ゴロー先生はアイアンチ 作:作者さん
放送終了と同時に、SNSのタイムラインは案の定、阿鼻叫喚の地獄と化していた。
『原作崩壊にも程がある』
『顔が良いだけのマネキンがカタカナ喋ってる』
『話の圧縮率がヤバすぎてダイジェスト版じゃん』
期待されていた大人気少女漫画『今日は甘口で』の実写化ドラマ第一話。その評価は、事前の予想を遥かに下回る凄惨なものだった。男性キャスト陣の壊滅的な大根芝居と、尺に収めるためだけにズタズタに切り刻まれた強引な脚本。唯一評価されているのは「画面に映る顔面偏差値の高さ」のみという、まさに絵に描いたようなクソドラマのレッテルが貼られようとしていた。
しかし、その泥沼めいた酷評の波の中に、局地的な「オアシス」が形成されているのもまた事実だった。
『このメグル役の子可愛すぎない?』
『前にバズってたトルコアイスの動画の子だ!』
『なんでもう親友になってるの?』
『この二人のシーンだけ急に作画班が本気出してるの草』
『有馬かなとこの子たちが出てくるシーンだけ別番組みたいで息ができる』
『この子たちだけのシーンでCMつくったったwww』
『CM詐欺』
視聴者の視線は、極度のプレッシャーの中で作品を成立させようと足掻く有馬かなと、その隣で等身大の無邪気さを爆発させる星野ルビーに釘付けになっていた。破綻しかけたドラマの中で、彼女たちのやり取りだけが唯一の清涼剤として機能していたのだ。
その惨憺たる有様と一部の熱狂を冷徹な目で見つめながら、アクアは手元のスマートフォンでルビーの公式アカウントを操作していた。画面には、彼自身が推敲を重ねた一件のポストが入力されている。
『ドラマ第一話、見てくれてありがとうございます! 実は現場で、原作者の吉祥寺先生にお会いすることができたんです。凄く感動しました……! 私だけ個人的にアドバイスも貰えちゃいました。一生の宝物です!』
「アクアっ!」
不意にリビングの扉が勢いよく開き、パジャマ姿のルビーが飛び込んできた。その手にはしっかりとスマートフォンが握られている。放送後のタイムラインの惨状を目の当たりにし、今回の評判について色々と言いに来たのだろうとアクアは当たりをつけた。
しかし、アクアの手元を覗き込んだルビーは、目を丸くして声を上げた。
「って、それ私のツイート?」
「ああ。お前が言ったとおりにしておいたぞ」
アクアは悪びれもせず、自身の手元の端末画面をルビーに見せた。ルビーのアカウントから、たった今その文章が投稿されたところだ。画面のテキストを読んだルビーは、拍子抜けしたように唇を尖らせる。
「……なんか、これくらいなら私が書いても良かったんじゃない? 普通のお礼文章じゃん」
「これでもいろいろ考えはあるんだ」
アクアは淡々と返し、再び視線を画面に戻した。
一見すれば、新人女優が無邪気に喜びを爆発させているだけの、可愛らしい文章だ。だが、これはアクアによって緻密に計算し尽くされた「防弾仕様」のテキストであった。
「このポストが投下されれば、一般の視聴者やファンは『純粋で一生懸命な新人演者の微笑ましいエピソード』としてこれを受け取る」
「まあ、それはわかるけど」
「一方で、業界人たちの受け取り方は。新人の役者が現場で監督の頭を飛び越え、原作者に演技指導を求めるような真似は『和を乱す面倒な素人』として思われかねない」
アクアはそこで言葉を区切り、投稿文の一節をトントンと指で叩いた。
「だから、意図的に受け身のニュアンスにしたんだ。これなら『ルビーが空気を読まずに指導を乞うたのではなく、原作者である吉祥寺先生の側から勝手に声をかけてきた』と読み取れる」
「……それはまぁ、確かにそう思う人もいるかも?」
「カモ、って思わせられたなら上々。関係者からの面倒な新人というレッテルを回避できることになるわけだ」
それだけではない。アクアの眼差しは、さらにその先の盤面を見据えていた。
(……これはルビーに言う必要はないか)
意図はまだ存在していた。裏を読みたがる疑い深い連中や、ただアンチ活動として騒ぎ立てたいだけの人間は、このポストから「吉祥寺もこの酷いシナリオにガッツリ関わって妥協しているんだ!」と思い込み、勝手に拡散を始める。
結果として、怒りの矛先は「ドラマの無惨な出来」や原作者にも一部向かい、監督のダメコンという義理も果たした上で、ルビー個人へのバッシングは完全に封殺される構造になっていた。
「アンチが最も攻撃しにくい、文章の作り方は分かってる」
こともなげに言い放つアクアに対し、ルビーは呆れたような、胡乱なものを見るようなジト目を向けた。
「……アクアもアンチやってたからね」
「…………」
痛いところを突かれたアクアは気まずそうにスッと目をそらし、無言のままスマートフォンの画面へと逃避した。
勝利を確信して得意げに鼻を鳴らしたルビーだったが、ふと自分の手元にあるスマートフォンに視線を落とした瞬間、ピタリと動きを止めた。
画面に表示されたままのタイムラインは、相変わらず『今日あま』第一話に対する容赦のない罵詈雑言で埋め尽くされている。
「顔が良いだけのマネキン」「原作への冒涜」「今年一番のクソドラマ」――。次々と流れていく辛辣な言葉の数々を見て、ルビーはハッと我に返った。
「そうだった! ツイートのことじゃなくて!」
本来の目的を思い出し改めて批評だらけの様子を見た途端、ルビーは先ほどの勢いなどどこへやら、ずるずると力なくその場に崩れ落ちた。
「……うぅ……最悪……。私の好きな『今日あま』が、ネットのおもちゃにされてる……」
ソファに突っ伏したルビーは、背中から怨念でも立ち昇りそうな暗いオーラを放ちながら、手元のスマートフォンを恨めしそうに睨みつけていた。
画面に映っているのは、ドラマの第一話に対する容赦のない酷評の数々だ。
「気にするな。お前の評価自体は悪くない」
アクアは、視線をスマホから外すことなく淡々と事実だけを告げた。
「むしろ、この数日でお前の公式アカウントのフォロワーは跳ね上がってる。お前個人の顔見世や売り出しという点で見れば、今のところ大成功の部類だぞ」
