ゴロー先生はアイアンチ 作:作者さん
恋リア対策会議
ルビーを取り巻く環境は、この春を境に劇的に変化していた。
東陽高校の芸能科への入学。
そして何より、有馬かなを巻き込んでのアイドルユニット『B小町』の正式結成。
それに伴うYouTubeチャンネルの開設と、ネットでのPR活動の開始。
これまでのような、ただひたすらに地下のスタジオで汗を流すだけの地味なレッスン漬けの日々とは打って変わり、目まぐるしくも充実した忙しさが彼女の日常を塗り替えていた。
かなを「新しいメンバーです!」と苺プロの事務所に連れて行った時の、社長であるミヤコの深い頭痛を堪えるような顔は、今思い出しても少し笑える。
有馬かなを「アイドル」として抱え込むことはキャリアプラン上も、それなりに面倒な手続きを要する事態だったらしい。
しかし、そんな大人の事情など意に介さず、アクアは慣れた手つきでどこからか契約書のフォーマットを引きずり出し、淡々と事務処理を進めてしまった。
『ああ……本当にサインしちゃった……』と、ハンコを押した直後に頭を抱えて激しく後悔し始めたかなと、『こうなったら意地でも売れてやるわよ!』とヤケクソ気味に開き直るかなが交互に顔を出し、事務所はちょっとしたパニック状態に陥った。
そんなひと悶着も、今となっては結成の笑い話だ。
一方で、ルビーたちの大きな転機となった実写ドラマ『今日は甘口で』の放送も、先日無事に最終回を迎え、打ち上げパーティも恙なく終了していた。
世間でのドラマ全体の評価は、正直なところ「手放しで絶賛される作品」とは言い難かった。
『若手イケメン俳優たちのカタログ』と揶揄される序盤から始まり、『演者たちが徐々に成長して、なんとか見られるレベルになっていくのを見守る育成ゲーム感覚のドラマ』だとか、『一部のシーンだけ切り取れば名作』といった、ひどく微妙で斜め上の見られ方をすることの方が多かった。
だが、アクアやかな、そしてルビーが出演した最終話付近のクオリティに関しては、多くの視聴者が明確な驚きをもって満足の声を上げていた。『どうしてこのクオリティを最初からやらなかったんだ』という、至極真っ当な文句はネットに溢れ返っていたが。
それに加えて、原作者である吉祥寺頼子がSNSでルビーとかなの「メグルと主人公」のコンビを描いた肯定的なイラストを投稿したことが、最大の決定打となった。
『まぁ、あの原作者の先生がアリだと言ってるなら……』という空気が醸成され、最終的には「否が多めの賛否両論あるが、終わり良ければすべて良し」程度の、穏当な評価へと落ち着いたのだ。
「あー……つ、疲れた。もう一歩も歩きたくない」
苺プロの事務所。
服を着替えシャワーも浴び、事務所に戻ってきた辺りで限界を迎えたのか、ソファにへたり込んだまま、まるで水揚げされた魚のようにぐでっと伸び切っていた。
「……アンタねぇ。アイドルがそんなだらしない姿見せるんじゃないわよ……」
その少し離れた場所では、かなもまた椅子に背を預けている。
プロのダンスコーチなどを雇う余裕など今の苺プロにはなく、あくまで動画を見ながらの自主練だ。しかし、負けず嫌いでストイックなかなと、体力オバケで一度火がつくと止まらないルビーの二人が揃えば、結局は限界まで身体を追い込むハメになる。
「やりすぎた……」
「まぁ、いいじゃない。しばらくは私達の予定なんて真っ白なんだから。今のうちに基礎体力ぐらいつけておきなさいよ」
「しばらく、っていうか……大体ずっとじゃない? 最近、ソロの頃にやってたスーパーの駐車場とか、商店街の裏方の仕事、あんまりなくなっちゃったし……」
ルビーが恨めしげに呟く。
かつてルビーがソロで活動していた頃は、ミヤコが「とりあえず場数を踏ませる」という目的で、ギャラ度外視の小さな営業を片っ端から受けていた。
しかし、かなが加入し正式な「ユニット」となってからは、その手の小さな仕事はパタリと途絶えてしまったのだ。
とはいえ、悲観することばかりではない。
旧B小町の楽曲という強力な遺産(レパートリー)があり、かなという圧倒的なパフォーマンスの柱を手に入れた今の彼女たちは、地下アイドルの対バンライブなどに出演すれば、そこそこ以上の盛り上がりを作れるようになっていた。
元々ルビーについていた固定のオタクたちに加え、『今日あま』でのメグル&主人公コンビからの新規ファンも流入しており、徐々にではあるが着実に勢いを増しているというのが実情だ。
「文句言わないの」
コンコン、と事務所のドアが開き、社長であるミヤコがドリンクの入った袋を手に呆れ顔で入ってきた。
