ゴロー先生はアイアンチ   作:作者さん

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それがはじまり

 五反田と出会ったその日の夜。苺プロダクションの事務所を兼ねた自宅のリビングで、アクアは昼間に受け取った名刺をローテーブルの上に滑らせた。

 

「子役として事務所に登録してほしい。手続きを頼む」

 

 向かいのソファに座っていた社長の壱護と、その妻であるミヤコは、揃って目を丸くした。

 二歳児が自らスカウトの名刺を持ち帰り、あまつさえ「手続きを頼む」などと事務的な要求をしてきたのだ。無理もない反応だろう。

 呆気にとられる大人二人をよそに、アクアは名刺の電話番号を指差した。

 

「善は急げだ。早速、この監督に連絡を取りたい」

 

 数分後。半ば状況を飲み込めないまま壱護がダイヤルしたスマートフォンを耳に押し当て、アクアは通話口の向こうで不機嫌そうに出た男へと口を開いた。

 

『……はい、五反田ですが』

 

「昼間ぶり。アクアだ」

 

『は? ……ぶっ、お前、マジでその日のうちに連絡してきたのか』

 

 電話越しの五反田は一瞬素っ頓狂な声を上げた後、愉快そうに腹の底から笑い声を響かせた。

 

『行動が早いのはいいな。高評価をつけてやるよ』

 

「先行投資は、早く回収するに越したことはないからな」

 

『ククッ、言うねぇ。……ちょうどいい、一つ話があるんだ』

 

 五反田の声のトーンが、わずかに仕事人間のそれへと切り替わる。

 

『近々クランクインする映画があるんだが、今ならまだギリギリで、お前みたいな気味の悪いガキの役を脚本にねじ込める。……どうする?』

 

「やる」

 

 一切の逡巡もなく、アクアは即答した。

 二歳児らしからぬ即決ぶりに五反田は再び鼻で笑うと、今度は少しだけ悪びれた、しかし計算高い業界人としての本音をこぼす。

 

『俺もただの気まぐれでお前を引っ張り上げるわけじゃねぇぞ。お前を映画に出すってことは、当然、事務所の社長と交渉することになる』

 

「……? それがどうした」

 

 前世で医者として生きた経験から大人の論理は持ち合わせているアクアだが、流石にエンタメ業界特有の立ち回りまでは明るくない。首を傾げるアクアに、五反田は悪びれずに種明かしをした。

 

『お前がいくら老成してようと、流石に業界の裏ルールまでは知らねぇか。芸能界には「バーター」って言葉があってな。いわゆる抱き合わせ商法だ』

 

「……抱き合わせ?」

 

『おう。今日、アイは俺の目に十分すぎるほど止まった。だが、畑違いのアイドルをいきなり単独で映画に引っ張り出そうとすると、色々と面倒な交渉やギャラのふっかけ合いになる。そこでお前を使うんだ』

 

 五反田はタバコに火をつけたのか、ふうっと煙を吐き出すような息遣いを挟んで続けた。

 

『俺からそっちの社長にこう持ちかけるのさ。「アイを映画にキャスティングしたい。ついては、事務所へのサービスとして、おまけ(バーター)で例のガキも使ってやる」ってな』

 

「……なるほど。俺というオマケをセットにして、交渉を有利に進める気か」

 

『ご名答。小さな事務所にとっちゃ、所属タレントが同時に二人も映画に出られるなんて喉から手が出るほどオイシイ話だからな。おまけに、ガキとのセット扱いという体裁を取れば、お前らを安く買い叩ける交渉にも出られるってわけだ。俺にとっちゃメリットだらけだろ』

 

「……たっく、役者のやる気を下げるようなことを監督がするのか?」

 

『へぇ、お前そういうの気にするのか?』

 

「ぜんぜん」

 

 呆れたように即答するアクアに、五反田は楽しそうに笑った。

 

『だろうな。だからだよ。まぁ、お前自身に自信が持てるようになったらその辺りのプライドも大事にしておけよ』

 

