日本だけダンジョン発生中――政府が検討している間に世界最強になっていた 作:御影 智人
「速報です。山間部で魔物が確認されたとの情報が入りました」
スタジオのアナウンサーは原稿から顔を上げた。
「複数の集落に避難が呼びかけられ、警察と消防が住民の安否確認を進めています。国内でダンジョンブレイクが発生した可能性があり、専門の探索班も現地へ向かっています」
画面が切り替わる。山あいの道路には規制線が張られ、その向こうで赤い警告灯がいくつも点滅していた。
「現地と中継がつながっています。今、そちらはどのような状況でしょうか?」
『はい。こちらでは、山の方角から大きな音を聞いたという証言が相次いでいます。魔物を目撃したという通報もありますが、入口がいつから存在していたのか、流出がどの範囲に及ぶのか、まだ分かっていません』
現地記者の背後を消防車が走り抜けた。
『今も避難する車が続いています。こちらへ歩いてくる住民の方もいて──』
中継の向こうから誰かの怒鳴り声が聞こえた。記者がそちらを振り向く。
「中継先も安全を最優先にしてください。続報が入り次第、お伝えします」
その時、御厨アキラはまだ山道の駐車スペースにいた。
* * *
「……何だ、今の音」
山腹で鳥が一斉に飛び立った。地面の奥を叩くような低い音が、遅れてもう一度響く。
工事か、落石か。それとも。
アキラはスマートフォンを取り上げた。配信画面にはコメントが増え続けている。
『何の音?』
『今のやばくね』
『おい大丈夫か』
だが、返事をする余裕はなかった。アキラは配信していたことも忘れ、通報画面に切り替えた。終了ボタンを押したわけではない。視聴者が見ているかどうかなど、今は考えもしなかった。
手が震え、通報先を表示するまでに一度画面を押し間違えた。
「山道で大きな衝撃音が続いています。山の方から鳥も一斉に飛び立って……はい、魔物かどうかは分かりません。場所は──」
位置を伝え、見たものと推測を分けて説明した。付近では別の通報も入っているという。自分だけが聞き間違えたわけではないらしい。
通話を終えたところへ、軽トラックが一台、山道を上ってきた。運転席の年配男性が窓を開ける。
「兄ちゃん、こんなとこで何しとる! 下に化け物が出たんだ、早く逃げろ!」
「……化け物?」
「緑色の小っこいのが、何匹も! 道を走っとった!」
「そんな……やっぱり、さっきの音……!」
嫌な予感が、突然、現実の形を持った。
アキラは山の方を振り返った。ダンジョンの中では魔物を何度も見た。だが、ここは普通の道路だ。
「下の集落の人たちは!? 無事なんですか?」
「分からん! 集会所へ集まっとる人もおるけど、まだ家に残っとる人がおる。俺は上の家にも知らせに来たんだ」
アキラはレンタカーの鍵を握り直した。下山すれば、ひとまず安全な場所へ戻れる。通報は済んでいる。だが、まだ人が残っていると知ってしまった。
「……戻るんですか?」
「戻るよ。足の悪いばあさんもおるしな」
男性は当たり前のことを言うように答えた。
「俺も行きます。集会所まで先導してもらえますか」
「危ないぞ。兄ちゃん、戦えるんか?」
「ダンジョンには何度も入ってます。でも、何体いるか分からないなら、倒すより先に逃がす方がいい」
男性は驚いた顔をしたが、すぐ頷いた。
軽トラックが坂を下り始める。アキラはレンタカーで後を追った。スマートフォンは助手席へ転がしたままだった。
* * *
集会所の駐車場へ入った瞬間、女の人の叫び声がした。
「危ない! 後ろ!」
建物の脇で、杖をついたおばあさんが立ちすくんでいる。数歩後ろから、緑色の小さな影が走ってきた。手には刃物。
アキラは車を止め、助手席の足元に置いていた折りたたみスコップを掴んで飛び出した。
間に合え。
魔物がおばあさんへ飛びかかる寸前、アキラはその間に割り込んだ。スコップの柄で刃を受け、そのまま足元を払う。転がったゴブリンが立ち上がる前に追撃して、動きを止めた。
初日に庭のダンジョンで出会ったときは、一体相手に何度ももみ合った。今は違う。力も、動きを読む速さも、あの頃より上がっている。
「立てますか!」
おばあさんは何度も頷いたが、膝が震えていた。駆け寄ってきた女性が反対側から支える。
「中へ! まだ来ます!」
女性が指さした道路の向こうに、別の緑色の影が現れた。
一体、二体、三体。
その後ろにもいる。曲がり角からぞろぞろと出てきた。十数体はいるだろうか。さらに奥には、ゴブリンの倍近く背丈のある、大柄な魔物まで見えた。
