【挿絵表示】
この作品には原作設定の拡大・独自解釈も含まれます。申し訳有りませんが、原作設定の絶対的な遵守をお求めの方、ご自分の解釈を非常に大切にされている方のご要望にはお応えしかねる場合があります。該当される方はご自身の責任における判断で閲覧されるかどうかお決め下さい。よろしくお願い致します。
------------------------------------
番外編です。暗くて重くて痛い話をグチャグチャやってるので、苦手な方は飛ばされた方がいいかと思います。
いつか、置いて行かれる。
そんな風に、ずっとずっと怯えて生きている。
「完璧な娘だなんて、どこかで思っていたんだが……いやいやあれで存外、可愛らしい弱点があったものだな」
「本当、絵以外はかなり完璧にこなせるんだけどねえ。でも、一つくらいそういうところがあったほうがいいものかな?」
「そうだな、そうかもしれない」
庭先で盆栽をいじりながらの兄は、穏やかな笑みをその口の端に乗せている。小さいそれは普通の人が見たら無表情の内に入るのかもしれないが、なのはにははっきりとわかる。
誰よりずっと、この人を見つめてきたのだから。
「しかし、そう考えてみるとずいぶんスペックの高い人間が多い気もするな。ハラオウン家にしたって、八神家にしたって。例えば……はやてに何か弱点はあったろうか?」
「あー……あれで致命的な隙は見せないからなあ、はやてちゃん」
「強いて言うなら、抱え込み過ぎるところくらいだろうかな。責任感が強すぎる」
「おにいちゃんがそれを言う?」
「俺は結構、怠け癖がある」
縁側に座ったまま、なのははため息を吐いた。これを本気で言っているのだから、兄という人間は変わっている。
「怠け癖がある人間はね、自分の卒業祝い会で買い出しに走ったり料理を作ったりしないんだよ?」
「少し手伝っただけだ」
しれっと言う彼の手元は、丁寧に慎重に、しかし手際よく盆栽の枝葉を整えている。
育っていく姿を見る事と、それをなるべく綺麗に整えてやる事が好きだから。昔、どうして盆栽が好きなのかという事を聞いたときに返ってきた答えはそんなものだった。
「……おにいちゃん、今日は?」
「フェイトと鍛錬だ。もう少し経ったら出かける」
本人がどう思っているのかは知らないが、兄はやはり教育者に向いている性質なのだろう。
「そっか」
元々、なのはは御神流に関係する事は出来る限り応援して、決して邪魔はしないと決めていた。その上で、人に教える兄が生き生きとしているものだから、引き止めるなんて事が出来るわけがない。したくもない。
「フェイトちゃんはどう?」
「筋がいい、覚えるのが早い」
だけど、それでも。
兄を引き止められないように、思ってしまうのも止められない。
彼がそのまま、行ってしまうのではないかって。
どこか別のところに居場所を作って、自分の傍にはもう、帰ってこないのではないかって。
それが、耐え切れないくらいに嫌だって。
「だが、そろそろ俺も正式就任だ。だからこそ、その前になるべくじっくり教えたいところはクリアしておきたい」
「おにいちゃんもついに管理局員だ」
「そうだな。お前たちの後輩だ」
兄はずっと、本当にずっと、何より家族を優先して生きてくれた。御神流にしたって、父の代わりに家族を護るために修めているという面が大きいということくらい、高町家の誰もがわかっている。
その彼が、自分のやりたい事へ向かって進んでいる。高町家の面々がそれぞれ自分達の道を歩き始めたからこそ、彼はそうする事がようやく出来るようになったのだろう。
今までにお礼を言って、これからを祝福するべきだし、その気持ちがあることは決して嘘じゃない。
だけど、それは家族の傍にずっと寄り添う生き方から変わり始めたという事でもある。
そうしたら、どうなるかなんて、火を見るよりも明らかで。
「教導隊じゃないのは、残念だなあ」
「俺もそのつもりだったんだがな」
「誰が決めたんだろ、もー」
表面では軽く言いながら、しかし心はひどくざわついている。
だって、自分は知っているのだ。
(……おにいちゃんは、この家を出る)
兄が管理局入りを契機として、高町家から出て生活をしようと考えている事を。
皆伝した姉もいるし、翠屋は順調で、晶やレンも元気にやっている。そして自分だって、もう中学の三年生。仕事場では二尉の地位すらある。彼がもう大丈夫だと判断するのは、実に自然だ。
実際、皆、寂しがるだろうがやっていけるだろう―――自分以外は。
「……おにいちゃん」
「なんだ?」
「…………あはは、ごめん、なんでもない」
「……まだ寝ぼけているのか?」
「ね、寝ぼけてないよ! 今はもう寝起きも良くなったよ!」
せめて、職場でくらい会えたなら。それなら。そう思っていたのだけれど、思い切りあてが外れてしまって。
心配と心労だけは、どうかこの人に掛けたくない。今までさんざん、そうしてきてしまったから。
だからせめてと、この人の前では決してため息なんてこぼさないように気を張る事で精一杯。
「そう言われてもな、寝ぼけたまま階段を降りようとするお前を抱えて一階の洗面所まで歩いた事が、俺の人生、過去何度あったろうかな」
「だ、だから今はもう大丈夫です!」
「ほう」
「ほ、ほんとだよ? あ、あ、疑ってる顔してる!」
「まさか。妹の言葉を信じない兄がいるものか」
「兄の言葉を疑わない妹を過去何度も騙してきた人が何か言ってる……」
じとっとした眼で見つめても、兄は涼しい顔で取り合わない。
「憶えがないな……ん、電話が鳴っている」
「あ、ほんとだ。お母さん居間にいないかも」
「そういえば昔、『はい、高町です』ときちんと言えないと二十回に一回くらいの確率で受話器に吸い込まれるという話を信じた可愛らしい娘がいてな」
「もお! もーお! それを聞いた当時の私が何回『はい、高町です』を練習したと思ってるんですか! 騙した人が悪いんですよ!」
「そう怒るな、怪獣」
「怪獣じゃないよ! 電話取ってきます!」
昔好きだった魔法少女もののアニメに出てくる、有名な兄妹の掛け合いのような会話を交わしつつ、縁側から腰を浮かす。
「なのは!」
「な、なに?」
「ちゃんと言うんだぞ、『はい、高町です』。でないと……」
「吸い込まれないよ!」
言いながら、でも魔法が実在するのだから、もしかして……などとちらっとでも思ってしまう自分が情けない。幼心に擦り込まれた恐怖はなかなか根強いものだ。
足早に居間へ向かい、鳴り響く電話機の受話器を手に取る。
「はい、高町です」
昔練習した成果なのだろうか、滑らかにそう口は動いて。
『あ、なのは? 私だよー、私』
「っ……」
その不意打ちに、固まった。
『あれ、こういう詐欺が日本で流行ってるんだっけ? オレオレ詐欺、だったっけ』
「お久しぶりです、フィアッセさん。今は振り込め詐欺って呼ばれていますよ」
『そうなんだ。あ、ちゃんと私だってわかってくれた、よかったあ』
彼女はそう言うが、この声を、まさか忘れるわけも間違えるわけもない。
美しく、透明で、誰からも愛されるこの声を。
『ごめんね、急に電話しちゃって。恭也はいるかな? あ、携帯にかければよかったのか……』
「おにいちゃん、家の中に居る時はあんまり携帯電話を携帯しないので、こっちに掛けてきて下さった方がたぶん確実です」
