ゴロー先生はアイアンチ 作:作者さん
「先生、まだそのドラマ観ているんですか?」
制作側の勝手な都合、ネットの無責任な喧騒。その複雑な挟み撃ちに遭っている吉祥寺頼子に対して、アシスタントは深い溜息を吐き、実写ドラマ『今日は甘口で』の配信画面を観ている彼女の背中に投げかけた。
そんな姿に二人のアシスタントが、やりきれなさそうに愚痴をこぼす。
「本当になんですか、あのドラマ。 大根演技だけじゃなくて変なオリジナルキャラクターやストーリ―の改変まで大幅に行って、漫画の文脈まで滅茶苦茶にして」
「おまけに大半のキャラの中身はまったく別ものですからねー。メグルちゃんも快活女子にキャラ変で、原作の大切な要素を勝手に前倒しして、都合のいい賑やかしでしょ? もうイライラして画面が見てられませんよ」
さらに、アシスタントの一人が悔しそうにスマホを叩く。
「ネットじゃ『原作者の吉祥寺先生もこの改変を認めてるんだから文句言うな』とか『先生のお墨付きだから実質公式設定!』みたいな書き込みが溢れ返ってて……本当に腹が立ちます」
「……そうねぇ」
頼子は静かに呟くと、それ以上言葉を返さず、ただ黙って画面を見つめ続けた。
――確かに、彼女たちが言ってることはその通りなんですよねぇ。
心の中で生返事を返しながら、彼女はそのままドラマの映像に目を凝らす。
画面は、原作には影も形もない、このドラマの物語の佳境へと入っていくシーンである、「メグルとストーカーのシーン」へと切り替わっていた。
そこにあったのは、先ほどまでの学芸会のようなお遊戯じみた空気とは一線を画す、圧倒的な緊迫感と恐怖に満ちた芝居だった。
不気味なストーカーに壁際へ追い詰められ、絶望的な恐怖に瞳を潤ませながらも必死に誰かを守ろうと声を絞り出す少女――メグルを演じる星野ルビーの姿。その一挙手一投足には、技術の拙さや未熟さを超えて、見る者の心を抉るような切実な「熱」が宿っていた。
その必死な演技を見ていると、頼子の脳裏に、あの日の現場でのワンシーンがふと蘇ってきた。
――撮影の合間、スタジオの隅で。
「私、ずっと『今日あま』の原作が大好きで……!」と、満面の笑みで、まるで宝物でも見つめるかのようなキラキラとした瞳で自分を見上げてきた、あの新人の女の子の姿。
原作の本来の立ち位置や性格から大きく引き剥がされ、ドラマの都合で無理やり形を変えられてしまったメグル。原作者として、その改変自体が完全に本望だったわけではない。
けれど、あの現場で足掻き、自分の演じる役を愛そうとしていた彼女のあの真剣な眼差しを思い出してしまうと――。
画面の中で懸命に息を吹き込まれているメグルの姿を見つめながら、頼子はふっと、肩の力を抜いて微かに笑った。
「……まあだけどね」
怪訝そうに顔を覗き込んでくるアシスタントたちをよそに、頼子は穏やかな、けれど確かな実感を込めて呟く。
「こういうメグルも……悪くない、ありなんじゃないかって、そう思ったのよ」
画面が切り替わる。
映し出されていたのは、『今日あま』という漫画において最も熱く、そして最も心揺さぶられる見せ場のシーン――カナタと主人公、そしてストーカーの対峙だった。
泥臭い絶望の淵から、それでも手を伸ばし、前を向こうとする主人公の姿。そこで発せられる台詞や感情の乗せ方は、原作が持っていたあの確かな感動を、映像という別の形できちんとそのまま再現していた。
その画面をじっと見つめながら、吉祥寺頼子は、いつの間にか目頭に滲んでいた涙をそっと指先で拭った。
「……きっと、このドラマ化は受けてよかったんだと思います」
ぽつりとこぼしたその声には、最初の不満や戸惑いなどもう微塵もなく、原作者としての純粋な誇りと感動の色が滲んでいた。
――そして、ドラマはクライマックスへと進む。
原作漫画においては、このドラマの描く範囲よりもずっと先の巻、物語のすべてが終わりを告げた後のエピソード。
ようやく平穏な日常を取り戻した主人公を、メグルが優しく抱きしめ、「良かったね」と心から祝福を伝える感動的なシーン。
しかし、ドラマ版ではその直後に、さらに少しだけアレンジが加えられていた。
メグルが抱きしめた主人公の肩にポンと腕を回し、その場でパッと満面の笑みを咲かせながら、二人で仲良く笑顔の自撮りを撮るシーン、このドラマの主人公とメグルと言う関係性ならではの様子が追加されていたのだ。
やがて物語が終わり、画面が暗転して提供バックへと切り替わる。
そのエンドクレジットの背景に流れたのは、まさに先ほどのシーンで撮影されたであろう、ルビー演じるメグルと、かな演じる主人公が顔を寄せ合ってとびきりの笑顔を浮かべている一枚の記念写真だった。
「……ふふっ」
それを見た頼子は、にっと口元をほころばせて笑った。
彼女は手元にあったタブレットを操作すると、すぐ傍で呆然と画面を眺めていた二人のアシスタントの方を振り返る。
「ねえ、これどうかしら」
「え……? 先生、これって……?」
頼子のタブレットに表示されていたのは、先ほどのドラマのワンシーンを元に描かれたイラストがあった。そこに描かれていたのは、今日あまドラマで描かれた、ルビー似の活発で愛らしいメグルと、かな似の少し照れくさそうな主人公の姿だ。
アシスタントの二人は、魅せられたイラストとドラマの画面を交互に見比べ、目を丸くした。
「ええ。ちょっとね、描きたくなったの」
頼子は柔らかな笑みを浮かべ、少しだけ茶目っ気を含んだトーンで言い放つ。
「原作者として、これぐらいのサービスはしないとですよね」
――
「~♪」
休日の賑わう街並みの中、ルビーはまるで羽でも生えているかのような足取りで、機嫌良く前を歩いていた。前回の撮影での『ご褒美』であるレッスンフリーの権利を勝ち取った彼女は、とびきりのお洒落をして、太陽のような笑顔を振り撒きながら人混みを進んでいく。
一方、その後ろを歩くアクアは対照的だった。
両手をポケットに突っ込んだまま、ひどくけだるげなオーラを全身から漂わせて歩いている。
「……ねぇ、アクア」
そんな兄妹の背後、正確にはアクアの少し斜め後ろを歩いていた有馬かなが、周囲の目を気にしながら小声で話しかけてきた。
「私、本当について行ってよかったの?」
どこか居心地の悪そうな、遠慮がちな響きだった。
兄妹のプライベートな休日に、共演者とはいえ他人の自分がポンと混ざってしまったことに、かなは少なからず申し訳なさと気まずさを感じていたのだ。
