ゴロー先生はアイアンチ 作:作者さん
厳しいレッスンを終え、夕食と入浴を済ませたルビーは、ふかふかのベッドの上にダイブした。
アクアとの約束通り、面倒な数学の課題も(彼に泣きついて大半を手伝わせたとはいえ)しっかりと終わらせてある。すべては、何の憂いもなくこの時間を迎えるためだ。
「えへへ……ついに、ついに本物のドラマのお仕事……!」
パジャマ姿のルビーは、宝物でも扱うかのようにそっと台本を開いた。
大好きな少女漫画『今日は甘口で』のドラマ化。そこに自分がキャストとして参加できるのだ。一体どんな素敵なセリフが用意されているのか、どんな胸キュンなシーンに出られるのか。期待に胸の高鳴りが抑えきれず、自然と笑みがこぼれる。
しかし――。
ページをめくるごとに、ルビーの顔からスゥッと表情が抜け落ちていった。
ペラッ、ペラッ。
(……ん?)
ペラッ。
(……あれ?)
ペラッ。
(…………)
数分後。最後のページをめくり終えたルビーは、完全に光を失った虚無の瞳で台本をパタンと閉じた。
そして無言のままベッドから降りると、幽鬼のような足取りで自室の扉を開け、廊下へと出て行った。
――
一方その頃、一階のリビングでは、アクアとミヤコが静かな夜のティータイムを過ごしていた。
「はいミヤコさん。紅茶だけど、ノンカフェインだから」
「あら、ありがとう」
アクアが淹れた湯気の立つカップを受け取り、ミヤコはふぅと息を吐いてソファに深く腰を下ろした。アクアも自分の分のカップを手に、向かいの席に座る。
「もうすぐ高校受験の時期だけど……陽東高校の芸能科は面接重視で、筆記試験なんて無いに等しいからね。そこは気が楽でいいわ」
「ああ。とはいえ、ルビーの奴もなんだかんだ言って、ちゃんと週末までの宿題は終わらせたみたいだしな。よくやってる方だろ」
「そうね。貴方が手伝って……というか、ほとんど付きっ切りだったんでしょうけど」
ミヤコはクスッと笑い、紅茶に口をつけた。
「いつもルビーの面倒を見てくれてありがとうね、アクア」
「別に。ついでみたいなもんだ」
素っ気なく返すアクアに対し、ミヤコはティーカップを見つめながら、少しだけ憂鬱そうな翳りを顔に落とした。
「……芸能の道に進むとなると、どうしても学業のほうがおろそかになってしまうものだから。私としては、その辺りがどうしても心配になっちゃうのよね」
特殊な世界に身を置く以上、普通の学生としての青春や学びの時間が削られてしまうのは避けられないジレンマだ。保護者としてのミヤコの純粋な親心からの言葉だった。
「ある程度のフォローはするさ。あいつが最低限の赤点を回避できるくらいにはな」
淡々と請け負うアクアに、ミヤコはジト目を向けた。
「……貴方にも言っているのよ、アクア」
「…………」
高校の範囲は全て再度復習してあるのだがそれを言っても信じられないだろう。誤魔化すように小さく肩をすくめて紅茶を啜った。
その時だった。
「……そろそろだな」
壁掛け時計をちらりと一瞥し、アクアが唐突にぽつりと呟いた。
「え? 何が――」
ミヤコが不思議そうに首を傾げた、次の瞬間。
バンッ!!
リビングの扉が、蝶番が壊れんばかりの勢いで開け放たれた。
そこに立っていたのは、手にした台本をわなわなと震わせ、般若のような形相を浮かべたルビーだった。
「ちょっとアクア! なにこれぇ!!」
突然の襲来に、ミヤコは「ひゃ」と短く悲鳴を上げて目を丸くしている。対するアクアは、手元のティーカップから紅茶が溢れることすらなく、完全に予測していたとばかりの平然とした顔でルビーを見上げた。
「何って、それはミニドラマの台本だな。なにか問題でもあったか?」
「大ありでしょ! 第一問、問題アクア! 今回のドラマで、私の役名は何でしょう!?」
ずいっと前に乗り出し、クイズ番組の司会者のような勢いで指を突きつけてくるルビー。アクアは紅茶を一口啜り、淡々と答える。
「『メグル』役だな。主人公の友人役だ。毎話ごとに出番もあって、一応見せ場みたいなものもあるだろ? 大人の事情や人数の関係で、無理やりオリジナルキャラクターとしてねじ込まれる演者に比べて、立場も出番もだいぶ恵まれている方だぞ」
「それはありがとう! 私も流石にちょびっとの端役だと思ってたから、これは素直に意外だったし嬉しかったよ! じゃあ第二問、問題アクア! この『メグル』が原作漫画でまともに登場するのはいつ!?」
「最終話後のエピローグ数話だな」
一切の淀みなくアクアが即答すると、ルビーは「その通り!!」と叫びながら、バンバンと手元の台本を叩いた。
原作『今日は甘口で』におけるメグルというキャラクターは、物語の根幹に関わるような人物ではない。
過酷な状況や複雑な人間関係を乗り越え、ようやく平穏な日常を取り戻した主人公が、高校生活の中で初めて作る「普通の友達」。特別な力も劇的な背景も持たない、ごく平凡で地味な少女だ。
彼女の存在そのものが、「主人公がようやく普通の日常を手に入れた」ことを読者に示すための象徴として描かれる、出番は少なくとも非常に重要で繊細な意味合いを持ったキャラクターなのだ。
「それが、どうして第一話の人間不信バリバリ状態の主人公の隣で、すでにお友達ヅラしてんのよ!? 出番前倒しにも程があるでしょ!」
