※今回はロノヴァ視点です。
手は、止まった。
それだけが、確かなことだった。
あの男の胸の上、指一本ぶんのところで。糸は、まだ続いていた。細く、震えて、けれど途切れずに。わたしの指先が触れれば、それで終わるはずだった。劇場でそうしたように。数えきれない命に、そうしてきたように。
雪が、きしんだ。
それから、小さく、硬いものが触れ合う音がした。
聞こえた、のかもしれない。
聞こえたから止まったのか、止まったから聞こえた気がしたのか。わたしには、見分けられなかった。
確かなのは、手が止まったことだけだ。決める前に動いた手が、今度は、決める前に止まった。
わたしのものだったはずの手が、わたしの知らない理由で。
赤い目が閉じていくあいだ、わたしの中から、何かが抜けていった。
力を振るったあとの空洞だった。天の高みにいたころなら、気にも留めなかったほどの量だ。今のわたしには、それが、足もとの雪を傾けるほどに重かった。
左の脇腹で、皮の下の冷たい線が、鈍く疼いた。道化の男の目が通った跡。塞がったはずの場所が、内側から、もう一度ひらこうとしていた。
木立の向こうへ、糸の束が遠ざかっていく。十二本。一本も欠けていない。乱れて、もつれて、それでも続いている。
わたしは、それを数え終えるまで、振り返らなかった。
振り返って、見たな、と言った。
逃げるのを、待った。
トイヴォは、逃げなかった。家に入れ、と言うと、戸口まで下がって、そこで止まった。
トイヴォは、戸を開けたまま待っていた。
包みを胸に抱えて。頬に、赤い線を一本引いて。
膝が、まだ震えていた。わたしはそれを、糸を見るまでもなく知った。人間の体は、恐れを隠すようにはできていない。
それでも、戸は開いていた。
入るべきではなかった。女皇の兵は、わたしが生きていることを知った。知った者は、次の者を呼ぶ。次に来るのは、十二の糸ではないだろう。
ここにいてはいけない。
——わたしは、家に入った。
頬が、切れていたからだ。
そういうことに、しておいた。
◇
「……軟膏を」
わたしが言うと、トイヴォは一瞬、何を言われたのか分からない顔をした。それから、棚の上の壺を下ろした。自分の頬に塗ろうとして、指を入れかけた。
「貸せ」
壺を取った。
黒い指を、軟膏に沈めた。薬草の匂いが立った。この十日あまり、毎晩、わたしの腕から立ちのぼっていた匂いだった。
トイヴォの頬に、指を近づけた。
トイヴォは、動かなかった。
逃げもせず、目を閉じもしなかった。わたしの指を、見ていた。さっき、あの男の胸の上に差し伸べられていたのと、同じ指を。
わたしは、力を、手の内側にとどめた。
意図して振るうとき、わたしは終わらせるものを選べる。さっき、トイヴォの糸にだけ触れなかったように。選べないのは、何もしていないときに漏れていくものだ。草を枯らし、小鳥を凍えさせ、壁の中の爪の音を止めたもの。
今は、選んでいた。
指先ひとつぶんを、ひとときなら。この家ひとつぶんを、昼も夜も、は、できない。
指先が、頬の傷に触れた。
トイヴォの肩が、小さく跳ねた。冷たかったのだろう。
毎晩、トイヴォは、同じことをわたしの腕にしていた。肘の上から、指先まで。黒い肌の上の、赤い模様を、避けもせず、一つずつ。凍傷だと思い込んだまま。治らないと言われてからも。
薄く、のばした。傷の端から、端まで。赤い線を、指一本の幅でなぞった。人間の皮膚は、思っていたよりも、ずっと薄かった。
何かを言うべきだと思った。
この家で、何度も聞いた言葉があった。
「……痛く、ならないように」
トイヴォの目が、わずかに見開かれた。
◇
トイヴォは、粥を炊いた。
こんな朝でも、トイヴォは粥を炊く。暖炉の熾火を掘り起こし、薪を足し、燕麦をすくって、鍋を火にかける。手は、まだ少し震えていた。それでも、塩は指でつまんで、量って入れた。