『あー……そうだよね。さすがなのは、恭也のことよくわかってるね』
「妹ですから」
今更、別に。
そう、今更別に。
声が揺れたりなんて、しない。
だって自分は長いこと、この感情と付き合ってきたのだから。
『実はね、また日本に帰れそうなの。……ほんのちょっぴり、ほとんどとんぼ返りなんだけど』
「そうなんですか。ワールドツアーの途中、ですよね?」
『うん。中休みみたいのがね、少しだけもらえる事になったの』
電話先の女性、フィアッセ・クリステラは多忙だ。
世界トップクラスに有名な歌手でありながら、養成校の校長も務めている彼女はとにかく忙しい。
そんな中でも、三ヶ月と少し前、兄が起きたときには当然のように文字通りイギリスから飛んできたものだが、後から聞いた話ではかなり無茶をやったらしい。
『だから、恭也に卒業祝いを渡そうと思って』
「なるほど。おにいちゃん、喜ぶと思います。庭先にいるので呼んできますね」
『うん、ありがとう。お願いね』
受話器を耳から離して、……もしこのまま保留のボタンを押さずに受け口へ置いたならなんて、馬鹿な考えが奔ったのは一瞬だけ。
保留の文字が書かれた丸いボタンを押しこみ、受話器を戻す。
「……」
頭を一度振ってから、歩き出した。廊下を行って、縁側へ。
兄はなにやら、難しい顔で盆栽を見つめていた。こだわりが色々あるらしい。
「おにいちゃん、電話だよ」
「俺に? 誰からだ?」
「フィアッセさん」
その名を告げると、兄は盆栽から視線を外してこちらを見た。
「フィアッセ? ワールドツアーで忙しいだろうに、どうしたんだ」
手に持ったはさみを置いて、靴を脱ぎ、縁側へ上がってくる。
「中休みをもらえる事になったんだって。それで、おにいちゃんに卒業祝いを渡しにこっちに来るって」
「……相変わらずフットワークの軽いことだ」
そんな言葉を零す兄の顔には、しかし確かに微笑みが浮かんでいる。
「……どうした?」
廊下を歩く彼の後をついていくと、振り返って問われた。
「おにいちゃんが受話器に吸い込まれないか心配で」
「そうなったら管理局の専門家を呼んで助けてくれ」
声だけは大真面目にそう返した兄は居間に入って、受話器を手にとり耳に当てた。
「はい、高町です。……そう言われてもな、これを言わないと受話器に吸い込まれるんだ。……ああ、そうだ。よく憶えていたな。それで? 日本に来るとか、そのなのはに聞いたが―――」
話し始めた兄の姿を。その表情を、目に焼き付けて。
なのはは居間を後にした。
階段を登り二階に上がって、自室へと入る。
ベッドの上にごろりと寝転んで、思う。
「……フィアッセ、さん」
その女性の事を、思う。
好きか嫌いかで言えば好きだ。
好きか大好きかで言っても、迷いなく間違いなく、大好きだと言える。
小さかった自分をたくさんの暖かさと優しさと安心と、その他言葉に出来ない色々でくるんでくれた、綺麗で白くて純粋な、大好きなお姉さんだ。
大好きでは、あるんだ。嘘じゃない。
「…………フィアッセ・クリステラ」
嘘じゃ、ないけれど。
同時に、その人でもあるのは確かなのだ。
(私は……)
幼い自分に人を憎む事を教えてくれたのは、その人であったのも、確かなのだ。
父の死に、その人が関わっていたと聞いたとき、自分の内で、自分の中の一部分が言った。
もし、彼女がいなければ。
大好きな母が、時折すごく寂しい瞳で父の写真を見る事もなかったのだろうか。
大好きな兄が、あれだけ無理をして、身体を壊して夢を諦める事もなかったのだろうか。
その兄と大好きな姉が、歩む道の先、目標を失う事もなかったのだろうか。
そして自分も、両親揃った友人を前にした時の、あの不思議な気持ちを味わう事はなかったのだろうか。
そんな風に、なのはの内で声がした。
それなりに成長の早い子どもではあったからか、だけど理性ではきちんと理解はしていた。彼女には非なんてなくて、不幸の渦に巻き込まれた被害者であるという事くらい。
理解は、していたのだ。
だけど、ねじ伏せられない心の一部分があったのは、否定出来ない現実だった。
しかしそれでも、それで彼女の事を決定的に憎む事はなかった。
実際、両親が揃っていないという事実に足を取られる事はあっても、父がいない寂しさに襲われた事は、高町なのはの人生にはあまりない。そこにはいつも兄がいてくれて、誰より確かに護ってくれたからだ。
父に会えたならという気持ちはもちろんあるけれど、耐え切れない辛さを味わった事はない。それこそ、寂しい時に彼女がいてくれた事だってある。
だから、その感情は鍵を掛けた箱の中へしまっておく事が出来た。自分自身でも、見ないように出来た。
出来た、のに。
"恭也、ほら、一緒に行こう"
"ああ"
手を繋いで、二人が歩く。隣の彼女を見る兄の顔には、微笑みがあって。
周りの皆が、それに気付いていたのかどうかは、わからない。
だけど、自分にはわかった。身を斬るような痛みと、呼吸の苦しくなるような胸の引き攣りと、視界が暗くなるような重みを伴って、すぐにわかった。
兄が、彼女に恋をしていた事なんて。
あるいはきっと、兄自身に自覚はなかったのだろうとは思う。その兄の気持ちに、彼女が気付いていたのかどうか、それはわからない。
だけどとにかく、彼女が兄を好いていた事と同じく、兄が彼女を好いていた事は間違いなく事実で。
バキン、と。
錠の壊れる音がした。
鍵は、開けてない。だけど錠前そのものが、中からの圧力で弾け飛んでしまった。
そして、箱の中から這い出て来たのは。
「……」
なのはは静かにまぶたを閉じて、天井を映していた瞳を闇で包む。
これと同じ色のものがかつて、自分の内側から這い出てきたのだ。
全部、奪われると思った。自分の周りから大切な男性を根こそぎ、彼女が奪っていくと思った。
父も、父代わりの兄も、兄としての兄も、そして。
最愛の男性としての兄だって、奪っていくと恐れた。
「……」
ベッドの上から降り、立ち上がって窓際に寄る。
「……あれは、結局夢だったのかな」
独りごちながら見下ろす光景は、穏やかな庭。緑の映える、高町家の庭。
もう何年前になるだろう、そこでなのはがそれを見たのは、今とは正反対の真夜中だった。
その日、なんとなく庭先からなにかを感じた気がして、眠っていた自分は眼を覚まして。時間がどれくらいだったかも、正確に確認はしなかった。ただ、真夜中だったのはきっと確実だ。
感覚に手を引かれ、今と同じようにベッドから降り窓に寄って、カーテンをほんの少しだけ開けて眼下を見た。月明かりの差し込む夜で、黄金の光が宵闇の中の光景をなのはの瞳に映させた。
"……あ、……え、…………あ"
固まって、血の気が引いて。
"…………ひっ"
怯えた声が自分の口から漏れ出た時には、尻もちを付いていた。胸上の高さを持つ窓はもちろん視界から外れて、その光景は目の前からなくなったけれど、しかし、脳裏にはこびり付いたままだった。
フィアッセ・クリステラ。
美しく、長く柔らかな金髪を少しだけ風にそよがせて、どこか悲しげに顔を伏せた彼女が、庭に一人、立っていて。
"あ、あ、………あ"
その背には、六つの黒翼がはためいていた。
"あ、……あく、ま?"
