ゴロー先生はアイアンチ 作:作者さん
それから数ヶ月。
吾郎は約束通り、主治医としてアイの妊娠生活を徹底的に管理・サポートする日々を送っていた。
「いっち、にっ、さんっ、しっ」
病院内にあるリハビリ用スペース。ゆったりとしたマタニティウェアに身を包んだアイが指導のもとで妊婦向けの軽いストレッチを行っている。
少しずつ膨らみを増してきたお腹を庇いながらも、その動きはアイドルのそれらしく、軽やかで体幹がブレない。
少し離れた壁際で腕組みをしながら、吾郎はその様子を静かに見守っていた。
(……経過自体は悪くない。双胎妊娠特有のトラブルも今のところ見られないし、母子ともに健康そのものだ。だが……)
吾郎の眉間には、深い皺が刻まれていた。
頭を悩ませているのは、いざ出産を迎える際の方法についてだ。
双子の出産となれば、当然ながら帝王切開になるリスクが跳ね上がる。
医療技術が進歩したとはいえ、腹部にメスを入れれば当然ながら傷跡が残る。一般の妊婦であっても悩ましい問題だが、彼女は『星野アイ』なのだ。
へそ出しの衣装も着るアイドルにとって、腹部に目立つ傷跡が残ることは、今後のアイドル活動におけるQOL(生活の質)の観点から言えば致命傷になりかねない。
(できることなら自然分娩が望ましいが……こればかりは、お腹の中で子供たちがどう成長し、どういう位置に収まるかによる。まだ結論を出すには早いか……)
いくら考えても不確定要素が多すぎる。無意識のうちに溜め息をこぼしていると、いつの間にかストレッチを終えたアイが、タオルで汗を拭いながら小走りで近づいてきた。
「おつかれー。……って、先生またしかめっ面してる。どうしたの、何か悩み事?」
「……走るな、危ない」
吾郎は顔をしかめたまま注意し、アイにスポーツドリンクのペットボトルを差し出した。
「悩み事、というよりは懸念事項だ。……壱護さんには後で正式に伝えるつもりだが、出産の時の話だよ」
「出産?」
「ああ。双子の場合、どうしても帝王切開になる可能性を視野に入れておかないといけない。特に、子供の頭の大きさや骨盤とのバランスによってはな」
吾郎は声をひそめ、真剣なトーンで続けた。
「もし帝王切開になれば、お腹に消えない傷が残る。今後のアイドル活動の衣装選びや、復帰後のパフォーマンスに支障が出るかもしれない。自然分娩でいけるようギリギリまで考えたいが……こればかりは、百パーセント大丈夫だとは言い切れないんだ」
母親としての安全を最優先すれば、帝王切開をためらうべきではない。だが、彼女の『アイドルとしての未来』を守ることもまた、吾郎が請け負った厄介な契約の一部なのだ。
どうあがいても板挟みになるその葛藤をぼやくようにこぼすと、アイはキョトンと目を丸くした。
そして次の瞬間。
「あははっ、なんだ、そんなこと!」
アイは朗らかに笑い飛ばし、自分のお腹をポンッと優しく叩いた。
「心配ないよー。だって、私の子供だもん。絶ーっ対に小顔に決まってる!」
「……あのなぁ?」
「アイドルとして完璧な私から生まれてくるんだから、きっとお顔もちっちゃくて、スタイル抜群の子たちに決まってるでしょ? だから頭が引っかかるなんてありえないよ!」
なんの医学的根拠もない、謎の自信に満ち溢れた笑顔。
あまりの能天気さに、吾郎はこめかみを押さえて特大の溜め息を吐き出した。
「……そうやって、君の思い通りにいかなかった時の最悪のケースを想定して対策を練るのが、俺たち医者の仕事なんでね」
「ふふっ、先生は心配性だねぇ」
皮肉たっぷりに返す吾郎に対し、アイはどこ吹く風とばかりに楽しげに笑っていた。
「いや、心配なのは君というより、君の腹の中にいる子供の方だ。万が一にもアイドルをクビにでもなった君が、子供たちをどうやって育てていくのか……なんて、想像もつかないからな」
「あ、それって」
アイはいたずらっぽく目を細めると、人差し指を吾郎の鼻先に向けて突きつけた。
「やっぱり『私のことは心配してない』とは言わないんだ?」
否定も断言もしない吾郎の絶妙な反応に、アイは満足そうににんまりと笑みを深める。
