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この作品には原作設定の拡大・独自解釈も含まれます。申し訳有りませんが、原作設定の絶対的な遵守をお求めの方、ご自分の解釈を非常に大切にされている方のご要望にはお応えしかねる場合があります。該当される方はご自身の責任における判断で閲覧されるかどうかお決め下さい。よろしくお願い致します。
「ん、あれ?」
がくんと、嫌な振動と妙な音がしたか思うと、
「なんや? ちょお……え、嘘やろ…………ええ?」
長年の愛機である電動式の車椅子は、それきり操作レバーをいくら引いても倒しても、なんの挙動も示さなくなった。
バッテリー残量ランプは五段階中の四を示している。本来なら、まだ十分動くはずだ。
「……ええ、ちょ、ええ……なんでや……動け動けっ、がんばりっ! お願いやからー!」
執念深く、ガチャンガチャンと少し乱暴に操作してみるも、やはり結果は同じ。
「ならこっちで……重っ!?」
ならばと車輪外側に取り付けられたハンドリムを握り、手で動かそうとするものの、しかしまったく回らない。自分がいくら非力だとは言え、これはおかしい。
ということは、
「こ、こしょーか……?」
どこかが壊れた、ということか。
「嘘やろ……」
図書館の一画で、八神はやては顔を青ざめ、呟いた。
今日は一人で来ている上に、ここは奥まったなかなか人のこないエリアだ。このままでは身動きがとれない。
自然、深いため息がこぼれた。
(どないしよう……)
誰かに来てもらうかと一瞬考え携帯電話に手を伸ばしかけるが、
「図書館内やし…………みんな忙しいみたいやしな」
頭を振り、結局は止めた。
シグナムもヴィータもザフィーラもここ最近はあまり家にいない。今日もどこかへ出かけていった。
そして、一番身近に付いてくれていたシャマルは、唐突に姿を消した。
シグナムの話では、急にどうしても外せない用事ができたのでしばらく帰ってこれない、らしい。
「…………」
本当、だろうか。
シグナムを疑うわけではないが、あのシャマルが、自分に何も言わずいきなりどこかに行ってしまって、その上連絡もとれないだなんて。
(……あかんあかんっ!)
嫌な想像を頭を振って、文字通り振り払う。
きっとシャマルはちゃんと帰ってきてくれるし、それにそれは今考えても仕方のないことだ。
まずは自分がなんとか家に帰らなければならない。
とりあえず、現実的な案としては誰かが通り過ぎるのを待って、その人にここから図書館のロビーあたりまで連れて行ってもらい、そこで車椅子のメーカーサポートに連絡……あたりだろうか。
「……いや、やっぱ自力でなんとか!」
はやては両手に渾身の力を籠め、ハンドリムを回しにかかった。
これで車椅子が動きさえすれば、時間はかかるが自分で家に帰れる。あまり人に迷惑はかけたくないし、自分で何とかできるならそれが一番だ。
「うー……!」
歯を食いしばり、体を前のめり、全力をかける。
「う、ご、け…………うあっ!」
しまったと思った時にはもう遅かった。
ハンドリムから手が滑らせたはやては、その勢いのまま、
「っ………………い、たあ……」
車椅子から転げ落ち、床に体を打ち付けた。
思わず、泣きそうになる。
暖房が効いているとは言え、それでも床は冷たくて、まるで容赦のない現実を突きつけられているような気さえしてくる。
「………………っ」
痛みやら情けなさやら寂しさやらが一気に襲いかかってきて、いっその事このままここでずっと倒れてしまっていたいという、どうしようもない欲求すら生まれてきた。
顔を腕で拭って、それらと共についに浮かんできてしまった涙を払った。
こうしていてても仕方ないのだ。都合良く誰かが助けに来てくれるわけでもない。
とりあえず、椅子に戻らなければ。
なんとか意志をまとめ上げ、そう決意し、顔を上げたはやては、
「大丈夫か?」
「……………………え」
思わず数秒、固まった。
「物音がしたから来てみたんだが、転んだんだな。どこか痛めなかったか?」
いつの間にか自分の前にいたその人は、膝を立てて座り込み、こちらを心配そうに覗き込んでいる。
「え、えっと……」
「……? やはりどこか……」
「い、いえ。あ、あの……その……」
(い、いけめんさんや……!)
黒っぽい衣服に身を包んだ彼は、非の打ち所がないほどに端正な顔立ちの男性で、そんな人に至近距離で見つめられることにはやては全く免疫がなかった。
「だ、大丈夫れすっ」
そのせいかどうにも舌がうまく回らず、恥ずかしくて顔が赤くなる。
「そうか、よかった。あの車椅子は君のだな?」
「は、はい……」
「じゃあとりあえず、……失礼」
「わっ!」
気がついた時にはもう、背中と膝の下に男性の腕が通り、はやてはそれに持ち上げられていた。
いわゆる、お姫様だっこの状態だった。
「あ、あの、私……」
「ああ、すまん、嫌だったか?」
「い、いえいえいえ、そんなことはっ」
両手と頭を振って否定する。男性は安心したように少し微笑み、またしてもはやての心拍数を跳ね上げたかと思うと、
「あ、ありがとうございます……」
「いや、いいさ」
優しくはやてを車椅子に座らせた。
(め、めっちゃかっこええ上にめっちゃ優しい……こんな人がおるんやな……)
感動しながら、はやてはついまじまじと男性を眺めてしまう。モデルや俳優と言っても十二分に通用するルックスに、軽々とはやてを抱き上げる力強い腕、それに甘い声。
また、抱き上げるのも椅子に下ろすのもとにかく柔らかく丁寧で、その細かい気遣いに男性の優しさが伝わってくる。
「……どうした?」
「あ、いえ、なんでもないですっ!」
じっと見つめるはやての視線が不思議だったのか、問うてきた男性だが、まさかかっこいいから見てましたなんて言えないので、そう言って誤魔化す。
「そうか?」
「は、はい……あ、あの、ほんまにありがとうございました」
はやては彼に、改めて頭を下げた。
「気にしなくていいさ、怪我がなかったのならよかったよ。何か取りたい本でもあったのか? 俺でよければ……」
「あ、いえ」
「だが、また転んでは……」
「えっと、そ、そうやなくてですね」
どうやら男性は、はやてが本を取ろうとして転んだのだと思ったらしい。
「そうやなくて、……その……車椅子が壊れてしもて。なんとか動かんもんかと頑張ってるにちょお手え滑らせて……」
「む、……そうだったのか。まったく動かないのか?」
「はい。電動式なんやけど、バッテリー切れてへんのに……、手で動かそうにも変に堅くて重くてどうにも」
「ふむ、ちょっといいか?」
男性はそう言うと、はやての後方にまわり、バックハンドルを握り軽く前へ押した。
しかしやはり、車椅子は動かない。
「駄目だな……。駆動部分あたりで、部品が外れてどこかに挟まったか何かしたのかもしれない。無理矢理押すわけにもいかないな」
「……そうですか」
「今日は、誰かと一緒に来ているのか?」
「いえ、一人です」
「そうか。ご家族に連絡は取れるか?」
「……えっと、その………………いえ」
シグナムもヴィータもザフィーラも携帯電話などもっていないし、念話という技術もどこにいるのかわからない相手に自分から繋ぐような事は、はやてには出来ない。唯一、携帯を持っていたシャマルにも、今は連絡がつかない。
「で、でも、大丈夫です! 車椅子のメーカーさんに連絡とかすれば来てくれるし……」
「だが、この場で直るものかどうかもわからないぞ」
「そ、そうなんですけど……そしたらその……何とかして……」
タクシーか何か呼んでどうにか……しかし、自分で言っていてなんとかできる自信のないはやては、声が小さくなる。
