死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※今回はロノヴァ視点です。


第8話 冥府へ帰る女

 手は、止まった。

 それだけが、確かなことだった。

 

 あの男の胸の上、指一本ぶんのところで。糸は、まだ続いていた。細く、震えて、けれど途切れずに。わたしの指先が触れれば、それで終わるはずだった。劇場でそうしたように。数えきれない命に、そうしてきたように。

 雪が、きしんだ。

 それから、小さく、硬いものが触れ合う音がした。

 聞こえた、のかもしれない。

 聞こえたから止まったのか、止まったから聞こえた気がしたのか。わたしには、見分けられなかった。

 確かなのは、手が止まったことだけだ。決める前に動いた手が、今度は、決める前に止まった。

 わたしのものだったはずの手が、わたしの知らない理由で。

 

 赤い目が閉じていくあいだ、わたしの中から、何かが抜けていった。

 力を振るったあとの空洞だった。天の高みにいたころなら、気にも留めなかったほどの量だ。今のわたしには、それが、足もとの雪を傾けるほどに重かった。

 左の脇腹で、皮の下の冷たい線が、鈍く疼いた。道化の男の目が通った跡。塞がったはずの場所が、内側から、もう一度ひらこうとしていた。

 木立の向こうへ、糸の束が遠ざかっていく。十二本。一本も欠けていない。乱れて、もつれて、それでも続いている。

 わたしは、それを数え終えるまで、振り返らなかった。

 

 振り返って、見たな、と言った。

 逃げるのを、待った。

 トイヴォは、逃げなかった。家に入れ、と言うと、戸口まで下がって、そこで止まった。

 

 トイヴォは、戸を開けたまま待っていた。

 包みを胸に抱えて。頬に、赤い線を一本引いて。

 膝が、まだ震えていた。わたしはそれを、糸を見るまでもなく知った。人間の体は、恐れを隠すようにはできていない。

 それでも、戸は開いていた。

 入るべきではなかった。女皇の兵は、わたしが生きていることを知った。知った者は、次の者を呼ぶ。次に来るのは、十二の糸ではないだろう。

 ここにいてはいけない。

 ——わたしは、家に入った。

 頬が、切れていたからだ。

 そういうことに、しておいた。

 

   ◇

 

「……軟膏を」

 わたしが言うと、トイヴォは一瞬、何を言われたのか分からない顔をした。それから、棚の上の壺を下ろした。自分の頬に塗ろうとして、指を入れかけた。

「貸せ」

 壺を取った。

 黒い指を、軟膏に沈めた。薬草の匂いが立った。この十日あまり、毎晩、わたしの腕から立ちのぼっていた匂いだった。

 トイヴォの頬に、指を近づけた。

 トイヴォは、動かなかった。

 逃げもせず、目を閉じもしなかった。わたしの指を、見ていた。さっき、あの男の胸の上に差し伸べられていたのと、同じ指を。

 わたしは、力を、手の内側にとどめた。

 意図して振るうとき、わたしは終わらせるものを選べる。さっき、トイヴォの糸にだけ触れなかったように。選べないのは、何もしていないときに漏れていくものだ。草を枯らし、小鳥を凍えさせ、壁の中の爪の音を止めたもの。

 今は、選んでいた。

 指先ひとつぶんを、ひとときなら。この家ひとつぶんを、昼も夜も、は、できない。

 指先が、頬の傷に触れた。

 トイヴォの肩が、小さく跳ねた。冷たかったのだろう。

 毎晩、トイヴォは、同じことをわたしの腕にしていた。肘の上から、指先まで。黒い肌の上の、赤い模様を、避けもせず、一つずつ。凍傷だと思い込んだまま。治らないと言われてからも。

 薄く、のばした。傷の端から、端まで。赤い線を、指一本の幅でなぞった。人間の皮膚は、思っていたよりも、ずっと薄かった。

 何かを言うべきだと思った。

 この家で、何度も聞いた言葉があった。

「……痛く、ならないように」

 トイヴォの目が、わずかに見開かれた。

 

   ◇

 

