ゴロー先生はアイアンチ 作:作者さん
「はぁ……まさか本当に飛ぶとはねぇ」
スタジオの機材エリアの影で、今作の現場監督である森平は、深々と胃の痛むようなため息を吐きながら頭を抱えていた。その手元に握られているのは、直前で大幅な変更を余儀なくされた撮影スケジュール表だ。
「若い子がメインの現場ってのは、これだから困るんですよね。乗ってくると予想以上の良い相乗効果を生んで、驚くような良い画が撮れたりもするんだけど……」
「逆方向に振れると、周りへの迷惑なんて一切無視して消えちゃう『悪い暴走』を起こす、と」
隣でパイプ椅子に腰掛け、冷えた缶コーヒーを口に含んでいたベテランの撮影スタッフが、半ば呆れたように言葉を継いだ。
急に音信不通になり、現場から忽然と姿を消す――いわゆる「飛ぶ」というトラブル。経験の浅い若手やモデル上がりのキャスティングが多いこの現場ならではの、最も厄介で最悪のアクシデントだった。
「まぁ……僕ら大人だって、たまにすべてを投げ出して飛びたくなるような業界ですしねぇ。気持ちだけは分からなくもないですが」
スタッフの自虐混じりの冗談に、周囲の裏方たちからパラパラと小さな苦笑が漏れる。重苦しくどんよりとしていた機材裏の空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
「……そうだね、僕らが飛ばないだけで偉いってことにしておこうか」
森平は苦笑いを浮かべながら頭を掻き、自嘲気味に肩をすくめた。
だが、事態が解決したわけではない。当然ながら撮影は待ってくれないのだ。スタッフの一人が、真面目な顔つきに戻って尋ねる。
「で、監督。実際のところどうするつもりですか? 穴の空いた役は」
「うん、一応速攻で鏑木さんに相談したんだけど……まぁ、予想通りと言えば予想通りだったよ」
森平は手元のバインダーを持ち上げると、差し替えられたばかりの新しい香盤表をスタッフたちに見せるように開いた。
スタッフたちが視線を落とすと、そこには本来飛んだ役者の名前が入っているはずだった演者欄に、ごく自然な字体で別の名前が印字されていた。
『ストーカー役:星野アクア』
「……ですよねぇ」
スタッフの呆れと納得が入り混じった呟きが、静かな機材裏に小さく響いた。
「恩を返しておくれよとは言ったけれど、こんなに早く回収するつもりはなかったんだけどねぇ」
森平の苦笑に周りのスタッフも同意するようにうなずいた。
――一方、当の「代役」に指名された本人はといえば――。
「ぷっ……アハハ! ちょっとアクア、ヤバいってそれ! めっちゃ似合ってるんだけど!」
衣装合わせを終えて着替えてきたアクアの姿を見るなり、ルビーは腹を抱えてくすくすと笑い転げた。
急遽用意されたストーカー役の衣装は、暗い色のフード付きパーカーに、身丈に合わないダボついたズボンという地味な装い。だが、それ以上に絶妙だったのはアクア自身の纏う空気だった。
「だいたいさぁ、普段から目つきが死んでるから、衣装着ただけで本職の人にしか見えないよ。外歩いたら警察に通報されそう」
「……うるさい。言っておくが、俺が好きでこの格好をしてるわけじゃない」
ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべる妹に対し、アクアは鬱陶しそうにジト目を向け、不機嫌そうに溜息を吐いた。
事の始まりは昨日の夕方だった。
苺プロダクションへ、急遽ドラマ撮影のスケジュール変更――いわゆるリスケの連絡が入ったのだ。そしてそれと同時に、現場で飛んでしまった役者の穴を埋めるべく、アクア個人への出演依頼が直接舞い込んできたのである。
急ごしらえの代役かつ端役ということもあり、出演料自体はお世辞にも高いとは言えない金額だった。しかし、提示された額はこの規模の配信ドラマの急募案件としては極めて適正なラインであり、足元を見たような不当な提示でもなかった。
(それに……)
アクアはパーカーのフードの端を指先で軽く整えながら、冷徹に思考を巡らせる。
元々は五反田監督の推薦から始まったこの仕事だが、アクアは自身が表舞台に出ることを固辞し、代わりにルビーの出演機会とギャラを増やしてもらうよう、プロデューサーである鏑木へ裏で直接掛け合っていた。あの狸親父はアクアの提案をあっさりと呑み、ルビーの露出を増やすための枠を融通してくれたのだ。