「そういう問題じゃないの!!」
ガバッ! と勢いよく身を起こしたルビーは、抱えていたクッションをアクアに向かってぶつけた。アクアはそれを鬱陶しそうに受け止め眉を顰める。
「私が褒められてるのは嬉しいよ! でも大好きな漫画が、私が出てるドラマが、ボロクソに言われて笑い者にされてるのが悔しいの!」
ルビーは涙目を浮かべ、クッションでたたいた勢いそのままにアクアの肩を揺さぶった。
「ねえアクア! お兄ちゃんでしょ、なんとかしてよぉ! あのカタカナ喋りの人たち、どうにかできないの!?」
「……無茶を言うな」
アクアは深く溜息を吐き、肩にすがる妹を引き剥がした。
「俺はいちマネージャーだぞ。他所の事務所の演者や、大勢の人間が関わっている現場の空気を、俺の一存でどうにかできるわけがないだろう」
「うぅぅ……だってぇ……」
正論で返され、ルビーは再びソファへと崩れ落ちた。不満と悔しさでいっぱいの顔は、まさに理不尽な現実に直面した子供そのものだ。
そんな妹の姿を冷めた目で見下ろしながら、アクアはほんの少しだけ目を細め、声のトーンを落とした。
「俺に現場を変える権限はない。……ただ、どうにかしなくてもいいが、お前自身が動く気があるなら、一つだけアドバイスをしてやる」
「……アドバイス?」
ルビーがピクッと反応して顔を上げる。アクアは深くソファに腰掛け直し、静かに言葉を紡いだ。
――
――数日後。ドラマ『今日は甘口で』、第2話の撮影現場。
(……はぁ。今日も今日とて、地獄の時間が始まるわけね)
パイプ椅子に座り、台本を睨みつけながら、有馬かなは心の中で盛大なため息を吐いた。
「キミ、ダイジョウブ? ケガハナイ?」
相変わらずカメラの前で繰り広げられているのは、モデル上がりのイケメン俳優たちによる棒読みとナマコのダンスのような動きだ。
一応、先輩として、そしてこの現場の作品クオリティを死守する役者として、かなも何度か彼らに演技のアドバイスを試みたことはあった。だが、返ってくるのは「あー、はいはい! 了解っす!」「監督がこれでイイって言ってたんで大丈夫っす!」という、ヘラヘラとした暖簾に腕押しの対応ばかり。やる気ゼロの彼らにとって、自分たちの演技がどう見られようが、顔さえ映ればそれでいいのだ。
(……どうしてこうなるのよ。私がどれだけ必死に演じても、周りがこれじゃ……)
少しでも作品を良くしようと足掻けば足掻くほど、自分一人だけが空回りしているような孤独感が募る。ドラマが音を立てて崩壊していくのを止められない歯がゆさに、かなはギリッと唇を噛んだ。
諦めと徒労感で胃が痛む中、ふと視線を横にやると、セットの隅で星野ルビーが男性演者の一人に話しかけているのが見えた。何やら真剣な表情で言葉を交わし、最後にはシュンと肩を落として走り去っていく。
(何やってんのよ、あいつは……。あの踊るナマコどもに話しかけたって何の意味もないでしょうに。あの頭の中身スカスカの男たちに言葉が通じるなら、最初からあんな風に動かないわよ)
かなは呆れ交じりに鼻で笑い、関心を絶つように再び手元の台本に目を落とした。
ところが――撮影の直前になって、思わぬ事態が起きた。
「……あの、有馬さん」
声をかけてきたのは、先ほどルビーと話していた男性演者の一人だった。どこか気まずそうに、頭を掻きながらかなの前に立っている。
「……何ですか?」
かなが警戒心を露わにして見上げると、彼は視線を泳がせながら、ボソボソと小さな声で言った。
「次のシーンのセリフなんだけど……もうちょっと、なんというか……自然に見えるような言い方って、どうやればいいのかな。ちょっとアドバイス欲しいんだけど……」
「……は?」
かなは思わず素の声を漏らし、パチクリと目を丸くした。
あの「適当でいいっすよ」とヘラヘラしていた男が、自分から演技の教えを乞うてきたのだ。あまりの異常事態に耳を疑ったが、相手の表情は思いのほか切実で、どこか焦っているようにも見えた。
(……なによ、急に。気味の悪い……)
毒気を抜かれたかなだったが、求められた以上、無下に追い返すようなプライドの低さは持っていない。
「……別にいいけど。アンタの今のセリフ、語尾の意識が抜けすぎてるのよ。そこをもっと相手のリアクションを受けて発声すれば――」
引き締まった声で指示を出すと、男は「なるほど……」と真面目に頷き、何度もセリフを口の中で反復練習し始めた。
そして始まった本番。完璧とは程遠いものの、前回のカタカナ喋りに比べれば格段に「マシ」な、会話として辛うじて成立するレベルの芝居がカメラに収まった。
――
それからの撮影は、かなにとって奇妙極まりない時間の連続だった。
第3話、第4話と撮影が進むにつれて、現場の空気が明らかに変わり始めたのだ。
最初は一人だけだった。それが次の日には二人になり、ついには男性キャストの半分近くが、空き時間にかなの元へやってきては「ここ、どう演じればいいですか」「もう少し良くしたいんです」と、真剣な顔でアドバイスを求めてくるようになったのだ。
その結果、現場全体の芝居の底が確実に底上げされ、以前のような目も当てられない大惨事は劇的に減っていった。
「すごいすごい! みんな演技上手になってる! 嬉しいなぁー!」
休憩時間、パイプ椅子でジュースを飲みながら屈託のない笑顔で喜んでいるルビー。
(……絶対におかしい)
かなはジト目でルビーの横顔を睨みつけた。
あの能天気で演技未経験の初心者が、裏で男たちをその気にさせるような高度な心理術を使えるわけがない。ルビーの性格上、何か仕組んでいるならもっと顔に出るはずだ。あれは100%、素で喜んでいるだけの顔だ。
となると――原因は、アイツしかいない。
かなの視線は、ルビーを通り越し、スタジオの壁際に立つ一人の少年に向けられた。
バインダーを片手に持ち、ポケットに手を突っ込んだまま、静かに現場の進行を見つめている星野アクア。一切の感情を読ませない冷徹な横顔。
(あの男……一体ルビーを使って、何をしたの……?)
