死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※今回はトイヴォ視点です。


第9話 一人分の食卓

 戸が閉まる音を、僕は卓の横で聞いていた。

 音を立てないように、ゆっくりと。夜明け前と、同じ閉め方だった。

 追いかけなかった。

 足が動かなかったのか、動かさなかったのか。今度は、分かっていた。動かさなかったのだ。

 怖かった。それは、本当だった。

 でも——。

 でも、の先は、まだ見つからなかった。見つからないまま、あの人は行ってしまった。

 

 昼に、雪は止んだ。

 僕が言ったとおりだった。天気の読み方だけは、おばあちゃんに教わったから、外れない。

 戸を開けて、外に出た。

 足跡は、なかった。

 戸口から先の雪は、どこも同じように白く、平らだった。十二人ぶんの足跡も、棒の穴も、もうほとんど埋まっていた。雪は何でも隠してしまう。おばあちゃんの言ったとおりに。

 家を囲む黒い枝先だけが、雪の上に突き出ていた。

 僕は、それを長いあいだ見ていた。

 輪の向こうまでは、見に行かなかった。

 兵たちが膝をついたあたり、今は輪の内側になった雪に、口ひげの男の剣が、刺さったまま残っていた。

 抜こうとして、やめた。僕のものではない。

 

 家の中に戻ると、部屋が、ひどく広かった。

 十日あまり前まで、この家はずっとこの広さだった。暖炉と、寝台と、棚と、卓と、椅子がふたつ。一人で暮らすのに、ちょうどいい広さ。おばあちゃんが死んでから、四年間、僕はそう思っていた。

 窓のそばの椅子に、目が行った。

 背もたれに、手を置いてみた。木は、冷たかった。あの人が座るようになってから、この椅子はいつも少し冷たかった。座る人がいなくなったのに、まだ冷たいままだった。

 あの人の冷たさが、まだ、ここに残っていた。

 卓の上に、器が二つ残っていた。

 あの人の器は、空だった。底まで、きれいに。僕の器は、ほとんど減っていなかった。

 

   ◇

 

 夕方、鍋を火にかけた。

 燕麦を、いつものように量った。いつものように、ふたり分。

 量り終えてから、気がついた。

 手のひらの上の燕麦を、しばらく見ていた。袋に戻そうとして、戻せなかった。そのまま、鍋に入れた。

 あの人が空にしていった器を、洗った。そこに、粥をよそった。自分の器にも、よそった。

 窓のそばの椅子の前に、あの人の器を置いた。

 湯気が、誰もいない椅子の前で、細く立った。

 

 ——おばあちゃんの分です。死んでからも、つい、よそってしまうんです。

 三日前、南門の兵士に、僕はそう言った。嘘だった。とっさに口から出た、嘘。

 おばあちゃんが死んだあと、おばあちゃんの分をよそったことは、一度もなかった。四年間、一度も。

 嘘だったはずの言葉が、今、本当になっていた。

 ただ、よそっているのは、おばあちゃんの分ではなかった。

 

 粥は、塩が多かった。

 待て、と言う人は、いなかった。

 自分の器を半分食べて、残りは鍋に戻した。窓辺の器には、手をつけなかった。冷めて、表面に薄い膜が張っても、そのままにしておいた。

 

 夜、いつもの時間に、軟膏の壺を出しかけた。

 壺を持ったまま、手が止まった。

 塗る腕が、なかった。

 壺を棚に戻した。戻すときに、隣の枯れた鉢が目に入った。

 茎は黒いまま、土は乾きかけていた。僕は水差しを取って、少しだけ水を落とした。

 棚の根は、生きている。わたしがいなければ、春まで、もつ。

 あの人は、そう言った。

 占い師の占いではない。見て、記録する人の言葉だ。あの朝、あの人は自分のことを、そう話した。

 僕は、それを信じることにした。信じる以外に、できることがなかった。

 

 灯りを落とした。

 暖炉のこちら側の床に、毛皮を敷いて横になった。奥の壁際には、藁布団がそのまま敷いてある。枕の上に、おばあちゃんの服が、袖の端の揃わないまま畳んである。

 揃え直そうとは、思わなかった。

 あの手が、畳んだ形だった。

「おやすみ」

 言ってから、誰に言ったのか分からなくなった。

 返事がないのは、いつものことだった。

 ただ、今夜は、返事をしない人も、いなかった。

 