図星を突かれた形になった吾郎は、気まずそうにふいっと視線を逸らした。
「……患者の心配をするのは当然だ。医者だからな」
「出たー。ゴロー先生、そればっか」
心底あきれたような声を上げて、アイは肩をすくめてみせる。
そんな彼女の軽快なリアクションを横目で見ながら、吾郎はふっと遠い目をし、誰に聞かせるでもなくぽつりと呟いた。
「……まあ、子供なんてものは勝手に育つ。親という存在が絶対に必要かと問われれば、正直わからないけれどな」
「んー……?」
アイの表情から悪戯っぽい笑みがすっと消えた。
彼女特有の鋭い直感が、今の吾郎の言葉に一切の嘘や飾りがなく、本心からそう信じ切っていることを察知したのだ。純粋な疑問を浮かべ、アイは吾郎の顔を見上げる。
「どうしてそう言えるの?」
「……現に、俺はこうして育って――」
言いかけて、吾郎はハッと正気に戻り、固く口を閉ざした。
自分の愚かさに腹を立て、内心の動揺を隠すように黙り込んだ吾郎。
そんな彼に対し、アイは「?」と不思議そうに首をかしげると、言葉の続きを催促するように、至近距離からじっと吾郎の瞳を覗き込んできた。
(……一人で産もうとして出血多量に陥り、救急車が着いた頃には既に事切れていた自分の母親。そしてその母を孕ませた挙句に姿を消した、顔も知らない父親、か)
脳裏をよぎったのは、あまりにも凄惨で救いのない自身のルーツ。
しかし吾郎は、寸前のところでその言葉を飲み込んだ。今まさに命がけの出産に挑もうとしている、まだ16歳の少女。そんな彼女に向かって、出産に伴う最悪のトラウマを語って聞かせるなど、いくらなんでも無神経で浅はかすぎる。
吾郎は小さく自嘲の息を吐き、アイの真っ直ぐな視線を受け止めながら、あえてトーンを落として言葉を紡いだ。
「……色々とあってな。親がいなかったから、俺は祖父母に引き取られて育ったんだ」
「そっか」
「祖父との関係はまあ……色々と微妙で、決して円満とは言えなかった。それでもこうして真っ当に医者にはなれている。だから、親の存在が絶対だとは思わない」
当たり障りのない、綺麗に包装された身の上話。
アイはその言葉の裏に隠されたどす黒い真実に気づいているのかいないのか、それ以上深く追及することはなく、「ふーん」と静かに頷いた。
そして、ふと思いついたように小首を傾げる。
「ねえ、じゃあさ。ゴロー先生はどうして『妊婦さんのお医者さん』になったの?」
親の愛を知らず、子供が生まれるということに冷めた価値観を持っている男が、なぜよりによって新しい命の誕生に立ち会う産婦人科医を選んだのか。
アイの純粋な疑問に、吾郎は少しだけ視線を宙へと逃がした。
「周りがそれを期待したんだ。本当は漫画か何かの影響で外科医に憧れていた時期もあったんだよ」
ぽつりと、感情の読めない声で答える。
「外科の知識や技術自体は医者になる上で必須だから必ず学ぶものとはいえ、そのまま外科を専門の道にしたかった気持ちもあったな」
「へえ、外科医かぁ」
「あとは……そうだな」
吾郎は少しだけ目を細め、自嘲するように鼻で笑った。
「『母親』ってやつに、変な幻想でも抱いていたのかもな」
「幻想?」
「いわゆる、大阪の気の強いおばちゃんとか、あんな感じだ」
己の核心に触れるのを避けるため、吾郎はあからさまに適当な嘘を吐いてみせた。
「なにそれー」
アイは少しだけ口を尖らせた。その声色は、吾郎が意図的にはぐらかしたことを完全に見透かしている響きだった。
しかし彼女は、それ以上無理に踏み込もうとはしなかった。代わりに、自分のお腹の前で両手の拳をギュッと握り、自信満々に胸を張ってみせる。
「それなら、私は完璧で究極なお母さんになるから、ゴロー先生の幻想以上になりそうだね!」
キラキラと眩い星の瞳を輝かせ、とびきりのドヤ顔を向けてくるアイ。
アイドルとして、そして母親としての途方もないエゴイズム。その眩しすぎる大見得に対し、吾郎はやれやれと肩をすくめて冷たく言い放つ。
「多分路肩でたこ焼き焼いてるおばちゃんの方が、一〇〇億倍はいいお母さんなんだろうよ」