モヤモヤとした疑問が、かなの胸の中で確信めいた好奇心へと変わっていく。
――
「本日の撮影、すべて終了でーす! お疲れ様でしたー!」
スタッフの威勢の良い声が響き、現場が一斉に撤収作業へと動き出す。
パイプ椅子から立ち上がったアクアは、片付けを始めるスタッフたちに軽く会釈しながら、ルビーの荷物をまとめ始めた。
そこへ、すっと影が落ちる。
「……アクア」
振り返ると、私服に着替え終えた有馬かなが立っていた。腕を組み、どこか挑戦的な、けれど確信に満ちた瞳でアクアを見上げている。
「有馬か。お疲れ様だ。今日の演技も――」
「挨拶はいいわ」
アクアの社交辞令をスパッと遮り、かなは少しだけ顎をしゃくってみせた。
「ちょっと付き合ってよ」
「……ルビーも一緒でいいよな?」
アクアの返しは「いいか?」という相手の意向を伺うものではなく、初めから有無を言わせない完全な断定の響きだった。かなは一瞬だけ渋い顔をしたものの、不服そうに小さく息を吐いて頷いた。
場所は変わって、駅前のカラオケボックスの一室。密室ということもあり、込み入った話をするにはうってつけの場所だ。
「ねぇねぇ、歌っていい!?」
早速マイクを握りしめ、目を輝かせるルビーに対し、アクアは静かに言い放った。
「話が終わってからだ」
そう言って、アクアは手元のデンモクを操作し、適当な洋楽のメドレーを送信した。室外への音漏れや盗聴を防ぐため、会話消し(サウンドマスキング)の意図として行われたそれは、すぐにスピーカーからそれなりの音量でイントロが流れ始める。
前奏が部屋を満たす中、ソファに向かい合って座るかなが、腕を組んだまま鋭い視線をアクアに向けた。
「単刀直入に聞くわ。……アンタ、なにをしたの?」
「一応、何のことだ、とは言っておくが?」
アクアは表情一つ変えずに、グラスのウーロン茶を傾けた。
「万一、俺の思っていることとお前の思っていることが違っていたくはないからな」
「とぼけないでよ。急にあの男性演者たちのやる気が増したことよ」
かなは身を乗り出し、探るような目でアクアとルビーを交互に見る。
「あいつら、自分から私に演技のアドバイスまで求めてくるようになったのよ? 思い当たるきっかけと言ったら、アンタの差し金でルビーが話しかけてた程度のことしかないわ」
かなの追及に、当のルビー本人も不思議そうに首を傾げていた。
「そうだよねぇ。私もすっごく不思議だったの。だって私、特別なことはなにもしなかったし」
「……そうなの?」
拍子抜けしたようにかなが問うと、ルビーは純粋な瞳で力強く頷いた。
「そうだよ、だって――」
――
「お疲れ様です!」
リハの休憩中、演技の台本も適当な場所に置いていた俺は、不意にかけられた明るい声に、パイプ椅子に深く沈めていた体を少しだけ起こした。
視線の先には、今作でメグル役を演じている星野ルビーが立っていた。現場のどんよりとした空気などお構いなしの、ひまわりのような眩しい笑顔だ。
撮影初日、あわよくば連絡先でも交換してやろうと声をかけた相手だった。顔もスタイルも申し分なく、何より擦れていない新人の初々しさが可愛らしかったからだ。
だが、その目論見は彼女にベッタリと張り付いているあの生意気なマネージャー――星野アクアの冷たい視線と巧妙な立ち回りによって、あっさりと未然に防がれた。
だからといって、それ以上執拗に迫ろうとは思わなかった。俺も、あえて波風を立てるほど女に飢えているわけでも、業界の立ち回りを分かっていない馬鹿でもない。
あの金髪のマネージャーは、ただの身内の付き添いという顔をしておきながら、現場の森平監督や主要な裏方スタッフたちとやけに親しげに、信頼関係を築いているように話していた。
ああいう「裏方に太いパイプを持っているかもしれない得体の知れない奴」に、たかが女遊びの延長で喧嘩を売るほど愚かな真似はない。この業界、誰がどこで力を持っているか分かったものではないからだ。君子危うきに近寄らず。それがこの顔見世ドラマに対する俺のスタンスだった。
「……ああ、お疲れ」
適当に片手を上げて返事をすると、ルビーはなぜか俺の隣の空いているパイプ椅子にちょこんと腰を下ろした。あの過保護なマネージャーは今、少し離れた機材の裏でスタッフと何かの打ち合わせをしているらしい。
「あの、先輩」
ルビーは少しだけ身を乗り出し、上目遣いで俺の顔を覗き込んできた。
「先輩は今日の撮影、どういう気持ちで臨んでるんですか?」
無垢で、キラキラとした瞳。純粋に先輩の役作りや熱意を聞き出そうとするような、期待に満ちた声だった。
俺は内心で小さく鼻で笑った。気持ちもクソもない。放送後のSNSを見れば一目瞭然だ。俺たちの演技はボロクソに叩かれ、ドラマ自体が完全に『ネタ』として消費されている。こんな泥舟の現場で、真面目に役作りなんてしている奴がいるわけがない。さっさと自分の出番のカットを撮り終えて帰りたいというのが、俺を含めた男連中全員の総意だ。
「んー? まあ、適当だよ適当」
俺はスマートフォンをいじりながら、面倒くささを隠そうともせずにヘラヘラと笑い飛ばした。
「どうせ誰も真面目に見てないっしょ、このドラマ。ネットでも散々だしさ。早く全話の撮影終わんねーかなって感じ。この後のシーンも、適当にそれっぽくこなせばオーケーオーケー」
