コードギアス 君の知らない、その先へ 作:明日を願う旅人
白のキングを指先でつまみかけて、ルルーシュは手を止めた。
向かいの男が、待ちかねたように笑う。
「どうした。威勢がいいのは最初だけか?」
盤面へ視線を戻す。
勝ち筋は見えていた。男が何を見落としているのかも、その隣で腕を組む取り巻きが、いつ笑うのをやめるのかも分かる。
だが、以前ここで何手を指したかは覚えていない。
あのときより早く席を立てば、トラックとすれ違う時刻がずれるかもしれない。逆に、時間をかけすぎれば間に合わない。
くだらない、と胸の内で吐き捨てた。
世界を一度終わらせた記憶を持っていながら、時計の針一本が読めない。
「考える時間くらいは頂きたいものですね」
笑顔を作り、駒を置く。
相手の眉間に皺が寄った。
数手後、ルルーシュは席を立った。後ろでリヴァルが口笛を吹いたが、いつものように軽口を返す余裕はなかった。
扉を抜けると、空調の冷気が背中から離れた。
「最後、もうちょいもったいぶってもよかったんじゃねえの? あの顔、見たかよ」
「見ていたさ」
「お前まで機嫌悪くなることないだろ」
ルルーシュは足を止め、振り返った。
リヴァルが片手でヘルメットを回している。目の前の友人にとっては、いつもの賭けチェスだ。小遣いも稼いだ。あとは次の授業に間に合うよう、学園へ戻ればいい。
「……帰り道、少し急いでくれ」
「ナナリーちゃんと約束でもしてるのか?」
「ああ」
それだけは、嘘ではなかった。
* * *
街の光景が横へ流れていく。
ガラス張りの建物。歩道を行く人々。何事もない顔で続いていく租界の日常を、ルルーシュはサイドカーから見上げた。
この道で合っている。
そう思った直後には、違ったのではないかと疑っていた。記憶の中で鮮明なのは、この先で起きた出来事だ。途中の交差点の数まで覚えてはいない。
遠くで、重いエンジン音がした。
顔を上げる。
大型のトラックが迫っていた。
ルルーシュが声を出すより先に、リヴァルがハンドルを切った。サイドカーが大きく振られ、脇を車体が抜けていく。ブレーキの悲鳴。続いて、腹の底へ響く衝撃音。
止まった。
止まってしまった。
「何だ、あいつ! 危ねえな!」
リヴァルの声を背に、ルルーシュはベルトを外した。
「おい、ルルーシュ?」
「様子を見てくる。ここにいろ」
「救急に連絡した方がよくねえか?」
「必要なら頼む」
返事を待たずに走った。
荷台へ向かう途中で、息が上がる。足が思っていたほど前に出なかった。体力のなさまで戻っていることに、今さら腹が立った。
近くにいた人間は、少し離れて事故を眺めていた。誰かが携帯電話を構えている。
ルルーシュは、その横を抜けた。
荷台の奥は暗かった。
金属の容器が見える。
それを見た瞬間、他のものが視界から消えた。
ここにいる。
指を掛け、身体を引き上げた。
車体が動いたのは、その直後だった。
床へ膝を打ちつける。歯を食いしばり、積荷の固定具をつかむ。外からリヴァルの叫び声が聞こえたが、すぐにエンジン音に呑まれた。
戻れない。
いや、戻るために乗ったのだ。
誰に対する言い訳なのか、自分でも分からなかった。
奥で物音がした。ルルーシュが顔を向けると、赤い髪の少女がこちらを見ていた。
カレン。
危うく呼びかけそうになり、口を閉じる。
少女の目が細くなった。
「何、あんた」
「事故だと思ったんだ。怪我人がいないかと」
「それで勝手に乗り込んだわけ?」
銃口が動く。
ルルーシュは両手を見せた。あの操縦席で何度も背中を預けた相手が、今は自分を邪魔者として見ている。
