日本だけダンジョン発生中――政府が検討している間に世界最強になっていた 作:御影 智人
世界中にダンジョンが発生してから、四時間十二分。
アメリカ東部のある郊外都市では、大型商業施設の駐車場に突然現れた石造りの階段を、州警察と州兵の車両が三重に囲んでいた。
ネイサン・ウォーカー大尉は、臨時指揮所になったトレーラーの中で、その入口をモニター越しに眺めていた。
日本にだけダンジョンが存在していたこの五か月、映像なら嫌というほど見ている。駅前に穴が開き、学校の裏に階段が生え、一般人が園芸用のスコップや角材を持って中へ入っていく動画まで、研修資料として見せられた。
見るだけなら、ずいぶん現実味のない話だった。
だが今、その現実味のないものが自宅から車で四十分ほどの場所にあると思うと、さすがに胃のあたりが落ち着かなかった。
「民間人の退避、完了しました。入口周辺の店舗も閉鎖済みです」
州緊急対策局から派遣されたサラ・ミラーが、タブレットを片手に報告する。
「負傷者は?」
「入口が出たときに転んだ人が一人。足首の捻挫です」
「ダンジョン発生による最初の負傷者が捻挫か」
「記録上はそうなります」
ウォーカーは少しだけ笑った。世界の常識が壊れた日の被害報告としては、妙に生活感がある。
もっとも、このまま捻挫一件で終わる保証などどこにもない。
「それで、例の手順書は?」
「来てます。最新版」
サラがタブレットを差し出した。
画面上部には、こう表示されている。
**DUNGEON ENTRY PROTOCOL Ver.0.8**
ウォーカーは二度見した。
「まだ誰も入ってないのに、もう0.8?」
「日本が五か月分、先に試してくれてますから」
「ひどい言い方だな」
「では、日本が五か月分の成功例と失敗例と事故映像と一般人の体験談を公開してくれていたおかげです」
「もっとひどくなった気がする」
手順書は、数時間で一から作られたものではない。
日本でダンジョンが発生して以降、アメリカでも「同様の現象が国内で発生した場合」に備えた対処案だけは作られていた。日本政府の公表資料、大学や研究機関の論文、報道映像、それに非公式の攻略Wikiまで、使えそうなものは片っ端から集められている。
もちろん、全部を鵜呑みにはしない。情報には信頼度が付けられ、複数の映像や報告で再現されたものだけが手順へ落とし込まれていた。
未知の異空間への初突入、と書けばファンタジーである。
やることを分解すると、封鎖、偵察、危険生物の排除、試料回収、記録だった。いつもやっていることだ。
ウォーカーはそこで、少しだけ肩の力が抜けた。
「世界の終わりにもチェックリストがあるんだな」
「ないよりはマシです」
「同感だ」
まず小型無人機が投入された。
石造りの階段を下りた機体から、薄暗い通路の映像が送られてくる。現実の地中構造とは一致しない空間が入口の先に存在することも、日本側の調査ですでに知られていたため、誰も「地下配管図ではここに通路はない」などと騒がない。
それでも、実際に自国で同じ映像を見ると気味が悪い。
やがて、通路の奥を小柄な人型生物が横切った。
サラが資料を開く。
「暫定分類、小型人型種A。日本側の通称はゴブリン」
「本当にゴブリンなんていたのか」
「正式名称ではありません」
「現場ではゴブリンでいい。襲われてる最中に“小型人型種A”なんて叫ばせたら、その方が死人が出る」
「合理的です」
日本側の蓄積によれば、視力は人間よりやや弱く、音への反応が強い。同条件の報告は数百件あり、映像も複数残っている。
ウォーカーは数字を確認してから、無線を取った。
「第一班、聞こえるか。予定どおり無人機の後ろを進め。確認範囲を越えるな」
『了解』
「それと、ゴブリン二体。音への反応が強い可能性あり」
数秒の沈黙のあと、無線から声が返ってきた。
『大尉』
「なんだ」
『本当に作戦中にゴブリンなんて言う日が来るとは思いませんでした』
「俺もだ。感想文は帰ってから書け」
緊張しているのは向こうも同じらしい。
五人の隊員が階段を下りていく。先頭は防護盾を持ち、後方の二人が銃を構えた。
ウォーカーの手のひらには、気づけば薄く汗がにじんでいた。
日本の初期映像では、似たような生物へ一般人が数メートルの距離まで近づいていた。園芸用スコップ、バット、鉄パイプ。見ているだけで「もう少し他にやり方があっただろう」と言いたくなる映像ばかりだったが、当時の彼らには、その“他のやり方”を考えるための時間も、道具もがなかった。
