魔法青年リリカル恭也Joker   作:アルミ袴

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第17話 今の私はもう

 朝の縁側ですすった茶は、苦く。

 寝起きの目は覚めたものの、しかし頭は冴えただろうか。あまり自信はなかった。

「黄昏れちゃってまあ、じじ臭いわね」

「昔からだろう」

 後ろからかかった声に、苦笑しながら答える。

「そうね。……久しぶりに見たから、忘れちゃってた」

 おはよう、恭也。そう言いながら桃子は、恭也の隣に座った。

「おはよう。店の仕込みは?」

「今日はお休み。年末までもうずっと休んじゃおうかなって思ってるわ。山場のクリスマスはもう過ぎたし」

 今日の日付は12月26日。確かに喫茶店とは言え洋菓子屋としての色が強い翠屋としては、山は越えたと言えるが。

 店を開く事へこだわりの強い桃子にしては、珍しい判断だ。

「いいのか?」

「いいのよ。……不良息子がやっと帰ってきたんだもの」

 桃子の頭が、恭也の肩に乗る。隣から預けられた重みは、しかしあまりに軽かった。

 こんなに軽くて、そして小さな人に、五年間、どれだけ辛い思いをさせたろうか。

「すまない、母さん」

「それはもう、昨日散々聞いた」

「そっちの涙も、昨日沢山見てしまったから今日は勘弁してくれるか?」

「これは、……朝だから。欠伸しただけよ」

 あれから、すなわちスカリエッティなる人物の襲撃があってから。

 押っ取り刀で飛んできた救援部隊と合流し、戦闘で疲弊したメンバー達はもちろん、恭也もすぐさま管理本局の医療施設で各種チェックを受けた。丸一日近くかかったそれがようやっと終わり、恭也が高町家へと帰ったのは12月25日の夕方。

 恭也の主観としては一日二日ぶりかそこらの、しかし実際には約五年ぶりの、帰宅。

 迎えたのは、涙で顔をぐしゃぐしゃにした晶とレンと、――二人以上に泣きじゃくる桃子だった。

「今日は?」

「また管理本局に行って検査がある。経過を見たいと言われているから、しばらくは通う事になりそうだ」

「そう」

 笑顔が似合うこの人を、あんなに泣かせてしまった。本当に、そうある事じゃない。

 今回はどうやら逃れたが、次本当にあの世に行ったら確実に父に殴られるだろう。

「せっかくだから、しばらくゆっくりして、のんびり休みなさい。今まで散々頑張ってきたんだから」

「いや、そんな事もないし、そうも言っていられない。俺ももう、ええと、二十五なんだろう? 大学だって退学になっているわけだし、今は絶賛ニートなわけだ」

 それなりに苦労して入った海鳴大学だが、流石に五年間の休学は無理だったらしい。残念ながら退学処分となっている。

「翠屋で働いていればニートじゃないでしょうに。それに護衛のお仕事依頼だっていっぱい来るでしょう?」

「まあな」

「あと、歳の事だって、たしかにこっちだと二十五だけど、あっちだと二十なんでしょ?」

 あっちとはすなわち管理本局やミッドチルダ、ならびに各管理世界群で、

「ああ、そうらしいな」

 母の言った事は、そのとおりだった。

 魔法世界では、冷凍やそれに近しい例で長期、または長々期睡眠に入る者が少なくない。その者達の年齢をそのまま、生まれてから現在までで数えると、見た目との乖離や何やらで日常生活はもちろん各種登録などでも不具合が生じる。

 ゆえに年齢は、通常の睡眠とは呼べない長い眠りの期間は省いて数える事になっている。

「狭く言えば主観年齢と言うらしいが、俺の場合は二十歳だとするのが普通みたいだ」

「だったらいいじゃない。まだまだ何かを焦るような歳じゃないわ」

「そうかな」

「そうよ」

 茶をすする。

 そうだろうか。

 わからない。

 少しの、沈黙。桃子が口を開いた。

「ねえ、恭也」

「ん?」

「なのはとは、話した?」

 これだけ密着しているのだ。身体の強張りは隠せずに伝わってしまったろう。正直に答える。

「いや、まともには話せていないよ。……完全に嫌われてしまったかな」

「本気で言ってる?」

「残念ながら。仕方ないと思うからな」

 自分は結局、きちんとあの娘を守れなかった。

 家族を失う痛みを辛さを寂しさを嫌というほど知っているはずなのに、あの娘に同じような思いをさせる事になった。

 いい兄でも、いい父親代わりでもなかった上に、これだ。

 弁明のしようもない。

「今なのはは、十四歳だったか? 難しい年頃だろうし、男親、男兄弟によそよそしいのも自然だ。さっきも言ったが、仕方な」

「恭也」

 頬に感触。桃子の指だ。

 導かれるように横を向けば、こちらの顔に片手を添えた桃子がまっすぐと眼を見つめてきた。

 彼女ははっきりとした口調で言う。

「どうしてなのはが恭也に、あんなぎこちない態度をとるのかはわからない。だけど、これだけは覚えていて」

「……なんだ?」

「恭也が起きるのを一番待っていたのはあの娘よ。沢山の人が待ってはいたけど、きっと一番は、あの娘」

「そう、なのか?」

 真剣な顔のまま、桃子は頷く。

「ねえ、恭也。あなたが眠っていた間、色んな事があったわ。色んなあの娘を見たわ。それでね、私はこう思ってる。この世で一番あなたを愛しているのは、きっとあの娘だって」

