コードギアス 君の知らない、その先へ 作:明日を願う旅人
眠る前、隣にいたはずだった。
窓枠の歪んだ、狭い宿の一室。買ってきた夕食に文句をつけた女が、そのくせ最後の一切れまで食べて、当然のようにルルーシュの肩へ寄りかかっていた。
明日は早く出るぞ、と言った。
起こせるものなら起こしてみろ、と返された。
そこで記憶が途切れている。
ルルーシュは右手を伸ばした。指先が触れたのは、温かい髪ではなく、冷たいシーツだった。
「……C.C.?」
返事はない。
身を起こした途端、胸の奥が引き攣った。右手を胸元に当てる。痛みはもうなかった。ただ、一瞬だけ、左眼から頭の内側を何かが通り抜けたような感覚が残っていた。
見上げた天井には、雨漏りの染みがなかった。
カーテンの色が違う。壁際に机がある。机の上には読みかけの本と、蓋を閉じた携帯電話。椅子の背には、黒い制服が掛けられていた。
アッシュフォード学園の制服だった。
寝台を降りる。床に足をつけた感触まで知っていた。窓へ向かう途中、無意識に避けた場所で、古い床板が小さく軋む。
クラブハウス。
かつてナナリーと暮らした、自分の部屋。
窓の外では、生徒が二人、校舎へ向かって歩いていた。芝生の端を横切る一人が、もう一人の鞄を引っ張っている。笑い声が聞こえた。
ルルーシュはカーテンを閉めた。
次に、机の携帯電話を開く。
皇暦二〇一七年。
表示を見つめたまま、親指で画面の縁を擦った。傷があった。落としたときについた、覚えのある傷だ。
通信履歴にはリヴァルとミレイの名前が並んでいた。シャーリーからの短い連絡もある。最後に届いたリヴァルのメールには、今日のチェスの代打について書かれていた。
日付を、もう一度見た。
数字だけでは、すぐには結びつかなかった。あのころの一日一日を暦ごと記憶しているわけではない。
だが、代打のチェス。
リヴァルのバイク。
帰り道で見た、あのトラック。
携帯電話を握る指に力が入った。
洗面台の鏡には、十七歳の自分が立っていた。頬も顎も、旅をしていた昨日より幾らか幼い。瞳は両方とも紫色だった。
目を閉じ、あの感覚を呼び起こす。
他人へ命令を通す直前、眼の奥に生まれる熱。何度も使い、恐れ、制御してきた力。
何も起きなかった。
鏡を見据えたまま、もう一度試す。
赤い紋様は現れない。
この身体には、まだギアスがないのか。
それとも、記憶だけを見せられているのか。
シャルルの顔が浮かび、すぐに消した。父は消えた。その最期を見た。けれど、いま目の前にあるものを幻だと切り捨てる根拠も、現実だと受け入れる根拠も足りない。
Cの世界。ジルクスタン。回収した欠片。
思い当たるものはあった。しかし、いずれも今ここで検証できない。
廊下から、車輪の回る音がした。
思考が止まった。
「お兄様。起きていらっしゃいますか?」
扉へ向かった。早足のつもりが、最後の二歩はほとんど駆けていた。
開けた先に、ナナリーがいた。
膝に薄い布を掛け、両手を重ねている。静かに閉じられた瞳。柔らかく波打つ髪。足音が近かったからか、少しだけ顔を上げていた。
「今日は、お寝坊ですね」
笑っていた。
ルルーシュは車椅子の前に膝をついた。
「お兄様?」
返事をしようとした。だが、その前に手が動いた。
細い肩を抱き寄せる。車椅子の肘掛けが脇腹に当たった。それさえ気にならなかった。
髪に頬が触れる。
この温度を知っている。
助け出したときも、生きていた。会えなかったわけではない。だから、こんなふうに縋る必要などないはずだった。
それなのに、目の前の妹には、まだ何も起きていない。
大勢の命を奪う兵器に、手を掛けたこともない。世界の憎しみを背負おうとしたこともない。血に濡れた兄の手を握って、泣き叫んだこともない。
その時間が、ここにはまだなかった。
「……ナナリー」
「はい」
抱きしめる腕に、小さな手が添えられた。
「どうなさったんですか?」
「いや」
それ以上が出てこなかった。
謝りたかった。
生きていてくれてよかったと、何度でも言いたかった。
だが、どちらも今のナナリーには意味が分からない。妹に心配を掛けないための言葉を、ルルーシュは見つけられなかった。
「少し、このままでいてくれ」
ナナリーの指が、彼の袖をつかんだ。
「……はい」
* * *
お兄様が、悲しんでいる。
ナナリーには、そう感じられた。
誰かの手に触れたとき、言葉には出ていない気持ちが分かることがあった。いつでも、何でも分かるわけではない。嘘をついているのではないかとか、困っているのではないかとか、そのくらいのことだ。
けれど、今は違った。
袖をつかんだ指の先から伝わるものが、あまりにも深い。
取り返しのつかないことをしてしまったような悲しさがあった。自分を責めているようでもあった。
その奥に、嬉しさがある。
抱きしめられているだけなのに、こちらまで胸が苦しくなるほどの、強い喜びだった。
昨日も、一緒に夕食を食べた。
寝る前には、窓を少し開けてもらった。明日は晴れる、と兄は言っていた。
それなのに、まるで長い間会えなかったように、自分を抱きしめている。