零れた自分の言葉に、ひどく背が凍ったのをよく憶えている。
悪魔。
そう、悪魔。
綺麗で白くて純粋な、誰より美しく見えた天使のようなあの人が、高町なのはには確かに、悪魔に見えた。
ガタガタと震える身体は、まともに動かなくて。まさかもう一度、窓から下の光景を確かめる度胸なんてなくて。
どれくらいの時間かもわからないけれど、なのはは自室の床の上、一人で震え続け。
しばらくして、ようやくまともに動いたのは首から上。窓の方へ向いていたくなくて、ベッド側へと視線を移し、なのはの眼に、うさぎのぬいぐるみが映った。
それは、何年か前の誕生日、兄にもらったお気に入りのもので。
その瞬間、なのはの身体は金縛りから逃れた。
ぬいぐるみに飛びついてぎゅっと抱え、幻でもいい、兄の気配を胸に抱きしめ、それに護られていると思える内に、彼の所へ行こうと思った。
震える時に、誰よりも頭に浮かぶのはいつだってその人だったから。
転がるようにしてぬいぐるみを抱いたまま自室を出て、廊下を走って彼の部屋の前へ。いつもだったら立ち止まって彼が気配で気付いてくれるのを待つが、その日ばかりは無理だった。
鍵のかかっていないドアを飛びつくように開けて、その部屋へ飛び入る。
"……どうした?"
兄は、もう起きていた。布団の中、上半身を起こしてこちらを見ている。
多分、自分がドタドタと廊下を走った時にはすでに、眼を覚ましていたのだろう。兄はそういう人だった。
"怖い夢でも、見てしまったか?"
"う、う、……っ"
迷いなく、兄の胸へ飛び込むと、彼の方からも抱きしめてくれた。世界で一番安心の出来るぬくもりと匂いが、身体と心をくるんでくれる。
"……おにい、ちゃんっ、おにいちゃんっ"
"ああ"
未だ残る恐怖に震えながら彼を呼べば、硬いけれど最高に優しい手のひらがこちらの頭をゆっくり撫でて、もう一方の手が柔らかく背中を叩く。
"なのは、俺はここにいる"
"う、うん……っ、うんっ"
自分の身体に心に、少しずつ落ち着きが戻ってくるのがわかった。
"俺が、ここにいる。だから、お前は大丈夫だ"
"うん……!"
そもそも、ここにこうして来た時点で、決定的なところでは既にもう大丈夫だなんて思えてもいた。
それくらい、兄の傍は安心出来た。
彼の匂いで胸を満たすように、深く深く呼吸をして。
やがて、震えは止まった。
兄は何も聞かないでくれて、ただただ頭を撫でて、背中を心臓の鼓動と同じリズムで叩いてくれる。
"お、おにいちゃん……"
"ああ、なんだ?"
"あ、あ、あのね……あ、あくまが、あくまが、に、にわに"
そこまで言って、気付く。
自分の恐れた悪魔は、彼の恋する女性だ。
彼にそんな事を言って、果たしてそれはいいのだろうか。
そもそも彼女が、本当に悪魔?
彼女がどんな人かなんて、自分はよくよく知っている。……本当にあれは、彼女だったのだろうか。
そう思うけれど、しかし彼女以外の誰にも見えなかったのも事実で。
何より、途方もなく恐ろしかったのは、とにかく確かで。
どうするべきなのだろうか、どう言うべきなのだろうか。グチャグチャな頭は上手く働かず、口もいつもどおりのようには動かない。
"あ、あくまが、で、でも、その、そのあくまは"
"なのは"
要領を得ない事を繰り返すだけの自分が嫌になって、泣けてきそうになったとき、兄の両手が自分の頬を挟んだ。
"なのは、お前がどんな悪魔を見たのかはわからん。わからんがな"
至近距離、見つめられる。電気の消えた部屋の中でも、兄の顔ははっきり見えた。
"その悪魔から、俺がお前を護らないと思うか? 俺がお前を護れないと思うか?"
"……そ、れは"
"お前の兄は、お前を護る時に限れば、何処の誰にも決して負けん。お前が後ろにいるのなら、俺の前に立った相手に、俺が斬れない奴はいない"
でもその人はあなたが好きな人で、とても優しくて、自分も大好きで、でもどうしようもないくらいに憎くもあって……なんて、グチャグチャに暴れ回る思考が、一気に落ち着いた。
そうだ。
何を、恐れる事がある?
この人の胸の中で、腕の中で、何を恐れる事がある?
"……おにいちゃん、は"
"……"
"わたしを、まもって、くれる"
"ああ"
お前が生まれた時からずっと、俺はそうして生きると決めている。
そう、彼は優しく自分に言って微笑んだ。
胸の高鳴りが、怯えていた心を揺らし、ほぐして正常なものに戻していくのがわかった。
ぎゅっと彼に抱かれ、自分からもしがみついて、しばらくの時が経ち。
"なのは、今日はここで一緒に寝るか?"