「……嘘だろ」
一体ずつなら戦える。問題は、向こうが順番待ちをしてくれるわけではないことだった。
集会所には十数人が避難していたが、まだ迎えに行った人が戻っていないという。玄関で名簿を持っていた地元の男性が、アキラのスコップを見て息を呑んだ。
「今のを倒したんか!」
「一体だけです。まだいっぱい来ます!」
「下の橋を渡れば車が待っとる。歩ける人から先に出す!」
地元で講習を受けたという男性は、住民へ声をかけ始めた。アキラは入口と窓、駐車場から橋へ続く道を見渡す。
正面だけではない。裏手の細道からも回り込める。
「裏口は閉めてください。歩ける人は橋へ。俺、こっちを止めます!」
「俺も残る!」
「お願いします。一人で全部は見られない!」
男性は建物にあった長い棒をつかんだ。
アキラは裏手の狭い通路へ走り、入ってきたゴブリンを横から叩き倒す。もう一体が刃物を振り、柄でいなした刃先が腕をかすめた。痛みを無視して押し返したところで、正面から悲鳴が上がる。
「そっちにもいる!」
振り向くと、別のゴブリンが避難する人の列へ走っていた。
「くそっ!」
アキラが駆け出すより先に、軽トラックの男性が車を斜めに止め、魔物と住民の間を塞いだ。住民はその隙に橋へ向かう。
「兄ちゃん、こっちはええ! 裏を見といて!」
アキラは再び裏手へ走った。
何体か倒せる。それは分かった。だが、一体に構っている間に別の一体が走る。右を見れば左が空く。ゴブリンの群れは、こちらの都合など考えずに散っていく。
自分が強くなったことを、こんな形で確かめたくはなかった。
「早く、橋の向こうへ!」
地元の男性が声を張り、棒で一体を押し戻す。別の住民が避難する人を支え、歩けない人を軽トラックへ乗せた。誰もアキラだけを頼ってはいなかった。
そのとき、道の奥で大きな影が動いた。
オークだ。
以前に調べた資料と特徴が一致する。肩を揺らしながら近づくその姿を見て、アキラにはすぐ分かった。スコップを持った自分が、正面から相手をするべきものではない。
「大きいのが来る! 全員、橋を渡って!」
最後の住民が向こう岸へ渡る。オークの背後には、まだゴブリンが残っていた。
橋へ続く道は細い。アキラも下がりながら、隣の男性の腕を引いた。
「もういい、逃げましょう!」
「お前は?」
「俺も行く!」
遠くからサイレンが響いた。
橋の向こうでは、駆けつけた警察が住民を誘導していた。その後ろから防具を着けた専門の探索班が前へ出る。アキラは集会所の位置と群れの向きを叫んで伝えた。
「奥にオーク! 手前にゴブリンがまだいます!」
隊員が頷き、アキラたちを後方へ下がらせる。
「……みんな、渡れた?」
「集会所におった人は全員や。家に残っとった人も、今向こうで確認しとる」
「……そっか」
よかった、と言おうとしたのに息がうまく吸えない。手が震え、スコップを握っていた指が開かなかった。心臓が胸の中で暴れている。
戦っている間は、怖がっている暇がなかった。今になって、あのおばあさんに刃が届いていたら、橋で誰かが転んでいたら、と考えてしまう。
ポケットのスマートフォンが何度も震えた。
画面を覗くと、配信アプリには大量のコメントが並んでいた。通話中に一度途切れた映像も、いつの間にか復帰していたらしい。映っていたのは空と地面ばかりで、叫び声と足音がずっと入っている。
『おい生きてる!?』
『返事して』
『今の本物かよ』
『無事でよかった……』
「……あ」
そういえば、配信していた。
だが、コメントへ返事をするより先に避難先へ誘導された。
* * *
警察が道路を規制し、消防は搬送と安否確認を続けていた。専門の探索班が魔物の群れを押し戻す中、アキラは避難先で水の入った紙コップを受け取った。
家に残っていた住民や迎えに向かった人も、その後、無事が確認された。集会所を拠点に避難していた人たちに大きな怪我はなかったという。
紙コップの縁から水がこぼれた。まだ手の震えが収まらない。
「……よかった」
喉の奥が詰まった。自分が思っていた以上に、あの場のことが怖かったらしい。
だが、テレビから聞こえてきた言葉に顔を上げた。
『同じ山間地域の別の集落でも、魔物による被害が確認されています。複数の住民が巻き込まれたとみられ、警察などが詳しい状況を調べています』
画面には、さっきの橋とは別の谷が映っていた。
直線なら近い。だが、間には山があり、細い道が続いている。
アキラは紙コップを持ったまま、しばらく動けなかった。