 その言葉に、なんと答えたらいいものか、わからなくて。

「母さん」

「なに?」

「すまない、少しいいか」

 恭也は湯のみを置いて立ち上がり、廊下を跨いで障子を開いた。

「おわあっ!」

「あだ!」

 ごろんごろんと、転がるように出てきた人影は揃って頭を床にぶつける。

「いたたたたた…」

「やっぱばれたやないかアホォ! おししょを隠れ見なんて望遠鏡でも使わな無理やで!」

「お前だって結局覗いてたろ! ……五年も眠ってたから勘鈍ってるかもって思ったんだけどなあ」

「そんな温い人なわけないやろ……。あーなんでわかってたのにウチは」

「二人ともな、とりあえず言う事があるだろう」

 ため息をつきながら、人影――晶とレンに呆れた声で言う。

「す、すみませんでした」

「ごめんなさい…」

「まったくもう覗き見なんて、素直に入ってくればいいじゃない」

 当惑したような顔の桃子に、

「いやーだって、あれはちょっと……」

「割って入れへん空気っちゅうか」

二人は歯切れ悪く答える。

「桃子さん師匠の肩に頭乗っけちゃってるし」

「おししょも受け入れてるし」

「顔に手当てて見つめ合ってるし!」

「その上、よお聞こえんかったけど、あ、愛してるとか!」

 なんと言ったらよいものか、恭也は天を仰いだ。

「あらあらどうしましょう恭也、大変な勘違いされちゃってるわ」

「頭が痛くなってきた。今日の検査でよく診てもらうとしよう」

 湯のみを手に取りやや冷えてきた茶を啜って、またしてもため息。

「二人ともこんなに大人びた見た目になったというのに、中身の方はあまり変わっていないのか?」

「いやーはは、なかなか師匠のようには……」

 そう笑う晶はボーイッシュな面を残しながらも、しっかりと、すっかりと女性らしい姿。

 そしてレンは、

「……おししょ?」

「いや、……本当にレンなんだよな?」

「その会話はもう昨日嫌っちゅうほどやりました!」

 面影は残っているのの、言われなければわからないくらいに見違えた。腰まで伸びたストレートヘアに、女性らしい凹凸満ちた身体。顔つきも可愛いではなく、美人という物言いがしっくりくる。

「そ、そんなに見つめられると照れます……」

「ああ、すまんすまん」

 ついつい不躾になってしまった視線に恥じらう姿も、大人の女性のそれだ。

「……」

(五年、か)

 歳と内面に比しては幼い見た目だったレンは、もういない。過ぎ去った年月を、自らの慣れ親しんだ場所であるこの家で実感するのは少し、痛かった。

 目覚めた一昨日にも何度も思ったが、成長した周りから自分だけが取り残されていた。

「そう言えば検査って聞こえましたけど、師匠、身体は大丈夫なんですか?」

「ん、ああ。今のところ特に問題はない。ずっと寝ていたから鈍っているものかと思ったらそうでもないし、むしろ調子は良くなったくらいだ」

「そうですか。それはよかったです」

 答えた言葉は本当だ。流石に鍛錬はまだ本格的にはやっていないが、身体は不思議なくらいよく動く。

「酷使してたのをゆっくり治したんだもの、当然かもね」

 桃子が笑って言う。その通りかもしれなかった。

「あ、あの……ところで、おししょ」

「ん?」

「……なのちゃんとは、話しました?」

 おずおずと、レンが問うてくる。晶もこちらをじっと見つめている。

 そうか、心配してくれていたのか。

 安心させられる答えを持っていないのが不甲斐なかった。

「いや」

 恭也は首を振る。

「母さんともそれを話していたんだがな」

「あの、絶対、何か理由があるはずなんです! あんなよそよそしい態度、なのちゃんの本心じゃあ……」

「そ、そうです! おししょが帰ってくるの、ほんまに待ってて!」

 二人はすごい剣幕で詰め寄ってくる。

「……ありがとう」

 言えるのは、それくらいだった。

「今日、なのちゃんは……?」

 レンの問いには桃子が答えた。

「もう管理本局の方に行ってるみたい。書き置きがあったわ」

「そう、ですか……」

「し、師匠、本当に違うんです。本当に、何かの間違いで」

「間違ってると言うのなら、間違っていたと言うのなら、俺の方だろう。いい父でもいい兄でもなかった。その報いだ」

 湯のみを手に、恭也は縁側を離れる。

「……おししょ?」

「俺も管理本局に行ってくる。そろそろ検査の時間だ」

 時間。

 そうだ、時間だ。

 あの娘が、なのはが、時が経ち成長して、自分の傍にいることを望まなくなったのなら、それはそれがあるべき姿だと言う事だ。

 時の流れはいつだって無慈悲で、しかしだからこそ正しい。

 逆らおうとは思わなかった。

 

 

 