"……っうん"
コクンと頷いた自分を抱いたまま、兄は布団を被って横になる。布団の暖かさと彼のぬくもりに包まれて、ひどく穏やかな世界が出来上がった。
"そいつも、一緒に来たんだな"
なのはが腕の中に抱いたぬいぐるみを見て、兄がそう言った。
"う、うん……こわくて、でも、この子がいれば大丈夫だってちょっと思えて、それで"
"そうか"
兄は、満足気な顔をして、ぬいぐるみの頭を二、三回親しげに叩く。
"おにいちゃん?"
"ん、なに、そいつには、お前の傍でお前を護るように言っておいたんだ。ちゃんと役目を果たしたようだな"
"そ、そうだったの?"
"ああ"
微笑む兄が、本当の事を言っているのかどうかはわからない。すぐに嘘を吐くし、それを悟らせない鉄面皮まである。
だけど、その言葉はやっぱり嬉しくて、なのははぬいぐるみを抱く力を強めた。
護ってくれてありがとう、そう思いながら。
しばらくそうしてぬいぐるみを抱きながら、兄に抱かれ続けて。
穏やかな眠気が、なのはを包み始め。
"……あれは、なんだったの、かな"
"周囲の気配は探っておいたが、少なくともお前が俺のところに来た時点では特に、おかしいものは見つからなかったな"
"……さすが、おにい、ちゃん"
兄がそういうなら、そうなのだろう。残る可能性としては、自分が自室で震えている間にいなくなったか、……もしくは。
"やっぱり、……へんな、へんな夢、だったのかな"
"寝ぼすけなお前には、あるかもしれんな"
"ねぼすけじゃ、ないよお……"
目をつむったまま、彼のぬくもりと匂いに甘えたまま。
その日はそのまま、眠りについた。
「…………あれは、でも、やっぱりそうだよね」
意識を今に引き戻しながら、なのはは思い出す。
あの後、自分を襲った猛烈な自己嫌悪を思い出す。
だって、あれはきっと夢で。
つまり、あれはきっと自分が自分に見せた夢で。
「私が、フィアッセさんを……そういう風に、見ていたから」
彼女に対して普段からきっとああいう風に思っていたから、だから自分は自分にあんなものを見せたのだろう。
いや。
『見ていた』も、『思っていた』も、たぶん正確じゃない。
「……」
今だって自分は、どこかでそんな風に思っているはずだ。
彼女の事が、大好きなのに。
それは、絶対に嘘じゃないのに。
だから当然のように、そんな自分の一部分は最高に嫌だった。なんでもっと綺麗であれないのかと、ずっと思っている。
「……おにいちゃんは、会いに行くんだろうな」
そう思うのにやっぱり、彼が彼女と会う事を考えると胸がざわつく。
たとえば、もし彼が彼女とイギリスに行ってしまったらどうしよう。そのまま、そこを居場所としてしまったらどうしよう。
そんな風に怯える事を止められない。
自分の傍から彼がいなくなるかもしれない事を思うと、どうしても視界は暗くなって、世界から色彩は抜け落ちていく。
あの人の傍で生きられないなら、そんな人生、少なくともなのはにとっては意味がない。生きている意味が、何もない。
だけど、かつての馬鹿な自分のような、生を手放すなんて選択肢、採るつもりはもう絶対になく。
だから、もし兄が自分以外の誰かと結ばれ、その人と生きていく事を決めた時、自分にはその先何十年と続くだろう空虚な日々が約束される。
暗くて寒くて色褪せて、何も心を動かさない、そんな世界がなのはを待つ。
その癖、自分の内側で燃え盛る炎はずっと消えないだろう事も簡単に予想が出来るし、馬鹿らしいくらいにはっきりと言い切れる。
おおげさな、なんて、しかし思えない。
自分は、どうしてもそういう人間で。自分の愛は、どうしてもそういう類のもので。
誰に言われなくたって、自覚はある。
これが病的に依存じみた、異常なものだという事くらい。
もとより相手が相手でまともな恋でも愛でもないのに、それに加えて想いの向け方までおかしい。
まっとうな人間から見て、狂っているかいないかでいえば、多分、きっと前者なのだろう。
もう手加減も、火加減もしない。全力全開で、自分の愛を伝え続ける。
かつて、そう誓った。
その想いは、今も変わっていない。
だけどそれは、心が軋まない事を、決して意味しない。燃え盛り続ける炎は強すぎるその熱でもって、なのはの内側を常に炙り続け、ひりつく痛みを与え続けているのだ。
高町なのははもう、そういう風に出来ているし、そういう風にしか生きられない。
「……だけ、ど」
そう、だけど。
だけどせめて、自分のあまりに身勝手な欲望で、最愛の人を縛り付ける事だけはしたくなかった。
誰よりあの人には、笑顔でいて欲しいから。
行って欲しくないと思いながら、立ち止まって欲しくないと願う。
暴れ回る炎と、相反する想い。
そんなものを抱えて、せめて平気な顔で、何でもない顔で、なのはは日常を生きている。
「恭也! ここだよー!」
「……また無防備な」
指定された喫茶店に入ると、窓際の席にその姿はあった。金髪を春風に揺らす彼女の、伊達眼鏡ごしの瞳はまっすぐこちらを見ている。
店員に一言告げてから、恭也は彼女、フィアッセ・クリステラの対面に座った。
「いくら変装していても、そう堂々と声をあげたら場合によっては簡単にバレるぞ」
「えー、歌声ならともかく、普段の声なんてそんなに覚えられてないよ。私はあくまで歌手だからね」
「わからんでもないが、そこには世界的なという枕言葉も付くだろう。ああ、コーヒーをお願いします。ブラックで」
注文を取りに来てくれた店員に答えつつ、フィアッセにため息をつく。
「もう少し、警戒心を持ってくれ」
「恭也は心配症だ」
「職業柄な」
「そっか、そうだよね」
護衛業というのは、とびきり心配症くらいでちょうどいいものだ。
「あれ、だけどもう護衛はやめるんだよね?」
「少なくとも、フリーのそれではなくなるな。組織に入るから」
「……CSSとしては、いざというとき一番頼れる人にもう頼めなくなるのは残念だけど……でも、うん、恭也ならきっと、そっちでもたくさんの人を護るんだよね」