深く気にするほどの大層なものではないにせよ、鏑木に対して一つ「借り」を作っていたのは事実である。
向こうからの「困ったときはお互い様」と言いたげな打診を、ここで無下に断る理由もなかった。
「アクア君、ちょっといいかな?」
衣装のチェックを終えたタイミングで、森平監督が声をかけてきた。申し訳なさそうな、けれどどこかわくわくしたような表情を浮かべている。その手には、印刷されたばかりの真新しい台本が握られていた。
「監督。……何か変更でも?」
「うん、ちょっとね。今回の代役の件に合わせて、全体の流れを少し調整させてもらったんだ。これ、目を通してみてくれるかい?」
手渡された薄い冊子を開き、アクアは素早く目線を走らせた。
元々予定されていた撮影は、主人公(かな)とカナタ(メルト)による緊迫した会話劇から始まり、そこにストーカーが襲撃してくるという流れだった。しかし、渡された改訂版の台本には、その直前にまったく新しいシチュエーションが丸々一つ追加されている。
――メグル(ルビー)が一人で暗がりを歩いているところへ、不気味に忍び寄るストーカー(アクア)。逃げ場を失ったメグルを壁へ追い詰め、顔を強引に掴み上げて不気味な警告を突きつける、という凶悪で濃厚な絡みのシーンだ。
「……本番直前になって大幅な追稿ですか」
アクアは思わず目頭を指先で揉みほぐすと、静かな呆れを込めたジト目を森平へと向けた。
「随分とぎりぎりなことやりますね」
「ははっ、そう言わないでよ」
森平は悪びれる風もなく、参ったと言わんばかりに肩をすくめて苦笑した。
「想定していた以上に、ドラマの評価の落ち方が悪くなかったからさ。ちょっと欲目が出ちゃってね」
それは紛れもなく、有馬かなと星野ルビーの二人が現場の空気を変え、一部の視聴者を強烈に惹きつけた結果だった。作品として完全に死んではいないと分かった以上、作り手としてさらに「攻めた画」が欲しくなったのだろう。
「鏑木さんも、まぁいいんじゃないとは言ってくれたからさ。種明かしをするとね、これ、元々鏑木さんや脚本と雑談で話していたお蔵入りアイディアだったんだよ」
「鏑木さんと……?」
「本当に、こんなのいいんじゃない、っ雑談だったんだけどね。一番最初にオファーを出した時、元々君とルビーちゃんの二人に現場に来てほしかったんだよ。だけど君は裏方に回るって言うし、ルビーちゃんだけの出演になったから、この案は一端棚上げになった」
森平は遠くで出番を待つルビーに視線をやりながら、声を潜めて続けた。
「……それが今回、思いがけないトラブルのおかげで、君という役者を『ツモる』ことができちゃったわけだ。できる手駒が揃ったとなれば、やれるようになっちゃったんだよねぇ」
(……あの狸親父、本当に隙あらば利用してくるな)
アクアは内心で深々とため息をついた。
急な代役依頼も、提示された適正な出演料も、すべてはこの「お蔵入りになっていた美味しい企画」を実現させるための絶好の機会だったというわけだ。
だが、アクアには一つ懸念があった。彼は台本の追加ページを指先で軽く弾く。
「……演技ができる二人の至近距離でのシーン。これ、兄弟だってばれますよね。観てる最中に違和感になりかねないのでは?」
いくら変装や演技で誤魔化そうと、至近距離で顔を突き合わせれば、骨格や目元の作りなど似通った部分が浮き彫りになる。この二人、兄妹(あるいは双子)では? と勘付かれるのは映像の没入感を失いかねない。
しかし、森平はあっけらかんと言い放った。
「ここまで見てくれた人は気にしないよ」
「…………」
(それはそうだ。事務所としても、だいぶ男性演者と接近するシーンだが……兄妹である俺なら問題ないと)
このツッコミどころ満載のトンチキドラマを文句を言いながらもここまで見続けている視聴者が、今更そんな細かい設定の破綻やメタ的なキャスティングを気にするはずがない。
あまりに身も蓋もない正論に、アクアは妙に納得して引き下がるしかなかった。
「じゃあ、ルビーちゃんにも新しい台本を渡してきてくれるかい?」
森平にそう言われ、アクアは「分かりました」と短く返して改訂版の台本を受け取った。そのまま、スタジオの端で出番を待つルビーのもとへと歩み寄る。
「ほら、新しい台本だ。追加のシーンがあるから目を通しておけ」