歩きながらちらりと横目でかなを見たアクアは、小さく息を吐き出して前を向いた。
「別に構わない。……今日予定していたレッスンを一日無駄にしたからな」
淡々とした声で、アクアはけだるげに歩幅を合わせながら言う。
「ただ遊ばせて一日を消費するだけじゃ割に合わない。せめて、あいつにとって有意義な刺激になるようなところに行かせたいんだよ」
「有意義なところ……?」
首を傾げるかなに対し、アクアはそれ以上行き先については語らず、代わりに口角をわずかに上げてかなを一瞥した。
「それに、お前はあいつに誘われた立場なんだ。変に気を使って縮こまる必要はない。堂々とすればいいだろ」
「……っ」
ぶっきらぼうだが、明確に『お前がここにいることを歓迎している(少なくとも邪魔だとは思っていない)』と伝えてくるその言葉に、かなは少しだけ目を丸くした。
「な、なによ。別に気を使ってるわけじゃないわよ。ルビーがどうしても私と遊びたいって言うから、先輩として仕方なく付き合ってあげてるだけなんだから!」
照れ隠しのようにぷいっとそっぽを向き、かなはわざとらしく胸を張った。
そんな彼女の強がりを「はいはい」と適当に聞き流しながら、アクアは前を歩く妹の元気な背中を追いかけて、重い足取りを進めていった。
「それで、どこに連れて行ってくれるの、アクア?」
ルビーが身を乗り出し、期待に満ちたキラキラとした瞳を向けてくる。
アクアはため息をつきながら、ポケットから三枚のチケットを取り出してヒラヒラと振って見せた。
「とりあえず午前中はこれだ。ここでの予定が終わったら、午後はお前の好きなところに行くぞ」
「なにこれ……演劇のチケット?」
ルビーがチケットを覗き込む。かなも隣から首を伸ばし、チケットに印字された文字を確認した。
「有馬」
「ん、なに?」
「お前には、ルビーへの演技の解説役を頼みたい」
アクアはかなに向き直り、真剣なトーンで告げた。
「舞台上での『魅せる表現』、役者として見るべきポイント、そして観客の視線がどこへ誘導されているか。演劇が終わった後でいいから、ルビーに細かく解説してやってほしい」
「解説ねぇ……。まあ、可愛い後輩のためなら一肌脱いでもいいけど」
かなは少しだけ得意げに胸を張り、手元のチケットを改めて確認する。
「参加するメンバーは……ふーん、『劇団ララライ』のところが多いのね。……アクア、あんたなかなかいいセンスしてるじゃない。舞台役者を目指すなら、ララライの名前を知らない奴はモグリって言われるぐらいの実力派劇団よ。客演も豪華だし、ルビーの勉強にはうってつけね」
元天才子役のお墨付きをもらい、アクアは一つ頷いた。
「ああ。比較的レベルの高い人間が多く出る舞台だからな。学べることは多いはずだ。……それに」
アクアは少しだけ視線を逸らし、ルビーの方を見た。
「お前が気になるような、知ってる役者も出てるからな」
「え、私が知ってる人?」
ルビーはチケットの出演者欄に書かれたある名前に気付き、表情をパッと明るくした。
「あっ! 本当だ! この演劇、あかねさんが出るんだ!」
「……黒川あかね?」
その名前を聞いた瞬間。
かなの顔からスッと表情が抜け落ち、これ以上ないほど露骨に「うぇっ」と嫌そうな顔を作った。
「えっ……先輩、何その表情」
あまりにも対照的な二人の反応。困惑して首を傾げるルビーをよそに、かなは忌々しそうに呟いた。
「……あいつが出るなんて、一言も聞いてないんだけど」
「……まぁ、言ってないからな。というか、そのあからさまに嫌そうな態度が出る理由が分からないんだが」
顔をしかめるかなに対し、アクアは冷静に指摘した。
「正直、お前と同じぐらいの実力は持っている演者だろう? ルビーが手本として参考にするにも、お前が解説するための教本にするにも、うってつけの人材だと思ったんだが」
「同じぐらい実力のある同世代の演者っていうのはね、つまり私にとっては『目の上のたんこぶ』ってことでしょうが!」
かなは不満げに腕を組み、アクアとルビーを交互に睨みつけた。
「だいたい、私としてはあんた達があいつと縁があること自体が意味不明よ。なんで苺プロの新人アイドルとマネージャーもどきが、ララライのホープと繋がりがあるわけ?」
「縁っていっても……昔、演技のレッスンのときに先生になってくれたくらいだけどね?」
ルビーが首を傾げながら無邪気に答えると、かなの眉間のシワがさらに深くなった。
「……はぁ? 先生?」
「ああ」
アクアがルビーの言葉を引き継ぎ、淡々と説明する。
「ルビーに演技の基礎を教える際、どうしても男の俺や五反田監督じゃ、基本的な技術は教えられても『女性としての見せ方』や『ヒロインとしての所作』までは完璧に教えきれない部分があった」
「まぁ、それはそうね」
「だから、ちょうど実力があって、若手の演者向けに講師のバイトをやっていたララライの劇団員に指導を頼んだんだよ。それが黒川あかねだったってだけの話だ」
「…………」
かなは深い溜息を吐き、頭を抱えた。
自分が「目の上のたんこぶ」として強く意識している同世代の天才肌が、まさか自分の可愛い後輩の「演技の恩師」ポジションに収まっていたとは。世間の狭さというかなんというか、ひどくいたたまれない気分だった。
「……まぁ、レッスン料としては驚くほど高いってわけじゃなかったが、今の苺プロの財政状況で何度も継続して頼めるほどの余裕はないからな。あくまで基礎を叩き込んでもらうための、数回限りのスポット依頼だったんだが」
アクアが当時の事情を補足するように言うと、かなは鼻で笑い、腕を組んでみせた。
「はん、なるほどね。要するに、ただの『お金のつながり』ってことね」
あかねとルビーの間に深い絆や師弟関係がないことを確認し、かなは露骨に安堵したような、それでいて少し刺のある言い方をした。
「それはそうなんだけど……先輩の言い方って、なんだかすごく露悪的だよね。どうしてそんなふうになっちゃったの?」
ルビーが首を傾げ、悪気など微塵もない純粋な疑問をぶつける。
あまりにも真っ直ぐな、そして的を射た言葉の刃に、かなは「うぐっ」と喉を詰まらせた。
「こいつの口が悪いのは、子役時代からずっとだ」
かなが反論する前に、アクアが淡々と事実を告げる。
「へえ、そうなんだ……。てっきり、長く芸能界にいて擦れて染まっちゃったとか、そういう哀しい理由があるんだと思ってたけど、全然違うんだね」