すると、
「……家は近いのか?」
男性が今度はそう問うてきた。
「はい、十分くらいで……」
「そうか。なら、俺が送ろう」
「え、で、でも」
「迷惑ならもちろん無理にとは言わないが……」
「そんなことないです! で、でもこっちこそご迷惑ゆうかそんなお手数おかけできないゆうか」
「困った時はお互い様だろう。それに」
ぽん、と頭に感触があった。撫でられていると理解した時、顔は火がでるくらいに赤くなり、
「子供がそんな風に遠慮するものじゃないぞ」
その言葉に、胸に暖かい想いが灯った。
予期せぬ事態で味わった不安が、溶けていくのがわかった。
「……あの」
なるべく人には迷惑をかけず、自分で出来ることは自分で。そういう風に生きてきたはやてにとって、会ったばかりの人に甘えるなんていうことは、通常ありえないことで。
「ん?」
「お、お願いしても……、大丈夫ですか?」
だから、そうすんなり言えたのは、自分でも意外だった。
「恭也さんって、力持ちなんやね……」
「そうか?」
「そうやって。それ、百キロ近くあんねんで」
図書館で出会った少女――はやては、恭也が右手に持つ物を指さして言った。
恭也の右手、そこには、彼女の車椅子が、その左側のハンドリムから握られ持たれている。
無理矢理押すわけにもいかないので、恭也が手で持ち上げて運んでいるのだ。
「へーぜんと片手で持てるって、どういうことや」
「鍛えているからな」
二人は今、図書館を出て、はやての家へと続く道を行っている。
「むしろ、はやての方が車椅子よりも重いかもしれんな」
「う、嘘や! なんぼなんでも私かて百キロはないで!」
「はは、冗談だ。むしろ軽すぎるくらいだぞ、もっとちゃんと食べないとな」
車椅子に乗せておくわけにもいかないので、はやては現在、恭也が左腕で抱いている。言葉通り、その小さく細い体躯は恭也にとってみれば重さの内には入らない。
「食べとるんやけどなー。でもどっちかって言うと、食べるよりも作るほうが得意や」
「む、はやては料理が出来るのか?」
「うーん、まあ、それなりやけど」
「……やはり中華が得意なのか?」
「え、中華? まあ中華もできるけど特に得意なわけじゃ……」
「……そうか」
そこまで似ていたら本当に驚きだったんだけどなと、恭也は自らの家の居候を思い浮かべつつ、はやてを改めて見やる。
「な、なんや、どうしたん?」
「……いや、なんでもない」
やはり、口調、髪型、顔、体型に至るまでそっくりだった。あとで晶やなのはに教えてやろうと、恭也は心に決める。もっとも、そっくりの小学生がいたなんて言われたら当のレンとしてはさすがに忸怩たる思いがあるかもしれない。
レンには黙っておこう。
「そ、そか? あ、恭也さん、着いたで。ここや」
そんな話をしている内に、いつの間にか目的地についたようだ。
八神と表札のある、品のいい一軒家がそこにはあった。
「恭也さん、悪いんやけど……ちょお庭の方に連れてってもらえへん? そこに予備の車椅子があるから」
「わかった」
玄関前に手に持った電動車椅子を一旦置き、言われたとおり、家の回りを周って庭に出ると、倉庫らしきものがあった。
「この中か」
「そや」
入ると、目当てのものはすぐにあった。きちんとカバーがかかった状態で保管されてあったので汚れもない。
それを持って玄関前へ戻り、広げて、恭也ははやてを座らせた。
「大丈夫そうか?」
「うん、いい感じや」
予備の物であるからか流石に電動式ではないようだが、はやての操作に従い、滑らかにきちんと動くようだった。
「ほんまにありがとうな、恭也さん。助かったわ」
「いいさ。やりたくてやった事だ」
「……そか? 優しいんやね、恭也さん」
「そうでもないさ。……っと」
恭也がそう言って微笑むと同時、風が吹き抜けた。季節は十二月、それは体の芯まで通るかのような冷気を帯びている。
「風邪を引いたらいけない。もう家に入った方がいいぞ、はやて」
「あ、うん。そやね」
「ああ。それじゃあな」
はやてが頷いたのを確認し、恭也はその場を後にしようと踵を返すが、
「え、あ、待って待って恭也さん!」
「ん、なんだ?」
その声に、またすぐに彼女に向き直った。何か他に困った事でもあるのだろうか、恭也がそう思っていると、
「せっかく来てくれたんやからお茶でも飲んでってや。お世話になった人このまま追い返すわけにはいかん」
はやてはそんなこと言った。
「……む、いや、だがな」
「あ、それともこの後予定か何かあるん?」
現在時刻は午前十一時半を少し回ったところ。今日は土曜日であり、大学の講義もない。また、闇の書の事件に関わってからというもの、護衛の仕事の方も、どうしても断れないものを除けば基本的に休業状態にしてある。
それに、管理局の方からも、守護騎士を捕らえて四日が経つが、今日は特に連絡はない。
「……」
実を言えば、守護騎士は、すでに一旦目を覚ました。
そこで事前の話の通り、なのはとフェイトが事情聴取に向かい、恭也も念のため随行することになっていたのだが、
(――自閉モード、だったか)
クロノの話では、現在、彼女は話をするしない以前の状態、らしい。
彼女は、目覚めて現状を把握するやいなや、まるで彫像のようにただただ黙り動かない、外界刺激に対して一切の反応を示さない状態となったらしいのだ。
クロノ曰く、主や仲間の情報を渡さないために、敵の手に落ちたときに発動するようにプログラムされていた可能性が高い、とのことだ。
現在魔法によってその状態の解除を試みているため、なのは、フェイト、恭也達には今のところは通常生活を送って待機していて欲しいとのお達しが出ている。
「恭也さん?」
「ん、ああ、すまない」
(今考えることでもなかったか……)
はやての声に、恭也は思考の海から我に返る。
「いや、特に予定は何もないが」
「だったら、あ、そや、ほらちょうどええ時間やし、お昼ご飯作るから食べてってや!」
「うーむ……」
もちろん、はやてと食事する事が嫌なわけではない。知り合ったばかりだが、おっとりとしながらもなかなか利発な少女で、会話も弾む。言葉に甘えて昼食を共にすれば、きっと楽しい時間が過ごせるだろう。
言ったとおり、これから予定があるわけでもない。
だが。
しかし、
「いいか、はやて。見ず知らずの人を、それも男を、そう簡単に家へ上げてはいけない。何かされないとも限らないんだぞ」
この無警戒な少女に注意を促す意味で、今ここで自分が気軽に家へ上がらせてもらうわけにはいかない。こんな形で前例を作ってしまって、もしこれからまかり間違った事が起こってしまってはまずい。
「いや、誰彼構わずこんな事言わへんよ。人くらいちゃんと選ぶで」
そんな恭也の注意に、はやては心外だとばかりに言葉を返した。
「恭也さんは見ず知らずの他人やない、恩人やん」
「だがな、騙しているだけかもしれんぞ?」
「恭也さんが私をどーこーしよ思うたらわざわざそんなことする必要ないやん。百キロの車椅子片手で軽々持ち上げて運ぶ人が小学生相手に回りくどい嘘まで吐いて、なんておかしいわ、力ずくでどーとでもなるやろ。何かするんならもうとっくにやってるはずや。それに」
はやてはそこで一旦、言葉を切って、
「なにより、恭也さん、そんな人には全然見えへんしな」
笑いながらそう言った。
理屈立てた上に感情を乗せた見事な反論に、恭也は思わず舌を巻く。やはり、利発な娘だ。
「……うーん」
こうまで言われては、さすがに無碍にはできないか。
思い悩む恭也に、
「それとも、恭也さん、家上がったらなんかするん?」
はやてはさらに言葉を重ねた。
「いや、しないが」
「だったらええやん、な?」
そして笑顔で、恭也の服を小さく掴んできた。