ルビーの怒りは収まらず、さらに台本をバサバサと振って抗議を続ける。
「しかも、地味で大人しいはずのメグルちゃんが、脚本だと快活女子にキャラ変されてるし! 誰これ!? 私の知ってるメグルちゃんじゃないんだけど!」
「お前の素に近いそっちの路線の方が演じやすいだろ」
身も蓋もないアクアの正論に、ルビーは「ぐっ」と一瞬言葉を詰まらせた。
「そ、そうだけどさぁ!!」
図星を突かれて反論しきれず、ルビーは頭を抱えてソファの上にずるずると崩れ落ちた。
「演じやすいけど、そういう問題じゃないの! 私、この漫画本当に大好きなの! 設定もキャラの出番もぐちゃぐちゃにされて……私の好きな原作がボロボロじゃない!!」
ソファに顔を押し付け、ルビーは不満たらたらな様子でジタバタと足をバタつかせた。
念願のドラマ出演の喜びよりも、一人の純粋な原作ファンとして、作品の世界観が制作側の都合で無惨に改変されていることへの怒りと悲しみが勝っているらしい。
そんな嘆き悲しむ妹の姿を見下ろしながら、アクアは冷めた紅茶のカップを静かにソーサーへと置いた。
「まぁ、確かに今回に関しては、完全に制作側の狙いが透けて見えすぎている」
アクアは淡々と、しかしどこか呆れたような口調で語り始めた。
「このドラマのメインターゲットは、イケメン好きの女性層なんだ。手っ取り早く言えば、事務所がこれから売り出したい若手モデルたちを可能な限り多く画面に映すための、顔見世用のカタログリストみたいなもんだ。……まあ、少しばかりその意図が前面に出すぎてはいるがな」
「だ、だからって……」
「だけど脚本単品として見れば、そこまで破綻しているわけでもない。一つの独立したドラマとしてなら、読めなくはないだろう?」
「うっ……」
アクアの指摘にルビーは言葉を詰まらせた。
確かに、原作への愛着を一旦横に置いて「こういうお話」として読めば、話の筋自体は通っている。少なくとも、意味不明な電波脚本というわけではなかった。
「もしも演者たち全員がそれなりの演技力を持っていて、感情の機微をしっかり表現できれば、一つの物語としては見れなくもない仕上がりにはなるはずだ。……原作の『今日あま』の繊細さとは段違いの別物になるとはいえ、だ」
「む、むぅ……」
ルビーは唇を尖らせつつも、少しだけ表情を和らげた。
改変への不満は消えないが、作品として完全に終わっているわけではないのなら、まだ救いはある。
「それなら……みんなで一生懸命頑張って演技すれば、これが完成する頃にはそれなりにいい感じのドラマになるんだね?」
ルビーが僅かな希望を見出してそう言った矢先、横で黙って聞いていたミヤコが「はぁ」と深くため息を吐いた。
「ルビー。貴方、純粋すぎるわよ。そう上手く行くわけないじゃない」
「えっ?」
キョトンとするルビーに対し、ミヤコは現実という名の冷水を容赦なく浴びせた。
「考えてもみなさいな。制作側の都合で無理やり集められた『これから売り出したい若手モデル』たちが、揃いも揃って全員まともな演技ができるなんて、そんな都合のいい話があるわけないでしょ?」
「そうだろうな」
ミヤコの言葉を肯定し、アクアは手元のスマートフォンを操作しながら補足する。
「一応、今回キャスティングされている出演者の前歴は軽く調べてみたが……案の定、ほぼ全員が演技経験ゼロだ。モデル上がりか、別の界隈から引っ張ってきた連中ばかりだった」
「えええええっ!?」
「おそらく制作陣の思惑としては、ヒロイン役に一人だけ演技の出来るベテランを配置して、周囲の拙い演技をカバーさせつつ、なんとか作品として破綻しないギリギリのラインを狙うつもりだろう」
あまりにもお粗末な裏事情をあっさりと告げられ、ルビーはあんぐりと口を開けたまま硬直した。
そんな妹に対し、アクアはなぜか少しだけ得意げな、それでいて不敵な笑みを浮かべた。
「だから安心しろ、ルビー。お前の演技でも、このキャスト陣の中なら間違いなくトップクラスだ」
「全然安心できないんだけど!?」
ルビーはソファーからガバッと身を起こし、猛烈な勢いでツッコミを入れた。
「トップクラスって……私、演技のレッスンなんて、アクアや五反田監督が講師役になってくれた時に教わったくらいしかないんだよ!? この前に見させてもらったあかねさんの演技とかと比べたら、私なんてカクカク動くロボットかと思ったくらいなのに!」
「比べる対象が間違ってる。安心しろ、現場に出れば分かる」
アクアは紅茶の残りを飲み干し、ひどく冷酷な事実を告げた。
「お前と、そのヒロイン役のベテラン一人を除けば――あとの連中の演技力は、素人のナマコ以下だ」
「この作品が安心できる未来が、これっぽっちも見えないんですけどおおおおお!?」
悲痛なルビーの叫び声が、夜のリビングに虚しく響き渡った。
――
――数週間後。
ドラマ『今日は甘口で』の撮影初日。
雑多な機材が立ち並び、多くのスタッフやキャストが行き交うスタジオは、特有の熱気と緊張感に包まれていた。
「お、おはようございます! 今回『メグル』役を務めさせていただきます、星野ルビーです! 本日はよろしくお願いいたします!」
ルビーはピンと背筋を伸ばし、ミヤコから徹底的に叩き込まれた完璧な角度のお辞儀をキメた。
挨拶をした相手は、この現場の責任者であり、業界でも名の知れた敏腕プロデューサーの鏑木勝也だ。