「ルビー一人のソロの時は、それこそ子供のお小遣い程度の依頼金で、無造作に何でも受けてよかったのよ。でも、有馬さんが入って本格的に『アイドル部門』として動かすとなると、大安売りはできないの。ちゃんとした仕事に絞っていかないと、あなた達の今後のブランディングに関わるでしょ」
「今まで私が受けてた仕事って、そういうのだったんだ……」
ルビーはドリンクを受け取りながら、少しだけ複雑そうな顔をした。
スーパーのチラシ配りのような営業から、よくわからない商店街の余興まで。自分なりに一生懸命アイドルとしての場数を踏んできたつもりだったが、事務所の「本格的な仕事」としてはカウントされていなかったのだ。
「もちろん、賃金はちゃんと出してたでしょ?」
ミヤコは腰に手を当て、少しだけいたずらっぽく笑った。
「でもアレ、実は私のポケットマネーから出してたのよ。だからまぁ、実質的なお小遣いみたいなものね」
「ええっ!? そうだったんだ……」
自分が稼いでいたと思っていたお金が、実は育ての親からのお小遣いだったという事実に、ルビーはちょっとだけショックを受けて唇を尖らせた。
「まぁ、いいじゃない」
かながペットボトルのキャップを開けながら、慰めるように言う。
「プロの現場に出る前に『人前で歌って踊る』っていう度胸と経験を積むって意味では、別に間違ったアプローチじゃないでしょ。結果的に、アンタのその無駄なメンタルの強さはそこで培われたんだし」
「それはそうなんだけどっ」
むぅ、とふくれるルビーを適当にあしらいながら、かなは喉を潤す。
そんな二人のやり取りを見て苦笑していたミヤコが、ふと思い出したように周囲を見回した。
「そういえば、アクアは見てない? さっきから事務所にいないみたいだけど」
「え? アクア? うーん……」
ルビーとかなが顔を見合わせ、揃って首を横に振る。今日はレッスン場に顔を出していないし、どこへ行っているのかも聞いていない。
ミヤコがスマートフォンのメッセージアプリを開こうとした、ちょうどその時。
「……ただいま」
扉がガチャリと開き、見慣れた気だるげな声と共に、アクアが姿を現した。
挨拶もそこそこに、アクアはミヤコの元へ歩み寄ると、手に持っていたクリアファイルから数枚の書類を取り出して手渡した。
「次の仕事をとってきた」
「えっ、本当!? 私たちの!?」
ルビーがぱぁっと顔を輝かせて身を乗り出すが、アクアは淡々と首を振った。
「いや、俺のだ」
ぴしゃりと言い放ち、アクアはミヤコへ視線を戻す。
「事後承諾になって悪い。もう向こうのプロデューサーと話をつけてきた」
「ちょっと、アクア……」
全く悪びれる様子のないアクアに、ミヤコは呆れたように大きなため息をついた。
「マネジメントの権限というか、ある程度の判断はあなたに任せてるけど……大きな仕事を入れるなら、少しは事前に相談してほしいわね」
「なになにー? どんな仕事?」
ミヤコの苦言など意に介さず、ルビーとかなが興味津々で書類を覗き込んだ。
そこに挟まれていたのは、番組の企画書と、すでにサインが書き込まれた出演契約書の写しだった。
「『今からガチ恋始めます』……? これって」
「恋愛リアリティショーね」
企画書のタイトルを読み上げたルビーに、かなが即座に補足する。
「恋愛リアリティショーって……あなたねぇ」
ミヤコはさらに深く頭を抱えた。
若手の俳優やモデルを集めて疑似恋愛をさせる恋愛リアリティショー、通称『恋リア』。話題性はあるが、良くも悪くも出演者のプライベートや素のキャラクターが消費されるため、事務所としては慎重に扱いたい案件の一つだ。裏方志向で極力目立ちたがらないアクアが、よりにもよって自らそんな目立つ番組に出演を決めてくるとは思えなかった。
「……俺だって、好きでこんな番組に出るわけじゃない。ただ――」
言い訳がましく口を開きかけたアクアだったが、「いや」とすぐに言葉を飲み込んだ。
その不自然な間の取り方と、伏せられた視線。長く業界にいて、何よりアクアという人間の歪な性質を知っているミヤコは、すぐにピンときた。
(……ああ。これは純粋なオーディションじゃない。何かしらの『交換条件』として、無理やり出演を取り付けたのね)
ミヤコは書類の束をパラパラと捲り、一番後ろにある制作陣のクレジットに目を落とした。
「……プロデューサー、鏑木勝也」
その名前に、ミヤコは小さく息を吐き出した。