こちらにはある。
だから、同じことをする理由はない。
無人機の映像の中で、一体目のゴブリンがこちらに気づいた。甲高い声を上げて走り出し、もう一体もその後を追う。
『接触します』
「許可する。近づけるな」
乾いた銃声が二度響いた。
一体目が倒れ、数秒後には二体目も動かなくなった。
それだけだった。
ウォーカーはしばらくモニターを見つめたまま、次の何かを待った。増援が出てくるのか、倒した個体が起き上がるのか、もっとファンタジーらしい厄介なことが起きるのか。
何も起きない。
『対象二体、活動停止。負傷者なし』
「……了解。周囲を確認して、死体には直接触れるな。魔石が確認できてもポケットには入れるな」
無線の向こうで、誰かが吹き出した。
『大尉、それ本当に言う必要あります?』
「手順書で太字になってる」
『なんでです?』
サラが横から答えた。
「日本の初期事例を読めば分かります」
『……了解。聞かなかったことにします』
ウォーカーも笑いそうになった。
日本では、正体不明の石を普通に持ち帰った一般人がいた。それどころか数日後には買い取り価格まで付いたらしい。
正気とは思えない。
だが、その正気とは思えない五か月分のおかげで、こちらは「死体には触れるな」「石は専用容器へ入れろ」「未知の植物を食うな」と、かなり具体的な注意事項を初日から持っている。
ありがたいのか呆れるべきなのか、よく分からない。
たぶん両方だった。
調査班は予定された範囲だけを確認し、魔石と組織サンプルを回収して二十三分後に戻ってきた。
負傷者なし。装備損傷なし。確認した危険生物二体は排除済み。
全員が階段を上がってきた瞬間、ウォーカーはようやく息を吐いた。
自分でも思っていた以上に緊張していたらしい。
「どうだった?」
先頭の隊員がヘルメットを外しながら、少し考えた。
「……思ったより普通でした」
「異空間でゴブリンを撃ってきた男の感想としては、ずいぶん贅沢だな」
「撃てば倒れましたし、無線も通じました。もっとこう、魔王とか呪いとか」
「ファンタジーを欲しがるな。こちとらゲームと違って命がかかってるんだ」
周囲に小さな笑いが起きた。
四時間前まで、ダンジョンは日本にだけ存在するニュース映像の中の異常現象だった。
いまはもう、入口番号が振られ、担当部署が決まり、試料にはバーコードが貼られている。
人間は未知を理解するのには時間がかかるが、未知へ管理番号を付けるのは驚くほど早かった。
* * *
六日後。
同じ駐車場の一角には高さ二メートルを超える金属柵が設置され、監視カメラと入退場管理端末、簡易医療所まで並んでいた。
初日に大慌てで置かれたコンクリートブロックは撤去され、封鎖範囲も必要最小限まで縮小されている。商業施設は営業を再開し、少し離れたカフェでは客が普通にコーヒーを飲んでいた。
ウォーカーは引き継ぎのため現場を訪れ、入口脇の端末を見て片眉を上げた。
**DUNGEON ENTRY PROTOCOL Ver.3.4**
「一週間で3.4か。手順書班も熱心なことだ」
「今日の午後には3.5になる予定です」
サラも、もう驚いていなかった。
この六日で、アメリカ国内のダンジョンにも暫定分類番号が振られ、軍、警察、消防、研究機関の役割分担が決まりつつある。
侵入を試みた動画配信者も何人か出たが、柵を越える前に警備員に止められ、その動画は勇者の冒険ではなく逮捕記録になった。
未知の怪物がいる穴へ入りたがる人間は、どうやらどこの国にも一定数いるらしい。
だが、その一定数を社会全体にしないために柵と法律がある。
入口の前を通りかかった少年が足を止め、中を覗こうとした。
「ママ、あれがダンジョン?」
「そうよ」
「入りたい」
「絶対だめ」
母親は一秒も迷わず答え、そのまま少年の手を引いて歩いていった。
ウォーカーはそれを見送りながら、日本で一般人向けの探索予約が埋まり、攻略Wikiに新しい報告が毎日追加されているというニュースを思い出した。
同じものが存在しているのに、ずいぶん違う。
その日の夕方、政府広報は改めて全国へ告知した。
**ダンジョン周辺は危険区域です。許可された要員以外は立ち入らないでください。**
大半の市民は、それを当たり前のこととして受け入れた。
五か月前、日本には参考にできる国がなかった。
アメリカには、日本があった。
ファンタジーは、海を渡って半日で手順書になった。