「まあいい。こっちも、俺の仕事とアイの仕事が同時に手に入る。win-winならなによりだ」

 

 淡々と答えるアクアに、五反田は満足げな息を吐いた。

 

『よし、交渉成立だ。お前と話してても契約書は巻けねぇからな。詳しい話をする、そっちの担当者……確か社長か? そっちに電話を代わってくれ』

 

 アクアは「わかった」と短く応じ、スマートフォンを顔から離した。そして、目の前で口を半開きにして通話の一部始終を聞いていた壱護へと、無造作に端末を差し出す。

 

「代わってくれってさ。あとはよろしく」

 

「お、おう……? もしもし、お電話代わりました、星野の所属事務所の……」

 

 しどろもどろになりながら五反田との業務連絡に入っていく壱護を尻目に、アクアはふぅと短く息を吐き、リビングの床に寝転がった。

 

(……これで、少しは息抜きができる)

 

 アクアの置かれた現在地は、控えめに言って異常だった。「今をときめくアイドルの隠し子」など、週刊誌の記者が聞けば狂喜乱舞するスキャンダルのど真ん中である。

 

 母親であるアイが順調に売れっ子への階段を登り始めている今、自宅はさながら苺プロダクションの最前線基地と化していた。新曲の初動売上、ライブのセットリスト、深夜番組のキャスティング事情。そうした極秘情報が、日常の生活音に混じって日々大量に飛び交っている。

 隣でよだれを垂らしながらテレビを眺めている双子の妹・ルビーにとっては、ただ呼吸をしているだけで推しの最新情報が浴びられるこの環境は、まさに「約束された楽園」だろう。前世から筋金入りのアイドルオタクである彼女は、アイの存在を無条件に信仰し、ただその空間にいるだけで脳内麻薬を分泌して多幸感に浸っていられる。

 

 もしアクアもまたルビーのような純粋な信者であったなら、この特等席で無邪気に笑っていられたかもしれない。

 だが悲しいかな、彼の中身は酸いも甘いも噛み分けた元・成人男性にして、アイの生き方の危うさを誰よりも危惧するひねくれた「アンチ」だった。彼女の放つ眩しすぎる光をただ無批判に享受するには、大人の理性が邪魔すぎるのだ。

 

 日常をやり過ごすため、アクアは常に脳のCPUをフル稼働させていた。アイの無防備な愛情には「そこそこ可愛い息子」として応え、ミヤコのとの会話は問題なくなってきたが、それでも気遣う面が無いと言ったら嘘になる。

 大人の自我と論理を持て余したまま、ベビーサークルという名の狭い檻の中で、過ごし続ける日々。それは、真綿で首を絞められるようにじわじわと精神を削った。

 

 だからこそ、五反田との出会いはアクアにとって劇薬であり、特効薬でもあった。

 

 あのむさ苦しい男は、アクアの可愛げのない小賢しさや淀んだ目を「気味が悪い」と正面から切り捨てた。その上で、変に子供扱いすることなく、一つの『素材』や『話の通じる小さな裏方』として、対等に面白がってくれたのだ。

 あどけない声色も、無垢な笑顔も作らなくていい。自身の精神年齢に合わせたドライなテンポで、打算や皮肉を交えた駆け引きができる相手。それが、今のアクアにとってどれほど息のしやすい存在であることか。

 

「はいっ! もちろんですとも! 是非うちのアイをよろしくお願いします……!」

 

 電話口でペコペコと見えない相手に頭を下げる壱護の情けない声が、リビングに響いている。それを寝転がって聞きながら、アクアは短く鼻で笑った。

 

 子役としてデビューすることに、表舞台への執着や承認欲求など微塵もない。

 ただ、カメラの回るあの騒がしくも冷徹な現場だけが、彼が「完璧な二歳児の殻」を脱ぎ捨てて、淀んだ目をしたただの『アクア』として呼吸できる唯一の場所になる。

 

