ゴロー先生はアイアンチ 作:作者さん
前世の記憶と大人の自我を持っていようと、赤ん坊の肉体というものは極めて機械的かつ本能的にできている。
胃袋が空になれば、理性の制御などお構いなしに身体中からけたたましい警告信号が発せられる。勝手に目尻には熱い涙が滲み、喉の奥がヒュック、ヒュックと情けなく震え始めるのだ。
「あー、アクアお腹空いちゃった? よーしよし、ご飯にしようねー」
察したアイが、着ている服の胸元を無造作に緩め、アクアの小さな身体をふわりと抱き寄せた。そして、そのまま直接おっぱいを口元へ押し当ててくる。
大人の男の意識があるのだから、さぞかし猛烈な葛藤や背徳感があるかと思いきや――アクアの内心は、恐ろしいほどに凪いでいた。
なにせ彼は元・医者である。職業柄、人体などというものは単なる骨と肉、臓器と組織の集まりとして見慣れている。
それに加えて、今の自分は赤ん坊なのだ。『生きること』、つまり着実に栄養を摂取して体を大きくすることこそが、彼に課せられた唯一の『仕事』である。頭の中にちらつくのは、カロリー計算や免疫抗体の獲得といった極めて冷静な医学的見地のみだった。
(……よし、成長に十分な栄養素は確保できたな。……後々を考えたらもう少しとるべきか?)
一切の邪念を持たず、ただ己の業務を遂行するかのように平然と母乳を飲み干し、ふうと満足げな吐息を漏らす。
だがその時、ふと隣のベビーベッドに目を向けると、凄まじい視線とぶつかった。
ルビーだ。彼女は、まるでこの世の最も汚らわしい汚物、あるいは這い回るウジ虫でも見るかのような、酷く冷たく、ドン引きしきった目をこちらに向けていた。
「あら、ルビーも飲むー?」
アイが優しく声をかけた瞬間、ルビーの顔から汚物を見る目が一瞬で霧散した。彼女は「あうー!」と愛らしい声を上げながら、ぶんぶんと千切れんばかりに首を縦に振ってアイに手を伸ばす。
やがて二人分の授乳が終わり、アイは手際よく服を整えた。
姿鏡の前でアイドルとしての完璧な表情を作り、帽子を深く被り直す。
「よしっ! じゃあママ、お仕事の時間だから行ってくるね! ミヤコの言うこと聞いて、二人とも良い子にしてるんだよー!」
パタパタと忙しない足音を残し、アイは嵐のように部屋を出て行った。
ガチャリ、と重いドアが閉まり、部屋の中に静寂が降りてくる。
大人の気配が完全に消え去ったことを確認すると、隣のベビーベッドから、赤ん坊特有の少し舌足らずな声が響いた。当然だが、外では決して喋らない二人だけの秘密の通信だ。
「ねえ……アクアって、元々男だったんだよね?」
「ああ」
アクアは仰向けのまま、天井のメリーを見つめて短く答えた。特に気にする様子もない。
「……うわー、キモ。良い歳した男が授乳とかされたいんだ……」
底知れない軽蔑を込めた、辛辣極まりないルビーの声。
アクアは冷めた視線だけを妹に向け、至極平然としたトーンで言い返す。
「腹が減ったらそうなるだろ。色々あって人体構造なんて見慣れてるし、栄養補給は生きるための仕事だ。アレをそういう性的な目や邪な目で見る方が無理がある」
すると、ルビーはガタッと小さな身を起こし、ベッドの柵越しに信じられないものを見るような顔をした。
「は? ママの完璧なおっぱいを直に見ておいて、その反応とか脳みそあるの!?」
怒るポイントが完全におかしい。
男としての欲望を向けたことに引いていたのかと思いきや、この妹は『推しであるアイの神聖な身体に対し、一人のファンとしての熱狂や興奮が足りない』ことにマジギレしているらしいのだ。
「……どうしてほしいんだよ」
あまりにも理不尽で狂った熱量の言い分に、アクアは心底呆れ果て、深く長いため息を吐く。
「だいたい、健康面で見ればアイはもう少し太るべきだろ。俺はアレ自体に全く興味がない」
