死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※今回はトイヴォ視点です。


第7話 死の執政

 眠っていなかった。

 目を閉じて、息の数を揃えていた。吸って、吐いて、吸って。獣に気づかれないための息の仕方だと、おじいちゃんに教わった。人に使うことになるとは、思わなかった。

 

 暖炉の向こうで、衣擦れの音がした。

 布を畳む音。一度畳んで、端を揃えようとして、やめた音。——僕には、そう聞こえた。

 明後日の朝、とロノヴァは言った。

 朝のうちで、いちばん早いところを選ぶだろうと、僕はなんとなく分かっていた。だから、起きていた。

 起きていて、目を開けなかった。

 目を開けたら、おはよう、と言ってしまう。言ったら、あの人は困る。困ったまま出ていくか、出ていけなくなるか、どちらかだ。どちらも、僕の見たいものではなかった。

 

 目を閉じたまま、この二日のことを、順番に思い出していた。

 去る、とロノヴァが言ったとき、僕は、治ったもんね、と言った。治るまで、いればいいよ。最初の朝にそう言ったのは、僕だった。言ったことは、守らなければいけない。

 何日くらい歩くのか、とだけ聞いた。どこへ、とも、なぜ、とも聞かなかった。二晩前に一度だけ、何者なのかを聞いて、あの人の唇が開いて、閉じるのを見た。あれを、もう一度見たくはなかった。

 だから、手を動かした。

 パンを焼いた。団子を包んだ。ひとつだけ、縁の開いたのができた。あの人の黒い指のことを考えていたら、僕の指まで下手になった。

 衣の脇の裂け目には、包みと同じ麻布から当て布を切った。同じ一枚から切っておけば、離れても、どこかでつながっている気がした。そんなことを考える自分が、少し可笑しかった。

 気をつけて、とは言わなかった。

 兵隊にさえ言うのに、あの人には、言えなかった。気をつけて、は、行ってしまう人にかける言葉だ。口にしたら、あの人が本当に、行ってしまう人になる気がした。

 小鳥を埋めたときも、ありがとう、とは言えなかった。誰に言えばいいのか、分からなかったから。

 薪の山の裏の、黒い枝先のことは、考えなかった。考えないように、していた。

 

 閂が上がる、かすかな音。

 冷たい空気が、床を這ってきた。

 戸が、閉まった。音を立てないように、ゆっくりと。

 僕は、目を閉じたまま、数を数えた。獣は、一度去ったふりをして戻ってくることがある。百数えてから動け、とおじいちゃんは言った。

 戻ってきてほしいと思いながら数えるのは、変な気持ちだった。

 三十まで数えたところで、外で声がした。

 男の声だった。

「……トイヴォは、中か」

 聞き覚えのある声だった。

 

   ◇

 

 窓の霜を、指で拭った。

 雪が降っていた。夜明け前の、青い暗がりの中を、音もなく。

 戸の前に、ロノヴァが立っていた。

 自分の衣を着ていた。黒と白の入り組んだ、あの衣。袖が、ちゃんと手首まで届いている。右手に、僕の包みを提げていた。

 その十歩ほど先に、男がひとり立っていた。外套の肩にも帽子にも雪が積もって、その肩が荒く上下している。

 南門の、あの兵士だった。

 

 毛皮を肩に引っかけて、戸を開けた。外へ出て、後ろ手に閉めた。

「トイヴォ」

 兵士が、僕の名前を呼んだ。あんた、ではなく。

「……出てきちまったか」

 ロノヴァは、振り向かなかった。僕が出てきたことには、気づいているはずだった。

「……どうして、ここに」

「報告した」

 兵士は、肩で息をしながら言った。

「ゆうべ、白い髪を、指揮官に渡した。器が二つあったことも。枯れた鉢のことも。……黙ってられなかった」

 手袋をはめた手が、握りしめられていた。

「嘘のつけるやつじゃない、って言ったのは、本当だ。あんたは、嘘がつけない。顔に全部出る。……だから、あの日あんたが嘘をついたってことは、よっぽどのことなんだと思った」

 兵士は、一度、目を伏せた。

「よっぽどのことを、黙ってるわけにはいかなかった。俺は、兵隊だから」

 息を整えて、兵士は続けた。

「指揮官は、夜明け前にここを囲むと決めた。俺は、その前に抜けてきた。俺がいないと分かれば、隊はすぐ、俺の足跡を追ってくる。その前に、あんたを連れ出そうと思った。……それで、ここまで来たら」