 この映画出演は、自分の華々しい芸能界への切符などではない。

 『星野アイの隠し子』という、甘く息の詰まる閉鎖空間から彼自身の正気を繋ぎ止めるための――ひどく打算的な逃避行なのだ。

 

――

 

 数日後。都内の貸会議室に、映画の主要キャストやスタッフが次々と集まってきていた。

 長机がロの字に並べられた無機質な空間。台本の読み合わせ――通称「本読み」が行われる現場である。

 

「苺プロ所属のアクアです。よろしくお願いします」

 

 並み居る大人たちに混じり、アクアは自分の背丈ほどもあるパイプ椅子の前に立って、事務的に頭を下げた。幼児らしからぬ流暢な挨拶に、周囲の大人たちが微かにざわめく。

 そこへ、バタバタと慌ただしい足音を立てて遅れてやってきたのは、アクアの母親であるアイだった。

 

「ごめんなさーい、ぎりぎり間に合いました! 苺プロのアイです! よろしくお願いしまーす!」

 

 アイドルの顔を完璧に作り上げた彼女が、星野という苗字を伏せて愛想よく笑う。途端に、室内がパッと明るくなったように空気が華やぎ、演者やスタッフたちが好意的な挨拶を返した。

 だが、そんな和やかな空気の中で、ただ一人。

 

「……ふんっ」

 

 露骨に鼻を鳴らす音が、アクアの耳に届いた。

 声の主は、斜め向かいの席に座る少女だった。フリルのついた可愛らしい服を着ているが、その瞳には大人顔負けの気の強さが宿っている。

 

 有馬かな。

 今回の映画で、アクアと同じく「不気味な子供」の役を演じる子役だ。事前に渡された香盤表で名前は知っていた。同じ子役という立ち位置である以上、挨拶をしておくのが筋だろう。

 

 アクアはパイプ椅子から降りると、短い足でとことこと彼女の元へ歩み寄った。

 

「おはようございます。有馬さん、ですよね。今日からよろしく――」

 

「あなた、コネの子でしょ」

 

 挨拶もそこそこに、かなは丸めた台本をアクアの鼻先に突きつけた。

 アクアは目を丸くする。

 

「こんなギリギリになって台本が変更されるなんて、本当に迷惑なの! あなたみたいな素人が急にねじ込まれたせいで、こっちがどれだけ振り回されてるか分かってるの!?」

 

 周囲の大人たちに聞こえない程度の絶妙な声量で、しかしはっきりと怒りをぶつけてくる。

 

(……なるほど、ごもっともだ)

 

 アクアは内心で深く頷いた。

 五反田が自分とアイの起用を決めたのはつい数日前のことだ。本読みや全体の流れの確認にはなんとか間に合っているものの、現場のスケジュールや台本の決定稿を土壇場でひっくり返したことには違いない。

 前世で雨宮吾郎として働いていた頃、ギリギリになって事務書類を出してくる人間に幾度となく殺意を覚えた経験がある。予定調和を乱される苛立ちは、痛いほど理解できた。

 

 だが、ここで素直に「自分がすまなかった」と謝罪するわけにはいかない。

 最終的なキャスティング権を持ち、台本の改稿を強行したのは五反田監督である。アクアがここで全面的に非を認めてしまえば、間接的に「監督の判断が間違っている」と批判することに繋がってしまう。

 

 アクアは一つ深呼吸をして、大人の論理と子どもの無垢さをブレンドした笑みを浮かべた。

 

「……でも、有馬さんならできるんじゃないかな。だからこそ、監督も俺をこの立ち位置に置くことができたんだと思う」

 

「……ふーん?」

 

「有馬さんなら、急な変更があっても絶対に対応できるって監督も信頼してるんだよ。有馬さんのおかげで、俺もここに来られた」

 

 相手のプライドをくすぐる持ち上げと、監督の強引な采配に対する合理的なフォロー。それらを同時に織り交ぜることで、矛先を逸らしつつ彼女の機嫌をとろうとする。

 

 しかし、かなは突き出した台本を下ろすことなく、柳眉を吊り上げた。

 

「……そんなの、当たり前じゃない」

 

「え?」

 

「私ができるのは当然でしょ。それとこれとは話が別よ。上手くおだてて誤魔化さないで!」

 

 びしっと指を差され、アクアは思わずたじろいだ。

 

(……こいつ、面倒くせえ……!)