「……わかった」
その仕草に、降参とばかりに恭也は両腕を上げ、言う。
「悪いが、昼をご馳走になってもいいか、はやて」
「もちろんや!」
はやては嬉しそうに声を上げ、恭也を家に招き入れた。
「……うまいな」
恭也は八神家のリビングで、椅子に腰掛けながら、振る舞われたはやての手料理を口にし正直にそう感想を述べた。
晶やレンのものと比べても遜色のない出来だ。素直に驚き、感心する。
「ほんまか? よかったわ」
対面に座るはやては安心したように息をついた。
「その歳で本当に大したものだな」
「な、なんや、ちょお照れるな……」
聞けばはやては九歳だと言う。なのはとちょうど同じ歳だ。それでこれだけのものを作れるというのは、驚嘆に値する。
ちなみになのはも最近は桃子に料理を教わり始めている。桃子の話では、喜ばしいことに美由希と違って有望なようだ。
「いつも、料理ははやてが作っているのか?」
「そうや。やっぱ好きやからな。作るのも、食べてもらうのも」
「そうか」
言葉を交わしつつも、着々と料理は減っていく。
「こんなに美味しい昼飯をご馳走になれるとはな。得をした気分だ」
恭也がはやてを助けたのはもちろん何か見返りを期待してのことではない。なのはと同じような歳の娘と言うこともあり、ただ単に放っておけなかったからである。
それなのに、まさかそのおかげで適当に何か外食で済ませようと思っていた昼食がこんなに恵まれたものになるとは思わなかった。
「ありがとうな、はやて」
だから、改めて恭也はそう礼を言ったのだが、
「……ちゃうよ。お礼を言うのは私の方や」
はやては首を振った。
「困ってたとこ助けてもらったし……それに今こうしてご飯に付きおうてもらってる」
そして少し俯いて、恭也に小さな、消え入りそうな声で言った。
「最近、一人で食べることばっかりやったから……寂しかったんや」
「……そう、なのか」
「しゃーないんやけどな。家族が、なんかみんな忙しいらしくて……その内一人なんかは、突然の用事ができたみたいで、帰ってこーへんくらいやし……」
語るはやての顔と声には、確かな陰が差していた。
「あ、いや、みんなが外でやりたいことがあるんなら、私はそれでええんやけど……はは……」
誤魔化すようにそう言って浮かべた表情は、……押しつぶすような笑みだった。
事情と感情を呑み込んで、現状を受け入れるための笑みで。
たしかにそれを見てしまった恭也はしかし、見ていられないとすら思ってしまう、そんな笑みだった。
「はやて」
「ん、なんや?」
だが、だからこそ、恭也ははやてを見つめる。
「……俺は、はやての家の詳しい事情を知らないからどうとも言う事は本来できない。だから、戯れ言くらいに思って聞いてくれていいんだが」
そして、そんな風に前置きしてから、しっかりと、はっきりと言った。
「寂しいなら、寂しいと言わなければいけない。それは子供の義務で権利だ」
「え?」
「家族が好きなんだろう? そばにいて欲しいのだろう? 叶うかどうかは別として、そう思うならそれをちゃんと伝えなきゃいけない」
「で、でも……そんな事言ったら……その、……めーわくやし」
「迷惑をかけることのどこが悪い? 他人じゃない、家族なんだろう? わがままを言い合って、わがままを聞き合うのが、家族だ」
迷惑面倒、かけあってこそ。それすら愛する、それごと愛する。
少なくとも、そういうものが、恭也の思う家族の形だ。
「何も、傍若無人に振る舞えと言っているんじゃない。ただ、あんまりに本心を隠すのはよくない。隠した方も隠された方も、寂しい思いをするだけだからな」
「……」
はやては、虚を突かれたように、ただ呆然としていた。
「……すまん、やはり戯れ言だったな。聞き流してくれていいぞ」
その様子に、恭也はそう付け足すように言った。
先ほどまでの言葉に嘘偽りはないが、それでもそれはやはり恭也の持論に過ぎない。押しつけても仕方のないことである。それこそ、自分は彼女の家族ではないのだから。
出過ぎた真似だったかと少し反省する恭也、しかし、
「……ううん」
はやてはゆるゆると首を振った。
「恭也さんの、言うとおりかもなあ……。なんや、そやな。私が遠慮したったら、みんなも私に遠慮してまうかもしれんよな。……それは、寂しいな。家族、なのになあ」
うん、と、一回大きく頷き、はやては今度はさっきとは違う力強い笑みを浮かべた。
「みんなが帰ってきたらゆうてみる。……せめて晩ご飯くらいは、一緒に食べたいって」
「……そうか」
「うんっ」
そんな彼女の笑顔を見ながら、恭也は胸の中、少女のその願いが聞き届けられることを祈った。
「そっくりの……っ! ははっ! はははははははははははっ!! そっくりの小学生!! はははははははははは!!」
「お、おししょー!!」
「……すまん」
つい、口が滑った。
せめてレンには黙っておこうと思ったのだが、夕食を食べ終えて、そう言えばおししょ、お昼はどうされたんですか? なんて風に問われて。
そのまま流れで、自然とはやての事をその容姿を含め、語ってしまった。
「はははははははっ!! ひっ、ひっ、はははははははは!!」
爆笑の晶、である。高町家のリビングに、さっきからずっと遠慮のない笑い声を響き渡らせている。
「おおいおサル…………今ここが臨界点の直前やで……。その馬鹿笑いを止めるなら今やで……」
激怒のレン、である。ぴくぴくと、その頬を痙攣させている。
「ひっ、ひっ、はははははははは! そ、そんなこと、ひっ、ははっ、い、言われても!! とまんねえっつーの!!」
「あ、晶……」
苦笑いの美由希の隣、レンがゆらりと椅子から立ち上がり、
「……はっ!!」
「ぐぉ!!」
床で笑い転げていた晶に低空から両手での掬い上げるような一撃を見舞い、その体をやや斜め前方、宙へ浮かせる。
「はあああああああっ!!」
「おあああああああああっ!?」
間髪入れずに、一気に加速、走った勢いを殺さずに、そこから華麗な二段飛び蹴りを叩き込んだ。
飛雲天砲からの、絶招・浮月双雲覇。
彼女の怒りを表すかのように、実に容赦のないコンボだった。
「どわっ!!」
晶が吹き飛んだ先がソファーだったというのは、晶への配慮ではなく、室内ゆえの器物破損を憂いてだろう。
「……あ、…………あ、ぐ、うううう…………」
さすがに堪えたのか、苦悶の表情の晶。
「お、おししょー!! そんなに似てはったんですか!? その子とうち!」
少し涙目のレンが、振り返って問うてくる。
「ま、まあ……そうだな、完全に、完璧に瓜二つと言うわけではない。ベースが同じ、というか、格闘ゲームの2Pキャラクターのようだった」
「なんのフォローにもなってませんよ!?」
「ぐ、ひ、ははははははは! 見てえ……超見てええ…………!!」
ソファーの上、蹲りながらも、またしても笑い声を上げ始める晶。
「……なの、ちゃんがっ、風呂から出たら、教えてやろう……!」
「やってみい……、ぶち殺すぞサル……!」
「そ、そうか……、そうだなっ、ひっ、ははっ、そうだな……! な、なのちゃんが、その……はやてちゃん? と、もし友達に、なっちゃったらっ、お前と見分けつかなくなって、困るもんな……っ!」
「ぶち殺す!」
二人は、ソファーの上、取っ組み合いを始めた。
「……二人とも、一応、高町母が電話中だから、静かにな」
そんな恭也の注意には、
「ひひっ、は、はい……っ、はははははっ!」
「こ、この……! おししょ! ちょおお待ちを! すぐに静かにさせます!!」
そんな返答が返ってきた。……一応は、この諍いの種を持ち込んでしまった身の恭也としては、それ以上の事は言えなかった。