当然だ。
彼女はまだ、俺を知らない。
運転席から怒鳴り声が飛んだ。少女は短く答え、こちらへもう一度鋭い視線を向けた。
「動かないで」
車が揺れる。外で銃声がした。
天井を叩く音を聞きながら、ルルーシュは容器を見た。
開け方を知らない。
あれほど待ち望んだ相手が腕を伸ばせば届く場所にいるのに、手を出せなかった。ここで勝手に触れば、カレンに撃たれる可能性がある。
以前は、何も知らずにここへ来た。
今は知っていて、同じ場所に座っている。
その違いが、膝の痛みより重かった。
* * *
地下へ入ると、銃声の響き方が変わった。
トラックが停止するまでに、カレンは戦いへ出ていった。残された容器のそばで、ルルーシュは携帯電話の電源を落とした。
暗くなった画面に、自分の顔が薄く映る。
これだけは覚えている。
しまい込んだところで、外から足音がした。
白い軍服。
その姿を認めた途端、腹の奥が冷たくなった。
「そこから離れろ!」
少年兵の声が地下道に響く。
ルルーシュは動けなかった。
仮面の向こうで泣いていた友人。差し出された剣。最後に、自分の身体を支えた腕。
忘れるはずがなかった。
「スザク」
少年兵が息を呑んだ。
「……ルルーシュ?」
顔が見える。
今朝のナナリーと同じだった。記憶より幼い顔が、記憶と同じ名前で自分を呼んでいる。
会えた。
安堵より先に、言ってはいけない言葉が喉へせり上がった。
もう、お前にあんな役目は。
「どうして、こんなところに」
「それは僕の台詞だよ。ここは危険なんだ」
近づいてきたスザクの視線が、背後の容器へ移る。
「それに触った?」
「いや」
「離れて。毒ガスだと聞いてる」
違う、と言いかけたとき、容器の継ぎ目から白いものが漏れた。
スザクがとっさにルルーシュを引き寄せた。防護用のマスクを押しつけられ、抗議する間もなく身体を庇われる。
留め具の外れる音がした。
蓋が開いていく。
緑の髪が、白い拘束衣の上に落ちた。
ルルーシュはマスクを外した。
「女の子……?」
スザクの声が遠い。
膝をつき、肩に手を伸ばす。触れる直前、一度だけ指が震えた。
「C.C.」
指先が、その肩に触れた。
女が短く息を詰める。眉が寄り、拘束衣から覗いた指が、彼の手首をつかんだ。
女が、ゆっくりと瞳を開いた。
琥珀色の眼差しが、彼を捉える。
昨夜まで何度も見ていた目だった。
今の反応は。
ルルーシュは身を乗り出した。
「俺だ」
声が掠れた。
「分かるか」
女は答えずに、彼の顔を見ていた。
その視線が、眉から目へ、口元へと移る。
確かめている。
知らない人間を見るように。
「……お前」
唇が開く。
ルルーシュは、息を止めた。
「どこで、その名前を聞いた?」
肩に置いた手から、力が抜けた。
何か答えなければならなかった。スザクもこちらを見ている。何も知らない学生なら、名前を知っている理由が必要だった。
分かっていた。
それでも、一言も出なかった。
彼女なら、と考えていたのだ。
不死の魔女なら。あの世界に触れ、自分を連れ戻してくれた女なら。
ひょっとすると、自分が説明する前に笑ってくれるのではないかと。
ずいぶん待たせたな、と。
愚かな期待だった。
軍靴の音が、それを断ち切った。
「そこまでだ」
照明を背に、複数の兵が銃を構えていた。
スザクが立ち上がる。
「彼は民間人です。テロリストではありません」
声も、立ち位置も、覚えていた。
ルルーシュは反射的に友人の袖をつかんだ。
「スザク、下がれ」
「大丈夫。事情を話せば」
「違う、そいつは――」