「……」

 時の流れは無慈悲で、そして正しい。

 そんな事をそういえば、家を出る前に思っていた。

 今でも同じことが言えるだろうか。

 恭也は長く息を吐いて、背中を壁につけた。腰掛けている廊下に備え付けの椅子が少し軋んで音を鳴らす。

 恭也のいた世界の病院と同じように、ここ管理本局の医療センターもその内装は基本的には真っ白で。

 ぼうっと見てしまう。

 文字通り、目の前が真っ白だ。

 それでも、目を瞑る。少しでも頭に入ってくる情報を減らしたかった。

 しかし、身体は視覚を閉ざした分だけ他の感覚を鋭敏にし、補おうとして。

「……?」

 聞こえてきたのは足音。早いリズムの割に音量は抑えられている。軽快で無駄がない足運びだと言えるだろう。

 まず素人ではないな、などとつらつら考えていると。

「恭也さんっ!」

 名を呼ばれ、眼を開いて声の鳴った斜め上へと顔を向けた。

 恭也の前で立ち止まっていたのは、見慣れない女性だった。

 加えて言えば、とても美しい女性だった。

 毛先近くで一つに縛られた金色の長い髪は、少し乱れているがそれすらアクセントとして、何かの冗談みたいに輝いて見え。

 彼女の心配そうな眼差しはまっすぐにこちらへと注がれている。

 ああ、そうか。

「フェイト」

「はい、あの……」

 フェイト・テスタロッサ、いや、フェイト・テスタロッサ・ハラオウン。

 彼女が彼女だと頭がきちんと認識するのに時間がかかったのは、まだこの姿を見慣れていないからか、単純に今、恭也の頭がうまく動いていないからか。月並みな言い方をすれば、多分両方だ。

「そうか、一昨日の戦闘の……。身体の具合は?」

「大丈夫です。消耗は激しかったですが外傷があったわけではありませんし、昨日入念に回復をかけてもらったおかげでもう大分よくなりました」

「……それはよかった、本当に」

「ご心配をおかけしました。えっと、あの、それで、恭也さんこそお身体の具合、優れないんじゃ…? なんだかとても辛そうにされて……まさか検査で何か」

 おろおろと心配そうに、彼女の手は宙を泳ぐ。

 反射だったと思う。

 脊髄反射と言ってもいいだろう。

 縋るように、その手をとっていた。

「――っ!」

「……あ」

 意識が追いついたのは、硬直したフェイトの顔が真っ赤に染まってからだった。

「……すまない」

 あまりに突然で不躾な行動。自分でも驚くくらいだ。まさか年頃の女の子にしていい事ではない。

 フェイトの右手をとった自らの左手を、慌てて離そうとする。

 が、

「いえっ」

 その瞬間、両手で優しく包むように握りこまれていた。

「私でよければ」

 そう言いながら、フェイトは恭也の隣に座る。

「私でよければ、ですけど、何があったのかお聞かせ願えませんか?」

 何かあったのか、なんてもう彼女は聞くつもりはないようだった。

 こちらの顔を、眼を、まっすぐに覗き込んでくる。

「力にならせて下さい。貴方のためなら、私はなんだってします」

 優しい瞳と温かい手に、逆らえるほど今の恭也の頭は回っていなくって。

 促されるまま、口を開いた。

「身体の、事なんだ」

「……はい」

「なあ、フェイト。言われたんだ。俺の身体は、もう、……もう。……俺の身体は」

 そこから先を口にするのは勇気が必要だった。言葉にしたら今までの全てが崩れていってしまう気さえして。

 怖かった。

 きゅっと、手を包まれる力が強まった。

 背中を押してもらった気がして。

 自分でも情けないくらいに揺れに揺れた声で、恭也は言った。

「もう、――全部治ったらしい」

「……え?」

「全部、全部だ」

 その意味を、きっと彼女は正確に理解した。目が見開かれていく。

「じゃ、じゃあ……」

 身体のあらゆる箇所が全て正常に、健康になった。

 それはつまり、もちろん。

「膝も、治ってる。後遺症だのなんだの、そんなものも何もない。完全に、完璧に、文句なく、治ってる」

 壊した膝。壊れた膝。壊れている、膝。

 恭也に夢を諦めさせた、脚に巻き付く絶望の鎖。それが今や、ただの健康な身体の一部分にすぎないらしく。

「俺は、よくわからない」

 五年間の徹底的な治療、特に最後の一年が効いたという話だった。いつ目覚めてもいいほどに回復しているのになぜか目覚めない患者。当たってくれた医療チームはとにかく出来る事を手当たり次第に全力でやってくれて、その中には当然、身体を治せるだけ治す、限りなく完全に健康な状態にする事も含まれていて。