 兵士の目が、ロノヴァに戻った。

「こいつが、戸の前に立ってた」

 雪の中で、兵士の声だけが、はっきりと聞こえた。

「その女から離れろ、トイヴォ。そいつは——劇場で、大勢を殺した」

 

 劇場で、大勢倒れたんだって。

 倒れたんじゃない、死んだんだよ。いっぺんに。

 市場の声が、耳の奥で鳴った。あの朝、僕は小麦粉を詰めてもらいながら、聞くともなく聞いていた。僕には関係ない、と思いながら。

「報告したら、指揮官が教えてくれた。俺たちが雪の下を突いて探してたのが、何だったのか。……劇場で、大勢を死なせたやつだって」

 僕は、ロノヴァを見た。

 ロノヴァは、兵士を見ていた。

 違う、とは言わなかった。

 そういうものだ、とも言わなかった。

 

 窪地の、黒く枯れた灌木の輪。

 一晩で枯れたタイム。芯まで黒くなった玉ねぎ。薪の山の、胸の黄色い小鳥。

 そして今、この家を囲んで、雪の上に黒く突き出している枝先。

 全部、見ていた。

 見ていて、名前をつけていた。霜。底冷え。寒さ。冬の名前を。

 雪原で見つけたものは、見なかったことにしちゃいけないよ。

 ——僕は、ずっと、見なかったことにしてきたのだ。

 

「……家に入っていろ、トイヴォ」

 ロノヴァが、こちらを見ずに言った。

「来い、トイヴォ。今なら、まだ——」

 兵士の言葉が、途中で切れた。

 木立の向こうで、雪を踏む音が揃った。

 

   ◇

 

 同じ間隔で、同じ重さで。その合間に、金具の触れ合う硬い音。

 三日前と、同じ音だった。

 暗い色の外套が、木立から次々に現れた。数えなくても、分かった。十一。

 先頭に、あの口ひげの男がいた。

 兵隊たちは、家を囲む黒い輪の外側で、足を止めた。誰かが、枯れた枝先を見下ろして息をのんだ。

「……窪地と、同じだ」

 ひとりが、輪の内側へ踏み出しかけて、足を止めた。黒い枝先を、踏めずにいる。誰も、その線を越えようとしなかった。

「輪に入るな」

 口ひげの男が、低く言った。自分も、その外側に立ったまま。

 男は、輪の内側に立つ南門の兵士を見た。

「持ち場を離れたな」

 それから、僕を見た。

「見ていません、と言ったな。猟師」

 平らな声だった。

 僕は、答えられなかった。

「下がれ」

 男が、南門の兵士に言った。兵士は動かなかった。

「指揮官、トイヴォは——」

「分かっている」

 男は、剣を抜いた。

「猟師。女から離れろ」

 

「この人は——」

 声が出た。自分でも驚くほど、かすれていた。

「この人は、僕の家で、粥を食べて……団子を包んで、芋の皮を、剥きすぎて……」

 何を言おうとしているのか、分からなかった。この人が劇場で何をしたのかを、今、聞いたばかりなのに。

「その女が何をしたのか、聞いたな」

 男の声は、平らなままだった。

「劇場で、何人死んだと思う」

 何も、言えなかった。

 

 足が、動かなかった。

 動かなかったのか、動かさなかったのか。どちらなのか、分からなかった。

 ロノヴァの背中が、すぐ前にあった。おばあちゃんの服の短い袖ではない、手首まで届く袖。左の脇腹のところに、僕の縫った当て布がある。

 男が、片手を上げた。

 兵隊たちの手の中で、青白い光が凍りついて、細い刃の形になった。

「放て」

 

 ロノヴァが、振り向いた。

 右手の包みを、僕の胸に押しつけた。

「持っていろ」

 反射で、受け取った。結び目の大きな、僕の包み。

 ロノヴァは、僕の前に出た。

 青白いものが、いくつも飛んできた。ロノヴァの黒い腕が、それを払った。氷の砕ける音が、雪の中に散らばった。

 ひとつが、払われた先で弾けて、僕の頬をかすめた。

 熱い、と思った。冷たいものに触れたはずなのに。

 指で触れると、赤かった。

 赤いしずくが一滴、足もとの雪に落ちた。

 

 ロノヴァが、それを見た。

 

   ◇

 