わざとらしく肩をすくめてみせる。普通の新人なら、ここで「あはは、そうですよね」と愛想笑いを浮かべて適当に話を合わせるか、戸惑って口をつぐむかのどちらかだ。
だが――。
「……そっか。……そう、ですよね」
ルビーの顔から、パッと光が消えた。
俺の言葉に対して怒るわけでも、生意気に反論してくるわけでもない。ただ、自分の一番大切な宝物を、泥靴で無惨に踏みにじられた子供のように――ひどく悲しそうに、すっと目を伏せたのだ。
「あ……ご、ごめんなさい! 撮影前に変なこと聞いちゃって。忘れてください!」
ルビーは弾かれたように立ち上がると、無理に作ったような引きつった笑顔を俺に向け、逃げるようにその場を走り去っていった。
「あっ、おい……」
呼び止める間もなかった。残された俺は、スマートフォンを持ったまま中途半端に手を伸ばした姿勢で固まっていた。
(……なんだよ、今の)
怒られたり、嫌味を言われたりしたのなら、「なんだこの生意気な新人」と腹を立てることもできただろう。
だが、ただ無抵抗に、心底悲しそうに失望されただけだ。まるで、道端の捨て犬を蹴り飛ばしてしまったかのような、理不尽で一方的な悪者になった気分だった。
「……クソッ。俺が悪いのかよ……」
別に間違ったことは言っていない。現場の空気そのままを口にしただけだ。
それでも、ルビーのあの今にも泣き出しそうだった顔が脳裏に焼き付いて離れない。胸の奥をチクチクと刺すような、ひどく居心地の悪い感情――「罪悪感」が、俺の中で確実に芽生え始めていた。
すこぶる嫌な気分だったが、このまま何のケアもせず放置しておくのも酷く決まりが悪い。
舌打ちを一つ漏らすと、以前元子役の有馬かなが「もっとこう演じなさいよ」と演技の指導めいたことを話していたのを思い出していた。
(……チッ、少しはあの元子役様の話でも聞いてやるか)
自分を正当化するような言い訳を心の中で呟きながら、パイプ椅子から重い腰を上げた。
――
「『落ち込んでみせろ』……?」
ルビーの話を聞き終えたかなは、その言葉を反芻するように繰り返しながら、心底わけがわからないといった風に首を傾げた。
「うん! アクアに『相手のスタンスを確認して、もしドラマをどうでもいいって思ってるのが分かったら、怒ったり責めたりするんじゃなくて、少しだけ悲しそうにシュンとしろ』って言われてたの!」
ルビーは無邪気にえへんと胸を張った。自分のやったことが現場の劇的な変化につながっていたとは露ほども思っていない、完全に言われた通りの演技をこなしただけの顔だ。
「……どういうこと?」
かなは眉間にしわを寄せ、隣で悠然とウーロン茶を飲んでいるアクアへと鋭い視線を向けた。
「これは心理学や行動科学の話になるんだがな」
アクアはグラスをテーブルに置くと、淡々と前置きをして語り始めた。
「集団心理において『三人の法則』というものがある。街中で一人が上を見上げていても誰も気にしないが、三人同時に同じ場所を見上げていれば、通りがかった人間もつられて上を見始める。つまり、集団の空気を変える最小単位は『三人』だ」
アクアは淡色した瞳をかなに向け、指を二本立てて見せた。
「この現場において、本気でドラマを良くしようと足掻いている演者は、すでに二人いた。お前とルビーだ。となれば、あとは『三人目』さえ釣り上げれば、集団の同調圧力によって現場全体の流れは変わる」
アクアにとって、行動科学や集団心理の知見は突飛な知識ではない。かつて雨宮吾郎として医師免許を取得する過程で必修科目として叩き込まれ、臨床の場で多くの患者やその家族、そして若者たちの行動様式を観察してきた中で得た、実戦的な経験則だった。
「だからルビーに仕掛けさせたんだ。新人で、初めてのドラマで、気合いを入れて頑張っている年下の可愛い女の子がだ。自分の『適当にやってる』という一言で傷つき、悲しそうに落ち込む。……モデル上がりでプライドだけは一人前に高い男なら、一人くらいは罪悪感で釣れると予想していた」
「罪悪感……」
「ああ。怒りや正論で責め立てられれば反発するが、無抵抗な失望と罪悪感を突きつけられれば逃げ場を失う。加害者になりたくないという自己防衛から、罪悪感を消すために『ちょっとくらい真面目にやってやるか』と行動を変えざるを得なくなるんだ」
そこまで一気に説明し終えると、アクアは当然の帰結だと言わんばかりに小さく肩をすくめた。
「まあ、何度も使える手じゃないし、若い演者がしかいない現場だから使えた手だ」
「……だけど、それって長続きしないんじゃない?」
そこで、アクアの話を聞いていたルビーが小首を傾げ、素朴な疑問を口にした。
「罪悪感から『ちょっと真面目にやる』ってなっても、このドラマを本気で良くしたいって思わなきゃ、続かないでしょ?」
その言葉に、かなも腕を組み直して深く頷いた。
ルビーの言う通りだ。罪悪感を埋め合わせるための行動なら、少しアドバイスを聞いて「まともな演技」をこなした時点で本人の罪悪感は解消されてしまう。そうすれば、また元の「適当でいい」というスタンスに戻り、現場の空気は三人から二人に逆戻りするはずだ。
二人のもっともな指摘に対し――アクアは心底呆れたように、ふっと鼻で笑った。