「……っくぅっ!!」
ルビーの無邪気な、しかし容赦のない追撃が、かなの心に二段構えで深々と突き刺さった。
反論しようにも、子役時代から生意気で口が悪かったのは紛れもない事実であり、完全にぐうの音も出ない状態だ。
「……る、うるさいわね! アンタたち、そろそろ時間じゃないの!? ほら、さっさと行くわよ!」
完全に形勢不利を悟ったかなは、真っ赤になった顔を誤魔化すように声を荒げ、足早に歩き出すのだった。
――
「二幕のクライマックス、暗転寸前のシーンよ。アンサンブルの役者たちが一斉に上手へ視線を向けたでしょ? あれで観客の目を自然に誘導して、センターの役者が暗闇に溶け込むように立ち位置を変えるっていう、すごく高度な空間支配をやっていたじゃない。あそこ、役者同士の息の合わせ方が絶妙だったわ」
駅前のカラオケボックスの一室。テーブルの上に広げられた劇団ララライのパンフレットを指差しながら、有馬かなは興奮気味に身を乗り出して熱弁を振るっていた。
先ほどまで観劇していた舞台の余韻冷めやらぬ様子で、役者としてのプロの視点から、いかにあの劇団の技術が高いかを解説しているのだ。
しかし、その熱い解説を受けたルビーは、ストローでメロンソーダを啜りながら、てへっと誤魔化すように笑った。
「えへへ……ごめん、私、あかねさんばっかり追ってて、他の人たちの動き全然見てなかった」
「あんたねぇ……! あれだけ始まる前に『全体の動きを見なさい』って言ったでしょうに!」
がっくりと肩を落とし、かなは声を荒げてルビーを小突いた。せっかく先輩として一肌脱いで演技の極意を解説してやっているというのに、当の本人は自分の推し(かつての恩師)の顔しか見ていなかったというのだから世話はない。
「まったくもう……。アクアはちゃんと見てたでしょ?」
同意を求めるように、かなは向かいの席で静かにフライドポテトをつまんでいるアクアへ視線を向けた。
「そうだな」
アクアは短く肯定し、淡々と自身の見解を口にする。
「舞台照明の使い方が映像制作とは全く違っていて参考になった。映像ならカメラの画角で視聴者の視点を強制的に切り取れるが、演劇は観客がどこを見るか自由だからな。あのシーンも、ピンスポットの絞り方とアンサンブルの動きを使って、疑似的な『フレーム』を舞台上に作り出していた。映像とは違うアプローチで観客の視界をコントロールする裏方の技術と、リアルタイムのキュー出しの精度は相当なものだ」
「…………」
よどみなく語られたそのマニアックすぎる感想に、かなは深々と、今日一番の重いため息を吐き出した。
「役者を目指す妹は推しの顔しか見てないし、兄は裏方の仕事しか見てないし……。どうして揃いも揃って、一番肝心な『役者の芝居』をまともに見てないのよ」
完全に期待を裏切られたかなは、ドッと疲れたようにソファの背もたれに体重を預けた。
そして、手元にあったマイクを無意味に弄りながら、不満げに口を尖らせる。
「というか……どうしてまたカラオケなのよ?」
午前中の観劇を終え、「じゃあお昼を食べながら解説をしてあげる」と意気揚々とついてきたものの、案内されたのはまたしても見慣れたカラオケボックスの一室だった。
「学生の懐具合に、そんなに期待しないでよ!」
ルビーがむんっと胸を張って、堂々と開き直る。
「まぁ、中学生でここで昼食をとりながら話せるっていうのは、十分な贅沢だな」
アクアは運ばれてきたランチの唐揚げに手を伸ばしながら、極めて現実的な評価を下した。
「ある程度大騒ぎしても外に迷惑がかからないし、こうして音楽を消せば静かに議論する空間にもなる。室内で何かを飲み食いしながら集まる場所としては、これ以上なく最適ではある」
カラオケボックスという空間の利点を、まるで会議室でも評価するように淡々と分析するアクア。その身も蓋もない現実的な発言に、かなは「あのねぇ……」と呆れた視線を送るが、アクアは気にする素振りも見せずに言葉を継ぐ。
「それにまぁ、歌やダンスのレッスンと言えば、そう見えなくもないんだ」
アクアが付け加えると、ルビーは我が意を得たりとばかりにニヤリと笑った。
「そうそう! 休日に出かけるにしても、なるべくアクアに『無駄な時間だ』って突っ込まれないようにしたの! あわよくば、レッスンの場所代として経費で落ちるように広くてダンスできるような部屋で、言い訳が利くようにしたんだよ!」
ドヤ顔で言い放つ妹の悪知恵に、かなは呆れを通り越して感心したように目を瞬かせた。
「……アイドルのくせに、変なところだけ妙に世知辛いわね」
「事実、唐揚げ食いながら演劇の話をしているだけのこの使い方で、ミヤコさんを説得して経費として落とせるかどうかが一番の問題なんだよ」
アクアは冷静にツッコミを入れながら、再びフライドポテトを口に運んだ。
「それに、ちょっと気が向いたりしたときはすぐに歌えるからね!」
ルビーは悪びれる様子もなくデンモクを操作し、手慣れた様子でポンポンとアップテンポな曲を転送していく。そのまま慣れた手つきでテーブルや椅子を端に寄せ、自分が動けるスペースを確保し始めた。
「経費で落とすためのアリバイ作りだ。歌った回数と曲の内容は後でレポートとして事務所に提出するから、なるべく多く歌ってくれ」
「わかってるってば!」
真顔で業務連絡のような指示を出すアクアと、それを軽く流すルビー。
「……健全な理由とは言い難いわね」
かなは呆れ果て、苦笑しながらストローを咥えた。
やがて前奏が鳴り響き、ルビーがマイクを握ってステップを踏み始める。アイドル候補生として日々のレッスンで培ってきた動きは素人目にも分かるほど洗練されており、狭いカラオケボックスの一角がたちまちステージへと変わる。
かなが感心しながらそのパフォーマンスを見つめていると、不意に横からスッと何かが差し出された。
「……なにこれ」
見れば、アクアが無表情のまま、ピンク色に光るサイリウムをかなへ向かって突き出していた。
「応援だ。振れ」
「は……?」
困惑するかなをよそに、アクアは自身の手にもしっかりとペンライトを握りしめ、曲のリズムに合わせて完璧なタイミングでそれを振り始めた。
表情一つ変えない完全なる「無」の顔のまま、手首のスナップだけを滑らかに効かせて光の軌跡を宙に描くその姿は、あまりにもシュールで異様だった。
「……変な兄妹」