   ◇

 

 朝、目を覚まして、暖炉の向こうをのぞいた。

 寝床は、空だった。

 藁布団の上の毛布は、昨日の朝あの人が抜け出したときの形のまま、少しだけ持ち上がっていた。

 分かっていた。分かっていても、心臓は、ひとつ跳ねた。

「……おはよう」

 声に出した。

 昨日の朝、僕はそれを言わなかった。言ったら、あの人が困ると思ったから。言わないまま、あの人は行ってしまった。

 あの人は、一度も、おはようにも、おやすみにも答えなかった。

 答えてもらえなくても、言えばよかった。

 今さら、そう思った。

 

 朝ご飯の燕麦を量った。

 手のひらに、ふたり分が載っていた。

 昨日の夕方と、同じだった。考えるより先に、手がふたり分を覚えていた。この十日ほどで、手のほうが、先に覚えてしまったのだ。

 一人でも、生きていけるよ。——あの人に、そう言ったことがある。

 嘘ではなかった。薪も割れるし、罠も仕掛けられる。粥も炊ける。

 ただ、一人分の量り方を、僕の手は、もう忘れかけていた。

 量り直さないまま、鍋に入れた。多いぶんは、昼に食べればいい。そう思うことにした。

 

 薪を取りに、外に出た。

 薪の山の前で、足が止まった。

 小鳥がいた。

 胸の黄色い、小さな鳥が三羽、薪の山のてっぺんで、ふくらんだ羽毛を震わせていた。僕の足音に首をかしげて、それでも、逃げなかった。

 二羽が落ちた朝から、一羽も来なかった鳥だ。

 二羽は、僕が雪の下に埋めた。

 僕は、しばらく動けなかった。

 あの人がいなくなったから、戻ってきたのだ。

 分かってしまった。分かりたくなかったのに。

 ——わたしのそばでは、命が細る。

 あの人は、自分で、それを知っていた。知っていて、十日あまり、この家にいた。タイムが枯れた朝も、小鳥が落ちた朝も、黙って、この家にいた。

 そして、それ以上ここにいれば、次は何が細るのかも、あの人は知っていた。

 だから、行ったのだ。

 小鳥が一羽、小さく鳴いた。

 その声が、ひどく、明るかった。

 

   ◇

 

 昼過ぎに、足音がした。

 揃った足音ではなかった。ひとりぶんの、雪を踏む音。

 戸を開けると、南門の兵士が、輪の縁に立っていた。

 外套の肩に、雪はなかった。息も、荒くなかった。昨日の朝とは違って、ゆっくり歩いてきたのだと分かった。

「……よう」

「……こんにちは」

 兵士は、雪に刺さったままの剣を顎で示した。

「あれを取りに来た。指揮官の剣だ。雪に置いてきたなんて、上に何を書かれるか分からない」

 そう言いながら、兵士はしばらく、剣のほうへ歩こうとしなかった。黒い枝先の輪を、踏むか踏まないかのところで、足を止めていた。

「……入りますか。お茶くらいなら」

「いや」

 兵士は首を振った。それから、少し考えて、言い直した。

「……少しだけなら」

 

 兵士は、戸口に近いほうの腰掛けに座った。外套も脱がなかった。

 湯を沸かして、干した野いちごの葉を浸した。兵士は両手で杯を包んで、しばらく黙っていた。

 目が、卓の上に落ちた。

 窓のそばの椅子の前に、冷めた粥の器が置いてあった。昨日の夕方から、そのままの器。

 兵士は、何も言わなかった。

 ただ、ゆっくりと一度、目を閉じた。

 それから、僕の頬を見た。

「……傷は」

「塞がりかけてます。軟膏を、塗ってもらったので」

 誰に、とは、兵士は聞かなかった。聞かなくても、分かったのだと思う。

 

「尾根に戻るなり、みんな倒れた。息は細いまま、夜まで、誰も目を開けなかった」

 兵士が言った。

「それから、ひとり、またひとり、起きた。ゆうべまでに、全員。指揮官もだ。霜焼けで割れた唇で、目を開けて、最初に何て言ったと思う」

 僕は、首を振った。

「『生きているのか』だとさ。自分のことを聞いたのか、あいつのことを聞いたのか。どっちとも取れる言い方だった」

 兵士は、杯の中を見下ろした。

「隊は、今朝、尾根を引き払った。町へ戻る。……俺だけ、剣を取りに寄り道の許しをもらった」

 許しをもらった、と言ったとき、兵士の口の端が、少しだけ歪んだ。

「それと、報せが上へ飛んだ。死の執政は生きている、ってな。上の、そのまた上から、別の者たちが来る。……執行官が、自分で出てくるって話だ。俺たちとは、比べものにならない」