「……食べられる?」
「食べられないものはない」
わたしは、窓のそばの椅子に座った。歩けるようになってから、わたしの場所になった椅子だ。背もたれの木は、わたしが座るようになってから、少しだけ冷たくなった。
今朝、トイヴォは、おはよう、と言わなかった。
言われなかったことに、わたしは、気づいていた。
粥が煮えるのを待つあいだ、鍋の前に立つトイヴォの目が、一度だけ奥の寝床へ動いた。枕の上に、祖母の服が畳んである。袖の端の揃わないまま。
トイヴォは、何も言わなかった。目を戻して、鍋をかき混ぜた。
わたしも、何も言わなかった。畳み直せばよかった、とも、思わなかった。
器を二つ、卓に置いて、粥をよそって、トイヴォは向かいに座った。
粥は、熱かった。
塩は、多くも少なくもなかった。
わたしはそれを、ひと匙ずつ、口に運んだ。最初の朝、トイヴォの手で運ばれたのと同じ速さで。
トイヴォは、匙を持ったまま、ほとんど食べなかった。
器の半分がなくなったところで、わたしは匙を置いた。
「死の執政、と、あの男は言った」
トイヴォの手が、止まった。
「それが、わたしの名だ。——正しくは、職務の名だ」
話すと決めていたわけではない。
けれど、三晩前に唇を閉じた言葉は、今はもう、閉じておく理由を失っていた。トイヴォは、見たのだ。翼を。目を。膝をつく兵たちを。見たものに、名をつけないままにしておくのは——トイヴォの祖母の言葉を借りるなら、見なかったことにするのと同じだった。
「わたしは、天理の影だ」
天理、という言葉を、トイヴォは知らないようだった。わたしは、言い直した。
「この世界の定めを、つくった者がいる。その定めを、この大地で執り行うために生み出された影が、四つある。わたしは、そのひとつだ」
トイヴォは、黙って聞いていた。
「命には、終わりがある。それが定めだ。この大地で終わる命は、すべて、わたしの管轄にある。人も、獣も、草も。わたしはそれを見て、記録する。終わるべきものが終わらないとき、定めに背くものがあるときは——終わらせる」
言いながら、自分の声がひどく平らなことに気づいた。帳面を読み上げるときの声だった。
それでいい、と思った。
これは、帳面に書いてあることだ。
「遠い火の国の、最初の神は、わたしの力を借りて、死んだ者がもう一度立ち上がれる仕組みをつくった。わたしはその取引を、長いあいだ見届けてきた。……それも、わたしの職務の一部だった」
トイヴォは、ゆっくりと瞬きをした。遠い国の話を、遠いまま聞いている顔だった。
「ではなぜ、雪原に倒れていたのか、と思っているだろう」
トイヴォは、答えなかった。聞かない人間だ。だから、わたしのほうから言った。
「女皇の国の者たちと、戦った。最後に、道化の男の目に貫かれた。体がほどけて、羽根になって、落ちた。——落ちた先が、お前の雪原だった」
「……あの、黒い羽根」
「そうだ」
トイヴォは、自分の指先を見た。わたしの羽根は、人の指に触れれば崩れる。雪原で、あの指も、それに触れたのだろう。
「倒れる前に、わたしは、空の柱に、残っていた力のほとんどを注いだ。餞別だ。——今も、この大地のあちこちで、古い釘が目を覚ましている」
「よその国で、空から落ちた釘が光りだした、って……市場で」
「それだ」
何のためのものかは、言わなかった。トイヴォも、聞かなかった。
「劇場で」
トイヴォの肩が、わずかに強張った。
「わたしは、いくつもの命を終わらせた。兵の言ったとおりだ」
そこで、少しだけ、言葉が途切れた。
途切れた理由を、わたしは探さなかった。
「理由は、わたしの帳面に書いてある。わたしは、書いてあることを執り行った。職務として。——あのときのことに、わたしは何も感じていなかった」