 トイヴォは、粥を炊いた。

 こんな朝でも、トイヴォは粥を炊く。暖炉の熾火を掘り起こし、薪を足し、燕麦をすくって、鍋を火にかける。手は、まだ少し震えていた。それでも、塩は指でつまんで、量って入れた。

「……食べられる?」

「食べられないものはない」

 わたしは、窓のそばの椅子に座った。歩けるようになってから、わたしの場所になった椅子だ。背もたれの木は、わたしが座るようになってから、少しだけ冷たくなった。

 今朝、トイヴォは、おはよう、と言わなかった。

 言われなかったことに、わたしは、気づいていた。

 粥が煮えるのを待つあいだ、鍋の前に立つトイヴォの目が、一度だけ奥の寝床へ動いた。枕の上に、祖母の服が畳んである。袖の端の揃わないまま。

 トイヴォは、何も言わなかった。目を戻して、鍋をかき混ぜた。

 わたしも、何も言わなかった。畳み直せばよかった、とも、思わなかった。

 器を二つ、卓に置いて、粥をよそって、トイヴォは向かいに座った。

 

 粥は、熱かった。

 塩は、多くも少なくもなかった。

 わたしはそれを、ひと匙ずつ、口に運んだ。最初の朝、トイヴォの手で運ばれたのと同じ速さで。

 トイヴォは、匙を持ったまま、ほとんど食べなかった。

 器の半分がなくなったところで、わたしは匙を置いた。

「死の執政、と、あの男は言った」

 トイヴォの手が、止まった。

「それが、わたしの名だ。——正しくは、職務の名だ」

 

 話すと決めていたわけではない。

 けれど、三晩前に唇を閉じた言葉は、今はもう、閉じておく理由を失っていた。トイヴォは、見たのだ。翼を。目を。膝をつく兵たちを。見たものに、名をつけないままにしておくのは——トイヴォの祖母の言葉を借りるなら、見なかったことにするのと同じだった。

「わたしは、天理の影だ」

 天理、という言葉を、トイヴォは知らないようだった。わたしは、言い直した。

「この世界の定めを、つくった者がいる。その定めを、この大地で執り行うために生み出された影が、四つある。わたしは、そのひとつだ」

 トイヴォは、黙って聞いていた。

「命には、終わりがある。それが定めだ。この大地で終わる命は、すべて、わたしの管轄にある。人も、獣も、草も。わたしはそれを見て、記録する。終わるべきものが終わらないとき、定めに背くものがあるときは——終わらせる」

 言いながら、自分の声がひどく平らなことに気づいた。帳面を読み上げるときの声だった。

 それでいい、と思った。

 これは、帳面に書いてあることだ。

 

「遠い火の国の、最初の神は、わたしの力を借りて、死んだ者がもう一度立ち上がれる仕組みをつくった。わたしはその取引を、長いあいだ見届けてきた。……それも、わたしの職務の一部だった」

 トイヴォは、ゆっくりと瞬きをした。遠い国の話を、遠いまま聞いている顔だった。

「ではなぜ、雪原に倒れていたのか、と思っているだろう」

 トイヴォは、答えなかった。聞かない人間だ。だから、わたしのほうから言った。

「女皇の国の者たちと、戦った。最後に、道化の男の目に貫かれた。体がほどけて、羽根になって、落ちた。——落ちた先が、お前の雪原だった」

「……あの、黒い羽根」

「そうだ」

 トイヴォは、自分の指先を見た。わたしの羽根は、人の指に触れれば崩れる。雪原で、あの指も、それに触れたのだろう。

「倒れる前に、わたしは、空の柱に、残っていた力のほとんどを注いだ。餞別だ。——今も、この大地のあちこちで、古い釘が目を覚ましている」

「よその国で、空から落ちた釘が光りだした、って……市場で」

「それだ」

 何のためのものかは、言わなかった。トイヴォも、聞かなかった。

 

「劇場で」

 トイヴォの肩が、わずかに強張った。

「わたしは、いくつもの命を終わらせた。兵の言ったとおりだ」

 そこで、少しだけ、言葉が途切れた。

 途切れた理由を、わたしは探さなかった。

「理由は、わたしの帳面に書いてある。わたしは、書いてあることを執り行った。職務として。——あのときのことに、わたしは何も感じていなかった」

 感じていなかった、と過去の形で言ったことに、言ってから気づいた。

 今は、どうなのか。

 それは、どの帳面にも書いていなかった。

 