「えー、また変更? もう、直前になって――」
文句を言いながら台本を受け取ったルビーだったが、そこに書かれた内容に目線を走らせるにつれて、その瞳が大きく丸くなっていった。
「……ちょっと、アクア! 何これ!?」
「何って、見れば分かるだろ。ストーカーがお前を壁際に追い詰めるシーンだ」
「違う! そうじゃなくて! 至近距離で顔掴むとか書いてあるんだけど!? 密着度高すぎでしょ!」
バサバサと手元の台本を揺らしながら叫ぶルビーに、アクアは冷めた視線を向ける。
「文句なら監督とプロデューサーに言え。俺だって好きでやるわけじゃない」
「うわぁ……」
ルビーはアクアのフードパーカー姿と台本を交互に見比べ、どこか可笑しそうにクスッと口元を緩めた。
「ねえアクア。至近距離でその顔見せられたら、私笑っちゃうかも。アクアって無駄に顔が良いからさ、真面目な顔でキモいストーカーやられても絶対面白いでしょ」
「……笑うなよ」
冗談めかして茶化すルビーに対し、アクアはどこまでも真剣な眼差しで低く告げた。
「言っておくが、今回の撮影は一発勝負だ。スケジュールもギリギリだし、照明や機材のセッティング的にも撮り直しは絶対に効かない。お前が吹き出してNGを出したら、その時点でアウトだぞ」
その言葉に含まれた圧倒的な圧力に押され、ルビーは「うっ……」と僅かに身を引いた。兄の眼差しに、冗談ではない現場の冷徹な緊張感が宿っていたからだ。
「わ、分かったわよ……絶対に笑わないように我慢するから」
「……ならいい。俺はメルトのところに行って、最後のシーンのすり合わせをしてくるから」
アクアはそう短く言い残すと、パイプ椅子に座って真剣な顔で台本を睨みつけているメルトの方へと向かって歩き出した。
残されたルビーは、遠ざかるアクアの背中を見送りながら「一発勝負かぁ……」と小さく息を吐いた。気を引き締め直すように、手元の新しい台本に再び視線を落とし、パラパラとページをめくっていく。
(ストーカーのシーンが終わって……で、カナタと主人公の会話があって……)
全体の流れを確認しながら、何気なく最後のページへ差し掛かった、その時。
「……あれ?」
ルビーの指先が、ピタリと止まった。
台本の終盤、本来なら描かれるはずのなかったページの余白に、ある「追加されたシーン」がひっそりと印字されていることに気がついたのだ。
――
セットの脇で待機しながら、鳴嶋メルトは目の前で繰り広げられている機材の転換に密かに感心していた。
先ほどまで別のシーンを撮影していたロケ地とまったく同じ場所だというのに、照明の角度を削り、全体を意図的に薄暗く落とすだけで、まるで街灯の届かない不気味な暗闇の路地裏へと一瞬で化けさせていた。プロの裏方たちの技術の凄まじさを、改めて思い知らされる。
その暗がりの中で唯一、スポットライトのように強く鋭い光が照射されている一角があった。
そこに立っているのは、ストーカー役のアクアと、メグル役の星野ルビーの二人だけだ。
「撮影、本番行きまーす! 3、2、1――」
カチンコが硬い音を立て、スタジオに静寂が満ちる。
ライトの下、ルビー演じるメグルが周囲を不安そうに見回しながら歩いていた。居なくなった大好きな主人公を必死に探している、健気な少女の芝居だ。
「――どこ、行っちゃったんだろう……」
呟きを残して歩みを進めた、次の瞬間。
ぬっと暗闇から伸びてきた影のような手が、ルビーの華奢な肩を掴み、そのまま容赦なく冷たい壁へと押し付けた。
「ひっ……!?」
短い悲鳴。暗闇から浮かび上がったのは、フードを深く被ったアクア――いや、不気味な気配を全身から撒き散らすストーカーだった。
「……あいつに、近付くな」
アクアの口から漏れ出たのは、氷のように冷たく、ねっとりと耳裏にへばりつくような粘着質で低い声だった。感情の欠片もなく、ただ暗い執着だけを孕んだ言葉。
「同類であるあいつに……お前みたいな奴が、近付くんじゃない」
「な……っ、なに、言って……!」
アクアの腕がすっと伸び、ルビーの顔を強引に鷲掴みにする。指先が頬を圧迫し、至近距離で凶気的な眼差しがルビーを射抜いた。
恐怖で顔を強張らせ、声すら満足に出せないルビー。それでも彼女は、必死に言葉を絞り出そうと唇を震わせる。
「だ、だけど……私、は……あの子の……と、ともだ――」
――ガツンッ!!
