ゴロー先生はアイアンチ 作:作者さん
「笑うという行為はですね、実は極めて優秀な医療アプローチの一つなんです。腹の底から声を上げて笑うと、脳内ではエンドルフィンが分泌され、自律神経は副交感神経優位へと切り替わる。さらにNK(ナチュラルキラー)細胞が活性化して免疫力まで向上するんですよ。つまり、人間はただゲラゲラと笑うだけで、確実に良い方向へと快方していく生き物なんです」
白衣のポケットに両手を突っ込みながら、いかにも医師らしい理路整然とした口調で語る吾郎。
しかし、ベッドに身を横たえる患者は、その立派な講釈に対して「はぁ……」と、完全に呆気にとられた気の抜けた声を返すことしかできなかった。
無理もない。なぜなら現在、静謐であるはずの病室には、不釣り合いなほどポップで派手な電子音が響き渡っているのだから。
病床の脇に設置されたテレビモニター。そこで流れているのは、今をときめくアイドルグループ『B小町』のライブ映像だった。市販の綺麗なDVDではない。どこから仕入れてきたのか、ミスやトラブルが一切編集されていない、いわゆる生映像のダビング盤だ。
画面の中央では、絶対的エースである星野アイが、キラキラとした笑顔を振りまきながら激しいステップを踏んでいる。
――その時だった。
アイのターンがわずかに遅れ、靴の裏がステージの床に引っかかった。彼女は「あっ」という顔をして、一瞬だけ無様に体勢を崩したのだ。
「ハハハハハハハハ!! 観たか今の!? 盛大に滑ったぞあいつ!!」
先ほどまでの知的で冷静な態度はどこへやら。悟郎はテレビ画面を指差しながら、腹を抱えて大爆笑し始めた。目尻にはうっすらと涙まで浮かべ、完全にツボに入った様子で肩を震わせている。
「…………えぇ……」
患者の顔が、文字通りスッと引きつった。
普段は頼れる立派な産婦人科医が、16歳の少女の些細なミスを見て狂喜乱舞しているのだ。ドン引きするなという方が無理な話である。
「あの、先生……。たぶんそれ、アイドルのDVDの楽しみ方として間違ってるんじゃないですか……?」
「いいんです。王道の清く正しいアイドル成分は、後ろで一生懸命踊ってる他の子たちから摂取しているので」
雨宮は悪びれる様子もなく言い放つと、さらに画面へと身を乗り出した。その目は、獲物を狙う鷹のように画面の中のアイをロックオンしている。
「ほら、見ててくださいよ。あいつ、さっきのミスを引きずって、ここから焦りが出始めるんです。……3、2、1、ほら来た! 振り付け間違えた! そこで右手が上がるのは一人だけだろ、周りを見ろ素人!」
「うわぁ……」
テレビの前の最前管理どころの騒ぎではない。まるで重箱の隅をつつく姑のように、アイの失敗を逐一拾い上げては嬉々としてツッコミを入れる。
あまりの執着ぶりに、患者は恐る恐る尋ねた。
「先生……そのセンターの子のこと、嫌いなんですか?」
その問いに、吾郎はピタリと笑いを収めた。
そして、わざとらしく白衣の襟を正すと、さも誇らしげな、それでいて不敵な笑みを浮かべて振り返る。
「嫌いと言うより、純粋に『気に入らない』んですね。……なにせ俺は、彼女の熱心なアンチですから」
「はぁ……」
堂々と『アンチ』を自称する主治医に、患者は乾いた愛想笑いを浮かべるしかなかった。
(でもまあ、私には十分キラキラしてて、頑張ってるように見えるけどなぁ……)
そんな暢気な感想を心の中で抱きつつ、ふと気づく。彼の突拍子もない奇行と大騒ぎに付き合わされているうちに、先ほどまで感じていた病気への不安や陰鬱な気分が、すっかりどこかへ吹き飛んでしまっていたのだ。
これも雨宮先生なりの気晴らしなのだろうか――患者がそうやって、目の前の変人医師を少しだけ好意的に解釈しかけた、その時だった。
ガララッ!