「ああ、よろしく」
手元の資料に目を落としたまま、鏑木は事務的に軽く言葉を返した。その隣から、アクアが一歩前に出る。
「同じく、本日はルビーの現場マネージャーとして同行しております、星野アクアです。名目上の責任者は別にいますが、現場でのことは基本的に俺がすべて任されておりますので、何かあればお申し付けください」
淀みのない、大人顔負けの落ち着いたトーンで頭を下げるアクア。
その声に、鏑木はほうと片眉を上げて視線を向けた。
「ん?……ああ、アクア君か。五反田くんから君のことも、妹のことも評判は聞いているよ」
鏑木は興味深そうにアクアを一瞥した後、隣でカチコチに緊張しているルビーへと視線を移した。頭のてっぺんから爪先まで、値踏みするように素早く、しかし的確に観察する。
「良い子だね。ルックスも申し分ないし、よく教育されているようだ。……今回ルビー君には、元気なところを期待させてもらうよ」
「はいっ! 期待に応えられるように頑張ります!」
カチコチになりながらも持ち前の笑顔を見せるルビー。
そんな妹を横目に、アクアはマネージャーとしての建前を崩さず、表情ひとつ変えずに淡々と返す。
「現場の皆様にご迷惑をおかけしないよう、こちらでもしっかりと注意させますので」
模範的で隙のない返答。しかし、鏑木はその言葉を聞くと、面白そうな――あるいは何かを企むような笑みを深めた。
「ははっ。まあ、今回は多少迷惑をかけてくれても構わないんだけどね」
「……?」
からかうような、それでいて明らかに何かを含んだ響きに、アクアは微かな違和感を覚えた。
単なる社交辞令か、それとも別の意図が隠されているのか。真意を探るように視線を向けるが、鏑木はすでにそれ以上語る気はないのか、手元の資料へと目を落としていた。
「とにかく、今日は頼んだよ二人とも」
有無を言わさず会話を切り上げる鏑木の声に、二人は短く頭を下げてその場を後にした。
プロデューサーへの挨拶という一番の難関を終えたルビーは、ほっと胸を撫で下ろす。その後もアクアに付き添われながら、今作の現場監督や裏方のスタッフたちへの挨拶回りを順調に済ませていった。
「おはようございます! メグル役の星野ルビーです!」
「おっ、元気でいいねえ! よろしくね!」
「はいっ! 不慣れな点も多いですが、一生懸命頑張ります!」
持ち前の明るさと人懐っこい笑顔、そして中学生とは思えないしっかりとした礼儀作法は、現場のスタッフたちから思いのほか好評だった。機材の準備に追われて殺伐としがちな現場の空気が、彼女が通るたびに少しだけふっと和らぐ。
だが、一通りの挨拶を終えてスタジオの隅に戻ってきたルビーは、周囲を気にしながら小声でアクアに耳打ちした。
「ねえ、アクア……私、ちょっと媚びすぎてるような気がしない? なんだかご機嫌取りばっかりしてるみたいで、落ち着かないんだけど……」
不安げに見上げる妹に対し、アクアは持っていたバインダーでルビーの頭を軽く小突いた。
「痛っ」
「愛想よく挨拶することが『媚びてる』ように感じるなら、それはお前がまだガキすぎるだけだ。礼儀と愛想はこの業界で身を守るための最低限の鎧だと思え。……ほら、次は演者たちにも挨拶してこい」
アクアに背中を押され、ルビーは「うぅ……」と唸りながら、スタジオの反対側――キャストたちが集まっているエリアへと足を向けた。
そこには、雑誌から抜け出してきたようなモデル上がりの若手俳優たちが、すでに数人のグループを作って和気あいあいと談笑していた。アクアが言っていた「顔見せ用のカタログリスト」という言葉が嫌でも脳裏をよぎる。
ルビーは気合を入れ直し、とびきりの笑顔を作って彼らの輪へと近づいた。
「おはようございます! メグル役の星野ルビーです。よろしくお願いします!」
ルビーの元気な声に、男性陣が一斉に振り返る。その整った顔立ちとフレッシュな笑顔に、彼らの顔がパッと明るくなった。
「おー、おはよー! めっちゃ可愛いじゃん!」
「中学生? え、大人っぽくてびっくりした! よろしくね!」
(よし、いい感じ! やっぱり笑顔と挨拶は世界を救うね!)
ルビーが内心でガッツポーズをした、その直後だった。一人のイケメン俳優が、ルビーの顔をまじまじと見つめた後、ポンと手を叩いた。
「……ん? あれ、君ってもしかして……あのトルコアイスの子!?」
「えっ」
ルビーの笑顔が、ピシッと音を立てて固まった。
「あ、ほんとだ! SNSでバズってた動画の子じゃん!」
「見た見た! アイス取れなくて半泣きになってたやつでしょ!? めっちゃ面白かったわー!」
無邪気な、しかし容赦のないイジりがルビーを襲う。
「あはは……」と愛想笑いを浮かべるルビーの顔は、完全に引きつっていた。
気が付けば、あのスーパーの駐車場で撮られた『トルコアイス屋に敗北するアイドル』の動画は、ネットの海を漂ってすっかり拡散されてしまっていた。
その被害は深刻で、中学校のクラスメイトには「アイスの神に愛されなかった女」と腹を抱えて笑われ、事務所でのレッスン中には講師から「あの必死な顔の筋肉の使い方は良かったわよ!」と謎の褒められ方をし、散々な目に遭わされた後だったのだ。
(あああああ! なんでこんなイケメンたちに囲まれた現場でまで、私の黒歴史が掘り返されてるのおおお!?)