「……っ!?」
言いかけた言葉は、耳元を切り裂く突風とともに途切れた。
ルビーの顔のわずか数ミリ横、壁のコンクリートに凶悪なナイフの刃が深く突き刺さっていたのだ。はらりと、彼女の金髪が数本、切られて宙を舞う。
あまりの恐怖に、ルビーの喉から引きつった悲鳴が漏れた。
「もう一度、忠告してやる」
アクアは刺さったナイフを引き抜くと、一切の躊躇もなく背を向け、影の中に溶け込むように去っていく。
「あの女に……お前みたいな奴が、二度と近付くな」
冷酷な足音だけを残してストーカーが消え去った後、壁に留め置かれていたルビーの体が、力なく床へと崩れ落ちた。
立ち上がろうと腕に力を込めるが、本能的な恐怖で膝がガクガクと激しく震え、立ち上がることすら許されない。
「あ……う……っ」
瞳からぽろぽろと大粒の涙が溢れ出し、彼女は顔を覆って絶望的な悲鳴を上げた。
「だれか……」
つぶやきが暗がりへと消えていく。
「だれか、あの子を助けてよぉ……っ!」
痛烈な、魂を削るような慟哭が薄暗いスタジオに響き渡った。
「はいカット!! オッケー!!」
監督のよく通る声が響き、撮影が一区切りを迎えた。
だが、床にへたり込んだままのルビーは、涙を止めることができず「うぁ……っ」と肩を揺らして泣きじゃくっている。
普通なら、演じた相手やスタッフが即座に駆け寄って声をかける場面だ。
しかし――役を解いたアクアは、泣き崩れる実の妹の姿に視線すら向けることなく、まるで気にも留めていない様子で無言のままカメラのフレーム外へと歩み去っていった。
(……なんなんだよ、あいつ……!)
その冷血な後ろ姿を睨みつけるメルト。だが、フレームアウトする去り際に一瞬だけ、アクアの冷ややかな視線がセット脇に立つメルトをちらりと捉えた。
そのままアクアは泣きじゃくるルビーを振り返りもせず森平監督の元へと歩み寄り、何やら短く言葉を交わしながら打ち合わせを始めている。
その光景は、メルトの目にはあまりにも異様で、そして酷薄に映った。
ショックで立ち上がれない妹のことなど意にも留めず、ただ監督やドラマの都合ばかりを優先しているかのような冷徹な態度。
セットの脇でその一連のやり取りを最初から見ていたメルトの胸の中で、ドサリと重く、どす黒い感情が持ち上がっていた。
これがドラマ撮影の芝居であることくらい、頭では分かっている。
だが、あのアクアという男が放っていた本物の「狂気」と、それによって心底恐怖し、今も泣きじゃくっているルビーの悲惨な姿。そして、それを見捨てて監督と淡々と話を交わしているアクアの冷血さ。その光景があまりにも真に迫りすぎていて、メルトの胸の中には、劇中のストーカー――そしてそれを冷徹に演じきったアクアに対する、激しい理不尽な「怒り」が煮えたぎっていた。
(あんな子が、なんであんな目に遭わされなきゃいけないんだ……!?)