「信じらんない! ママの神聖なプロポーションに文句つけるなんて!!」
極めて事務的な事実として言外にそう伝えたつもりだったが、ルビーは毛を逆立てた猫のようにフンガーと鼻息を荒くして憤慨し始めた。
***
そもそも、この双子が互いに「前世の記憶を持った大人(あるいは熱狂的なファン)」であると気づいたのは、何か感動的なカミングアウトや劇的な出来事があったわけではない。
ある日の深夜のことだ。
ふと目を覚ましたアクアは、暗闇の中でスマホのブルーライトに顔を照らされた不気味な赤ん坊――ルビーが、凄まじい速度のフリック入力で、ツイッター上のアイのアンチと猛烈なリプ合戦を繰り広げている現場を目撃してしまったのだ。
『……お前、何やってるんだ』
『うわっ、赤ちゃんが話してるキモイ!』
『お前もそうだろ』
素で心底嫌そうな声を上げたルビーに、アクアが至極冷静にツッコミを入れたことで、あっけなく互いが同類であることが発覚したのだった。
『ちょっと貸してみろ』
アクアはベビーベッドから身を乗り出し、ルビーが握りしめていたスマホの画面を覗き込んだ。
そこには、捨て垢と思しきアンチとルビー(当然裏垢)による、地獄のような泥試合の痕跡が残されていた。
『……まぁ、言ってることは一部合ってるか』
画面をスクロールして呟いたアクアの言葉に、ルビーは我が意を得たりとばかりに深く頷いた。
『そうでしょ! ママの才能も美も理解してない動物園の猿に、文明の利器は早すぎるんだから!』
『いや、相手の言い分』
『……は?』
アクアの平静な訂正に、ルビーは素っ頓狂な声を上げた。
画面に表示されていたアンチの書き込みはこうだ。
”星野アイなんて笑顔作ってるだけの嘘つきじゃん。裏では信者のオタクのことキモいって言って、絶対見下して笑ってるわ。あんなのの何がいいの?”
(……アイの笑顔が作り物の嘘っぱち、か)
アクアは内心で冷静に分析する。
『嘘はとびきりの愛』だと公言して憚らず、アイドルという虚像を演じ切ろうとしているアイの本質を考えれば、その点(約5パーセント)だけは確かに的を射ている。だが、残りの95パーセントはアンチ自身のコンプレックスが煮詰まっただけの、ただの貧困な妄想だ。
『はぁー? あんたもこんな原始人のなりそこないみたいな意見が正しいって言うの!』
『……ヘッタクソなアンチだな。妄想ばっかりで支離滅裂だ』
噛み付いてくるルビーを無視し、アクアは画面を見つめながら酷評した。
『アンチをやるなら、せめて半分ぐらい正しい事実を突いて、そこを膨らませて批判すればいいのに。ただの妄想の悪口じゃ痛くも痒くもないだろ』
元・アイの熱心なアンチとしての、謎のプロ目線からのダメ出しである。事実に基づかない批判など論破されて終わりだ、という彼なりの冷めた感想だった。
しかし、そんな理屈が熱狂的な信者であるルビーに通じるはずもない。
『……あんた、敵ね』
推しへの批判を(たとえ5パーセントでも)肯定し、あろうことかアンチへの的確なアドバイスまで口にしたアクアに対し、ルビーは親の仇でも見るかのような目で、思いっきり敵視の牙を剥いたのだった。
(……そんなこともあったな)
アクアはかつての出来事をぼんやりと思い出しながら、小さく息を吐いた。
あの一件以来、ルビーからは完全に『ママのアンチ』あるいは『敵』として認定され、常に厳しい視線を向けられるようになってしまった。だが、アクア自身は妹からの理不尽な敵意に対して、特にどうとも思っていなかった。怒りもなければ、呆れ以上の感情もない。
それどころか、ベビーベッドの柵に必死に掴まりながら、テレビに映るアイを熱心に応援しているルビーの小さな背中を見ていると――かつて無機質な病室で一緒に過ごしていた、あの少女の姿がどうしても重なって見えてしまうのだ。