アクアたちが先日まで出演していた『今日あま』のプロデューサーであり、業界でも顔が広く、同時に少しきなくさい噂も絶えない男だ。アクアが彼に接触し、わざわざ自分の身を切り売りしてまで引き出したかった『何か』があるのだということは、容易に想像がついた。
「……ちなみに、その『理由』は聞いていいのかしら?」
ミヤコは書類から顔を上げ、静かにアクアの目を見据えた。
いつもなら、今後の仕事に繋げるための人脈作りだとか、ルビーを売り込むためのコネ作りだとか、もっともらしい理屈をすらすらと並べ立てるはずだ。
しかし、アクアは重い沈黙を落とした。
何かを言い淀むように視線を彷徨わせ、やがて、絞り出すように口を開く。
「……話せない」
それは、明らかな拒絶だった。
「話せないというより……ミヤコさんには、話したくない。可能であれば、裏取りのために鏑木さんに確認をとるようなこともしないで欲しい」
普段の計算高く立ち回るアクアからは想像もつかないほど、ひどく歯切れの悪い言葉。
ただのコネ作りや打算的な交換条件であれば、隠す必要などないはずだ。つまりこれは、アクア個人の……それも、誰にも触れられたくない深く暗い目的に直結しているのだと、ミヤコには痛いほど理解できた。
そして同時に、このひねくれた少年が「適当な嘘をついて誤魔化す」のではなく、あえて不器用に「話したくない」と口を閉ざしたこと。それが、彼なりに自分へ嘘をつきたくないという、精一杯の誠意であることも。
「…………」
ミヤコは小さく、けれど深い溜息を吐き出した。
育ての親として、深く追求して止めるべきなのかもしれない。けれど、彼の瞳の奥で燻る冷たい炎の色を見れば、何を言っても無駄であることは明らかだった。
「……分かったわ」
ミヤコはそれ以上追及することを諦め、手元の出演契約書をしっかりと自分のバインダーに挟み込んだ。
「それなら、一つ確認はしておくのだけれど」
ミヤコは気を取り直したように姿勢を正し、アクアへと問いかけた。
「アクアは、恋愛リアリティショーについて、実際どれくらい知っているの?」
「……?」
急な質問に、アクアは怪訝そうに眉を寄せた。
「他人の恋愛模様をサーカスにして楽しむ、出歯亀向けの悪趣味な番組だろ」
即座に返ってきたのは、身も蓋もない、あまりにも辛辣すぎる偏見だった。
「うわぁ……」
ルビーがドン引きしたように一歩後ずさる。
「お兄ちゃん、今それ『恋リア』好きな人が聞いたら、一発で炎上しそうなこと言ってるよ……」
「事実だろうが」
全く悪びれる様子のないアクアに、今度は横からかなが、やれやれと首を横に振った。
「はぁー、ダメダメねアクア。芸能界の最前線の情報もアップデートできてないなんて、これで私たちのマネージャーを名乗ろうって言うんだから、笑っちゃうわね」
腕を組み、得意げに先輩風を吹かせるかな。
「その様子じゃ、この手の番組に出演することが、演者にとって『結構危険』なリスクを孕んでることも、全然分かってないんでしょ?」
「危険……?」
アクアは怪訝そうに眉を寄せた。
「……まぁ、普段の素の様子がそのまま映像として流れるわけだからな。ちょっとした失言や態度の悪さが切り取られて、炎上するリスクは普通のドラマより高いだろうが」
「流石に、あんまりにもヤバい暴言とかは制作側でカットされるわよ」
かなが肩をすくめながら指摘する。
「でも、もしそれが『オンエアしても放送コード的には問題ないライン』で、かつ『番組的に面白くなりそう』だとディレクターが判断したら……その演者の印象が悪くなろうがなんだろうが、絶対に映像として残されて、美味しいところだけ使われるでしょうね。制作側が欲しいのは、リアルな人間ドラマという名の『エンタメ』なんだから」
「有馬さんの言う通りよ」
ミヤコが重々しい口調で言葉を継ぐ。
「現に、恋愛リアリティショーをきっかけにした誹謗中傷やネットリンチで、世界で何十人もの若者が自殺者を出しているわ」
「……何十人、か」
その生々しい数字を聞いて、アクアの瞳の奥が微かに冷たく光った。
「自殺に至ったのが何十人なら……表に出ていないだけで、実害レベルの重篤な
「えっ……」
ルビーが息を呑む。
アクアの脳裏に浮かんでいたのは、前世――雨宮吾郎として医師として働いていた頃に、医療安全管理の講習で耳にタコができるほど聞かされた『ハインリッヒの法則』だった。1件の重大事故の裏には、29件の軽微な事故が潜んでいるという経験則。
精神的なダメージという見えにくい問題に当てはめれば、表沙汰になる自殺者の背後には、数え切れないほどの若者たちが心を壊され、芸能界を去り、あるいは人生そのものを狂わされているはずだ。