背後のスライドドアが、親の仇のような勢いで開け放たれた。
「雨宮先生」
そこに立っていたのは、絶対零度の視線を放つベテラン看護師だった。
病室の空気が、ピシッと凍りつく。
「患者さんの前で、頭のおかしい人のような行動をするのはやめてください」
「いや、これは笑いによる免疫療法の一環で――」
「ご自分の頭の病気すら治せないのかと、患者さんたちが余計に不安になりますので」
弁解を挟む隙すら与えない、刃物のように辛辣な一言。
熱心なアンチ活動でヒートアップしていた吾郎の背筋に、氷水のような冷や汗がツーッと伝い落ちていった。
「……それに雨宮先生、ご存じないんですか? その子、しばらく活動休止するそうですよ」
溜め息混じりにカルテのボードを胸に抱きながら、看護師が呆れたように言った。
「さっき休憩室でスマホを見たら、ツイッターのトレンドに挙がってました。『B小町アイ、体調不良により無期限の活動休止』って」
「……ふーん」
吾郎の反応は、存外に薄いものだった。
大げさに驚くこともなく、ただモニターの中で汗を光らせて踊るアイの姿を、どこか値踏みするような、冷ややかな視線でじっと見つめる。
(体調不良、ね……)
頭の中に、最近の彼女のパフォーマンス映像がいくつもフラッシュバックする。
『アンチ』として彼女の一挙手一投足を舐めるように観察してきた彼の目は、ここ数ヶ月の変化を見逃していなかった。
わずかにふっくらとした頬のライン。動きのキレの低下。そして何より、体型を隠すようなゆったりとした衣装が意図的に増えていたこと。
(あの体重増加の仕方、それにあの特有の浮腫み……。まさか、な)
産婦人科医としての知識と、アンチとしての異常な観察眼が導き出した一つの仮説。
しかし、吾郎はその疑念を口にすることはなかった。あくまで画面から目を逸らさず、鼻で短く息を吐くだけだ。
そのそっけない態度に、ベッドの患者が不思議そうに首を傾げた。
「あれ? 先生、大喜びしないんですか?」
「……俺はアンチですがね、医者でもあるんですよ」
吾郎はテレビの電源をプチッと切り、振り返らずに答えた。
「公式発表が体調不良だというなら、医者として他人の病気を喜ぶような真似はしたくない。もし家族やプライベートの不幸が原因だとしても、それを笑い者にできるほど俺はクズになりきれないんでね」
白衣のポケットを探り、吾郎はやれやれと肩をすくめる。
「あーあ……。これが未成年飲酒で捕まったとか、深夜徘徊で補導されたとか、そういう自業自得の不祥事だったら、腹がちぎれるほど大爆笑してやったんですけどね」
本気で残念そうにぼやく悟郎を見て、患者は思わず苦笑いを漏らした。
冷酷なアンチを気取っているくせに、越えてはいけない一線だけは妙に律儀に守っている。そのアンバランスさが、なんとも彼らしい。
「あの……雨宮先生って、いつもこんな感じなんですか?」
患者がベッドの横に立つ看護師に小声で尋ねると、彼女は深い、本当に深い溜め息を吐き出した。
「ええ、残念ながらいつもこんな感じです。……腹立たしいことに、医者としての腕と患者さんからの人気『だけ』は異常に高いんですけどね」
皮肉と呆れ、そしてほんのわずかな信頼が混ざったような声色。
吾郎は抗議することもなく、「さ、次の回診に行きますよ」と悪びれずに病室のドアへと向かっていった。
午後の診療を知らせるチャイムが館内に響き、吾郎は白衣の袖に腕を通し直しながら診察室の椅子に腰を下ろした。
「次の患者さん、どうぞ」
デスクの上のモニターに、本日最後の予約患者のカルテが呼び出される。
氏名、星野アイ。年齢、16歳。
事前の問診票には、同伴者として『斉藤壱護』という男の名が記載されていた。関係性は保護者代理、兼マネージャー。
(16歳で、保護者じゃなくマネージャーが付き添いか……)
眉をひそめながら、手元の資料に目を走らせる。
芸能事務所の社長を名乗るその男は、やけに刺々しい雰囲気を纏っており、周囲の目を極度に警戒しているようだった。地方のしがない産婦人科に、東京の芸能事務所の人間がわざわざ人目を忍んでやってくる――その時点で、事情の複雑さは察しがつく。
カルテの備考欄に記載された彼女の身の上へと視線を移す。