不治の病に侵されながらも、アイの輝きに夢中になり、無邪気に目を輝かせていたさりな。
あの子と同じような狂気的な熱量で画面に釘付けになっているルビーに対し、冷めた言葉で水を差したり、その熱狂を止めたりするのはどうにも悪い気がしてしまう。あんな残酷な最期を遂げた少女を知っているからこそ、今目の前にある無邪気な熱意を否定する気にはなれなかった。
だからアクアは、画面の向こうで歌い踊るアイのアイドル活動そのものよりも、それを夢中で応援している妹の姿の方を、どこか気にかけて見守ってしまうのだった。
しかしかつての習性というものは、そう簡単には抜けないらしい。
前もそうだった。
熱心にテレビに向かってペンライト代わりのガラガラを振るルビーの横で、アクアはふと、プロのアンチ――もとい、かつての冷徹な視点から、アイのパフォーマンスに対する辛辣な指摘をこぼしてしまう。
『前のライブだってターンの後のステップ、半拍遅れてるな。衣装の重さに体幹が振られてる。笑顔で完璧に誤魔化してるが、連戦の疲労で露骨に足が上がってないぞ』
アイドルの輝きに冷や水を浴びせるような、いけすかないアンチの小言。だが、元・医者としての観察眼に基づくその指摘は、悔しいほどに見事に的を射ていた。
『ぐ、ぬぬぬ……っ』
猛烈に反論してやろうと口を開きかけたルビーだったが、実際に画面の中で踊るアイの足元がほんの僅かにもたついたのを確認してしまい、悔しそうに唸り声を上げるしかなかった。
事実に基づいた的確すぎる指摘には、どれだけ狂信的なファンであっても、言葉を詰まらせてしまうのだ。
『な、生意気に……っ。そんな歳から冷笑系気取るの!? 素直にママの尊さを享受できないなんて、ほんっと可哀想な人生!』
負け惜しみのように涙目で睨みつけ、精一杯の言葉で煽ってくる妹に対し、アクアは「やれやれ」と言わんばかりに小さな肩をすくめてみせた。
そんな風に、余計な一言を言ってしまう。今回の授乳の件でもそうだ。
(……また、やってしまったな)
見事に言い返せず、恨めしそうにこちらを睨みつけてくるルビーを見ながら、アクアは内心で小さくため息を吐いた。
別に、妹をいじめて優越感に浸りたいわけではないのだ。ただ、前世から続く「アイ」という存在に対する異常なまでの執着が、良くも悪くも二人の感情のストッパーを狂わせている。
お互いに、アイが絡むとどうしても感情のタガが外れてしまい、大人気ない言い合いへと発展してしまうのだった。
「……あー、もう! おむつ交換したいから、こっちみないで!」
不意に、ルビーが悔し紛れにそう言い放った。
どうやら、白熱した言い合いの最中に、赤ん坊特有のどうしようもない生理現象が限界を迎えていたらしい。
「はいはい」
中身が大人同士とはいえ、同じ赤ん坊の姿で羞恥心をアピールされるのも妙な気分だったが、アクアは素直に短い手足をもぞもぞと動かし、ルビーに背を向けるようにコロンと寝返りを打った。
自分が見ていないことを確認するや否や、ルビーは先ほどまでの達者な口ぶりを完全に引っ込め、思い切り肺に空気を吸い込んだ。
「おんぎゃあー! おんぎゃあーっ!」
鼓膜をつんざくような、本能に訴えかける大号泣。大人が聞けば慌てて飛んでくるよう見事に計算された「赤ん坊の泣き声」だ。
ほどなくして、「のそぉ……」という重苦しい足音とともに、バタンと部屋のドアが開いた。
アクアが背中越しにちらりと視線を向けると、そこには育児本を片手に、この世のすべての生気を吸い取られたような死んだ目をしている所属事務所の社長夫人――ミヤコの姿があった。
「あーもう、なんで私がこんなこと……っ」
ズッシリと重くなったルビーのおむつを乱暴に、しかしどこか手慣れた手つきで替えながら、ミヤコは呪詛のようにぶつくさと文句を垂れ流し始めた。
「父親不明、十六歳のアイドルの隠し子育児なんて、誰がやりたいのよ……っ」