 

 大人の小手先のヨイショなど一切通じない。己の才能への絶対的な自信と、仕事に対する異常なまでのプロ意識。

 有馬かなという少女の底知れぬ面倒くささに、アクアは前世を含めてもあまり経験のない種類の頭痛を覚えるのだった。

 

「そもそも、あなた何ができるの?」

 

 かなは丸めた台本を下ろすと、今度は真っ直ぐに見下すような視線をアクアに射抜いてきた。

 

「コネで入ってきた素人が、私とまともに演技ができるほどの技術を持ってるわけ? 誤魔化さずに答えなさいよ」

 

 鼻高々に胸を反らすその姿に、アクアは内心で舌を巻いた。

 先ほどからの会話で感じさせる頭の回転の速さ。それに、事前に少しだけ見た彼女の出演映像。それらを総合すれば、一つの結論に行き着く。

 転生という「インチキ」を使って大人の知能をズル持ちしている自分たち双子とは違い、この有馬かなという少女は、天性の才能と努力を併せ持つ正真正銘の『ギフテッド』なのだ。

 

(さて。では、そんな本物の天才児に対して、俺が示せる技術とは何だ……?)

 

 演技の基礎など知らない。発声の訓練もしたことがない。だが、一つだけ、誰にも負けない極めて特殊な引き出しがある。

 

「……大人の演技なら、上手いと思うよ」

 

「は?」

 

 アクアはふっと目を伏せ、意識のスイッチを切り替えた。

 『星野アクア』という二歳児の器から、『雨宮吾郎』というアラサーの医師へと。

 

 ゆっくりと瞼を開いた瞬間、アクアの纏う空気が一変した。

 幼児特有の落ち着きのなさや、愛嬌のある上目遣いは完全に消え失せる。代わりに現れたのは、幾度となく徹夜の当直をこなし、生死の境目で擦り切れてきた大人の男の、ひどく淀んで落ち着いた眼差しだった。

 

「有馬さん。君のプロ意識や仕事への熱意は立派だが、少し肩の力が入りすぎだ」

 

 重心を片足に預け、気怠げな、それでいて相手の芯を見透かすような声音でアクアは語りかける。

 それはまさに、診察室で生意気な小児患者をあしらう、くたびれた中堅医師そのものの振る舞いだった。

 

「急な変更で周りの大人に不満があるのは分かるが、視界が狭くなると自分の首を絞めるぞ。睡眠は足りてるか?……ま、せいぜい肩の力抜いて、気楽にやろう」

 

「…………っ!」

 

 かなは思わず、弾かれたように体を後ろに引いた。

 背筋を駆け上がったのは、得体の知れない悪寒だ。目の前にいるのは確かに自分より幼い、舌足らずなはずの幼児なのに、一瞬にして中身だけがすげ替えられたような、あまりにも歪なアンバランスさ。

 

「きも、ちわるっ……」

 

 かなの口から、本音の漏れたような掠れ声がこぼれ落ちる。

 子供が背伸びして大人ぶっている演技ではない。明らかに『完成された大人』が、子供の皮を被ってこちらを見下ろしている。その強烈な違和感と気味の悪さに、天才子役の有馬かなは腕をさすりながら、引き攣った顔でアクアを睨み返すことしかできなかった。

 

 

 

「――全員集まったので、始めましょう」

 