何があったのだろう。
尋ねようとして、ナナリーはやめた。兄の背に手を回す。制服ではない、薄い寝間着の布が指の下で寄った。
今、何かを聞けば、この人はいつもの優しい声を作る。
そんな気がした。
だからしばらく、何も言わなかった。
* * *
食卓についたときには、ルルーシュはいつもの顔を取り戻していた。
少なくとも、取り戻したつもりだった。
「お兄様、お砂糖が」
「ん?」
「もう入れてくださいましたよ」
スプーンを止める。ナナリーの紅茶に、砂糖をもう一杯入れかけていた。
「ああ。そうだったな」
「私のほうが、よく眠れたみたいですね」
妹の声に笑みが混じった。
咲世子が新しい皿を置き、何も聞かずに砂糖壺を少し遠ざけた。その動作を見て、ルルーシュは思わず彼女の顔を見た。
「何か?」
「……いや。ありがとう」
咲世子は軽く頭を下げた。
彼女も、ここにいる。
厨房から焼けたパンの匂いがした。廊下の向こうでは掃除機が動いている。窓の外の音と、皿の触れ合う音が、ひどく近かった。
旅先で思い出したことは何度もあった。それでも、匂いや温度まで思い出せていたわけではなかったのだと、初めて気づく。
「今日は、遅くなりますか?」
ナナリーが尋ねた。
いつもなら、そうはならないと答えていた。
チェスを指して、小遣いを稼いで、リヴァルのバイクで学園へ戻る。次の授業に出て、放課後にはナナリーの待つ部屋へ帰る。それで終わるはずの一日だった。
「用事がある。少し、帰りが遅れるかもしれない」
「生徒会のお仕事ですか?」
「外で、確かめたいことがあってな」
嘘ではない。
その考えが浮かんだことに、ルルーシュは唇を引き結んだ。
前にも、こうして言葉を選んだ。
妹のためだと考えながら、妹が知るはずだったことを、自分だけで決めていた。
「戻ったら、話をしよう」
ナナリーの手が、カップの取っ手から離れた。
「今では、だめなのですか?」
「今の俺にも、まだ分からないことがある」
そこまで言ってから、彼女の手を取った。
「だが、話す。約束する」
少し間があった。
「それなら、お待ちしています」
指が握り返された。
今度はさっきほど強く握らなかった。妹が自分から手を離すまで、ルルーシュは待った。
部屋に戻ると、鞄の中身を机へ出した。
教科書、筆記具、財布。携帯電話。いま持っているのはそれだけだった。
黒の騎士団は存在しない。命令を届ける通信網もない。皇帝の権限も、彼をL.L.と呼ぶ女の声もない。
新宿の地図を表示させた。
道路は分かる。軍が包囲する地区も、逃げ込んだ地下の暗さも覚えている。
だが、あのトラックがどの時刻にどの道へ入ったか、追跡の途中で何度経路を変えたかまでは知らない。前の自分は積荷になっていただけだ。窓の外を見続けていたわけではない。
チェスへ行くのをやめて、先に新宿へ向かう。
それは一つの手だった。
しかし、そこでC.C.を見つけられなかったら。
自分がいないトラックは、別の場所で止まるかもしれない。軍に回収されれば、その先の収容場所を知らない。彼女を探すための人員も、金もない。
警告を出すことも考えた。
携帯電話の連絡先を開き、閉じる。
ミレイに何を説明する。理事長に、皇族の名を明かして軍を止めてくれと頼むのか。総督府に直接連絡を入れて、自分とナナリーの生存を知らせるのか。
新宿にいる人々へ届く声を、今の自分は持っていなかった。
持っていないから、何もしない。
そこまで考えて、机の縁をつかんだ。
違う。
何より先に、C.C.に会いたいのだ。
あの場所まで行けば会える。その記憶を、手放したくなかった。自分だけが覚えているこの時間を、彼女なら分かってくれるかもしれない。
それは作戦の根拠ではない。
分かっていた。
それでも、携帯電話にリヴァルへの返信を打った。
予定通りに行く、と。
送信したあと、胸の奥がひどく冷えた。
せめて、どのような判断をしたかを、自分にまで偽るのはやめようと思った。
昼前、迎えに来たリヴァルは、彼の顔を見るなり眉を上げた。
「どうした、お前。もう負けたみたいな顔して」
「寝不足だ」
「珍しいな。試験でもないのに」
差し出されたヘルメットを受け取る。
その指が一瞬止まった。リヴァルは不思議そうにしたが、急かしはしなかった。
「帰り、何か食ってくか? 勝ったらお前のおごりで」
「なぜ俺が」
「送迎料」
「さっきの条件に含まれていたはずだが」
「細かいなあ。じゃあ、俺のおごり。安いところな」
ルルーシュは小さく息を吐いた。
こんな会話をしていた。
誰が敵になるかも、誰を失うかも知らず、帰り道の食事を決めていた。
「帰れたらな」
「帰れるに決まってるだろ。どんなチェスだよ」
リヴァルが笑った。
ルルーシュも口元を動かしたが、同じ顔にはなれなかった。
サイドカーに乗り込み、クラブハウスを振り返る。二階の窓辺にナナリーはいなかった。それでも、彼はそこから目を離せずにいた。
必ず戻る。
今朝、約束したばかりだった。
エンジンがかかる。見慣れた校門が近づき、その向こうに街が開けた。
膝の上で組んだ手に、まだ妹の指の感触が残っていた。