処理し終えたおむつをゴミ箱へと乱暴に放り込み、バンッと荒々しく蓋を閉める。積もり積もった日々のストレスが限界を突破したのか、彼女は血走った目でわなわなと肩を震わせ、悲痛な声を荒らげた。
「私はねえ、若くて綺麗なイケメンタレントと遊びたくて、わざわざ一回りも年上の壱護と結婚して社長夫人になったの! なのになんで、毎日毎日他人の赤ん坊のうんちの処理をして、ベビーシッターなんかやらされてるわけ!?」
目の下に濃いクマを作りながら、ギリギリと歯ぎしりをして天を仰ぐミヤコ。
その悲痛極まりない叫びを聞きながら、アクアはベビーベッドの端でコロンと寝転がったまま、至極冷静に分析していた。
(……まぁ、彼女の言っていることは、どう考えても妥当だ)
どう言い繕っても、ミヤコは完全な巻き添えである。
社長の妻というだけで、事務所の絶対の秘密を共有させられ、昼夜問わず双子の赤ん坊の世話を押し付けられているのだ。前世の価値観と大人の理性を持つアクアからすれば、憤るミヤコに対する反感など欠片もなく、むしろ彼女の不遇な現状に深々と同情してしまうほどだった。
「あー、やってらんない! そもそもこんな爆弾、いつまでも隠し通せるわけないじゃない……」
ひとしきり叫び終えたミヤコは、ドサッとその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
そして、疲労で虚ろだった彼女の目に、ふと、どす黒くギラギラとした光が宿る。
「……そうだわ。この特大スクープを、週刊誌の『文●』とかに売り飛ばせば……」
ブツブツと、まるで何かに憑かれたように呟き始めるミヤコ。
「今ノリにノッてる美少女アイドル『星野アイ』の未婚の母スキャンダル……! 絶対に高く売れるわ。そうよ、その大金で事務所も壱護も捨てて、若くてイケメンのツバメを飼って優雅に暮らせば……!」
育児ノイローゼと蓄積した不満が限界を突破した結果、完全にやけくそになり、社会人として越えてはいけない一線を思い描いてしまうミヤコの姿がそこにあった。
「うわっ、どうしようアクア! あの女、マジで週刊誌に売り飛ばす気だよ!」
ミヤコが血走った目でぶつぶつと裏切りの算段を呟いているのを聞きつけ、ルビーはベビーベッドの柵を小さな手でガタガタと揺らしながら、真っ青な顔でアクアを振り返った。赤ん坊の短い手足を必死にばたつかせ、全身で焦燥感を訴えかけてくる。
しかし、当のアクアは仰向けのまま、頭上のメリーを無感動に見つめていた。
「……まぁ、丁度良かったんじゃないか?」
「はぁっ!? 何が丁度良いのよ!?」
「こんな綱渡りの生活、どうせいつまでも隠し通せるわけがない。いずれ取り返しのつかない形でバレるくらいなら、傷口が浅いうちに爆弾を爆発させて、さっさと処理したと思えばいい」
アクアは首だけを動かして妹に視線を向け、淡々とした口調で説明を始めた。
「事実、ここでミヤコに秘密を暴露されたとしよう。特大スキャンダルになって世間を騒がせ、壱護やアイは猛烈なバッシングを受けて、一度は路頭に迷うかもしれない。だがな――冷静に見れば『それだけ』の話だ」
「それ、だけ……?」
「ああ。16歳ってのはほとぼりが冷めれば何らかの形で再起できる。壱護だってただで転ぶような男じゃない。そして、最大の足枷である俺たち双子は、どこかの孤児院にでも預けられればいい」
信じられないものを見るような顔をするルビーをよそに、アクアの理路整然とした分析は止まらない。
「そうすればアイは身軽になれるし、俺たちも最低限の衣食住は保証される。全員が重荷を下ろして、それぞれがそれなりの人生をもう一度やり直すことができるんだ。リスク管理という観点から言えば、むしろ今ここで破綻しておいた方がいいだろうさ」
