魔法青年リリカル恭也Joker   作:アルミ袴

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 この作品には原作設定の拡大・独自解釈も含まれます。申し訳有りませんが、原作設定の絶対的な遵守をお求めの方、ご自分の解釈を非常に大切にされている方のご要望にはお応えしかねる場合があります。該当される方はご自身の責任における判断で閲覧されるかどうかお決め下さい。よろしくお願い致します。


第28話 じゃあ、だめなんですか?

「……どうしよう、かなあ」

 呟いた自分の声が、春先の少しぬるい夜の空気に溶けていった。

 手に持った愛銃には、自主練メニューであるターゲットトレーニングのプログラムをインストールしてある。

 始めるのなら、いつでも始められる状態だ。

「……うー」

 呻いて、ティアナは顔を伏せる。

 力が足りない。

 この機動六課にきてからこっち、ティアナの心にはそんな焦りが棲みついていて、今日はそれに大きく躓いてしまった。

 躓いて、そのまま身を投げ出して、大馬鹿をやってしまった。

 オークションの行われる施設を警備、それが今日の任務だった。会場であるホテル・アグスタという建物の中には内警護としてスターズ、ライトニング、そして機動六課の総隊長が入り、副隊長陣とフォワードメンバーであるティアナたちは外警護に就いた。

 結局、悪い方の予想通りと言うべきか、事は戦闘に発展。

 以前の暴走列車鎮圧任務の時にも現れたガジェットと呼ばれる自律戦闘機械が骨董品をレリックと誤認して奪いに来た。

 次々と、易易と、リミッターの掛かった身で敵をすり潰し斬り裂いていく副隊長陣の姿に、思ったのだ。

 私だって、と。

 だけどそれは、驕りでは決してなかった。あれはもっと無様な、きっとただの焦りだ。

 焦って焦って、自分も価値を示さなくてはと、自分の価値を示さなくてはと、その一心だけで引き金を引いて。

"ティアナ! この馬鹿ッ!"

 結局、その弾が向かったのは。

"無茶やった上に味方撃ってどうすんだッ!!"

"……ぁ"

 敵でもなく自分の行く道を塞ぐ劣等感でもなく、共に戦う仲間だった。

"あの、ヴィータ副隊長、今のも、その……コンビネーションの内でっ"

 自分に撃たれかけた彼女は、そう言ってこちらをかばってくれたけど、

"ふざけろタコ……直撃コースだよ今のは!"

 激高するその人、スターズ副隊長ヴィータが間に入ってくれなければ、頑丈とはいえ人の身である友人を、傷つけていた事は確実だ。

 無茶をした。無茶苦茶をやった。

 制御もできないくせに四発もカートリッジをロードして、とにかくと撃ちまくった。自分では、きっとそれなりにコントロール出来ると思っていたんだから救いようがない。

 スバルは、怒らなかった。ただただ、こちらを心配してくれた。

 それが、泣きたくなるくらいに情けなくって、彼女にさえ辛く当たった。

 何をしているんだろうと思った。

 どうしてこうなったんだろうと思った。

 そして、行き着いた答えはやっぱり、当たり前のように、"力が足りない"というものだった。

 特導官にはこの前、自信を持てなんて言われたけれど、事実として、やはり自分は脆弱なのだ。

 だから、現場で事後処理にあたりながら、沈む頭で思った。

 朝から晩まで頭も身体もくたくたになるくらいの猛練習を毎日積んでいるけれど、それだけでは足りないと。

 自己鍛錬が必要だ。

 天才と違って凡人は、綺麗に技を磨いている余裕なんてない。身を削る勢いで、自分の形と価値を作っていかなければならないのだ。

 なんて、思っていたのに。

"ごめんね、ティアナ"

 その人は、そう言った。

 こちらをまっすぐに見ながら、その人はそう言った。

"……不安、なんだよね。焦っちゃってるんだよね。ごめんね、私のメニューって、わかりづらいよね"

"……いえ、そんな"

"ううん、私も、そうだと思うもの。基礎と基本の繰り返しで、目新しい技が増えるわけでもなくって、辛さの割に、実感が見えてこない。割に合わないって言われても、仕方ないとすら思う"

 検証の進められる現場の隅、エースオブエースはやっぱりまた、ごめんねと言った。

 高町なのはは、ティアナ・ランスターに謝るのだ。

"色々、考えてはいるんだ。これからティアナが、六課の任務の事だけじゃなくって、その先も堂々と歩いていけるように。色々、教えようとは思ってるんだ。でもね"

 誠実な、ただただ真摯なその口調は、ひどく耳に痛かった。

"……でも、どこまで歩けるかよりも先に、それよりも、何よりも先に、ちゃんと帰ってこられるようになって欲しいんだ"

"……帰って、こられるように"

"うん。だって、だってさ"

 

 人なんて、簡単に死んじゃう。

 

 その言葉が、突き刺さった事をよく覚えている。

 いつものように帰ってくると疑うことすらしなかった兄が、しかしあっさりと帰ってこなかった事を、だって思い出させられたから。

"っ"

 どうしようもなく柔らかいところを、一番触れられたくないところを無遠慮に触れられたような気さえして、伏せ気味にしていた顔を上げて。

"ごめんね、こんな言い方をして"

"……い、え"

 なんて顔、してんのよ。

 それが、正直なティアナの感想だった。

 気丈で凛々しく、いつも背筋と理念に一筋芯の通った高町なのはの顔に、今まで一度だってティアナが認めたことのない色が浮かぶ。

 それは怯えのような、恐れのような、剥き出しで傷だらけの、生きた人間の痛みに溢れた顔だった。

"あの……"

"うん、なに?"

"……ええと"

 その愛らしい面に浮かんでいた、あまりに痛々しい表情はしかし、嘘だったかのように消え失せていて、それについて聞くことはどうしても憚られて。

 代わりに、問う。

"なのはさんは、……私を叱らないんですか?"

"その必要があればね。もうヴィータ副隊長がきつく言ってくれたみたいだし、そもそも自分自身に思い切りそうしている人を、また周りからつっついたって仕方ないよ"

 甘いのか、徹底しているのか、この人はよくわからない。

"だから、その代わりにお願い"

"お願い……ですか?"

 命令ではなくて? なんて毒を刺すのは、さすがに人間としてしたくなかった。

"うん、お願い。あのね、ティアナ。もうちょっとだけ、信じてくれないかな"

"それは……"

"自分自身の事を。それから、チームメイトの事を。そして、ごめんね、私の事を"

 その声は柔らかく、優しく、呆れるくらいに嫌味がなかった。

"ちゃんと、育ててみせるから。ティアナをティアナの夢に届くような立派な魔導師に、ちゃんと育ててみせるから。不安だろうと思う、焦るだろうと思う。地味で地道な私の今の訓練は、やりがいも達成感も薄い"

 厳しいところや怖いところもあるけれど、きっとこの人はそもそもの根っこが、どうしようもない善人なんだと、そう思わされる音色。

"だけど、必要なんだ、必要な助走なの。これから、遠く、高く飛ぶために。だから、お願い。どうか、信じて"

"……はい"

 上げていた顔を、俯くように頷かせて、彼女の言葉に答えた。

 だって、そうだ。

 その人の顔をもうまっすぐ、ティアナは見ている事が出来なかったから。

「……最悪、よね」

 意識を今に引き戻しながら、小さく、しかしはっきりと呟く。

 嬉しかった気持ちもある。わかってもらえた喜びが、そこになかったかと言えば、それは嘘になる。

 感謝もしている、尊敬もしている。こんな事言えたザマではないかもしれないが、信頼だってしている。

 だけど、だけど。

 ティアナは、ティアナ・ランスターが一番強く、高町なのはに対して抱いている感情が何かという事を、悲しいかな自覚してしまっている。

「……なんで」

 それは、いかにも情けなく、だからこそ根源的で拭えない代物。

「なんで、……なんであんな事言えるのよ」

 嫉妬と言う名の、醜い泥沼。

 だって、おかしいだろう。

 幼い頃から天才で、しかし驕らず努力も怠らず、現在のランクは空戦SS。実績は申し分なく、隊内での信頼も隊外での名声も確固たるものを得ている。

 そんな管理局きっての実力者、教導隊の誇るエースオブエースが、どうしてペーペーで凡庸な、その上隊に迷惑も掛けた愚か者に、あんなにまっすぐ謝れる?

 あんなに暖かい声音で、理解し合おうとしてくれる?