穴があったら入りたい、いやむしろトルコアイスの粘り気の中に埋もれてしまいたい。
羞恥心で顔から火が出そうになりながら、ルビーは「あ、あの! 挨拶の途中なので失礼します!」とペコペコ頭を下げ、逃げるようにその場を立ち去った。かわいーっ、という茶化すような声が背中から聞こえてきた。
「くそぉ……絶対にあの動画消させてやるぅ……」
真っ赤な顔で涙目になりながらブツブツと呪詛を吐きつつ、ルビーは控え室の並ぶエリアへと足早に向かう。
そして――パイプ椅子に座って台本を睨みつけている少女――有馬かなの前に立つと、バチンッと両手で自分の頬を叩いて気合いを入れた。
「おはようございますっ! 今回『メグル』役を務めさせていただきます、星野ルビーと申します! 演技の経験は浅いですが、精一杯頑張ります!」
突然の元気すぎる挨拶に、パイプ椅子に座っていた少女――有馬かなは、目をパチクリとさせてルビーを見上げた。
「あ、うん。よろしく……」
毒気を抜かれたような、少し呆けた声が漏れる。
無理もない。彼女はこの現場において、ヒロイン役という重責を背負う唯一の「本業」だ。周囲を見渡せば演技未経験のチャラチャラとしたモデル上がりの男たちばかりで、現場の空気は半ばお遊戯会と化している。そのため彼女はずっと一人で気を張り詰め、周囲を威嚇するように台本を睨みつけていたのだ。
そこへ突如現れた、礼儀正しくも初々しい同年代の少女。あまりにも真っ当な挨拶に、かなは拍子抜けしてしまったらしい。
ルビーが内心で(よかった、トルコアイスって言われなかった……!)と安堵しかけていると、背後から足音が近づいてきた。
「ルビー。挨拶は終わったのか」
「あっ、お兄ちゃん」
振り返ると、関係者への挨拶回りを済ませたアクアが歩み寄ってくる。
彼はルビーの隣に立つと、パイプ椅子から腰を浮かせかけていたかなへ向けて、事務的なトーンで口を開いた。
「初めまして。本日はルビーの現場マネージャーとして同行している、星野アクアです。妹がご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」
淡々と頭を下げるアクア。しかし、その声を聞き、顔を見た瞬間――かなの肩がビクッと跳ねた。
「えっ……」
信じられないものを見るように目を丸くし、次いでその顔にパッと花が咲いたような明るい色が広がる。先程までのピリピリとした警戒心や威圧感はどこへやら、パイプ椅子から勢いよく立ち上がった。
「え、アクアって……もしかして、あのアクア!? 嘘、本当に!?」
声を上擦らせ、目をキラキラと輝かせて前のめりになるかな。そのあまりの豹変ぶりに、ルビーは目を瞬かせた。
「えっ、何? お兄ちゃん、知り合いなの?」
不思議そうに二人の顔を交互に見比べるルビー。するとアクアは、興奮気味に自分を見つめてくるヒロインを前にしても全く表情を崩すことなく、さも大したことではないように短く答えた。
「まあな。昔、一度だけ共演したことがあるが……それぐらいだったよな? てっきり忘れられていたかと」
「それぐらいって、あんたねぇ……! 私にとってあれがどれだけ――」
文句を言いかけて身を乗り出したかなだったが、その言葉は無情にも遮られた。
「――有馬さーん! 星野さーん! そろそろ撮影入りまーす!」
スタジオの奥から、スタッフの張りのある声が響き渡る。
「おっと、時間だな」
アクアはスタッフの声に反応して踵を返すと、かなの言葉の続きを聞く素振りすら見せずにルビーへと向き直った。
「それじゃあ、頑張って来いよ」
「うんっ! 見ててね!」
短く激励の言葉を残し、アクアはあっさりと背を向けて裏方の持ち場へと歩き去っていく。
完全に肩透かしを食らった形になったかなは、「あ、ちょっと……! もうっ……!」と口惜しそうに唇を尖らせて、遠ざかるアクアの背中を睨みつけた。
そんな二人のやり取りを、ルビーは「なんだかよく分からないけど、お兄ちゃんってば昔から知り合い多いなぁ」と不思議そうな顔で見つめていた。
だが、すぐに気を取り直すと、ルビーはパチンと両手を合わせた。
「えっと、とにかく! 今回は主人公と友人役ということで、よろしくっ!」
ルビーは満面の、それこそ太陽のように屈託のない笑顔でかなに笑いかけた。
そのあまりにも裏表のない眩しさに、かなは少しだけ毒気を抜かれたように目を瞬かせる。
(……まあ、あっちでキャーキャー騒いでる男連中よりは、よっぽどマシか)
キャリアも年齢も自分より下で、演技未経験のど素人。普段の彼女なら足手まといだと早々に切り捨てて深く関わらないようにするところだ。
だが、同じ現場にいる数少ない同性であり、何よりあの『アクアの妹』だという事実が、かなの中にほんの少しだけ特別な期待を抱かせていた。
「……ふん。まあ、分からないことがあったら何でも聞きなさい。こう見えても私、昔は『天才』って呼ばれてたんだから。大船に乗ったつもりで期待していいわよ」
コホンとわざとらしく咳払いをして、久しぶりに心地よい先輩風を吹かせてみるかな。
少し得意げに胸を張って見せた彼女に対し、ルビーはパァァッと尊敬の眼差しを向けた。
「もちろん知ってるよ! 有馬かな先輩だよね!」
「あら、そう? ふふっ、まあこの業界にいるなら当然――」
「『重曹を舐める天才子役』でしょ!!」
「『十秒で泣ける』だわ!! 誰よそのピンポイントな間違い広めた奴は!!」
かなの持っていた丸めた台本が、ルビーの頭にスパーン!と綺麗に炸裂した。
――