「でも……そんな事があったんだねえ。はやてちゃん、か。なのはと同じ歳だっけ?」
テーブルを挟み、対面に腰掛ける美由希に恭也は頷き返す。
「ああ。だが、歳の割には落ち着いていたな。本当に良い娘だったぞ。もしかしたらお前よりもしっかりしているかもしれん」
「そ、そんな!」
「少なくとも料理は作れるな、それもかなりのレベルで。その点ですでに大差がついてる」
「……うう、耳が痛い」
渋い顔をする美由希。
「……うん、前に言ってたわね。…………うん、そうそう。すごいじゃない」
かすかに聞こえてくるのは、親しげな口調で電話をする桃子の声。電話はついさっきかかってきたもので、恭也が桃子に取り次いだ。相手は何回か恭也も話したことのある桃子の友人だった。桃子と同じように洋菓子の道を行っている女性である。
「私もお料理、やっぱり練習して」
「止めておけ、高町家から死人と犯罪者を出す気か」
「ひ、ひどい! 向上心を持った妹に言う言葉じゃない! なのはのお料理は応援してるくせに! 食べるくせに!」
「そりゃあ、まだ確かに習いたてとは言えなのはの作るものは立派な料理だからな、出されたらありがたく頂くさ。だがお前のは違う。生物兵器だ、バイオテロだ、キッチンジェノサイドケミカルだ。お前の料理の腕は低いと言うよりマイナスなんだ。むしろ絶対値をとれば、世界トップの料理人ともとんとんかもしれんな」
「兄の台詞じゃあ、家族の台詞じゃあ、いや、人の台詞じゃあないよそれ! 傷つきやすい繊細な十代の少女に放つ言葉じゃないよそれ! 私にだって心はあるよ!」
「俺にだって命がある。お前に迂闊に料理をさせて致死性の毒物を生成されるわけにはいかん」
「兄が、兄がいじめる……」
テーブルの上、崩れ落ちるように突っ伏す美由希。
「まあ半分くらいは、いや、三分の一……五分の一……十分の一………………全部冗談ではないのだが、そう気を落とすな」
「ちゃんとしたフォローが欲しい!」
「いつか何かの拍子にうまいこと何かしらが作用して何とかなるかもしれないとも限らんぞ、望みだけは捨てるな」
「気休めはいらない!」
と、悲痛な声で美由希が叫んだところに、
「ええ!? いや、それは、ええ、ちょっと無理よお!」
そんな声が聞こえてきた。
未だ取っ組み合う晶とレンのものでも、恭也のものでも美由希のものでもない、桃子のものである。
「かーさんは無理だと思ってるのか……。まあ、それこそ無理もないことだがな」
「あれは電話の相手との話でしょ!? 私の料理の将来性に対してのコメントじゃないよ!」
二人がそんな会話を交わす間にも、桃子の方も話が進んでいる。
「……うーん、いや、わかるけど、わかるけど、でも、明日でしょ? 明日は駄目なの。明日はどうしても……え、あら、ええー、あららら、そ、それはまずいわね……ほんとにまずいわね………………ううううううううん……」
唸り声を上げ、受話器を握り締めて葛藤する桃子。
「どうしたんだろ、かーさん」
「なにか頼みごとでもされているのかもしれんな……」
盗み聞きは趣味が悪いとはいえ、なにぶん動揺しているのか桃子の声は大きく、恭也達のところまで否が応でも届いてきてしまう。
漏れ聞こえてくる会話からすると、明日に何か頼まれているらしいが、
「でも、明日って……」
「ああ、なのはのアレだな」
その明日には、桃子には予定が入っている。
なのはの授業参観と三者面談である。
両方ともに午前中には終わるとはいえ店主である桃子が簡単に店を空けるわけにはいかない。だが、それでもなんとかスタッフのシフトを上手く調整し、作り置きやなにかも出来る限り準備して、どうにか行ける算段をつけていたはずだ。
「……そうよね、それはほんとに。他のスタッフは? うん、うん。ううーん……それはちょっと、そうね……厳しいわね……。……でも、ううーん、明日は……」
だが、電話相手もそうとう粘っているようだ。あちらもあちらでのっぴきならない事情があるらしい。
どうなるのだろうか、さすがに気になってきた恭也と美由希の耳に、
「………………………………わかったわ。うん。うん」
やがてそんな複雑な感情のこもった言葉が聞こえてきた。
その後、少しのやりとりを交わし、桃子は電話を切った。
そして盛大にため息をつき、その場に崩れ落ちる。
「か、かーさん!?」
「かーさん、大丈夫か?」
慌てて駆け寄る美由希と恭也。
「恭也、美由希、どうしよう……。ごめん……ごめんね……なのは……」
「あー……」
「……まあ、だいたいの事情は察せるが」
友人の店で、懇意にしている非常に高名なお客がパーティーを開く。しかし、それが明日に迫った段になって、主要スタッフの数人が不慮の事態で入院、当日に作業が出来ない状況となった。だが今更取りやめるわけにもいかず、しかし生半可な腕のものをヘルプに呼ぶわけにもいかず……。
そういうわけで、桃子に声がかかった。
桃子が沈んだ声で語ったのは、おおよそそんな話だった。
「詳しい状況も聞いたんだけど、本当に切羽詰まってるみたいで……。事前準備は全部終わってるみたいなんだけど、当日スタッフがどうしたって足りなくて……このままじゃ下手したら店の危機だって……」
「そんな状況の友達に手を貸すのは、間違った事じゃないと思うけど」
美由希の言葉にしかし、桃子は首を振る。
「でも……でもでも母親としては間違いよ……。普段だってちゃんとかまってあげられてないのに、こんな時までこんな事じゃあ……」
「さすがに今回は状況が状況だろう。それに、あいつに寂しい思いをさせているというのなら俺達だって同罪だ。かーさんだけの事じゃないだろう」
「二人とも……ううううう」
「ほら、立ってくれ。茶でも煎れてやるから、な」
恭也は落ち込む桃子をほとんど抱えるようにして立たせ、椅子へと座らせる。
そして言葉どおり、キッチンへ向かうと棚から茶葉を取り出し、暖かいお茶を煎れ、桃子の前のテーブルに置いた。
「ありがとう恭也……ごめんなさいね……」
桃子は力のない笑顔を浮かべると、恭也の出したお茶に口をつけ、
「美味しい……はあ……」
ため息を吐いた。
「なのはがお風呂から上がったら、ちゃんと説明しないとね……」
「……そうだな」
「あの娘、楽しみにしてくれてたから……きっと悲しむわ。でも、多分、"しょうがないよ、大丈夫"って言ってくれちゃうのよね」
「なのは、そういう娘だもんね」
甘えんぼではあるが、それを隠して人一倍気を遣う娘。それが恭也達のなのはへの共通認識だ。
だからこそ、伝えるのが辛い。
怒りもせず、泣きもせず、裏側で悲しみながらそれでもきっとなのはは笑顔を作ってくれるだろうから。
寂しいなら、寂しいと言わなければいけない。それは子供の義務で権利だ……今日、恭也がはやてに言った台詞だが、ある意味でこれはなのはへの願望も含まれていたと言える。
「なんとかならないかなー」
美由希が困ったように言う。
「そうだな……。しかし、まさか俺たちが代わりにその友人の店の手伝いに行くわけにもいくまい、なんの役にも立たんだろうからな。洋菓子作りの腕でかーさんの代わりになるような人物のあては……ううむ……」
誰かいただろうか、考え込む恭也。晶やレンを筆頭に料理上手なら心当たりは何人かいるか、菓子作りとなるとなかなか……。
己の人脈に考えを巡らせ、うなる恭也だったが、
「…………」
「…………」
「どうした? 二人とも」
不意に、自分に視線が向けられていることに気付いた。
恭也を見つめる二人――美由希と桃子は、
「そっか、そうだよ」
「……そうよ、その手があったわ!」
そしてそう言って、恭也の手を力強く掴んだ。
「ふむ……こんなものか」
現在時刻は朝の八時半。