極めて冷静に、利害損得だけで導き出された未来の予測だった。
「……っ、そんなの……っ」
だがそれを突きつけられたルビーの大きな瞳に、みるみると大粒の涙が込み上げてきた。
「そんなの、絶対に嫌だ……っ!」
「ルビー……」
「再起とか、孤児院とか、そんなのどうでもいい! スキャンダルになっちゃったら……ママがアイドルを辞めさせられたら、私たち、ママと離れ離れになっちゃうんだよ……!?」
効率や合理性といった言葉は、彼女の辞書には存在しない。
ルビーにとってアイは、前世の冷たい病室で唯一の希望だった絶対的な『推し』であり、今生でようやく手に入れた温かい『家族』なのだ。その光と引き離され、二度と会えなくなるかもしれない未来。それはルビーにとって、自分の命が終わるよりも恐ろしく、耐えがたい絶望だった。
しゃくりあげ、ぽろぽろと涙をこぼして縋り付いてくる妹の姿に、アクアは言葉を詰まらせる。
自分の導き出した理路整然とした正解が、この泣き虫な妹の心をどれほど無惨に切り捨てるものだったのかを悟り、アクアは微かに眉をひそめて押し黙るしかなかった。
「……分かった」
ルビーの悲痛な声を受け、アクアは短く一言だけ呟いた。
そして、おもむろに身を翻すと、戸棚からアイの母子手帳を引っ張り出し、週刊誌へ売るための証拠写真を撮ろうとスマホを構え始めたミヤコに向かって、素早くハイハイで進んでいく。
(……産婦人科医としての知識に基づけばいい。この月齢の乳児が見せる『賢さ』の基準値。それを俺は知っている)
アクアの脳内で、極めて冷徹な計算が始まる。
幼児がどのような行動を取り、どのような反応を示すのか。その発達段階における身体能力と心理的アプローチの限界点。
そこへさらに、先ほどルビーに見せた『プロのアンチ』としての厳しい視線を、今度は自分自身に向けるのだ。大人の自我が透けて見えるような、わざとらしく不自然な『計算された可愛さ』や『あざとさ』を、何をしてはいけないかという減点方式で徹底的に削ぎ落としていく。
すべての不純物を排除し、ただひたすらに完璧な『赤ん坊』として振る舞うための最適解を算出する。
(ただの赤ん坊になればいい)
その瞬間――アクアの片目に、底知れない光を放つ『白い星』が宿った。
「みゃーこ」
舌足らずな、覚えたての単語を無邪気に発する赤ん坊そのものの声色で、アクアは足元から声をかけた。
「……なによ」
スマホを構えたまま見下ろしてくるミヤコの目は、ひどく冷たかった。ギリ、と奥歯を噛みしめ、恨めしそうにアクアを睨みつける。
そもそも、自分がこんな惨めな思いをしてノイローゼ寸前になっているのも、元を辿ればこの得体の知れない赤ん坊たちに四六時中振り回されているせいじゃないか。そう言いたげな、どす黒い感情の籠もった視線だった。
しかし、アクアはそんな敵意など全く気づかないふりをして、「みゃーこ」と、今度は花が咲いたような屈託のない笑顔を向けてみせた。
「……っ」
純度百パーセントの、邪気のない赤ん坊の笑顔。
それを真っ向から浴びせられ、ミヤコの中から徐々に張り詰めていた毒気が抜けていく。
……この子たち自身に罪があるわけではないのだ。おむつを替えてほしいのか、それともお腹が空いているのか。そう思い直したミヤコが、証拠写真を撮ろうとしていたスマホを下ろし、無意識に手を伸ばしかけた、その時だった。
アクアの小さな両手が、伸びてきたミヤコの手をぎゅっと掴んだ。
「みゃーこ。えらい、ねぇ」
それは、アイが普段からアクアやルビーを褒める時に、よく口にしている言葉だった。
ミヤコもその様子を間近で何度も見ているため、アクアがそれを『良い意味の言葉』として学習していてもおかしくはないと分かっている。だからこそ彼女には、アクアが母親から貰った温かい言葉を使って、必死に自分を褒め、慰めようとしてくれているように見えたのだ。