「ね、ねぇアクア……今からでも、そんな危険な番組に出るの、やめない……?」
ルビーが不安げに身を乗り出し、アクアの袖をきゅっと掴んだ。
まさか『恋リア』への出演が、ただのテレビのバラエティではなく、命や心を削るリスクに直結しているとは夢にも思っていなかったのだ。ごくりと生唾を飲み込む音が、静かなレッスン場に響く。
「……まぁ、いい機会ではある」
しかし、アクアは動揺する妹を落ち着かせるように淡々とした声で返し、その手を軽く払った。
「こういう時にこそ、今まで俺がお前に学ばせていた理由が、一番分かりやすくなるわけだからな」
「えっと……?」
ルビーが首を傾げる。
その問いに答えたのは、横で腕を組んでいた有馬かなだった。
「このシスコン兄貴が、さんざんあんたに『演技』の練習をさせている理由よ」
「えっ、演技?」
アイドルである自分が、なぜ芝居の稽古ばかりさせられるのか。ルビー自身もずっと疑問に思っていたことだ。かなは一つため息をついて、先輩として説くように話を続ける。
「こういう、常にカメラの目があるリスクの高い場所ではね……素の自分を晒すんじゃなくて、『ある程度のキャラ付け』と、それを24時間自然にこなせるだけの『演技力』が絶対に必要になるのよ」
「……その通りだ」
アクアが静かに言葉を継ぐ。
「『演技』という名の鎧を着込んでいるか否かで、悪意を持った切り取りや炎上に対するダメージの受け止め方は、全然違ってくる。素の自分を否定されれば心は壊れるが、演じているキャラクターへの批判なら、ある程度は切り離して考えられるからな」
アクアは、かつて自分が追い求めた『完璧な嘘』をつき通したアイの姿を脳裏に思い描きながら、静かに、けれど強い確信を持って言い切った。
「嘘は、自分を守るための、最大の武器であり最後の手段でもあるんだ」
静かなレッスン室に響いた、アクアの冷たくも重い言葉。
その言葉の奥にあるもの――彼が誰の生き様を思い浮かべてそう言ったのかを、ルビーはなんとなく理解していた。
(……ママのことだ)
完璧な嘘で身を固め、どんな悪意や好奇の目も跳ね除けて、誰よりも眩しく輝き続けた絶対的なアイドル、星野アイ。
そして同時に、その言葉はルビー自身の、前世の記憶をも強く揺さぶった。
(私だって、そうだったじゃない)
『天童寺さりな』として病室のベッドの上が世界の全てだったころ。せめて優しくしてもらうために身に着けた処世術。それは『不遇な運命を受け入れる、病弱でかわいそうないい子』という、痛々しい演技(嘘)だった。
自分の心を守るために、本当の感情を押し殺してキャラクターを演じ続けることの切実さを、ルビーは痛いほど知っている。
「…………」
そんな、どこか重苦しく沈んでしまった空気を切り裂くように――。
「……ま、理屈はわかったわ。でもね、アクア」
ミヤコがパンッと軽く手を叩き、わざとらしく明るいトーンで口を開いた。
「自分を守るためにキャラを演じきるっていうのは立派だけど、こういう番組――若者向けのバラエティや恋リアでの『適切なキャラクター』なんて、裏方志向でひねくれ者のあなたには到底分からないでしょ?」
「……それは、まぁ適当に設定を決めて行くつもりだ」
図星を突かれ、アクアが僅かに言葉に詰まる。
確かに、アイのように天性の愛嬌があるわけでもなく、ルビーやかなのように表舞台でのキャラクター性を磨いてきたわけでもない。いざ「カメラの前でどう振る舞うか」と問われれば、明確な正解を持ち合わせていなかった。
「ちょうどいいわ」
ミヤコはふふっと口元を緩め、目を輝かせているルビーと、腕を組んでいるかなへと視線を向けた。
「有馬さんもいることだし。ねぇ二人とも、アクアが番組で大怪我しないように、どんなキャラ付けがいいか一緒に考えてやってくれない?」
「えっ」
ミヤコの提案に、困惑するアクアの声が響く。ルビーがパァッと顔を明るくした。
「何それ、面白そう!」
「へぇー……」
横にいたかなも、先ほどのシリアスな空気などどこへやら、ニヤリと悪魔のような笑みを浮かべてアクアにじりじりとすり寄る。
「私の天才的なプロデュース能力で、この陰気なシスコン男を恋リア向けのイケイケキャラに仕立て上げろってことね。色々と候補は浮かぶけど……さて、何をしてもらおっかなー?」
「……ミヤコさん」
完全に遊ぶ気満々のプレデター二匹の前に放り出され、アクアはジト目で育ての親を睨みつけた。
「事後報告で勝手なことをした罰よ」