恭也は自室の鏡の前、全身を細部までくまなくチェックした後、そう一言呟き頷いた。
髭も剃り、眉も整え、髪もきちんとセット。
左手には時計をはめ、身に纏うのは品の良いスーツ。
「……サイズ、ぴったりだったな」
時計もスーツも、士郎のものだ。
自分のものでもよかったのだが、仕事用の血と硝煙にまみれたそれを着ていくのはどうかと悩んでいたら、桃子が出してきてくれたのだ。
格好だけでも父のもので行けるというのは、別の意味でも良かったと言えるかもしれない。
なにせ、今日は、保護者として、桃子の代わりになのはの授業参観と三者面談に向かうのだから。
(喜んでくれるだろうか……)
恭也は心の中、自信なさげに呟いた。
昨日の晩、桃子に拝み倒され、なのはのためになるならと引き受けたことではあるのだが、しかし自分が行ってそれで果たしてなのはが喜んでくれるのかどうか。
なのはには、今日、恭也が行くことは伝えていない。どうせなら驚かせちゃったら? との美由希の言葉によりそうなった。何を意味のわからないことを恭也は反対したのだが、結局は押し切られてしまった。
「……なのはに恥ずかしい思いをさせることだけは避けなければな」
そう一人ごち、恭也はもう一度鏡を覗き込む。
着飾りこそしないが、普段から身だしなみにはある程度気を遣ってはいる。
そんな恭也をして、今日は特に入念に整えたと言えた。
変な格好をしてしまっては、恥をかくのは自分ではなくなのはなのだ。それだけは死んでも避けなければならない。
その後も、何度も何度も確認し、
『主、ご心配なようでしたら母上様にご確認頂いたらいかがでしょうか?』
という魅月の意見に従い、恭也は部屋を出た。
美由希達はみな、既に学校に向かったので、リビングには準備をする桃子一人だけだった。
「かーさん、すまないんだが」
「あら、恭也、支度はでき………………」
かけられた声に振り向いた桃子は、恭也の姿を見て、固まった。
「……かーさん?」
やはりどこか変だったか。魅月の言うとおり確認してもらってよかった、そう思いつつ恭也は再度桃子に声をかける。
「すまない、かーさん。どこが変だ? 自分ではよくわからなくてな」
「……」
「かーさん?」
「……え、は、はい! えっと、何かしら?」
やっと再起動した桃子に、そこまで自分の格好はおかしかったかと若干落ち込む恭也。
「いや、どこかおかしな所があるかどうか聞こうと思ってな。その様子では相当まずい部分がありそうだが……すまない、どこがおかしいか教えてくれ」
しかし桃子は、要領を得ないとばかりの様子で言った。
「え? おかしいところなんて一つもないわよ」
「……? だがさっきの反応は……」
「あ、ああ、違う違う、違うのよ。ごめんなさい、ちょっと驚いちゃって。……すごいわよ恭也、我が息子ながら驚くほどの完成度よ」
「そ、そうか? まあ変でないのならいいのだが」
「全然変じゃないわ。それどころか、……うん、完璧よ。桃子さんが太鼓判を押してあげる」
言いながら桃子は、上から下まで改めてまじまじと恭也を見つめる。
「いやあ……本気でばっちり決めるとここまでのものになるのね。そうだ恭也、今度この格好で宣伝チラシと店内メニュー用の写真撮りましょうね。これは世間様に広く公開しないと罪になるわ」
「さすがにそれは身内贔屓の引き倒しだぞ、かーさん」
「その自覚の無ささえなければねえ……恋人の一人や十人や百人……」
「そんなにいたら問題だろう……」
当人としてはひどく真っ当に突っ込みをいれたつもりだったが、しかし桃子はあきれたように肩をすくめた。
「……?」
「まあ、恭也のその性格をどうにかしなきゃってのは後々の議題にするとして」
そして桃子は、真剣な口調に切り替え、言った。
「今日は、よろしくお願いね」
急遽代わりをまかせる恭也に対して、そして何よりなのはに対して、罪の意識を感じているのだろう、少し陰のある声だった。
「昨日も言ったが、あまり気に病むな、かーさん」
「……うん、ありがとう」
「やれるだけはやってくるから安心してくれ。まあ、俺でなのはが満足してくれるかはわからないがな」
「……本気で言ってるの、それ?」
一転、呆れた風に問う桃子に、恭也は頷く。
そんな恭也に、頭を振ってため息を吐いてから桃子は言った。
「もうちょっとちゃんと自覚するべきよ、恭也」
「なにをだ?」
「なのはのことよ。あの子は、なのははね、恭也が自分で思っているよりもずっとずっと、恭也の事が大好きよ」
とは言われたものの、
(大丈夫だろうか……)
恭也の胸の中には、不安が渦巻いている。
本当に自分でなのはは喜んでくれるのか、そして、恥ずかしいと思わないか。
不安だった。
なにせ、現在、聖祥大学附属小学校に着き、なのはの通う三年一組へ向かう廊下を歩いているのだが、
「……やはり、俺では場違いか」
教室を通り過ぎるたび、誰かとすれ違うたび、まとわりつくような視線を感じる。
いちいち、じっくり見られている。
自意識過剰かとも思ったが、見られているかどうかということを"心"を使える自分が間違えるはずもない。
堪らず、一度トイレに駆け込み、身だしなみを再確認もしたがやはりおかしな点はないように思えた。
それはつまり、おかしな格好をしているのではなく、自分がいること自体がおかしいということではないか。
恭也はため息を吐く。
これでは、なのはに喜んでもらうなど……。
『主』
そんな風に沈みかける恭也に、魅月が念話で声を掛けてきた。
『む、なんだ?』
『お聞き下さい無自覚な主よ』
『無自覚? いや、自覚はしているんだ、場違いだから見られているというくらいの』
『違います。ですから無自覚なのです』
会話を交わす間にも、またしても前方から歩いてきた同じく授業参観に来た保護者と思われる婦人二人組が、恭也の姿を見るやいなや思わずといった様子で足を止め、興味津々、視線を向けてきた。
「……あの、何か?」
「え、あ、何でもないの!」
「ごめんなさいね!」
恭也がそれにこらえきれず声をかけると、弾かれたように顔と手を振り、二人はその場から去っていった。
「……はあ」
ため息をこぼす。
さっきからずっと、こんな調子だ。どころか、写真を撮られたことすら数回あった。
『主、貴方は先ほどの女性二人の反応をどのようにとらえましたか?』
『場違いなものを見たリアクションそのままだろう……』
『勘違いですよ、それは。母上様もおっしゃっておりましたが、貴方はもう少し、ご自身の魅力についてご自覚するべきです』
『そう、言われてもな』
恭也には、あまりピンとこない話だった。
『よろしいですか、貴方は……いえ』
魅月はそこで言葉を切った。
そうこうしているうちに、なのはの教室が近づいてくる。そして、魅月は続きを口にした。
『これを伝えるのは、私などよりもはるかに適任の方がいらっしゃいますね』
『……?』
『貴方の魅力を、世界で誰よりご存じな方のことです、愛されし主よ』
また、教室のドアが開く音が響いた。
担任の先生からは、あまり後ろは見ないで授業に集中するように言われているが、それでも皆、やはり気になるもので、それはなのはも例外ではなかった。
(今度こそ、お母さんかな?)
いけないとは思いつつ、しかし後ろを見たいという欲求も強く、葛藤していると、
「……?」
教室がざわつき始めた。
いや、浮つき始めたと言ったほうが適切かもしれない。ところどころで黄色い声が上がっている。
教壇に立つ先生すら、授業を進める手を止めて、教室の後方を見つめている。
結局釣られるように、なのはも皆と同じく後ろに目を向けて、
「っ!?」
声を抑えられたのは、自分でも自分を褒めてあげたいくらいだった。
(お兄ちゃんっ!? なんで!?)