 どこまで人間が出来ていれば、そんな風になれるのだろう。

 彼女の言葉が、力持つものとしての傲慢でも、力なきものへの欺瞞でもないことくらいは、ちゃんとわかる。

 わかるから、わからない。

 どうしてそうあれるのか、わからない。

 こっちは、弱っちい自分自身に振り回されて無様に踊っているというのに。

 あの人が綺麗な気持ちを向けてくれるから、浮き彫りになる醜い自分が嫌になる。

 そして、そんな勝手な自分もまた、最高に無様で疎ましい。

 足掻けば足掻くほど、その泥沼に嵌っていくようで。

(……だから、私は)

 青い反発だってわかっている。

 わかっているけど、だからこそ、引き摺られて仕方ない。

 全てがあの人の優しさの通りになったら、それはあんまりに情けない気がして、だからやっぱり、自分で自分を鍛えてしまいたかった。

 でないと結局、なんにも得られない。そんな思いが、ティアナの身体に心に纏わって仕方ないのだ。

 でも、あのあまりに暖かい声を、気持ちを裏切るのは、それもとてつもなく嫌な気がして、思い切る事が出来ない。

 ぐるぐると堂々巡りで迷ったまま、ティアナはこの整備場裏手に広がる林の中、ずっと立ち尽くしている。

 曇り空、輝く星も見えなくて。

 どうするべきなのか、本当に決心がつかなくて、何度目かのため息を落としかけた時だった。

「……いつまでそうしているつもりだ?」

「……え?」

 その声に、振り返る。

 誰だ? なんて思う事はない。まだ何度も聴いたわけではないが、その人のそれはあまりに特徴的な甘さがある。

「と、…………特導官?」

 惑う事も間違える事もない、響いたのは高町恭也の声だった。

「随分と長いこと迷っているみたいだが、いい加減にしないと明日に響くぞ」

 まるで樹木の影から這い出てきたかのように、いつの間にか近くの木の幹に身体を預けるような姿勢で佇んでいたその人は、その切れ長の瞳でこちらを見ていた。

「い、いつの間に……」

 全然、まったく気が付かなかった。

 これでも周囲の変化には敏感な方であるという自負はあったのだが、撤回しなければならないだろうか。

「あ、い、いえ、その、どうしてこちらに……」

「日課というか癖というかな、周りの気配を時折、広範に読むんだ。そうしたら、こんな夜中のこんな所に人がいるようで、しかもじいっと動かないときた。さすがに少々気になって、見に来たんだ」

「そ、そうでしたか。それは、その、ご心配をお掛けしまして……」

(気配? 探知魔法でも打ったってこと? でも、そんなの感じなかったけど……)

 探知魔法は基本的にアクティブソナーのようなもので、自分を中心に広がる波を打ち、返ってくる反応で周囲の状況を探る。ゆえに、探知魔法を打つ行動は範囲内の人間には気づかれてしまう事が多い。

 よほどの名手であれば相手に悟らせない類のものを打つ事も出来るが、それは援護や支援系のスキルであり、ガチガチの近接戦闘系である高町恭也がその能力に優れているというのはなかなか違和感があるような気もする。

「今日の出撃」

「……っ」

「まあ、若者らしいと言うべきかな」

 責めるでもからかうでもない口調には、しかし重さがある。

 ずしりと、胸にのっかる重みがある。

「…………私は」

 項垂れて、なんと言葉を連ねるべきなのかすらわからない。

 私は、何がしたかったのだろう。

 やりたい事に、なりたい自分に、どんどん遠ざかっていくばかり。

 情けなくて情けなくて、だから、涙だけはせめて、見せたくなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 その姿には、見覚えがある。もう少し言えば、身に覚えもある。

(俺や美由希のような馬鹿が通る道だと思っていたが、存外賢い子も嵌るものだな)

 恭也の内心に呆れはない。そんな感情を抱く資格はない。

 劣等感、無力感、焦燥感。

 そんなもの達に取り憑かれ、足を取られて暴れ回り、結局傷つけるのは自分自身。

 自分も通って馬鹿を盛大にやらかして、弟子もそれなりに危ないところまで行った。

 ゆえに、なんとか自分で踏みとどまろうとしているこの子に上から目線で説教できる身でない事は、誰に言われずとも弁えている。

「ランスター二等陸士」

「は、はい……」

 だが、それでも、一応は先達だ。

 そちらの道は行き止まりだと、教えるくらいは許して欲しい。

「自己鍛錬でも始めるのかと思っていたのだが、違うのか?」

「……それは」

「そうだとしたら、普段それなりのメニューをこなしている身で、加えて休息を取るべき夜中にそんな事をすればどうなるのか、わからないようなタイプでもないように思っていたんだが、見当違いか?」

 恭也の言葉に、ティアナは拳をぎゅっと握りしめる。

「……馬鹿で、いいです」

「もったいのない事を言う」

「私は! 馬鹿でも! 馬鹿でも良いから強くなりたいんです! ならなきゃいけないんです!」

 張られた声には、声量の割に空気を揺らす力強さは宿っていない。それを切り裂く痛々しさが、どうしても勝る。

「そう思っているのなら、なぜ鍛錬を始めなかった?」

「……」

「教導官に言われた事を、飲み込むべきだと思っているから、ではないのか?」

「……ぅ」

 恭也はあの出撃の様子を司令室で見ていたし、その後の顛末まで含めて隊長陣から報告を受けている。だから、大体の事情はやはり察せる。

「しかし、べきだとは思っているが、そうしたくない気持ちもある。だから、どっちつかずで立ち尽くす」

 多分、この娘は元々素直で一途な子なのだろう。だからこそ、ねじ曲がり方もわかりやすい。

「頭ではこれはいけないとわかっている部分もある。だけど、感情はどうしても言うことを聞かない。それに従って結果さえ出せば、自分の理性が下した判断だって叩きのめせるとも思う……まあ、甘い誘惑ではある」

「……っ」

 キッと、ティアナがこちらをその意思の強さを感じさせる瞳で睨みつけてくる。

 説教出来る立場でないと思っている癖に結局言ってしまっているのだから、その鋭さは甘んじて受け止めるべきだろう。

「ランスター二等陸士、だがな、その誘惑はやはり、乗れば道を逸れる事になるだけだ」

「……さっきから!」

 瑞々しい、そう言ってはからかっているようだが、恭也からはやはりそう見えてしまう彼女の激高は速く熱い。

「さっきから、わかった風な事を仰られていますけど! こんなお決まりな台詞、言いたくはないですけど! ……貴方に私の何がわかるんですか!」

「劣等感の苦味、無力感の熱、焦燥感のやるせなさ、あたりだろうかな」

「……馬鹿にするのもいい加減にしてください。貴方に、そんな事わかるわけないでしょう」

 ティアナ・ランスターの釣り気味の瞳が、闇の中で光る。

「SSSの規格外に、再試験でやっとBランクを取れた凡才の、一体何がわかるんですか?」

「俺は元々、魔導師じゃない。今もあまり、そういうつもりはない」

「……どういう」

 体感で言えば、恭也は魔法を覚えてまだ五年である。剣一筋だった年月は、優にその三倍以上はある。

 今にしたって、御神流の中に魔法という要素を組み込んでいるという意識の方が強い。

 高町恭也の本質は、やはり御神流の剣士なのだ。

「俺は元々、御神流という流派の剣士だ。その道こそが、俺の本領で本域だ」

「……ツインのショートソードを使う剣術が戦闘スタイルの大元にあるという話は、聞き及んではいますけど」

「君にとっての魔法が、俺にとってのその御神流剣術だと思ってくれ。俺が自分の価値を一番示したいのは、示さなきゃならんのは、御神流の中だ」

 黙ってこちらの言葉の続きを待つティアナは、怪訝な顔だ。

「俺には、父がいた。俺に剣を教えてくれた、目指すべき背中である男がいた」

「……いた、というのは、じゃあ」

「そうだ。護衛の仕事をしていたんだがな、その中で逝った。君のお兄さんと同じように」

「……っ」

 ティーダ・ランスター。

 ティアナの実兄であり、両親を亡くしていた彼女にとって最後の身内だった人物。首都航空隊に所属していたエリート魔導師。

 執務官を目指す道半ば、犯罪者追跡任務でKIA。享年、21歳。

 恭也は書類上でしか知らないが、彼の死がティアナに異様な向上心と劣等感を植え付けたのは間違いない。

 そう言い切れるのは、それらがかつて恭也も慣れ親しんだ感情だからだ。

「なぜ俺に君の気持ちがわかるかと聞いたな? 簡単な話、同じ穴の狢だからだ」

「……私と、特導官が、ですか?」

 頷いて、恭也は続ける。

「父は、天才だった。その才に胡座を決してかかないという事まで含めて、紛うことなき天才剣士だった。今の魔法を使う高町恭也がどうあれ、純粋な剣士としては俺とは明らかに格の違う人だった」

「……」

「死んだ彼には、遺したものがあった。護ってきたものがあった。だから俺は、その技を、道を、剣を受け継ぐ俺は、代わりを果たさねばならないと思った。他の誰もいやしない、だから俺がやらねばならんと思った。……代わりが出来ると、示さなきゃならなかった。同じ高さに届きやしない未熟な腕で」

「……ぁ」

 ティアナが小さく声を漏らす。

 こちらの言わんとする事を、多少なり察してくれたようだった。

「それからの日々は、……まあ、惨めなものだったよ。どうしてもあの人に届かない劣等感で口の中はいつも苦くて、代わりの役目を上手く果たせない無力感で内臓は焼かれるように熱くて、だからだろうかな、目の前が暗くなるくらいの焦燥感に、馬鹿みたいに衝き動かされてしまった」