両親はおらず、施設育ち。身元を引き受ける親族もいないため、事務所の社長が実質的な保護者代わりに就いているという。
(……施設育ちね。どこかの誰かさんと同じような、絵に描いたような不遇な生い立ちだこと)
親の愛を知らず、過酷な環境から這い上がってきた少女。
アンチとして彼女の生い立ちや経歴も把握していた吾郎の脳裏に、ついさっきまで画面の中でキラキラと嘘の笑顔を振りまいていた『B小町のアイ』の姿が嫌でも重なる。
「……世の中、似たような生い立ちで苦労してる奴はいくらでもいるってことか」
自嘲気味に呟きながら、吾郎はカルテから視線を外した。
診察室のパイプ椅子に座っていた少女と、正面から目が合う。
そこにいたのは。
変装用の帽子とマスクを少しだけズラし、その奥に眩いほどの星を宿した瞳でこちらを見つめている――
「…………アイ……?」
ついさっきまで、病室のテレビ画面越しに「また失敗した」と大爆笑していたはずの渦中の人物が、そこに座っていた。
言葉が、思考より先に漏れ出していた。
「あれ、私のこと知ってるの?」
帽子を深く被り直しながら、アイが不思議そうに目を丸くした。
「ええ、有名人ですので」
吾郎は動揺を微塵も顔に出さず、極めて平然と返した。
その間も、産婦人科医としての冷徹な観察眼は彼女の身体を上から下までスキャンしている。ゆったりとした服の上からでもわかる腹部の膨らみ、立ち姿の重心の変化。
(……この腹の出方、およそ妊娠20週目といったところか。なるほど、体調不良で誤魔化せる限界のラインだ)
「マジかぁ……。人目を避けて、わざわざこんなド田舎の病院まで来たってのに……」
隣に座っていたマネージャーの男、斉藤壱護が頭を抱え、がっくりと肩を落とした。アイドルが妊娠しただけでも大スキャンダルだというのに、初診でいきなり身バレしたとなれば、その絶望感も想像に難くない。
「安心してください」
吾郎は淡々と、しかしハッキリと言い放った。
「俺は彼女のファンではありません。ですから、有名人だからといって情報を売ったり、逆に扱いを変えたりするようなことはしませんよ。ここに来た以上は、ただの一人の患者として診ます」
「ファンじゃない……?」
アイが小首を傾げるのをよそに、吾郎は立ち上がって診察室の奥のカーテンを指し示した。
「とにかく、詳しい状態を確認しましょう。エコー検査をします。奥へどうぞ」
数分後。
薄暗い診察室の中で、エコー検査のモニターには白黒の不規則な影が映し出されていた。ドクン、ドクンという規則的な心音が、静かな部屋に二重に響き渡る。
「……妊娠20週目。それも、双子ですね」
モニターを見つめながら告げた言葉に、壱護が弾かれたように立ち上がった。
「双子!? おいアイ……お前、本気で産む気なのか!?」
切羽詰まった壱護の怒鳴り声が響く。アイドルの妊娠だけでも致命的なのに、それが双子となれば、身体への負担も復帰のハードルも桁違いに跳ね上がる。常識的に考えれば、芸能界引退は免れない。
しかし、当のアイは即答しなかった。
仰向けになったままモニターに映る小さな二つの命をじっと見つめ、やがて、コロンと首を巡らせて悟郎を見た。
「ねえ。先生はどう思う?」
周囲の大人たちのパニックなどどこ吹く風といった、のんきでフラットな問いかけ。
それに対して、吾郎は『アンチ』としての私情を一切挟まず、ただ純粋な一人の産婦人科医として冷徹な事実を突きつけようとする。
「どう思うかと聞かれれば、『母体へのリスクが高すぎる』と答えます。16歳という若年での初産、おまけに双胎妊娠は、早産や妊娠高血圧症候群を引き起こすリスクが非常に高い。それに今後の社会的な影響まで考慮すれば、あなたの人生を破滅させるには十分すぎると考えられる。……医者としての所見は以上です」
吾郎はそこで言葉を区切り、アイの底知れない星の瞳を真っ向から見据えた。
「ですが、最終的にこの腹の子供をどうするか決めるのは、あなた自身だ」
「なら、産みたいかな」
エコーのモニターを見つめたまま、アイはあっけらかんと言い放った。
まるで明日のおやつを選ぶかのような軽い口調に、壱護が青筋を立てて身を乗り出す。