撮影現場の端に立ち、アクアは腕を組みながら冷めた眼差しでスタジオの中央を見つめていた。
本来、ドラマの撮影に入る前にはキャスト全員で台本を持ち寄って読み合わせる「本読み」という工程を挟むのが通例だ。だが、この現場では時間の短縮とスケジュールの都合からか、その本読みすらもすっ飛ばして、いきなりカメラを回す前提のリハーサルが強行されていた。
その結果、カメラの前で繰り広げられている惨状は、控えめに言っても「地獄」だった。
「キミ、ダイジョウブ? ケガ、ナイ?」
「大丈夫だけど…あなたは?」
「アア、オレハ、ヘイキダヨ。キミコソ……」
イケメン俳優たちの口から飛び出す台詞は、まるで全ての言葉がカタカナで表記されているかのように抑揚がなく、感情の欠片もこもっていなかった。歩き方もロボットのようにカクカクとしており、棒読みという言葉すら生ぬるい。
そんな惨憺たる有様の中で、ヒロイン役の有馬かなは、必死に自分の演技のレベルを彼らの底辺に合わせて落としていた。
本来の彼女の持つ繊細な感情表現や間の取り方を発揮してしまえば、周囲の素人演技とのギャップが悪目立ちし、ひとつの画面として完全に崩壊してしまうからだ。作品を成立させるため、自らの才を殺して「少しマシな大根芝居」を演じ続けるかなの背中は、どこか哀愁すら漂っていた。
(……うわぁ)
出番待ちのためセットの隅に控えているルビーも、声にこそ出さないものの、顔にハッキリとそう書いてあった。引きつった笑顔のまま、信じられないものを見るような目でドン引きしている。
アクアは小さく溜息を吐き、静かに首を振った。間違いない。編集やBGMでどれほど誤魔化そうとも、このオンエアは確実に酷いことになる。
改めて手元の台本へ視線を落とし、アクアはパラパラとページをめくって全体の構成を読み解いていく。
ルビーの演じる『メグル』という役は、出番こそ毎話用意されているものの、そのほとんどがかなの演じるヒロインとの二人の会話シーンに集約されている。男性演者たちと絡むシーンは極端に少ない。
(なるほどな)
アクアは制作陣の意図を正確に読み取った。
このドラマのメインターゲットはイケメン好きの女性層だ。だが、いくら顔が良いとはいえ、延々と続くあの素人以下のカタカナ演技を見せられ続ければ、視聴者のストレスはマッハで限界を迎える。
だからこそ、「演技のできる演者(かなとルビー)」だけで固めたシーンを定期的に挟むことで、視聴者の目と耳を休ませるためのオアシス――あるいはガス抜きの役割を持たせているのだ。これなら少なくとも、そのシーンだけは「ドラマ」として破綻せずに見ることができる。
「おーい、アクア君。こっちこっち」
思考を巡らせていたアクアの耳に、少し離れた機材の裏から声がかかった。
振り返ると、今作の現場監督を務める男が、手招きをして呼んでいる。アクアは台本を閉じ、足音を立てずにそちらへと向かった。
「森平監督。何かありましたか?」
アクアがごく自然に名前を口にすると、森平監督は少し目を丸くして意外そうな顔をした。
「あれ、僕の名前覚えてたんだ?」
「ええ。現場の主要な方々の名前は一通り頭に入れています。以前、別の現場で見かけた時はADをされていましたよね。最近はもっぱら監督へと抜擢されていると伺っています」
「ははっ、まあね。そう言われて悪い気はしないね」
監督は照れくさそうに頭を掻きながら笑った。
アクアが五反田監督の元で出入りしていた頃に顔を合わせたことのあるスタッフの一人だった。五反田という共通の話題があることも手伝い、二人は短い時間ながらも和やかな談笑を交わし、現場でのコミュニケーションを円滑に深めていく。
一息ついたところで森平は、スタジオの中央でリハーサルを続けるキャストたちへ視線を向けた。
「……で。アクア君から見て、この現場はどう見えるかな?」
試すような問いかけ。アクアは一瞬の逡巡も見せず、ばっさりと切り捨てた。
「無茶苦茶ですね」
そのあまりにも直球すぎる評価に、森平は苦笑いを浮かべるしかない。
しかし、アクアはただ批判するためだけに口を開いたわけではなかった。
「ただ、世辞を抜いた上でも、裏方の皆さんは非常に優秀だと思っています。カメラの動かし方や照明の当て方を見ても、スタッフそれぞれが森平監督の手足として無駄なく動かれています。限られた時間と制約の中で、あれだけの画作りを……とまで言うと世辞に聞こえてしまうかもしれませんね」
「ありがとう。そう言って貰えると救われるよ」
裏方の苦労を的確に評価する中学生らしからぬ視点に、森平は感心したように息を吐いた。
「ただ、それでも難しいように思えます。どんなに外堀を完璧に埋めても、肝心の被写体の芝居があの様子では…」
「うーん……かなちゃんや、君の妹のルビーちゃんが居てもかな?」
森平の言葉に対し、アクアはスタジオの端で出番を待つ妹の姿をちらりと一瞥した。
「そうですね。台本の構成から、意図的に『まともに見られるシーン』を作ろうとしているのは分かりますし、うちのルビーをそこへ配置していただいたことには感謝しています」
アクアは再び視線を森平へと戻し、淡々と続けた。
「ただ、せめて男性モデルの中にも、少しでも演技を齧っている人間を一人でも当てるのがベストだったのではないかとは考えました。男の演者側にまともな芯が一本もない状態では……いくら有馬かなが相手の芝居に合わせてレベルを落とし、ルビーで脇を固めたとしても、作品全体の崩壊は防ぎきれない」
それは、ただの現場批判ではない。