「頑張ってみようとは思う」
仕事の内容は未だに不透明で、微妙に不安もあるのだが、やれるだけの事はやろうという気概くらいは持っていたい。
「だが、なにかあれば遠慮なくすぐに呼べ。跳んでいくし、飛んでいく」
「え、い、いいの? 副業になっちゃうよ? 恭也のなる管理局員さんって公務員みたいなものなんでしょ……? 駄目なんじゃ……」
「あー……どうだったかな。まあ、お咎めを食らうならその時はその時だ」
無償で受ければ副業うんぬんは特に問題はないのだろうが、それはそれで、きちんとした営利団体であるCSS側としてはボランティアで護衛をしてもらうわけにはいかない事情が色々とあるのだ。
「真面目なくせに、相変わらず変なところでいい加減なんだから」
「姉に似たんだ」
「も、もう! 人のせいにしないの!」
怒ったような口調でも、なかなか迫力が出ないのは相変わらずのようだった。
ステージの上では天使のような彼女だが、そこを降りれば割と庶民的で親しみやすいという事実は、いったいどれくらいの人間が知っているのだろうか。
「あ、そうだそうだ。それはそれとして今日の本題! はい、恭也」
「ああ、ありがとう。……本当にすまないな。わざわざ」
「私が直接会いたかったんだよ。会って手渡したかったの」
紙袋を恭也へ差し出しながらのフィアッセは、そう言って穏やかに笑う。
「開けても?」
「うん、もちろん」
「じゃあ………」
断ってから紙袋の中、さらに包んでいたもう一枚の梱包用紙を出来る限り丁寧に取り去ると、出てきたのは品のいい黒のテイラージャケットだった。カジュアルな私服としても、多少フォーマルな場面の上着としても使えそうなデザインだ。
選んだ人間のセンスの良さと、自分の趣味への理解の深さがよくわかる一品だった。
「うん。ありがとう、大事に着させてもらおう。ストレートに俺の趣味だ」
「ふふ、伊達に長くお姉さんやってないよ」
こちらが一目見て気に入るということくらいわかっていたのだろうが、それでも彼女は嬉しそうに笑ってくれた。
「恭也が女の子のデートする時になって、着ていく服に困ったら大変だと思ってね」
「ありがたい心配りだ」
いたずらなそんなセリフには、苦笑を返すしかない。
昔、確かに女性として好きだった人に贈られるものとしては、言われる言葉としては客観的に見れば痛いのかもしれないが、主観的には心が波立つことはない。
それは、この恋が穏やかに終わったからだろうか。
「だが残念ながら、そんな機会は相変わらずありそうにない。そっちと違ってモテないんだ」
「……うーん、恭也のそれってもう治らないのかなあ」
「……異性に人気がないことを病気のように言われると、さすがに俺も多少傷つくぞ、姉よ」
「違うよ、そうじゃなくて…………ねえ恭也、本当に誰か相手、出来そうにないの?」
「逆に聞くが、出来そうに見えるか?」
恭也の問いに、彼女はこくりとはっきり頷いた。
「私にはずうっと、そう見えているよ」
「案外と、ふしあなだ」
人間関係の機微には敏いはずの姉だが、ずいぶんと的はずれな見解である。
「恭也さえその気になればすぐに…………いや、でも」
「フィアッセ?」
「そうならない方が、いいのかな……だって」
真剣な顔、何かを考えこんでいるらしい。察するのは無理そうだなと思いながら眺めていると、コーヒーが届けられた。
いつもどおり、砂糖もミルクも入れずに味わう事にする。
「……そう言えば紅茶じゃないんだね、恭也」
「ああ。家の味に慣れてしまっていると、あまり外で飲む気になれないんだ」
「恭也も桃子も、淹れるの上手いもんね。それじゃあそうなるか」
うんうんと納得したように頷くフィアッセに、しかし恭也は首を振る。
「いや、最近はなのはがよく淹れてくれる。俺が寝ている五年の内にずいぶん上達したらしくてな、我が妹ながらあれはなかなかの腕だ」
「あ、そうなんだ。へえ、なのはが……」
自分が淹れる紅茶を嬉しそうに飲んでくれる姿が印象的だったものだが、長い眠りから目覚めてみれば、淹れる側としてずいぶん一端になっていて驚いたものだ。
「ねえ恭也、前に会った時も少しこんな話はしたけど、驚いたでしょ。なのは、すっごく……」
「ああ、随分と大きくなって」
「うん、大きくなって、それですっごく、―――綺麗になった」
フィアッセは、自分の手元のカップの中を覗き込みながら、そう言った。
「……綺麗に?」
「うん、綺麗に」
「……それは、……どうなんだろうな」
首を捻る。
照れくさいからもちろん言うことはないが、あの妹のことは抜群にと言っていいくらいの器量良しだと思っている。
そう思っては、いるが。
「あいつは、その、いわゆる……まあ、なんだ。綺麗というよりは、だから、あー、……可愛らしいとか、そういう方向性に見えるんだが」
「そんなに照れながら言わなくても」
「……柄じゃないんだ」
少しいじけたような口調になってしまったのも恥ずかしくて、コーヒーを飲んでごまかす。
「確かになのはは桃子にそっくりで可愛いらしいけど、でも、やっぱりすごく綺麗になったよ」
「……そうか?」
なのはの顔を思い出す。それは愛らしい笑みの咲いたもので。
(……綺麗、か)
その形容に首を振ることはないが、捻るくらいはしてしまう。どうしても、そういう風にはなかなか認識されない。
「わからない?」
「すまん、どうもピンとこない」
「そっか」
少しだけまゆをハの字にして、フィアッセは頷いた。
「高町家で一番綺麗になったと言うと、俺としてはレンなのではないかと思うんだが」
「あーっ、レンね! すごいでしょ! 文句なしの美人さんになったよねえ。スタイルもいいし」
「俺はまだ疑っているからな、あれは別人なのではないかと」
「怒られるよ?」
「言う度、突っ込みを入れられている」
その鋭さから確かに、間違いなく彼女だとは思う。
「晶もずいぶんと女性らしくなったし、まあ、……馬鹿弟子も、美沙斗さんの娘という感じだ」