かなは大きなため息を吐きながらも、差し出されたサイリウムを受け取った。ルビーの楽しげなステップに合わせ、少しだけ恥ずかしそうに、けれど的確なリズムでピンクの光を揺らす。
二人の振るサイリウムの光を受けて、ルビーもさらに弾けるような笑顔を見せ、見事なターンを決めた。
「――っ!」
曲の終わりと共に、バシッと完璧なポーズを決めるルビー。
画面には「演奏終了」の文字が浮かび上がり、アクアとかなはパチパチと拍手を送った。
「うん、パフォーマンス自体はすごくいいと思うわ。魅せ方も分かってるし、ステップも綺麗だし」
かなはサイリウムを置きながら、素直な評価を口にした。だが、その直後に少しだけ言い淀み、画面にデカデカと表示された採点結果の数字を横目で見やる。
「……ただこう、やっぱり歌はアレね。悪いとは言わないけれど、良いとはお世辞にも言えない感じよね」
かなの言う通り、画面のど真ん中に表示された点数は『73点』という、アイドルを目指す者としては何とも微妙でコメントに困る数字だった。
「これでも……改善したほうなんだ」
アクアはウーロン茶のグラスを握りしめたまま、どこか遠い目をして、ひどく疲れたような声で呟いた。
「それなら、そういう先輩はもっと上手く歌えるんだよね?」
ルビーはニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべ、手に持っていたマイクをぐいっとかなに向かって差し出した。
「はぁー、仕方ないわねー。先輩としてお手本を見せてあげるわ」
かなはもったいぶった様子でため息をつきつつも、素直にマイクを受け取る。そして、先ほどルビーが歌ったのと同じ、B小町のアップテンポな曲をデンモクで送信した。
内心で密かに闘志を燃やしながら、かなは立ち上がる。そして前奏が流れ始めた瞬間――ルビーが先ほどやっていたのと全く同じ、最初の歌い出しの完璧なポーズをピシッと決めてみせた。
「えっ、先輩、その曲の振り付け覚えてるの!?」
まさか元天才子役が、アイドルのマイナーなダンスの振り付けまで完コピしているとは思わず、ルビーは目を丸くした。
「ふふん、あんたの先輩なんだからこれくらいはねー」
かなは得意げに鼻を鳴らすと、そのまま曲に合わせて歌い始めた。
それは、ただカラオケで歌っているだけのレベルではなかった。最大限に観客を魅了するための「アイドルの演技」を完璧に自分の中に落とし込み、視線の流し方、指先の角度、ステップの正確さに至るまで、すべてが緻密に計算された至高のパフォーマンスだ。
それでいて、息を切らすことなく正確に音程を刻み、持ち前の伸びやかな歌声を響き渡らせていく。
やがて曲が終わり、画面に表示された採点結果は『95点』。ルビーの点数を悠々と超える、圧倒的なハイスコアだった。
「んー……やっぱり、ダンスが混じると息の調整が結構大変ね」
かなは息をわずかに乱しながらも、さも余裕だと言わんばかりに平然と髪をかき上げた。
「うわぁ……前に聞いたときも凄いとは思ったけどやっぱり先輩凄いっ!!!」
ルビーの瞳には、尊敬と羨望の星がキラキラと輝いていた。これ以上ない純度百パーセントの称賛の眼差しを全身に浴びて、かなは口元をにやけさせそうになるのを必死に堪える。
「そ、そうでしょうそうでしょう? これが実力の差ってやつよ」
自己肯定感が天を突き抜ける勢いで上昇していくのを感じながら、かなはふんぞり返るように胸を張った。
「ねえねえ、他の曲の振り付けとかも知ってるの!?」
すっかり興奮したルビーが、期待に満ちた目でぐいぐいと距離を詰めてくる。
「そ、そんなにたくさんは知らないわよ。せいぜい知ってるのは……そうね、『サインはB』とか、『STAR☆T☆RAIN』とか、『Heart’s Kiss』とか……」
かなはわざとらしく指を折りながら、B小町の持ち曲をスラスラと6〜7曲ほど挙げた。
「すごい! それなら一緒にデュエットしようよ!」
「もー、仕方ないわね〜。付き合ってあげるわ」
満更でもない顔でニヤニヤと笑い、かながルビーと一緒になって次の曲を選び始めようとした、その時だった。
それまでソファでサイリウムを持ったまま、無言で二人のやり取りを見ていたアクアが、ふと静かな声で口を開いた。
「……なぁ、有馬」
「ん? なに?」
「お前……B小町なんて、今じゃすっかりマイナー扱いになっている昔のアイドルの振り付けを、わざわざ6曲以上も覚えたのか?」
「――っ!?」
アクアの鋭すぎる指摘に、かなの肩がビクッと大きく跳ねた。
確かに、B小町は一昔前ならともかく、今となってはわざわざ自ら進んで振り付けを網羅するようなメジャーな存在ではない。熱狂的なファンでもない限り、当時のアイドルのダンスを複数曲も完璧に踊れるはずがないのだ。
冷や汗を流し、ギクシャクと不自然に動きを止めるかなをじっと見つめながら、アクアは視線を隣の妹へと移した。
「……なぁ、ルビー。もしかして今日、有馬を遊びに誘うっていうのは、何日も前から話をしてあったのか?」
「えっ?」
急に話題を振られたルビーは、きょとんとして首を傾げた。
「別に? せっかく昨日、今日の予定がフリーになったから……今朝になって『先輩も誘ってアクアと遊ぼう!』って急に思いついただけだけど……?」
そのルビーの無邪気な証言によって、一つの残酷な事実が導き出される。
「つまり……」
アクアは淡々とした声で、逃げ場のない推理を口にする。
「お前は、今日ルビーに誘われてから急いで振り付けを覚えたわけじゃない。ルビーとカラオケに行く予定すらなかったずっと前から、アイツの好きなB小町の振り付けを……わざわざ自宅でコソコソ練習して、いつか披露するために完璧に仕上げていた、ということか」
「う、うっさいわねーっ!!」
図星を突かれたかなは、顔を茹でダコのように真っ赤にして絶叫した。
「い、いざって時のために備えていただけよ! 今回の『今日あま』の現場がマシになって、周りの大根演技にそこまで気を揉まなくてもよくなったから、ちょっと暇になったの! だから余った時間で適当に動画を見てただけだわ!」
ものすごい早口でまくし立て、必死に言い訳を並べ立てるかな。
「……暇になったからって、マイナーアイドルの振り付けを何曲も完コピするのか。多分、その百億倍は有意義な時間の使い方があったと思うが」
「うぐぅっ……!」
アクアの冷徹で身も蓋もないツッコミに、かなはぐうの音も出ず、顔を真っ赤にしたままワナワナと震えるしかなかった。
