※今回はトイヴォ視点です。
戸が閉まる音を、僕は卓の横で聞いていた。
音を立てないように、ゆっくりと。夜明け前と、同じ閉め方だった。
追いかけなかった。
足が動かなかったのか、動かさなかったのか。今度は、分かっていた。動かさなかったのだ。
怖かった。それは、本当だった。
でも——。
でも、の先は、まだ見つからなかった。見つからないまま、あの人は行ってしまった。
昼に、雪は止んだ。
僕が言ったとおりだった。天気の読み方だけは、おばあちゃんに教わったから、外れない。
戸を開けて、外に出た。
足跡は、なかった。
戸口から先の雪は、どこも同じように白く、平らだった。十二人ぶんの足跡も、棒の穴も、もうほとんど埋まっていた。雪は何でも隠してしまう。おばあちゃんの言ったとおりに。
家を囲む黒い枝先だけが、雪の上に突き出ていた。
僕は、それを長いあいだ見ていた。
輪の向こうまでは、見に行かなかった。
兵たちが膝をついたあたり、今は輪の内側になった雪に、口ひげの男の剣が、刺さったまま残っていた。
抜こうとして、やめた。僕のものではない。
家の中に戻ると、部屋が、ひどく広かった。
十日あまり前まで、この家はずっとこの広さだった。暖炉と、寝台と、棚と、卓と、椅子がふたつ。一人で暮らすのに、ちょうどいい広さ。おばあちゃんが死んでから、四年間、僕はそう思っていた。
窓のそばの椅子に、目が行った。
背もたれに、手を置いてみた。木は、冷たかった。あの人が座るようになってから、この椅子はいつも少し冷たかった。座る人がいなくなったのに、まだ冷たいままだった。
あの人の冷たさが、まだ、ここに残っていた。
卓の上に、器が二つ残っていた。
あの人の器は、空だった。底まで、きれいに。僕の器は、ほとんど減っていなかった。
◇
夕方、鍋を火にかけた。
燕麦を、いつものように量った。いつものように、ふたり分。
量り終えてから、気がついた。
手のひらの上の燕麦を、しばらく見ていた。袋に戻そうとして、戻せなかった。そのまま、鍋に入れた。
あの人が空にしていった器を、洗った。そこに、粥をよそった。自分の器にも、よそった。
窓のそばの椅子の前に、あの人の器を置いた。
湯気が、誰もいない椅子の前で、細く立った。
——おばあちゃんの分です。死んでからも、つい、よそってしまうんです。
三日前、南門の兵士に、僕はそう言った。嘘だった。とっさに口から出た、嘘。
おばあちゃんが死んだあと、おばあちゃんの分をよそったことは、一度もなかった。四年間、一度も。
嘘だったはずの言葉が、今、本当になっていた。
ただ、よそっているのは、おばあちゃんの分ではなかった。
粥は、塩が多かった。
待て、と言う人は、いなかった。
自分の器を半分食べて、残りは鍋に戻した。窓辺の器には、手をつけなかった。冷めて、表面に薄い膜が張っても、そのままにしておいた。
夜、いつもの時間に、軟膏の壺を出しかけた。
壺を持ったまま、手が止まった。
塗る腕が、なかった。
壺を棚に戻した。戻すときに、隣の枯れた鉢が目に入った。
茎は黒いまま、土は乾きかけていた。僕は水差しを取って、少しだけ水を落とした。
棚の根は、生きている。わたしがいなければ、春まで、もつ。
あの人は、そう言った。
占い師の占いではない。見て、記録する人の言葉だ。あの朝、あの人は自分のことを、そう話した。
僕は、それを信じることにした。信じる以外に、できることがなかった。
灯りを落とした。
暖炉のこちら側の床に、毛皮を敷いて横になった。奥の壁際には、藁布団がそのまま敷いてある。枕の上に、おばあちゃんの服が、袖の端の揃わないまま畳んである。
揃え直そうとは、思わなかった。
あの手が、畳んだ形だった。
「おやすみ」
言ってから、誰に言ったのか分からなくなった。
返事がないのは、いつものことだった。
ただ、今夜は、返事をしない人も、いなかった。