「おいアイ、冗談言ってる場合か! 産むってことはアイドルを辞めるってことだぞ!? 事務所だって、お前のファンだってどうなるか――」
「辞めないよ? アイドルもやるし、子供も産むの」
「できるわけねえだろそんなこと!」
必死に説得しようとする壱護に対し、アイは会話を拒絶するようにそっと首を横に振った。その瞳には、16歳とは思えない頑なで揺るぎない色が宿っている。
見かねた吾郎が、カルテに視線を落としたまま口を挟んだ。
「まあ、時間は少ないとはいえ、一時間二時間で答えを出さなければいけない話でもありません。興奮状態のまま議論しても平行線でしょう。今日は入院手続きだけ済ませて、一晩じっくり頭を冷やしてみるのが良いかと」
「……ちくしょう、分かったよ。アイ、今日はもう休め」
壱護は不満げに吐き捨てつつも提案を受け入れ、重苦しい空気のまま診察室を後にした。
夜。病院の屋上。
冷ややかな夜風が、吾郎の白衣の裾を小さく揺らしていた。
手すりに体重を預け、眼下に広がる街明かりを眺めながら、吾郎は小さく息を吐き出す。
(……やっかいだな)
胸の中に渦巻くのは、苦々しい違和感だった。
昼間の診察中、自分は無意識のうちに、あの星野アイに対して必要以上に冷たい態度をとってしまっていたのではないか。
原因は分かっている。ここ何年もの間、自分の日常は「アイの欠点を探して徹底的に難癖をつけること」で埋め尽くされていたのだ。いつの間にか自分の中で完全に固定化されてしまった、アンチとしてのスタンス。
何年もかけて塗り重ねてきたその偏執的な日常を、いざ目の前に本物が現れたからといって、急に修正することの難しさ。
医者としてフラットに接するべきだと頭では分かっていても、長年染み付いた癖が、言葉の端々に毒として滲み出てしまう。
「……ハッ。俺も大概、救いようのないこじらせ方をしてるな」
自嘲気味に呟いた、その時だった。
ギィ、と重い鉄の扉が開く音がして、パタパタと軽い足音が近づいてきた。
「あれ、先生もここにいたんだ」
振り返ると、大きなパーカーを羽織ったアイがそこに立っていた。夜風に髪をなびかせながら、無邪気な笑みを浮かべている。
吾郎は眉をひそめ、すぐに医者としての顔に戻った。
「夜風は体に障りますよ、星野さん。妊婦がこんな冷える場所に来るもんじゃない」
冷淡に忠告する吾郎に対し、アイは羽織っているパーカーの袖をパタパタと振ってみせた。
「大丈夫だよー。ちゃんと厚着してきたし」
「……」
本人がそう言ってへらへらと笑っているのだから、これ以上野暮な説教をするのも馬鹿らしい。
吾郎は……本人がそう言うなら、まあいいかと、深く追及するのをやめて再び夜景に視線を戻した。
隣に並んで夜景を見下ろす形になったアイが、ふと風に乗せるような軽い声で口を開いた。
「ねえ、ゴロー先生」
「なんですか」
「昼間、私のファンじゃないって言ってたけど……私のこと、嫌い?」
「いいえ。特には」
吾郎は夜景から目を離すことなく、そっけなく返した。
「じゃあ、好き?」
「いいえ」
今度は間髪入れずに、短く切り捨てる。
アイは怒るでもなく、「ふーん」と楽しげに相槌を打った。
「じゃあ、私のことなんてどうでもいいって思ってる?」
その問いに、吾郎は少しだけ口を閉ざした。
頭の中を駆け巡る無数の「アンチとしての星野アイへの感情」を冷たい理性の箱に押し込め、数秒の思考の後に淡々と答える。
「ええ」
その短く冷淡な肯定を聞いた瞬間、アイは「ふふっ」と肩を揺らした。
「それ、嘘だよね」
くすくすと、まるで面白いおもちゃを見つけた子供のような笑い声が静かな屋上に響く。
「私、そういうの分かるんだ。嘘の感情とか、隠し事とか、そういうの見抜くの得意だから」
楽しげに覗き込んでくる星の瞳を、吾郎は横目で冷ややかに受け止めた。
アイドルの直感なのか、それとも過酷な生い立ちの中で培った防衛本能なのか。どちらにせよ、図星を突かれた動揺を悟られるわけにはいかない。
「患者の体をどうでもいいと思えるほど、医者をただの仕事としか思ってないわけでもないんでね」
あくまで『医者としての責任感ゆえの執着だ』と、吾郎はすげなく返した。
「へーえ、私のこと心配してくれるんだ」
からかうようなアイの言葉に、吾郎は「ああ」と即答した。