メルトは拳を強く握りしめ、歯を食い破るように力任せに噛みしめた。
その彼の横顔を、隣で出番を待っていた有馬かなが、ふと気付いたように見上げてくる。
「……ちょっと、メルト」
気圧されたように声をかけようとしたかなだったが――メルトの目の中に宿っている、怒りと殺気に満ちた本物の「熱」を見た瞬間、ハッと息を呑んで言葉を呑み込んだ。
(……ダメ。今、余計な声をかけたらこの熱が逃げる)
かなは鋭い瞳でメルトの横顔を凝視し、あえて何も言わずにすっと口を閉ざした。
ヘラヘラとした大根役者だった男の心の中に、今、役者としての最高の「感情」が爆発的に宿ろうとしている。主人公を助けに向かうカナタという役に、これ以上ないほどの説得力を与える純度の高い怒り。
――
(無茶苦茶するわね、アクア……!)
カメラが回り、主人公とカナタが対峙するシーンへと移行する中、『あること』をアクアから伝えられたかなは、内心で呆れと感嘆の入り混じった息を吐き出していた。
数日間、現場で共に過ごしてわかったことがある。鳴嶋メルトという少年は、自分に自信がある一般的なナルシストの範疇ではあるが、間違いなく「いい奴」なのだ。
「みんなで作るって、学園祭の準備とか部活みたいで面白いじゃん」というなんとも呑気で彼らしい理由ではあったが、思いのほか早く真剣になってくれていたし、良い作品にしようという気概は確かに持っている。
そして今、彼は先ほどのルビーの惨状を目の当たりにし、理不尽な暴力を振るったストーカー――そしてそれを冷徹に演じてみせたアクアに対し、強い怒りを抱いている。
劇中のカナタがストーカーに向けるべき感情と、メルト自身がアクアに抱いている怒りが、完全にリンクしている状態だ。
(だけど……それだけじゃ、演技が上手く行くわけじゃないのよ)
かなは、頭の片隅でプロの役者としての冷徹な計算を巡らせていた。
どれほど強い感情を抱いていようと、それを正しく出力する技術がなければ、ただの素人の癇癪で終わってしまう。今のメルトは、熱こそあれど、それをどう表現すればいいのかまでは分かっていないはずだ。
(だから――私が、あんたのその感情を演技に乗せさせてあげる)
「……もう、いいの」
薄暗い路地裏のセット。かな演じる主人公は、痛みを抱え込むように俯き、カナタから離れて一人になろうと背を向けた。
「待てよ……っ!」
逃げようとする主人公の腕を、カナタが強く引き留める。
「お前の考えそうなことだな、馬鹿なのか。一人にさせられねぇよ!」
その言葉は、これまでの薄っぺらな棒読みとは明らかに違っていた。
低く、重く、腹の底から絞り出されたような本物の感情が乗った声。ルビーを理不尽に傷つけた「狂気」に対する怒りと、目の前の少女だけは絶対に守り抜くという強烈な庇護欲。それがメルトの台詞に生々しい熱を与えている。
(いいわよ。もっと来なさい……!)
かなはメルトの放つ熱を受け止めながら、自身の振る舞いを微調整していく。
彼が前に出やすいように腕を引かれるタイミングや立ち位置を合わせ、彼の言葉がより説得力を持つように、絶妙な角度で顔を背ける。自分が前に出るのではなく、ひたすらにメルトの演技を際立たせるための「受け」の芝居に徹した。
天才子役と呼ばれ、数多の現場で大人たちの都合に揉まれてきた有馬かなだからこそできる、周囲を活かすための圧倒的な適応力と空間のコントロール。
その卓越したサポートに乗せられるように、メルトの演技の質が、シーンが進むにつれて徐々に、しかし確実に跳ね上がっていく。
「だけど……」
引き留められた腕を痛ましげに見つめながら、主人公は沈んだ顔でぽつりと零した。絶望に染まったヒロインの切実な声と表情。
それを間近で浴びたメルトの目に、さらなる強い意志が宿り始める。
最初はただの怒りに任せた荒削りなものだったのが、台詞の一つ一つに芯が通り、視線の動かし方に、呼吸に、確かな魂が伴い始める。カメラの前で、鳴嶋メルトという役者が覚醒していく。
(……すごい。ここまで変わるなんてね)
メルトの放つ気迫が、かなの予想を上回るレベルに到達しようとしていた。
ただ引き立てるだけでは、逆にこちらが喰われてしまう。そう直感したかなの唇に、ヒロインの沈んだ表情の裏側で、役者としての好戦的な笑みが浮かぶ。
(なら――私も、レベルを合わせるわよ)
かなは自らの中に掛けていたリミッターを外し、メルトの熱量に呼応するように、自身の演技レベルを一気に引き上げた。