◇
朝、目を覚まして、暖炉の向こうをのぞいた。
寝床は、空だった。
藁布団の上の毛布は、昨日の朝あの人が抜け出したときの形のまま、少しだけ持ち上がっていた。
分かっていた。分かっていても、心臓は、ひとつ跳ねた。
「……おはよう」
声に出した。
昨日の朝、僕はそれを言わなかった。言ったら、あの人が困ると思ったから。言わないまま、あの人は行ってしまった。
あの人は、一度も、おはようにも、おやすみにも答えなかった。
答えてもらえなくても、言えばよかった。
今さら、そう思った。
朝ご飯の燕麦を量った。
手のひらに、ふたり分が載っていた。
昨日の夕方と、同じだった。考えるより先に、手がふたり分を覚えていた。この十日ほどで、手のほうが、先に覚えてしまったのだ。
一人でも、生きていけるよ。——あの人に、そう言ったことがある。
嘘ではなかった。薪も割れるし、罠も仕掛けられる。粥も炊ける。
ただ、一人分の量り方を、僕の手は、もう忘れかけていた。
量り直さないまま、鍋に入れた。多いぶんは、昼に食べればいい。そう思うことにした。
薪を取りに、外に出た。
薪の山の前で、足が止まった。
小鳥がいた。
胸の黄色い、小さな鳥が三羽、薪の山のてっぺんで、ふくらんだ羽毛を震わせていた。僕の足音に首をかしげて、それでも、逃げなかった。
二羽が落ちた朝から、一羽も来なかった鳥だ。
二羽は、僕が雪の下に埋めた。
僕は、しばらく動けなかった。
あの人がいなくなったから、戻ってきたのだ。
分かってしまった。分かりたくなかったのに。
——わたしのそばでは、命が細る。
あの人は、自分で、それを知っていた。知っていて、十日あまり、この家にいた。タイムが枯れた朝も、小鳥が落ちた朝も、黙って、この家にいた。
そして、それ以上ここにいれば、次は何が細るのかも、あの人は知っていた。
だから、行ったのだ。
小鳥が一羽、小さく鳴いた。
その声が、ひどく、明るかった。
◇
昼過ぎに、足音がした。
揃った足音ではなかった。ひとりぶんの、雪を踏む音。
戸を開けると、南門の兵士が、輪の縁に立っていた。
外套の肩に、雪はなかった。息も、荒くなかった。昨日の朝とは違って、ゆっくり歩いてきたのだと分かった。
「……よう」
「……こんにちは」
兵士は、雪に刺さったままの剣を顎で示した。
「あれを取りに来た。指揮官の剣だ。雪に置いてきたなんて、上に何を書かれるか分からない」
そう言いながら、兵士はしばらく、剣のほうへ歩こうとしなかった。黒い枝先の輪を、踏むか踏まないかのところで、足を止めていた。
「……入りますか。お茶くらいなら」
「いや」
兵士は首を振った。それから、少し考えて、言い直した。
「……少しだけなら」
兵士は、戸口に近いほうの腰掛けに座った。外套も脱がなかった。
湯を沸かして、干した野いちごの葉を浸した。兵士は両手で杯を包んで、しばらく黙っていた。
目が、卓の上に落ちた。
窓のそばの椅子の前に、冷めた粥の器が置いてあった。昨日の夕方から、そのままの器。
兵士は、何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと一度、目を閉じた。
それから、僕の頬を見た。
「……傷は」
「塞がりかけてます。軟膏を、塗ってもらったので」
誰に、とは、兵士は聞かなかった。聞かなくても、分かったのだと思う。
「尾根に戻るなり、みんな倒れた。息は細いまま、夜まで、誰も目を開けなかった」
兵士が言った。
「それから、ひとり、またひとり、起きた。ゆうべまでに、全員。指揮官もだ。霜焼けで割れた唇で、目を開けて、最初に何て言ったと思う」
僕は、首を振った。
「『生きているのか』だとさ。自分のことを聞いたのか、あいつのことを聞いたのか。どっちとも取れる言い方だった」
兵士は、杯の中を見下ろした。