ミヤコは呆れたように肩をすくめ、苦笑交じりに言う。
「色々反省しなさい。これでも本気で心配しているんだからね」
「…………」
その言葉の裏にある確かな温もりと叱責に、アクアはそれ以上反論できず、静かに視線を逸らした。
そんなアクアに対して、ミヤコはトドメとばかりに付け加える。
「それに、恋リアの撮影が始まれば、しばらく土日は彼女たちのマネージャー業務もできなくなるんでしょ? 現場に穴を開けるんだから、今のうちにうんとご機嫌取りをしておきなさい」
「……分かったよ」
やがて、アクアは観念したように小さく息を吐き、静かに頭を下げた。
「事後報告で勝手に決めて、迷惑かけてごめん」
「まったくもう」
ミヤコは少しだけおどけたように肩をすくめ、アクアの肩をポンと叩いた。
「保護者に迷惑ぐらい、いくらでもかけなさいな。あんたたちが赤ちゃんの頃から、散々面倒見てきたんだから」
「……保護者じゃなくて、親だろ」
アクアは淡々と、しかしごく自然にそう言い残すと、すでにキャッキャと「どんなキャラにしようか」と盛り上がっているルビーとかなの輪の中へと歩き出していった。
「えっ……」
ミヤコは、きょとんとしてその背中を見つめた。
今、あのひねくれたアクアの口から、なんの抵抗もなく自然に『親』という言葉が出た。その事実がじんわりと胸に広がり、どうしようもないほどの温かさがこみ上げてくる。
「……そうね」
ミヤコは誰にも聞こえない声でそっと呟き、嬉しそうに口元を緩めた。
――
「はい、じゃあアクアやってみて! 初めて共演者のみんなに挨拶するシーンね。スリー、ツー、ワン、キュー!」
ルビーが両手でカチンコを鳴らす真似をして、満面の笑みで指示を出した。
レッスン場の中央に立たされたアクアは、一つ深い深呼吸をすると、表情筋を完璧にコントロールして――普段の彼からは想像もつかないような、眩しいほどに爽やかで人懐っこい、いかにも『陽キャ』な笑みを全開にして見せた。
『いや〜、めっちゃ緊張するわ! みんなよろしくねっ!』
「「あっはっはっはっはっはっ!!!」」
その瞬間、ルビーとかなが腹を抱えて大爆笑を爆発させた。
「ちょっと! なんで普段からそんな暗い顔してるのに、いきなりそんな嘘くさいイケメンスマイル作れるのよー! 腹筋ちぎれるっ!!」
「む、むり! アクアキラキラしすぎて直視できない! 面白すぎるーっ!」
「……おい」
呼吸困難になりかけながら笑い転げるプレデター二匹を見下ろし、アクアは冷ややかな真顔に戻って低く突っ込んだ。
「お前らが『とりあえず明るい好青年キャラをやれ』って言ったんだろうが。真面目にやってる人間に向かって失礼だろう」
「だ、大丈夫? その番組、MEMちょって明るくて可愛いYouTuberも出るんでしょ? アクアがそんな嘘くさい陽キャやってたら、笑顔で冷笑されたりするんじゃないの?」
かなが目じりの涙を拭いながら、本気で心配しているのか面白がっているのか分からないトーンで尋ねる。
「あ、それいいね! 普段はキラキラ笑顔だけど、実は裏表の激しい『毒舌系腹黒王子様キャラ』! 意外と女性視聴者から刺さるかもしれないよ!」
「炎上しないキャラ付けを考えろって話はどこに行ったんだよ」
ノリノリで無責任なアイデアを提案するルビーに、アクアは冷めた声でツッコミを入れる。
「じゃあ……ちょっと変わったキャラ付けってことで、ルビーの話題も出せるし『重度のシスコンキャラ』ってのはどう?」
「だめだよ先輩。アクアは元から重めのシスコンだから、素が出ちゃって演技にならないよ」
「……あ、それもそうね」
「おい」
ルビーの至極冷静な指摘に、かなも「ポン」と手を打って納得してしまった。アクアの突っ込みは好き勝手話している二人には届かない。
「それじゃあ、あれだけアイドルの振り付けも完璧に覚えてたんだから、実は『ゴリゴリのアイドルオタク』っていうのはどう?」
先ほどのカラオケでの一幕を思い出したのか、かながニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて提案する。
「うーん……でも、それって恋リアで映えるかなぁ?」
ルビーが腕を組んで小首を傾げる。
「『実は休日は地下アイドルのライブに通ってチェキ撮ってます!』みたいな男の人、恋愛対象として見てもらえるのかな……」
「大丈夫よ。アクアはとにかく面(ツラ)がいいんだから、どんな痛い趣味でも大体『ギャップがあって可愛い』で許されるのよ。世の中そういう風にできてるんだから」