 トイヴォは、長いあいだ黙っていた。

 器の中の粥から、湯気が細く立っていた。

「……占い師じゃ、なかったんだね」

 ようやく出てきたのは、それだった。

「お前が、そう思っただけだ」

「うん。……そうだね」

 トイヴォは、少しだけ笑おうとした。うまく、笑えていなかった。枯れたタイムを手にしていた、あの朝と同じ顔だった。

 

   ◇

 

「もうひとつ、ある」

 わたしは言った。

 言わずに去ることもできた。言わなくても、帳尻には関わらない。

 けれど、あの夜、暖炉のそばで膝を抱えて話したトイヴォの声が、耳の奥に残っていた。

「お前の祖母が語った、冥府の女神の話」

 トイヴォが、顔を上げた。

「トゥオネタル。霜月の子たちは、わたしをそう呼んでいた」

 暖炉の火が、ぱちりとはぜた。

「冬の終わりに、獣を焼く煙が昇っていたのを、わたしは覚えている。ある年から、昇らなくなったことも。——お前の祖母が語ったトゥオネタルも、わたしだ」

 

 トイヴォは、動かなかった。

 しばらくして、唇が動いた。声にはならなかった。おばあちゃんの、と言ったように見えた。

 それから、トイヴォは、わたしを見た。

 今日いちばん長く、まっすぐに。

「……じゃあ」

 かすれた声だった。

「おばあちゃんが死んだときも。……四年前の、冬」

 わたしは、目をそらさなかった。

 そらすべきではない、と思った。

「わたしは、手を下していない」

 記録の上では、本当だった。

「この大地で終わった命は、すべて、わたしのもとを通る。お前の祖母の命も、通ったはずだ。わたしは、それを記録した。——覚えては、いない」

 覚えていない。

 そう口にしたとき、団子を包んだ夜に喉の奥に刺さった小さな骨が、もう一度、同じ場所を突いた。

 

「……眠るみたいだったんだ」

 トイヴォが言った。

「朝、起きたら、もう冷たくて。でも、苦しそうな顔じゃなかった。眠ってるみたいだった。……ちゃんと、どこかへ行けたのかなって、ずっと思ってた」

 トイヴォは、自分の手を見下ろした。震えは、止まっていた。

「女神様が、ちゃんと連れていってくれますようにって。昔の人は、そのために獣を捧げたんだって、おばあちゃんは言ってた」

「……お前の祖母が迷ったという記録は、ない」

 わたしは言った。記録の言葉で。

 それしか、持っていなかった。

 トイヴォは、目を閉じた。

 長い、長い間があった。

 それから、目を開けて、小さく言った。

「……ありがとう」

 

 わたしは、息を止めた。

 止める必要のない息を。

「……なぜ、礼を言う」

 問いは、いつもの形をしていた。けれど、声は、いつもの声ではなかった。

「分からない」

 トイヴォは、首を振った。

「昔の人は、女神様にお供えをして、お礼を言ってたんでしょう。……おばあちゃんの分、僕、まだ誰にも何も言ってなかったから。君は、おばあちゃんを、ちゃんと受け取ってくれたんでしょう」

 受け取った。

 そういう言葉で、わたしの職務を呼んだ者は、いなかった。

 捧げ物の煙が昇らなくなった年から、ずっと。

 寂しくなど、なかっただろう。——団子を包んだ夜の嘘が、まだ喉にあった。

 

 わたしは、窓の外を見た。

 雪が、降り続いていた。

 目の奥が、熱かった。分類できない熱だった。わたしの体に、そのような仕組みがあることを、わたしは知らなかった。

 

   ◇

 

 意識を、広げた。

 家を囲む輪は、今朝、わたしが力を振るったあとで、ずっと大きくなっていた。木立の半ばまで、糸が細っている。

 棚の鉢に、意識を向けた。触れないように。遠くから。

 根の糸は、まだ続いていた。

 夜明け前よりも、ずっと細い。髪の毛の、さらに半分ほどの細さで。今日のうちに、途切れるかもしれない。

 それから、向かいのトイヴォの糸を見た。

 長い。まだ、長い。

 けれど、わたしの輪の、真ん中にある。

 