「隊は、今朝、尾根を引き払った。町へ戻る。……俺だけ、剣を取りに寄り道の許しをもらった」
許しをもらった、と言ったとき、兵士の口の端が、少しだけ歪んだ。
「それと、報せが上へ飛んだ。死の執政は生きている、ってな。上の、そのまた上から、別の者たちが来る。……執行官が、自分で出てくるって話だ。俺たちとは、比べものにならない」
僕は、杯を持つ手に力が入るのを感じた。
「どこへ、ですか」
「どこを探すのか、ってことか」
「……どこへ、行ったのか」
兵士は、僕の顔を見た。
長いあいだ。四日前、戸口で見たのと、同じ目で。
「輪の、北東の端から」
兵士は、ゆっくりと言った。
「黒い筋が、一本延びてる。雪の上に、枯れた灌木の枝先が、点々と突き出てるんだ。足跡は雪で消えても、あれは消えない。あいつが通ったところだけ、草も木も、黒く枯れてる」
僕は、窓の外を見た。
ここからは見えない。けれど、見えるような気がした。雪原を、ひとすじの黒が、まっすぐ遠ざかっていくのが。
あの人は、足跡を雪が隠すと思っていたのだろう。
隠せないものを、あの人は、自分の体から落としながら歩いている。
「筋は、北東へ向かってる。人の寄りつかないほうだ。……上から来る者たちも、あの筋を見つけるだろう。今日か、明日か」
北東。おじいちゃんも、あまり入らなかった雪原だ。その先に、凍った古い湖がある。
湖まで行けば、氷の上には、枯らすものがない。黒い筋は、そこで途切れる。
兵士は、杯を置いた。
「俺が言えるのは、それだけだ」
「……どうして、それを僕に」
兵士は、少しだけ笑った。
「あんた、嘘がつけないだろう」
「……はい」
「だから、あんたが嘘をついてまで隠したものが、何だったのか。俺は、ずっと考えてた」
兵士は、窓のそばの器を、もう一度見た。
「劇場で、大勢が死んだ。それは本当だ。俺は、あいつを許さない。許せる立場でもない」
静かな声だった。
「でも、昨日の朝、あいつは俺たちを、一人も殺さなかった。あの指揮官の胸の上で、手を止めた。……俺は見てた。雪に手をついて、息ができなくて、それでも、見てた」
兵士は、僕を見た。
「あいつが手を止めたとき、あんたが一歩、前に出た。——俺には、そう見えた」
包みの中で鳴った、小さな音。
こつん、と。
あの人の手が止まったのが、あの音のせいなのか、僕の足音のせいなのか、それとも、どちらでもないのか。僕には分からない。あの人にも、たぶん、分からない。
分からないまま、あの人は、一人も殺さなかった。
大勢を死なせた人が。
僕の前では、殺さなかった。
どちらも、同じ人だった。昨日の朝、そう思った。今も、そう思っている。
どちらかだけを選んで、あの人を分かったことにするのは——それもたぶん、見なかったことにするのと、同じだった。
◇
兵士は、輪の内側の雪に踏み込んで、剣を抜いた。
黒い枝先を、一本だけ、踏んだ。抜いた剣を布に巻いて、それから、振り返った。
「追うのか」
僕は、すぐには答えられなかった。
怖かった。それは、今も本当だった。
あの人のそばでは、命が細る。タイムが枯れて、玉ねぎが黒くなって、小鳥が落ちた。追いかけていけば、次に細るのは、僕かもしれない。
執行官が来る。市場の噂でしか聞いたことのない、女皇様の、いちばん上の家来が。十二人とは、比べものにならない者が。
僕は猟師だ。剣も持っていない。戦ったことなど、一度もない。
それでも。
「……言いそびれたことが、あるんです」
口から出たのは、それだった。
「でも、って言ったきり、その先を、言えなかった。何を言いたかったのかも、まだ、分からないんです」
兵士は、黙って聞いていた。
「分からないまま、あの人は行っちゃった。……だから、その先を、見つけに行きます」
言ってから、自分でも少し驚いた。
言葉にしたら、それは、ずっと前から決まっていたことのように思えた。
兵士は、長いあいだ僕を見ていた。