「16歳での双胎妊娠という時点で、身体的なリスクは嫌というほど高い。それに加えて出産後の生活だ。君がアイドルを辞めないと言い張るなら、いつスキャンダルが発覚して職を失いかねないという社会的・経済的なリスクを常に抱えることになる」
淡々と事実だけを並べる吾郎の声は、徐々に熱を帯びていく。
それは医者としての警告であると同時に、長年彼女のアンチとして粗を探し続けてきた吾郎だからこそ見過ごせない、彼女の圧倒的な危うさへの苛立ちでもあった。
「はっきり言って、君がこれからどう転落しようが俺の知ったことではない。だが、母親の浅はかな見通しのせいで、路頭に迷う残された子供たちが不憫でならない。……だから、心配してるんですよ」
言い切った直後、吾郎は内心で舌打ちをした。
(――しまった、余計な一言を言った)
医者としてリスクを伝えるだけなら、後半の個人的な感情を乗せる必要は全くなかった。これではまるで、普段画面越しの彼女に向かって文句を垂れている時の自分そのものではないか。
横を見ると、アイはくすくすと肩を揺らして笑っていた。
「……何がおかしいんですか」
吾郎が低い声で睨みつけると、アイは楽しげに目を細めた。
「分かった。先生、私の熱心なアンチだ」
ドンピシャな指摘。
それも、悪びれるどころか、どこか嬉しそうな声色で。
「私のダメなところがいっぱい見えてて、放っておけなくて、それでいてファンみたいに甘やかしてくれない人。……どう? 当たってる?」
吾郎は小さく息を呑んだ。
(うそ発見器か、この子は……)
適当にはぐらかせば、また見透かされて面白がられるだけだ。
吾郎は彼女の無自覚なうそ発見器にこれ以上引っかからないよう、反論も肯定もせず、ただ無言で冷たい夜景を見つめ返すことしかできなかった。
「……はぁ」
吾郎は大きなため息を一つ吐き出し、張り詰めていた医者としての肩の力を抜いた。
これ以上、取り繕っても無駄らしい。
「昔、君のファンだった女の子がいたんだ」
「うん」
「だから俺は、アンチになった」
ぽつりとこぼしたその言葉に、アイは首を傾げた。
「うーん……? さすがの私も、今の文章が繋がってないことくらいは分かるかな?」
「……だろうな」
苦笑するアイに、吾郎は自嘲気味に口角を上げた。口調から、先ほどまでの「医者と患者」としての壁が取り払われていく。
「正直、俺はアイドルなんてものには全く興味がなかった。だが、その子が病室で毎日のように君の映像を見せて、熱心に布教してくるから……斜に構えて、言い返してやったんだよ。今日のあそこは声が出てなかったとか、ダンスが雑だったとかな」
「……」
「そしたら、その子がムキになって『そんなことない!』って、君の魅力をさらに熱弁してくるようになった。俺はそれをまた言い返すために、もっと君の粗を探して……その繰り返しだ。気がつけば、立派なアンチの出来上がりってわけさ」
夜風に乗って消えていくような吾郎の独白。
それを聞いていたアイは、ふわりと花が咲くような、今日一番の柔らかい笑顔を浮かべた。
「そっか。……私のことを、とっても好きになってくれた子がいたんだね」
愛おしそうに呟くアイ。
彼女はそのまま、何気ない調子で問いかけた。
「ねえ、その子は今――」
そこまで言って、アイはハッと息を呑み、自らの失言に気づいたように口を閉ざした。
ここがどこであるか。彼女がなぜ、毎日病院のベッドでアイドルの映像を見ていたのか。
少し考えれば、行き着く答えは残酷なほどシンプルだった。
気まずい沈黙が、屋上に降りた。
アイが何かを取り繕おうと口を開きかけた時、吾郎が先に、平坦な声で遮った。
「――退院して、家に帰ったよ。今は元気にやってる」
「……」
分かりやすすぎる、致命的な嘘。
この『うそ発見器』のような少女が、気づかないはずのない虚勢。
それでもアイは、数秒の間の後、静かに、優しく微笑み返した。
「そっか。……よかった」
彼女は夜空を見上げ、まるで遠くにいる誰かに語りかけるように紡ぐ。
「また先生がその子に会ったら、私から『ありがとう』ってお礼を言っておいてほしいな」
「……ああ。伝えておく」
互いに嘘だと分かった上で交わされる、静かな約束。