「……なによ」
「なんだ、天才子役とまで言われたのに知らないのか?」
肩をすくめる様子にかなはムッとして眉をひそめ、アクアを睨みつけた。
――
自室のベッドに寝そべりながら、彼――かなから演技指導を受けた男性演者はスマートフォンで放送されたばかりの最新話を再生していた。
画面に映っているのは、先日の撮影で有馬かなからアドバイスを受けて臨んだ、自分の出演シーンだ。
「……ふーん」
画面を注視しながら、彼はぽつりと呟いた。
正直、自分でも驚いていた。前回の、まるでロボットがカタカナを読んでいるような酷い棒読みと比べれば、明らかに「会話」になっている。相手のセリフをちゃんと受けて返しているように見えるのだ。客観的に見ても、それなりにサマになっていると思える出来栄えだった。
気になって、彼はSNSのリアルタイム検索を開いてみた。
相変わらずタイムラインは『今日あま原作崩壊』『相変わらずクソドラマすぎる』といった酷評の嵐だ。だが――その罵詈雑言の波の中に、幾つか気になるポストが混ざっていた。
『あれ、この〇〇役の男、前回より演技マシになってない?』
『男キャストの中ならこの人が一番まともに見られるわ』
『有馬かなの演技に引っ張られてるのか知らんが、割と良い感じに見える』
心臓がドクンと強く跳ねた。
今まで「顔だけのマネキン」「踊るナマコ」と一括りに叩かれていた自分が、明確に「他の男キャストとは違う」と肯定されている。
画面を見つめる彼の頬が、知らず知らずのうちに緩んでいた。胸の奥から、じんわりと熱い高揚感と、承認欲求が満たされていく快感が広がっていく。
(……へえ。マジでネットで褒められてんじゃん)
たった一言二言、元子役の指導通りに意識を変えただけだ。それだけで、こんなにも反響が違うものなのか。
他の一緒にへらへらしていたモデル仲間の男どもは、相変わらず「カタカナ喋り」と叩かれている。その中で自分だけが「一番マシ」「割とイイ」と称賛されているのだ。
「ふーん……。ま、次回もちょっとくらい真面目にやってやってもいいけどな」
画面の自分の姿をもう一度見返し、彼は満足気に鼻で笑った。
かつての「適当でいい」という冷めたスタンスは消え去り、胸の中には「もっと目立ちたい」「もっと評価されたい」という密かな熱が、確実に渦巻いていた。
――
「……演技ってのは、面白いんだよ」
アクアはウーロン茶のグラスを静かにテーブルへ置くと淡々と、しかし熱のこもった声で言った。
「罪悪感なんてものは、単なる最初のキッカケに過ぎない。やってみればハマるほど面白いのが演技だ。一度その味を占めれば、人間は勝手にそっちへ走る」
「……?」
首を傾げるルビーに対し、アクアはかなへ視線を移して言葉を重ねた。
「あの現場は、お前たち以外の男性演者が誰一人としてやる気を出していない『底辺の泥舟』だ。……そんな環境で少しでもやる気を出したら、どうなると思う?」
「……あっ」
かながハッと目を見開いた。アクアは冷ややかな笑みを浮かべ、指を一本立てる。
「周りが全員ゼロ点の中に、少しだけやる気を出して、本物の役者――お前からのまともなアドバイスを実行する奴が現れたらどうなる。そいつは一瞬で、周囲のナマコどもから抜きんでることができる」
アクアは言葉を切らず、淡々とその心理構造を解剖していく。
「自分以外が酷ければ酷いほど、少し真面目にやるだけで圧倒的に目立つんだ。SNSを見れば『あいつだけはマシ』『男キャストの中で一番上手い』と絶賛され、承認欲求が嫌というほど満たされる。そりゃあ楽しいだろうさ。本物の役者から見たら大した演技じゃなくても、あの地獄のような現場じゃ天才のように評価されるんだからな」
アクアは当然の帰結だと言わんばかりに、小さく肩をすくめてみせた。
「罪悪感で動かしたのは最初の第一歩だけだ。そこから先は『他人の上に立っているという優越感』と『評価される快感』が、勝手に奴らを走らせる。一度あの快感を覚えた演者は、もう元の『適当でいいや』なんて状態には戻れない」
かつて自分の演技を絶賛され、己の才能を信じて天狗になっていた時期があるかなにとっては、ひどく納得のいく話だった。
他者からの賞賛と優越感は、ともすれば役者を勘違いさせ、必要以上に調子に乗らせてしまう「甘い毒」でもある。しかし――。
「……このドラマは、あと二話撮れば終わり」
かなは冷静に事実だけを切り取って、ぽつりと呟いた。
「それ以降のあいつらに目を向ける必要がないなら、確かに私たちには関係ないわ。今の現場さえ回ればそれでいいってことね」
その割り切ったドライな言葉に、アクアは我が意を得たりとばかりに口角を上げた。
「ああ。そして群れの中から一匹、ファーストペンギンが飛び込んだならこっちのものだ」
アクアは淡々と、しかしどこか弾んだ声で解説を続ける。
「現場で演技に熱くなることが『変じゃない』『ダサくない』と可視化されたなら、露骨に周りと比べられて自分だけ無能に見えることや、楽しそうにやっている輪の中からわざわざ抜けるような真似はしなくなる。だいたい、学園祭の催しから冷笑ぶって輪から抜けるような斜に構えた奴が、モデルなんて目立ちたがりな職業をやるわけないからな」