 音が、消えた。

 雪が、落ちるのをやめた。——そう見えた。降っていた雪のひとひらひとひらが、空中で、止まった。

 ロノヴァの背中から、黒いものが広がった。

 羽根だった。

 雪原で見つけた、あの羽根。僕の前腕ほどもある黒い羽根が、何百枚も重なって、夜明け前の空を覆うほどに広がっていく。翼だ、と思った。けれど、鳥の翼とは違った。羽ばたくためのものではなかった。何かを、覆い隠すためのものだった。

 黒い腕の、赤い模様が、開いた。

 ひとつ残らず。

 目だった。

 最初の日、僕が「目の形に似ている」と思って追い払った、あの模様。凍傷の跡だと、自分に言い聞かせたもの。それが今、瞼を開けるように裂けて、赤い瞳で、兵隊たちを見ていた。

 空の色が、変わった。

 夜明け前の青が、底のほうから、古い血のような色に染まっていく。その色の中に、何かが開いていくのが見えた。大きな、たくさんの——

「化け物——」

 輪の外の誰かが、そう言ったきり、声が続かなかった。

 

 兵隊たちが、膝をついた。

 ひとり、またひとり。胸を押さえて。手の中の青白い光が、ろうそくを吹き消すように消えていく。唇に、白い霜が降りた。息が、細くなっていくのが分かった。

 輪の内側にいた南門の兵士も、雪に片手をついた。僕のほうへ、もう片方の手を伸ばしかけたまま。

 僕の息は、白いまま、ちゃんと出入りしていた。

 目の前で、十二人の息が細っていくのに、僕のだけが、何ひとつ奪われていなかった。まるで、僕のまわりにだけ、見えない線が引いてあるみたいに。

 輪の外の木々の葉が、見る間に黒く縮れた。輪が、広がっていく。兵隊たちの立っていた場所を、呑み込んで。

 ロノヴァが、口を開いた。

「女皇の兵」

 僕の知っている声ではなかった。

 低くて、冷たくて、雪の下を流れる水のようだった最初の夜の声が、今は、空のずっと高いところから降ってくるように聞こえた。

「わたしの死を、確かめに来たのだろう」

 ロノヴァは、一歩、前に出た。

「——見届けるがいい」

 

 口ひげの男が、雪に片手をついたまま、顔を上げた。

 その唇が、震えながら、ひとつの言葉を形づくった。

「……死の、執政」

 初めて聞く言葉だった。

 それでも、それがあの人の名前なのだということだけは、分かった。ロノヴァ、という名前よりも、ずっと古くて、ずっと重い名前。

 

   ◇

 

 ロノヴァは、口ひげの男の前まで歩いた。

 雪の上を、足音も立てずに。

 男は、もう剣を拾おうともしなかった。灰色の口ひげに、霜が厚く積もっていた。見開いた目が、ロノヴァを見上げていた。

 ロノヴァの右手が、上がった。

 黒い指が、男の胸の上に差し伸べられる。腕じゅうの赤い目が、いっせいに、男の胸を見た。

 何をしようとしているのか、分かった。

 分かりたくなかったのに、分かった。

 兎の首に手をかけるときの、僕の手と、同じ形だったから。

 あの男は、僕の頬を切らせた兵隊たちの、指揮官だ。三日前には、この家の床下に、梯子を下りかけた男だ。

 それでも。

 それでも、嫌だった。何が嫌なのか、言葉にする暇はなかった。

 

 名前を呼ぼうとした。

 声が、出なかった。喉の奥で、凍りついたように。

 僕は、一歩、前に出た。

 雪が、きしんだ。

 腕の中で、包みが揺れた。中で、何かが小さく触れ合った。

 こつん、と。

 蜂蜜の小瓶と、小鍋が、ぶつかった音だった。

 

 ロノヴァの手が、止まった。

 男の胸から、指一本ぶんのところで。

 あの音が聞こえたのかどうかは、分からない。僕の足音が聞こえたのかどうかも。

 ロノヴァは、止まったまま、動かなかった。

 長い、長い間があった。空中で止まって見えていた雪が、ひとひら、ロノヴァの黒い指先に落ちて、溶けずに、そこに残った。

 ロノヴァは、自分の手を見ていた。

 知らない人の手を見るような目で。

 

 それから、手が、ゆっくりと下りた。

「……なぜ」

 ロノヴァが、つぶやいた。

 僕に聞いたのではなかった。倒れている男に聞いたのでもなかった。自分の手に、聞いているようだった。

 なぜ、まだ。なぜ、わたしを拾った。なぜ、礼を言う。なぜ、隠す。——この人は、いつも「なぜ」と聞く。答えを知っているような顔で、答えのない問いを。

 今の「なぜ」には、この人自身も、答えを持っていないようだった。

 