「あー! 今バカにしたでしょ!」
頬を膨らませて抗議するアイを宥めることもせず、吾郎はフッと息を吐いた。
「バカにもするさ。俺みたいにまともな親を知らない奴がいて、施設育ちの君がいる。そして今度は、世間に隠されて生きるしかない双子が生まれてくる。……見事なもんだ。まともな家族の愛し方を知らない連中ばかりで、バケツリレーでもしてるみたいじゃないか」
吾郎の自虐的な言葉に、アイは少しだけ目を丸くした。
「つくづく、血の繋がりとか生まれの環境を割り振る『神様』ってやつは、ろくでもない。底意地の悪い三流の脚本家だよ」
どこか遠くを見るような吾郎の横顔。そんな彼の腕を、アイはツンツンと指先で突いた。
「ねえ、ゴロー先生って神様とか信じるの?」
「……それは、それぐらいは。医者をやっていれば神頼みしたくなる時もある」
さも当然のように返す吾郎の顔を、アイは下からじっと覗き込んだ。
「ふーん。例えば?」
「例えば?」
「うん。先生が信じてる神様」
不意を突かれた深掘りに、吾郎は言葉に詰まった。目線を泳がせ、頭の中の乏しい知識の引き出しを必死にひっくり返す。
「例えば……ツクヨミとか、アマテラス? とか……まあ、その辺のやつだ」
ひどく歯切れの悪い、適当極まりない回答。
案の定、全然神様の名前なんて思い浮かんでいないその様子を見て、アイは堪えきれないようにくすくすと笑い出した。
「あははっ、なにそれ! 今必死に思い出したでしょ。全然信じてないじゃん!」
お腹を抱えて笑うアイに、吾郎は気まずそうに舌打ちをしてそっぽを向いた。
「……悪かったな、教養がなくて」
ふいっとそっぽを向いて不貞腐れる吾郎に、アイはひとしきり笑った後、目尻に浮かんだ涙を指先で拭った。
「ふふっ。でもさ、顔もよく知らないような適当な神様にお願いするくらいならさ」
アイはポンッと自分の胸に手を当て、どこまでも明るく、得意げな笑顔を浮かべた。
「私の考えた、もっともーっとすごい『最強の神様』が私たちを幸せにしてくれるって考えた方が、絶対によくない?」
「最強の神様ねぇ。……なんだそりゃ。宗教でも開く気か」
「違うよー。んーとね……どんな嘘でも全部本当にしてくれて、どんな意地悪な運命も全部ひっくり返して、絶対に私とこの子たちをハッピーエンドにしてくれる神様!」
両手を広げて力説するアイ。そのあまりにも都合の良い神様像に、吾郎は呆れたように息を吐いた。
「そりゃずいぶんとご都合主義で、欲張りな神様だな」
「でしょ? でも、そういう神様がついてるって信じた方が、ずっと楽しくない?」
アイは夜空の星を掴むように、小さく手を伸ばした。
「神様がろくでもなくて意地悪なら、わざわざその台本通りに不幸になってあげる必要なんてないんだよ。私が思い描いた『最強の神様』の言う通りに、全部私が幸せに書き換えちゃうんだから」
それは、神頼みというよりも、彼女自身の強烈な意志の宣言だった。
アイドルの『嘘』で世界を塗り替えようとする、星野アイという少女の途方もないエゴイズム。
(……そんな都合のいい神様がいたのなら、あの子にはもっといい結末があったはずだろう)
眩しすぎるアイの笑顔を見つめながら、吾郎の胸の内に沈んだのは、かつて担当していた一人の少女――天童寺さりなの姿だった。
難病に冒され、自由を奪われ、それでも最後までアイの輝きに憧れ続けていた少女。
死の間際、本来ならば一番側にいるべき家族すら彼女を看取ることはなく、ただ孤独な病室のベッドの上で。
『せんせと話せてたのしかったよ』
たったそれだけの言葉を残して、あっけなく消えてしまったあの子の命。
そんな残酷で理不尽な現実をこの目で見届けてきた吾郎からすれば、アイの語る『最強の神様』などという存在には、到底同意することはできなかった。
だが、その冷え切った重たい内心を、これから命がけの出産に挑もうとする十六歳の少女にぶつけるほど、吾郎も野暮ではない。
「……そいつは頼もしいな」
吾郎は小さく息を吐き、アイの言葉を否定も肯定もせず、ただ一つだけ言葉を返した。