 進行役のスタッフの声が会議室に響き、場の空気が一瞬にして仕事のそれへと張り詰めた。

 配られた台本の内容は、一種のサイコスリラーだ。自分に自信を持てない女性が、山奥にある怪しい病院で整形手術を受けるというあらすじ。その中でアクアとかなに与えられた役回りは、主人公が村の入り口で最初に出会う『気味の悪い子供たち』だった。

 

 ページをめくる音がカサカサと響く中、主演女優のセリフを経て、まずはかなの出番が回ってくる。

 

「ようこそおきゃくさん、かんげいいたします」

 

 座ったままの態勢でありながら、かなの声色と表情は完全に『役』のそれに入り込んでいた。

 子供特有の高い声と、あえて抑揚を消した無機質なトーン。虚空を見つめるようなうつろな瞳。それは「無垢な子供が持つ無自覚な不気味さ」を見事に表現した、完璧な子役としての模範解答だった。

 周囲の演者たちが、彼女のあまりにも堂に入った演技に、思わずほうと感嘆の息を漏らす。

 

(……見事だ。だが)

 

 アクアは台本に目を落としたまま、静かに思考を回した。

 有馬かなの演技は技術的に100点満点だ。しかし、五反田監督がわざわざ『星野アクア』という、演技の素人である幼児を土壇場でねじ込んできた意図を考えれば、求められている正解はそこにはない。

 監督がこの脚本で求めている「気味の悪い子供」とは、子供らしさを残した不気味さではない。完全に『大人の口調で、そのまましゃべる子供』という、理外のアンバランスさだ。

 

 アクアは息を吸い込み、先ほどの『雨宮吾郎』のスイッチを入れたまま、淡々と口を開いた。

 

「この村の民宿は一つしかありません。一度チェックインしてから散策すると良いでしょう」

 

 幼児の舌足らずな発声を一切無視した、流暢で抑揚のない大人のしゃべり方。大人が事務的な案内をしているかのような、ひどく冷め切ったトーン。

 それは、2歳児の口から発せられるにはあまりにも異質で、グロテスクなほどの違和感を放っていた。

 

 誰かが、ごくりと喉を鳴らす音が会議室に響いた。

 先ほどのかなの演技がもたらした「感心」とは違う。本能的な気味の悪さから来る、純粋な「動揺」だった。

 

 その異様な空気を察し、主演の女性が少し引き攣った声で次の台詞を続けようと口を開きかけた、その時。

 

「――待って」

 

 鋭い声が、進行を断ち切った。

 見れば、有馬かなが小さな手を真っ直ぐに挙げていた。彼女は隣に座るアクアを、射殺すような強い視線でねめつけながら言った。

 

「もう一回、やらせて」

 

 ただならぬ気迫に、スタッフも演者も一瞬あっけにとられる。だが、当のかなは周囲の戸惑いなど気にも留めず、「あー、あー」と小さく発声して自身の喉のイントネーションを確認し始めた。

 

「……じゃあ、いいかしら?」

 

 主演女優が気圧されたようにうなずき、かなの前の台詞をもう一度読み上げる。

 

 それを受けたかなの二度目のテイクは、先ほどとは全くの別物になっていた。

 

「ようこそ、お客さま。歓迎いたします」

 

 それは、先ほどの「無機質な子供」の演技ではない。

 声音を意図的に低く落とし、言葉の端々に、村を仕切る大人の女性のような「老成した響き」を混ぜ込んだのだ。

 アクアが見せた『大人が子供の皮を被っている』という強烈な違和感のコンセプトを、彼女はたった一度聞いただけで即座に理解し、自身の演技プランへと落とし込んだのである。

 

 ただの素人の異質さでしかなかったアクアの「リアル」を、有馬かなは持ち前の圧倒的な演技技術によって、洗練された「不気味な芝居」へと見事に昇華させていた。

 隣でその声を聞きながら、アクアは内心で小さく息を吐く。

 

(……なるほど、これが天才か)

 

 彼女の負けず嫌いと適応能力の高さは、アクアの予想を遥かに超えていた。

 