アクアはグラスの氷をカランと鳴らし、さらに淡々と言葉を重ねた。
「それに、奴らのレベルが上がることで、もう一つ大きなメリットが生まれる」
「別のメリット、ねぇ。具体的には?」
首を傾げるかなに対し、アクアは淀みなく解説を続ける。
「これまでのお前とルビーの演技は、周りが酷すぎて逆に浮いてしまっていた。クオリティが高すぎて、そのまま繋ぐと周囲の拙さが悪目立ちする『良すぎて使えない画』になっていたんだ。……だが、今回のドラマの編集者はかなり優秀だ。どれほど拙いカットでも、工夫次第でそれなりに見せられるだけの腕を持っている」
アクアは指を立て、かなの目を直視した。
「素材を生かす手段を知っているということは、どうすれば下手な絵になるかという『殺し方』も理解しているということだ。男連中の芝居が『使えなくもないレベル』まで持ち上がれば、優秀な編集の手によってさらにワンランク上へと底上げできる。そうして均された映像を、お前やルビーのシーンへ滑らかに繋げば、演者同士の実力差による凸凹や違和感を極限まで減らすことができる」
すらすらと、淀みなく心理を読み解いていく饒舌なアクアを、ルビーはぽかんと口を開けて見つめていた。
やがて、ルビーの顔に心底嬉しそうな、ぱぁっと花が咲いたような笑顔が広がる。
「アクア、なんだか楽しそうだね!」
純粋な喜びを含んだ無邪気な声が、カラオケボックスの部屋に響いた。
「……そう見えるか」
図星を突かれたのか、あるいは自分でも無自覚な熱意を指摘されて戸惑ったのか。
アクアは急にバツが悪そうに視線をウーロン茶のグラスへと逃がし、途端に言葉数を減らして押し黙ってしまった。
「そっか、前に言ってたもんね。『自分の中で弾き出した正解と、監督の意図が一致した瞬間が面白い』って。パズルのピースがハマる感覚なんだっけ?」
ルビーは幼い頃に交わした会話を思い出したように、無邪気な笑みを浮かべてアクアを覗き込んだ。
「ああ……確かに、今の状況はまさにそうね」
かなは得心がいったように小さく手を打ち、アクアの横顔をまじまじと見つめた。
現場の状況を冷静に分析し、どう動かせば監督が求める「マシな画」が撮れるのかを計算する。そしてルビーという手駒を使い、見事に演者たちの意識を変えてみせた。まさに彼がかつて語ったという「正解を弾き出して意図と一致させる」という行為そのものだ。
二人の少女から好奇と納得の視線を向けられ、アクアは居心地が悪そうに少しだけ身をよじったが、相変わらず何も言い返さず無言を貫いていた。
「うんうん、昔から監督とも息ばっちり合ってたしね。やっぱりアクアって、そういうアンチっぽいことするの得意だよねー」
ルビーがどこか誇らしげに、しかし絶妙に棘のある表現で追撃をかける。
真っ当に励まして現場を引っ張るのではなく、罪悪感や優越感といった人間の負の感情を巧みに刺激して盤面をコントロールする。そのひねくれた裏方気質を「アンチっぽい」と評されたアクアだったが、それでも彼は固く口を閉ざしたまま、ウーロン茶の氷をカランと鳴らすだけだった。
「……その『アンチ』って単語のチョイスもものすごく気になるんだけど。そもそも、その監督って誰のことよ?」
かなは呆れたようにため息をつき、ルビーへ問いかけた。
「アクアはねぇ、あの五反田監督のお弟子さんなんだよ。と言っても、私が知ってる作品は一個もないんだけどね!」
「五反田監督の……ああ、そういうこと。道理で」
あっけらかんと言い放つルビーの言葉に、かなは深く頷いた。
映像の世界において、自らの裁量だけで自由に演者をキャスティングできる監督というのは、極端に二極化される。誰もが名を知り、出資者を黙らせるほどの実績を持つよほどの大物監督か、あるいは採算度外視でニッチな作品を撮る低予算の小規模映画監督のどちらかだ。
そして、五反田泰志という男は間違いなく後者だった。
「五反田監督がメガホンを握る映画はどれも規模が大きくないから、起用される演者もそれ相応だったことが多いわね。それこそ、一つや二つ、演技や素行に問題を抱えているような癖の強い連中ばかり」
かつての現場の記憶を引っ張り出すように、かなは淡々と語る。
「彼はそんな厄介な人たちを巧みになだめすかして、うまく転がしながら良い画を撮っていたもの。役者をその気にさせるモチベーターとしては、かなりの腕前よ。……なるほどね。そういう現場を間近で見て育ったから、あんな搦め手がいとも簡単に思いつくわけね」
「ルビー、もう歌っていいぞ」
これ以上、自分の手の内や内心を勝手に分析されるのは御免だと言わんばかりに、アクアは露骨な話題逸らしに走った。
「あ、逃げたー」
ルビーはくすくすと意地悪げに笑いながらも、「何を歌おうかなー」とすぐさま手元のデンモクに視線を落とす。楽しげな鼻歌交じりに画面をタップし、すぐにB小町のアップテンポな曲を転送した。
前奏が部屋に響き出し、マイクを両手で握って立ち上がるルビーを横目に、アクアは不機嫌そうにウーロン茶を煽った。かなとルビーの二人に自分の行動原理をすっかり見透かされたようで、ひどく面白くない。
そんなアクアの仏頂面を見て、かなはふっと表情を和らげた。
「……演技、すっかり辞めちゃったのかと思ってたけど。そういう近い世界で楽しくやってるなら、まあ、それでいいわ」
