日本だけダンジョン発生中――政府が検討している間に世界最強になっていた 作:御影 智人
「敵を釣る、って……魚でもいるんですか?」
前日に訪ねた買取店の女性たちから教えてもらった『現実ダンジョン攻略Wiki(仮)』。その記事を読み進めていたアメリカの記者は、さっそく手を止めた。
大阪の取材先で借りた会議室には、ノートパソコンと取材資料、お昼に買った菓子パンの袋が広がっている。向かいに座る通訳兼コーディネーターは、記者の画面を覗いて、笑いをこらえた。
「魚じゃないです。敵を一体だけおびき寄せて、群れから離すことですよ」
「なるほど。それなら『誘引』でいいですね。釣り竿はいらない、と」
「最後の一文、記事には書かなくて大丈夫です」
記者は泣く泣く『釣り竿不要』を消した。本人は結構いい補足だと思っていたのだが。
『※要検証』なら知っている。英語圏でも使われる例の注意書きだ。昨日、それを生み出したWikiが個人運営だと知ったばかりだった。ところが本文を開いてみると、知らない単語が次から次へと現れる。
記事には魔物の目撃場所、事故の写真、引き返すべき兆候まで記録されている。慎重な但し書きが付いた内容も多いのに、書き手たちは説明抜きでゲーム用語を使うらしい。
どうやら『要検証』なのは、魔物の情報だけではなかった。
「こっちは自動翻訳だと『戦車が憎悪を集める』になってます」
記者が次の一文を読み上げると、コーディネーターはとうとう吹き出した。
『タンクがヘイトを取っている間に、後衛は下がれ』
「タンクは戦車じゃなくて、盾役ですね。ヘイトは魔物の注意とか、狙われやすさのことです」
「盾役がわざと狙われる?」
「装備と経験のある人が、ほかの人を守るために。勝手に真似すると危ないやつです」
「ああ、それはちゃんと書かないと」
記者は今度こそ真面目にメモを取った。言葉の取り違えで、役割のない初心者を危険な位置へ立たせては笑い話にならない。
ゲーム経験者同士なら通じる説明も、ダンジョンが発生してまだ数週間の国では、そのまま伝わるとは限らない。
そして、問題の記事の末尾にはこう書かれていた。
『初見で突っ込むと床ペロ確定。引き返せ』
「……床ペロ?」
記者が小声で呟くと、コーディネーターは目を閉じた。
「床を舐める儀式じゃありませんよ」
「まだ何も聞いてません」
「顔に書いてありました」
要するに、倒れて行動不能になるという意味らしい。あまりに可愛らしい字面と、実際に起きることの差がひどい。
記者は『初見で突っ込むと床ペロ確定』の横に、『事前確認なしの進入は重傷・戦闘不能の危険』と書いた。
翻訳とは、思っていたより命の重い仕事である。
* * *
「これは原文のまま使わない方がいいですね」
画面越しにそう言ったのは、日本で暮らした経験のある翻訳協力者だった。通訳が紹介してくれた人物で、今は帰国して自国の探索者向けの資料づくりを手伝っている。日本にいた頃はゲーム仲間とよく遊び、Wikiもその仲間から教わったという。
画面の端にはマグカップと、大量の付箋が貼られた辞書が映っていた。記者は少し親近感を覚えた。自分のノートにも、さっきから妙な日本語が増え続けている。
「ゲーム用語を知らない人には、現場で何をするのか分かりません。『床ペロ』のまま救護手順に載せるわけにもいきませんし」
「それじゃ、元の記事はあまり信用できない?」
記者が聞くと、画面の向こうで協力者は首を横に振った。
「逆です。言葉はひどい。でも、中身はちゃんとしてることが多いんですよ」
「そこ、両立するんですね……」
「します。日本のネットは昔からそんな感じです」
協力者が共有したのは、ある洞窟型ダンジョンの罠についての記録だった。
壁際の足場で滑って転倒したという最初の報告に、別の探索者が写真を追加し、さらに第三者が似た構造の地点での再現性を確認している。未確認の推測と、実際に見たこととが分けて書かれていた。
「最初は『この石を踏んだら滑った』という投稿だけです。でも写真が付いて、別の人が似た構造を調べた。次に行く人が気にするのは、年間の転倒件数より、今から踏む足場が大丈夫かどうかでしょう」
記者も写真を見比べた。最初の書き込みには、転んだ本人の恨み節まで載っている。読むのは楽しいが、苦情と検証記録が同じページにあるのはどうなのだろう。
「公式の資料と、どっちを信用したらいいんでしょう」
「役割が違いますよ。立入禁止や講習条件は管理者の案内で確認する。Wikiは『こういう失敗もあった』と気づく入口です。現地で使う前に、出典と適用条件を調べる」
協力者はそこだけ声を強めた。