銃口が上がった。
ルルーシュは袖を引いた。だが、こちらを庇って踏み出したスザクの身体は、ほとんど動かなかった。
一発。
手から布が抜け落ちた。
スザクが倒れる。
「……っ!」
床へ伸びかけたルルーシュの手を、銃口が止めた。
「動くな」
聞こえていた。意味も分かっていた。
目の前の身体に、手が届かない。
生きているはずだ。
銃弾を止めたものがあった。あの白い機体へ乗り込むために、スザクはここから帰った。
だが、今の銃声まで同じだった保証はどこにある。
狙いが少しずれていたら。
自分が袖を引いた、そのせいで。
「よく見ておけ。名誉ブリタニア人など――」
男の言葉を、後方からの怒声が遮った。
永田だった。
トラックのそばにいる男を見た瞬間、ルルーシュはC.C.の腕をつかんだ。
「伏せろ!」
爆風に背中を殴られた。
熱と砂埃が流れ込む。何も見えない。耳の奥で金属音が鳴り続けている。
腕を引かれた。
今度はC.C.だった。
「立て。ここにいれば埋まるぞ」
「スザクが」
振り返る。煙の向こうで兵士が咳き込み、誰かを呼んでいた。床を這ってでも戻ろうとすると、すぐそばの壁が弾けた。
弾丸だった。
「探せ! 女を逃がすな!」
C.C.が、もう一度彼の腕を引いた。
ルルーシュは歯を食いしばり、走った。
助かるはずだという記憶にすがる以外、今の自分には何もなかった。
* * *
瓦礫の陰で、ようやく足を止めた。
肺が痛い。咳をすると、砂の味がした。
C.C.は息を整える彼を見ていた。
「私を知っているんだな」
「……ああ」
「あの中身も知っていた。ずいぶん熱心に呼んでいたからな」
否定はしなかった。
「会いに来た」
女の表情が、わずかに動いた。
「ここへ?」
「お前に会う方法が、他に分からなかった」
自分で口にすると、いっそう愚かに聞こえた。
「私を連れて、どうするつもりだった?」
帰ろう、と言いかけた。
あの狭い宿へ。冷めた夕食と、次の目的地を広げた地図のある部屋へ。
しかし、そこはまだ存在しない。宿そのものはどこかにあっても、彼女と過ごした夜は、これから何年待っても同じ形では訪れないのかもしれなかった。
「安全な場所へ連れていく」
「心当たりがあるのか」
「用意する」
「それは頼もしいな」
皮肉な声だった。彼女は出口の方へ視線を移した。
その仕草を見て、ようやく理解した。ここにいる女にとって、自分は名前だけを知っている見知らぬ少年なのだ。腕を引かれたことも、隣にいることも、信頼の証ではない。
軍の包囲。銃撃。倒れた友人。彼女に会えたこと以外、何一つ確かめられていない。
C.C.はしばらく黙っていた。
やがて、彼の頬へ手を伸ばした。
冷たい指が触れる。
女が小さく眉を寄せた。
「お前は……」
「何だ」
「いや」
手が離れる。
追いかけそうになった自分の指を、ルルーシュは握り込んだ。
違う。
この女に、今までと同じ返事を求めるな。
遠くで爆発がした。続いて、地上から悲鳴が降ってきた。
ルルーシュは顔を上げた。
会えたら、その先を考えればいい。
どこかで、そう思っていた。
その間にも人が死ぬことを、知っていたのに。
「C.C.」
声を低くした。
「俺に、力を与えられるか」
彼女の目つきが変わった。
もう、救い出された女の顔ではなかった。
「何を望んでいる?」
ルルーシュは彼女を見た。
再会だけでは足りない。
自分がここへ来た理由には、それで十分でも。
ここから帰るためには。
「この先を変える力だ」
瓦礫の向こうで、足音が止まった。
C.C.が、静かに手を差し出した。