 僕は、杯を持つ手に力が入るのを感じた。

「どこへ、ですか」

「どこを探すのか、ってことか」

「……どこへ、行ったのか」

 兵士は、僕の顔を見た。

 長いあいだ。四日前、戸口で見たのと、同じ目で。

 

「輪の、北東の端から」

 兵士は、ゆっくりと言った。

「黒い筋が、一本延びてる。雪の上に、枯れた灌木の枝先が、点々と突き出てるんだ。足跡は雪で消えても、あれは消えない。あいつが通ったところだけ、草も木も、黒く枯れてる」

 僕は、窓の外を見た。

 ここからは見えない。けれど、見えるような気がした。雪原を、ひとすじの黒が、まっすぐ遠ざかっていくのが。

 あの人は、足跡を雪が隠すと思っていたのだろう。

 隠せないものを、あの人は、自分の体から落としながら歩いている。

「筋は、北東へ向かってる。人の寄りつかないほうだ。……上から来る者たちも、あの筋を見つけるだろう。今日か、明日か」

 北東。おじいちゃんも、あまり入らなかった雪原だ。その先に、凍った古い湖がある。

 湖まで行けば、氷の上には、枯らすものがない。黒い筋は、そこで途切れる。

 兵士は、杯を置いた。

「俺が言えるのは、それだけだ」

 

「……どうして、それを僕に」

 兵士は、少しだけ笑った。

「あんた、嘘がつけないだろう」

「……はい」

「だから、あんたが嘘をついてまで隠したものが、何だったのか。俺は、ずっと考えてた」

 兵士は、窓のそばの器を、もう一度見た。

「劇場で、大勢が死んだ。それは本当だ。俺は、あいつを許さない。許せる立場でもない」

 静かな声だった。

「でも、昨日の朝、あいつは俺たちを、一人も殺さなかった。あの指揮官の胸の上で、手を止めた。……俺は見てた。雪に手をついて、息ができなくて、それでも、見てた」

 兵士は、僕を見た。

「あいつが手を止めたとき、あんたが一歩、前に出た。——俺には、そう見えた」

 

 包みの中で鳴った、小さな音。

 こつん、と。

 あの人の手が止まったのが、あの音のせいなのか、僕の足音のせいなのか、それとも、どちらでもないのか。僕には分からない。あの人にも、たぶん、分からない。

 分からないまま、あの人は、一人も殺さなかった。

 大勢を死なせた人が。

 僕の前では、殺さなかった。

 どちらも、同じ人だった。昨日の朝、そう思った。今も、そう思っている。

 どちらかだけを選んで、あの人を分かったことにするのは——それもたぶん、見なかったことにするのと、同じだった。

 

   ◇

 

 兵士は、輪の内側の雪に踏み込んで、剣を抜いた。

 黒い枝先を、一本だけ、踏んだ。抜いた剣を布に巻いて、それから、振り返った。

「追うのか」

 僕は、すぐには答えられなかった。

 怖かった。それは、今も本当だった。

 あの人のそばでは、命が細る。タイムが枯れて、玉ねぎが黒くなって、小鳥が落ちた。追いかけていけば、次に細るのは、僕かもしれない。

 執行官が来る。市場の噂でしか聞いたことのない、女皇様の、いちばん上の家来が。十二人とは、比べものにならない者が。

 僕は猟師だ。剣も持っていない。戦ったことなど、一度もない。

 それでも。

「……言いそびれたことが、あるんです」

 口から出たのは、それだった。

「でも、って言ったきり、その先を、言えなかった。何を言いたかったのかも、まだ、分からないんです」

 兵士は、黙って聞いていた。

「分からないまま、あの人は行っちゃった。……だから、その先を、見つけに行きます」

 言ってから、自分でも少し驚いた。

 言葉にしたら、それは、ずっと前から決まっていたことのように思えた。

 