怯え、すがり、それでも彼を遠ざけようとするヒロインの切実な感情が、空間を支配していく。
大根役者だった少年の怒りと、天才子役の実力。
二つの熱がぶつかり合い、薄暗いセットの中で、かつてないほどの高揚感と相乗効果を生み出していた。
――そして、その高まりきった熱量の只中へ。
「狂気」が、再び足音もなく忍び寄ろうとしていた。
――
俺には、役者としての才能が無い。
その事実は、誰よりも俺自身が一番よく理解している。アイやルビーのように、ただそこに立つだけで人の視線を強制的に惹きつけるような天性のオーラがあるわけではない。有馬かなのように、あらゆる感情を自在に操り、空間を支配するような純粋な演技の才能があるわけでもない。
俺の中にある演技の引き出しは、結局のところ『星野アクア』と『雨宮吾郎』という二人の人間が過去に体験してきた人生の記憶、ただそれだけだ。そこから泥臭く感情を引きずり出し、芝居に乗せて適切に出力する技術だけは、長い時間をかけて培ってきた。だが、それだけでは本物の天才たちには遠く及ばない。
才能が無いからこそ、俺は盤上にある『全て』を使えるように技術を学んできた。
小道具がそこに置かれている理由ひとつ、カメラの適切な画角や光の当て方、相手役の思考や動かし方。そして何より、現場を作る裏方たちの考え方だ。
芝居とは、演者同士の掛け合いだけで完結するものではない。自分が今、カメラや照明にどう切り取られているかを正確に把握し、スタッフと完全に息を合わせる。立ち位置の数センチ、顔の角度の数度に至るまで計算し尽くし、与えられた環境を最大限に利用する。それが、俺のような凡人がこの世界で戦うための唯一の術だった。
カメラのフォーカスが自分の足元から這い上がるように計算された絶妙なタイミングで、俺は二人のいる空間へとゆっくりと足を踏み入れた。
「……お前も、あのメグルとかいうバカな女と同じだ」
地を這うような、底冷えのする声を薄暗い場に響かせる。
ヒロインを庇うように立つカナタ――鳴嶋メルトを見下し、俺はストーカーとしての冷酷な嘲笑を浮かべた。
「この女に、守る価値なんてあるかよ」
その言葉が引き金だった。
「テメェ……!」
メルトが猛然と距離を詰め、俺の着ているパーカーの胸ぐらを激しく掴み上げた。
至近距離で睨み合わされた彼の瞳の奥で燃えているのは、芝居の枠を超えた本気の怒りだった。直前に行われた俺とルビーの芝居を見て、彼の中に蓄積された理不尽への苛立ち。
だが、それは決してただの素人の暴走ではない。
有馬かなという天才の絶妙な立ち回りと誘導によって極限まで膨らませられ、コントロールされた熱情。本人のリアルな感情が、『カナタ』という役柄にこれ以上ないほど正しく、そして美しく乗っている。
「この子は――俺の大事な友達だ!」
薄暗いセットの中に、魂の底から絞り出されたような叫びが響き渡る。
それはまさしく、原作のファンたちが胸を熱くしたであろう名シーンそのものだった。
俺は胸ぐらを掴み上げてくるその圧倒的な熱量を受け止めながら、劇中のストーカーとして冷徹に目を細める。そして、容赦なくメルトの腕を激しく払い除けた。
それを皮切りに、俺たちは殺陣へと雪崩れ込んでいく。
「何をしたって無駄だ。諦めて流されろよ!」
俺の言葉を合図に、メルトがめちゃくちゃなフォームで殴りかかってくる。
当然だが、メルトは本格的な殺陣の練習などしたこともないだろう。大振りで、体重の乗せ方も隙だらけの素人そのもの。
――だが、それが良い。
洗練された美しいアクションなど、このシーンには必要ない。大切なのは『ヒロインを守るために必死に足掻く、ただの平凡な学生』としてのリアルな熱量だ。有馬の誘導によって引き出されたその本気の感情が、カナタという役に完璧にノっている。
だから、こちらはひたすらにそれに合わせていく。
俺は相手の拳や蹴りが当たる瞬間に合わせて自ら身体を動かし、衝撃を殺す。メルトが「当ててしまったのではないか」という遠慮や戸惑いを抱き、せっかくの集中が途切れてしまうのを防ぐための、完全な『受け』の芝居。
俺に求められている役目は、激昂した少年に怒りのままになすすべもなく殴り倒される、気持ちの悪いストーカーとしての役割だ。
キモく、恐ろしく、そして最後にはヒロインの光によってかき消されるべき『闇』を作り出すこと。
ドゴッ、と鈍い音が響いた。
メルトの渾身の右拳が、俺の頬に浅く、しかし確かな衝撃を伴って直撃した。
(……受け損ねっ、だが十分だ!)