「とにかく治ったらしいんだ。とにかく治ったらしいんだが、俺にはよくわからないんだ」

 いいニュースと言えば、そうなんだろう。客観的に観たら、そのはずだ。

 だけど、恭也にとっては単純に喜べる話ではない。

 膝の壊れた自分こそが、夢に敗れた自分こそが、もう何年も前から高町恭也にとっては高町恭也なのだ。

 寝て起きたら、自分が自分じゃなくなっていた。

 今の恭也の混乱した状況をどうにか言葉で表そうとするならば、そんな言い様がふさわしい。

「俺には、よくわからない」

 喜べばいいのか。

 しかし喜ぶ事は、認める事だ。現実を受け入れた時にこそ、やっと喜べるのだ。

 受け入れられるだろうか。

 自分が自分でなくなっていた事を。

「きっと」

 耳が痛くなるような静寂が過ぎて、

「きっと、私は恭也さんの悩みを、苦しみを、一割だって理解出来ていません。だから、ごめんなさい」

響いた彼女の声は、まるで暖かなランプの光のように優しく広がる。

「ごめんなさい、ごめんなさい、――だからただ、嬉しいです」

 勝手でごめんなさい。そんな事を言う彼女の瞳は見る間に潤んで、

「ごめんなさい、嬉しいです。世界がやっと、貴方にちょっと優しくなった事が」

 時を待たずに温かい雫を零し始める。ぽたりぽたりと、朴訥なリズムだ。

 どうしてだろう。

 どうして、どうして自分はいつも、この子を泣かせてしまうのだろう。

 そして、どうしてだろう。

 今、彼女の涙は嬉しかった。

「恭也さん」

「……なんだ?」

「私、新しい家族が出来ました。義母と義兄が、出来ました」

「ああ」

 それは一昨日、当の義兄クロノから聞いた。聞いたけれども、

「私は今、愛してもらってます。家族に、この上なく」

彼女の口から直接耳にするのはやはり、感慨深かった。

 あの日、愛を求めて泣いた彼女の口から、愛されてると、そんな言葉が自然に出ている事は。

「とっても、とっても自惚れた事を言います。恭也さん、今、喜んでくれていますか?」

「それはもちろんだ」

 間髪入れずに答える。

 喜ばないはずがない。嬉しくないはずがない。彼女に何か良い事があれば、恭也にしてもそれは吉事だ。フェイトは恭也にとって、もうそういう存在なのだ。

 あの日、腕の中で愛が欲しいと彼女が泣いた日、どうか幸あれと強く願った。

 そしてそれが今、叶っているという。

「自分の事のように嬉しいさ。それに、勝手な事を言わせてもらえば、俺にとっても救いに感じる」

「……」

「前にも言ったように、俺は君に自分を重ねて見ている。君が幸せになる事は、本当に勝手な話、俺の幸せでもあるんだ。だから、喜ぶのは当然だ。当然のように嬉しいさ」

「私も同じです」

 目を見て真っ直ぐに、彼女の言葉は疾い。

「私も同じなんです。私も恭也さんに何か良い事があれば、自分の事のように嬉しいんです。だから」

 彼女の、恭也の手を握る力が少し強まる。

「恭也さん、やっぱり私、ものすごく自惚れた事を言いますね――私が嬉しいって事はきっと、それは恭也さんにとって良い事なんです」

 恭也の息と思考が思わず止まる。

 馬鹿な事を言ってますよねと、引かれちゃう事言ってますよねと、フェイトが苦笑混じりに零す。

 彼女の言葉を飲み込んで、咀嚼して。

 胸に沁み渡らせて。

 恭也は頭を振った。

「馬鹿なのは、俺だ」

「え?」

「診断結果を聞いてもう、かなりの時間が経つというのに……ずっとうじうじ現実を見ずに見れずに足踏みして、こうして君にそんな風に言ってもらって、ようやく」

 長い息を吐く。吐いて、吐いて、そして言葉がするりと出てきた。

「……ようやく、嬉しいって思えたよ」

 

 

 

 

 

「へえ、管理局の中にこんな場所があったんだな」

「は、はい、こういうお店、実は結構入ってて。基本的に激務な分、福利厚生には気を使っているみたいです」

 フェイトが恭也を連れてきたのは、局内カフェと呼ばれている飲食施設だ。フェイトの対面、恭也はきょろきょろと意外そうな顔で店内を見回している。

「なるほどな。しかし本当に洒落ているというか、管理局と言えばお堅いイメージがあったんだが」

「恭也さんがいらした事があるのって、訓練室か整備部、医療センターでしょうから、そう思いますよね」

 と、そんな他愛のない会話を交わすうちに店員が注文を取りに来た。

 恭也がブラックのコーヒーを頼み、フェイトもそれに倣う。

「紅茶党かと思っていたが、コーヒーも飲むんだな」

「紅茶の方が確かによく飲みますけど、今日はこっちがいいなと思いまして」

 折角だから、と言う言葉は言わずに飲み込んだ。こういう時迷わず『同じものが飲みたい』なんて思うのは、五年前から続く片思いのせいだろう。

 あれから気の落ち着いた恭也と二人、ずっと医療センターの片隅に居続けるのもなんなのでと移動してきたわけだが。

 局内とは言え、喫茶店で差し向かい。

 意識するなという方が無理だった。

 不快ではもちろんないが、フェイトとしては少々ではすまないくらいに緊張しつつの沈黙の時間が過ぎ、コーヒーが届けられる。

 一口味わい、微笑んで「美味いな」とこぼした彼になんとはなしに見とれていると、

「ありがとう、フェイト」

突然そんな言葉が投げかけられた。

「こんな風に穏やかにコーヒーを飲んでいられるのは、君のおかげだ」

「い、いえ! 私はただ……」

 そう、本当に、ただ。ただただ、自分が思っている事を伝えて、それだけだ。

「お礼を言われるような事は何も……」

「そんな事はないさ。感謝している」

 その声に言葉に、目線を手元のコーヒーに落とす。この水面に映った自分の顔にはきっと朱が差しているのだろう。あいにくと言うべきか幸いと言うべきか、コーヒーの水面の色ではわからないけれど。

「君のおかげで頭を整理できたし、心も決まった」

「……え?」

「今日の検査結果を聞く前から悩んではいたんだ、今後の事について」

「あ、そ、そうですよね」

 所属していた大学は退学扱いになって、護衛の仕事も中断中。予定にない形で世間的にも実情的にも、彼はいまフリーだ。この先の事を思い煩うのは当然と言える。

「では、何かお決めになったんですか?」

「ああ、と言っても暫定的なものだが。とても世間様に言えるようなものでもないし。……だが、多分これが俺にとっても、なのはにとっても良い選択だろう」

「……!」

 唐突に出てきたなのはと言う名に、身がぴくりと硬直する。

 あの後どうなったのか、あの不自然な過ぎるほどにぎこちのない関係は直ったのか、恭也があんな状態でなければ真っ先に聞こうと思っていた事だ。現状切り出していいものか迷っていたところに恭也の方から話を出されて一瞬思考が停止する。

 しかし、

「フェイト、俺は――」

 その後に続いた彼の言葉は、今度は一瞬どころではなくその後数秒に渡ってフェイトの頭を真っ白にするのに十分だった。

 