「皆、大人になったでしょう?」
「ああ、まったくな」
自分がこの家を、この家族たちを支えてやらなければならない。
ずっと持っていたそんなふうな気概が自然と消え去っていったくらいには、彼女たちはもう立派に成長し、自分の道を歩いていた。
「……もう、大丈夫なんだろうと思う」
「恭也?」
「五年前ですら思っていた事なんだが……高町家は、大丈夫なんだろう。俺がいなくとも、もう大丈夫だ」
「……うん、そうかもね」
寂しさがないなんて、決して言えない。家族を護る事は、恭也の人生の中であまりに大きなウェイトを占め続けてきたのだから。
だけどやはり、大切な人達がしっかりと自分の道を自分の足で歩き始める姿は、何よりの宝物に思えた。
「……恭也は、これからどうするの?」
「予想は付いているんだろう?」
「まあね、だから確認」
この姉は、自分の事や家族の事については、実に鋭い。やはりと言うべきだろうか、恭也の問いにフィアッセは頷いてきた。
「家を出る。あっちで一人、部屋を借りて暮らすつもりだ」
「そっか……」
いい機会、なんだろうと思う。
結局自分は、家族にきっと依存して生きてきた。今までは彼らが自分の力を必要とするくらいには不安定であったから、それはそれでよかったのだろうが、つまり今となっては少々、断つべきものと思えてしまう。
「うん、そっか……でも、ちょっと心配」
「成人している男の一人暮らしだ。何も心配する事なんてなかろう」
「恭也が一人であれが出来ないこれが出来ないって困るようには見えないよ。見えないけどさ、……うーん、でも、それでも一人は寂しいでしょ?」
「あのな……」
あんまりなその言葉に思わず頭を抑える。
「俺を何歳だと思っているんだ」
「何歳でも、だよ。いくつになったって、寂しいって感情は変わらないでしょ? 特に恭也はすっごく寂しがりやなんだから」
「……」
そう面と向かってはっきりと言われると、中々に情けないものがある。あるがしかし、たしかにそれは事実と言えば事実だろう。
人を斬り、人を護って生きる自分は、どうしようもなく人が恋しい。それを、フィアッセはわかっているのだ。
「……寂しいからといって、死ぬわけでもない」
「だからって、ちゃんと生きていけるわけでもないよ」
「……そうかもしれんがな」
なかなか、耳に痛い言葉だ。苦笑を零したこちらに、そして彼女は言った。
「だからさ、提案があるんだ」
「提案?」
「うん、提案。恭也は、自分はあの家を出るべきだと考えてる。だけど、一人で住むのは本当は寂しい。だったら、さ―――」
「お帰り、おにいちゃん」
「ああ、ただいま。……他の皆の気配がないが」
「お母さんはいつもどおりお店。お姉ちゃんは買い物で、レンちゃんと晶ちゃんは課題提出が近いからって図書館に行っているよ。……ていうか、そっちこそフィアッセさんは?」
夕暮れ時に帰ってきた兄を玄関先で出迎えつつ、なのはは彼が一人である事に問いを向けた。てっきり、当たり前のように二人で来ると思っていたのだが、どういう事だろう。
「驚け、なのは。フィアッセはもう帰った」
「……え?」
「もらえた中休みとやらは、一と半日だけだったらしい」
「そ、え、……イギリス、から来たんだよね? ツアー中だけど、直前のライブは確かロンドン……」
「そうだ」
靴を脱ぎ、玄関へ上がった彼とともにリビングへ向かいつつ、なのはは驚きのまま、言う。
「イギリスからここまで飛行機で12時間かかるのに……」
「それにもろもろの時間を加えれば、行って帰ってで丸一日以上かかるな。だから、こっちに居られるのはもとから数時間だったらしい」
「……おにいちゃんに、それを手渡すためだけに?」
「まったくな。ああそうだ、これは部屋にしまってこよう」
「え、あ、待って待って」
リビングに着くなり、踵を返して出て行こうとする兄を引き止める。
「なんだ?」
「……その、何、もらったのかなって」
「見るか?」
それに頷くと、兄は紙袋から黒いジャケットを取り出し、広げて見せてくれる。
「あ、かっこいいっ」
思わず言ってしまうくらい、センスの良い品だった。装飾やなにかで無闇に飾っているわけではない、作りの上品さで勝負しているらしいそのジャケットは、着た姿を見ずともに兄に似合うだろうことがすぐにわかった。
「そうか? うん、俺も気に入っているんだ。さすがはフィアッセだ」
兄も、満足気に頷いている。
"さすがなのは、恭也のことよくわかってるね"……電話越しに彼女は自分にそう言ったが、それはそっくりそのまま、返すべきセリフなんだろう。
なにせ彼女は、兄とは自分が生まれる前からの付き合いだ。
「まあだが、……フィアッセが来てくれたのは、これを渡すためだけというわけじゃあなかったみたいなんだがな」
「え?」
「……なのは、これを置いてきたら、これからの事について少し大事な話をしたい。いいか?」
「え、…………う、うん」
「ありがとう。ちょっと待っていてくれ」
兄はそう言い残して、紙袋とジャケットを手に自分の部屋へと向かって行った。
「…………」
(……大事な、話?)
その後ろ姿を見るなのはは、自分の頭が少しずつ、しかし確かに煮立っていくのを自覚している。
フィアッセに、会いに行って。
そして帰ってきた彼が、これからの事について大事な話をしたいと言う。
それは、嫌な予想を育ててしまうに、あまりに十分だった。
(……この家を、出て。それで、それで……もしかして)
手先が冷たくなっていく。
(フィアッセさん、と、……一緒に、住む、んじゃ)
新しい仕事に就く事を契機に、兄は家を出ようと考えている。その先はてっきりミッドチルダだと思っていたが、実際の所、固定の転移ポートを作ってしまえばこちらから通うにしたってそう大変な事じゃない。現にそれは今、なのはがやっている。
仕事としてはもう、護れなくなったから。
だから、プライベートを共にして、護る。
それは家族として―――あるいは、一人の男性として?