可愛い後輩の前で完璧な先輩風を吹かせるためだけに、わざわざ自宅の鏡の前で『サインはB』の振り付けを一生懸命に練習していた自分の健気(?)な姿を暴かれ、羞恥心で今すぐカラオケボックスの床下へダイブしたい気分だった。
「……でも、アクアもほとんどの曲を踊れるよね?」
ルビーが首を傾げ、悪意のない純粋な疑問を投げかけた。
その瞬間、アクアの動きがピタリと停止した。
先ほどかなに向かって言い放った、「マイナーアイドルの振り付けを何曲も完コピするのか」「百億倍は有意義な時間の使い方があったと思うが」という理詰めのツッコミ。それが特大のブーメランとなって、時間差で自分の後頭部を深々とカチ割っていたことに気付いたのだ。
前世である雨宮吾郎時代。病室のベッドにいるさりなと「アイ論争」をするためだけに、夜な夜な映像をスロー再生して全曲の振り付けを完コピし、ひたすら粗探しをしていた己の奇行。
あの時は大真面目だったとはいえ、客観的に見れば、今のかなの行動よりも遥かに狂気じみていて、なおかつ「有意義とは程遠い時間の使い方」であることは間違いない。
アクアの顔から完全に表情が抜け落ち、石像のように固まった。
「……あんたまさか…」
そのあからさまに動揺した(ように見える)アクアの様子を見て、かなの頭の中で、一つのとんでもない勘違いが爆誕していた。
いつも無表情で冷徹な顔をしているこの過保護なシスコン兄が、ルビーと一緒にカラオケで踊れるようにするためだけに、わざわざ自宅でこっそりとアイドルの振り付けを練習していたのだ、と。
そう考えると、先ほどの自分に対する鋭いツッコミも、「自分と同じようなことをしている同族嫌悪」あるいは「ルビーへの愛情表現の先を越された嫉妬」のように思えてくる。
「ふーん。アクアもそういうこと、しちゃうんだ?」
かながからかうように視線を送ると、アクアはひどく苦悶の表情を浮かべ、絞り出すように言った。
「……有馬。俺が悪かった。この話はやめよう」
自分から降伏を宣言し、これ以上の詮索を断ち切ろうとするアクア。
「……そうね、これ以上掘り下げても、お互い傷つくだけだわ」
かなも同調し、大きく頷いた。お互いに「妹分のために裏でコソコソ練習していた」という弱みを握り合ったような、奇妙な連帯感が生まれていた。
「へへっ、二人とも私のことが大好きすぎて嬉しいよ!」
自分を中心に回っている世界を微塵も疑わないルビーは、腰に手を当ててドヤ顔を決めた。
「…………」
「…………」
そんなルビーの眩しすぎる笑顔を見つめながら、アクアとかなはひどく微妙な表情で顔を見合わせた。
完全に否定したいわけではない。ルビーのことが大切で、彼女のために動いたのは事実だ。だが、このドヤ顔の前で素直に肯定するのも癪に障る。
そんな複雑な感情を共有しつつ、二人はそっと目を逸らし、言葉を飲み込むのだった。
――
カラオケボックスの一室は、すっかり小さなライブハウスと化していた。
「じゃあ次は、この曲のサビのステップね! 最初は少しテンポ落としてやってみるから!」
「はーい、先輩!」
ルビーとかなは、次々とB小町の曲を入れては一緒に歌い、踊り続けていた。
デュエットの振り付けを合わせる際には、「俺はいいから」と逃げようとするアクアをルビーが無理やり引っ張り出し、見本として踊らせる一幕もあった。無表情で目が完全に死んでいるというのに、指先から足の運びまで完璧にアイドルのステップを刻む兄のシュールな姿に、かながお腹を抱えて笑い転げる場面もあったが、おかげですぐにコツを掴むことができた。
息を合わせてステップを踏み、マイクを向かい合わせてサビを歌い上げる。
(……すっごく、楽しい……!)
ルビーは弾むようなリズムの中で、心の底からそう実感していた。
ミヤコの計らいでアイドル候補生としての活動を始めてから、彼女の主戦場はスーパーの駐車場や商店街の小さなイベントスペースばかりだった。マイクを持って歌う機会などほとんどなく、ただ一人で営業スマイルを振り撒く日々。
だけど今、狭いカラオケボックスの部屋とはいえ、大好きなアイドルの曲を誰かと一緒に歌って踊っている。
たった一人の観客――ソファでサイリウムを無表情で振っているアクア――を前にして、かなと一緒に『本物のアイドル』のように振る舞うこの時間は、ルビーにとってたまらなく新鮮で、満ち足りたものだった。
隣で完璧なパフォーマンスを見せる有馬かなの姿を、ルビーは踊りながら横目で見つめる。
(先輩は『アイドルの演技』だって言うけど……)
確かに彼女は役者であり、アイドルではない。これはあくまで、彼女が培ってきた表現力で『アイドルのふり』をしているだけなのだろう。
しかし、曲に合わせて軽やかにステップを踏み、絶妙なタイミングでウインクを飛ばすかなの姿は、間違いなく眩しいほどの『キラキラ』を放っていた。
その輝きは、ルビー――かつての『天童寺さりな』が、病室の無機質な白い天井の下で初めて星野アイの映像を見た時に感じた、あの胸を焦がすような衝撃と、とてもよく似ていた。
本物か、演技か。そんなことはどうでもよくなるくらい、ただひたすらに魅了されてしまう光。その時よりも決して熱いものではなかったけれど暖かいものだ。
(……いいなぁ)
ルビーは心の中でぽつりと呟いた。
自分もいつか、こんな風に誰かと一緒に、本物のステージの上に立ってみたい。一人ぼっちのソロアイドルとしてではなく、隣に並ぶ誰かと熱を共有し、支え合いながら、もっとたくさんの光の中で歌ってみたい。
その小さな、けれど確かな憧れが、ルビーの胸の奥で静かに、熱く形を作り始めていた。
しかしその熱を帯びた思考を、壁際で鳴り響いたカラオケの備え付け電話のコール音が不意に遮った。
「はい」
手慣れた様子で受話器を取ったアクアが、短く応答して電話を切る。
「もうすぐ退室の時間だそうだ」
「じゃあ、これがラストね!」
かなは名残惜しそうに、それでも楽しげにデンモクを操作して、最後の一曲を送信した。そして、まだぼんやりとその場に立ち尽くしているルビーへと、強引にマイクを押し付けてくる。
「ちょっと、何ぼんやりしてるの。早く歌うわよ!」
「……うん」
手渡されたマイクの感触に、ルビーはどこか心ここにあらずといった様子で、こくりと頷いた。
――
「んーーっ! あー、歌ったわね!」