振り向いた後ろ、他の保護者達に混ざり立っていたのは、兄だった。
「お父さん……じゃないよね。お兄さんかなっ?」
「超かっこいいー!」
あの俳優に似てるだの、あのモデルに似てるだの、あちらこちらでそんな声があがっている。
それもそのはずだった。
普段から身なりはきちんとしている兄だが、今日は一段と整っており、その姿はもはや完璧というタイトルをつけて額に飾ってもいいくらいだった。
端正で精悍な顔立ち、すらりとした体躯、それらを引き立てる品のいいスーツに、洗練された立ち居振る舞い。
上から下まで余すところなく隙がない。
恭也を見慣れているなのはですら思わず見入ってしまい、恭也の魅力を深くわかっているなのはだからこそ誰より魅入ってしまう、そんな姿だった。
有り体に言って、ものすごく格好良かった。
そして、そんな兄はどうやら、向けられる視線の意味を正しく理解していないようだった。
恭也はため息と同時、憂うような表情を浮かべた。そして教室を見渡し、
「……あ」
すぐになのはを見つけ、申し訳なさそうな顔をしてくる。
手に取るようにわかる。
やはり俺では場違いだったな。
恥ずかしい思いをさせてすまない。
……あれは、確実にそんなことを思っている顔だ。
豊かでない恭也の表情から感情を推し量る事にかけては世界一の自負があるなのはには、はっきりとわかった。
「え、えっと」
もちろん、なのははそんなことは思っていない。兄を恥になどどうして思うものか。
事情は、なんとなく察せる。
母が何かしらの事情で来られなくなって、代わりに来てくれたのだろう。今にして思えば、昨日の晩、自分がお風呂を出た後あたりから、母の様子はどうもおかしかった気もする。元気がなかった、というべきか。
母は忙しい身だ。楽しみしていただけに、来てくれないことはやはりとても残念に思うが、責めるつもりもない。
そして、兄が来てくれたことは、それはそれで、というか、それも十分、いや十二分になのはにとっては嬉しいことだった。
どうにかしてそれを伝えなければ。
だが、
「は、はい、皆さん! 前を向きましょうね、授業に集中しましょう!」
そんな担任の声が響き、また兄にも仕草で促され、なのははやむなく前を向く。
念話を使えばよかったと気付いたのは、授業が終わってからだった。
「恭也!」
「っと、いきなりだな」
授業が終わり、恭也の元へ一番に飛びついてきたのは、なのはの友人、アリサ・バニングスだった。恭也は彼女を優しく受け止める。
「久しぶりねっ、恭也!」
「ああ、久しぶりだな、アリサ。元気だったか?」
「うん、もちろん! でも今日は私のことより恭也のことよ!」
「俺のこと?」
「うん! 今日の恭也、すっごく決まってるわよ! ハリウッドスターみたい!」
そんな言葉に、思わず恭也は苦笑を浮かべる。
「褒めてくれるのは嬉しいが、世辞が過ぎるぞ、アリサ」
「お世辞じゃないわよ。私お世辞なんて言わないもの。ほんとの事よ」
「いやしかしな……」
「アリサちゃんっ!」
と、そんなやりとりを交わす二人のもとに、なのはが走り寄ってきた。
そして恭也に抱きつくアリサに後ろから組み付いて、引っ張り始める。
「はーなーれーるーのっ! なにやってるんですか!」
「いーやーよ! いいじゃないちょっとくらい! どうせなのはは家で恭也にべったべったくっついてるんだから今くらい譲りなさいよ!」
アリサもアリサで離れるものかと、恭也にしがみつく力を強める。
「べ、べたべたなんか………………してないよ!」
「絶対嘘よ! 今間があったもの!」
「いいからとにかく離れるの! お兄ちゃんから離れるの!」
「早いもの勝ちよ! 前の方の席にいた自分を恨みなさい!」
「二人とも、落ち着け。教室で騒ぐな」
どうにも収集がつかなそうな気配を感じたので、恭也は二人に軽くデコピンを当てた。
「きゃんっ! 痛いじゃない恭也……!」
「わっ! うううう頭に響きます……」
アリサもなのはも額を抑えたおかげで、アリサは恭也から手を離し、なのははアリサから手を離す。勢い余って少しよろめいた二人だが、倒れるほどではなく。
「うむ」
一件落着だ。そう言わんばかりに恭也は頷いた。
「アリサちゃん、二人を困らせちゃ駄目じゃない」
「なのは、気持ちはわかるけどあんまり騒いだら駄目だよ」
そこに、すずかとフェイトが静かに歩み寄って来た。
「恭也さん、お久しぶりです」
「久しぶりだな、すずか。元気そうで何よりだ。月村達も変わりないか?」
「はい。たまにはまたうちに遊びに来てください」
「ああ、今度そうさせてもらうよ」
その言葉に、すずかは待ってますと言って微笑んだ。
「学校で恭也さんに会うのって、なんだか新鮮ですね」
そう声を掛けてきたのは、フェイトだ。
「そうだな。……む、そういえばフェイトの制服姿をきちんと見るのは初めてかもしれないな」
「あ、そうかもしれませんね。いつも運動着とか……ですし」
「だな」
正確には運動着かバリアジャケット、だ。さすがにそこを言うわけにはいかないからだろう言葉を濁したフェイトに、恭也も頷いた。
「よく似合っているぞ。黒もいいが、白も映えるな」
「え、あ、え、そ、そうですか……?」
「ああ」
頷く恭也に、
「ありがとうございます……」
フェイトは真っ赤に染めた頬を両手で抑えながらそう言った。
「さて、なのは」
「あ、うん」
そして恭也は、なのはに向き直った。膝を折り、屈んで、視線を合わせる。
「……ごめんな。かーさん、今日は来られなくなったんだ」
「あ、やっぱりそうなんだ……うん」
「昨日の夜、かーさんの友達でうちと同じように店をやっておられる方から、電話がかかってきてな」
恭也は、昨日の話をなのはに説明した。
「店の危機とまで言われたらしくてな……そっちへ行くことになってしまった。すまない、なのは。勝手な事を言うようだが、かーさんもずいぶん悩んでいたみたいだし、許してやってくれないか」
「そ、そんな、許すっていうか、怒ってないよ。お友達がそんな大変な事になってるなら助けに行くのは当然だろうし」
「そうか?」
「うん」
「……ありがとうな」
恭也はなのはの頭を優しくなでた。なのはは恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに微笑んで言う。
「だからおにいちゃんが来てくれたの?」
「ああ、そうだ。……悪いが、今日は俺で我慢してくれるか?」
「我慢だなんてことないよ! なのはは嬉しいですっ」
そう言って飛びついてきたなのはを、恭也は抱き留める。
「っと、そうか?」
「うん!」
「そう言ってくれると安心するよ。どうにも俺は場違いみたいでな、変な目で見られるし、迷惑かとも思ったんだが……」
「……やっぱり勘違いしてたんだ」
ため息を吐くなのは。
「みんながおにーちゃんを見てたのはそういう理由じゃないよ」
「そうなのか? じゃあ……」
「おにいちゃんがかっこいいから、みんな見てたんです」
「……………………ふむ」
「ぜ、全然信じてないね……」
そう呆れたように言われても、恭也としては到底信じられることではない。
「まあ、その励ましてくれる気持ちだけ受け取っておくさ」
「……はー」
その言葉に、なのははさっきよりも大きいため息を吐いた。
「あ、そう言えば、大丈夫なの? 大学は……」
「今日は自主休講にした。問題ない」
「そ、それは問題ないんですか?」
「なに、もとより仕事で休むことも多々あるし、単位に影響するほどじゃない。平気さ」
もちろん無闇に休むわけにはいかないが、実際一回休んだくらいでどうこうなるものではない。それに、そんなことよりなのはの方が恭也にとっては大切だ。
「せっかくこうしてなのはの様子を見に来られるチャンスなんだ、来ないと損だしな」
「そ、そーですか? えへへへへ………………痛っ!」
緩みきった笑みを浮かべるなのはは、突然声をあげ、後頭部を押さえた。
そして後ろを振り向き、言う。
「痛いよ! なんで叩くのアリサちゃん!」
「そっちこそなんで私がやったって決めつけるのよ」
「こんなことするのはアリサちゃんくらいだよ!」
「これみよがしに見せつけるなのはが悪いのよ」
「やっぱりアリサちゃんじゃない! それに見せつけてなんていないよ!」
心外だとばかりに抗議するなのはを、ジト目半眼でアリサは指さした。
「見せつけてるじゃない、そんなにべったりくっついて」
「これは……よくある日常のワンシーンです」
「なのは、今あなたはこの教室の約半数を敵にまわしたわ。これからの学校生活が穏やかなものになるとは思わない事ね」
「そ、そんな! そんなことないよ、ね、フェイトちゃん、すずかちゃん」
同意を求めるように、なのはは二人に目を向ける。
「ごめんね、なのは。私はアリサに一票かな」
「私も、かなあ」
しかしフェイトもすずかも笑顔でそんな風に返した。なのははうめき声を上げ、嘆く。
「培ってきた友情がこんなにも簡単に崩れるなんて……」
「……まあ、仲良くな」
恭也は姦しい四人娘に、苦笑しながらそう言った。