「……っ」
落ち着けと頭を振ってから、何か手慣れた動作をしようと思い立ち、紅茶を淹れる事にする。
台所へ立ち、お湯を沸かす。小さめの容器なので、すぐにボコボコと沸騰を始めた。
一旦、そのお湯をティーポットと二人分のティーカップに注ぎ、温める。こうする事でいざ本番のためにお湯を淹れた時、その温度が下がる事を防ぐのだ。
何度のお湯で何分蒸らすか。その組み合わせが紅茶を淹れる時には一番大切。だから温度管理は慎重に、緻密に、丁寧に。そう教えてくれたのは、あの優しく穏やかで、天使のようなイギリス生まれの金髪の女性。
「…………っ」
落ち着け、落ち着け。
兄と向かい合うその時は、なんでもない顔をしなければならないのだから。
心配させてはいけない。それで彼を思いとどまらせるなんて、絶対に駄目だ。
ティーポットのお湯を捨てて、茶葉をスプーンで二杯。そこへ、改めて沸騰したお湯を高いところから注ぎ込む。
「……ぁ」
少し、こぼしてしまった。こんなミス、普段は絶対しないのに。
注ぎ終えてから、こぼれた分のお湯を拭き取る。ため息すら、出なかった。
「なのは? ああ、茶を淹れてくれているのか?」
「うん、ちょっと待っててね」
リビングに戻ってきた彼にそう答えた自分の声が震えていなかったのは、さすがにこの手の不安を日々抱えて生きていないからだろうか。
表面を取り繕う事だけは、得意なのだ。
ティーポットとソーサー付きのカップを一緒にトレイに乗せて、テーブルの席に着いた兄のところへ。
「お待たせしました」
ウェイトレスよろしくそう言って、ちょうど頃合いだ。二つのカップにティーポットからお茶を最後の一滴まできちんと注いで、ソーサーごと一つを兄の前へ。
もう一つをその対面に置いて、なのはも席に着いた。
「悪いな、それにしても見事な手際だ」
「喫茶店の娘ですから」
「茶を淹れる事だけならもう、母さんや俺よりも上かもな。……うん、美味い」
自身、しっかりと紅茶を淹れる事が出来、舌も肥えている兄がそう言ってくれるのはやはり誇らしく。
だけどなにより、この人に喜んでもらえるという、その事がただ嬉しい。微笑む顔を見たい。
なのはは、それだけのために紅茶の淹れ方を覚えたのだ。
自分でも口を付けてみて、八十点くらいだろうかなと自己採点。百点は、……フィアッセ・クリステラの淹れるもの。
「それで、話なんだがな」
「うん」
暴れ回る心臓と裏腹に、なのはの顔はにこりと笑った。
「俺は、そのうちにこの家を出ようと思っているんだが……それは、もしかしてわかっていたか?」
「……うん、薄々」
はっきりと言われたわけではないが、それをニュアンスとして含む事を何度か兄は言っていたし、もともと綺麗に整理されていた部屋も、より整頓が進んでいる。なのはにしてみれば、気付かないわけのない事だった。
「そうか。それでな、実は」
カン、と。
なのはの手元で音がなった。
「あ、ご、ごめんね」
震えた手が、柔らかくカップをソーサーの上へ落とせずに、ぶつかって甲高い音を鳴らしたらしい。
「大丈夫か?」
「うん。割れてないし、こぼれてもいないし」
「……茶はそうだが、…………顔色が悪い」
「……そ、うかな?」
こちらを見る兄の顔は、気遣わしげな色に満ちていた。
(……やっちゃった)
こういう顔を、させたくなかったのに。
「なんだろう、寝不足かなあ」
「……無理はするなよ」
「うん、わかってる」
「……」
兄の顔は、まだ気遣わしげだ。それは小さな表情だが、なのはにははっきりわかる。
「おにいちゃん、お話の続きは?」
だから、促す。
聞きたくない話を、それでも。
「……ああ。それでな、フィアッセに言われて、色々考えたんだが」
なのはの顔を見つめ、その後にすこしだけ長く眼を瞑ってから、兄は続ける。
「いい案だなと、……まあ、俺としては思ったというかな」
「へえ、そうなんだ。随分素敵なアイディアなんだね」
取り繕うなのはの視界は、嫌な揺れを見せている。
「なあ、なのは」
言わないで。
「うん、なあに?」
聞きたくない。知りたくない。
嫌だ。嫌だ、絶対に、嫌だ。
なのはは、言葉を飲み込む。
ずっと、傍にいさせて。
そんな想いを、こぼさないように飲み込んで。
そして、兄は言った。
「二人で、暮らさないか?」
「……………………………………………………え?」
「今すぐに、というわけじゃないんだが……おい、なのは」
「…………………………………………」
「茶をこぼしているぞ」
「……………………え、あ!?」
手元、カップが自分の側へ傾いてはいけない角度で傾いていて。盛大にその中身をテーブルの上にこぼしていた。
「あ、ふ、ふかなきゃ……」
「じっとしてろ」
言うが早いか、兄は素早く立ち上がり、台所から布巾をもってきてくれた。
「身体や服にはかかってないか? 火傷は?」
「だ、大丈夫」
「そうか」
手際よく、零れた紅茶が拭き取られていく。あっという間に、テーブルの上は平穏な状態に戻った。
「……そんなに驚かなくともよくはないか」
言いながら、兄は汚れた布巾を台所へ持って行き、水で流し始めた。
「……だ、って」
自分のつぶやきは、彼の耳には小さ過ぎて届いてはいないだろう。
「二人で、……二人で」
呟いて。
自分の愚かさを思い知る。既に嫌というほどわかっていたつもりだが、それでも驚く。
こんなに、自分は馬鹿なのか。
冷えていた身体がその指先まで、今は熱い。
どくどくと脈打つ心臓は、浮かれている音色。
意識がちゃんと言われた事を理解するより先に、身体がもう、喜んでいる。
二人で、暮らす?
自分が、……兄と?
「……でも、なん、で?」
しかし頭は未だ、言われた事を上手く飲み込んでいない。
なぜそんな、とてつもない幸福が予想もしない形とタイミングで降ってくるのかが、わからない。
「……嫌か? すまん、無理強いは決してしないから」
リビングに帰ってきた兄が、テーブルの席に着くなりそう言った。
「ち、違う! 違います! 嫌なんかじゃ、絶対なくって! ……で、でも、その、なんでいきなりっ」
「まあ、なんというかな……。お前は、こっちで高校に通うつもりはないんだろう?」
その問いに、なのはは正直に頷く。
「中等部を卒業したら、管理局の仕事に専念しようと思ってるけど……」
「そうしたら、ミッドチルダに移住する事も選択肢としてはあるだろう」
「う、うん」
兄がこの家にいる限りそのつもりは微塵もないのだが、そうでないのなら確かに、やはり利便性などを考えればミッドチルダに住んでしまった方がいい事はいい。
それに、慣れ親しんだこの家を離れるのは寂しいけれど、だからこそ大人になるための通過儀礼としてそれは済まさなければならない事の一つだと思うというのも、少しある。
「それなら、二人でミッドチルダに部屋を借りて一緒に住まないかという、そういう相談だ。あくまで相談、提案だぞ」
「お、にいちゃんは、えと、でも、すぐにここを出るつもりだったんじゃ」
「まあ、そうだな。確かにもともとは、正式に就任したらもう出ようと思っていたんだが……」
紅茶で一旦口を湿してから、彼は続ける。
「お前がもし、この提案を受け入れてくれるようならそれを少し、具体的には一年ほど待って、お前とタイミングを合わせてこの家を出る事にしようかと思う」
「…………え、と」
理解が、ようやく理性まで届いて。
「ええ、と」
混乱で、少しクラクラしだす。