カラオケ店を出て夕暮れの街並みを歩きながら、かなは両腕をぐっと上に伸ばして思い切り背伸びをした。その顔は、心地よい疲労感とともにすっかりご満悦な様子だ。
「思い切り楽しんでたな」
アクアはスマートフォンを取り出し、先ほどのカラオケの履歴――経費精算の言い訳にするための曲数やリスト――を淡々とメモアプリに打ち込んでいる。
「そうね。こうやって遊ぶのも久しぶりだわー」
かなは上機嫌に鼻歌をこぼし、軽やかな足取りで前を歩いていく。
その二人の背中を、ルビーは数歩後ろから静かに見つめながら歩いていた。
(たぶん、先輩との縁は、ここで終わるんだろうな)
なんとなく、ルビーの心にそんな静かな予感がよぎっていた。
あくまで自分と彼女は、今回のドラマ限りの「共演者」というくくりに過ぎない。この撮影が終われば、お互いに別の道を歩む。次に今日のように一緒に何かをするなんてことは、それこそまた何かの作品で共演でもしない限り、あり得ないのだろう。
業界の理屈としては当然のことだ。
ただ――自分がかなと一緒に、アイドルのように歌って踊り、笑い合ったときの『熱』が、マイクを握っていた掌にまだじんわりと残っていることに、ルビー自身もひどく驚いていた。
一人きりのソロアイドルでは絶対に味わえなかった、誰かと熱を共有する喜び。その感触が、手放しがたいほどに胸の奥で燻っている。
「じゃあ、今日はそろそろ解散だな。家まで送っていく」
人通りの少ない、駅までの分かれ道に差し掛かったところで、アクアがスマートフォンから顔を上げて言った。
「へぇ、気が利くわね」
かながニヤリと笑ってからかうと、アクアは表情一つ変えずに淡々と返す。
「ルビーのついでだ」
「はいはい、素直じゃないわねー」
そんなふうに軽口を叩き合う二人。そのやり取りを耳にしながら――ルビーは不意にうつむき、ぴたりと足を止めた。
「……」
背後で足音が止まったことに気がつき、前を歩いていたかなとアクアが同時に振り返る。
「……ルビー?」
うつむいたまま動かない妹の様子に、アクアが不思議そうに眉を寄せ、静かに名前を呟いた。
ルビーは、ぎゅっと両手を胸の前で握りしめ、一度だけ深く、ゆっくりと深呼吸をした。
肺に冷たい空気を吸い込み、覚悟を決めるように顔を上げる。
その視線は、兄であるアクアではなく、真っ直ぐに有馬かなだけを捉えていた。
「有馬かなさん」
普段の「先輩」という砕けた呼び方ではなく、フルネームでの真剣な呼びかけ。
その声のトーンの違いに、かなは少しだけ怪訝そうに目を瞬かせた。
「私と一緒に、アイドルをやりませんか」
静かな夕暮れの街角に、そのまっすぐな言葉が、真っ白な矢のように放たれた。
「……えっ?」
突然の突拍子もない提案に、かなはポカンと口を開け、一拍だけ完全に思考を停止させた。
ドクン、と心臓が跳ねるような感覚があったが、すぐに彼女は持ち前の自己防衛本能を働かせて、呆れたように笑い飛ばそうとした。
「ちょっと、何よ急に。冗談でしょ?」
かなはヒラヒラと手を振り、わざとらしく明るい声を出す。
「そりゃあ私は可愛いし? 歌も上手いし? アイドル顔負けの演技もできちゃうからって、そんな突飛な冗談は……」
そこまで言いかけて、かなの言葉が不自然に途切れた。
冗談だ。そう思ってルビーの顔を見たのに、彼女の双眸に宿る光には、悪ふざけや思いつきの軽薄さなど微塵もなかった。
ただひたすらに真剣で、相手の魂の奥底まで見透かそうとするような、純度百パーセントの熱と誠実さだけがそこにあったのだ。
「……バカ言うな、ルビー」
静寂を切り裂くように、横からアクアの低く鋭い声が飛んできた。
「有馬は本業の演者だぞ。今更先の見えないアイドル活動なんて、こいつのキャリアの邪魔にしかならない。ふざけるのもいい加減に――」
「アクアは黙ってて」
ピシャリと、ルビーの短く強い一言がアクアの言葉を遮った。
いつもなら兄の正論に言い負かされるか、甘えてぐずるところだ。しかし今のルビーは、アクアの方を振り返りもせず、その冷たく強い声だけで彼を完全に制止した。
アクアもそのただならぬ気迫に圧倒されたのか、珍しく口を噤み、驚いたように妹の横顔を見つめている。
ルビーは再び、かなへと真っ直ぐに向き直った。
「アイドル、ね……」
かなは、小さく乾いた声で呟いた。
咄嗟にルビーをはぐらかし、この話を笑い飛ばして遠ざけるための言葉なら、いくつも頭に浮かんでいた。
『あんたが好きなアイドルの振り付けを覚えてきてあげたからって、まさか本気にしちゃったの?』だとか、『私より歌もダンスも下手くそな奴と一緒にアイドルなんて、冗談じゃないわよ』だとか。いくらでも意地悪な言い訳は用意できる。
しかし――。
真っ直ぐに、一点の曇りもなくこちらを求め、必要としてくれているルビーのひたむきな眼差しを前にして、かなはそんな風に彼女を傷つける言葉を吐き出すことが、どうしてもできなかった。
「……少しだけ、待って」
かなは動揺を悟られまいと一つ息を吐き、努めて冷静な、年上の先輩としてのトーンを作り出して言葉を続けた。
「ルビー。ドラマや映画の撮影でね、役になり切りすぎて、その時の感情をそのままプライベートにまで引きずっちゃうってことが、この世界ではたまにあるのよ」
かなは諭すように、ゆっくりと言い聞かせる。
「例えば、映画で恋人同士を演じた主人公とヒロインが、撮影が終わった後もその意識を引きずって、本当にカップルになっちゃうとかね。……でも、そういうのって結局、長くは続かないの」
「…………」
「だから、あんたも今はそういう状態なんじゃないの? 今回のドラマで、あんたと私の役割が『親友』だったから……その仲の良い感情をそのまま引きずって、勘違いして、こんなこと言ってるだけなんじゃないの?」
それは、「自分とルビーは本当の友達ではない」と遠回しに線を引くための言葉だった。そして同時に、かな自身が、無邪気に慕ってくるルビーに対して、すでに「ただの共演者」以上の強い親愛を抱き始めてしまっていることへの、彼女なりの防衛本能であり、戒めでもあった。
しかし、ルビーは迷うことなく、はっきりと首を横に振った。
「ううん、違うよ」
その声は、どこまでも澄み切っていた。
「私にも、学校には普通の友達はいるよ。今日みたいに一緒にカラオケに行って、遊んだりおしゃべりしたりしたこともある」
ルビーは、かなを真っ直ぐに見据えたまま、言葉を紡ぐ。