(…………参ったな)
『お疲れ様です、主よ』
魅月のそんな労いの言葉に、恭也は苦笑で答えた。
授業参観が終わり、次は三者面談。
各々、割り当てられた時間まで生徒は教室で自習、保護者は待機となった。
そして今、恭也は待機場所として用意された教室ではなく、その前の廊下に立っている。
『大変でしたね』
『ああ、物珍しく思う気持ちもわかるんだが、あれはな……』
魅月と念話を交わしながらも、恭也は深くため息を吐いた。
待機場所へ案内してくれたなのはのクラスの担当教諭がこの後の予定を話し、その場から去ってから、恭也に待っていたのは回りの保護者の皆さん、主にお母さん方達からの質問攻めだった。
もみくちゃにされたと言う表現がまさにぴったりだった。
どういう流れでそうなったのかは良く覚えてないが、ツーショット写真まで何枚も撮らされた気がする。
さすがに堪らず、トイレに行ってきますと言ってその場から逃げ出してきた次第である。
すぐに帰るのは精神が拒否しているので、どこかで時間を潰そうかと考えていると、
「……ん?」
(あれは…………)
「リンディさんか」
廊下の先からリンディが歩いてくるのが見えた。リンディの方も恭也に気がついたらしく、相変わらずの若々しい笑顔で手を振ってくる。
ほどなくして、リンディは恭也の隣に着いた。
「こんにちは、恭也さん。……もしかしなくてもなのはさんの三者面談、ですか?」
「ええ、そうです、母の代理で。リンディさんはフェイトの、ですよね」
「はい」
リンディが来ることは事前にフェイトから聞いて知っていた。
ちなみに、すずかにはノエルが来るらしい。忍とノエルの二択であれば、考えるまでもなくそうなるだろうなと、忍に言えば激怒されること間違いなしの感想を抱いたのが恭也の正直なところだった。
「授業参観は来られませんでしたが、なんとかこっちには時間が作れましたので。クロノとエイミィさんが仕事を肩代わりしてくれまして」
「なるほど。……フェイト、リンディさんが来てくれるって、嬉しそうに言ってましたよ」
恭也のその言葉に、
「そう、ですか……」
リンディは安心したように一つ息を吐き、
「……ありがとうございます。恭也さん」
深々と頭を下げた。
「いえ、俺はなにも……!」
突然の礼に恭也は慌てる。こんな風に感謝を示される覚えは自分にはないはずだ。
そんな恭也にリンディは頭を上げて、静かに微笑む。
「……フェイトさんは、最近、少しずつではありますが自分の要望をちゃんと言ってくれるようになりました。あの娘にとっては、"わがまま"のつもりなんでしょうね」
「……それは」
「私やクロノに、ほんのちょっととは言え、甘えてくれているんです。それとなく話を聞いたら、貴方の名前が出てきました。ちゃんと甘えろって、言ってもらったって」
これからは、できる限りちゃんと、人に甘えろ。
それはあの日、恭也がフェイトに出した条件だった。
どうやら彼女はそれを、きちんと守っているらしい。……図らずも、冗談めかして言った通りに、リンディから確認がとれた事になる。
「今日のことだって、フェイトさんから言ってきてくれたんです。迷惑じゃなかったら、もし時間があったら、無理にとは言わないから、もしよかったら、そんな前置きは沢山ついてましたけど、でも、あの娘から言ってきてくれたんです」
嬉しかった、リンディは続けてそう言った。
激務と言っていいはずの艦長職の勤務の中、部下の助けを得ながらも今こうしていることは、その表れと言っていいのだろう。
「だから私は、貴方にお礼を言わせて頂きたいのです」
「俺は……俺がしたいことをしただけ、ですよ。本当に、それだけなんです」
「……それでも、それでもやはり、ありがとうございます」
もう一度、そう言ってリンディは恭也に頭を下げた。
ほんの少しだけ湿りの色を含んだその声に、恭也は胸の中思う。
きっと、フェイトとこの人は、良い親子になれるだろう。
「おにいちゃん、これ、おいしいよ!」
「……それはわかるがな」
目の前にはなのはの笑顔と、差し出されたフォークの先、刺さったハンバーグの欠片。
「ほら、あーん」
「……」
「……いや、ですか?」
「有難くもらおう」
元より拒めるはずもない。周囲からの視線が気になるが、意識から切り離す。
無我の境地に達する心持で口にしたハンバーグは確かに美味だった。しかし味がわかると言うことは、無我の境地にはほど遠いと言うことだろうか。
「おいしいでしょ?」
「ああ、うまい。ふむ、この店は当たりだったな」
「うんっ!」
授業参観と三者面談が終わり、午前中で解散となったので恭也となのはは街に寄り、見つけた洋食店で昼食をとっている。
ちなみにフェイト達も誘ったのだが、リンディがすぐに本局の方に戻らなくてはならないらしく、フェイトはそれに付いてあちらでクロノ達と食べる予定らしい。アリサやすずかもそれぞれの事情で共に出来ないとの事だ。
「なのはも学校でなかなか頑張っているようだし、いいご褒美になったな」
「えへへへへへ」
三者面談はつつがなく終わった。成績も授業態度も交友関係も問題なし。得意な理数系は元より、苦手な体育も最近は良くなっている。授業はいつも真面目に受けているし、友人も多い……なのはの担当教諭が笑顔で告げたのは概ねそんな内容だった。
普段の様子から予想はしていたとは言え、楽しくやれているようだ。
「担任の先生も若いながらしっかりされた方だったしな、安心だ」
「うん、先生、とっても頼りになるよ!」
「そうか。穏やかで綺麗な人だったし、あれでは人気があるだろう」
「……へー」
恭也としては素直な感想を述べたつもりだったのだが、それを聞いた途端、なのははなぜかジト目で恭也を見つめ始めた。
「なのは?」
「綺麗な人、ですか。……ずいぶん、仲良くなってたよね、おにいちゃんと先生」
「話が合ったのは確かだな」
赴任したてと言うことで年も近いし、聞けば恭也の通う海鳴大学の出身らしいと言うこともあり、多少関係ない話で盛り上がってしまったくらいだ。
「……おにいちゃんはああいう人がタイプなんですか?」
「タイプ?」
「女の人の好みです」
「いや……うーん」
恭也にしてみればそれは唐突な問いだったが、何分なのはが桃子譲りの有無を言わさぬ無言の迫力でプレッシャーをかけてくるので、答えざるを得ない。
「特段そう言うわけでもないがな。と言うか、会って少し話したくらいでわかるものでもないだろう」
「そ、そーですか」
なのはは安心したように息を吐いた。
「なんだ、なのはもそう言う事が気になる歳になったのか……」
「一応もう小学三年生です、当たり前です!」
小学三年生が果たしてそう言うことを気にしだしても違和感のない歳なのかどうなのか、恭也にはよくわからないが、女の子は成長が早いと言うし、ましてやなのはは歳に比しては大人びている方だ。
なるほど、いつの間にか、それでもいつまでも小さいままだと思っていた妹はしかし、着々と大人になりつつあるらしい。
「少なくとも、私はおにいちゃんよりはそう言う事をわかっている気がします」
「む、随分言うな。まあ俺が恋愛事と縁がないのは事実だが」
「…………おにいちゃんて本当に気付いて……………………いや、なんでもないです」
なのはは言いかけて止め、頭を振った。
何かを諦められたような気がして、悲しくなる恭也だった。
「だが、そうか。じゃあその内、なのはにも恋人が出来てもおかしくないのか」
「……え?」
「そう言えば小学生同士で付き合う……と言うのも今は珍しくない、とか美由希達が言っていたような気もするな」
何となくなのはは恭也の中でそう言う事と結びつかなかったが、冷静に考えてみればなのはにだってあり得ることだ。
身内贔屓かもしれないが、なのはは自慢の妹だ。可愛らしいし、性格だっていい。そう言う相手がすぐに出来てもおかしくないだろう。
「来ていたお母さん方にちらっと聞いたんだが、なかなか人気があるみたいじゃないか」
クラスのかわいい娘、と言えばなのはの名前は確実に挙がるらしい。
「俺よりも、なのはの方が先に相手を見つけるかもしれんな」
「……ないです、そんなこと」
冗談めかした恭也の言葉に、なのはは思いのほか強い口調で答えた。
「私、誰かと付き合ったりなんて、絶対しないよ」
「む……そうか?」
「うん、絶対」
絶対、なのはは恭也をしっかり見つめてそう言った。
「それとも……おにいちゃんは私がそういう人を作った方がいいと思う?」
「……うーむ」
こうは言っているものの、いつかはなのはも嫁に行ってしまうのであろう。
それはやはり長く兄としてなのはを見守ってきた恭也にとって、寂しくない事と言えば嘘になるが、しかし仕方のない事だとも思う。実際そんなことになったらショックでしばらくはどうにかなってしまいそうだが、反対したりする気はない。
だが、それはあくまでまだ先の、未来の話だ。
「……いや。何も無理に作ることはないだろうと思う。正直に言えば、俺の価値観からすればなのはにそう言うのはまだ早い気がするからな」
「……そっか」