「人の命がかかるんです。訳した側が勝手に安全だと保証しちゃ駄目です」
「それなら、注意書きの『※要検証』は消せませんね」
「むしろ一番大事なところです」
記者は思わず笑った。世界中で冗談に使われている文言が、ここでは本当に安全のための一行になっていた。
彼が帰国前は普通の会社員だったと聞いて驚くと、協力者は肩をすくめた。
「専門家じゃないですよ。日本語が読めて、ゲームのスラングが分かるだけです」
ただ、二つを両方できる人間は意外と少ない。そのことを誰より驚いているのが、本人のようだった。
* * *
取材を終えて数日後、記者のもとへ翻訳協力者から短い動画が届いた。
海外の民間探索者向け訓練施設で撮影され、公開を許可された教材用の映像だという。映っているのは、段差に見える床の端へ近づく訓練生と、そこを止める指導員だった。
『ここ、通路だと思って進む人がいる。点検したら、縁の一部が滑りやすくなっていた』
元になったのは、日本のWikiに載っていた転倒事故の写真と観察記録。現地の指導員はそれを手掛かりに、自分たちの施設を実際に点検し、似た危険箇所があると確かめてから訓練手順を変更したのだ。
記者は映像を繰り返し再生した。机の上で奇妙な言葉を訳していた数日前には、こんなふうに役立つとは思っていなかった。
「日本のWikiが正しかったから、という書き方でいいですかね」
記者が取材メモへ書きかけると、通訳が首を傾げた。
「正しかったかどうかは、現場の人たちが確かめたんですよね」
「……そうでした。その方が大事です」
記者はそう答えてから、自分の言葉に少し驚いた。見知らぬ日本人たちが書いた失敗談を、別の国の指導員が検証し、訓練に生かした。それぞれができることをした結果だった。
記事が公開されると、取材班には研究者から問い合わせが届いた。質問は、訳語の正しさについてではない。
『元の観察記録は、どこで見られますか』
通訳が、(仮)の付いたURLを返信した。
* * *
「英語版の『床ペロ』、まだ直ってないのか……」
そのころ、日本では御厨アキラが自宅のパソコンに向かっていた。
配信画面に映しているのは、公開して問題のない翻訳修正候補だけだった。アキラは原文と出典を照らし合わせ、意味の怪しいところへ赤い印を付けていく。国際化したのはありがたい。ありがたいのだが、世界へ『床を舐めろ』という謎の儀式を輸出した覚えはない。
『管理人、世界へ床ペロ輸出』
『床を舐める儀式、爆誕』
『もう世界標準語にしよう』
「しない。そんな標準語あってたまるか」
『Wiki国際化おめ』
『タイトルの(仮)は?』
「それは別件」
『永遠の仮』
アキラは翻訳の注釈を保存し、海外の訓練担当者から届いたお礼を読んだ。
事故の報告が役に立ったという。元の記録を投稿したのは、名前も知らない探索者だ。ほかにも写真を添付した人がいて、寸法を測った人がいる。
「……ああ、こういうの、いいな」
『何が?』
「失敗した人の記録で、別の人が同じ失敗しなくて済むの。しかも、海外の指導員が自分で確認してくれたんだろ」
『急に真面目』
『ちゃんと役立ってんじゃん』
『ところで飯』
「食べたって。いまその話関係ある?」
『昨日も同じこと言ってた』
「……昨日は忘れた」
本人が最も検証を怠っていた項目は、どうやら食事らしい。
返事をしながら、アキラは世界ダンジョンマップを開いた。海外版に追加された公開情報の確認が、今日の最後の作業である。
新しい報告がある地域には色が付く。確認日の違い、最終討伐日、出典の有無。凡例を切り替えながら眺めていると、日本の一角でカーソルが止まった。
以前も気になった、山ばかりの地域だった。
『公開確認記録なし』
この表示は、ダンジョンが存在しないことを意味しない。単に、公開された確認記録が見つからないというだけだ。
アキラは昔の問い合わせメモを確認し、次に、Wikiへ寄せられた現地報告の一覧を開いた。
近隣の町からは投稿がある。しかし、その山間部に限って、ほとんど何もない。
「……これ、まだ埋まってないのか」
『山のほう?』
「そう。周辺には記録があるんだけど、この一帯だけ情報が薄い。入口があるって証拠もないけど、ないって証拠もない」
『そんな場所、日本にいくらでもあるのでは』
「ある。だからこそ、公開記録の抜け方が気になるんだよな」
アキラは資料の最終更新日をもう一度確かめた。昼間の翻訳作業は、誰かの失敗を次に生かすためのものだった。なら、記録がない場所は、まず何を確かめればいいのだろう。
画面の端で、カーソルが止まっていた。