「ふふん」

 

 有馬かなは満足げに胸を張り、どうだと言わんばかりの勝ち誇った視線をアクアに向けた。

 

 

 

 撮影当日。

 最初のシーンを無事に終え、次の出番までの待機時間。パイプ椅子で静かに息を潜めていたアクアは、「ねえ、ちょっと」とかなに手招きでセットの裏へと呼び出された。

 

「あなたの演技、演技なんだけど、演技じゃないっていうか……なんか、演じてないのよね」

 

 腕を組み、かなはアクアを値踏みするように鋭い指摘を突きつけてきた。

 彼女の直感は恐ろしいほどに正確だった。かなの頭の中で、二歳児があれほど完成された大人の振る舞いをすることは『演技』でなければあり得ない。しかし、アクアの所作があまりにも自然すぎるせいで、子役特有の「演じている感」がすっぽりと抜け落ち、奇妙な違和感を生み出しているのだ。

 

「あなたのやってることは、ただそこにいるだけ。どう見せるかっていう演出や映像の技術は、全部カメラマンや監督みたいな他人任せになっちゃってるわよ」

 

 図星だった。

 アクアは内心で深く頷く。自分は『雨宮吾郎』であった時の振る舞いをそのまま出力しているだけで、カメラを意識して自分を表現する技術など持ち合わせてはいない。

 ただこの年齢の子役としてはそれだけでも十分だろう。監督もそこまでできるとは考えていないとアクアも判断している。

 

「……確かにその通りだ。じゃあ、どうするんだ?」

 

「これまで生きててで嬉しかったこととか、悔しかったこと。そういう時の本当の気持ちを、演技に乗せるのよ」

 

 次に控えているのは、恐怖から逃げ出そうとする主演女性の背中に、背後から冷たい言葉を投げかけるシーンだ。

 

「嫌なことがあった時とか、そういう最低な人間を見た時にどう思うか。その感情を言葉や体に乗せてそのまま相手にぶつけるのよ。分かる?」

 

 過去の個人的な体験から生じたリアルな情動を記憶から呼び起こし、それを役の感情に重ね合わせる。それは演劇論において『感情記憶』と呼ばれ、メソッド演技などでも重視される古典的かつ実践的なアプローチだった。

 天才子役であるこの少女は、難しい理論など知らずとも、現場の経験を通してその技術を呼吸するように身につけているのだろう。アクアは大人の知識としてその理屈を瞬時に理解し、己の精神の奥底へと意識を潜らせた。

 

 嫌なことがあった時。最低な人間を見た時。

 そのアドバイスを聞いた瞬間、アクアの脳裏に、前世の――産婦人科医・雨宮吾郎としての生々しい記憶がどす黒く蘇った。

 

 自分たちで作っておいた命を、「やっぱ今は無理だし」とヘラヘラ笑いながら堕ろす決断を下した、底抜けに浅はかなカップル。

 ほんの数分前までエコーの中で確かに人の形をしていたものを、鉗子やキュレットを使って子宮から無機質に掻き出した、あの凄惨な手袋越しの感触。

 処置が終わった後、経過観察中のベッドの上で「すぐ終わってよかったねー」「マジそれな」と、平然とSNSに書き込んでいた彼らの姿。

 

 医療従事者として決して表には出さず、それでも心の底から彼らを軽蔑し、深い吐き気を催したあの時の感情。

 そして――『親』という存在への失望。

 

(……心底軽蔑した目を隠す大人の目、か。それなら、できるだろうな)

 

 アクアの纏う空気が、ふっと温度を下げる。

 底なしの沼のように暗く、他者を完全に突き放した冷え切った眼差し。その唐突で明らかな異変に、目の前にいたかなは思わず息を呑み、怯えたように一歩後ずさった。

 

 ――本番のカメラが回る。

 薄暗いセットの中、恐怖に駆られて逃げ出そうとする主演女優の背中へ向け、まずはかなが口を開いた。

 