 恭也が彼女に語るこれは、経験談にして当然ながら失敗談。

「鍛錬をした。限界なんて完全に振りきって、鍛錬を重ねた。それしかなかったし、それが間違っていると疑う事すらしなかった。才能も実力もない俺に縋れたのは、努力だけだったんだ」

「……それで」

 なんだか随分いたたまれないような顔をして、身につまされているような顔をして、ティアナが問うてくる。

「それで、どうなったんですか……?」

「俺は、俺を殺してしまった。今でも、深く後悔している」

「え……」

 複雑な事情と展開が折り重なって結果的に、かつ奇跡的に完全な回復を遂げた右膝が、少し疼いた。

「ころ、した?」

「ああ。剣士としての、御神流剣士としての俺は、間違いなく誰でもない俺自身がその時、首を掻き切って殺したんだ」

 言いながら、恭也は少ししゃがんでズボンの右裾を膝上まで一気にまくり上げた。

「……っ」

「なあ、ランスター二等陸士。―――君もこうなるぞ」

 露わになった右膝には、大きく深く抉れた痕が踊る。機能は回復したものの、古傷としての見かけ上の欠損は残っているのだ。

「無茶をやって、俺は膝を壊した。膝は剣士の命だ。特に、御神流は脚の速さが生命線だからな、それをやっては生きていけない。少なくとも、もう一人前には届かない」

「……じゃあ」

「そうだ。父を目指し、自分の出来る全てをしようと足掻いた結果、決して届かない自分になった。自分を既に殺しておいて、さらに死にたくなる気分だったよ」

 君も、こうなるぞ。

 裾を戻しつつもう一度言った恭也に、ティアナは唇を噛んで俯く。

「今のように無茶をやり続ければ、遠からず君は俺の後輩になるかもしれん。最悪、致命的に、決定的に、お兄さんの後を追う事は出来なくなる」

「……」

「俺の膝は、決して良い事ばかりではない色々な偶然が重なって、壊してから十何年も経った後に奇跡的に治りはしたがな。だが、壊した事実、のたうち回った過去は消えんし、時間も決して戻らない。……この後悔の味は出来るならば生涯、知らない方が良い」

 今は治ったとは言え、もし自分が膝を壊していなかったら……という詮のない妄想に取り憑かれる夜は、それでもそれなりにある。

 そんなもの、自分よりも若い人間に味わって欲しくないと思うのは、それなりの歳になった証拠だろうか。

「…………でも」

 彼女は、俯いたまま、拳をぎゅっと握りしめて、揺れる声で言った。

「……じゃあ、だめなんですか?」

 訓練中は負けん気と勝ち気に彩られていた彼女の瞳から、ぽつりと一粒、不安の証が落ちる。

「だって、だって、さ、才能が、ないんですよ。そ、れで、ど、努力もっ、し、しちゃいけなかったら、だって、それじゃあ」

 ところどころをつっかえながら、彼女は続ける。ぐっと唇に力を入れた顔で目元を拭うその仕草は、ひどく痛々しく。

「な、なんにも、できないじゃないですか……っ、なんにも、なっ、ならないじゃないですか……! わたし、わたし、兄さんに、な、なにも、なにも……っ!」

 それでも、恭也は思う。

「そんなの、やだ……! ランスターの弾丸が、兄さんの魔法が、ばかにされたままなんてやだ……っ!」

 彼女の立ち姿を、ひどく愛おしいと思う。

「ランスターの弾丸は、ちゃんと敵を撃ち抜ける……!」

 涙に濡れて揺れながら、それでもティアナの言葉には力がある。

「兄さんの魔法は、ちゃんと誰かを護れる……!」

 訓練の中で見せた以上の、折れない引かない確かさがある。

「兄さんは、にいさんは……おにーちゃんはッ! やくたたずなんかじゃないッ!」

 魂から発したような熱が、血を吐くようなその声には宿っていた。

「だから、だから、だから、わたしは!」

「……そうだな」

 一歩、恭也は踏み込んで、その女の子の手を握る。硬く握りしめられて、青白く染まったその手を包む。

「……とくどうかん?」

「才能がなくったって、努力すら出来なくたって」

 フェイト以来だ、そう思った。

「だからと言って誓いまで、捨てなきゃならん道理なんてない」

「……え?」

 こんなにも自分に似ている人間と出会うのは、フェイト以来だと思った。

 彼女とはまた違った所で、しかし同じくらい、ティアナは自分とよく似ている。

 自身の未熟を憎む惨めさが、立てた誓いを腕がちぎれても放せないだろう強情さが、そんなどうしようもない人間性が、どうしようもなくよく似ている。

 今目の前で泣く女の子は、父の墓の前で刀を握りしめた、きっとあの日の自分なのだ。

「ランスター二等陸士、君がこの手に握ったものを、手放す必要はない」

「……で、でもっ」

「俺達がいる」

 口をついて出た言葉は思いの外、口幅ったいもので、しかし本音だ。

「なのはの訓練は確実に君の足場を固めている。それが強固であればあるほど、君は迷いなく遠く、高く飛べる。そして」

 闇夜の中、恭也は彼女の手を握ったまま、告げる。

「もし、君にその気があるのなら、一つ提案がある」

「……てい、あん?」

「ああ。……汚れた技だ、穢れた力だ、決して綺麗なものじゃない。だが、それでも、斬るべき敵を両断するに、不足はないと俺は信じている」

 なのはにも、フェイトにも、自分の一存で決めていいと、これは了解の取ってある話だ。

「ランスター二等陸士、君さえよければ」

 だから、あとは委ねよう。

 泣きながら、それでも護るべきもののためにその両足で立つ事を止めない、この娘の選択に委ねよう。

「御神の門を、叩いてみないか」

 

 

 

 

 

 

 

「すまないな、忙しいというのに」

「ううん、大丈夫。……実はね、ちょっと前にヴィータちゃんとシグナムさんも来たんですよ」

「そうだったのか」

 守護騎士、考えることは同じということか。

 分隊のそれぞれ副隊長を勤めている家族二人の顔を思い浮かべながら、リインフォースはそんな風に思った。

「リインフォースさんこそ、いろいろ調整で飛び回ってるみたいですけど」

「なに、役割分担というものだ。今日などは、現場に出なかったしな」

 交代部隊隊長であるリインフォースの仕事は、メインの隊が出撃に出た時の後詰めやらが主だが、他にも教会や他の遺物管理部との調整も多い。これは、ベルカと縁深いことや、もともと一から五課の管理部と仲が良い事によるものだ。

 今日も、ついさっきまでベルカ自治領区に出ていた。

「今日の顛末については移動中に確認をした。それで、少しな」

「うん……」

 リインフォースの言葉に、なのはは少し苦味のある顔で頷いた。

 ホテル・アグスタの件の後処理も一段落がつき、事務業務も切り上げ時の機動六課隊舎。

 リインフォースは寮の部屋へと帰りしなの彼女を捕まえて、面談室と呼ばれる個室に二人で入っていた。

「それで、話ってやっぱり」

「ああ、ティアナのことだ」

 テーブルを挟み、向い合って座りつつ、なのはに問う。

「若い魔導師が力にこだわるというのは珍しくもなんともない話だが、今日の様子を見る限り、あの娘のあれは少しばかり度を越して見える。余裕がなさすぎる、というべきだろうか」

 無茶なカートリッジロードを行い、制御の完全でない攻撃を敢行、仲間を誤射しかける。下手をすれば命にかかわる現場で、少しばかりの功名心でやってしまうには、少々重い行為に思えるのだ。

「あの娘は、なにを抱えているんだ?」

「……うん」

 なのはは、ティアナをスカウトする際にスターズの隊長として、そして教導官として他の隊員よりも多くの事を知っている。だからリインフォースは、今までは彼女がわかっているならば良いかと詳しいことを問うてこなかったのだが、さすがに今日の出撃の様子を見ているとそういうわけにもいかなかった。

「……ティアナにはね、お兄さんがいたんです。十一歳上で、両親のいなかったあの子にとって、お父さんお母さん代わりでもあった。ティーダ・ランスター一等空尉、首都航空隊所属の執務官志望」

 抑えているがゆえにだろう、妙にのっぺりとした口調で、なのはは始めた。

「一等空尉で首都航空隊か、なかなかのエリートだ」

 一等空尉まで登り、さらに所属が精鋭揃いの首都航空隊というのは文句なしに管理局の中でも一握りの存在である。

 執務官ではなく志望というのも、特にマイナス要素ではない。本気で目指しているというだけで、優秀な証明ですらある。執務官というのはそれほどの難関だ。

 十台の前半も前半に執務官資格を獲得したフェイトやクロノを見ていると常識が崩れそうになるが、彼らは一握りというか完全にイレギュラーであり、一般的な例では決してないのだ。

 ティーダ・ランスターは間違いなく、優秀な魔導師、

「犯罪魔導師追跡任務中、その対象と交戦してKIA。享年は21歳」

 だったのだろう。

「……」

「エリートだった。……だったんだけど、だからこそ、なのかな。ティアナの心に影を落としたのは、その葬儀の中だった。上官の一人がね、言ったらしいんです。"死ぬならせめて、相討ちくらいに持っていけばいいものを"、"首都航空隊の名折れだ"、"役立たず"、……みたいなことを」