「だけど、その子たちと一緒に『アイドルをやりたい』って思ったことは、一度もなかった」
そこにあるのは、ただの仲良しごっこや、一時的な感情の昂りではない。
もっと根本的な、魂が惹きつけられるような理由。
「今日、先輩と一緒に歌って踊って……かな先輩が、誰よりも一番『キラキラ』してた」
ルビーの瞳の中に、先ほどのカラオケボックスで圧倒的な輝きを放っていた有馬かなの姿が、鮮明に映し出されているかのようだった。
「だから、私は……先輩と一緒にアイドルをやりたいって、心からそう思ったんだ」
そのあまりにも真っ直ぐで嘘のない視線に射抜かれ、かなはたまらずスッと目を逸らして言葉に詰まった。
「……でも、私はアイドルができるほど可愛くも……」
自信のなさから無意識にこぼれ落ちた、自嘲めいた弱音。しかし、その言葉を最後まで言い切るより早く、ルビーがきっぱりと遮った。
「先輩は可愛いよ」
何の迷いもない、断言だった。
「変な期待とか、余計なフィルターがかかってる男の人たちが見るよりも、同性の私が見た方が、絶対に正しく断言できる。先輩はすっごく可愛い」
「ルビー……」
「先輩自身が自分のことをどう思っているかは、関係ない」
ルビーは一歩踏み出し、逃げようとするかなの視線を正面からしっかりと捕まえた。
「私が、先輩と一緒にアイドルをやりたいんだ」
打算も駆け引きもない、ただ純粋な「あなたが必要だ」という渇望を真っ直ぐにぶつけられ、かなは完全にキャパシティを超えかけていた。何をこっ恥ずかしいことを、と思わず視線を逸らす。
「……ルビー、有馬。少しだけいいか」
そんな、二人の間の空気を――横から飛んできた、ひどく平坦で温度のない声が、あっさりとぶち壊した。
「……なに、アクア」
いいところを邪魔されたルビーは、明らかに不機嫌そうな顔で振り返り、双子の兄をじろりと恨めしげに睨みつけた。先ほど「バカ言うな」と反対しかけていたアクアのことだ、また何か理屈をこねてかなを遠ざけようとするに違いないと警戒しているのだ。
しかし、妹からの明確な敵意のこもった視線を浴びても、アクアは表情一つ変えずに両手を軽く上げてみせた。
「睨むな。安心しろ、今回俺は完全に中立だ。お前たちの決定を邪魔する気はない」
そう前置きをしてから、アクアは戸惑っているかなへと淡々とした視線を向けた。
「ただ、有馬が決めかねているようだからな。判断材料として、いくつか客観的な情報を出しておこうと思ってな」
そう言って、アクアは少しだけ言葉を切り、『裏方』の顔つきへと切り替わる。
彼は視線を戸惑うかなから外し、不満げに自分を見つめている妹の目を真っ直ぐに見据えた。
「ルビー。有馬自身は理解しているだろうから、あえてお前に言うがな」
アクアはスマートフォンを弄りながら、淡々とした声でルビーへと告げた。
「もしもここで有馬がアイドルになった場合、有馬は『若手役者枠』としての仕事を失い、世間からは『アイドル枠』のタレントとして見られるようになる。つまり、今の自分のキャリアをすべて捨てて、お前のアイドル活動に心中することになる。それだけのリスクがある選択なんだ」
「むぅ……」
その残酷な事実を突きつけられ、ルビーは顔をしかめた。
かなの目標が役者として大成することであるのは、ルビーも分かっている。ただ、自分が『今日あま』のドラマに出演できたように、「アイドルをやりながらでも演技の仕事はできる」と楽観的に考えていたのだ。しかし、業界の現実と彼女の立ち位置を冷静に分析するアクアの言葉には、反論できない重みがあった。
俯くルビーを見て、アクアは視線をかなへと移した。
「だが、逆に言えば……有馬。お前がもしアイドルを始めるとするなら、今以上の『好機』が訪れると考えるのは難しいだろうな」
「好機って……今回の『今日あま』での共演のこと?」
かなが訝しげに尋ねると、アクアは静かに頷いた。
「ああ。今回のドラマは、作品としての評価はともかく、お前たち二人の組み合わせ……『コンビ』としての見栄えに関しては、想像以上に世間から好感触を得ている。――なんせ、原作者先生直々に背中を押してくれたからな」
「え……?」
アクアは操作していたスマートフォンの画面を、二人の前にスッと差し出した。
そこに表示されていたのは、原作者である吉祥寺頼子名義のSNSアカウントの最新の呟きだった。
添えられていたのは、一枚の描き下ろしイラスト。
ドラマ版の衣装を着た、活発な笑顔のメグル(ルビー)と、少し照れくさそうに笑う主人公(かな)が、顔を寄せ合って仲良く密着している、ドラマのエンドロールを彷彿とさせる光景だった。
『ドラマオリジナルの二人の関係性も、これはこれでアリなんじゃないかと思います。素敵な演技をありがとうございました』
そのコメントと共に投稿されたイラストには、すでに数万件という桁違いの「いいね」と、ファンからの温かいリプライが殺到していた。
「なっ……吉祥寺先生が、わざわざこんなの……!」
かなは目を丸くし、信じられないというように画面を凝視した。
原作への愛着が強いことで知られる原作者が、ドラマオリジナルの改変要素である二人のコンビを、自らの筆で公式に肯定し、歓迎してくれているのだ。
「ネットの反響も『この二人のコンビをもっと見たい』『また共演してほしい』という声で溢れている。つまり、お前たちが今『二人組のアイドル』としてデビューすれば、最初からこれだけのファン層と話題性を味方につけた状態でスタートダッシュが切れるってことだ」
アクアはスマートフォンをしまい、冷静なゼネラリストの顔で断言した。
「有馬かなという役者のキャリアを捨てて、ゼロから泥水すする無謀な賭けに出るわけじゃない。最初から強烈な追い風が吹いている状態で、勝算のあるステージに立てる。そこから演技に関わることもできるだろう」
アクアは、そこで言葉を切り、一つ息を吐いた。
内心では、彼もまた答えを出していた。
ルビーがアイドルとしてユニットを組むにあたり、その相方として最も最適な人材は、間違いなく有馬かなであると。
歌も踊りも基礎が完璧で、圧倒的な実力と華があり、なによりルビーの無軌道な光を隣でコントロールできるだけの器用さと責任感を持っている。二人組(デュオ)としてデビューさせるなら、これ以上の適任は存在しない。
「……だが、それはリスクが消えたってことじゃない」
アクアは淡々とした声で、最後の現実を告げる。