今のルビーの経験値や演技力では、有馬かなと肩を並べて作品の質を底上げするほどの力はないという、身内に対する冷静な評価と謙遜を含んだ言葉だった。
「まぁ、それもそうなんだけどね、今回は主演に置きたい、良い感じの子をツモれなかったって言うのもあるからねぇ」
森平監督はどこか困ったような、それでいて少し安堵したような苦笑を浮かべた。そして、ふと思い立ったようにアクアへ問いかける。
「アクア君って、普段から少女漫画って読むタイプ?」
唐突な問いに、アクアは小さく首を傾げた。
「いえ……今回の原作は一通り目を通しましたが、普段はあまり」
「だよね。あのね、こういう少女漫画の読者ってさ、主人公に対して友好的な同性の存在って、あまり嫌いじゃないんだよ。シンデレラでいう魔女――というか、魔法使いみたいなポジションだね。ヒロインを支えたり、引き立てたりする分には好意的に受け入れられる」
そこで森平は、リハーサルで棒読みを続ける男性陣へ視線を移した。
「だけど、そこに『少しでも演技のできる男性』を配置しちゃうと、視聴者は『もうこっちがヒーロー役でいいじゃん』って思っちゃうんだよね。メインで売り出したい男の子たちの存在感が完全に食われちゃうから」
「……だから、ルビーを調整役としてそこに配置したんですか」
制作側のシビアな思惑を察し、アクアが呟くように言うと、森平は深く頷いた。
「そうだね。メインターゲットの視聴者以外にも、当然ながら原作ファンも観てくれるからね。彼らが脱落しないよう注目できる見どころ……『最低保証』とでも言えばいいかな。僕らとしても、作品の中にそういう柱を一本作りたかったんだけど……」
言葉を濁した森平とともに、アクアもスタジオの中央で行われているリハーサルへ目を向けた。
ちょうど、主人公を演じるかなと、メグルの役に入ったルビーの掛け合いが始まるところだった。
主人公に向かって無邪気に笑いかけ、くすくすと肩を揺らすメグル。そんな彼女に対し、主人公は少し鬱陶しそうに、けれど親愛を込めて手を払ってみせる。
(……悪くないな)
二人だけのワンシーンとして切り取れば、掛け合いのテンポも自然で、演技の質も決して悪くないとアクアは感じていた。ルビーの持つ素の瑞々しさを、かなが上手くコントロールして確かな「芝居」として成立させている。
しかし、そのささやかな平穏は長くは続かなかった。
その少し後、かなが男性演者と絡むシーンのリハへと移った瞬間――。
「アッ、キミ、ナニヲシテ……」
「オレハ、タダキミト……」
先ほどまでの自然な空気が嘘のように消え去り、再び目も当てられない惨憺たる大根芝居が展開されることになったのである。
「監督、吉祥寺先生が現場にいらっしゃいました」
スタッフから声がかかり、森平監督は疲れたように息を吐き出すと、スタジオの入口へ視線を向けた。
「……そっか。まあ、覚悟してもらうしかないねぇ」
撮影風景を横目で見ながら、どこか諦めたような苦笑を浮かべる監督。
その視線を追うように、アクアも遠目から現場に入ってきた原作者――吉祥寺頼子の姿を捉えた。
そこに立っていたのは、自分の愛した作品が影も形もない大根芝居の山へと姿を変えつつある現実を目の当たりにし、あからさまに表情を沈ませている女性の姿だった。
(……まあ、そうなるだろうな)
アクアは特に同情するでもなく、淡々とフラットに思考を巡らせる。
自分が丹精込めて描き上げた漫画が、大人の事情でモデルの顔見世カタログに成り下がり、棒読みの連発で踏みにじられているのだ。原作者としてあの顔になるのはごく当然の反応と言えた。
その後も目も当てられないリハーサルと本番が幾度か繰り返され、ようやく現場は束の間の一息――短い休憩時間へと入った。
スタッフや演者たちがそれぞれ飲み物を口にしたりパイプ椅子へ腰を下ろす中、ルビーがいそいそと吉祥寺のもとへ歩み寄っていくのが見えた。
「初めまして! メグル役をやらせていただく星野ルビーです! 私、ずっと『今日あま』の原作が大好きで……今日はお会いできて本当に嬉しいです!」
元気に、まっすぐな瞳でファンであることを伝えるルビー。
男性陣の壊滅的な演技を見せつけられ、散々に改変されたスカスカの脚本に傷ついていた吉祥寺は、その不意打ちのような純粋な言葉に目を丸くし、どこか救われたような、けれど切ない苦笑いを浮かべた。
「あ、ありがとう……そう言ってもらえると、救われるわ……」
「それで! ちょっと吉祥寺先生に聞きたいことがあったんです!」
ルビーは身を乗り出すようにして、目を輝かせながら尋ねた。
「メグルって、原作だとヒロインとすごく仲が良いじゃないですか。このドラマの段階で二人がもう友達になっているとしたら……画面に映ってないところで、二人の間にどんな出来事があったと思いますか?」
その光景を遠目から見ていたアクアは、一瞬で顔をこわばらせ、思わず頭を抱えた。
(あいつ……。忘れていたな)
現場における暗黙のルールを、ルビーは知らず知らずのうちに踏み越えてしまっていた。
演技の解釈や脚本に対する疑問、役作りに関する質問は基本的には演技指導者、今回でいうのであれば監督に確認するのが原則だ。いくら原作者とはいえ、監督を飛び越えて外部の人間に直接「どう演じればいいか」を訊ねるのは、現場の思惑を乱すことに繋がりかねない。
「申し訳ありません、森平監督。こちらの指導不足でした」
アクアはすぐさま森平の前に立ち、深々と頭を下げる。
「ルビーには役作りの手順をしっかり叩き直しておきます。今すぐ止めさせますので――」