「……よりにもよって肉親がいる前でか? いるところにはいるものだな、そんな下衆が」

 なかなか、胸糞の悪い話だ。隊の誇りがあるのだろうが、胸を張って見せる向きを完全に間違えている。

 戦いで散った死者に対して無礼な口を叩くなどというのは、ベルカ騎士のリインフォースからすれば完全に気の違った行為であるし、そうでなくとも唯一の家族である兄を失ったばかりの少女の前で、そんな台詞が吐けるというのは尋常な神経ではない。もちろん、悪い方向に振り切れて。

「代わりに自分が執務官になって、大好きなお兄さんの魔法が、お兄さん自身が、役立たずなんかじゃない事を証明するんだって、あの子はそれを一番の目的にしているんです。直接本人に私が聞いたわけじゃなくて、前の部隊の隊員さんなんかが教えてくれた事ですけど」

「……なるほど」

 大きな納得に、リインフォースは深く息を吐いた。

「それで、ああなったわけか。……全面的に理解した。納得だ」

 リインフォースの眼から見て、ティアナの身の上は上昇志向をこじらせる要因が十二分に揃っていると言える。

「親しいものの穢された名誉のためというのは、抗いがたい強い強い感情だ。……それに、加えて言うなら」

「……うん。単純な魔導師の資質としては、多分、お兄さんの方が優れていたんだとは思います。それについての劣等感……というか、焦りみたいなものも、きっとあるんでしょう」

 兄の汚名をなんとしても雪がねばならないというのに、自分は兄よりも資質の時点で劣っている……などとなれば、それは焦りもしよう。

 このままでは駄目だ。

 そんな思いに絡め取られて視野が狭くなるのは、仕方がない。

 今日の任務で彼女がしでかしたあの行動まで仕方ないと言って許してやるわけには決していかないが、それでも、その背景には大いに納得が出来る。

「……特別私が何をしてやれるというわけでもないだろうが、うん、聞いておいてよかった。色々わかったよ。……ティアナについてだけじゃなく」

 そう言ってその瞳を見ると、なのはは複雑な顔で、恐らくは笑った。

 この話でわかったのは、言った通りティアナの事だけではない。

「なのはがなぜあんなにあの娘に対して微妙な態度なのか、ようやくわかった」

「……微妙、ですか、やっぱり」

「ああ。甘いというかなんというか、訓練で甘くしてるわけでは決してない。そうではなく、そこまでなのはが考えて面倒を見る義務があるのか、くらいの事まで考慮に入れて綿密に指導案を作っているだろう、そういうところがだ」

 リインフォースの見る限りなのはの教導は、この六課にいる間のためだけの、当面のレベルアップだけを考えたものではない。

 執務官志望の彼女の、将来の任務まで考えて、なるべく多くの可能性に高い確度で手が届くよう、最大限配慮されているのだ。

「それであの子を焦らせてるんだから、結局上手く出来ていないんですけどね」

「そういう見方も、間違ってはいないだろうな」

 ティアナの焦りは、だからこその部分もあるのだろう。

 なのはの教導は将来の可能性のため、特に基礎固めに注力している。それなりに歴戦のベルカ騎士として言わせてもらえば、それは結局、後々に俯瞰で見れば強くなるための最短ルートであり間違いなく王道なのだが、しかしわかりやすい力を求める若者受けは悪いだろう。

 ティアナはまさに、過去の出来事による視野狭窄でわかりやすい力を求めてしまっている典型であり、相性はある意味で最悪だったのだ。

「だが、なのはが間違ってるという話でもないはずだ。なのはは教導官として最善を尽くしている」

「……リインフォースさんこそ、なんだかんだで私に甘いですよ」

「なのはが素直に甘やかされてくれないからだ」

 間髪入れずにそう返すと、彼女は困ったように笑った。

 それは、笑っただけの暗い顔だ。

「ずっと、妙だと思っていた。あんなに熱心に、本来の職責は優に超えるレベルで親身に考えているくせをして、あの娘に不自然なほど踏み込んでいかないことを」

「……そう、見えます?」

「事実だろう。例えば、前にヴィータから顛末を聞いたが、騎士恭也に向かってあの娘が生意気を言った事があったのだろう? もし自分がその場にいたのなら、私は何も言わずにいる自信は少しもないが、なのはは黙っていたそうじゃないか」

 半年ほど前の事は言わずもがな、さらに最終的に記憶を無くして管理局から去る事になった馬鹿女の一件もありで、なのははかなり恭也の周りに対して神経を張り巡らせている。

 そこにきて話に聞く限り、管理局所属の局員としても、教えを受ける者としてもその時のティアナの態度は問題があり過ぎ、そして知らなかったとはいえ無神経に、恭也の内面をかき回し過ぎた。

 ヴィータなどはあの時のティアナに対しては正直、手榴弾を体中に括りつけた状態で地雷原に飛び込んでいったなという認識で、爆発が大きすぎるようならむしろ護ってやらなければならないと構えたものらしいが、予想に反してなのはの方は不発に終わったものだから、かなり不可解に思ったと話していた。

 代わりに、事が恭也についてとあらば、危険度においてなのはと完全に伍するもう一つの地雷原の方が爆発したようだが。

「なぜそんなにアンバランスなのだろうかなと思ってはいたが……」

「……うん」

 ゆるゆると、ある種観念したような緩やかさで、なのはは頷いて言った。

「私、あの子を自分と重ねてる」

「……私は、それについてどうこう言える立場では決してないが」

 親代わりの兄。

 歳の差は、十と一つ。

 そして、十歳あたりの幼い時に、傍から離れて行った。

 聞けば聞くほどそれは、自分たちが発端となり起こしてしまった事件の被害者達に、結末に、よく似通っていた。

 だからこそ、決定的に違うのは。

「それでも、おにいちゃんは、帰ってきた。私はおにいちゃんに、帰ってきてもらえた」

「……」

「馬鹿だってわかってる、勝手に萎縮するのは」

 ティアナとなのは。

 確かに、なのはは兄を喪わなかった。その点で、ティアナより恵まれていると言うのなら、恵まれてはいるのだろう。

 だが、そんな事を言い出したら人なんて、何かでは誰かより恵まれて、何かでは誰かより不遇なのだ。

 そこに足をとられたら、何も出来なくなってしまう。

「そうだな、馬鹿だ」

 そもそも、確かになのはは兄を喪わなかったが、その代わり、目の前で兄が崩れる姿を見る事になった。しかも言わば、自分にもしもっと力があればという思いにとらわれるくらいの距離と立場にも居たのだ。

 当事者として、自らを責めてしまう位置に居たのだ。

 比べるものではないが、心身に受けるダメージは、こちらだって並大抵のものでは絶対になかった。それは十年前の事件の後、しばらくその愛らしい瞳に暗い光だけを湛え続けた彼女の姿が、何よりも確かに証明していたはずだ。

「なのはが後ろめたさを感じる理由なんてない」

「……うん」

 それでも、状況が、身の上が似通っているから、彼女はそれを無視出来ないのだろう。

 馬鹿な娘だと、本当に思う。

 不器用な人間だと、心から思う。 

「でもね、私はね、リインフォースさん、私、今日、ティアナに、ひどい事言ったよ」

 テーブルの上をじいっと見つめるように下を向いて、なのはは落とす。

「きっとあの子に一番響いてくれる言葉だと思って、言ったんだ……"人なんて、簡単に死んじゃう"って。本当にお兄さんを喪ったティアナに、喪わなかった私が」

 ああ。

 常々思うが、どうしてこの娘は、自分を護る事がこんなに下手くそなのだろう。

「嫌われたっていい、憎まれたっていい、それはいい、本当にいいの。だけど、あの子が帰ってこれないのだけは、それだけは……それだけは、私は絶対防がなきゃならない。何をしたって」

 これが自己陶酔だったなら、むしろどんなにか良かったろうか。

 誰かのためにこんなに頑張っている自分、だけど傷つく可哀想な自分、そんなものに酔っ払うためにやっているのなら、多分まだ救いやすい。

 だけど、違うのだ。当たり前のように言い切れる。

「強くなってほしい、ちゃんと帰ってこられるように。何だってする。……それはきっと、しないという選択も含めて」

 この娘は、これを剥き身の心でやっている。虚飾のない、だからこそ直接痛みに触れる形で。

 本当に、大馬鹿だ。

「それは、騎士恭也が今、ティアナのところに行っているらしい事を言っているのか?」

 ヴィータの問いに、なのはははっきりと頷いた。

「うん。……知ってたんだ」

「たまたまだがな」

 警備の意味合いでの外回りの最中、整備場裏手の林方面に行くところを、残業をしていたらしいヴァイスに止められたのだ。

 曰く、ちょっと取り込み中らしいんで、と。口の軽いお調子者ではあるがその実、彼は中々目端の利く男だ。

「いいのか? あんなに必死に考えて、自分で立派に育てあげようとしていたじゃないか」

「こっちの事情なんて、ティアナには関係ないですよ。あの子にとって必要なのは、あの子のための最善手です」

 君の打つ最善手は、結局いつもそうだなという言葉を、リインフォースは飲み込んだ。言ったって、効き目のない事はそれなりの付き合いだ、学んでいる。

 高町なのはの打つ最善手は、自分の痛みは自分が我慢すれば良いからと言わんばかりに度外視しがちだ。

「……はあ、なんというかな」

「そんなにため息を吐かなくても」

「吐きたくもなる」

 だって、兄妹、よく似ている。

 極まって本当に死にかけた兄ほどじゃあないけれど、やっぱり兄妹よく似てる。

 恭也も、なのはも、一番危うかった時期からすると大分マシにはなった。だけどそれは彼らの根底なのだろう、程度の問題であって、性質自体は変わりない。

 自身の痛みに、彼らは非情なのだ。

「もちろんですけど、私の教導もしっかり続けますよ? 私は私がするべき範囲で、最大限、あの子を育てる。だけど、私だけでって固執はしない。……それで良いんだと思います」