「どこへ行くの? お客さん」

 

 不気味な子供を完璧に演じ切る、見事な声色だ。

 しかし、その直後。アクアが静かに言葉を投げ放った。

 

「……外はもう、暗いですよ」

 

 感情の起伏を一切排した平坦なトーン。しかし、その声の底には、どろどろとした怒りと、相手の存在そのものを否定するような底知れぬ軽蔑が張り付いていた。

 表面上は無表情な子供の顔。だが、振り返ってアクアと視線を交わせた瞬間、主演女優の顔が、演技ではなく本物の恐怖に引き攣った。彼女の顔面が痙攣し、怯えきった表情がカメラに抜かれる。

 それは、演技という枠組みを超えた、圧倒的な冷酷さが場を支配した完璧なテイクだった。

 

「カット! OK!」

 

 メガホンを通した五反田の野太い声がセットに響き渡ると、風船が割れたように張り詰めていた空気が一気に弾けた。

 

「あっ、はぁっ、はぁ……っ」

 

 主演女優がその場にへたり込み、荒い息を吐く。カットがかかってもなお、彼女の目は見えない恐怖の残滓に怯えきっていた。スタッフたちが慌てて駆け寄り、毛布や水を差し出している。

 モニターを見つめていた五反田は、口元を手で覆いながらも、その奥で満足げにニヤリと笑っていた。演技の素人を起用するというギャンブルが見事に大穴を当てた瞬間だった。

 

 しかし、現場が安堵と称賛の空気に包まれる中、有馬かなだけは、その場から一歩も動くことができなかった。

 

(……な、なに、今の……)

 

 冷や汗が背中を伝う。心臓が早鐘のように鳴っている。

 ほんの数分前、自分が彼に教えた「感情記憶」のメソッド。嫌な記憶、負の感情を引っ張り出して演技に乗せるという手法。彼女自身、幾度となく使ってきた子役としての武器だ。

 だが、隣に立つこの見知らぬ男の子が引きずり出してきた『感情』は、二歳児が持ち合わせていいような代物では断じてなかった。

 あれは、大人が本気で他者を切り捨てる時の目だ。底知れぬ絶望と軽蔑を煮詰めたような、圧倒的な暗闇。それを向けられた瞬間、天才子役として現場を支配していたはずの自分の存在すら、ちっぽけな石ころのように霞んでしまった。完全に、彼一人に空気を呑み込まれたのだ。

 

「……ふぅ」

 

 当のアクアは、まとわりついていたどす黒いオーラを振り払うように、小さく息を吐き出した。

 瞬きを一つすると、その瞳から大人の冷酷さは消え失せ、年相応の幼い光が戻ってくる。前世の陰惨な記憶を引っ張り出すのは、精神的な疲労が大きかった。だが、結果として求められた以上の画は撮れたはずだ。

 

 アクアは少しだけ重くなった体を動かし、呆然と立ち尽くしているかなの方へと向き直った。

 

「有馬さんの言う通りにやってみたら、上手くいったよ。アドバイス、ありがとう」

 

 年齢不相応なほど落ち着いた声で、淡々と告げる。それは純粋な感謝の言葉だったが、かなの耳には、自分のちっぽけなプライドを粉々に打ち砕く宣告のように響いた。

 

「……っ」

 

 かなの小さな両手が、フリルのついたスカートの裾をギュッと握りしめる。

 悔しかった。自分が教えてやった素人が、自分より遥かに凄まじいものを一瞬で見せつけてきたことが。そして何より、彼の見せたあの得体の知れない眼差しから、目を離せなくなってしまった自分が。

 

「あなた、名前……なんて言うの」

 

 俯き加減のまま、震える声でかなは絞り出した。

 朝の挨拶の時、彼は確かに名乗っていたはずだ。だが、自分は「コネの子」と見下して、まともに名前すら覚えようとしていなかった。

 

アクアは少しだけ目を丸くしたが、やがて静かに答えた。

 