「ん? いや、いいよ……というか、アクア君。鏑木さんから何も聞いてないの?」
拍子抜けするほどあっさりとした森平の返答に、アクアは頭を上げたまま首をかしげた。
「……鏑木さんから、ですか?」
「ははっ、意地が悪いなぁ、あの人は」
森平は参ったというように首を振り、苦笑いを深めた。
「ルビーちゃんの演じるメグルのシーン、台本だとちょっと描写がスカスカだったでしょ?」
「ええ……、シーンを調整する上での余白として作られていると判断したのですが」
「正解、流石だね。……でね、鏑木さんが言ってたんだ」
森平は遠くでルビーと話し始めた吉祥寺を見つめながら、言葉を続ける。
「『もし原作者が現場に来たとき、あの妹ちゃんはきっと直接聞きに行くんじゃないかな。そうすれば原作者の意図も汲めるし、面白いアイデアが生まれるかもね。聞きに行かなかったとしても、かなちゃんならそれなりに形にしてくれるでしょ』……ってね」
(……ああ、そういうことか)
森平の言葉を聞いて、アクアは先ほど挨拶を交わした際の、鏑木の言葉の含みを今になってはっきりと理解した。
『今回は多少迷惑をかけてくれても構わない』――つまり、ルビーが原作者である吉祥寺に突撃し、現場のルールを乱すことすらも、初めから織り込み済みだったというわけだ。
そんな大人たちの思惑など露知らず、吉祥寺とひとしきり談笑を終えたルビーが、意気揚々とした足取りでこちらへ戻ってくるのが見えた。
「監督!」
ルビーは小走りで森平の前に立つと、手元の台本を開いて目を輝かせた。
「次のシーンのこの部分なんですけれど、メグルがもう少し大げさになリアクションをとる感じの演技にできませんか? さっき吉祥寺先生とお話ししていて、このメグルならここでヒロインを笑わせるためにもっと感情豊かに動くかなって思ったんです!」
勢いよく提案するルビー。
森平は顎に手を当て、「うーん、そうだなぁ」と考える素振りをしながら、視線だけをスッとスタジオの奥へ向けた。
カメラマン、そして編集を担うスタッフと無言の目配せを交わす。彼らが小さく頷き、「その動きでも画角や尺に収まる」という現場のOKサインを出したのを確認すると、森平はわざとらしいほど明るい声を上げた。
「いいアイディアだね! 採用しよう!」
周囲のスタッフたちにも聞こえるよう、よく通る声でそう告げる。
ルビーが「やった!」と無邪気に喜んだ直後、森平は少しだけ声のトーンを落とし、優しく、しかし明確な注意を与えた。
「ただね、ルビーちゃん。アイディアはすごく良かったけれど、こういうアプローチの方法は今後あんまり良くないかもね。こっちが想定している流れもあるし、色んな人に『どういう演技が良いか』を聞いて回っちゃうと、最終的にどれが本当にいいのか分からなくなって、作品がブレちゃうからさ」
「あっ……」
その言葉に、ルビーはぴたりと動きを止めた。つい先ほどアクアからコンコンと言い聞かせていた現場のルールを思い出したのだろう。「やってしまった」という顔になり、シュンと肩を落として森平に頭を下げる。
「ご、ごめんなさい……私、つい嬉しくなっちゃって……」
「ははっ、いいよいいよ。それなら、次のシーンでその分いい演技を頼んだよ。せっかく吉祥寺先生の貴重な意見も聞けたんだしね。……ああ、このアイディアのことは、自分の周りの子たちにも話していいからね」
「本当ですか! ありがとうございます!」
森平の明るい許しの言葉に、ルビーは再びぱぁっと顔を輝かせた。
そのまま有馬かなの元へ向かおうとする背中に、アクアが静かに声をかける。
「……ルビー。分かっているとは思うが」
「うっ……分かってます。私のアカウントは会社のものですから、勝手に呟いたりしません」
アクアの意図を察し、釘を刺される前にルビーは頬を引きつらせながら答えた。
『周りに話していい』と言われたからといって、浮かれてSNSで「原作者公認の演技!」などと勝手に発信することは許されない。それを理解しているなら十分だ。
「分かっているならいい。……頑張って来い」
アクアが短く激励すると、ルビーは力強く頷き、やる気を全身に漲らせながらかなの待つセットへと駆けていった。
その元気な背中を見送った後、アクアは小さくため息を吐き、隣に立つ森平をジロリと横目で睨んだ。
「……監督。俺やルビーを試さないでください」
「あ、やっぱり分かった?」
森平は悪びれる様子もなく、ひらひらと手を振った。
「でも先に言い訳させてもらうとさ、君が気付かなかったら、あとで僕の方からちゃんと君に言うつもりだったんだよ? 僕としても……ダメコンの一つぐらいはしておきたかったしさ」
「……ええ、それは信頼しています。鏑木さんのことも、誤魔化さずに話してくれましたからね」
アクアは淡々と返しつつ、心中で事の顛末を整理していた。
(もしもルビーが今の出来事を、裏の事情も知らずにSNSで呟いていたとしたら……)
オンエアを見た視聴者の中には、「このドラマの演出には原作者も一枚噛んでいるのではないか」と早とちりする層が少なからず出てくるだろう。そうなれば、大爆死後に起こるであろう炎上の矛先は僅かながら分散され、結果的に監督への非難は多少なりとも軽減される。
勿論、その思惑にアクアが気が付かなければ、先ほど言っていた通り監督の方から事情を説明するなり、ストップをかけるなりするつもりだったのだろう。そのあたりの最低限の線引きに対する信頼は、アクアの中にもあった。
(仮にルビーがどうしてもSNSに流したいと言い出したら、俺が文面を考えるしかないな)