「……え?」
そのたどたどしくも真っ直ぐな肯定の響きは、限界まで摩耗していたミヤコの心臓を正確に射抜いた。
そうだ、私は頑張っている。遊びたい盛りの若い時間を削って、誰にも褒められることなく、毎日毎日この子たちの世話をして……。
だから、この子たちを裏切って大金を手にしたっていいはずだ。そう自分を正当化しようとしていたのに。
「あ……、う……っ」
不意に、ミヤコの目からぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
社長夫人という肩書きばかりで、実際には誰も自分の苦労を認めてくれなかった。ここで誰にも知られず赤ん坊の世話をし続ける生活は、自分が何も報われないことへのストレスが、彼女自身が思っていたよりもずっと大きく彼女を蝕んでいたのだ。
それを、よりによって一番憎まなければならないはずの、自分を苦しめる元凶である小さな赤ん坊に慰められている。
「みゃーこ、げんき」
アクアはミヤコの手をさらに強く抱きしめ、屈託のない瞳で真っ直ぐに彼女を見上げて言った。
しばらくの間、ミヤコは押し黙り、止めどなく溢れる涙を流し続けた。
やがて、彼女は空いた手で涙を拭うと、憑き物が落ちたような毒の抜けた柔らかい表情で小さく微笑んだ。
「……ええ、元気よ。大丈夫」
そう優しく口にして、ミヤコはそっとアクアの頭を撫でた。
「…………」
一方、ベビーベッドに取り残されたルビーは、その信じられない一部始終をぽかんと口を開けた間抜けな表情で、ただ呆然と見つめていることしかできなかった。
その後、すっかり落ち着きを取り戻したミヤコは、「洗濯物を回してこないと」と穏やかな顔で部屋を出て行き、鼻歌交じりに家事へと戻っていった。
パタン、とドアが閉まる音が響く。
大人の気配が完全に消えた部屋の中で、しばらく呆然としていたルビーが、おずおずとアクアに話しかけてきた。
「……ねえ。今の、なに?」
まだ先ほどの衝撃から抜け出せていないのか、声が少し震えている。
「あんなの……どういう理由で、どうしてあんなことできたの?」
「やってみたらできた。普段のお前が赤ん坊として振る舞う様子を見てるからな。多分、演技はそっちの方が上手いだろ」
コロンと仰向けに戻ったアクアは、いつもの平然としたトーンでさらりと返した。
普段から一切の恥じらいもなく、完璧な『無邪気な赤ん坊』を演じきっているルビーの姿を間近で見ているアクアからすれば、純粋な演技力は彼女の方が上だろうという、至極冷静な事実に基づく評価だった。
ルビーは何か言いたげに口をパクパクさせたが、先ほどの立ち回りを見せつけられた後では何も言い返せず、悔しそうに黙り込む。
そんな妹に対し、アクアは少しだけ真面目な声色で忠告した。
「……あんまりミヤコさんに負担になるようなことをするな。あの人も限界ギリギリだったんだからな」
「……うん、わかった」
先ほどのミヤコの涙を見て、ルビーもさすがに思うところがあったのだろう。いつもならムキになって反発してくるはずが、珍しく素直に、静かに頷いた。
そしてわずかな沈黙の後、ルビーがぽつりとこぼした。
「……ねぇ、アクア」
「なんだ」
「さっきみたいに……孤児院に入るとか、ママと離れるとか、そういう言葉は……いや、かも」
アクアに縋ったり、素直に頼み事などしたくはない。けれどあんな風にすべてを切り捨てるような冷たい言葉は、二度と聞きたくない。そんな複雑な胸中が透けて見えるような、ひどく心細げで弱々しい声だった。
その響きに、アクアは先ほど自分が合理性だけで彼女を泣かせてしまったことを思い出し、小さく息を吐いた。
「……悪かったよ。ごめん」
今度は一切の打算も計算もなく。アクアはただの兄として、ひどく素直に謝罪の言葉を口にするのだった。