かつて天才子役として共演し、その才能を誰よりも身をもって知っていたかなにとって、アクアが表舞台から姿を消したことはずっと心のしこりだった。しかし、裏方に回ったとはいえ、彼が映像の世界に居場所を見つけ、こうして現場の空気を変えるほどに(本人は否定するだろうが)生き生きと立ち回っている。その事実が、かなにとっては純粋に嬉しかったのだ。
「その代わり、妹を俳優にしようってわけ?」
かなはニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべ、ノリノリで熱唱し始めたルビーを顎でしゃくった。
「あの子のあの演技、アンタがちゃんと教えてたんでしょ? 筋は悪くないし、これなら役者として……」
「いや、こいつはアイドルだぞ」
かなの推測をバッサリと切り捨てるように、アクアは間髪入れずに否定した。
そして、ポケットから自分のスマートフォンを取り出すと、画面を数回タップしてからかなの目の前へと差し出した。
「……なにこれ」
「苺プロの広報用アカウントだ。こいつの活動の様子が載ってる」
怪訝な顔で画面を覗き込むかな。そこに映し出されていたのは、アイドルとしての洗練された宣伝用動画……などではなく、なぜか店でトルコアイス屋の店主に見事に遊ばれ、アイスを掴み損ねて「ああっ!?」「返して!」と情けない声を上げながら翻弄されているルビーのショート動画だった。
「……ぷっ」
先ほどの「計算ずくの泣き演技」とは似ても似つかない、あまりにもアホっぽい素の姿。かなは口元を押さえて堪えきれずに吹き出し、肩を震わせて笑い声を上げるのだった。
「だけど、アイドルだっていうなら、なんでわざわざ演技なんて教えたのよ?」
スマートフォンから視線を上げ、かなは首を傾げた。
「カメラへの魅せ方という意味なら、学んでおいて損はないからな」
アクアはウーロン茶のグラスを傾けながら、もっともらしい理由を淡々と口にする。
だが、その奥底にある本当の理由は別だ。アイドルとして大成するためだけなら、確かに演技のレッスンは遠回りかもしれない。しかし、魑魅魍魎が跋扈する芸能界において、「演技」という自己防衛と表現の技術は、持っていて絶対に無駄にならないサバイバルスキルだ。
いずれ彼女が安全な箱庭から飛び出し、本物の荒波に揉まれる日が来たとき、自分の身を守るための武器を少しでも多く持たせておきたい――それは、過保護な兄としての不器用な親心でもあった。
そんなアクアの心中を知ってか知らずか、部屋に響いていたアップテンポなメロディがジャン! と派手な音を立てて終わりを迎えた。
「――っ!」
最後のフレーズを歌い終えたルビーは、息を弾ませながら、指先から足の角度に至るまで完璧なアイドルのポーズを決めてみせた。先ほどまでの無邪気な少女の顔から一変、カメラの向こうの観客を射抜くような、キラキラとしたオーラを放っている。
「……まぁ、確かにこうして見ると、ちゃんとアイドルやってるわね」
素人のカラオケレベルではない、本物のステージを想定したようなキレのあるパフォーマンス。それを見せつけられたかなは、腕を組みながらも素直に感心の息を漏らした。
「ふふんっ。今頃気が付いたのかなちゃん?」
かなからの称賛の言葉を受け、ルビーはマイクを持ったまま得意げに胸を張り、えっへんと鼻を鳴らした。
「あんたより芸歴も年齢も上なんだから、ちゃんと『先輩』って呼びなさい」
調子に乗るルビーに対し、かなは呆れたように片目をつぶり、軽くたしなめるように言い返した。そして、口元にニヤリと意地悪な笑みを浮かべる。
「それに……」
「それに?」
「屋台のトルコアイス屋のおじさんに翻弄されて、『ああっ!? 返して!』なんて情けない声を出してるようじゃ、アイドルとしてはまだまだね」
かなが先ほどの動画のモノマネを交えながら煽るように言うと、ルビーの動きがピタリと止まった。
「――なっ!?」
一拍置いて、自分が裏で何を笑われていたのかを完璧に理解したルビーの顔が、ボンッと音を立てる勢いで真っ赤に染まった。
「先輩もあのトルコアイス屋さんに翻弄されてみれば分かるよ!」
真っ赤な顔をしてぽかぽかと抗議してくるルビーに対し、かなはどこ吹く風とばかりに余裕の笑みを浮かべた。
「べっつにー? 私はあんな見え透いたフェイントに引っかかったりしないしー」
「むぅーっ! なんなのさその自信満々な顔!」
ソファの上でわちゃわちゃと子供のようにじゃれ合いを始める二人。
そんな賑やかな光景をしばらく眺めていたアクアだったが、やがて氷の溶けたウーロン茶をテーブルに置き、静かな声で割って入った。
「有馬。先ほどの話に戻るんだが」
「ん、なに?」
ルビーの攻撃を片手でいなしながら、かなが振り返る。
「アイドルの活動において演技が役立つと言うのなら。逆に言えば、確かな演技力を持つ役者は『アイドルの演技』もそのままステージに生かせるだろう」
アクアは真っ直ぐにかなを見据え、淡々と、しかし有無を言わせない響きで告げた。
「今回の現場での一件、俺に恩に着るというなら……ちょっとルビーに、お前の演技――『アイドルとしての演技』を見せてやってくれないか」