 

 

「……はあ」

「またため息、それもう何度目?」

「う、ご、ごめん」

 隣り合って端末を操作し、書類仕事をしている航空戦技教導隊の隊員――すなわち同僚に指摘され、なのははバツの悪い顔を浮かべて謝った。

「らしくないわよ。何に悩んでるんだか知らないけど」

「そうだね……」

 蓮っ葉な口調で容赦なく斬ってくる彼女の言う事はもっともで、

「そうだよね……」

 なのはも、どうしてこんな事になってしまったのだろうと心の底から思っている。

「……」

 大好きな兄が、愛している人が、帰ってきて。

 あんな顔、するはずじゃなかったのに。

 あんな顔、させるはずじゃなかったのに。

 なのに、なのに。

「そもそも、なんで今日ここ来てるのよ、医療センターはいいの? 一昨日派手にやったばかりなんでしょ?」

「昨日集中的に治療してもらえたし、そもそも酷使はしたけど負傷したわけじゃないから。しばらく魔法戦闘は避けろって言われちゃったけど」

「当たり前よ、頑丈だからって無理しすぎなのよあんたは。で、なんで今日ここにいるわけ? 書類仕事なんて残ってたっけ?」

「……うん。次の任務の報告書、今埋められるとこだけ埋めておこうと思って」

「あのね、それは残ってるとは言わないわよ。先に済ませてるってだけじゃない」

 まったくもって正論だった。反論の余地なく、なのははだんまりを決め込んだ。

「うわ、ほんとにらしくない」

 そんなこちらの様子を見て、同僚は呆れと驚き等量の声を上げ、やがて自分の作業に集中していった。

 結局、先に音を上げたのはなのはだった。

「私、そろそろ上がるね」

 なんとなくのいたたまれなさに耐え切れず、そんな風に言って端末を落とし立ち上がる。

「あらそー、お疲れ。終わったの?」

「うん、まあ」

 もともと、すぐに終わるような作業をわざと時間をかけてやっていたのだ。終わらないわけがなかった。

 支度を整え、出入口に向かう。足は重い。気分も同じだ。

「なのは」

「ん?」

「何があったのは聞かないけどさ、元気出しなよなんて言わないけどさ、その内ちゃんといつもみたいに笑いなさいよ。ウチの隊、それに元気づけられてんだから」

 基本は激務だけれど、職場にも仲間にも恵まれている事はきっと間違いなくて。

 それなのに今、力なく頷く事しか出来ない自分が最高に情けなかった。

 

 

 廊下を歩きながらぼんやりと考える。

 どこに行こうか。

 正確に言うならどこでどう時間を潰そうか。

 もっと正直に言うなら、どうやって家に帰る時間を引き延ばそうか。

(最低だ、ほんと)

 家族は皆、それこそ兄も、妙な態度の自分の事を心配してくれている。それだと言うのに、自分のこの行動は何だ。

 自然、視線は下を向き。俯きながらどこへともなく歩いているなのはは、正面から声をかけられるまで気づかなかった。

「なのは」

「……え、あ」

 顔を上げる。目に映るのは特徴的な長い金の髪と端正な顔立ち、黒で整えられた制服。

「フェイトちゃん……」

 いつの間にか目の前にいたのは、もう長い付き合いの親友だった。

「よかった、会えて。教導隊の執務室に行こうかと思ってたんだけど、帰り際を捕まえられたのかな?」

「あ、う、うん」

 それは間違っていないのでとりあえず頷くが。

(なんだろう)

 何かがおかしい。

 彼女の、フェイトの様子が、何かおかしい。

「今、少し時間大丈夫?」

「……うん」

「よかったっ」

 なんだか、妙に浮ついている。

 そしてそれに対して、自分の心の何処かが確かにざわついている。

 これでも、勘は優れている方だと自負しているが。

 何だ?

「ねえ、なのは、いつにしようか、送別会」

「え?」

 唐突に投げられた単語は本当に意味がわからなかった。

 送別会? そうべつかい?

「え、って、あれ、もしかして聞いてないの? そうなんだ。じゃあひょっとしたら私が一番に知っちゃったのかな」

「ちょ、ちょっと待ってっ、聞いてないって……」

 誰から。

 何を。

 かすれかすれでそう口にして、その自分の言葉で背中に嫌な汗が流れる。

 聞いたくせに、続きを言わないで欲しくて。しかし、そんな願いは届かなかった。

「誰って恭也さんから。何って恭也さんが」

「おにいちゃん、が……?」

 

「修行に集中するから、一旦この街を離れるって」

 

 その瞬間、身体が強張ったのか弛緩したのか、自分にはもうよくわからなかった。

「ど……うし」

「恭也さんねっ! 身体、みんなみんな治ったんだって!」

 フェイトが興奮気味に言う。

「壊しちゃってた膝も! だから、諦めてた御神の剣士としての完成! 目指せるようになったんだって!」

「あ、それ、で……」

「そう! このまま家にいて鍛えてもいいんだけど、折角だからどんな仕事にせよ再開する前に、集中した修行で一気に力を付けて、出来るなら御神の剣士として完成したいって」