「……よくそんな、ルッキズムの権化みたいな台詞が息をするように出るな」
かなが身も蓋もない現実を、さも当然のように言い放ち、アクアは深々とため息をつきながら、半ば呆れたように突っ込んだ。
「『何かに一生懸命頑張ってる可愛い子が好き』っていう、会話のフックにはなるんじゃない?」
かなは少しだけ真面目な顔つきに戻り、プロの演者としての目線で分析を始めた。
「今回の出演者の中で、事前に性格とかの情報を一番集めやすいのはMEMちょと……あとは、あかねでしょ?」
劇団ララライのホープである黒川あかねは、アクアにとってもルビーの演技の恩師としてすでに面識がある相手だ。
そしてMEMちょに関しても、若者に絶大な人気を誇るYouTuberという時点で、血の滲むような努力や計算をしていない人間がその立ち位置に立てるわけがない、というかななりの推論だった。表向きはただの明るいインフルエンサーに見えても、その裏には確かな「頑張り」があるはずだ、と。
「……まぁ、そうだな」
アクアは少し顎に手を当てて、頭の中でシミュレーションを回す。
「『妹がアイドルをやってるから、アイドルが好き』という流れに持っていくなら……できなくもないか」
「じゃあ、それも踏まえて……かな先輩が『恋リアの出演者の女の子』だと思って、もう一回やってみて!」
ルビーがパンッと手を叩き、ディレクター気取りで指示を出す。
かなは「えー、私が?」と口を尖らせながらも、どこか楽しそうにコホンと咳払いをした。そして一瞬にして、ちょっと人見知りな等身大の女子高生キャラを作り上げて、上目遣いでアクアを見つめる。
「えっと……初めまして。私、女優をやってる有馬かなです。……星野くんは、休みの日は何してるの?」
その完璧に計算された「隙のある可愛い女の子」の演技に、ルビーが「おぉー!」と小さく歓声を上げる。
対するアクアは、再び深い深呼吸をし、先ほどの『毒舌シスコン』の空気を完全にシャットアウトした。
ふわりと柔らかな、けれどどこか少しだけ照れくさそうな――母性本能をくすぐるような、絶妙な『誠実な好青年』の表情(マスク)を被る。
『俺の休日の過ごし方? うーん……実は妹がアイドルやっててさ。心配だから、どうしてもその付き添いが多くなっちゃうんだよね』
アクアは少しだけ視線を逸らし、優しく、愛おしいものを思い浮かべるように微笑みながら言葉を紡ぐ。
『だからかな。目標に向かって一生懸命頑張ってる子を見ると、つい応援したくなっちゃうことが多いかな』
はにかむような笑顔と、甘く響く声のトーン。そして自分に言われたかのように思わせる台詞。
「…………ッ」
そのあまりにも破壊力の高いアクアの演技に、かなは顔をカアッと真っ赤にして固まってしまった。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! なによその声! なんでそんなにナチュラルに落としにくるような顔作れるのよ!!」
バンバンとアクアの肩を叩きながら、パニック気味に抗議するかな。
アクアはすぐに元の気だるげな死んだ魚の目に戻り、淡々と答える。
「お前らがアイドルオタクの要素を上手く落とし込めと言ったんだろう。俺なりに、恋リアの視聴者層に刺さりそうな最適解を出しただけだ」
「なんなの!? 本当にこの番組で女の子を落としに行くつもりなの!?」
「行くわけないだろ。仕事だぞ」
「そ、そうよね! 安心したわ!」
かなはこれ以上ないほど分かりやすくホッと胸をなでおろした。そして、自分が少し取り乱しすぎたことに気付いたのか、コホンとわざとらしく咳払いをしてプロの役者としての顔を取り繕う。
「……まぁ、本気で落としに行くならこのキャラがいいだろうけれど……これはダメね。被害者が出るわ」
「被害者ってなんだよ」
「言葉通りの意味よ。カメラの前であんな顔と声で甘いこと言われたら、勘違いしてガチ恋で本気になっちゃう共演者が出そうってこと」
かなは腕を組み、うんうんと頷きながら妙に真面目な顔で危険性を指摘する。
「アクア、面はいいからねぇ。あんな歯の浮くようなセリフも、演技との合わせ技でとんでもないことになっちゃうんだね」
「お前もその遺伝子を受け継いでいるんだがな、ルビー」
完全に他人事のように感心している妹へ、アクアはじとーっとした冷ややかな視線を向けた。
「うーん、もうちょっとこう、キラキラした感じが減ったほうがいいよね」
腕を組みながら、ルビーが的確なダメ出しを入れる。確かに先ほどのアイドルのような爽やかスマイルでは、いかにも『作られたキャラ』という感じが拭えず、隙がなさすぎる。