「アクア」

 

「アクア……ね」

 

 その名前を、舌の上で転がすように反芻する。

 かなはバッと顔を上げ、大きな瞳に涙目のような悔しさを滲ませながら、アクアを真っ直ぐに睨みつけた。

 

「あんたの演技、全然なってないわ! 発声もなってないし、立ち位置も最悪! 今回はたまたま、あの女優さんがビビってくれたから画になっただけよ!」

 

 負け惜しみのようにまくしたてるかなに、アクアは「そうだな」と素直に頷いた。実際、技術的な面を見れば彼女の言う通りだからだ。

 しかし、アクアがあっさり肯定したことで、かなの感情はさらにヒートアップする。

 

「次よ! 次に同じ現場になった時は、絶対に私が主役として、あんたを完全に食ってやるんだから! 覚えときなさいよ、アクア!」

 

 びしっと指を突きつけ、捨て台詞のように言い放つと、かなは真っ赤になった顔を隠すように踵を返し、バタバタと足音を立てて自分の控え室へと走り去っていった。

 その後ろ姿を見送りながら、アクアはぽりぽりと頬を掻く。

 

(……やっぱり、面倒くさいやつだ)

 

 だが、初めて会った時のように「適当にあしらってやろう」という気は、なぜか不思議と起きてこなかった。

 純粋なまでの負けず嫌いと、演技に対する貪欲な情熱。それは、打算と皮肉ばかりで固められたアクアの現在地に、ほんの少しだけ真っ直ぐな風を吹き込んだような気がした。

 

「……次、か」

 

 独り言のように呟いたその言葉は、セットの喧騒に紛れて誰の耳にも届くことなく消えていった。

 

――

 

 セットの隅、カメラの死角となる薄暗い場所から、アイは我が子の芝居をじっと見つめていた。

 

 家にいる時、アクアがどこか意図的に自分と距離を置こうとしていることに、アイは気づいている。愛想よく振る舞ってくれてはいるものの、時折見せる腫れ物に触るような視線。それでも、彼がこうして自分と同じ芸能の世界へ足を踏み入れてくれたことが、アイにとっては胸が鳴るほど嬉しかった。

 今日も今日とて、アクアがカメラの前に立つ姿を後方で見守りながら、アイは腕を組んで「うんうん」と何度も深く頷いていた。声に出してはいけないと分かっていても、心の中ではペンライトを振り回して黄色い声援を送りたい気分でいっぱいだった。

 

 ただ、手放しで喜ぶ親心とは別に、アイの直感はずっとある引っ掛かりを覚えていた。

 アクアの振る舞いには嘘がない。しかし、それは決して『演技』ではないのだ。先ほど天才的な子役である有馬かなが肌で感じ取ったものと同じ、奇妙な空洞。彼が発しているのは役の感情ではなく、もっと別の場所から持ってきた、彼自身の歪なリアルだった。

 

 そして今、恐怖に駆られる主演女優の背中にアクアが冷たい言葉を投げた瞬間。

 

 遠目からその姿を捉えていたアイの脳裏に、不意にある記憶がフラッシュバックした。

 

 感情の起伏を排した平坦な声と、他者を完全に突き放すような冷え切った眼差し。それは単なる「不気味な子供」という虚構ではなく、生々しい『親への失望』の色そのものだった。

 

 アイはその瞳を知っている。

 

 いつも気怠げに斜に構えて接してきながらも、根底では誰よりもアイの身体を気遣ってくれた不器用な人。アイの抱える孤独や、命を弄ぶような無責任な大人たちに対して、あの底知れぬ暗く冷たい目を向けて密かに憤ってくれた人。

 

 重なるはずのない二つのシルエットが、アイの頭の中でピタリと符合する。

 

「……ゴロー、せんせい?」

 

 ぽつりと。

 アイは自分でもなぜその名前を呼んだのか分からないまま、無意識のうちにその言葉を唇からこぼしていた。

 

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