 兄が過去に幾度か膝を壊した事は知っていた。そのせいで、夢を諦めた事も。

 それが、また目指せるようになったというなら喜ぶべき事だ。それは本当だ。

 だけど。

「家、出るんだ……おにいちゃん」

「うん。……やっぱり、寂しいよね」

 そんな風に思うのは勝手だろうか……いや、フェイトはともかく、少なくとも自分は勝手だろう。

 あんな態度をとっておいて、寂しいなんてどの口が。

「だけど、でも、なのはは幸せものだよね」

「え?」

 知らず俯いていた顔が上がる。意味が本当にわからなかったのだ。

 そしてそんな自分に、フェイトは、

「フェイトちゃん……?」

「なのははさあ、幸せものだよ」

 笑顔で言う。

 柔らかく、でも、驚くほど冷たい笑顔で。

「恭也さんが家を出る事を決めたのって、修行に集中するっていう理由もあるけど、でも正直なところを言えば、きっとなのはのためなんだから」

「私の……? なん」

「なんで、って、もしかして聞いたりしないよね?」

 吐き捨てるような笑み。

 一歩、フェイトが踏み込んできて。

 一歩、なのはは後ずさる。後ろめたさがそうさせる。

「なんでも何もないじゃない。あんな態度をとっておいてさあ。まるで『あなたが帰ってきて迷惑です』って言ってるような」

「そんなことっ!」

「そんなこと?」

「……っ」

 そんなこと、ない。あるはずない。それは絶対だ、言い切れる。

 言い切れるけど、言い張れるような行いは間違ってもしておらず、口をつぐむ。

「少なくとも今のなのははそういう態度、とっているよね。とっているように見えるよ。他の誰でもない、恭也さんに」

「……」

 言い返す言葉もなく。

「黙ってたんじゃ何もわからないよ。ううん、違うか、もう違うよね――何もわからなかった、だね」

 わからなかった。そう、過去形の言い方を突きつけられた。

「私には本当にわからないよ。事がいよいよこうなってもわからなかったよ。折角また手の中に戻って来た幸せを、こうして失っちゃえる神経が」

 失う。

 また。

 いや違う。もう、失った?

 何を?

 あの幸せを?

 一歩、またなのはは後ずさり、

「でも、私は違う」

 フェイトは動かない。微笑みを浮かべたまま、ただこちらを見つめるだけ。

「私にはね、定期的に会いに来てくれるって」

「あ……」

 綺麗な笑顔。嬉しそうな、本当に嬉しそうな笑顔。

「連絡も細かく入れてくれるし、私の都合がいいなら修行しているところにお邪魔しに行ってもいいって」

「……そ、そっか」

 よかったね。

 その一言が喉でつかえる。

「でも、なのはには会いに来ないだろうねぇ」

 そしてなんでもない口調で、そんな言葉が投げられた。至って普通の、日常会話のトーンで、ぽすんと。

 だからすんなり、胸に落ちて。

「高町家に顔を出す事はあっても、なのはと顔をあわせるようにはしないだろうね。だってそのために家を出るんだもん」

 スムーズに、想像が出来る。

「そうやって時間が経ったら、なのははさあ。なのはと恭也さんはさあ」

 ああ、そうだ。

「血がつながっているだけの、ただの他人になるんだろうね」

 

 

 

 

「はー……」

 遠ざかっていく足音。

 走り去るなのはの背中を見送ってから、フェイトは壁に身体を預けた。

 自分に出来るのは、多分ここまでだ。

「頑張ってね、なのは」

 聞こえないだろうけど、聞こえないだろうから、そんなエールを送る。

 それにしても。

(嫌な女の顔してただろうな……)

 自分の顔をなんとはなしにもみほぐしながら、思った。

 焚きつけるためとは言え、あんな風にあんな事を。

 だけど、これくらいならいくらだってしよう。

 なのはと恭也、二人をちゃんと再会させて、再開させる。それは自分が立てた硬い誓いで、今何よりの願いなのだから。

 それに、白状をするのなら。

「……嘘は、結局吐いてない」

 自分は、醜い本音を表に出しただけなのだ。

 

 

 

 