「正直言えばだ、あの手の危うい子の対処は、間違いなく誰より騎士恭也が適任だ。その判断は正解だと私も思う」

 あれはもう、理屈どうこうの域を堂々と超えている。

 断言するが、高町恭也の持つ包容力というか安心感というか、心の尖った人間に寄り添って、削るでもなく抑えるでもなく、自然と柔らかくして丸くする能力は、その身に宿した戦闘力と同じくらい異常だ。

 我が息子ながら父性の化け物と、桃子が零した言葉をリインフォースは聞いた事がある。

「騎士恭也に無理が掛からないかは心配だが……結局、あの人はティアナのような子を放っておける性質じゃない」

 無理に放っておかせる事の方が、多分結果的には負荷を掛けてしまう事になるだろう。

 高町恭也という人間は、箱の中に大切に仕舞い込まれて、それで回復出来るような人でもないし、そもそもそこで生きているようなタイプでもないのだ。

「君がそれで納得してるというのなら結局、私が言える事はないんだが」

 一旦そこで言葉を切って、改めてリインフォースはなのはと眼を合わせた。

「ただ、これだけは頼む。なのは、もし痛いと思う事があったならせめて、痛いと言ってくれ」

「私は……」

「ああ、いや、恭也同様、君にも難しい注文かもしれない。だから、そうだな、ではせめて、痛いという顔くらいしてくれ。澄ました顔で取り繕わないでくれ」

「わ、……私って、そんなにやせ我慢に見えますか?」

 ちょっといじけたような顔で、なのはが返してくる。童顔の彼女がそうすると、仕事中の凛々しさから一転して、とても少女らしい可愛らしさが表に出る。

「見える、ではなく、そうなんだ」

「う、く、……お、おにいちゃんほどでは」

「恭也の域までは行っていない。が、それが何か大丈夫である事の証明になるか?」

「……なんにもならないですけど」

 視線を下に逃がしながら、なのははそう零す。

 愛らしい顔つき、小さな肩、細い体。

 器用なものだからなかなか人に悟らせないけれど、この娘はその小さな身に色々なものを背負い込み過ぎている。

「恭也に、"もっと人を頼れ"だの"弱音を隠すな"だの説教をするのなら、まずは自分がそうしなければならないのではないか?」

「……撤回します、リインフォースさん、私に全然甘くないです」

「甘かろうが渋かろうがどちらでも構わん。ああそうだ、なのはに改善が見られないのなら役割に不適格として、やはり部屋割りは変えるべきだと主はやてに進言しよう」

「や、やだ! 絶対やです!」

 強く支えるもの。幸運の追い風、祝福のエール。

 それが自分、リインフォースだ。

「その場合、騎士恭也の相部屋は誰になるだろうかな。フェイトか、主はやてか、いやシグナムもありそうだ、シャマルというのも当然あるな」

「うああああああああ誰になってもおにいちゃんの貞操は保証されない気がするッ! はやてちゃんはさり気なく外堀を埋めそうだし! シグナムさんは筋肉が見たいとか言って色々触りそうだし! シャマルさんも診察っていいながらなんだかんだ、なんだかんだをしそう! フェイトちゃんになんかなった日には毎日が事件日だよ!」

 護ろうと思う。

 自分の主は八神はやてだ。だが、彼女しか護ってはいけないわけではない。主も、それは望んでいない。

 だから、護ろう。護りたい。

 護るのだ。

「いや、フェイトは騎士恭也を無理に襲うことなど」

「襲わないだろうけど! 盗撮! おにいちゃんのいよいよ撮ってはいけないところの映像を手中に収めますよあの淫乱パツキンは!」

「ううーん……いや、さすがに一線は超えないはず……」

「本当にそう思う……? おにいちゃんの全部が映った映像をゲット出来るチャンスを、フェイト・テスタロッサ・ハラオウンの中に潜む煩悩の獣が、逃すと思う? 最悪、無意識下でやるはず」

「……ひ、否定出来ない」

 空に揺蕩う風に誓おう。

 出来る限りを果たす。

 持てる限りで果たす。

「で、では、……不詳、このリインフォースが騎士恭也と、その、あ、相部屋になろう」

「そんな官能ボディの持ち主とおにいちゃんを同じ屋根の下二人っきりで過ごさせるなんて、私の眼の黒い内には絶対させない」

「か、官能ボディって……」

 自分は、高町恭也と高町なのは、この他人に優しく自分に厳しいをどうしようもないレベルで地で行ってしまう不器用な二人を、彼ら自身に代わって包むのだ。

 それがきっとあの日あの時、この世に残る事を許された理由の、大きな大きな一つのはずだ。

「……じゃあ、聞くけれど」

「な、なんだ?」

 だが、とは言え。

「リインフォースさんは、おにいちゃんに対していやらしい思いは一切抱かない?」

「………………………………」

 その資格はないからと諦めたはずの、胸の疼きも未だにあって。

「アァァァウトオオオオオオオオオオオオオ! 相部屋なんて絶対駄目です!」

「ア、アウトというなら! なのはこそアウトだろう! きょ、兄妹で、その、お、同じベッドに寝ているんだろう!? 何もしていないだろうな!?」

「そんな度胸があったらとっくの昔にやってるよッ!」

「た、たしかに……!」

 後ろめたい下心を捨てきれないわけで、ゆえになかなか胸も張れないというのが情けのない事実だった。

 

 

 

 

 

 

「じゃあスバル、行ってくるわね」

「うん、……いいなあ、ティア」

「ま、まあ、恵まれているってのは否定しないわよ。特導官直々の指導なんてね」

 部屋のドアを開けつつ、振り向きながらティアナはスバルにそう返した。

 言ったとおり、今の自分は随分恵まれていると思う。

「いやいや、それももちろんあるけどさ、ほら、こんな夜中にあの『高町恭也』さんと二人っきりって、その状況が」

「……アンタねえ、お姉さんに毒されすぎよ」

「あはは、冗談冗談。……そもそも、ヴィータ副隊長の忠告を振り切る度胸がないよ」

「う、た、たしかに……」

 高町恭也に色目を使うなという小柄な彼女の重い言葉は記憶に新しいし、実際、二大怪獣の激突も目の前で見ている。

 まさか、浮足立った事なんて考えてはいけないのだ。

(ていうか、確かに強いし、格好は良いし、……なんか優しいけど、でもだからと言ってそういう相手として想うかっていうと、そんなわけでもないし)

 人間、そんなに単純なものではない。少なくとも、自分は違うと思いたい。

「とにかく、行ってくるわね」

「はいはーい」

 ドアを閉め、ティアナは部屋を出た。

 廊下を行って階段を降り、エントランスを抜けて寮を後にする。屋外に出た途端、春の匂いと夜の気配の交じり合った、なんとも言えない雰囲気に身が包まれた。

 夏よりも緩く、秋よりも色づき、冬よりも賑やかで、しかし陽の降る朝と昼より孤独な時間。木の芽時は変な人間が出やすいというが、この妙なバランスがそうさせるんじゃないだろうか、なんて思う。

(……こんな事、前は思わなかったなあ)

 季節感がどうだ、空気がなんだ。

 そんな事、気づきもしなかった。自分の頭はずっと、自分の内にだけ向いていたから。

 心の奥底の泥沼から、足を引き抜く事だけを考えていたからだ。

「…………」

 別に、今だって泥沼は依然としてある。気を抜けばずぶずぶと、きっと沈んでいくんだろう。

 だけど。

「……さ、始めるか」

 いつもの場所、整備場裏手の林に到着、適当な位置でティアナは目をつむった。

 深呼吸。身体の力を抜く。

 そう、力を抜く事だ。

 最近、それを覚えた。

 泥沼から足を引き抜くのに、力めば力むほど、それは結局最後は沈んでいくだけだと知った。そもそも馬鹿みたいに力む必要がない事を、初めて知った。

(余裕の無さは可能性の薄さ、だっけ)