「それなら、せめて君自身は、ちゃんと子供たちのことを見ててやれよ」
「んー、当たり前じゃん!」
アイは屈託のない笑顔で元気よく頷き、再びストレッチの姿勢へと戻っていった。
***
それからの日々も、吾郎は主治医としてアイの妊娠生活に付き添い続けた。
体重管理、定期健診、適度な運動。時に文句を垂れる彼女を宥めすかしながら、出産というゴールに向けて着実に歩みを進めていく。
その穏やかな日常のやり取りの中で、吾郎には一つの自覚があった。
自分は、彼女の言葉の節々から、わざと揚げ足を取ってしまっているのだという自覚だ。
星野アイという少女は、確かに人を惹きつける。彼女が放つ圧倒的な熱量と、嘘すらも真実に変えてしまおうとするエネルギー。アイドルとして彼女に魅せられる人間が数多くいることは、吾郎にも痛いほど理解できた。
だがその反面、自分は彼女のことを冷静というより、ひどく冷ややかな目線で見てしまっている。
『自分と子供たちを絶対にハッピーエンドにする』。
彼女はそう無邪気に言い放ったが、現実問題として、アイドルである彼女とその子供たちが幸せに生きられるかという点は、困難なことばかりだ。いや、困難という言葉で片付けることすら甘い。
どこかで吾郎は「そうなるはずがない」と最初から決めつけてしまっていた。
(俺は、『この子供たちは不幸になる』と決めつけている)
そんな呪いのような思考を抱いている自分自身を、吾郎はもう一人の自分を観察しているかのように冷徹に見つめ、這い上がろうとするどす黒い感情をぐっと押しつぶす。
なぜ、新しい命の誕生に対してそこまで悲観的になってしまうのか。
その根拠は明確だった。親を知らずに育った自分。そして、死の間際まで親に顧みられることのなかったさりな。
それらの事実が、吾郎の奥底にどうしようもなく根付いている。要するに彼は、『親』という存在そのものに、微塵も期待をしていないのだ。
理想だけで子供が育つわけがない。親の身勝手なエゴで生み出された命が、都合よく幸福になれるはずがない。
それが、自身の生い立ちと過去のトラウマに囚われた、酷く自分勝手で偏った思い込みであることは十分にわかっている。彼女の語る夢や希望を、自分の翳ったフィルターを通して否定しているだけの、醜い感情だということも。
だからこそ、吾郎はそのどす黒い内心を決して表に出すようなことはしなかった。
ただ、白衣を着た口うるさい、けれど頼りになる『ゴロー先生』として。皮肉を言いながらも彼女の身を案じる医者としての役割だけを、淡々とこなし続けていた。
そして――出産予定日。
頭部を強打した衝撃と、傷口から絶え間なく溢れ出る熱い血の感覚。それらすべてが、まるで他人事のように遠のいていく。
視界の端からじわじわと色が失われ、夜空の星々も滲んで輪郭を失っていく。世界が、冷たく重い暗闇によって足元から浸食されていくのを感じていた。
(……なんなんだよ……これ……)
もうろうとする意識の中で、脈絡のない思考が千切れては駆け巡る。
病院で極秘の妊婦生活を支え続けてきた、あの日々の結末。
『何かあったら絶対に駆けつける』
主治医として、そしてあの屋上で交わした奇妙な契約の相手として、固く約束したはずだった。それなのに今、人知れずこんな崖下で横たわっている。
体を起こすどころか、指先一つすら動かすことができない。呼吸をするたび、胸の奥で肺が凍りつくような冷たさが広がる。約束を果たせるわけがないことだけは理解できる。
(……神様ってやつは……つくづく、とことんクソみたいな連中だな……)
腹の底から湧き上がるのは、運命という名の理不尽に対する激しい憤りと罵倒だった。どんな嘘でも本当にしてやる、なんて無邪気に笑っていたあいつの言葉が脳裏をよぎる。
そんな都合のいい神様がどこにいる。運命だの試練だの、そんな綺麗事の皮を被った底意地の悪い悪意が、この世の現実じゃないか。最悪のタイミングで背中を押し、笑いながら見捨てていく。神様なんてものは、ろくでもない悪趣味な脚本家に過ぎない。
徐々に薄れていく意識の中で、強烈な恐怖が胸を突き刺した。