 管理局内個人用転送ポート。

 幾何学模様の描かれたその装置へ飛びつくように乗り、操作パネルへ自宅の庭に設置してあるポイントへの転送コードを打ち込もうとするも。

「う、ううう…」

 指が震えて上手くいかない。なんどもエラーを吐かれながら認証と設定を終え、ようやく転送が始まる。

 魔力が奔り、光りに包まれ気がつけば視界は見慣れた自宅の庭だ。

 夕日が差して、寒風が吹く。だけど眩しさも冷たさも何も感じなかった。そんな余裕、なかった。

「はっ……はっ……」

 管理局の廊下を全力疾走してきた勢いそのまま、転がるように玄関に飛び込み、

「わ、たっ……いたぁ」

上がり框の上、靴を脱ごうとした足をもつらせ本当に転ぶ。

「ちょおちょおなんの音や騒がしいな……ってなのちゃん!?」

 しかしそんな事していられない、さっさと身体を起こし靴を脱いでいると、そんな声がかかった。通りかかったらしいレンだ。

「うわあ、ごっつい音しよったけど大丈夫か……?」

「う、うん、ねえレンちゃん!」

「な、なんや?」

「おにいちゃんは……?」

 そう問うた瞬間、はっきりとレンの顔が固まった。

「お、おししょは……その……お部屋で」

「……荷造り、してるの?」

「っうえええなんでや! なのちゃんにはまだ話してへん言うてたんやけど……あ、なのちゃん!?」

 もどかしい思いで靴を脱ぎ捨てて、レンの横をすり抜け廊下を駆ける。

 兄の部屋、その前に着いて。

 きっと一瞬でも躊躇したら永遠にこの扉は開けられない。そう本能が告げるから、ノックもなしにドアを開け放った。

「……なのは」

 部屋の中、片膝をついた状態で振り返ったその人の顔は。

 肩で息をする自分を見やるその人の顔は、複雑だった。

 きっと色んな事を考えてくれていて。

 きっと色んな事を考えさせてしまっていて。

 だから今、

「おにいちゃん、それ……」

「……こんなにいらないかとも思うんだけどな。とは言え、期間がどれくらいになるかわからないから」

 この人の足元の鞄には、この家を出て行くための道具達が詰められているんだろう。

「……」

「母さんから聞いたのか?」

 恭也は、なのはが事情を理解している事を察しているようだった。

「それとも晶かレンか……」

「……ううん、フェイトちゃんから」

「ああ、そうか。そう言えば一番初めに話したのも、あの娘だったな」

「……っ」

 その台詞に、思わずうつむく。馬鹿にみたいに嫉妬した自分が最高に嫌だった。

「……すまないな、なのは」

 そんな自分の様子をあるいは憤っていると見たのか、兄は言う。

「お前がそんな風に、俺に苛立ちや嫌悪を覚えるのは当たり前だと思う」

 兄は、そんな事を言う。

「お前はいい妹だったのに、俺はいい兄貴じゃなかった」

 兄に、こんな事を言わせている。

「謝って許してもらおうとは思っていない。だからせめて」

「もうやめて」

 そうだ。

 もう嫌だった。

「なのは……?」

「もう、やめて」

 兄にこんな事を言わせるのは、もう嫌だった。

 今まで逃げ回っていた現実と直面する事よりも、兄があんな顔であんな事を言う、その方が何倍も何倍も嫌だった。

「もう、やめて……っ」

「なのは……」

 視界が滲み、声が震えて。

「なのは、どうし……」

 兄はそんな自分に歩み寄ろうとしたのか、立ち上がりかけて、

「いや、……すまん」

しかし途中で躊躇する。

 そんな壁を作ったのは他ならぬ自分で、だから壊すのも自分の仕事なはずだ。

「……め……ざい」

「なのは……?」

「おにいちゃん……――ごめんなざいいいぃ!」

「な、なのは……?」

 一度、一粒。溢れ落ちればもう止まらなかった。

「おにいちゃんん……おにいちゃああん……っ」

「……なのは?」

 当惑する兄の腰元に飛びつくように抱きつき、否、縋りついて。

「ごめんなざいごめんなざいごめんなざいごめんなざいごめんなざいぃぃ」

 言いたかった言葉を。言えなかった言葉を。

 ようやく口にする。

「ごめんなざいぃぃぃぃ」

「……どうして、お前が謝る」

 馬鹿にみたいに同じ言葉を繰り返す自分の背中を、兄の手が優しく撫でる。

 ああ、どうしよう。

 この温もりは、いつだって麻薬みたいだ。

 まともにものを考える頭が蕩けていく。

「わたしが、わるいのぉ……おにいちゃんがでていくことなんてないのぉ……!」

 くそう、違うんだ、そうじゃないんだ。

 でも、大丈夫。今の自分は馬鹿になっている。だから、臆病に隠した言葉を零してしまうはずだから。

「でていっちゃやだあぁ……」

 そうだ。

「だが……」

「やだぁ……」

 縋りつく手の力を強める。

「いっちゃやだぁ……」

 やっと言えた。

「ずっと待ってたのぉ、わたし、わたし……」

「なのは…」

「いっちゃやだあ……もうあんなのはいやだよぉ……っ」

 言えた。

 ぎゅっと目を瞑る。もう言った。言ったんだ。そして、言うんだ。

 どれだけ自分が馬鹿で怖がりかという事を。

「なのは……なら、……その、なぜあんな……」

「ごめんなさいぃ……――怖かったのぉ」

「怖かった? 一体、何が?」

「だってわたし、っ……」

 言葉を区切り、呼吸を整えて。

 ちゃんと伝えよう。

「わたしもう、おにいちゃんの知ってるわたしじゃないから……っ」

「……それは、どういう」

「5年、経ったのっ。その間、いっぱい、色んな事があって……っ」

「……」

 兄は黙って、自分の背中を撫でてくれている。

 焦らなくてもいい、そう言われたような気がして。

 深呼吸。

 長く息を吐き出して、同じくらいゆっくりと息を吸う。

 呼吸と声が整った。

「背、結構伸びたんだ。髪も、こんなに」

 自分の、母譲りな栗色の髪へ無意識に手が伸びた。毛先を悪戯にいじる。

「運動神経もね、ちょっとはましになったよ。魔法はね、少し自慢。教導官って覚えてる? おにいちゃんがリンディさんにならないかって提案されてた、管理局のお仕事の一つなんだけど、それになれて、もう結構現場に出てるの」

 それこそ修羅場だって、自分で言うのも何だがそれなりにくぐって来た。

「5年、経ったよ」

「……ああ」

「……だから、私ね、私もう、9年全部、生きてる時間全部、おにいちゃんが傍にいてくれた高町なのはじゃないの」

 もちろん9歳の時までだって四六時中、兄が見ていてくれたわけじゃないけれど。

 それでも、家族として共に過ごす距離にはいた。

 だけど、でも。

「今の私はもう、おにいちゃんの知らない5年間を過ごしてる」

「そう、だな」

「私ね、馬鹿だから、……ほんとに、馬鹿だから」

 思わず眉根にシワを寄せ。

 俯きながら、かすれた声を絞り出す。

「前みたいに、――愛してもらえないんじゃないかと思った」

「……そんな」

「わかってる!」

 兄の言葉を遮り言う。

「私がどんな私になっても、おにいちゃんは私を愛してくれる! そんなの、私が一番よくわかってる! わかってる、わかってる、……頭では、わかってる。わかってた」

 声と手が、どうしたって震えてしまう。

「怖いの」

 そう、だって怖いんだ。

「もしも、もし、万が一、おにいちゃんが前みたいに、私に接してくれなくなったら、おにいちゃんが前みたいに、私を私として愛してくれなかったらどうしようって……思っちゃった」