 仏頂面のその人が言った言葉を、鵜呑みにするわけじゃないけれど、別に、そこまでべったり心を預けているわけじゃないけれど。

 それでも、本当の事なんだろうなあなんて素朴に思ってしまうくらいには、その人の言葉には重みがあるのだ。

 膝のえぐれた痕と、奥に確かに無念さが見える瞳の揺れ。あの日見たそんなもの達が、その何よりの証明だ。

「……っと」

 少し、物思いに耽り過ぎた。改めて集中し直し、魔力を奔らせる。

 発動する魔法は身体強化。ベルカのお家芸だが、ミッドにだってもちろん存在する基本技術である。

「……っ」

 しかし、ティアナが今発動させたものが普通のそれかと言うと、そんな事はまるでなかった。

 身体強化は主に出力増強や耐久度上昇のために行われるが、身体の機能を上げるという性質上、五感の鋭敏化にも使える。とは言え、魔力・魔法による様々な探知方法がある以上、それは基本的に副次的な効果に過ぎない。

「……ぅ、く」

 だが、今のティアナの身体強化は、完全に感覚鋭敏化に効力を振っている。しかも五感全体ではなく、聴力ただ一つに、だ。

 単純に聴こえる音が大きくなるというよりは、聴こえていなかった音を大量に拾い、一つ一つのディティールもより細かく感じるという、聴感上の音密度を上げているような感覚である。

「ぐ、……ぅ、ぐ、ぐ」

 はっきり言おう。

 死にそうだ。

 虫の鳴き声、木の葉の擦れ、風の囁きに、整備場からの金属音。隊舎のあちこちに据え付けられた機械が鳴らす細かいノイズまで拾っている。

 とにかく、情報量が多すぎるのだ。頭がパンクする。ぽたりぽたりと、自分の顎から落ちていった汗の落下音すら鮮明だ。

 素肌で受け止めるのではなく、ガラス一枚を間に挟むようにして冷静に情報の洪水を観察する―――あの人が教えてくれたコツを思い返して、必死に実践を試みる。

 御神式・心。

 周辺の状況を常軌を逸した範囲と精度で把握する本家本元の御神流に存在する同名の技の、簡易劣化版と言ったところ、らしい。

(こ、れが、できるように、なる、と……)

 自分の弾を完璧に見切って避けきった、高町恭也の強さの一端に指がかかる……はずだ。

 少なくとも、当人はそう請け負ってくれた。

 元となった御神流の技は長い長い精神修業と身体鍛錬の果てに、『気の流れ』なるものの存在を掴み、研ぎ澄ませた味覚以外の四感と共にそれを感じる事で、周囲の空間を完全に把握するという仕組みらしい。

(……話だけなら、胡散臭いことこの上ない、けど)

"意思を持った万物の身体に、その周囲の空間に、それは必ず巡っている。魔力の様に強く、直接的で多彩な力を持つものではないが、確かにある。信教や信仰の問題ではなく、単なる事実だ"

 そう言った彼の能力が、魔法だけでは説明が付かないのは確かだ。

 だったら、なんだっていい。

 その技術が本当にあって、それで強くなれるのなら、なんだろうが構わない。

 御神式では、身体強化魔法によって感覚を鋭敏化させる事、研ぎ澄ませる感覚を一つに限定する事によって、自力で四感全ての感度・練度を極め上げる本家の御神流よりも、気の流れの知覚に必要な時間を大幅に短縮出来るらしい。

 御神式の教え子はティアナが初でありため、その理論は確認されてはいないのだが、しかし恭也にとってはそれは十二分に確信を持てる事らしく、"魔法を使って身体の性能を引き上げ、聴覚一つに的を絞れば、素質のある人間にとって気の知覚に届くのはそこまで難しい事じゃない。少なくとも、本家の心に比べれば圧倒的に至りやすい"と、力みのない当たり前の現実を語る口調で言っていた。

 もちろん、では御神式の方が優れているかといえばそんな事は決してないとの事で、曰く、どうしようもなく伸びしろが狭いらしい。会得した後の成長が、本家のそれと比べればひどく小さいのだと言う。

 会得にまでは至りやすいが、格段に感度も範囲も劣り、さらに魔法の発動まで前提とあっては、確かに簡易劣化版というのも頷ける話だ。

 だが、ティアナにとってはそれで構わなかった。

 会得までに何年もかかるらしい本家の技より、伸びしろが狭くとも手を掛けやすい御神式の方が、今の自分には魅力がある。

 簡易劣化版だろうが、話に聞くその気配察知の技術は、とてつもなく魅力がある。

(直接の攻撃力や防御力が上がるわけじゃないし、スピードやタフネスが得られるわけでもないけど……私はシューターだ)

 シューターにとって大切なのは、撃つべき的の位置を素早く正確に把握する事だ。欲を言えば出来る限り静かに、敵に悟られずに。

 御神の気配察知は、そういった点において、ほぼほぼ理想的だ。

 目視せずとも周辺の状況を高精度で常態的に把握し続けられれば、取れる選択肢は間違いなく大幅に広がる。探知の魔法もサーチャーも放つことなく、遮蔽物があろうとお構いなしに敵の位置がわかれば、一歩も二歩も相手を出し抜くのは簡単な事だ。

 自分には、一応は得意と言える幻術魔法もある。それと組み合わせれば、自分よりも遥かに強い相手でも、真っ向から戦わないという戦術で勝利を拾う事だって望めるだろう。

 また、個人としてだけでなく、周りの変化に敏感であるべきシューティングガード、そして現場で状況を読みチームに指針を示すフォワードリーダーとしても、この上ない能力だ。

 欲しい、そんな表現では足りない。

 縋ったと、そういう言い方が一番適切なんだろう。

 強くなりたくて、でもがむしゃらにもがくことも駄目で、焦りばかりが募っていって。

 そんなところに、あの誘いは降ってきた。

 跳ね除ける選択肢が、頭の片隅にすら不思議と浮かばなかった事をよく覚えている。

 直感を信じて動くなんて自分らしくないという自覚はあったけれど、あの時ばかりはそんな事を言えなかった。

 これだ、と。

 これを掴もう、と。

 あの時、自分は迷いなく、そう思ったのだ。

 御神の門を叩いてから、今日で一週間。

「…………」

 最初は、30秒も保たなかった。手ほどきを受け、感覚鋭敏特化の身体強化を発動してみて、情報の洪水にすぐさま溺れて崩れ落ちてしまった。

 二日目、三日目もほとんど同じ有様だった。少しの変化があったのは四日目、捌き方を掴み始めた……などと言えるほどのものではなかったが、押し寄せる大量の情報に多少は慣れてきたのは事実らしく、二分、三分と持続時間が増えていった。

 今では、なんとか五分だ。そしてようやくその五分間、必死に洪水に耐えるだけではなくなってきた。

 そもそも、この状態に長く耐えられるようになる事が目的なのではない。

 目的は、そう。

「……っ!」

「昨日よりも、早いな」

 周辺把握力の向上なのだ。

 その声に魔法を解いて振り返ったティアナの視界の中、そこにはいつの間にか高町恭也が居た。

「うん、順調に上達している」

「……それでも、この距離まで気づかなかったんですが」

「一応は、俺は暗殺流派の師範だ」

 恭也の位置はティアナから五メートルほど。多分彼が本気になれば、余裕でもっと詰められてしまうのだろう。

 聴覚を強化し、その捌き方を覚え始めた事で実感したのは、目の前のこの人が魔法抜きでも本当に凄まじいレベルで達人なのだという事だった。

 彼は、全てが静かなのだ。

 だから、だろうか。

「……」

「どうした、ぼうっとして」

「え、あ、いえ……」

(……なんとなく落ち着くのは、この人がこう、揺れない感じだからかしら)