だって、こんなの……―――あまりに自分にとって都合の良い話だ。
だからこそ、飛びつくのを躊躇ってしまって。
「……悪いな、いきなりこんな話を。それから、これを」
「……? なに、これ?」
「手紙らしい。フィアッセからだ」
「……え?」
そして兄が手渡してきたのは、一通の封筒。告げられた送り主の名前に呆然としながら、手は封を切っていた。
「もちろん、俺は中を一切知らん。……なのはにだけ伝えたい事があるというのは変な話でもなんでもないにせ、何も手紙でなんて渡さなくともメールがあるだろうとは言ったんだが、今、こうしてこの話をしたタイミングで読んで欲しいからとかなんとか言っていてな」
よくわからん。
兄はそう結んで、また紅茶に口を付けた。
なのはの手は彼の前、封筒から出てきた便箋を自分にだけ見える角度で、少し震えながら広げて。
『驚いた? いきなりの話でびっくりしてるよね』
それは、そんな書き出しから始まっていた。
『あのね、今日、恭也が向こうに一人で住むつもりだって話を聞いたの。それで私、それは駄目だなーって思って。だって恭也、すっごく寂しがり屋じゃない? 器用だから一人で大抵の事はできちゃうけど、それでも誰かの傍にいないと、誰かが傍にいないと駄目な子なんだ』
まるで、彼女そのもののような、綺麗な字。
『じゃあ誰が傍にいるべきかって考えて、私にはやっぱり、たった一人しか思い浮かばなかった。だってそうだよ、恭也が誰と居て一番幸せそうかなんて、高町家は皆、わかってる』
丁寧な口調で、彼女らしい筆跡で、それは語りかけてくる。
『だから、なのは。恭也をよろしくね―――なんて、そんな言い方は失礼だね』
「……っ」
なのはが今まで聞いた事のない、しかし確かに、フィアッセ・クリステラのものであるらしい気持ちを。
『だってこれじゃあまるで、恭也が私のものみたい。だってこれじゃあまるで、私がなのはよりも恭也に近いみたい。それは、違うと思う』
違うの、だろうか。それこそ違うと、自分はずっと思ってきたのに。
『だから、願ってるって、祈ってるって、そんな言い方をしたいと思う。お互いを必要とし合う二人が、二人一緒に幸せになることを』
いいの、だろうか。こんな幸せを、自分は掴んでしまって。
なにより、それをあなたに願って、祈ってもらって。
『もし迷っているのなら、なのは。ちょっとだけ私の、私についての話を聞いて。ほんのちょっとだから、読んでくれると嬉しい』
しかしそんななのはの迷いを見透かすように、文は続いて。
それは、書かれていた。
『私は、恭也が好きだった』
その想いは、記されていた。
『男の子として、私は確かに、フィアッセ・クリステラは確かに、高町恭也が好きだった』
少しだけ、ほんの少しだけ文字は揺れているけれど、それでも誤魔化さない言い方で、それは綴られていた。
『でもね、なのは。私は家族になった。私の「好き」は、家族としての「好き」になった。女の子として出会った私の、女の子としての「好き」って気持ちは、家族としてのものに落ち着いたよ』
彼女の声が、聞こえるようだった。
『それは、全然悲しくなくて。それは、ちょっとだけ悔しくて。それは、今もどこか寂しい』
あの美しい声が、柔らかく、でも少し切ないあの音色が鳴っているようだった。
『だけど、納得をしている。私達は、こうなんだって。私の「好き」は、私達の「好き」は、こうなんだって』
非現実的なまでに魅惑的な歌声と違って、それはあまりに等身大。
『私の話は、これでおしまい』
なのはが身近で感じてきた、フィアッセ・クリステラのままの言葉。
『だけど、だから。ねえ、なのは』
そんな彼女は、最後に問う。
『あなたは、あなたの「好き」を、どうするの?』
「―――ぁ」
手紙の本文は、そんな最後で終わっていた。
(フィアッセ、さん……)
知って、いたのだ。
つまり彼女は、知っていたのだ。
きっと、昔からずっと。
「……なのは?」
兄が、声を漏らしたこちらを見る。
その顔を、見返して思う。
この「好き」を、どうするのか。
どう、したいのか。
「……おにいちゃん」
そんなの、決まってる。
「私、おにいちゃんと一緒がいいよ」
「……それは」
「私も、二人で一緒に暮らしたい。だってね、私……」
すうっと息を吸い、まっすぐに彼の瞳を射抜いて、言った。
「あなたと、離れたくない」
兄が彼にしては珍しくはっきりと、その眼を瞠った。
それはそうだ、だってこんな呼び方を、言い方を、したことなんて今までなかった。
「駄目かな?」
「……俺から言い出したことだぞ? 駄目なわけがあるか」
「……嬉しい」
気持ちのままに笑みを浮かべ、口に出して伝える。
こうしていたらいつか、告げられるときが来るだろうか。
自分の、この「好き」を。
問題なんて山ほどあって、望みなんて限りなく薄いけど。
それでもどうしようもなく、自分の人生を貫いている、この「好き」を。
「…………なるほど」
「え、なに?」
「いや、……フィアッセの言っていた事が、ようやく少しわかった気がする」
「どういう事?」
自分の問いに、しかし兄は微笑みながら首を振った。
なんだろうか。気になるけれど、兄は言わないと決めたら言わない人なので、追求するのはやめておこう。
「……ねえおにいちゃん、フィアッセさんが飛行機降りるのってこっちでいうと何時くらいかな」
「そうだな……一時間ほど前、五時くらいに乗ったから十二時間後の朝の五時だな」
「朝の五時かあ、起きられるかなあ」
時差は九時間なので、あちらは夜の八時。一応、迷惑な時間帯ではないだろう。
「なんだ、フィアッセに電話でもするのか?」
「うん。……おにいちゃんは答えてくれなさそうだから、フィアッセさんにと思って」
「お前の部屋の目覚ましは今日から飛針の的だ」
「ちょっと!」
なんとも物騒な事を言い出した兄に抗議をしながら。
なのは瞳はちらりと、手に持った彼女からの手紙、その一番下を見る。
本文の後、追伸として書かれたその一文を見て、思う。
(……いろいろ、聞いてみよう)
高町なのはは、フィアッセ・クリステラときっと、もしかしたら初めて、腹を割って話せるのかもしれない。
『P.S.』
『あのとき、怖がらせちゃってごめんね』
ネット界隈で昔からそれなりに語られてきた、「なのははフィアッセを恨んでいたの?」問題に対する、この作品における回答が以上の話になります。
恨んではいないし大好きだけど、妬ましくて怖くて憎い、みたいな。
時系列的には恭也さんが訓練校を卒業して、特武官として就任する直前くらい。
フィアッセがランキング外だった理由は、20.7話でもそのような事が描かれていましたが、これだけ脅威である彼女なら恭也とどうにかなるのだったらもうとっくになっているはずで、そうなっていないのならもうそういう関係にはならないという事だろうと判断していたからです。
まあ今回、そう思っていてもなお揺れたわけですが。
こんなに暗い話を上げるのはどうなんだとも思いましたが、こういうのが好きな層もいると信じて投稿。僕は大好きです。
ちなみにこれよりもなお、数段階ヘビーな短編がもう一つあるんですが、やり過ぎると痛い目を見るとHeartの1話目、2話目で学んだので、少なくともこっちでは封印処理が決定しました。
R17.9くらいの内容でちょっとエロ過ぎると判断されてこっちで載せてない第7.5話みたいなもんです。
次回からいよいよStingerSに入ります。