吾郎は胸の奥をギュッと締め付けられるような感覚を覚えながら、ただ夜景の彼方を見つめ続けていた。
「――本当に産むつもりなのか?」
探るような、けれどどこか苛立ちの混じった吾郎の問いに、アイは間髪入れずに答えた。
「うん!」
微塵の迷いもない即答。
吾郎は自身の髪をガシガシと力任せにかきむしり、夜空に向かって今日何度目か分からないため息を吐き出した。
アンチとして見つめ続けてきたからこそ、彼女のこの一度決めたら曲げない強情さがよく分かる。どれだけ言葉を尽くしても、この16歳の少女に常識的な説得など通用しないのだ。
吾郎は手すりに肘をつき、苦々しい顔でアイを横目で見下ろした。
「なあ……星と月、両方に同時に手を伸ばした奴がどうなるか、知ってるか?」
「うーん……とっても幸せになりそうだね!」
夜景の光を両目に宿しながら、アイは無邪気そのものの笑顔で返してきた。まるで絵本のおとぎ話でも語るかのような能天気さだ。
吾郎は思わず鼻で失笑し、酷く冷めた、現実的な答えを突きつけた。
「正解はな、足元に気が付かずに崖から転げ落ちるんだよ」
夢ばかり見ている少女の頭を力づくで冷ますような言葉。
けれど、アイは傷ついた様子もなく、それどころか「そうだね」とあっさりと吾郎の指摘を肯定した。
「母親としての幸せと、アイドルとしての幸せ。普通はどっちかひとつしか選べないんだろうなーって、私だって分かってるよ」
夜風に髪をなびかせながら、アイは自分の両手を胸の前でギュッと握りしめる。
そして、吾郎の現実的な冷たさを全部飲み込んだ上で、悪びれる様子もなくニッと笑ってみせた。
「でもね、アイは欲張りなんだ。どっちも欲しいの。嘘を本当にしていくのが、私のアイドルだからさ」
「……ハァ。ダメだこりゃ」
吾郎は降参したように両手を上げ、深く、長く息を吐き出した。
どんなに現実的なリスクを突きつけようが、論理的な警告を与えようが、この少女には届かない。届かないどころか、すべてを「アイドルの輝き」へと変換してしまう怪物的なまでの前向きさを持っている。説得など最初から無駄だったのだ。
「だって、嘘はとびきりの愛なんだよ?」
胸を張ってそう断言するアイを、吾郎は冷ややかな、けれどどこか諦めの混じった目で見つめた。
「……綺麗事だな。その嘘を貫き通せるうちはいい。だがな、一度でも綻びが生まれて嘘がバレたとき、その嘘はファンや周囲を裏切る凶器になる。そして巡り巡って、君自身を深く突き刺す刃になるんだぞ」
アイドルの『嘘』が暴かれたときのスキャンダル、ファンの失望、そしてアンチからの猛烈なバッシング。アンチとしてネットの底深い悪意を知り尽くしている吾郎だからこそ、その刃がいかに鋭く残酷かを嫌というほど理解していた。
しかし、アイは怖気づく様子もなく、むしろ吾郎を諭すように優しく目を細めた。
「そうかな。でもね……嘘って、誰かを傷つけるためだけのものじゃないと思うよ」
「なに?」
「たとえば……どこかのお医者さんの先生が、誰かを傷つけないように、そっとついてくれた優しい嘘みたいにね」
先ほどの話を、あえて明言することなくさらりと口にする。
どうやら、自分がついた下手くそな嘘など、このうそ発見器のような少女には最初から全てお見通しだったらしい。
「……ハッ」
吾郎の口から、自然と乾いた苦笑が漏れた。
まさか、自分が欠点ばかりを探してきた相手に、ここまで気持ちよく一本取られるとは。
嘘をつき続ける。母親と、アイドルの幸せの両方を魅せつけられ、吾郎の中でもようやく結論が決まった。
「こっちも腹を括るしかないか」
吾郎は白衣のポケットに両手を突っ込み、まっすぐにアイを見据えた。
「君のその破滅的な我がままに、最後まで付き合ってやる。その代わり、こっちの指示には絶対に従ってもらうぞ。体調管理、栄養指導、定期健診……一つでも怠ったら、容赦なくSNSでボロクソに叩いてやるからな」
「ふふっ、それってアンチの脅し文句としては優しすぎない?」
「うるさい。俺は医者だと言ったろ。……君と、君のお腹の子の無事な出産まで、最大限助力を約束してやる」
夜景を見下ろしながら、吾郎はそう固く宣言した。
最悪のアンチと、最悪の秘密を抱えたアイドル。奇妙で歪な二人の契約が、静かな屋上で確かに交わされた瞬間だった。