「アイドル、アイドルねぇ……」
急な無茶振りに、かなは顎に手を当てて少しだけ悩む素振りを見せた。
だが、その瞳の奥には隠しきれない好奇心と、まんざらでもない色が浮かんでいる。目の前には、自分の演技に興味津々な瞳を向けてくる才能豊かな「後輩」。そんな可愛い後輩に、圧倒的な実力を見せつけて気持ちよく先輩風を吹かせたい――そんな役者としてのエゴと優越感が、彼女の心をくすぐっていた。
「そうね。じゃあ久しぶりに、思いっきりやってみようかな」
すっかり上機嫌になったかなは、ふふっと得意げな笑みをこぼし、手元のデンモクを引き寄せた。
「んー、曲はこれにして……と」
軽快なタップ音の直後、スピーカーから誰もが知る王道アイドルのポップなイントロが流れ始める。
かなはマイクを手に取り、ゆっくりと立ち上がった。
――その瞬間、彼女を纏う空気が、劇的に一変した。
先ほどまで口を尖らせて悪態をついていた、少し生意気で擦れた元子役の姿はどこにもない。
前奏に合わせて軽やかにステップを踏み、ふわりと振り返った彼女の顔には、観る者すべてを惹きつけるような愛らしくも完璧な笑顔が貼り付いていた。そこにあるのは、頭の先から指の先、視線の僅かな動きに至るまで、最高にキラキラと輝く『絶対的なアイドル』――『太陽のような演技』で完璧に演じきっている有馬かなの姿だった。
歌が始まっても、その緻密な演技が崩れる気配は一切ない。
弾むような歌声、アップテンポな曲調に合わせたキュートなウインク、そして観客(今はルビーとアクアの二人だけだが)の心を的確に撃ち抜くようなファンサの仕草。どれもが計算し尽くされた極上の『お芝居』でありながら、決してわざとらしさを感じさせない圧倒的な説得力を持っていた。
「……すご」
身を乗り出して見入っていたルビーの口から、感嘆の吐息とともにその一言が漏れ出た。本物のアイドルを目指しているからこそ、目の前で繰り広げられる「アイドルの完成形」と『その演技』の凄まじさが嫌というほど理解できたのだ。
(……ここまで完璧に『アイドル』を作れるのか)
アクアもまた、内心の驚きを隠せずにいた。
彼女が演技においては天才であることは、子役時代接したころに十分に理解していたつもりだった。だが、まさか自分とは畑違いのアイドルというロール(役)すらも、ここまで完璧な解像度で自分のものにしてしまうとは。
ただのカラオケボックスの一室を、一瞬にして熱狂のライブステージへと変えてしまったその熱量に当てられ、アクアは知らず知らずのうちに息を呑み、画面ではなく目の前の彼女の姿に釘付けになっていた。
「どーよ!」
曲の終わりと共に完璧なポーズを決めたかなは、息を弾ませながら、これ以上ないほどのドヤ顔で言い放った。
「先輩凄い! すっごくキラキラしてた!」
本物のアイドルのパフォーマンスを目の当たりにしたルビーは、目を輝かせて両手で惜しみない拍手を送る。純度百パーセントの称賛と尊敬の眼差しを全身に浴びて、かなは己の自己肯定感が天を突く勢いでマシマシになっていくのを感じていた。
「ふふんっ、まあね。これが本物の役者の実力ってやつよ」
得意絶頂で胸を反らすかな。
しかし、そんな彼女を有頂天から一瞬で叩き落としたのは、またしても純度百パーセントの、悪意など微塵も含まれていないルビーの無邪気な言葉だった。
「でも、それならどうしてあんな現場に?」
「うぐぅ……っ!?」
あんなに凄い演技ができるのに、なぜ『今日あま』のような泥舟で、やる気のないナマコたちと共演させられているのか。
その容赦のない、あまりにも鋭すぎる正論の刃が、かなのプライドと古傷に深々と突き刺さった。
「……あんたは、その異常に過保護なお兄ちゃんに守られてるんだから、ちゃんと感謝しなさいよ……」
自身の燻っている現状や、業界の理不尽な大人たちの事情を思い出した元天才子役は、ソファに力なく崩れ落ちると、苦悶の表情を浮かべて恨めしそうに呟いた。
そんなかなの痛々しい姿を見下ろしながら、アクアは静かに口を開いた。
「まぁ、理解はできた」
「……なによ。慰めてくれるわけ?」
「まぁな。確かにこのレベルの演技を今のあの現場でやったら、周りの男連中はおろか、ルビーですら余裕で大根に見える。……どのみち、お前がその本気を披露できる機会は、あの現場にはなさそうだってことだ」
それはアクアなりの冷静な分析であり、同時に、有馬かなという役者の実力が高すぎるゆえの弊害を認める、遠回しな評価でもあった。
「……ふん。まぁいいわよ」
アクアの言葉の裏にある意図を汲み取ったのか、かなは少しだけ機嫌を直し、テーブルに残っていたジュースをストローで啜った。
「とにかく、あの現場が無事に終わってくれればそれでいいわ。アンタのおかげで、あの絶望的な状態の中じゃ、最大限いい感じの作品として終わりそうだし」
ようやく先が見えてきた安堵からか、かなは肩の荷を下ろすようにふうっと息を吐き出し、ソファの背もたれに深く体重を預けた。
――しかし。
その安堵に満ちた言葉が、これ以上ない『あからさまなフラグ』であったことに、この時の彼女はまだ気づいていなかった。
後日、「役者が一人飛んだため撮影スケジュール大幅変更」という絶望的な報せを聞かされ、ルビーとアクアから「