 わたしは、冷めた粥の残りを、ひと匙ずつ食べた。

 

「わたしは、去る」

 わたしは立ち上がった。

 トイヴォも、立ち上がった。椅子が、床をこする音がした。

「兵は、わたしが生きていることを知った。次に来るのは、あの十二人ではない。——そして、わたしがここにいれば、この家の糸は、細り続ける。棚の根も。……お前も、いずれ」

 トイヴォは、何も言わなかった。

 言わないまま、卓の上の包みを取った。今朝、わたしがあの男たちの前で押しつけた包み。大きな結び目の。

 トイヴォは、それを、両手でわたしに差し出した。

「……持っていって」

 受け取ろうとして、わたしは、トイヴォの手を見た。

 震えていた。

 包みの布ごしにも分かるほど、小さく、細かく。

 

「恐れるなら、それが正しい」

 わたしは言った。

「わたしのそばでは、命が細る。お前が恐れるのは、正しい」

「……うん」

 トイヴォは、うなずいた。

「怖いよ」

 正直な声だった。トイヴォは、嘘がつけない。南門の兵が、そう言っていた。——わたしのため以外には。

「怖いよ。……でも」

 でも。

 わたしが「必要ない」と言うたびに、トイヴォが返してきた言葉。

 「去る」には、一度も言わなかった言葉。

 わたしは、その先を待った。

 トイヴォの唇が、動いた。何かを言おうとして、言葉を探して——見つからないまま、止まった。

 でも、の先は、来なかった。

 トイヴォは、ただ、包みを差し出したままでいた。

 でも、の先に何があったのか。行かないで、だったのか。気をつけて、だったのか。それとも、もっと別の、トイヴォにもまだ名前のつけられないものだったのか。

 わたしには、分からなかった。

 分からないまま、待つことは、できなかった。待てば、わたしは、その先を聞きたくなる。

 

 わたしは、包みを受け取った。

 右手に、提げた。

 重かった。昨日の夜と、同じ重さだった。

「……どこへ、行くの」

 トイヴォが聞いた。

 初めて、行き先を聞かれた。

「帰る」

 わたしは言った。

「命の終わるところへ。——お前たちが、冥府と呼ぶところだ」

 二つ目の嘘だった。一つ目は、まだ喉に残っている。

 わたしに、帰る場所があるのかどうか。戻る席が、まだあるのかどうか。わたしは、知らない。

 けれど、トイヴォにわかる言葉は、それしかなかった。

 

 戸口で、わたしは一度だけ振り返った。

 暖炉の熾火。梁から下がった干し草の束。棚の上の、枯れた鉢。

 窓のそばの、わたしの椅子。

 卓の上の、わたしの器。

 器は、空だった。粥は、残さず食べた。いつからか、残さないようになっていた。

 トイヴォは、卓の横に立っていた。何も持たない両手を、体の横に下ろして。

 言い残したことが、ひとつあった。

「——トイヴォ」

 トイヴォが、顔を上げた。

「棚の根は、生きている」

 占い師の言葉ではなかった。死の執政の、記録の言葉だった。

「わたしがいなければ、春まで、もつ」

 トイヴォの目が、棚のほうへ動きかけて、止まった。

 それから、わたしのほうへ戻ってきた。

「……春、か」

 あの朝、わたしが言った言葉だった。

 わたしは、答えなかった。

 答えれば、春まで、ここにいたくなる。

 

 戸を、閉めた。

 音を立てないように。夜明け前と、同じように。

 雪は、まだ降っていた。昼には止む、とトイヴォは言った。

 それまでに、わたしの足跡は、白く埋まるだろう。

 この家から、どこへ向かったのか、誰にも分からなくなるだろう。

 ——あの人間にも。

 それでいい、とわたしは記録した。

 記録した文字が、ひどく、読みにくかった。




お読みいただきありがとうございました。
次回、第9話「一人分の食卓」はトイヴォ視点でお送りします。
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