 大木の傍にいる時と、それはどこか似ていた。

「持続時間も伸びたようだな。魔力の奔りも悪くないようだ」

「ありがとうございます。でも、まだまだです」

「それはそうだ。始めて一週間でものにされてはいくらなんでも簡易版とは言え、何年も修行するこちらの立つ瀬がない」

 木の葉の間から溢れてくる月明かりが、彼の顔を柔らかく照らす。その表情は、小さく小さくだが、苦笑しているようにも見えた。

 初めて見た時の、凛とした印象。

 模擬戦で対峙した時の、恐ろしい鋭さ。

 それらとはまた違う今の顔に、どこか暖かい温度を感じ取ってしまうのは、勝手が過ぎる気がして間違っても口に出せない。

「とは言え、多少の手応えはあるか?」

「えと……その、はい」

「うん、やはり筋は良いようだ」

 彼の言葉に答えたとおり、正直、そこそこの手応えはある。この技術の有用性が、話としてだけではなく実感としても得られてきた。

「気配、気の流れ、っていうのも読めるようになれば、もっと色々わかるんでしょうか?」

「そうだな、例えば相手の筋肉の強張りなんかも掴める。すると、次の行動や狙いも大体透けて見えてくる。かなり便利だぞ」

 さらりと言うが、それはとんでもない事なのではないだろうか。

 それだけが秘訣の全てではないだろうが、どうりで銃口や目線でフェイクを掛けても弾が当たらないわけである。

「……その域まで、いけるでしょうか」

「御神式の心でも、対象を一人二人に限れば出来るはずだ。さすがに大人数となると聴覚一つだけで見る気の流れだけでは、ぼやけてしまって厳しいだろうな」

「なら、でもそれは使いようですよね? 大人数相手でも、絶対に役立たないわけじゃない……ですよね?」

「その通りだ。絶対のカードにはならんが、有効な手札の一枚にはなる」

 絶対のカード、それは例えば高町なのはの破壊力、フェイト・T・ハラオウンの機動力、八神はやての制圧力。

 そんなもの、持ってはいないし、持てないだろうけど。

 それでもこの力は確かに、自分の手札の大きな一枚になってくれる。使いようによっては、絶対のそれさえ覆せると信じられるくらいの。

「戦闘は、手持ちのカードの強さだけでは決まらん。それをいつどこでどう出すか、その判断こそが肝だ。戦い方を見る限り、君はそれがわかっていそうだがな」

「……一応は、そのつもりです」

 答えたティアナに、恭也は一つ頷いた。

 その仕草はやっぱり、どうしても心強くて。

「それでいい。ランスター二等陸士、戦いなど、勝った方の勝ちだ。どちらが強かったかなどというのは、究極的には何の意味もない」

「……戦えば勝つ、それが御神流なんですよね?」

「ああ。御神式の君にも、そうであって欲しいと願っている」

「はい」

 結局、不安だったのだ。

 行く先が、ずっと暗かったから。

 だから足を速めて、必死に走り抜けようとした。

「もう少し、続けられそうか?」

「はい、まだやれます」

 だけど今は、歩こうと思う。

 走るんじゃなくて、ちゃんと歩こうと思う。

「そうか。では、丁寧に」

「はいっ」

 同じ闇の下をかつて走った人が、前からこうして手を引いてくれているから。

 道が明るくなったわけじゃないけど、暗い事がもう、そんなに怖くないのだ。

 すうっと、深呼吸。ティアナはまた魔力を奔らせ、聴覚を研ぎ澄ます。

 

 

「……はぁっ、はっ、はぁっ、……はあ」

「うん、ランスター二等陸士、今日はこれまでだな」

「……」

 まだやりたい。

 まだやれます。

 そんな言葉が、しかしティアナの口からは出てこなかった。

「……は、…………はい」

 代わりに、絞り出すようにそう言っていた。そう言う他なかったのだ。

 もう、脳がまともに働かない。

 身体が動かないならいくらでも気合いで鞭打つけれど、頭が働かないというのは、これがいかんともしがたいのだ。

「……あの、特導官」

「なんだ?」

「……私に、この技の訓練を勧めたのって、もしかして、無茶をさせずに寝かしつけるためだったりします?」

 薄々……どころでなく思っていた疑問を初めてはっきり聞いてみると、その人は大真面目な顔で答える。

「まさか。一番の理由は君に最も素質がある技術だったからだ」

「二番目の理由がある事は否定されないんですね……」

「一石二鳥と言うべきだな。色々と都合が良いのは確かだ」

 やっぱりか。恥ずかしいような、いたたまれないような、とにかく悶えたい気持ちだ。

 ティアナの身体は、早朝から日が落ちるまでみっちり続く高町なのは教導官の訓練で、ぎりぎりのところまで酷使されている。そこにさらに何か他の練習を乗せようとすれば当然オーバーワークになってしまうが、この特導官とのものは例外だ。

 なにせ、気配察知という技はほとんど身体を疲労させない。使うのはとにかく感覚とそれを処理する脳みそ、つまり疲れるのはほぼ頭だけなのだ。

 さらに、この練習は長時間行うことが出来ない。限界が近づくとぼうっとしてきて、眠くて眠くて仕方なくなってしまうのだ。まともに続けられなどしない。

 身体を傷めさせず、疲労感と達成感を与える訓練。

 強くなろうと逸る駄々っ子には、考えれば考えるほど最適な代物だった。

「そうむくれてくれるな、先人の過保護を寛大な心で許すのも、道を行く者の務めだぞ」

「べ、べつにむくれてはいません」

「そうか?」

「そうですっ」

 ならいい、そう言った彼の口の端は、やっぱり僅かに上がっているような気がする。

(……この手玉に取られている感じ、なんかちょっと)

 懐かしいと、そう思うのはさすがに、絶対に気のせいだ。

 性格も顔立ちも雰囲気も、何かもが違う。だからこれは気のせいなのだ。

 時折、兄と居た時の事を思い出すのは、何かの間違いなのだ。

「特導官は……」

「ん?」

「あ、……いえ、何でもありません、失礼しました……ん、あれ?」

 変な事を零してしまいそうになった口を、慌てて綴じ合わせた時だった。

「誰か……」

「気づいたか、少しまだ感覚が鋭いままのようだな」

 遠くから鳴る不規則な木の葉のこすれる音に混じって、規則的な響きを感じる事に気づく。

 誰かがこちらにやってくる足音だ。

「……なんで私、だって魔法はもう切っているのに」

「魔法を使う事で一時的に聴覚を研ぎ澄まし、その状態を続ける事で受け取った音に対する処理能力を向上させる。それが君のしている鍛錬だ。たとえ魔法を切った普段の聴覚に戻っても、その修行の成果は現れる。今まで意識の上には登らなかった音も、どんどん気付けるようになる」

 言われて、改めて確かめてみると、色んな音がよく感じられるようになっている……ような気もする。

「もちろん、まだまだそれが定着するほどではない。今は魔法を発動し、鍛錬をした直後だから感覚が鋭いだけで、その内に戻ってしまうだろう。だが、続けていけばそれが自然と、さらに強力に出来るようになる」

「これが……」

 周囲の変化に常に敏感であれる事は、かなりのアドバンテージだ。突発的な事態への対応力が違ってくる。例えば不意打ちなんかには、すこぶる強くなれるだろう。

「……あ、でも、特導官は、私なんかよりもずっと感覚が鋭いんですよね? それが続いたままなんて、日常生活は」

「そうだな、正直、全開の状態ではさすがに気疲れが多すぎる。だからかなり意図的に感度を絞っているよ、調節も技術の内だ」

「なるほど……そういう事も出来るんですね」

「君にもいずれ、必要があるほどに感覚が鋭くなってきたなら教えよう。今の様子を見る限り、そうなりそうだがな」

「……頑張ります、あ」

 話している内に件の足音の主はもうこちらへと着いていていたようで、木々の間から一人の人物が姿を現した。

「いやあー、こんな遅くまでおつかれ様ですよ、お二人さん」

「ヴァイス陸曹? どうしてこちらへ」

 顔を見せたのは六課のメインヘリパイロット、ヴァイス・グランセニック陸曹だった。問うたティアナに、彼は手に持った缶ジュース二本を掲げて見せる。

「なに、差し入れに来たんだよ。毎日熱心にやってるみたいだからな」

「そう言うお前も、こんな時間まで作業をしているんだろう? ちゃんと休んでいるのか?」

 今度そう問うたのは恭也で、彼にヴァイスは軽く答えた。

「色々こだわっちまう性質でして、半分趣味みたいなもんですから大丈夫っすよ。あ、コーヒーですけどいいっすか?」

「ああ、悪いな」

(……えぇ)

 ヴァイスが恭也に缶を手渡す光景を見ながら、ティアナは内心驚愕である。

「そうだ、お借りした単車、いいもんすねえ。こっちのヤツにはないエンジンの拍動が心地いいっすよ。ただ、タイヤがそろそろ交換時かも」

「ん、そうか……。あちらに戻る暇はさすがにないな。こっちで探せたりするか?」

「それなら、異世界からの輸入物に合わせてパーツを専門で作ってくれるとこがありますから、そこに持っていくといいっすよ。ツテもあるんで紹介します」

「そうか。すまんな、それは助かる」

(か、軽ぅ! なんでこんなにフランクなの……!?)

 どこをどう見ても、下士官と将官の会話、距離感ではない。

「その内どっか、恭也の兄さんとは走りに行きたいんすけどねえ。レリックの件がもうちょい落ち着けばなあ」

「きょ……!? あ、あの……、ヴァイス陸曹!」

 思わず、ティアナは口を挟む。

「なんだ? あ、悪い悪い、これお前のな」

「え、ありがとうございます……いや、そうじゃなくて!」

 手渡されたスポーツ飲料の缶を受け取りながら、声を上げる。

「な、なんかその、随分とフランクっていうか、……よ、呼び方とかその、それは」

「あー、言いたい事はわかっけど、さすがに勤務時間中のびしっとすべき時にはこんな感じじゃねえよ?」

「そ、それでも、だって……」

 だって、なんだろう。

(あー……そうか)

 混乱した気持ちを探って、すぐに答えは出た。

(ヴァイス陸曹は、こんなにフランクなのに……)

 じっくり指導を付けてもらっている自分は特導官と距離を取って役職呼びしているのが、なんだか悔しいような気がするのだ。

「ランスター二等陸士、俺がヴァイスに頼んだんだ」

「……そ、そうなんですか?」

「気安く話せる相手が欲しくてな。ヴァイスとは色々話もあったものだから、つい無理を言った」

「いやー正直、初めてまともに話した時は緊張で死ぬかと思ったもんでしたけどね」

 明るく笑うヴァイス、その口調には力みがない。

 軽く見えるパーソナリティだが、ティアナの見る限りヴァイス・グランセニックは決して状況の読めないタイプでも、考えが足りない人間でもない。むしろ、おそらく目端はかなり利く性質だ。