恭也のその返答に、なのはは、
「うん、そっ、か……」
あまり子供らしくない、ひどく複雑な表情で頷いた。
それについて、恭也が何か言葉を発する前に、
「おにいちゃんは、どうなの?」
「なにがだ?」
なのはは問いを重ねてきた。
「そう言う相手……恋人さん、作る気あるの? 相手がいるいないじゃなくて、作る気自体はあったり、するの?」
「……そうだな」
十以上も年の離れた妹相手にこんな話を真面目にするのはどうかと思わないでもないが、しかし普段の何気ない会話ならともかく、きちんと答えを欲しているなのはに嘘や誤魔化しは出来る限り言いたくない。
恭也は真摯に返答を口にする。
「ない、かな」
「そ、そーなの?」
「ああ。というか、そういうのは、作る気になって作ろうとするんじゃなく、誰かを好きになった結果として出来るのが正しい姿だと思うからな」
「そっか……。……じゃあ、今おにいちゃんは特に好きな人は、いない、の?」
「そういうことになるな」
恭也の身の回りには、幸運な事に魅力的な女性が多く、またそれなりに深く関わらせてもらってもいる。だが、恭也にとって彼女達はあくまで友であり、そういう対象としては今のところ見てはいない。
そんなひどく正直な恭也の返答を聞いて、
「そっ、か。うん、そうなんだ」
なのはは、随分と嬉しそうだった。
安堵したように息を吐き、顔をほころばせている。
(兄離れしていない、ということなんだろうな)
その様子を見て、恭也は内心苦笑する。
なのはも、自分と同じなのかもしれない。
自分が妹離れ出来ておらず、なのはにももうそういう相手が出来るかもしれないと思って寂しい思いを抱いたのと同じように、なのはも自分にそういう相手が出来るかもしれない事を寂しく思っており、それがいないと知って安心している……ということだろうか。
「そっか。うん、えへへへへ」
「なのは、ハンバーグ冷めるぞ」
「あ、うん! 食べる食べるっ」
なのはは笑顔で食事を再開する。
それを見守りつつ、恭也も自分の料理に取りかかった。
水滴の落下音、立ちこめる湯気。
「ふー……」
高町家の風呂場、その浴槽に張られた暖かい湯に肩までしっかり浸かりながら、なのはは声を漏らした。
湯加減良好、お風呂は最高、だ。
「ふん、ふん……」
思わず鼻歌を口ずさむ。
顔が緩んでしまう。
その原因は今日一日のことだ。
(おにいちゃん、かっこよかったな……)
母が来てくれなかったことは残念だが、代わり兄が来てくれたことはとても嬉しかった。今日のことは、たぶんこれからもずっと覚えているだろう。それくらい特別な日だった。
それに、
「…………いない、んだよね、好きな人……」
そんな事まで聞くことができた。
兄には、今、特に好きな人はいない。
その事実は、とてつもない安堵をなのはに与えた。
良かった、本当に。
良かった。
安心、した。
「……」
なのはは、鼻歌を止めた。
そして、今日恭也の前で見せたような複雑な表情を浮かべると、湯船に張られた湯の中へ、ゆっくりと沈んでいく。
(兄離れできない妹、とかだろうな、おにいちゃんが思ったのって)
今日の、あの昼の会話で兄が得た感想は、きっとそのようなものだろう。
それは当たり前だ。それが当たり前だ。世間一般通常の、正常な反応だろう。
普通の、"お兄ちゃん"の反応だろう。
兄は、普通だ。
そう、だから。
おかしいのは、自分だ。
(――おにい、ちゃん……)
高町なのはは、高町恭也が好きだ。
愛している。
好きで。
愛している。
幾度となく胸の中浮かべた言葉。
それは、もちろん家族として、そして兄妹として、と言うのもある。
そう言う意味でも、当然、心の底から慕っている。
だけど。
「おかしい、よね、……こんなのって」
そう言う意味以外でも、高町なのはは、高町恭也を好きで、愛していた。
勘違いでも、考えすぎでもない。
純然たる事実として、その感情はある。
男の人としての高町恭也を想う気持ちが、高町なのはの中にはある。
家族という言葉で誤魔化せない、兄妹という言葉で包めない、幼さ故の感情という言葉で片付けるにはあまりに色褪せない、そんな想いが確かにある。
強い強い、想いがある。
この気持ちがいつから生まれたのかは、実のところなのは自身にもわからない。
通常の家族という枠を超えて、彼を求める自分がいる事を、なのははずっと前から当たり前のように知っていた。いつからと言われても明確には答えられない。
だから、"兄妹は結婚できない"と言うことを知ったときは、極自然に、順当に、当然の帰結として、なのはは絶望を味わった。
届かない願いがこの世にはあるのだと言う事を、痛いくらいに思い知らされた。
なのはが、フェイトと友達になりたいと思った理由の大きな一つは、これだった。
手を伸ばしても届かない絶望。
そして、それでも手を伸ばすことを止められない渇望。捨てられない希望。
自らが抱えるそんな想いと似たものを、出会い、戦い合ったその中で、フェイトの瞳の奥に感じたのだ。
フェイトのそれは、母へのもので。
なのはのそれは、兄へのものだった。
結婚は出来なくても。
そういう形で結ばれることは出来なくても。
一人の男性としての高町恭也に愛してもらえる日が、いつか、もしかしたら。
来るはずない、来てはいけない。
でも、どうしたって来て欲しい。
そんな想いを抱いたまま、なのはは今まで生きてきたし、それがこれから変わるとも思えない。
高町恭也を想う気持ちは、高町なのはの根幹で、それが消失することは高町なのはの終わりを意味する。
これは、もはや悟りに近い考えだった。
彼への想いを誤魔化そうとして忘れようとして取り消そうとして、そしてそれらが悉くものの見事に失敗に終わった結果として得た考えだった。
私が私である限り、これはもう変わりようがない。
そう、なのはは分かりきった。
自分について理解しきり、自分について納得しきった。
そんな自分を認めよう、そう思った。
彼を、好きで、愛している。
どうしようもなく。
「はっ、ふう……」
物思いに沈みながら湯にも沈んでいた顔を水面に出し、息を吐く。呼吸と、ため息だ。
「……」
なのはは、そのまま視線を下げ、自分の体を見る。
「はあ……」
もう一度、ため息がでた。
清々しいくらいに凹凸のない子供の体。九歳の、流線型フォルム。
女性らしさなど一欠片もなかった。
もちろん、わかってはいる。もし子供でなかったとしても、そもそもが妹だ。兄が自分をそういう対象として見ることなどありえない。
わかっては、いるのだけど。
それでももし、もっと大人だったら、なんて事を考えてしまう自分のどうしようもなさには、流石にもう慣れている。
「おにい……、ちゃん」
彼には今、特に好きな人はいないらしい。
彼自身は全く気がついていないが、彼の回りには彼を強く想う女性がたくさんいる。綺麗な人、素敵な人、大人な人。なのはの持たないものを沢山持った、彼と並んでも何の違和感もない、彼と結ばれても何も不思議ではないそんな人たちが、いる。
なのははいつも、気が気でない。
いつか彼が恋人を作ってしまったらどうしようと、いつも思っている。
自分がちゃんとした恋人になることが不可能だからと言っても、彼が自分以外の人と結ばれていいとは、なのはには思えない。そんなに清らかではない。
暗い気持ちも黒い気持ちも重い気持ちも、この小さな胸に詰まっている。
張り裂けそうな思いを抱え、なのはは今日まで生きてきたし、明日からも生きていく。
「おにいちゃん……っ」
眼を瞑り、もう一度、そう彼を呼んだ。
どこが好きか。どう好きか。語ることはできるけど、語り切るには無限の時間を要するだろう。
彼を想う気持ちなら、掛け値なしに、決して誰にも負けない自信がある。
最初で最後の恋。ありふれた、しかしドラマチックなそのフレーズは、なのはにとってはただの事実だ。
この恋が、もう自分の一生をどういう形であれ貫いてしまっているのだという事を、なのははどうしようもないくらいに自覚している。
性格はアニメで、家庭環境が原作というのがこの作品におけるなのはですが、だとするとこういう展開もありえるんじゃないかなー的な。
ごめん違う、あって欲しいなー的な。
アニメのなのはというのは、特にStSで顕著ですが、恭也さんとものすごく良く似ているように思える(根底の思想とか)わけで、そんな彼女が恭也さんの存在が言うまでもなくものすごく大きいとらハ3の家庭環境で育ったなら、共感でき尊敬できる思想を持っていて、そして自分を誰よりも確かに守ってくれる人の傍で育ったなら、まっすぐその人にああいう想いを抱いてもおかしくない、かもわからんじゃない?
僕の趣味と言えばそれまでです。
苦手な人、ごめんね。
あと、今回、自閉モードとかいう意味のわからないものが出てきましたが、あれに関しては勝手に付け足した設定です……。
ご容赦下さればと思います。
次の第七話は僕の中でやりたい放題の第七話との評価を得ています。
やりたい放題です。
第五、六話ではあまり話が進みませんでしたが、ちゃんと第七話では進みます。