   ◇

 

 空の色が、引いていった。

 古い血の色が、夜明け前の青に戻っていく。何百枚もの黒い羽根が、ほどけるように崩れて、煤のように、灰のように、風に散った。雪原で、僕の指先で崩れた、あの羽根と同じに。

 止まって見えていた雪が、また、落ちはじめた。

 腕の赤い目が、ひとつ、またひとつ、閉じていった。

 音が、戻ってきた。

 兵隊たちの、喘ぐ息の音。咳きこむ音。雪を掻く音。

 誰も、死んでいなかった。

 

 兵隊たちは、互いに肩を貸し合って立ち上がった。口ひげの男は、二人に両脇を抱えられていた。誰も、ロノヴァを見なかった。見ることが、できないようだった。

 列は、崩れたまま、木立の向こうへ引いていった。

 最後に残ったのは、南門の兵士だった。

 兵士は、僕の頬を見て、僕の腕の中の包みを見て、それから、ロノヴァを見た。

「……生きてる」

 かすれた声だった。

「全員、生きてる」

 ロノヴァは、答えなかった。

 兵士は、僕のほうを向いた。

「あんた、それでも——そこに、いるのか」

 僕は、何も返せなかった。

 兵士は、しばらく僕を見ていた。それから、黙って背を向けた。

「あの——」

 名前を、と言いかけた。何度も顔を合わせてきたのに、一度も聞かなかった名前を。

 兵士は、振り返らなかった。雪の中を、列のあとを追っていった。

 今日は、お気をつけて、と言いそびれた。

 

   ◇

 

 雪の上に、僕とロノヴァが残った。

 僕は、包みを抱えたまま、輪の縁のほうへ歩いた。ロノヴァの、三歩うしろまで。

 足もとに、口ひげの男の剣が一本、雪に刺さったまま残っていた。

 ロノヴァは、僕に背を向けたまま立っていた。黒い翼は、もうない。自分の衣を着た、背の高い人が、ひとり。

 その肩が、一度だけ、大きく揺れた。息を吐いたのか、よろめいたのか、僕のところからは分からなかった。左の脇腹に、黒い手が当てられていた。僕の縫った当て布の、あるあたりに。

 家を囲む黒い輪は、さっきよりずっと大きくなっていた。

 膝が、震えていた。

 寒さのせいではなかった。

 怖かった。

 この人を、怖いと思ったのは、初めてだった。雪原で拾ってから十日あまり、一度も思わなかったことを、今、思っていた。

 それなのに、腕の中の包みを、僕は離さなかった。離そうと思わなかった。

 

 ロノヴァが、振り向いた。

 金色の目。七枚の花びら。いつもの、何を考えているのか分からない顔。

 でも、今は、少しだけ分かる気がした。

 この人は、僕が逃げ出すのを、待っている。

「……見たな」

 ロノヴァが言った。

 僕は、うなずくことも、首を振ることもできなかった。

 ロノヴァの目が、僕の頬で止まった。

「家に入れ」

 それから、ほんの少しだけ、声が低くなった。

「……頬が、切れている」

 

 指で、頬に触れた。

 血は、まだ温かかった。

 この人は、たくさんの人を死なせた。

 そして今、僕の頬の、小さな傷を見ている。

 どちらも、同じ人だった。

 

 凍傷ではなかった。

 占い師でもなかった。

 最初から。

 死の執政。その言葉の意味を、僕はまだ知らない。

 知らないまま、僕はロノヴァの横を通って、戸を開けた。

 暖炉の熾火が、まだ赤かった。

 奥の寝床の、枕の上に、おばあちゃんの服が畳んで置いてあった。羊毛の上着と、麻の下衣。袖の端が、揃っていなかった。一度畳んで、揃えようとして、やめたのだ。さっき聞いた、あの音のとおりに。

 芋の皮を剥きすぎて、三角の団子を包んだ、あの手で。

 開けたまま、振り返って、待った。

 雪は、まだ降っていた。昼には止む、と僕は言った。

 その昼まで、この人がここにいるのかどうか、僕には分からなかった。




お読みいただきありがとうございました。
次回、第8話「冥府へ帰る女」はロノヴァ視点でお送りします。
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