誰からも誤解されないよう細心の注意を払い、それでもなお誤解して叩いてくる者がいるとすれば「そいつが余程文脈の読めない愚かな人間である」と周囲から呆れられるような、絶妙な防弾仕様のテキスト。そんな裏方としての算段を脳内で組み上げていると、不意に森平が肩の力を抜いて柔らかく笑いかけてきた。
「なんだかごめんね。どうしても気にかけてる子だと、大人のお節介で色々言いたくなっちゃってさ」
「……俺が、ですか?」
その言葉の対象が自分に向いているとは思わず、アクアは思わず目を丸くして聞き返した。森平は「そりゃそうだよ」とでも言いたげに頷く。
「うーん、そうだね。礼儀正しくて見栄えが良くて、プレイヤーとしてもゼネラリストとしても有望な子がさ。裏方の細かい事情にまで気が付いて、ちゃんとこっちの顔を立ててくれるわけじゃない? そういうのを見ちゃうと、大人としてはやっぱり気分が良くなっちゃうものなんだよ」
森平はスタジオの中心で撮影に臨むキャストたちへ視線を移しながら、少しだけ懐かしむような声色で続けた。
「多分、鏑木さんや五反田監督も、君に対しては似たような感じなんじゃないかな?」
「…………」
現場を回す大人たちからの、妙に生々しく、それでいて確かな好意と評価。
「……そう言っていただけるのは光栄です。ありがとうございます」
アクアは過剰な謙遜を挟むこともなく、差し出された好意を素直に受け止め、静かに礼を述べた。
「ははっ、どういたしまして。まあ、僕らもいつか君の力を借りることがあるかもしれないからさ。その時は、この恩をちゃんと覚えておいておくれよ?」
森平は冗談めかした様子で、どこまで本気か分からない笑みを浮かべながら言った。
「……なんだか、少し怖いこと言いますね」
アクアは苦笑いを浮かべて肩をすくめてみせたが、その胸中ではどこまでも冷徹な計算が働いていた。
この芸能界において、力を持つ監督やプロデューサーといった大人たちとのパイプは、いくらあっても困ることはない。結んでおく良好な縁は、多いに越したことはないのだ。
アクアは幼いころから、五反田に連れまわされる間にもADなどの裏方には礼儀を示し結果も出していた。ここでその芽が結んだ森平という若手監督に恩を売り、良好な関係を築いておくことは、今後の自分やルビーの活動にとっても決して悪い話ではなかった。
しかし、同時に彼らのような大人たちへ迎合するということは、彼らの都合によって作品の在り方が捻じ曲げられることについて、目を瞑るということでもある。
大人の事情で無残に踏み台にされていく原作。そして、もし先ほどの監督の話――『裏方の事情にまで気が付き、顔を立ててくれる人間を大人は評価する』という理屈――が正しいのだとすれば。
逆に、自分のように計算高く立ち回ることのできなかった人間は、この業界で一体どうなってしまうのか。
ふと、アクアの視線はセットの中央へと向けられた。
そこには、大根役者たちのひどい芝居に必死にレベルを合わせ、自分自身の才を押し殺してまで、この破綻した作品をどうにか成立させようと孤軍奮闘する有馬かなの姿があった。
大人たちの思惑に器用に迎合することも、要領よく自分の身を守るための立ち回りもできずにいた結果が、今の彼女の立ち位置なのだ。誰の庇護も受けられず、作品のしわ寄せをたった一人で被らされている。
(……理不尽な世界だ)
アクアは誰に聞こえるでもなく、心中で小さく独りごちた。
「本番、行きまーす! 3、2、1――」
カチンコが鳴り、スタジオの照明が一段と輝きを増す。
カメラの前で、ルビーが先ほど森平監督に直訴した通りの演技を実践してみせた。
「ほら、行こうよ!」
弾けるような笑顔とともに、このメグルらしいコミカルで無邪気なリアクションを交え、力強くかなの手を引き寄せる。
「……っ」
不意を突かれたかなが、一瞬だけ目を丸くした。
それが役者としての計算されたリアクションなのか、それともルビーの熱量に押された素の驚きなのかは、遠目で見つめるアクアの目からしても判別がつかない。
だが、間違いなくその一瞬、澱んでいた画面の空気がほんの少しだけ跳ね上がった。
かなも即座に主人公の表情へと戻し、ルビーの勢いを受け止めながら絶妙な間合いで言葉を返していく。二人の間に生まれた生き生きとした掛け合いが、死体のように冷え切っていた現場に、ささやかな息吹を吹き込んでいく。
劇的な変化というわけではない。作品全体の惨状を覆せるほどの魔法でもない。
けれど――ほんの僅かだけ、確実に画面のクオリティが底上げされていた。
(……悪くない、そう思わせてくるのなら、狙い通りと言うわけか)
もしも、この小さな変化がそのまま続いていったなら。
もしかしたらこのドラマも、ただの駄作ではなく、もう少しだけ良い作品になり得るのではないか――。
このドラマにおいて、まともな芝居など二の次、三の次の要素でしかない。
求められているのはキャストの顔の良さであり、話題性であり、大人たちの都合を満たすビジネスとしての成立だ。
しかし、それでも。
限られた制約の中で必死に画作りを模索する裏方スタッフも、自分の才を殺して作品を支え続ける有馬かなも、そして拙いながらも作品に必死で食らいつくルビーも。誰一人として投げ出してなどいない。単なる駄作で終わらせないよう、それぞれが置かれた場所で泥臭く力を尽くしている。
だとするなら――この泥舟を、もう一歩よくするために必要なのは。
アクアはポケットに手を突っ込んだまま、モニターの光に照らされるかなの横顔を、どこまでも冷徹で客観的な視線で見つめ続けた。