それから、ため息をついた。白い息が、ゆっくりと空にほどけた。
「止めても、行くんだろうな」
「……はい」
「なら、止めない」
兵士は、外套の内側から、折りたたんだ紙を出した。
「尾根で写した。このあたりの地図だ。湖の向こうまで、描いてある。……指揮官には、なくしたと言っておく」
受け取ると、紙はまだ、兵士の体温で少しだけ温かかった。
湖から先は、僕も知らない土地だった。
「あんたが見つけるのが先か、上の者たちが見つけるのが先か。俺には分からない。……分からないが、あんたのほうが、雪の歩き方は上手いだろう」
兵士が背を向けた。
その背中に、僕は声をかけた。
「あの」
兵士が、足を止めた。
「名前を、教えてください」
何度も顔を合わせてきたのに、一度も聞かなかった名前。昨日の朝、言いかけて、言えなかった名前。
兵士は、振り返った。少し意外そうな顔をして、それから、笑った。
「チモフェイだ」
「チモフェイさん」
「さん、はいらない」
「……チモフェイ」
口の中で、もう一度、転がした。
名前を知ると、その人の顔が、少しだけ違って見えた。南門の兵士、ではなく。チモフェイという、ひとりの人に。
「お気をつけて」
僕が言うと、チモフェイは、今度ははっきりと笑った。
「兵隊に『お気をつけて』って言うやつは、あんたくらいだ」
それから、少しだけ真顔になった。
「——あんたもな、トイヴォ」
チモフェイは、雪の中を、北のほうへ去っていった。
僕は、その背中が木立に消えるまで、戸口に立っていた。
◇
その夜、支度をした。
背負い袋に、毛皮を二枚。予備の手袋。火打ち石。輪罠の針金。小刀。
干した鹿の骨と、玉ねぎを三つ。塩を、小さな袋に。
小鍋は、あの人の包みに入れてしまったから、古い鉄鍋を出した。
おばあちゃんの軟膏の壺も、入れた。
あの人の包みに入れた小さな缶は、もう、残り少なくなっているかもしれない。
——腕には、自分で塗ってね。
そう言ったけれど、あの黒い指で、ちゃんと塗れているだろうか。
寝る前に、窓辺の器を片づけた。
冷めきった粥を、鍋に戻した。器を洗って、棚に戻した。
二つ、並べて。
棚の鉢に、水を落とした。
「春まで、もつんだよね」
鉢は、何も答えなかった。
答えないのは、いつものことだった。
枕の上の、袖の揃わない服を見た。揃えないまま、そっと、ひと撫でだけした。
◇
夜の雪原は歩くな、とおじいちゃんは言った。だから、夜明けを待った。
夜明け前に、家を出た。
戸を閉めた。音を立てないように。あの人と、同じ閉め方で。
雪は、止んでいた。空は、澄んで冷たかった。昼まで、崩れない。風の匂いで、分かった。
家を囲む黒い輪の縁を、北東へ回った。
すぐに、見つかった。
白い雪の上に、黒い枝先が、点々と続いていた。一本の糸のように。家の輪から、細く、まっすぐに、雪原の奥へ。
あの人の歩いたところだけ、何もかもが枯れていた。
あの人が、自分で自分に引いた線だった。
帰る、とあの人は言った。命の終わるところへ、と。
黒い線は、どこにも着かないほうへ延びていた。帰る場所へ向かう人の、歩き方ではなかった。
——雪原で見つけたものは、見なかったことにしちゃいけないよ。
おばあちゃんの声が、した気がした。
僕は、ずっと、見なかったことにしてきた。あの朝、それが分かった。
黒い腕を、凍傷だと思うことにした。枯れたタイムを、霜のせいにした。小鳥を、寒さのせいにした。窪地の枯れ方を、思い出さないことにした。
今度は、見る。
あの人がどんなものでも。
見て、それから、でも、の先を言う。
黒い枝先を、踏まないようにして、その横を歩きはじめた。
雪が、きしんだ。
背負い袋の中で、鉄鍋と軟膏の壺が触れ合って、小さく鳴った。
こつん、と。
お読みいただきありがとうございました。
次回、第10話「死が知った温度」はロノヴァ視点でお送りします。