「そうよね……」
かなも顎に手を当てて考え込んでいたが、ふと何かを思い出したように顔を上げ、ポンと手を打った。
「そうだアクア、子供のころ私と共演したときのこと、覚えてる?」
「……? 覚えてはいるが」
突然過去の話を持ち出され、アクアは困惑して眉を寄せた。
「ならいいわ。あの映画の時にあんたがやった、『不気味な大人』みたいな感じにしてみれば?」
「は?」
「あの時は二歳児がやってたから違和感と気味の悪さがすごかったけれど……今のあんたの年齢と見た目でアレをやったら、ただの『少し背伸びした落ち着きのある大人』ぐらいになるじゃない?」
かつて天才子役だった自分のプライドをへし折った、あの底知れぬ冷酷さと老成した空気感。それを今の高校生であるアクアが適度にマイルドにして纏えば、ミステリアスで頼りがいのある、恋リアにおいて絶妙なポジションを確立できるはずだ、と。
「……無茶を言ってくれるな、有馬」
アクアは深くため息をついた。
なにしろ、十五年も前のことなのだ。
どういう理屈か前世の記憶は幼児特有の健忘症の範囲外であった。とはいえ、普通の人間にとって『十五年前の自分自身の日常的な立ち振る舞い』を正確に思い出し、再現することなど容易ではない。
医療の知識や経験、あるいは強い衝撃に基づくトラウマのような体験の記憶ならともかく、当時の何気ない『空気感』を引っ張り出せというのは、かなりの無茶振りである。
だが――。
(……大人の立ち振る舞い、か)
アクアは抗議するのをやめ、静かに目を閉じた。
思い出すのは、『雨宮吾郎』という人物のこと。
自分がかつて産婦人科医として、毎日の当直や外来業務の中で、どのような立ち振る舞いをしていたか。不安を抱える妊婦や、小言の多い看護師たちに対して、どんな声色と距離感で接していたか。
記憶の奥底にしまい込んでいた結び目を、ゆっくりと紐をほどくように、一つ一つの所作として形にしていく。
やがて、アクアが静かに目を開けたとき。
先ほどまでの高校生としての刺々しさや、作られたような爽やかさは綺麗に消え失せていた。
「…………」
ふっと、アクアの口元が緩む。
それは、どこか草臥れていながらも、包み込むような温かみと余裕を持った、本物の『大人』の柔らかな表情だった。
『二人とも、あんまり俺を玩具にするのはやめてくれよ』
苦笑交じりにこぼれ落ちたその声色は、気だるげで、それでいてひどく優しかった。
「……え?」
あまりにも自然な『大人の余裕』に当てられ、ルビーはぽかんと口を開けたまま完全に固まってしまった。
「そうそう、こんな感じだったのよね」
かなは指を鳴らし、どこか懐かしむように、それでいて呆れたように腕を組んだ。
「ほんっとうに腹立たしいくらい自然な演技だけど……あんたそれ、いったいどこで学んだのよ」
(……悪くないな)
目を丸くする二人をよそに、アクアは内心で静かな手応えを感じていた。
雨宮吾郎という人間と、星野アクアという人間。二つの魂は間違いなく地続きではあるが、精神的な視点を少しずらせば、ほぼ別物として切り離して扱うことができる。
例えば、普通の人間が幼少期の自分の恥ずかしい振る舞いを他人に馬鹿にされたとしよう。身悶えするほどの羞恥心は感じるだろうが、それでも「昔の自分のことだから」と心のどこかで切り離し、適当に流すことができるはずだ。
それと同じだ。もしこの『雨宮吾郎』という性格の人間がテレビの向こうでどれだけ批判され、炎上しようとも、現在の『星野アクア』の芯にまでそのダメージが直接届くことはない。
自分を守るための『鎧になる演技』としては、これ以上なく強固で、十分すぎる代物だと感じた。
『実は前世でアラサー男性だったんだ、って言ったら信じる?』
アクアは少しだけ茶化すような、飄々とした言い方で返した。
「なにそれ。恋リアのキャラ付けにSF設定まで追加するつもり?」
かなが呆れ返ったようにツッコミを入れる。
「まぁ、一応こんな感じで振舞うなら、24時間カメラが回っていても長時間はできそうだな」
アクアは軽く肩を回しながら、客観的な自己評価を下す。
無理に作った『陽キャ』の笑顔では、数時間で表情筋が痙攣していただろう。だが、この『草臥れた医者』のテンションであれば、ただ脱力していればいいだけなので精神的な消耗は少ない。
「でも、実際この感じはどうなんだ? 恋リアの……というか、同年代の学生たちの集まりには、絶望的に似合わない空気になりそうだけれど」