口の中に微かな血の味が広がる。手加減を知らない素人の生々しい一撃。
殴った感触にハッとしたのか、一瞬だけメルトの瞳から役の感情が抜け落ち、彼の中でピンと張り詰めていた集中が途切れるのがわかった。
だが、もういい。ここまで最高の画が撮れたなら、それだけであの裏方なら何とかする。
俺は顔を殴られた勢いをそのまま利用し、大げさに身を翻してセットの水たまりの中へと派手に倒れ込んだ。
バシャァッ、と冷たい水が跳ね上がり、暗い色のパーカーを濡らしていく。
みっともなく地面に這いつくばったまま、俺はゆっくりと顔を上げ、ヒロインである有馬かなへと冷酷な視線を向けた。
これが、この狂ったストーカーの最後の台詞だ。
「この先もろくなことは無い。お前の人生は、真っ暗闇だ」
地を這うような呪詛を吐き捨てる。
さぁ、俺の仕事はここまでだ。メルトの感情を引き出し、最高の舞台は整えた。
ここまで『俺たち』が、お前のために完璧な演出を作り上げてきたんだ。
――やって見せろよ、有馬かな。
俺の内心の挑発に呼応するように、有馬はふっと哀しい、けれどどこまでも芯の強いヒロインの顔で、ゆっくりと口を開いた。
「それでも――光はあるから」
その静かで力強い台詞と共に。
計算し尽くされた完璧なタイミングで、一筋の美しい涙が、彼女の瞳からぽろりと零れ落ちた。
――
「はいカット! OK、素晴らしい!」
森平監督の興奮に満ちた声がスタジオに響き渡り、極限まで張り詰めていた空気が一気に弛緩した。
その声で我に返ったメルトは、ハッと息を呑んで自分の拳を見つめた。
(あ、あれ……? これって、リハじゃ……)
あまりにも感情を入れ込みすぎていたせいで、本番前の段取りを確認するためのテストであるということを完全に失念していたのだ。周囲のスタッフたちが撤収作業に向けて動き出すのを見て、メルトの顔から一気に血の気が引いていく。
(ヤバい、俺、アクアの顔面にモロに拳を当てちまった……!)