「なのは……」

「"髪型、変えたんだな"って、おにいちゃん、言ったよね」

 それは、ジェイル・スカリエッティ一味との戦いの後、アースラ内での事だ。

「そのなんでもない一言で私、怖くなっちゃったの」

 ああそっか、ああそうだ、と。

 私はもう、兄の知ってる高町なのはじゃあないんだ、と。

 あの一言で気づいてしまった。

「……おにいちゃんに悪いところなんて一つもない。全部全部、私が勝手に怯えて、それで」

「じゃあ、だからお前は……」

「本当の事知るよりは、曖昧なままの方がいいって……。はっきりわかっちゃうよりは、違うかもしれないって、そう思えた方がまだいいって……思ったの」

 兄に愛されないかもしれない。その恐怖の大きさは、上手く言葉には出来そうにない。

 わけがわからないくらいに怖くて。

 だから、わけがわからなくなってしまった。

「ごめん、なさい」

 そして結局、一番大事な人を傷つけた。

 自分が傷つきたくないと逃げ回って、その結果、自分なんかよりもずっとずっと、絶対に傷つけたくない人を傷つけた。

「おにいちゃんが悪いなんてこと、一つもないよ。一つもないの。わたしにとって、おにいちゃんは、世界で一番大好きな人で、世界で一番大切な人だよ。今も、昔も、これからも、ずっと」

 言い終わった後。

 長い、長い息。心底安心しきったような、そんなため息が聞こえた。

 その主は、なのはの髪を撫でながら言う。

「怖かったのは、俺も同じだ」

「……え?」

「俺も、お前に嫌われているんじゃないか……いや、もう嫌われたものだと思って、それに直面するのがきっと怖くて、だから、こんな選択をしたのかもな」

 兄は自嘲気味に、床に置かれた荷物を見やった。

「お前のためを思って、なんて言いながら、怖くて逃げ出そうとしたのかもしれない」

「怖くて……?」

「ああ」

 くしゃりと、頭を撫で回される。

 そんな小さな仕草一つで、こちらの頭は蕩けてしまいそうになっている事を、はたしてこの人はわかっているのだろうか。

「怖かった。なのはの言うとおり、俺はなのはの5年間を知らない。だから、その間にどうなのはの考えが変わったのかわからなくて。……正面から拒まれるのが、怖かったんだ」

 臆病な兄妹だな、と。

 兄は笑った。

 なのはも涙でぐしゃぐしゃの顔で笑う。

 しばらく抱き合ったまま時間が過ぎて。

「ん……」

 兄が、何かに気づいたように顔を上げた。

「おにいちゃん?」

「……この気配は、美由希か。美沙斗さんもいるな」

「おねえちゃん、着いたんだね」

 当初の予定では、二人が香港警防隊から帰ってくるのはもう少し後のはずだったが、恭也が眼を覚ましたとの報にそんな予定は吹き飛んだ。

 電話口で飛んで来るとは言っていたが、本当に速い。

 玄関の扉が勢いよく開く音の後、遠く声が聞こえた。

 

「恭ちゃん起きたの!? もう大丈夫なの!?」

「お、おお美由希ちゃん。……えっと、お帰りなさい。師匠は起きたけど、その、今は」

「何かあったの!? 大丈夫なの!? 今どこに……ん、気配あるよ! 恭ちゃんの気配だ!」

「落ち着きなさい美由希。落ち着いて、深呼吸よ、落ち着いて」

「母さんこそ呼吸浅いよ! ねえレン、恭ちゃんは大丈夫なの!?」

「恭也は無事なの? 命に別状は?」

「あ、あのー、その、お二人とも、お気持ちは大変わかるんやけど、待って頂けると、その、今はちょおなのちゃんが……」

 

 どうやらレンは気を利かせて2人を止めてくれているらしい。

 ありがたいけれど、当然ながら申し訳なかった。

「おにいちゃん」

「なんだ?」

 だから勇気を振り絞って。

 聞く。

 先延ばしにせず、逃げずに真っ直ぐ。

「修行、行くの? 家、出るの?」

 お互いの誤解は、解けた。

 しかしそれとこれとはまた話は別だ。

「……」

 兄は黙って眼を閉じた。

 頷くのだろうか。

 いやだなあ。

 いやだなあ。

 でも、今度はそうは言わない。

「さっきはごめんなさい。おにいちゃんがしたいようにして欲しい。我慢とか、しないで」

 兄の生き方を、邪魔したくはない。

 この人は、これまで散々自分を殺して家族を守ってくれたのだから。

「……」

 沈黙。

 自分の心臓の音がうるさい。兄に聞かれてしまっているだろうか。

 そして。

 やがて、恭也は口を開く――前に、首を振った。

「……おにいちゃん?」

「折角、御神流剣士が2人も帰ってきてくれたんだ」

 兄はそう言いながら立ち上がる。

「修行をするなら、この家にいた方がいいだろう」

 その言葉を聞いた時。

 やっと自分の傍に、高町なのはの傍に、兄が帰ってきた気がした。




 なのはさんの不器用さがちょっと浮き彫りになった回。
 表面のコミュ力がめっちゃ高いゆえに、腹を割った話し合いが下手って感じ。極端に走っちゃうっていうか。

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