感じていなかった、と過去の形で言ったことに、言ってから気づいた。
今は、どうなのか。
それは、どの帳面にも書いていなかった。
トイヴォは、長いあいだ黙っていた。
器の中の粥から、湯気が細く立っていた。
「……占い師じゃ、なかったんだね」
ようやく出てきたのは、それだった。
「お前が、そう思っただけだ」
「うん。……そうだね」
トイヴォは、少しだけ笑おうとした。うまく、笑えていなかった。枯れたタイムを手にしていた、あの朝と同じ顔だった。
◇
「もうひとつ、ある」
わたしは言った。
言わずに去ることもできた。言わなくても、帳尻には関わらない。
けれど、あの夜、暖炉のそばで膝を抱えて話したトイヴォの声が、耳の奥に残っていた。
「お前の祖母が語った、冥府の女神の話」
トイヴォが、顔を上げた。
「トゥオネタル。霜月の子たちは、わたしをそう呼んでいた」
暖炉の火が、ぱちりとはぜた。
「冬の終わりに、獣を焼く煙が昇っていたのを、わたしは覚えている。ある年から、昇らなくなったことも。——お前の祖母が語ったトゥオネタルも、わたしだ」
トイヴォは、動かなかった。
しばらくして、唇が動いた。声にはならなかった。おばあちゃんの、と言ったように見えた。
それから、トイヴォは、わたしを見た。
今日いちばん長く、まっすぐに。
「……じゃあ」
かすれた声だった。
「おばあちゃんが死んだときも。……四年前の、冬」
わたしは、目をそらさなかった。
そらすべきではない、と思った。
「わたしは、手を下していない」
記録の上では、本当だった。
「この大地で終わった命は、すべて、わたしのもとを通る。お前の祖母の命も、通ったはずだ。わたしは、それを記録した。——覚えては、いない」
覚えていない。
そう口にしたとき、団子を包んだ夜に喉の奥に刺さった小さな骨が、もう一度、同じ場所を突いた。
「……眠るみたいだったんだ」
トイヴォが言った。
「朝、起きたら、もう冷たくて。でも、苦しそうな顔じゃなかった。眠ってるみたいだった。……ちゃんと、どこかへ行けたのかなって、ずっと思ってた」
トイヴォは、自分の手を見下ろした。震えは、止まっていた。
「女神様が、ちゃんと連れていってくれますようにって。昔の人は、そのために獣を捧げたんだって、おばあちゃんは言ってた」
「……お前の祖母が迷ったという記録は、ない」
わたしは言った。記録の言葉で。
それしか、持っていなかった。
トイヴォは、目を閉じた。
長い、長い間があった。
それから、目を開けて、小さく言った。
「……ありがとう」
わたしは、息を止めた。
止める必要のない息を。
「……なぜ、礼を言う」
問いは、いつもの形をしていた。けれど、声は、いつもの声ではなかった。
「分からない」
トイヴォは、首を振った。
「昔の人は、女神様にお供えをして、お礼を言ってたんでしょう。……おばあちゃんの分、僕、まだ誰にも何も言ってなかったから。君は、おばあちゃんを、ちゃんと受け取ってくれたんでしょう」
受け取った。
そういう言葉で、わたしの職務を呼んだ者は、いなかった。
捧げ物の煙が昇らなくなった年から、ずっと。
寂しくなど、なかっただろう。——団子を包んだ夜の嘘が、まだ喉にあった。
わたしは、窓の外を見た。
雪が、降り続いていた。
目の奥が、熱かった。分類できない熱だった。わたしの体に、そのような仕組みがあることを、わたしは知らなかった。
◇
意識を、広げた。
家を囲む輪は、今朝、わたしが力を振るったあとで、ずっと大きくなっていた。木立の半ばまで、糸が細っている。
棚の鉢に、意識を向けた。触れないように。遠くから。
根の糸は、まだ続いていた。
夜明け前よりも、ずっと細い。髪の毛の、さらに半分ほどの細さで。今日のうちに、途切れるかもしれない。