 兵士は、長いあいだ僕を見ていた。

 それから、ため息をついた。白い息が、ゆっくりと空にほどけた。

「止めても、行くんだろうな」

「……はい」

「なら、止めない」

 兵士は、外套の内側から、折りたたんだ紙を出した。

「尾根で写した。このあたりの地図だ。湖の向こうまで、描いてある。……指揮官には、なくしたと言っておく」

 受け取ると、紙はまだ、兵士の体温で少しだけ温かかった。

 湖から先は、僕も知らない土地だった。

「あんたが見つけるのが先か、上の者たちが見つけるのが先か。俺には分からない。……分からないが、あんたのほうが、雪の歩き方は上手いだろう」

 

 兵士が背を向けた。

 その背中に、僕は声をかけた。

「あの」

 兵士が、足を止めた。

「名前を、教えてください」

 何度も顔を合わせてきたのに、一度も聞かなかった名前。昨日の朝、言いかけて、言えなかった名前。

 兵士は、振り返った。少し意外そうな顔をして、それから、笑った。

「チモフェイだ」

「チモフェイさん」

「さん、はいらない」

「……チモフェイ」

 口の中で、もう一度、転がした。

 名前を知ると、その人の顔が、少しだけ違って見えた。南門の兵士、ではなく。チモフェイという、ひとりの人に。

「お気をつけて」

 僕が言うと、チモフェイは、今度ははっきりと笑った。

「兵隊に『お気をつけて』って言うやつは、あんたくらいだ」

 それから、少しだけ真顔になった。

「——あんたもな、トイヴォ」

 チモフェイは、雪の中を、北のほうへ去っていった。

 僕は、その背中が木立に消えるまで、戸口に立っていた。

 

   ◇

 

 その夜、支度をした。

 背負い袋に、毛皮を二枚。予備の手袋。火打ち石。輪罠の針金。小刀。

 干した鹿の骨と、玉ねぎを三つ。塩を、小さな袋に。

 小鍋は、あの人の包みに入れてしまったから、古い鉄鍋を出した。

 おばあちゃんの軟膏の壺も、入れた。

 あの人の包みに入れた小さな缶は、もう、残り少なくなっているかもしれない。

 ——腕には、自分で塗ってね。

 そう言ったけれど、あの黒い指で、ちゃんと塗れているだろうか。

 

 寝る前に、窓辺の器を片づけた。

 冷めきった粥を、鍋に戻した。器を洗って、棚に戻した。

 二つ、並べて。

 

 棚の鉢に、水を落とした。

「春まで、もつんだよね」

 鉢は、何も答えなかった。

 答えないのは、いつものことだった。

 枕の上の、袖の揃わない服を見た。揃えないまま、そっと、ひと撫でだけした。

 

   ◇

 

 夜の雪原は歩くな、とおじいちゃんは言った。だから、夜明けを待った。

 夜明け前に、家を出た。

 戸を閉めた。音を立てないように。あの人と、同じ閉め方で。

 雪は、止んでいた。空は、澄んで冷たかった。昼まで、崩れない。風の匂いで、分かった。

 家を囲む黒い輪の縁を、北東へ回った。

 すぐに、見つかった。

 白い雪の上に、黒い枝先が、点々と続いていた。一本の糸のように。家の輪から、細く、まっすぐに、雪原の奥へ。

 あの人の歩いたところだけ、何もかもが枯れていた。

 あの人が、自分で自分に引いた線だった。

 帰る、とあの人は言った。命の終わるところへ、と。

 黒い線は、どこにも着かないほうへ延びていた。帰る場所へ向かう人の、歩き方ではなかった。

 

 ——雪原で見つけたものは、見なかったことにしちゃいけないよ。

 おばあちゃんの声が、した気がした。

 僕は、ずっと、見なかったことにしてきた。あの朝、それが分かった。

 黒い腕を、凍傷だと思うことにした。枯れたタイムを、霜のせいにした。小鳥を、寒さのせいにした。窪地の枯れ方を、思い出さないことにした。

 今度は、見る。

 あの人がどんなものでも。

 見て、それから、でも、の先を言う。

 

 黒い枝先を、踏まないようにして、その横を歩きはじめた。

 雪が、きしんだ。

 背負い袋の中で、鉄鍋と軟膏の壺が触れ合って、小さく鳴った。

 こつん、と。




お読みいただきありがとうございました。
次回、第10話「死が知った温度」はロノヴァ視点でお送りします。
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