「お疲れ様。……ふふっ、いい演技だったじゃない」
真っ青になっているメルトの横から、先ほどまでの絶望したヒロイン顔をすっきりと拭い去った有馬かなが声をかけてきた。
「あ、あれ? かなちゃん、これどういうこと……? リハじゃなかったのか……?」
「何って、本番よ。あんただけにはそれは伝えられていなかったけれどね」
呆れたような、けれどどこか称賛を含んだような苦笑を浮かべるかなの言葉に、メルトは大きく目を丸くした。
――事の真相はこうだ。
直前のルビーとの狂気的な絡みを見て、メルトの中に本物の感情が乗っていることを理解したアクアは、その極限の集中を途切れさせないため、直前に監督たちへとある提案を持ちかけていた。
『メルトにのみ本番であることを伏せ、リハーサルをそのまま本番として回してほしい』と。
その上でアクアは、事前の段取りをすべて頭の中で再構築し、カメラが自分たちの姿を最も適切に捉えられる場所へと自ら誘導しながら芝居を組み立てたのだ。
この無茶苦茶な提案に、森平監督はにやりと笑って「いいね、それ」と即座に同調した。周囲の裏方スタッフたちも、このスリリングな企みに面白がってやる気に満ちた笑みを浮かべ、すぐさまカメラと照明を本番用の態勢へと切り替えてみせた。
主役でもない急造の代役に過ぎないアクアの提案が即座に採用されたのは、それだけの無茶を通せるほどの信頼関係が、すでに彼と現場の大人たちとの間で培われていた証拠である。
「お、俺だけ、のけ者にされてたってことか!?」
驚愕の事実にすっとんきょうな声を上げたメルトだったが、すぐにハッと本来の目的を思い出す。
「って、そうだ! アクアに思いっきり当てちまったから謝らないと……!」
慌ててアクアの姿を探し、スタジオの端へと駆け寄ったメルトが見たものは――。
「……悪かった。怪我はないか」
「ほんっとうに怖かったんだからね! バカアクア! 最悪! もう絶交!」
「…………」
本番中の底知れぬ狂気など見る影もなく、未だに涙目でふくれっ面をしているルビーから思い切り睨みつけられ、どう見ても困り果てた様子でオロオロと妹の機嫌を取っている、等身大のシスコン兄の姿だった。
「ちょっといいか? ……悪いアクア、モロに当てちまった」
気まずそうに平謝りしながら駆け寄ってきたメルトに対し、アクアは軽く頬をさすりながら首を横に振った。
「いや、大丈夫だ。それよりもその……」
言い淀んだアクアの視線の先では、ルビーが未だに「信じらんない!」とぷんすか怒り続けている。
どう機嫌を取ればいいか分からず完全に困り果てたアクアは、「助けてくれ」と言わんばかりのすがるような視線をメルトへと向けてきた。
劇中で見せたあの底知れぬ狂気のストーカーと、目の前で妹にたじたじになっている不器用な兄。
そのあまりのギャップと情けない姿に、メルトは思わず「ぷっ」と吹き出し、やがて堪えきれずに声を上げて笑ってしまった。
(……なんだよ、やっぱり滅茶苦茶仲が良いのな)
笑いながら、メルトはストンと腑に落ちていた。
あれだけ容赦のない、恐ろしい演技をぶつけられたというのに。これだけの絶対的な信頼関係と、「ただの過保護なお兄ちゃん」に戻る素の姿を知っているからこそ、ルビーも大丈夫なのだろう。
演者同士の間にこれだけの太い絆と信頼があったから、アクアもあの狂気の演技を一切の躊躇なく本番で叩き出すことができたのだ。
メルトは苦笑混じりに息を吐くと、怒れる妹と困り果てた兄の間にすっと割って入った。
「ごめんルビーちゃん。俺、勢い余ってお前のお兄ちゃん思いっきり殴っちゃってさ。アクアも痛い目見てるし、そこにルビーちゃんまで怒ると泣きっ面にハチだしさ、今回は許してあげてよ」
「……それはそうだけど」
メルトのフォローに、ルビーは不満げに唇を尖らせたまま、じろりとアクアを睨み上げた。
「アクア、私はとっても怒ってます。なにか私の機嫌をとってよ」
「う……」
理不尽な要求ではあるが、先ほどのトラウマ級の芝居で実の妹をガチ泣きさせてしまった負い目があるアクアは、完全に形勢不利だった。
痛む頬をさすりながら、彼はひどく苦悶の表情を浮かべ、絞り出すように提案する。
「……明日のレッスンはフリーにして、どこか行くか……?」
その言葉を聞いた瞬間だった。
「やった、許します!」
先ほどまでの涙目もふくれっ面も嘘のように消え去り、ルビーは満面の笑みでパァッと花が咲いたような声を上げた。
「あはっ、どこに行こっかなー!」
一切のラグもなく、完全に機嫌を直して弾むような足取りで明日の予定を考え始めるルビー。
あまりにも見事な手のひら返しと、恐ろしいほどの完璧な感情の切り替え。その一連の流れるような豹変ぶりを目の当たりにしたメルトは、頬を引きつらせながらポツリと呟いた。
「……アクアの妹ちゃん、近いうちに間違いなく名女優になるだろうな」
「……その片鱗を、こんなところで見たくはなかった」
完全に妹の手のひらの上で転がされ、見事に毟り取られたと悟ったアクアは、疲労困憊といった様子で深く、ひときわ重いため息を吐き出すのだった。