それから、向かいのトイヴォの糸を見た。
長い。まだ、長い。
けれど、わたしの輪の、真ん中にある。
わたしは、冷めた粥の残りを、ひと匙ずつ食べた。
「わたしは、去る」
わたしは立ち上がった。
トイヴォも、立ち上がった。椅子が、床をこする音がした。
「兵は、わたしが生きていることを知った。次に来るのは、あの十二人ではない。——そして、わたしがここにいれば、この家の糸は、細り続ける。棚の根も。……お前も、いずれ」
トイヴォは、何も言わなかった。
言わないまま、卓の上の包みを取った。今朝、わたしがあの男たちの前で押しつけた包み。大きな結び目の。
トイヴォは、それを、両手でわたしに差し出した。
「……持っていって」
受け取ろうとして、わたしは、トイヴォの手を見た。
震えていた。
包みの布ごしにも分かるほど、小さく、細かく。
「恐れるなら、それが正しい」
わたしは言った。
「わたしのそばでは、命が細る。お前が恐れるのは、正しい」
「……うん」
トイヴォは、うなずいた。
「怖いよ」
正直な声だった。トイヴォは、嘘がつけない。南門の兵が、そう言っていた。——わたしのため以外には。
「怖いよ。……でも」
でも。
わたしが「必要ない」と言うたびに、トイヴォが返してきた言葉。
「去る」には、一度も言わなかった言葉。
わたしは、その先を待った。
トイヴォの唇が、動いた。何かを言おうとして、言葉を探して——見つからないまま、止まった。
でも、の先は、来なかった。
トイヴォは、ただ、包みを差し出したままでいた。
でも、の先に何があったのか。行かないで、だったのか。気をつけて、だったのか。それとも、もっと別の、トイヴォにもまだ名前のつけられないものだったのか。
わたしには、分からなかった。
分からないまま、待つことは、できなかった。待てば、わたしは、その先を聞きたくなる。
わたしは、包みを受け取った。
右手に、提げた。
重かった。昨日の夜と、同じ重さだった。
「……どこへ、行くの」
トイヴォが聞いた。
初めて、行き先を聞かれた。
「帰る」
わたしは言った。
「命の終わるところへ。——お前たちが、冥府と呼ぶところだ」
二つ目の嘘だった。一つ目は、まだ喉に残っている。
わたしに、帰る場所があるのかどうか。戻る席が、まだあるのかどうか。わたしは、知らない。
けれど、トイヴォにわかる言葉は、それしかなかった。
戸口で、わたしは一度だけ振り返った。
暖炉の熾火。梁から下がった干し草の束。棚の上の、枯れた鉢。
窓のそばの、わたしの椅子。
卓の上の、わたしの器。
器は、空だった。粥は、残さず食べた。いつからか、残さないようになっていた。
トイヴォは、卓の横に立っていた。何も持たない両手を、体の横に下ろして。
言い残したことが、ひとつあった。
「——トイヴォ」
トイヴォが、顔を上げた。
「棚の根は、生きている」
占い師の言葉ではなかった。死の執政の、記録の言葉だった。
「わたしがいなければ、春まで、もつ」
トイヴォの目が、棚のほうへ動きかけて、止まった。
それから、わたしのほうへ戻ってきた。
「……春、か」
あの朝、わたしが言った言葉だった。
わたしは、答えなかった。
答えれば、春まで、ここにいたくなる。
戸を、閉めた。
音を立てないように。夜明け前と、同じように。
雪は、まだ降っていた。昼には止む、とトイヴォは言った。
それまでに、わたしの足跡は、白く埋まるだろう。
この家から、どこへ向かったのか、誰にも分からなくなるだろう。
——あの人間にも。
それでいい、とわたしは記録した。
記録した文字が、ひどく、読みにくかった。
お読みいただきありがとうございました。
次回、第9話「一人分の食卓」はトイヴォ視点でお送りします。