(……辛いな……)
こんな風に、誰にも知られず、たった一人で命が消えていくことが。
凍てつく闇の中に置き去りにされ、温もりもなく、誰の呼吸も聞こえない場所で途絶えていくことが。一人で死ぬということが、これほどまでに寂しく、恐ろしく、耐えがたいものだなんて知りもしなかった。
けれど――
凄惨な孤独に苛まれる思考の渦の奥底で、ふと、記憶の中の小さな影が揺らめいた。
白くて冷たい病室のベッド。細い手足を丸め、病魔と戦っていた一人の少女。
最後の日。冷たくなっていくあの子の小さな手を握り締め、必死に名前を呼び続けたあの数刻。
(……あぁ、そうか……)
溢れ出そうになる涙すら凍りつくような暗闇の中で、胸の奥にすっと、穏やかで温かい安堵が広がっていく。
自分が今噛み締めている、この身を切るような一人きりの恐怖。この死の凄惨な孤独を知ったからこそ、あの小さく儚いあの子を、たった一人で暗闇の中へ逝かせずに済んだのだと。
最期にその手を取り言葉を交わし、傍にいてやることができたのだと。
医者としても人間としても出来損ないだった自分だが、あの瞬間だけは、あの子の側にいてやれて……心から、よかった。
アイ……。
お腹の子供たち……。
さりな……。
悔恨、罵倒、安堵、そして未練。
あらゆる感情と記憶が混ざり合い、繋ぎ目を失ってバラバラに散乱していく。
「せんせ……」と叫ぶあの子の声と、「欲張りなんだ」と笑うあいつの笑顔が交錯し、やがて意味を持たない光の残像となって消えていく。
静寂が、すべてを覆い尽くす。
産婦人科医・雨宮吾郎の思考は完全に途切れ、二度と目覚めることのない、深く永い暗闇の底へと落ちていった。
***
深い闇の果て。すべての意識が溶けて消えたはずだった。
――そして、続きがあるなんてことをだれが考えるだろうか。
死ねばすべてが終わる。無になり、永遠の静寂が得られるのだと漠然と信じていた。
それなのにふたたび開いた視界に広がっていたのは、見慣れない部屋の天井と、己の視界に入り込む小さく丸っこい自分の手足――赤ん坊としての身体だった。
星野愛久愛海。アクアマリン、アクア。
それがいまの自分に与えられた名前だ。受け入れがたいがそれが今の名前だった。
「きゃ―――っやば―――っ!! ママかわいすぎ―――!」
隣でギャーギャーと騒がしい心の中の叫び(と、赤ちゃん特有の言葉にならない奇声)を上げているのは、双子の妹であるルビーだ。
おむつを替えたばかりの尻をフリフリと揺らし、おぼつかない体幹で必死にテレビ画面に向かって手を伸ばしながら、一人で大興奮して転げ回っている。
テレビの画面の中では、復帰を果たした星野アイ――自分たちの『母親』が、産後とは思えぬ圧倒的なパフォーマンスと完璧な笑顔で歌い踊っていた。
(……本当、信じられないな)
アクアは、お腹を叩いて歓喜の悶絶をしている妹の姿を、冷めきった視線でぼんやりと眺めた。
前世の記憶を持ち合わせたまま、あの星野アイの子供として生まれ変わったという現実。
親というものに期待できず、血の繋がりや家族の幸せなどというものに冷ややかな目線を向けてしまう雨宮吾郎としての冷徹な感情は、赤ん坊になった今でも胸の奥に深く根を張っている。
現実は甘くない。アイドルが世間に隠れて双子を育てながら頂点を目指すなど、どこをどう切り取っても破綻と不幸の予感しかしない綱渡りだ。どこかで破綻すると解かりきっている未来を、自分はまた冷めた特等席で見つめることになるのだろう。
「視聴者全員、億支払うべき!!」と言わんばかりにテレビへ拝み倒している妹の呆れた熱量。
そして、画面の向こうで途方のないエゴと『嘘』を武器に、世界をハッピーエンドへ書き換えようと輝く母親。
(このアホは、新しい人生における僕の妹……)
前世で抱えた冷めた思考も、諦念も、どす黒いトラウマも消え去ってはくれない。
それでも、自分はもう一度「星野アクア」として生を受けてしまったのだ。
上手くいくはずがないと決めつけながらも、この歪でどこか眩しい『二度目の人生』の幕は、嫌応なしに上がっていくのだった。