 その彼がこうしているというのだから、おそらく、仕事外であれば本当にこれで構わないという事なのだろう。

「ティアナ、お前もどうだよ、兄さんを恭也さんとファーストネームで呼んでみるのも」

「……っば、馬鹿言わないでくださいよ!」

「俺は構わないぞ。勤務時間中はさすがにまずいが、それ以外でならそうしてくれた方が気楽だ」

「え、や、……その」

 それは、駄目だ。

(……だ、だって)

 そんな風にせき止める自分の気持ちが、局員としての常識に依ったものだけではない事に、なんだか気づいてしまった。

「…………」

「ランスター二等陸士? いや、無理なようなら今まで通りでいいぞ?」

「その……」

 じっと、その人を見つめる。

 いつも鋭い眼の凛とした表情で、初対面ではなんだか怖い気もしたその人が、実のところ、すごく優しいのはもうわかっている。

 こんな駄々をこねている未熟なガキに、毎晩遅くまで付き合ってくれるくらい、面倒見が良くて。

 傍にいると、安心をしてしまう。

 これで名前でなんて呼び始めたら、なんとなく、いよいよ預けてしまう気がするのだ。

 今は預けていないと意地を張れている心を、べったりと。

「や、……やっぱり、今まで通りで」

「そうか、わかった」

 その人が残念そうな顔をしなかったことが残念だなんていうのは、いよいよ馬鹿げている。

 気持ちを切り替えようと、ティアナは貰った缶ジュースを空け、中身を喉に流し込んだ。

 視界の中では、恭也も缶に口を付けていて。

「っぶ!? ごほっ!」

「おいおいどうしたどうした、普通のスポドリだろうが」

 盛大に吹き出したティアナにヴァイスはそう問うてくる。その様子を見て、"ああ、わざとではないんだな"と思った。

 だって、わざとだったらもう少ししてやったりみたいな顔になっているはずだ。

 いや、そもそも、いくら親しい口調で話しているからといって、そんな事をやっていい相手ではないだろう。

「ランスター二等陸士、大丈夫か? 気管にでも入ったか」

「え、えと、はい……」

(……あれ、モンスターコーヒーじゃない!)

 ティアナが吹き出したのは、自分の飲み物が原因なのではない。恭也が口元で傾けていた缶が、あまりに衝撃的だったからである。

 黄色と濃い茶色を貴重にしたデザインの缶が目印の飲料、モンスターコーヒー。これは、超激甘の一品として有名なのだ。ティアナも一度スバルに渡されて飲んでしまった事があるが、口の中へ砂糖を一杯に頬張ったような味がして、舌が溶け落ちるかと思った。

『ヴァイス陸曹! ヴァイス陸曹!』

『なんだよ、わざわざ念話で』

 訝しげなヴァイスに、ティアナは噛みつくように返す。

『特導官の飲まれてるの、モンスターコーヒーじゃないですか!』

『はあ? いや、んなはず……うえええ!? まじだ!』

『まじだ! じゃないですよ……! ミンコーヒーと間違えましたね……?』

『う、ぐ、やっちまった……』

 ミンコーヒーとは、ブラックに近い渋さながら砂糖をほんの少しだけ使って口当たりの柔らかさも出している人気の品である、のだが一つだけ問題があり、真逆の味を持つモンスターコーヒーと缶のデザインがそっくりなのだ。

 出している会社が同じなのだが、日常に不意のサプライズを届けたいとわざとそうしているようで、そもそもモンスターコーヒーが生み出されたのもミンコーヒーと間違えて飲ませて驚かせるためらしい。

 ティアナは一度痛い目を見ているため見分けは付けられるようになっているし、買う時には細心の注意を払っているが、ヴァイスのようにうっかり間違える人間は未だに後を絶たない。

『……特導官、甘党なんですか?』

『いやあ、そんな様子は特に……。一緒に食堂で飯食った時も、デザートなんかはヴィータ副隊長やらにあげてたしなあ』

『じゃああれ、我慢して飲んで下さってるって事じゃないですか』

『う、……そ、そうなるなあ』

『そうなるなあ、じゃないですよ……』

 抗議を込めて見つめると、ヴァイスはわかってると言うように片手を上げてから恭也へ声をかけた。

「あのー……恭也の兄さん」

「なんだ? 変な顔をして」

「いえ、なんつーか、大変申し訳なかったっす……決してわざとではなかったんですが……気を使ってそのまま飲んでいただいて」

「……なんの話だ?」

 あれ、と思ったのはティアナだけではないようで、ヴァイスと二人、思わず顔を合わせた。

 なんだ、この反応。

「特導官、その、特導官の飲まれているコーヒー、なんというか、すごくないですか?」

「ん、あー……」

 ティアナの言葉に、ちらりと缶を眺め、そして恭也は言った。

「珍しいくらい苦いな、だが飲めないほどじゃない」

「…………に、がい、ですか?」

「兄さん、まさか……あ、いや」

 しまったといった様子で、ヴァイスは口を噤む。しかし彼がなんと続けようとしたのか、それは言うまでもない事だった。

「……外したか。コーヒーのパッケージだし、匂いもそのようなものだからと思ったんだが」

 観念したように呟いたそんな恭也の言葉は、あまりに決定的だった。

 ため息一つ吐いてから、その人は続ける。

「隊長陣は皆知っているし、別に隠さなければいけないわけでもない、とは言え変に気を使われても疲れる。だから黙っておいてくれると助かるんだが」

 無言で、ヴァイスと共にティアナは頷く。それを見て、恭也ははっきりと口にした。

「お察しの通りだ。俺の味覚は今、機能していない。何を食べても何の味もしないんだよ」

「……それは、生理的な問題で?」

 ティアナの問いに、恭也は何でもない顔のまま首を振る。

「いや、舌自体は正常らしい。神経や脳機能もな」

「じゃ、じゃあ……」

 さらに質問を重ねようとしたティアナの肩に、グッと抑えるような感触。見れば、ヴァイスが渋い顔でそこに手を置いていた。

「あ、す、すみませんでしたっ」

 それでようやく、自分が踏み込むべきでないところに無神経に立ち入っていた事に気づき、慌てて頭を下げる。

 こういうところが、いくら背伸びしていても自分はまだまだガキだ。

「いや、気にしないでくれ。特武官時代にちょっとな」

 彼のその言葉に、"度重なる重たすぎる出撃で心身を崩した"というニュースサイトの記事の一文が頭に蘇る。

「戦闘に関係のない感覚だから削れたんだろう。今更戻ってくれというのは少々虫のいい話だ」

 何でもない口調で言う彼の言葉が、遠い人の事だと思ってニュースを読んでいた時とは違い、今はひどく生々しく感じる。

 あんなに強い人も人間なんだななんて、かつて思った。だけど結局、その時もまだどこかで、高町恭也というのは人外の化け物だと、自分は思っていたのだ。

 そんなはず、ないのに。当たり前のように、人外でも化け物でもないのに。

 あんなに、こんなに、どんなに強くったって、人間なのに。

 暖かくて、面倒見が良くて、ちょっと意地悪なところもあって、だけど真面目で、斬られればちゃんと血を流し、涙を零す、そんな人間なのに。

「ヴァイスも、ランスター二等陸士も、本当に気にしないでくれ」

「……あの、長いですよね」

 手に持った缶を握りしめて、言う。

「長い? ああ、"ランスター二等陸士"か? たしかに長いが……」

 しっかりその人の瞳を見ながら、ティアナの口からは言葉があふれる。

「だから、その、……ティ、ティアナで、お願いしてもいいですか」

 急な申し出に、目を見張ったのは隣のヴァイス。だけど彼は茶化すような事は言わずに、ただただ黙って見ていてくれた。

 恭也は、いつもどおりの揺れない顔。しかし内側の感情までもがそうだというわけじゃないというのは、ちゃんとわかるべきなのだ。

「そうか、君がいいのなら」

「はい、その……えと」

 すうっと、やっぱりちょっとだけ息を整えて、だけど躊躇いに引き倒されない内に、ティアナは言ってしまう事にした。

「恭也、さん」

 春の夜に溶けた言葉は、自分で思うよりもずっと、熱が篭っていて。

「ああ、ティアナ」

 返ってきたその声に、胸の中がゆらゆらと揺れた。




ティアナよ、フォースの力を信じるのだ……。

御神流の気配察知、OVAで美由希がわかりやすく披露してましたが、めちゃ格好いいですよね。あんなんできたらそれは遮蔽物の多い屋内や、視界の利かない暗闇は独壇場だ。


今回がティアナ編(前)って感じで、次が後編です。長くなったら中編・後編にします。でもなあ、話を進めたい気もあるので、なるべく長くても一話に収めてしまいたい。すごい分量というか文量になるかもだけど。

当たり前ですけど、色々原作とは違ってきています。なのはとティアナの任務後の会話とかもそうですね。

StS新規勢では断トツでティアナが好きです。綺麗なだけのいい子ちゃんじゃない泥臭さに、とても人間らしい魅力を感じる。


それでは皆様、良いお年を。

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