。まるで、僕のまわりにだけ、見えない線が引いてあるみたいに。
輪の外の木々の葉が、見る間に黒く縮れた。輪が、広がっていく。兵隊たちの立っていた場所を、呑み込んで。
ロノヴァが、口を開いた。
「女皇の兵」
僕の知っている声ではなかった。
低くて、冷たくて、雪の下を流れる水のようだった最初の夜の声が、今は、空のずっと高いところから降ってくるように聞こえた。
「わたしの死を、確かめに来たのだろう」
ロノヴァは、一歩、前に出た。
「——見届けるがいい」
口ひげの男が、雪に片手をついたまま、顔を上げた。
その唇が、震えながら、ひとつの言葉を形づくった。
「……死の、執政」
初めて聞く言葉だった。
それでも、それがあの人の名前なのだということだけは、分かった。ロノヴァ、という名前よりも、ずっと古くて、ずっと重い名前。
◇
ロノヴァは、口ひげの男の前まで歩いた。
雪の上を、足音も立てずに。
男は、もう剣を拾おうともしなかった。灰色の口ひげに、霜が厚く積もっていた。見開いた目が、ロノヴァを見上げていた。
ロノヴァの右手が、上がった。
黒い指が、男の胸の上に差し伸べられる。腕じゅうの赤い目が、いっせいに、男の胸を見た。
何をしようとしているのか、分かった。
分かりたくなかったのに、分かった。
兎の首に手をかけるときの、僕の手と、同じ形だったから。
あの男は、僕の頬を切らせた兵隊たちの、指揮官だ。三日前には、この家の床下に、梯子を下りかけた男だ。
それでも。
それでも、嫌だった。何が嫌なのか、言葉にする暇はなかった。
名前を呼ぼうとした。
声が、出なかった。喉の奥で、凍りついたように。
僕は、一歩、前に出た。
雪が、きしんだ。
腕の中で、包みが揺れた。中で、何かが小さく触れ合った。
こつん、と。
蜂蜜の小瓶と、小鍋が、ぶつかった音だった。
ロノヴァの手が、止まった。
男の胸から、指一本ぶんのところで。
あの音が聞こえたのかどうかは、分からない。僕の足音が聞こえたのかどうかも。
ロノヴァは、止まったまま、動かなかった。
長い、長い間があった。空中で止まって見えていた雪が、ひとひら、ロノヴァの黒い指先に落ちて、溶けずに、そこに残った。
ロノヴァは、自分の手を見ていた。
知らない人の手を見るような目で。
それから、手が、ゆっくりと下りた。
「……なぜ」
ロノヴァが、つぶやいた。
僕に聞いたのではなかった。倒れている男に聞いたのでもなかった。自分の手に、聞いているようだった。
なぜ、まだ。なぜ、わたしを拾った。なぜ、礼を言う。なぜ、隠す。——この人は、いつも「なぜ」と聞く。答えを知っているような顔で、答えのない問いを。
今の「なぜ」には、この人自身も、答えを持っていないようだった。
◇
空の色が、引いていった。
古い血の色が、夜明け前の青に戻っていく。何百枚もの黒い羽根が、ほどけるように崩れて、煤のように、灰のように、風に散った。雪原で、僕の指先で崩れた、あの羽根と同じに。
止まって見えていた雪が、また、落ちはじめた。
腕の赤い目が、ひとつ、またひとつ、閉じていった。
音が、戻ってきた。
兵隊たちの、喘ぐ息の音。咳きこむ音。雪を掻く音。
誰も、死んでいなかった。
兵隊たちは、互いに肩を貸し合って立ち上がった。口ひげの男は、二人に両脇を抱えられていた。誰も、ロノヴァを見なかった。見ることが、できないようだった。
列は、崩れたまま、木立の向こうへ引いていった。
最後に残ったのは、南門の兵士だった。
兵士は、僕の頬を見て、僕の腕の中の包みを見て、それから、ロノヴァを見た。
「……生きてる」
かすれた声だった。
「全員、生きてる」
ロノヴァは、答えなかった。
兵士は、僕のほうを向いた。
「あんた、それでも——そこに、いるのか」
僕は、何も返せなかった。
兵士は、しばらく僕を見ていた。それから、黙って背を向けた。
「あの——」
名前を、と言いかけた。何度も顔を合わせてきたのに、一度も聞かなかった名前を。
兵士は、振り返らなかった。雪の中を、列のあとを追っていった。
今日は、お気をつけて、と言いそびれた。
◇
雪の上に、僕とロノヴァが残った。
僕は、包みを抱えたまま、輪の縁のほうへ歩いた。ロノヴァの、三歩うしろまで。
足もとに、口ひげの男の剣が一本、雪に刺さったまま残っていた。
ロノヴァは、僕に背を向けたまま立っていた。黒い翼は、もうない。自分の衣を着た、背の高い人が、ひとり。
その肩が、一度だけ、大きく揺れた。息を吐いたのか、よろめいたのか、僕のところからは分からなかった。左の脇腹に、黒い手が当てられていた。僕の縫った当て布の、あるあたりに。
家を囲む黒い輪は、さっきよりずっと大きくなっていた。
膝が、震えていた。
寒さのせいではなかった。
怖かった。
この人を、怖いと思ったのは、初めてだった。雪原で拾ってから十日あまり、一度も思わなかったことを、今、思っていた。
それなのに、腕の中の包みを、僕は離さなかった。離そうと思わなかった。
ロノヴァが、振り向いた。
金色の目。七枚の花びら。いつもの、何を考えているのか分からない顔。
でも、今は、少しだけ分かる気がした。
この人は、僕が逃げ出すのを、待っている。
「……見たな」
ロノヴァが言った。
僕は、うなずくことも、首を振ることもできなかった。
ロノヴァの目が、僕の頬で止まった。
「家に入れ」
それから、ほんの少しだけ、声が低くなった。
「……頬が、切れている」
指で、頬に触れた。
血は、まだ温かかった。
この人は、たくさんの人を死なせた。
そして今、僕の頬の、小さな傷を見ている。
どちらも、同じ人だった。
凍傷ではなかった。
占い師でもなかった。
最初から。
死の執政。その言葉の意味を、僕はまだ知らない。
知らないまま、僕はロノヴァの横を通って、戸を開けた。
暖炉の熾火が、まだ赤かった。
奥の寝床の、枕の上に、おばあちゃんの服が畳んで置いてあった。羊毛の上着と、麻の下衣。袖の端が、揃っていなかった。一度畳んで、揃えようとして、やめたのだ。さっき聞いた、あの音のとおりに。
芋の皮を剥きすぎて、三角の団子を包んだ、あの手で。
開けたまま、振り返って、待った。
雪は、まだ降っていた。昼には止む、と僕は言った。
その昼まで、この人がここにいるのかどうか、僕には分からなかった。
お読みいただきありがとうございました。
次回、第8話「冥府へ帰る女」はロノヴァ視点でお送りします。