「アイドルの活動は、どこまで行ってもアイドルだ。演者としての活動はあくまで『サブ』に回り、主軸ではなくなる。それは紛れもない事実だ」
かなの顔が、わずかに引き締まる。
「だけどそれでも――」
そこまで言いかけて、アクアは不自然に言葉を止めた。
(……いや、これ以上は中立からは外れるな)
アクアの胸の奥には、常に相反する感情が渦巻いている。
ゼネラリストとしての冷徹な思考は「有馬かなを巻き込むべきだ」と告げている。しかし同時に、一人の兄として、大切な妹を安全な柵の外へ、嘘と悪意に満ちた『芸能界』という深く暗い森へ本格的に足を踏み入れさせることへの、強い躊躇いと恐怖が拭い去れない。
だからこそ、これ以上背中を押すことも、止めることもできなかった。
「……俺から言える客観的な事実は、こんなところだ」
アクアはふっと冷たい仮面を被り直し、一歩後ろへと下がった。
「あとは、お前たちで決めろ」
それ以上口を挟むつもりはないという意思表示。
静寂が下りた夕暮れの街角で、再びルビーとかな、二人だけの時間が動き出した。
アクアが提示した情報は、かなの頭の中を冷静に整理させるには十分すぎるものだった。
(……アクアの言うことは、全部事実ね)
心の中で、かなは静かに天秤にかける。
子役時代の輝きを失い、フリーランスとしてしがみついてきた役者としてのキャリア。現状は明らかに頭打ちだ。今回のように運良くドラマの仕事にありつけたとしても、このままパッとしない立ち位置で消費され続ければ、いずれ限界が来る。何かしらのカンフル剤――世間の耳目を集める起爆剤が必要なのは、かな自身が一番よく分かっていた。
その点において、『今日あま』の原作者すらも巻き込んだ「星野ルビーとのコンビ」という話題性は、これ以上ないほどの特大のバフ、追い風となるだろう。
だが、その対価として差し出すものは大きい。
アイドルというレッテルを貼られれば、世間からの見られ方は決定的に変わる。自分が最もやりたい『演技の世界』からは、どうしても少しだけ遠ざかることになる。メリットとデメリットは、ある意味で残酷なほどに釣り合っていた。
(……損得の天秤が釣り合ってるって言うなら、あとはもう、私が『どうしたいか』だけじゃないの)
かなは小さく息を吸い込み、ルビーの真っ直ぐな瞳を正面から見つめ返して、ゆっくりと口を開いた。
「……私がさっきカラオケでやったのはね、所詮は『アイドルの演技』よ」
少しだけ自嘲気味に、けれど役者としての確かな誇りを込めて、かなは紡ぐ。
「どうやればそれらしく可愛く見えるのか、どう動けば観客の視線を集められるのか。要点だけを抜き取って見せかけただけの、ただのハリボテ。……まぁ! 私の天才的な演技力にかかれば、それだけでもあれだけの完璧なパフォーマンスができちゃうんだけどね!」
わざとらしく胸を張り、ふんぞり返るようにしていつもの強気な態度を作ってみせるかな。しかし、ルビーは茶化すことも遮ることもなく、ただ静かに彼女の次の言葉を待っていた。
その真剣な眼差しに、かなは少しだけ視線を落とし、ぽつりと本音をこぼす。
「だから……あんたみたいに、心の底から純粋に『アイドルをやりたいか』って聞かれて、そこで『やりたい』って答えたら、それは嘘になると思う、けど」
言葉を区切り、かなは今日までルビーと共に過ごしてきた日々を思い返した。
『今日あま』の現場で見せたルビーの演技も、先ほどカラオケで見せたアイドルとしてのパフォーマンスも、過酷な芸能界を生き抜いてきた厳しいプロの目から見れば、せいぜい「悪くはない」程度の素人レベルに過ぎない。
しかし――彼女には、技術の拙さを補って余りある『何か』があった。
理屈抜きで自然と人々の目を惹きつけてしまう、圧倒的な引力。それを見ていると、かなの脳裏にはかつて、たった一度だけ共演し、そのままスターアイドルの頂点へと駆け上がっていったある少女――アイの姿が重なって見えた。
彼女の役者としての『勘』が、ルビーの中に眠る底知れない可能性に、理屈を超えて期待させられているのだ。
かつて天才子役として、数え切れないほどの脚光を浴びたあの熱狂の瞬間。
それと比べれば、地下アイドルも同然の無名の新人ユニットから再出発するというのは、ほんのささやかな、小さな光でしかないのかもしれない。けれど――。
「……まぁ、その」
かなは照れ隠しのように視線を少しだけ逸らし、ポリポリと頬を掻いた。
「あんたとステージに立つのは、まぁ、悪くはないんじゃないか、とは……思ったわよ」
「それじゃあ!」
ルビーの顔が、太陽が昇ったかのようにパッと輝いた。
「勘違いしないでよね!」
すかさず、かなは先手を打つようにびしっと人差し指を突きつけた。
「私がアイドルをやるって言っても、それはあくまで女優として本格的に復帰して活躍するまでの、ただの『腰掛け』なんだからね! 人気が出て、役者としていろんな仕事が自由に選べるようになるまでの話よ! その条件が満たされたら、さっさとアイドルなんて辞めてやるんだから!」
真っ赤な顔で、これでもかというほどツンツンと予防線を張りまくるかな。しかし、ルビーはそんな強がりなど全く意に介さず、満面の笑みでかなの手をぎゅっと握りしめた。
「うんっ! それでも、かな先輩と一緒にやれて嬉しいよ!」
「……っ、ほんっとうにアンタは……!」
眩しすぎる後輩からのストレートな好意に当てられ、かなは完全に毒気を抜かれて顔を背けた。
そんな二人――いや、半ばルビーの勢いに押し切られ、情に絆されてしまったかなの様子を静かに見ていたアクアが、深いため息とともにぽつりと呟いた。
「……有馬お前、たぶん後悔するぞ」
その声には、呆れと少しの同情が入り混じっていた。
アクアには見抜けていたのだ。かなが先ほどルビーに諭した「ドラマの役の感情を引きずっているだけだ」という忠告――それは、他でもないかな自身が今、ルビー(メグル)と主人公の『親友』という関係性に最も強く引っ張られ、絆されてしまっている証拠であるということに。
「あーもう! そんなこと分かってるわよ、うっさいわねー!」
図星を突かれたかなは、半ばヤケクソ気味に声を荒げた。
「こうなったら意地でも売れてやるんだから! あんた達、私の足引っ張ったら承知しないからね!」
完全に逃げ場をなくし、ついにアイドルとしての道を歩むことを宣言したかな。夕暮れの街角で、新人アイドルユニットが、ここに新たな一歩を踏み出したのだった。