アクアの懸念はもっともだった。
若者たちがキャッキャと恋愛模様を繰り広げる番組において、一人だけ悟りを開いたような大人が混ざっていれば、浮くのは間違いない。
「そうね……」
かなも腕を組み、プロデューサー目線で少し考える素振りを見せた。
「確かに、ただの『落ち着いた大人』だと、冷めてるように見えてマイナスかもしれないわね。でも……『ちょっと苦労して早く大人びちゃった男の子』っていう文脈を持たせるなら、さっきの『妹の付き添いで色々と裏方の世話を焼いてる』って設定が上手く使えるわね」
すっかりキャパオーバーになってぼんやりと虚空を見つめているルビーから、かなはすっと主導権を奪う。
「じゃあ、それを踏まえて。もう一回ね」
自分で両手をカチンコに見立てて掲げ、アクアへと向けた。
「休日は何をしているの? 星野くん。――よーい、ハイ!」
パンッ、と乾いた音が鳴る。
アクアは再び『雨宮吾郎』のスイッチを入れ、静かに息を吐いた。
『休日の過ごし方……か。そうだな』
先ほどの『好青年』の甘さとは全く違う。
静かで、どこか達観していて、それでいて深い愛情を内包したような声色。
『うちの妹、ちょっと危なっかしいところがあってね。地下のスタジオで遅くまでレッスンしてたり、よくわからない営業みたいな仕事も一生懸命やってたりしてさ』
アクアは目を伏せ、遠くの何か――妹が泥臭く頑張っている姿を思い浮かべるように、しんみりと言葉を紡ぐ。
『……あいつが頑張ってるのを見てると、放っておけないっていうか。何かしてやれることはないかなって、つい世話を焼いちゃうんだよ。だから、休日はあいつの付き添いで潰れることも多いかな。……過保護だって笑われるかもしれないけどね』
自嘲するように、ふっと力を抜いて微笑む。
それは、「身内のために自分の時間を犠牲にしている」という苦労を少しも嫌がらず、むしろ愛おしく思っているの顔だった。
「カット!」
かなが力強く手を叩き、満面の笑みで頷いた。
「いいじゃない! シスコンっていうあんたの素の部分もうまくブレンドされてるから、さっきの胡散臭い好青年よりよっぽど自然で説得力があるわよ!」
「おい」
素の部分呼ばわりされたことに低く突っ込むアクアだったが、かなりの手応えは感じていた。
この『雨宮吾郎』のスタンスなら、変に自分を偽って疲弊することもなく、かつ不用意な失言で炎上するリスクも最小限に抑えられる。恋リアという特殊な環境でも、これなら十分にやり過ごせるはずだ。
(ともかく、これで俺の方の準備はなんとかなりそうだな)
一つ大きな懸念がクリアになり、アクアが小さく息をついた、その時だった。
「…………」
ふと、横にいるルビーがやけに静かであることに気が付いた。
いつもなら「お兄ちゃんキモーイ!」と茶化すか、「私も負けてられない!」と張り合ってくるはずの妹が、頬を薄っすらと赤く染めたまま、もじもじと身をよじらせている。
「どうしたんだ?」
アクアが不思議そうに声をかけると、ルビーは上目遣いでアクアを見上げ、甘えるような猫撫で声で言った。
「ねぇ、アクア……」
「ん?」
「褒めて。さっきみたいに」
「……えっ」
予想外すぎる要求に、アクアは完全に虚を突かれて素っ頓狂な声を出した。
「さっきみたいに、優しくて大人っぽい感じで! 私のこと褒めて!」
「な、なんでそんなことを……」
ドン引きして後ずさるアクアだったが、ルビーは目をキラキラさせて迫ってくる。その背後では、かなが「面白そうだからやりなさいよ」とばかりにニヤニヤと見守っていた。
逃げ場はないと悟り、アクアは深いため息を一つ。
再び『雨宮吾郎』のスイッチを入れ、静かに、けれどどこまでも優しい声色を作った。
『……ルビーちゃんは、いつも一生懸命レッスンを頑張っているからね。俺はいつだって、君のことを一番に応援しているよ』
「はわわわわわわわわ…………っ!!」
その瞬間、ルビーは両手で顔を覆い、生まれたての小鹿のようにブルブルと全身を震わせた。
「な、なんだルビー、気持ち悪いぞ……」
「ア、アクアっ……それ凄くイイ!! もう一回! もう一回言って!!」
ルビーは鼻息を荒くして、アクアの服の袖をグイグイと引っ張る。
前世で推しであった『ゴロー先生』の面影を無意識に感じ取っているのか、それとも単なるブラコンの極致なのか。完全にスイッチが入ってしまった妹の異様なテンションに、流石のアクアも冷や汗を流して顔を引きつらせた。
「あ、ああ……分かった」
困惑しきったアクアの生返事が、レッスン場に虚しく響くのだった。